新・猫々日記:「お醤油シスターズ」結成ーっ!

★今日気が付いたんだけど、キジ猫白のみかんと、新参白猫クウはどっちも左のひげ袋の同じ位置にお醤油こぼし(薄茶の毛のスポット)がある。てか、いつの間にクウにもできたのだろう?急遽ユニット「お醤油シスターズ」結成です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


新・猫々日記:窓辺の肉球星人

       

 

「♪春よ来い〜早く来い〜
歩き始めた くうちゃんが〜
ピンクの鼻づら うごめかせ〜
おんもへ出たいと 鳴いている〜」...

…って、待てい。突っ込みどころ満載や。
2足歩行なんか始めてねーし
ほんもって5階のベランダだし
「あいや待たれい」ポーズだし

外気に当たるのはもちっと先じゃ。
しかし肉球丸見えやなー。

 

 

まだチビコです。
1歳年上の「海」ねーちゃんのボケに対して、日々ツッコミ入れる立ち位置です。

 

 

カイねーちゃんは無言でかなりのボケかましてくれます。
いつも、ツッコミ入るまでじっと待ってます。

 

 

ナマ言ってます。屠(モフ)ったってください。

 

       

 

手から何かが出ているって言われました。

ヒカーッ!

可視化ってこういうことでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


教育現場というところ

 

■真の教育現場は「正解を探させるところ」であり、「正解を教えるところ」ではない。教育現場では問いと答がセットのテストなどを提示して、個々の力量を高めようとすることもある。しかしそれすらも正解を探させるための大きな流れの中における、プロセスと言う意味での方便であり、メタファーである。

■それはただ機能すれば良いのであって、それが単なる学ぶ者の性格も含めた総合評価のデータ採取のための材料として用いられるのであれば、最初からそれは方法論的に誤謬があろう。煎じ詰めれば教師と現場の理念と目的意識の問題となる。教育とは洗脳ではなく、洗脳を自ら解除する力を発現させることだ。...

■正解とは何のことか?自分にとっての真の正解と、他者とも共有する社会的正解は必ずしも一致しない。しかしそれでも双方とも必要かつ重要である。自らの力を惜しまず出して必要性と共に、ヒントでもあるパラドクスとして、その正解が必ずしもあるとは限らないということも添えて語らねばならないだろう。

■安易に言語化してしまえば、知識の蓄積ではなく知恵の発動を助け支えるところということだ。これだけでは観念的表現の文字列に過ぎないと断ずる人もいれば、逆に言い得て妙なる真理であると勘違いする人もいよう。どっちもどっちだ。そしてどっちもどっちでもないし、言葉遊びでもない。個人の裁量だ。

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(※)現在、様々な「言葉の問題」を脳が占有しており、この書き付け文字列のクリンナップは今すぐには不可能なので、メモとしてここに上げときます(すぐ、どっか行っちゃうから…笑)。一応140文字スタンザで揃えてあるので、許してちょう。

そしてこの図は、ネットから拾って来た画像を再構築したものなんだけど、これを見て品がないと思うか、面白いセンスだと解するか、どうでもいーよと感じるか、エロくて好いんじゃね?とニヤつくか、その他色々あろうけれど、この私が新たに造った絵文字は「META」。

METAPHIGICS、METATRON、METALOGUE、METATAROとかの「META」で、接頭語としては、「高次な−」「超−」「−間の」「−を含んだ」「−の後ろの」等の意味を有するわけ。つまり「鏡を見よ」というパラドクスに似た遊びです。鏡本来は見えずにそこに虚像を見る道具だし、この絵づらを見ずに「META」のメッセージは見えないでしょ?…みたいな。

いいことって、ちょっと面白いこと多いよね。あ、いかん、成すべきことに戻らねば。シツレーしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


新・猫々日記:猫玉3つ

 

今日の窓辺のキャッツら。そして黒海(カイ)と白空(クウ)。
さらには夕べのストーブ前の猫玉3つ。温かい方に向かうってひまわりかよ、おまえら。

 

 

