トーラスに二而不二を見る(2)

 

■12■「トーラス上の点には全てそこで交差する3種の円が存在する」ということを、上図で確認してみよう。上の3図はその3種の円に沿ってそれぞれトーラスを切断してみたものであり、下の図は3種の円をそれぞれその中心で360度回転させることによってトーラスができるということを示したものだ。

 

■13■なお下図は(3)の30度の傾斜面で切断したトーラスを、立体的に表わしたものだ。30度の面でトーラスを切り取り、さらに切断面が分かりやすいように回転させてある。この重なり交差する赤線の2円がヴィラルソー円だ。トーラスの穴と(2)の円の直径が等しいのでベシカ・パイシスになっている。

 

 

■14■このトーラスの3種の切断面に現れる2つの円に、シンプルに自分と他者(あるいは世界)をプロットして、「自己他者問題」や「自分と世界の関係」などと同型対応してみるのも一興である。もちろんあくまでもモデルとして重ねてみる操作であり、安易に同一視するような短絡思考は自戒すべきだが。

 

■15■2円が同心円の(1)は自己と世界、あるいは個と全てを内包する全一不二の、一神教も含む一元論的な世界観になろうか。(2)は認識主体と認識対象、または自己と他者という2者が並立する二元論的世界観、そして(3)は2者が相互に包含し合いつつ併存する二而不二的な世界観に対応しようか。

 

■16■なお小円の直径と穴の直径が等しい長さの「単位トーラス」で描かれている(2)は、互いの円の中心が相手の円周と重なる「ベシカパイシス」となるが、この形状からは√2、√3、√4=2、√5が立ち上がり、そこから黄金比も出現する。また回転と相似対応によって多重の入れ子立方体にもなる。

 

 

■17■このベシカパイシス図に、リグ・ヴェーダの「テトラ・レンマ」や龍樹の「四句分別」の4値論理形式をプロットすることも可能だ。あるいは2値の論理における複数の集合の関係や、集合の範囲を視覚的に図式化したベン図に新たな命を吹き込んで、シンプルな4値論理の基本構造と見ることもできる。

 

■18■ここまでは穴が小円と等しい単位トーラスの斜断面に二而不二的な在りようをプロットして見てきた。しかしトーラスにも穴が巨大なものから、穴が点のもの、そして回転する本体の重畳により穴が塞がっているものまで様々な形がある。今度はその3種を垂直に切断した形状にも二而不二を見てみよう。

 

 

■19■図の左側には穴の在りようで区別した3種のトーラスと、その形状の説明のために水平断面が示してある。そして右にはそのトーラスの垂直断面の形状に、「真」と「偽」の2値とその接離状態及び「場」としての空間に、2値・3値・4値論理的解釈と対応が記されている。なおこの2値は何でも良い。

 

■20■1つのトーラスに様々な階層の2値を乗せることができるが、1つのトーラスとその場としての空間を「モノと空間」もしくは「図と地」の関係対として捉えることもできる。トーラス・ファイバー空間の位相幾何とか難しいことを言わず、空間を束ねてもう1つの直交するトーラスとして穴に通すのだ。

 

 

■21■この2つで1つの直交トーラスは、かなり究極に近い「二而不二」だ。この形は「自己と他者」とか「自己と世界」の関係を、非平衡でありながらリバーシブルと見る視座を持ちつつ、内部方向に2の2倍進法として2,4,8,16…と「二而」を見つつ、逆方向にも多重に「不二」を無矛盾に見られる。

 

■22■トーラス直交モデルは単なる多重な「二而不二」の塊モデルなだけでなく、様々なジャンルのモデルとしても使える。例えばこの図は日本語の5母音のフォルマント特性の周波数帯における対称性を示した図である。詳細は論から外れるので別所で見て行くことにするが、様々に視座が繋がっていくのだ。

 

 

