背後で数を意識しつつ色を見る(1)



■色について考えてみよう。基本的に可視光線とは波長が380nmから780nmの帯域の電磁波のことだ。色には明度・彩度・色相という3要素(属性)があるが、一般にはこの色相を色と呼んでいる。色には3原色がある。なぜ2や4ではなく3原色なのだろう?それは人間の目には色を感知する錐体という細胞が3種類のあるからである。

■より正確に言えば3種類の「視物質」という蛋白質があり、それぞれの錐体はこのどれか1種類だけを含んでいる。この3種類の視物質はそれぞれ560nm、530nm、430nmの波長を吸収するとによって細胞を興奮させる。これがそれぞれ赤・緑・青(Red, Green, Blue)として認識されるというわけだ。

■赤の錐体のみなら世界は赤く見える。R:G:P=1:0:0というわけだ。同じく1:1:0だと世界は黄色に見え、1:0:1だと紫に見える。そして1:1:1の時世界は真っ白になり、0:0:0だと真っ暗になる。現実にはこの3種の錐体の様々な混在比によって微妙な色合いが認識されているのである。



■光の3原色という世界の捉え方。昔ホームページを作る時に、赤は#FF0000、黄色は#FFFF00、白は#FFFFFF、黒は#000000等と打ち込んでいた記憶がある。ウェブ上の色指定は、冒頭に#をつけた6桁の16進数値で規定されている。6桁の数値は2桁ずつRPGが対応し、大きい数値ほど光が強いということだ。

■昔は解像度が低いモニターやOSの違いから同じ色指定でも微妙に異なってしまうことが少なからずあった。同じ色指定でも、WindowsとMacでは違う色になった。そこでRGB値を00、33、66、99、CC、FFだけで指定する、216色のweb safe colorというものを使ったりした。しかし今は技術の進歩でほとんど気にする必要がない。

■3種類の錐体を「刺激」して色の認識を作り出す方法だけでなく、全く逆に錐体の興奮を「沈静」して色の認識を作り出す方法もある。全ての錐体が沈静時に赤の錐体を刺激する方法と、全ての錐体が興奮時に緑と青の錐体を沈静する方法は、どちらも赤の錐体だけが興奮状態となるので、同じ赤の認識が生まれるのだ。



■色の混合で言えば、色光の「加法混合」と色料の「減法混合」ということになる。色光の3原色とは赤・緑・青(RGB)であり、色料の3原色とはシアン、マゼンタ、イエロー(CMY)である。全て混合すれば前者は白となり、後者は黒になる。逆に色の不在は電源の落ちたモニターとまっさらな白紙を想定すればいい。

■色光の3色の波長は赤が625〜740nm、緑が500〜565nm、青が450〜485nmである。色料の3色の顔料は様々なものがあるが、色の名前を日本語で表せば緑青(碧)・赤紫(紅)・黄となるだろう。実際には印刷で3色を重ねても自然な黒にならないので、黒色の着色材が併用されるがこれは一般にCMYKと呼ばれる。     CMYK(Cyan, Magenta, Yellow, Key plate)

■印刷ではシアン、マゼンタ、イエローというインクの3原色で減法混合を用いているのだが、シアンは赤の錐体を沈静させるインク、マゼンタは緑の錐体を沈静させるインク、イエローは青の錐体を沈静させるインクであると捉えることもできるだろう。モニターと紙媒体は単に違うのではなく、真逆であるという事だ。



■色光の3原色を重ねると白になり、色料の3原色を重ねると黒になる。どちらも3つ組での相殺だ。これに対して重ねると色がなくなる1対の関係というものもある。補色関係である。光の補色は重ねると全ての錐体が興奮して白くなり、印刷の補色は重ねると全ての錐体が沈静して黒になる。3つ組関係と1対の関係の共存。

■明確にしておかねばならないが、この視覚における色覚は人間固有のものである(正確には一部霊長類も同様らしいが)ということだ。モニター上で緑と赤の錐体を刺激する光を重ねた時に見える色と、紙上に青の錐体を刺激する波長光を吸収するインクを印刷した時に見える色は、共に黄色で区別がつかないのである。