見にゃい、聞かにゃい、言わにゃい。
徳川家ニャス、猫神サマ的な(^^)。
それにしても海外のほとんどは猫の鳴き声のオノマトペがN音からではなくM音で始まるのは、語源的云々というより、能と耳の言語的構造が異なるんにゃろねー。

 

 

爪とぎダンボールなんですが、上手い事猫の形に添ったへこみ形状をしていて、多分猫マニアの間ではヒット作かと(^^)。

1年ほど使いこまれると、輪がほどけるように壊れて行きますが、それだけ爪とぎですり減らされたのであれば、このダンボールも本望かと思います(^^)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


新・猫々日記:洗面所のちょこなん星人

 

当家のまだ生後10か月にもならない仔猫の空(クウ)は、「あれ、姿が見えなくなったな?」と思って家の中を探すと、最近はなぜか洗面所のここにいる。

 

ネットなどではこの中にぴったりはまったりする猫を見るけれど、こやつは夜中に電気もつけずにいたり、使ったばかりでびしょびしょなのに気にせずにちょこなんといたりする。

 

ふと、なんか前世的な事でも思い出してんのか?とか思ってしまう。水に対しては結構興味津々で、植物に水やりしたり、蛇口の水で洗いものしてると、速攻で飛んできて掴めないのに掴もうとし続ける。なんでやー?

 

     

 

「パースを付けて撮ってもらいました(^^)。おかげでちょっぴし大人っぽく〜。背伸びしたい年頃なんです〜。」…意訳バイ私(笑)。

 

って、お前のしっぽ、クエスチヨンマーク的ゼンマイだから(笑)。

 

 

箱入り娘だし。(笑)

 

そこに居てくれて本当に有難いです。
他の猫と共に夜中に暴走族する時に、うるせーぞっ!って文句言うんですが、そこに居なければ文句を言うことすらできませんから(^^)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


トーラスに二而不二を見る(2)

 

■12■「トーラス上の点には全てそこで交差する3種の円が存在する」ということを、上図で確認してみよう。上の3図はその3種の円に沿ってそれぞれトーラスを切断してみたものであり、下の図は3種の円をそれぞれその中心で360度回転させることによってトーラスができるということを示したものだ。

 

■13■なお下図は(3)の30度の傾斜面で切断したトーラスを、立体的に表わしたものだ。30度の面でトーラスを切り取り、さらに切断面が分かりやすいように回転させてある。この重なり交差する赤線の2円がヴィラルソー円だ。トーラスの穴と(2)の円の直径が等しいのでベシカ・パイシスになっている。

 

 

■14■このトーラスの3種の切断面に現れる2つの円に、シンプルに自分と他者(あるいは世界)をプロットして、「自己他者問題」や「自分と世界の関係」などと同型対応してみるのも一興である。もちろんあくまでもモデルとして重ねてみる操作であり、安易に同一視するような短絡思考は自戒すべきだが。

 

■15■2円が同心円の(1)は自己と世界、あるいは個と全てを内包する全一不二の、一神教も含む一元論的な世界観になろうか。(2)は認識主体と認識対象、または自己と他者という2者が並立する二元論的世界観、そして(3)は2者が相互に包含し合いつつ併存する二而不二的な世界観に対応しようか。

 

■16■なお小円の直径と穴の直径が等しい長さの「単位トーラス」で描かれている(2)は、互いの円の中心が相手の円周と重なる「ベシカパイシス」となるが、この形状からは√2、√3、√4=2、√5が立ち上がり、そこから黄金比も出現する。また回転と相似対応によって多重の入れ子立方体にもなる。

 

 

■17■このベシカパイシス図に、リグ・ヴェーダの「テトラ・レンマ」や龍樹の「四句分別」の4値論理形式をプロットすることも可能だ。あるいは2値の論理における複数の集合の関係や、集合の範囲を視覚的に図式化したベン図に新たな命を吹き込んで、シンプルな4値論理の基本構造と見ることもできる。

 