■23■「二而不二」の上に4値を見ることができれば、上位に新たなる1を捉えられ、また逆に下位の1の中にも4+1を見ることが可能となる。私たちの数覚とも直接関係があるであろう、人間の論理・思考の基底にあるものと展開方法の構造と形態について、様々に見て行こうとするのが『4の歌』である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


トーラスに二而不二を見る(1)

 

■1■もう30年程昔の話だが、福岡に遊びに行った時、藤原さんという物理学者に会ったことがある。後にBOBに相対性理論の詳細を教授したという彼は、マッドサイエンティスト臭を漂わせながら、卓上に並ぶ料理を、「このプロトンとエレクトロンの絡み具合が絶妙に美味い」とか言いながら食べていた。

 

■2■彼は私たちを試すように「立体螺旋をイメージできるか?」とか「光は粒子でありながら波でもあるとはどういうことか?」などという問いかけをした。粒子と波動の二重性に関する問いに対して私は、「1つのドーナツを垂直に切った時見える、2つの断面みたいなものですかね」と答えた記憶がある。

 

■4■当時のニューサイエンス本の中にあった、次元が変われば見え方が変わるという概念図を思い出しての、思い切り背伸びした答えだった。当時の様々なエピソードは別所で紹介することにするが、私は当時からこの様々な世界観の概念を重ねてプロットできそうな、トーラスという形に興味を持っていた。

 

■5■黄道12星座の1つである牡牛座トーラスは<Taurus>だが、ドーナツ型の幾何学立体のトーラスは<Torus>だ。日本語では同音異義であるこの2語は文脈で明確に区別されるけれど、このトーラスの形が好きな私が牡牛座で、5年後にハンドルネームを痴性体トーラスとしたからネットでは少しややこしい。

 

 

■6■さて、トーラス上のどの点を取っても、そこで交差する3種の円が存在する。すなわち(1)トーラスのW1面と平行な大円…赤色、(2)トーラスのW2面と平行な小円…青色、そして(3)W1面とは30度、W2面とは60度傾斜した切断面と重なる中円…緑の3種である。これを踏まえて話を進めていこう。

 

■7■トーラス上の1点には必ず3種の円が描けるが、この3種の円でトーラスを切断すると(1)は穴側と外側に2つの円が描かれ、(2)は180度離れた位置で同じ大きさの2つの円が描かれ、(3)は穴を介して互いに交差しつつ必ずペアになる、同じ大きさの2つの円が描かれる。3種6個の円である。()

 

■8■下の図はこの3種の円でトーラスを切断した時の、真横と真上から見た2面図だ。切断位置を赤い直線で示し、切断面は着色してある。右図に示した3番目の円は非常にデリケートで、イメージだけでトレースするのは簡単ではない。穴を介して曲面を斜めにぐるりと回りながら元に戻る双対の円である。

 

 

■9■このようにトーラスの中心穴を介して2つの円が対称的に重なった形は、これを研究したフランスの数学者イヴァン・ヴィラルソーにちなんで「ヴィラルソー円」と呼ばれている。下図はトーラスに対して傾いている切断面を水平にして、ヴィラルソー円が楕円対ではなく双対円であることを示している。

 

 

■10■なおこれらの図は、(2)の断面円とトーラスの穴の直径が同じ長さの「単位トーラス」で描かれている。1つ穴のトーラスは中心穴が本体より遥かに大きいものから、穴がただの1点であるもの(概念的には穴が埋まり本体に2重に重なったものも有る)まで様々な形状があるが、3種の円は存在する。

 

■11■これらトーラスの上にある3種6個の円の、どの種類の円のペアでも、1つのトーラスの上にあると言う意味では、どれも二而不二の形と見ることができる。「単位トーラス」の上にある3番目の「ヴィラルソー円」は、互いの円と円周を共有する「ベシカ・パイシス」という名前の特別な形状でもある。

 

 