■普段自然に見ている世界が人間型ゲシュタルトの疑惑ありということなのだろうか?イエス!である。人間は色を感知する3種類の錐体を持っていると言ったが、では第4の錐体があったら世界はどう見えるのだろう?荒唐無稽な話ではない。今は退化してしまったが、人間も昔は実際にそれを有していたのである。

                             (その2に続く)


近所にドリーム名古屋号の停留所が



■「御器所()、すっげーっ!」…愚妻の雄たけびである。一体何事?夜の10時過ぎ、私のPCをほぼ丸1日かけてメンテナンスしてくれたチョコボっちを地下鉄入り口まで見送り、さてどこぞで遅い夕飯でも食べようか歩き出そうとした道すがらのことである。嫁さんの指差す先を観る。いつものバス停の隣りに新しいバス停があった。え…?『東京駅行き。23:02発。ドリームなごや号。』ええーっ?

■あの夜行高速バスの乗り場が、こんな我が家のすぐ近所に〜?5分前に家を出れば楽勝ではないか?というか一体何のジョークなのだろう。最近の御器所には全面禁煙のスターバックスコーヒーができたり、私のメインバンク三井住友銀行ができたり、250円弁当ができたりして、どんどん生活空間が住み易くなってきているのだけれど、よもや地下鉄の駅より近い東京行きバス停までできていたなんて。

■そのスタバの前には東京からの降車専門バス停もある。夜遅くに東京駅から私や友人がこれに乗れば、翌日早朝には我が家のすぐそばに降り立てるのである。便利すぎて何か怖いくらいだ。何か分からないまま嫁さんと笑い続けた。6日は降り積む雪の中、遠くの地から多数の人がDVD鑑賞会に我が家に集まってくれたというのに、私は居ながらにしてみんなと会え、話ができ、DVDも楽しめる。



■御器所の地が凄いのか、そこに居合わせる自分たちが凄いのか、凄いと思えること自体がラッキーなのかすらもよく分からないけれど、「あのー、そこまで多くは望んでいないんですけれど…?」みたいに己れの知足領域を遥かに凌ぐ現実としか世界が見えない幸運を実感できるのは、確率なのか運なのか、はたまた…。やっぱ私の人徳〜?と互いに自分のことを主張するバカ夫婦の笑い声が町にこだまする…。

■ドリームなごやは東京→名古屋が1、3、5号、名古屋→東京が2、4、6号で、常時1晩に3台は運行しており、そのうちの1台が御器所を通る1号及び2号らしい。名古屋駅発22:45が御器所では23:02である。わざわざ地下鉄に乗って名古屋駅まで出る手間と時間と交通費が省かれて、しかも23:02ちょっと前に家を出ればよいのとでは大違いだ。しかも平日の3日前に予約すればゆったりシートで4900円。

■帰りも東京駅23:00発で5:52には御器所到着だ。そのまま5分も歩かずに我が家に辿り着く。2009年10月1日にこの新路線が新設されたらしい。これは陰謀論者に対する恩寵論でも立ち上げたくなる、身近な世界変革である。格安バス路線との競合や不況による人気その他の様々な理由があるのだろうから、ひとり浮かれて馬鹿騒ぎもしていられないが、それでもやはり巡り巡ってラッキー環境恩恵者である。 

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)御器所と書いてゴキソと読む。この地名は鎌倉時代にはすでにあり、熱田の社で使用される神祭土器を作っていたのでこの名がついたという説が有力らしい。すぐ近所の石仏という土地からは、奈良時代の鬼瓦(古観音寺廃寺址)が出土しており、良質の粘土が取れたところだとか。

どこまで本当か分からないが、日本書紀にも続く尾張家との繋がりもあるらしい。そういえばちょっと大きな御器所八幡宮というところも近所にある。私は関東からの外来者なので詳しくは分からないが、いにしえより悪しからぬ土地であるらしい。


見慣れた顔の上の未知なるもの



■昨日のことだ。街中で意識の端境に何か引っかかっているのを感じた。それに意識を集中してみると、先ほどすれ違った若い女性の、少しはにかんだように微笑む可愛らしい面差しだった。それは昔よく知っていた女性に似ていた。いや正確に言えば、その場ですぐに気づかなかったくらいだから、容貌が瓜二つというわけではない。それでもその生命振動が似ていた存在を想起させていたのだった。