■18■ここまでは穴が小円と等しい単位トーラスの斜断面に二而不二的な在りようをプロットして見てきた。しかしトーラスにも穴が巨大なものから、穴が点のもの、そして回転する本体の重畳により穴が塞がっているものまで様々な形がある。今度はその3種を垂直に切断した形状にも二而不二を見てみよう。

 

 

■19■図の左側には穴の在りようで区別した3種のトーラスと、その形状の説明のために水平断面が示してある。そして右にはそのトーラスの垂直断面の形状に、「真」と「偽」の2値とその接離状態及び「場」としての空間に、2値・3値・4値論理的解釈と対応が記されている。なおこの2値は何でも良い。

 

■20■1つのトーラスに様々な階層の2値を乗せることができるが、1つのトーラスとその場としての空間を「モノと空間」もしくは「図と地」の関係対として捉えることもできる。トーラス・ファイバー空間の位相幾何とか難しいことを言わず、空間を束ねてもう1つの直交するトーラスとして穴に通すのだ。

 

 

■21■この2つで1つの直交トーラスは、かなり究極に近い「二而不二」だ。この形は「自己と他者」とか「自己と世界」の関係を、非平衡でありながらリバーシブルと見る視座を持ちつつ、内部方向に2の2倍進法として2,4,8,16…と「二而」を見つつ、逆方向にも多重に「不二」を無矛盾に見られる。

 

■22■トーラス直交モデルは単なる多重な「二而不二」の塊モデルなだけでなく、様々なジャンルのモデルとしても使える。例えばこの図は日本語の5母音のフォルマント特性の周波数帯における対称性を示した図である。詳細は論から外れるので別所で見て行くことにするが、様々に視座が繋がっていくのだ。

 

 

■23■「二而不二」の上に4値を見ることができれば、上位に新たなる1を捉えられ、また逆に下位の1の中にも4+1を見ることが可能となる。私たちの数覚とも直接関係があるであろう、人間の論理・思考の基底にあるものと展開方法の構造と形態について、様々に見て行こうとするのが『4の歌』である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


トーラスに二而不二を見る(1)

 

■1■もう30年程昔の話だが、福岡に遊びに行った時、藤原さんという物理学者に会ったことがある。後にBOBに相対性理論の詳細を教授したという彼は、マッドサイエンティスト臭を漂わせながら、卓上に並ぶ料理を、「このプロトンとエレクトロンの絡み具合が絶妙に美味い」とか言いながら食べていた。

 

■2■彼は私たちを試すように「立体螺旋をイメージできるか?」とか「光は粒子でありながら波でもあるとはどういうことか?」などという問いかけをした。粒子と波動の二重性に関する問いに対して私は、「1つのドーナツを垂直に切った時見える、2つの断面みたいなものですかね」と答えた記憶がある。

 

■4■当時のニューサイエンス本の中にあった、次元が変われば見え方が変わるという概念図を思い出しての、思い切り背伸びした答えだった。当時の様々なエピソードは別所で紹介することにするが、私は当時からこの様々な世界観の概念を重ねてプロットできそうな、トーラスという形に興味を持っていた。

 

■5■黄道12星座の1つである牡牛座トーラスは<Taurus>だが、ドーナツ型の幾何学立体のトーラスは<Torus>だ。日本語では同音異義であるこの2語は文脈で明確に区別されるけれど、このトーラスの形が好きな私が牡牛座で、5年後にハンドルネームを痴性体トーラスとしたからネットでは少しややこしい。

 

 

■6■さて、トーラス上のどの点を取っても、そこで交差する3種の円が存在する。すなわち(1)トーラスのW1面と平行な大円…赤色、(2)トーラスのW2面と平行な小円…青色、そして(3)W1面とは30度、W2面とは60度傾斜した切断面と重なる中円…緑の3種である。これを踏まえて話を進めていこう。

 

■7■トーラス上の1点には必ず3種の円が描けるが、この3種の円でトーラスを切断すると(1)は穴側と外側に2つの円が描かれ、(2)は180度離れた位置で同じ大きさの2つの円が描かれ、(3)は穴を介して互いに交差しつつ必ずペアになる、同じ大きさの2つの円が描かれる。3種6個の円である。()