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)5種類しかないプラトン立体の3種の双対立体の組「正4面体−正4面体」「正6−正8面体」「正12面体面体−正20」(正4面体は自身と双対)をそれぞれの相貫体にすれば、「正8面体と正6面体」「ベクトル平衡体と菱形12面体」「20−12面体」と「菱形30面体」及びそれらの中間立体としてのアルキメデス立体その他の多面体が生成されることを想起させられる。
また同様に5種類のプラトン立体をプラトン立体サイコロとして、その全てのサイコロの目の合計を考えると355(太陰暦の1年)となり、3種の双対を念頭に正4面体を2つにして数えると365(太陽暦の1年)になることもまた連想させられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


男女二而不二 in 日本

 

■1■戦後70年、明治維新以降150年。日本と言う国は、大和朝廷やその名でよばれる以前から、何度も分化や言語や人種や思考など様々な領域で塗り替えられようとしてきたけれど、それでもその通底には仏教や神道やミシャグジより古くから変わらない本質的なものが、絶えず流れ連なり来ているに違いない。

 

■2■何千年もかけて分別の最初の1歩である1と2を基底とした西洋の二元二値的な「論理」という大建築群を、それらをなんら破壊することもなく、わずか4文字で表す概念があっさりと通り抜ける。思考と理性が第一と考えるのではなく、それらも分を弁えればとても有益な力の1つであると捉えている。

 

■3■私たち人間の通常の認識の仕方は、世界に生起する諸々の事物や事象を自他・男女・老若・色心・生死・善悪・苦楽・美醜・正邪・白黒などのように、相対立する二つの枠で整理される。しかしそれらの二値・二元は片方のみで存在し持続しゆくことができない。裏があっての表、内があっての外である。

 

■4■人間の思考法は万物に対する分別、つまり言語化・概念化によって成り立っている。無思考の時、あるいは言語や概念による思考からはみ出した時、対はもはや単なる2つではないと分かる。仏教の「空(sunya)」とか持ちださなくても大丈夫だ。そのことを表した言葉が不二だ。関係論としての不二だ。

 

 

■5■仏教の初期には、男女の対とは仮の姿で男女不二なのだから、不男不女が真相だとする考え方が出た。ユダヤ教の天使と堕天使を連想させられる。しかし大乗仏教において、男も女もあってこその空という主張に大きくシフトした。中国の天台智擇蓮慄_敲原脾蕎紂戮如崙鷦不二・不二而二」と称した。

 

■6■「二而」と「不二」のピコ太郎の『PPAP』的合体である。しかも「色即是空」と「空即是色」のように、「二而不二」と「不二而二」の行って来いの往復である。不二は現世に対する積極的な意味を帯び、例えば男・女も4値の不可欠な2値として、徹底した現実肯定の男女不二論へと繋がっていく。

 

■7■分かり易いので男女を例にとれば、「男女不二」とは、「不男不女」ではなく、もちろん「万人両性具有」でもない。「男女二而不二」「男女不二而二」とは、プラトンが『饗宴』で語る「愛の起源」のように形而上学的ではなく、男女の愛欲・合体の当処にこそ男女不二の境地を見るということなのだ。

 

■8■未だ性差未顕現の子供も、老いて性的能力衰退の老者も、すべからく人間という「男女不二」なのである。もちろん不二は男女不二に限らない。「二而不二」とは一も二も否定することなく内包しつつそれをはみ出し、超えていくのである。東洋のあるいは日本の地勢と精神風土で本当に良かったと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


二而不二(ににふに)

 

■1■「二而不二」という言葉がある。元々は仏教の言葉で「ににふに」と読む。「2である」という意味の「二而」と「2でない」という意味の「不二」を、ピコ太郎の『PPAP』のように半ば強引に1つに合体した言葉で、そのシンプルな意味は「2にして2にあらず」だ。西洋論理学的には有り得ない。

 