■かつて巡り会った人たちはみな神や天使や菩薩や悪魔だったように思える。もちろんその個的な生命存在の振動と軌跡をないがしろにした言い草ではない。その上に重なっている何か人間以上のものの存在を想定したほうが、腑に落ちるという意味の方が近いだろうか。幸いにも交差交流したという記憶を手繰れば、たとえ苦痛や悲嘆の中にあった時ですらも、至福の時空を通過していたという実感になる。

■それらは日常生活の中で巡り会いすれ違う人たちの面表に今でも在り、これからも在るのだろう。昔知っていた女性が天使であるとか、先ほどの女の子が菩薩であるというような、口下手な比喩ではなく、そして文学的な暗喩でもない。そこに共通して存在しているカタチ、相似形同士で噛み合い共振するもののことを言わんとしているのだ。そしてそれはまた私自身の意識と生命のカタチのことでもある。



■動物や植物や鉱物やそれらの不在すらも、恐らく人間の意識の反映なのだろう。私たち日本人はそこに様々なカミアイをみることにさほど違和感を感じなかった。民族的な集合意識や個人的な遺伝子がなすと考えられている、吸引や反発の力学の話ではない。そして恐らく私たちはこれから、それぞれの人間の上に、また互いの関係性の中にカミを見ていくのではなかろうか。心して人の上にカミを見てみよう。

■家に帰ったら鏡の中に知らない人がいた。顔面筋肉上を流れる感情が刻印し続けた柔らかい轍が、過ぎ越してきた日々を表わしているその面。よく見慣れているはずのその上にも常に未知なるもの、未だ意識で捉えられていない新しい動きがある。たとえそれが自分の望むようなイケ面とは月とスッポンの造作であるとはいえ、その裏と表の重なり合った向こう側にもそれらは在る。己れの中にもカミを見よう。

■記憶は恩寵と感謝。未知は至福の予兆。宗教的意識や心理学的分析でこの感覚を汚そうとするがさつな既知への固執は穏やかに拒絶するけれど、本当ににそれすらも未自分なる自分の既自分への、戯れにも似た慈しみなのかもしれない。幸せな数と形でできているこの感覚を、少しでも外に反射放出することが、自らの恍惚に足をすくわれて転倒忘我しないための、確かなる1つの方法なのではなかろうか。 


■ 後 拾 遺 集 2 ■



■20100201。何か今日の日付もそれとなく対称性を有しているなあ。今日から『数と水』原稿整理再開。まずはスタバ図書館で3時間ほど根を詰めてみる。昼も過ぎて一区切りしたのでスタバを出たら氷雨である。やれやれと思っていたら、嫁さんとバッタリ。信号待ち1つ違いの差で濡れずに済んだ。

■スタバの2階は静かなので、無意識的にPCや電卓のキーボードを打つ音、貧乏ゆすり、ペンを指だけで何度もくるりと回転させるしぐさなどには気をつける。これらは自分のペースでなされるので、自分では気づかないまま、他者には不快に感じられることがある。視覚・聴覚・触覚への無意識的な暴力。

■アクションやその反動に伴う音や振動として考えても、自分で発する音は自分がその音と位相がそろってしまっているので、いやさらに言えば音そのものでもあるわけだから、自らはそれらを客観的にはほとんど感じられない。それを意識しようとすると、まずそれらの音を発することを止めねばならない。



■しかしそもそもそのことを意識するだけで他者を気遣うので、その心遣いだけで先ず他者の不快感は減るのではないだろうか。逆に音の暴力として捉えられるものの1つは、ヘッドフォンで聞いている音楽などが外部に漏れている状態だ。想像はできても同時にそれをも認識できない音の、最たる例であろう。

■自らの内部の音を聞くということも重要になる。外部の音の中で自らの内部の音を聞き取るのは、カクテルパーティー効果も効かないので実に難しい。自らの内部の音に耳をそばだてるのは意識的になされることである。無意識でも内部の音が聞こえてしまっていしたら耳鳴りといって少しだけ尋常ではない。