 

■8■下の図はこの3種の円でトーラスを切断した時の、真横と真上から見た2面図だ。切断位置を赤い直線で示し、切断面は着色してある。右図に示した3番目の円は非常にデリケートで、イメージだけでトレースするのは簡単ではない。穴を介して曲面を斜めにぐるりと回りながら元に戻る双対の円である。

 

 

■9■このようにトーラスの中心穴を介して2つの円が対称的に重なった形は、これを研究したフランスの数学者イヴァン・ヴィラルソーにちなんで「ヴィラルソー円」と呼ばれている。下図はトーラスに対して傾いている切断面を水平にして、ヴィラルソー円が楕円対ではなく双対円であることを示している。

 

 

■10■なおこれらの図は、(2)の断面円とトーラスの穴の直径が同じ長さの「単位トーラス」で描かれている。1つ穴のトーラスは中心穴が本体より遥かに大きいものから、穴がただの1点であるもの(概念的には穴が埋まり本体に2重に重なったものも有る)まで様々な形状があるが、3種の円は存在する。

 

■11■これらトーラスの上にある3種6個の円の、どの種類の円のペアでも、1つのトーラスの上にあると言う意味では、どれも二而不二の形と見ることができる。「単位トーラス」の上にある3番目の「ヴィラルソー円」は、互いの円と円周を共有する「ベシカ・パイシス」という名前の特別な形状でもある。

 

 

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)5種類しかないプラトン立体の3種の双対立体の組「正4面体−正4面体」「正6−正8面体」「正12面体面体−正20」(正4面体は自身と双対)をそれぞれの相貫体にすれば、「正8面体と正6面体」「ベクトル平衡体と菱形12面体」「20−12面体」と「菱形30面体」及びそれらの中間立体としてのアルキメデス立体その他の多面体が生成されることを想起させられる。
また同様に5種類のプラトン立体をプラトン立体サイコロとして、その全てのサイコロの目の合計を考えると355(太陰暦の1年)となり、3種の双対を念頭に正4面体を2つにして数えると365(太陽暦の1年)になることもまた連想させられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


男女二而不二 in 日本

 

■1■戦後70年、明治維新以降150年。日本と言う国は、大和朝廷やその名でよばれる以前から、何度も分化や言語や人種や思考など様々な領域で塗り替えられようとしてきたけれど、それでもその通底には仏教や神道やミシャグジより古くから変わらない本質的なものが、絶えず流れ連なり来ているに違いない。

 

■2■何千年もかけて分別の最初の1歩である1と2を基底とした西洋の二元二値的な「論理」という大建築群を、それらをなんら破壊することもなく、わずか4文字で表す概念があっさりと通り抜ける。思考と理性が第一と考えるのではなく、それらも分を弁えればとても有益な力の1つであると捉えている。

 

■3■私たち人間の通常の認識の仕方は、世界に生起する諸々の事物や事象を自他・男女・老若・色心・生死・善悪・苦楽・美醜・正邪・白黒などのように、相対立する二つの枠で整理される。しかしそれらの二値・二元は片方のみで存在し持続しゆくことができない。裏があっての表、内があっての外である。

 

■4■人間の思考法は万物に対する分別、つまり言語化・概念化によって成り立っている。無思考の時、あるいは言語や概念による思考からはみ出した時、対はもはや単なる2つではないと分かる。仏教の「空(sunya)」とか持ちださなくても大丈夫だ。そのことを表した言葉が不二だ。関係論としての不二だ。

 

 

■5■仏教の初期には、男女の対とは仮の姿で男女不二なのだから、不男不女が真相だとする考え方が出た。ユダヤ教の天使と堕天使を連想させられる。しかし大乗仏教において、男も女もあってこその空という主張に大きくシフトした。中国の天台智擇蓮慄_敲原脾蕎紂戮如崙鷦不二・不二而二」と称した。

 