■2■サンスクリットの数詞「1,2,3,4…」は「eka-、dvi、tri、catur-…」だ()。そして「不二」と訳されるサンスクリット語のadvaya(アドヴァヤ)という語は「対立する2つのものが存在しない」と言う意味だ。1から数え始めた次の2が、2でもあり2でもないと言われると、その先が数えられない。

 

■3■現今の分別、つまり言語化・概念化によって成り立っている人間の思考法においては、人間の概念化を破壊する新概念である。したがって排中律を認めない論理学的には全き錯誤であり、数学的には有り得ない解であり要素である。しかしそれは破壊的威力はあるが、根絶や殲滅の類の全面否定はしない。

 

■4■無分別を弁えた上で思惟分別の中で数を数えると、それらの数同士にさらなる繋がりを見出すことができ、よりふくよかに数えられる世界が開ける。そこはまだ未踏に近い地である。しかしこれまでの何者をも否定することなく、それらを超えて新しき一歩を踏み出すことができる知と愛の領域でもある。

 

 

■5■二而不二は1よりも2よりも豊かだ。そしてそれは3も4も含んでいる。数の数え始めの辺りでわさわさと蠢いていた概念だと思っていたけれど、気がつくとそれは1と2という数え始めの根本から覆す数の捉え方であり、新たなる1と2を確かに知り、愛し行くために全く新しく数え始めねばならない。

 

■6■数える私と数えられる物のほかに、私が気づかなかった数える者が在る。その数える者と私とは二而不二であることに気づくと、数えられている物と私もまた二而不二であるということに思い至る。見ることは数えることであり、数えることは愛することなのだ。数えれば最初から見られ愛されていた。

 

■7■イン・ラケチ… I am another yourself …の新しい解釈を胸に、これまでのあらゆる数と数えられたものを無に帰することなく、それらに愛され慈しまれていたことを抱きながら、それらを超えて新しく数え始めて行こう。自己他者問題の解の方向性…。4人称には新たなる私と反転と二而不二がある。


()序数だと「prathama-,dvitiya-,trtiya-,caturtha-…」(「第3の」の補助記号略)となる。基数、序数共に名詞あるいは形容詞として用いられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ブッダと龍樹の四句分別

 

          自己であると教えられていることもあれば、
          自己ならざるものであると示されていることもある。
          しかしいかなるものも自己ではなく、そして、
          自己ならざるものではないと諸仏により示されている。

                                         (『中論』18・6)

 

■1■別所で改めて別の文脈の中で「四句分別」あるいは「テトラレンマ」について語ることになるが、厳密にはこれと似て非なる「四句否定」(便宜的にこれもテトラレンマと呼ぶこともある)というものもある。これは仏教の初期経典中にも見られるものであり、龍樹はその伝統を受け継いでいるのである。

 

■2■たとえば龍樹の「世尊はその死後に、存在するとも、存在しないとも、その両者であるとも、両者でないとも、いうことはできない」(25・17)という詩頌があるが、これは原始仏典『マッジマ・ニカーヤ』(63)でマールンキヤープッタがシャカムニ・ブッダの教えとして伝えるものと同じ構造をしている。

 

     『永遠なるものは世界である』とか
     『永遠でないものは世界である』とか
     『有限であるものは世界である』とか
     『無限であるものは世界である』とか
     『命と身体は同じである』とか
     『命と身体は異なっている』とか
     『如来は死後存在する』とか
     『如来は死後存在しない』とか
     『如来は死後存在し、かつ、存在しない』とか
     『如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない』とかいうこと

 

■3■マールンクヤプッタは、上記のような見解がブッダによって自分に語られておらず、捨て置かれ拒絶されていると感じる。そして語ってくれるならブッダの元で清浄行を行い、語らないならば学ぶことを止めて還俗しようと心に決め、ブッダに近づいて敬礼すると、このことを尋ねた。ブッダは口を開く。

 

 

■4■ブッダは丁寧に1つずつ繰り返して話した後、見解ゆえに清浄行をなすのではない、見解の有無に係らず生老病死があり愁悲歎悩がある。私によって語られなかったことは、語られなかったものと憶持しなさい。そして語られたものは、語られたものと憶持しなさいと言う。マールンクヤプッタは喜んだ。