■自らの様々なレベルの振動が内部で自己同期したら、健康というよりとても心地良いのではないだろうか。もちろん揺らぎなき機械的同期では、心不全その他の弊害がすぐ表れる。そして完全ではなくても、他者との呼吸や歌声や歩調や考え方などの位相が揃えるという体験も、耽溺しなければ実に心地いい。


10進法と12進法(その2)

      ■10と12をひっくるめて温かい数を■



■10進法と12進法を考える時、最近自分の中で形成しつつある「数は3から始まる論」と重ねて表現することができるだろう。0と1のみならず、2もまた数の内に入らない、もしくは3以降の数が生じなければ意味を成さないという捉え方だ。ここには「初めての2回目」という数の捉え方も入って来る。

■初見はもちろん未知である。そして最初の再見は未知ではないが、初めて未知ではないという意識の未知領域でもあるということだ。これは衒学的表現や物事を無意味に複雑にしていくことではない。「初めての初めて」と「初めての2度目」というところに差異を見る、4値論理的認識に通じているだろう。

■12を界面として捉えて、その向こう側に連なる数を考える場合、シンプルに13という数に連結するのみならず、11そのものの2倍である22という数にも連結するロジックがあるように思われる。またさらに不思議なことは、この13という数も22という数も、ある種の限界の数であるということだ。



■もちろん自然に14や23に連なり行く方向もあれば、さらに22の先に33へと延びて行く連結もあるはずだ。しかしこの辺りの直観的には確かだが論理的には朧ろな感覚を、垣間見ただけでこれがそうだと素で提示しても、それが誰にでも腑に落ちないだけでなく、不快感のようなものが残留してしまう。

■そこに数のより高次な大連結構造を見出すなり、何らかのより強力なロジックを構築していくなりして、自然数的連続のみではない、未知だが確かな数理世界を創見しなくてはならない。数で明確に表現できなければ、それは混乱を増大させるだけの単なる迷妄と区別がつかない。問題は理解共有なのである。

■現代人の多くはまだ1と2しか分かっていないし、1と2がひっくり返っていてもその区別がつかない…などと傲慢な表現をするつもりはない。しかし少なくとも数としての1,2,3,4をしっかり押さられれば、世界との関係は新しくなる。つまり世界は新しくなる。常に新しいことが分かるに違いない。



■通常に表現されている何千兆円とか何億光年とか780ナノメートルとか678000分の1秒などいうと表現は、それをただ聞く側には、観念を超えて心身に重なる生きた数として届かない。あえて暴言的表現をすれば「数の使い方が間違っている」のだ。単なる言いがかりではなく、数を卑しめているのである。

■温かい数、生命の通った数を回復しなくてはならない。人間として未知なる領域に歩を進めゆき、それを共有できる形にするには、どこか慈愛に似たものを発動しなくてはならない。論理的整合性や知的好奇心だけで突き進んでも、狂気に陥りたくないならば、説明責任という義務のようなものが降り積もる。


       ■10と12の中にある特別な5と6■



■ピュタゴラスの数の扱いは象徴的な意味をも重ねていた。1は神であり、2は物質である。分割不可能なものと、分割され対立するもの。そして3は物質に神が宿った調和を暗示する。地上の数字は3から始まるとされている。最近私が言い始めた「数は3から始まる論」そのままである。ちょっとがっかり。

■4は万物の根源(4元素)であり、5はそれに神の意識を加え、賦活させる生命力の数だ。6は1+2+3で完全な数、調和の数である。7は宗教を表す数、8は神聖なる最初の立方数だ。中国では皇帝数の9は6の転倒なのでネガティブな意味もあるらしい。10は完全な数であり、世界そのものでもある。

■ティトラクティスを見てみよう。1+2+3+4=10であり、5イコール新たなる1という5進法的世界観、ペンターブシステムである。この4つの数字だけで世界を表現できるという感覚を持っていた。しかしピュタゴラスはこの世界は1から4までの数で構成されているととうに言っていた。ショック。