■6■「二而」と「不二」のピコ太郎の『PPAP』的合体である。しかも「色即是空」と「空即是色」のように、「二而不二」と「不二而二」の行って来いの往復である。不二は現世に対する積極的な意味を帯び、例えば男・女も4値の不可欠な2値として、徹底した現実肯定の男女不二論へと繋がっていく。

 

■7■分かり易いので男女を例にとれば、「男女不二」とは、「不男不女」ではなく、もちろん「万人両性具有」でもない。「男女二而不二」「男女不二而二」とは、プラトンが『饗宴』で語る「愛の起源」のように形而上学的ではなく、男女の愛欲・合体の当処にこそ男女不二の境地を見るということなのだ。

 

■8■未だ性差未顕現の子供も、老いて性的能力衰退の老者も、すべからく人間という「男女不二」なのである。もちろん不二は男女不二に限らない。「二而不二」とは一も二も否定することなく内包しつつそれをはみ出し、超えていくのである。東洋のあるいは日本の地勢と精神風土で本当に良かったと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


二而不二(ににふに)

 

■1■「二而不二」という言葉がある。元々は仏教の言葉で「ににふに」と読む。「2である」という意味の「二而」と「2でない」という意味の「不二」を、ピコ太郎の『PPAP』のように半ば強引に1つに合体した言葉で、そのシンプルな意味は「2にして2にあらず」だ。西洋論理学的には有り得ない。

 

■2■サンスクリットの数詞「1,2,3,4…」は「eka-、dvi、tri、catur-…」だ()。そして「不二」と訳されるサンスクリット語のadvaya(アドヴァヤ)という語は「対立する2つのものが存在しない」と言う意味だ。1から数え始めた次の2が、2でもあり2でもないと言われると、その先が数えられない。

 

■3■現今の分別、つまり言語化・概念化によって成り立っている人間の思考法においては、人間の概念化を破壊する新概念である。したがって排中律を認めない論理学的には全き錯誤であり、数学的には有り得ない解であり要素である。しかしそれは破壊的威力はあるが、根絶や殲滅の類の全面否定はしない。

 

■4■無分別を弁えた上で思惟分別の中で数を数えると、それらの数同士にさらなる繋がりを見出すことができ、よりふくよかに数えられる世界が開ける。そこはまだ未踏に近い地である。しかしこれまでの何者をも否定することなく、それらを超えて新しき一歩を踏み出すことができる知と愛の領域でもある。

 

 

■5■二而不二は1よりも2よりも豊かだ。そしてそれは3も4も含んでいる。数の数え始めの辺りでわさわさと蠢いていた概念だと思っていたけれど、気がつくとそれは1と2という数え始めの根本から覆す数の捉え方であり、新たなる1と2を確かに知り、愛し行くために全く新しく数え始めねばならない。

 

■6■数える私と数えられる物のほかに、私が気づかなかった数える者が在る。その数える者と私とは二而不二であることに気づくと、数えられている物と私もまた二而不二であるということに思い至る。見ることは数えることであり、数えることは愛することなのだ。数えれば最初から見られ愛されていた。

 

■7■イン・ラケチ… I am another yourself …の新しい解釈を胸に、これまでのあらゆる数と数えられたものを無に帰することなく、それらに愛され慈しまれていたことを抱きながら、それらを超えて新しく数え始めて行こう。自己他者問題の解の方向性…。4人称には新たなる私と反転と二而不二がある。


()序数だと「prathama-,dvitiya-,trtiya-,caturtha-…」(「第3の」の補助記号略)となる。基数、序数共に名詞あるいは形容詞として用いられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ブッダと龍樹の四句分別

 

          自己であると教えられていることもあれば、
          自己ならざるものであると示されていることもある。
          しかしいかなるものも自己ではなく、そして、
          自己ならざるものではないと諸仏により示されている。

                                         (『中論』18・6)

 

■1■別所で改めて別の文脈の中で「四句分別」あるいは「テトラレンマ」について語ることになるが、厳密にはこれと似て非なる「四句否定」(便宜的にこれもテトラレンマと呼ぶこともある)というものもある。これは仏教の初期経典中にも見られるものであり、龍樹はその伝統を受け継いでいるのである。