■10進法を構成する要素である1〜9までの自然数は10番目になって初めて一桁繰り上がり、1と空位の0を用いて10になる。その半分は言うまでもなく特別な中でも特別な5だ。テトラクティスは1/2・3/4・5・6/7・8・9・10の4段の3角数だが、真ん中の5だけが外部に接していない。

■また神聖幾何学や古い音律の本などで見た事があるかもしれないが、テトラクティスと同じ形で1/2・3/4・6・9/8・12・18・27の4段で表現された数の形がある。左下へは2倍化、右下には3倍化しゆくもので、3角数同様どこまでも展開できるのだが、真ん中の5の位置に6が入っている。

■10と12について言及するならば、どうしてもその中心にある5と6の特殊性を見て行く必要がある。10進法から12進法や20進法が派生していると表現したが、5という数は何も10進法の中でだけ特殊なのではない。メソアメリカでも4の繰り返しで5が新しい1となる構造は馴染みのものだった。



■他にもケルトやアイヌなど様々な地域で用いられていた20進法は1〜19の数を用い、20番目になると空位の0を用いて20すなわち新しい1とする。19が20進法における最大の1桁の数である。フラワーオブライフのシンボルは中心から花のように19個の円を重ね広げて表した形状をしている。

■この円を重ねずに接する形にしてみよう。平面の最密パッキング問題だ。1つの中心円に最大で6個の同円が接するが、さらにこの6個の円に接する2重目の円も数えると、全部で19個になる。この19個の円に1〜19までの数を配置した「クリフォード・アダムスの6角陣」という魔方陣が存在する。

■これは1〜19の数が6角形の形に配置されている。形にすると19個の円が3−4−5−4−3個の正6角形となり、どの列の数の和も38の定和となるのだ。解は本質的に1通りしかなく、9・14・15/11・6・8・13/18・1・5・4・10/17・7・2・12/3・19・16である。



■そして御覧の通り、この「6角陣」の中心の数もまた5である。なお丸が1つだけの自明な場合を除いて6角陣はこの他にはない。またしても5と6である。定和の38は19の倍である。19の2乗は360+1の361だ。19^2+2^2=365、地球の1年であり、19の反転数91は364/4で1つの季節である。 


10進法と12進法(その1)

      ■10と12の間にある11…その1■



■世界は成長の5芒星と安定の6芒星からできているように見える。私たち自身を創っている5と、世界を満たし維持する6。もしくはΦとπ。双対性を5と6とするのか、それともそれぞれにもペアリングを認めて10と12と捉えるのか。世界の捉え方はなぜ10進法と12進法のキメラのままなのだろう?

■私たちの内部として捉えられている精神世界領域には10進法的統制があり、外部として考えられている物質世界領域には12進法的統制があるように感じる。しかしその差異が不明瞭なまま、共通の精神空間及び日常空間として共有共存しているつもりの領域では10進法と12進法が混在したままである。

■内と外・自分と他者・人間と世界は、それが重(十)なった時、最初の1と2が畳み込まれて10と12として立ち現れるのだろうか。それとも私たちの意識自体が10進法と12進法の界面の11なのだろうか。最初のぞろ目である11が、私たち人間の基底であるとする捉え方もある。5と6の和は11。



■5と6の中間にあるのは5.5。これは1から10までの総和55の10進法ホロンだ。フィボナッチ数列の第10項もまた55である。1〜5までの2乗の和つまり5のピラミッド数もまた55である。55の2乗の3025は1〜10までの3乗の総和に等しかった。55は11の5倍。もうガチガチ。

■10進法最初のぞろ目の11。10と1、1と10の相互ホロニックな和。11−1=10、11+1=12。10/9=1.111…、単なる数式なのに奥が深い。そして再び5と6。弦長比6:5はCに対するE♭短3度(minor third)、弦長比5:6はCに対するオクターブ下のA3度音。

■12-60と5−10。角度で5芒星は36度、72度、108度、144度など黄金比を作る角度だらけだが、6芒星の方は60度と120度のみだ。360度でなく400gonで考えると1/5は80gonだが、1/6は66.666…gonで割り切れない。10進法では整数表示が不可なのだ。