 

■2■たとえば龍樹の「世尊はその死後に、存在するとも、存在しないとも、その両者であるとも、両者でないとも、いうことはできない」(25・17)という詩頌があるが、これは原始仏典『マッジマ・ニカーヤ』(63)でマールンキヤープッタがシャカムニ・ブッダの教えとして伝えるものと同じ構造をしている。

 

     『永遠なるものは世界である』とか
     『永遠でないものは世界である』とか
     『有限であるものは世界である』とか
     『無限であるものは世界である』とか
     『命と身体は同じである』とか
     『命と身体は異なっている』とか
     『如来は死後存在する』とか
     『如来は死後存在しない』とか
     『如来は死後存在し、かつ、存在しない』とか
     『如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない』とかいうこと

 

■3■マールンクヤプッタは、上記のような見解がブッダによって自分に語られておらず、捨て置かれ拒絶されていると感じる。そして語ってくれるならブッダの元で清浄行を行い、語らないならば学ぶことを止めて還俗しようと心に決め、ブッダに近づいて敬礼すると、このことを尋ねた。ブッダは口を開く。

 

 

■4■ブッダは丁寧に1つずつ繰り返して話した後、見解ゆえに清浄行をなすのではない、見解の有無に係らず生老病死があり愁悲歎悩がある。私によって語られなかったことは、語られなかったものと憶持しなさい。そして語られたものは、語られたものと憶持しなさいと言う。マールンクヤプッタは喜んだ。

 

■5■この中に毒矢の喩えが出てくる。毒の塗られた矢によって射られた時、人は医者に見せようとする。しかし射られた者が、射た者の名や様々な特徴、弓や矢や弦や矢羽などの詳細を知らない限り矢を抜かないと主張すれば、この者は死ぬだろう。同様にブッダは語らず、マールンクヤプッタは死ぬだろう。

 

■6■だからこの経典は「毒矢の喩え」とか、「形而上学的な表現をしないと宣言したブッダ」とか言われたりもする。しかし龍樹は自らの『中論』(25・17)の中で、しかしこのマールンクヤプッタの10連フレーズのうちの最後の4行を、ブッダが語らなかった四句否定として、四苦分別を被せて語っている。

 

 ブッダが語らなかった四句否定

     「如来は死後存在する」
     「如来は死後存在しない」
     「如来は死後存在し、かつ、存在しない」
     「如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない」

 

 龍樹による四句分別

     「如来は事後存在する」のではない
     「如来は死後存在しない」のではない
     「如来は死後存在し、かつ、存在しない」ということはない
     「如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない」ということはない

 

 

■7■四句否定をまた否定する。『中論』にはこの形の四句分別が実に多い。ものは自らも生ぜず、他からも生ぜず、自他の両者からも生ぜず、無因(両者の無)からも生じない(2・2)と言ったり、本体についても、自己の本体、他の本体、存在(自と他)、非存在(両者の無)の全てを否定している(25・315)。

 

■8■龍樹は本体の論理と現象の論理の撞着を示す。名辞(見解・観念・形而上学的な表現)と現実存在とが一致しないということを明示するためだ。「不死の人間は美しくもなく美しくなくもない」という表現は矛盾なのか。不死の人間そのものが存在しないならば、西洋のロゴス論理でも立言できるだろう。

 

■9■「兎の角は鋭くもないし鋭くなくもない。」この立言が成り立つのもまた、兎の角が実在しない偽りの名辞だからである。そしてさらに半歩進んで言えば、実在する成員のない名辞として示しているのは兎の角だけではない。およそ一切の名辞というものは、全て実在する本体を持たぬ「空」なのである。

 

)「箭喩経」『マッジマ・ニカーヤ』第63経の邦訳テキストはネットのこのページで見ることができる。丁寧であるがゆえに語句の繰り返しが多く、現代的には冗長に思われるが、ブッダの思いがひしひしと伝わって来る。
http://manikana.la.coocan.jp/canon/malunkya.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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