■シンプルに数字の11を見ると、黄金比を作るフィボナッチ数列の初項の1と第2項の1、すなわち「大きな1と小さな1」というホロニックな1のイメージが湧いてくる。10進法においてこの11という数自体は、10と12を界面にして、9及び13との対称性を有していると見ることもできるだろう。


       ■10と12の間にある11…その2■



■私たちの世界の捉え方は10進法と12進法のキメラと表現した。しかし正確に言えば、私たちが実際に数を扱う時、10進法は用いているが12進法は用いていない。つまり10と11をAとBと置き換えて、23を1Bと表したりする、12を底とした数学的な意味での位取り記数法を用いていないのだ。

■10進法的に表せば12で1ダース、12ダースの144で1グロス。さらに1桁上には12の3乗の1728であるグレートグロスという単位がある。昔、ペン先をグロス買いしたことはあるが、まあそれくらいだ。これは12進法というより、その名残としての12進的単位系と考えてよいのも知れない。

■暦を扱えば、9の3乗の729に1を足した730が地球の2年の日数だと思い当たる。これに10の3乗の1000を足した1729が、この12の3乗の1728に1を足した数でもあるということ、つまり9^3+10^3=12^3+1^3ということに、ラマヌジャン逸話を知らなくても到達する。



■リニアルな歴史的時間の流れの中で考えれば、10進法と12進法は同時にもしくは前後して発達し、現在は10進法が主流で12進法は背後に隠れていると捉えられるだろう。しかしこの10進法と12進法の世界の捉え方には、実は想像するより遥かに大きい差異が存在するということは想像に難くない。

■欧米では現在でも12進法的な数理の採用を主張している人たちがいる。欧米に限らず世界各地でも、12までが数詞として特別な名前を持ち、13以降はそれまでの数の組み合わせとなっている自然言語の地域も少なくない。この2者の世界観の間に横たわる未知なるギャップ。日本10進法の国なのだ。

■10進法が両手の指の数に由来すると表現するならば、片手で5進法を作り上げるのと同時に、親指以外の4本の指にある節の和は(4×3=)12である。両手では24だ。さらに親指の2つの節も加えると(14×2=)28で、28×13=364の13の月の暦の構造もまた見ることができるのだ。



■この両手の28を暦と捉えれば、掌の中の4週間とも表現できる。この1週間・7日もまた、空手で正拳突きをする時の手の甲にある指の付け根の4つの間接とその間の窪みを端から山−谷−山−谷…と辿れば7になる。体の上にも暦があり、世界が見え、そしてその縮図が連動している。10、11、12。


10進法は人間型ゲシュタルトか?



■諸派諸説あるが、総じて言えば「数秘術」とは西洋占星術や易学等と並ぶ占術の1つである。通常、生年月日や姓名を数字に置き換えて、ひと桁になるまで全ての数字を足していって、最後に出た数字(数字根というらしい)の持つ意味から占う。誕生日からは誕生数が、姓名からは姓名数が導き出される。

■この1桁の数すなわち1〜9までに還元する操作は、10進法的な操作に他ならない。ただ面白いのは、11・22・33のいわゆるぞろ目の数はそれ以上操作しないということだ。0は空位として扱わない。1〜9までの数と11・22・33だから、全部で12種あるということだ。ここでも12である。

■しかし暦の日付でも13の月の暦のように同じ日でも異なる生年月日であれば異なる数となるし、漢字の画数にしても甲骨文字まで持ち出さなくても、例えば「桜」と「櫻」の10画と21画のように、新字体と旧字体といわれるものの間でも違ってくるはずである。だから初期の私の見解は否定的だった。




■ある世界観の中では通用するけれど、別の数字や文字体系の中ではそのロジックは通用しないだろうと考えたのである。しかしどうも問題はそれほど簡単ではないらしい。たとえ文字の画数や年号を変えて見ても、その属する社会の総体の中では、全体や相互との関係に不変のカタチがあるようなのである。

■各個の数値が異なっても、通奏低音のように不変のカタチを形成させているもの。扱う数理体系が異なっていても、それを見る私たちの意識の底には、厳然と10進法が存在しているのだ。だから逆に先ず問題にするのは、刹那主義的にではなく、今現在の世界観とそこに在るものとの関係が重要なのである。

■10進法だけがなぜそれほど強力なのかという問いは少し的外れのような気がする。むしろ5進法、12進法、20進法、そしてデジタルイメージが強い2進法として見ている数の扱い方ですらも、高次からは10進法のバリエーションなのではないだろうか。そして私たちはまだその全体性を知らないのだ。



■そこでかつての「10進法は自らそれを超えるべき人間型ゲシュタルトなのではないか?」という疑問への自分なりの解答。それは「10進法が人間型ゲシュタルトなのではなく、現状ではまだ人間型ゲシュタルトが10進法のほんの一部しか知らぬままでいる」ということなのであろうということである。

■ヌーソロジー的に言うならば、ヒトになるとすべてが変わってしまうが、真実の人間になるとふたたび10進法が全く新しい地平線の中に見えてくるのではなかろうか。10進法そのものが今現在の私たちの精神構造に深く関与している。しかし10進法そのものを深く問い直している人をあまり知らない。 


■ 御 拾 遺 集 ■

■生命賛歌は悪くはない。そこで恍惚のあまり感情失禁しつつ失神することなく、それを真正に超えて先に進む道筋をしかるべく構築しながら、力強く歩を進められなければ、この意識状態の壮大な夢とも言える人間型ゲシュタルトを変えゆくことの端緒にもつけないままだろう。もちろん自分自身に言っているのだ。



■改めて分かったことがある。私は考えることが好きなのだ。思考するということ。それには精神の体力とも言いうる瞬発力と持久力を?持し続けねばならない。私の特徴はさいごまで考え切れないということだ。もっともそれを単なる欠点だとは思わない。興味を引くことがあり過ぎるのは至福の1つである。



■年齢とともにその脳体力は少しずつ落ちてきているという自覚がある。もちろん実際は脳体力が落ちているのではなく、本来の動因でもあった未知を、思考や感情を混乱させるものとして遠ざけたり、ニュートラルに接しようとする視座をなくして、ただ現状維持への負荷として見がちになりゆくからである。



■未知を正視するように努めよう。未知とは何か分からないものだから正視はできないものである…などと衒学的表現に堕することを常に戒め、言葉というものを大切に丁寧に用いよう。ジョークや駄洒落すらも丁寧にこなそうという無意識への能動的姿勢。夢や言葉として認識する前の未知を丁寧に扱うのだ。



■365について考えつづけていると、スーパーマーケットの食肉売り場や魚介類売り場で365円と値段の付いたパックを手に取っていることがよくある。273について考えていても、同様のことが多々ある。これは天然の1人ギャグ?数は世界に満ち溢れていて、半ば無意識にはそれに気が付いているのだろう。



■言葉は逃れ難く強力で、それを用いた者自身もそれに取り込まれてしまうことも少なくない。言葉で表現したかった何か言葉を超えたものを表そうとした言葉が流れ去ってしまっても、そのエッセンスの方が残ればいいのだけれど、えてして表そうとした言葉の形骸部分以外は流れ去ってしまうことが多い。



■言葉が記憶のために必要なものとして残るのであれば、その表現したかったものと共に残しておきたい。さもなければ共に流れ去ってしまう方がいい。本当に言いたいこと伝えたいことは、なかなか言葉を超えて伝わりにくい。饒舌より沈黙が力を蓄えることを失念するなかれ。自分に言っているのだぞ、私。


4値論理を経て次元両生類へ



■「あらゆるものがあるべきところにある。」美しく力強い言葉だ。背景やコンテクストを抜きにしても、真実を含み、そして肯定的な意志が伝わってくる。無駄な時間というものもない。それを無駄に過ごしたと自覚した者には、少なくともそれが分かったという意味がある。自覚がなければ無駄すらもない。

■例えばマンガのワクは界面だ。画面の中は私たち人間の内面生活と重なっている。外面世界に穿たれた絵画や写真や書などのように、マンガのワクの中もまた見る者には内面世界を見る鏡だ。視覚を介した内面の鏡ごと世界を反転すれば、日常空間と思っていたここが内面と判じられる。不動のワクこそが鏡。()

■昔「鏡を見よ!」というパラドクスがあった。鏡に映るのは虚像。鏡に映る当体は実像。シンプルにそう捉えても話は通じる。鏡を見ているつもりで虚像を見ているのだ。しかも自らの実像を見ているつもりで。それは鏡像と言葉を変えて表現しようとも、決して鏡自体ではないのだ。鏡自体は見えないのだ。



■引いて見れば鏡は見えると思うかもしれない。しかし鏡のワクと光学的な虚像は見えても鏡自体は見えないのである。私はどうにか見ようと真横から覗き込んだ。少し緑色がかったガラス板と硝酸銀溶液を用いたのであろう銀メッキが見えただけだった。そして何よりそれは鏡面を正視したわけではなかった。

■鏡と鏡でない所との境目は見える。それはワクだ。界面だ。「ワクと虚像からなるそれを称して鏡というのだ」という主張も間違いではない。しかしそれでは最初の言葉の問題に滑り戻ってしまい、本当に言いたかったことは流れ落ちてしまう。意識で反転して見ることはできる。世界はみな鏡の中に変わる。

■虚像と実像、虚空間と実空間。その界面を反転させたところに虚実の複素数空間と表現できるところがある。この空間だ。では私は一体どこから虚像を覗いていのだろう?外と内、外面世界と内面世界。言葉の対概念として、通常の外と内の感覚的な意味は自明である。これを言葉でなく意識で反転すること。



■内と外をひっくり返すには、まずその界面を知らなくては上手くいかない。量子的飛躍という意味ではなく、内と外は連続して続いているスペクトルとして、界面を捉えることもできるだろう。トワイライト領域をひっくり返して鏡開きするということ。一方からもう一方へのひっくり返りだけでは不十分だ。

■それでは単に男社会から女社会に交代するのと同じだ。それではまたいつか揺れ戻り、行き来を繰り返すだけだ。では性差のない無性個体群になればいいのかというと、それは真逆だろう。両性具有的な存在になること。もちろん肉体的表象のみの話ではない。つまり内と外を共に見る視座を得るということ。

■自分が外と思っていた世界と、内と思っていた世界が逆に表現されていても、単に言葉が逆になっただけでなく、これまでの当たり前に未知なるものが侵入してきたと捉えられるセンス。いや侵入してきたのではなく、元々そこにあるということに気づくということ。混乱なく見るためには先ず分別が必要だ。



■分別は足を引っ張るから不要と、ただ貶めることは蛮行であろう。分別に足を引っ張られるという捉え方に、足どころか全身を引き倒されてしまいかねない。「あらゆるものがあるべきところにある。」本当に美しい言葉だ。そしてさらに私たちはそこに意識を用いて能動的に関与することすらもできるのだ。

■裏と表、男と女、あの世とこの世、1と2の対立を超えて界面(面でもあり裏でもある)・両性具有・その世・3を見出すこと。それがなされた途端、その裏後で瞬時に面界(面でもなく裏でもない)・無性生物・どの世・4が生じて拮抗する。4値論理・こそあど・キアスムを超えて5を見出す視座を得よ。

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() マンガのワクの外は視覚正面の外。昔、マンガ描きはよくそこに落書きをしていた。読者と作者の現実共有の場、もしくは作品の中からは計り知れない作者の生の声が記されていた。注釈もまたそこに混在していたが、作者の落書きの方が次元が高く、また面白かった。今はワクがないマンガも少なくない。 


猫まんが:意識進化は両性具有方向に

■ライトスタッフ用の猫まんが4コマ、先行リークです。

  
  
単なる女神の時代到来と騒いでいてはなりません。その下で男性性がへなちょこのまま萎れているのが新しい女神の時代と勘違いしていては共倒れ。単なるジェンダーの話や、肉体的特徴を言っているのではないのです。各自の内の男性性と女性性を全開させる、アンドロギュヌスの神になるのです。…って、あ、ダサっ、自己解説ほどカッコ悪い者はない〜っ!

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