 

■5■この中に毒矢の喩えが出てくる。毒の塗られた矢によって射られた時、人は医者に見せようとする。しかし射られた者が、射た者の名や様々な特徴、弓や矢や弦や矢羽などの詳細を知らない限り矢を抜かないと主張すれば、この者は死ぬだろう。同様にブッダは語らず、マールンクヤプッタは死ぬだろう。

 

■6■だからこの経典は「毒矢の喩え」とか、「形而上学的な表現をしないと宣言したブッダ」とか言われたりもする。しかし龍樹は自らの『中論』(25・17)の中で、しかしこのマールンクヤプッタの10連フレーズのうちの最後の4行を、ブッダが語らなかった四句否定として、四苦分別を被せて語っている。

 

 ブッダが語らなかった四句否定

     「如来は死後存在する」
     「如来は死後存在しない」
     「如来は死後存在し、かつ、存在しない」
     「如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない」

 

 龍樹による四句分別

     「如来は事後存在する」のではない
     「如来は死後存在しない」のではない
     「如来は死後存在し、かつ、存在しない」ということはない
     「如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない」ということはない

 

 

■7■四句否定をまた否定する。『中論』にはこの形の四句分別が実に多い。ものは自らも生ぜず、他からも生ぜず、自他の両者からも生ぜず、無因(両者の無)からも生じない(2・2)と言ったり、本体についても、自己の本体、他の本体、存在(自と他)、非存在(両者の無)の全てを否定している(25・315)。

 

■8■龍樹は本体の論理と現象の論理の撞着を示す。名辞(見解・観念・形而上学的な表現)と現実存在とが一致しないということを明示するためだ。「不死の人間は美しくもなく美しくなくもない」という表現は矛盾なのか。不死の人間そのものが存在しないならば、西洋のロゴス論理でも立言できるだろう。

 

■9■「兎の角は鋭くもないし鋭くなくもない。」この立言が成り立つのもまた、兎の角が実在しない偽りの名辞だからである。そしてさらに半歩進んで言えば、実在する成員のない名辞として示しているのは兎の角だけではない。およそ一切の名辞というものは、全て実在する本体を持たぬ「空」なのである。

 

)「箭喩経」『マッジマ・ニカーヤ』第63経の邦訳テキストはネットのこのページで見ることができる。丁寧であるがゆえに語句の繰り返しが多く、現代的には冗長に思われるが、ブッダの思いがひしひしと伝わって来る。
http://manikana.la.coocan.jp/canon/malunkya.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2種の否定と2種2階の否定

 

■1■ブッダの入滅は、その最後の旅の様子や死の原因やその時のブッダの言葉などを詳しく伝えている『大般涅槃経』Mahaaparinibbaana Sutta(マハーパリニッパーナ・スッタ)その他により知ることができる。この書はパーリ語の原文から訳されたもので、原文の題はそのまま「大いなる死」となっいてる。

 

■2■日本では若干の言葉遣いの差異はあるものの、ブッダ臨終の最後の言葉は「諸々の事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい」という語になっている。今ではパーリ語から直接邦訳したのもあるが、最初に漢訳をさらに邦訳したフレーズが、基本的には今でもそのまま継承されている。

 

■3■パーリ語などのインド語は、「永遠である(サッサタ)」や「空である(スンニャ)」などの形容詞も主語の位置を占めることができる。日本語に訳す場合、この主語には「もの」を補っている。中国語と語順が逆なので、中国語では原典と逆に訳された。日本に入って来た大量の漢訳仏典も同様である。

 

 

■4■つまり、パーリ語原典『ディーガ・ニカーヤ』(16・6・7)を直接訳せば「滅する性質のものは、諸々の事象である。怠ることなく修行せよ」となる。これを漢訳の時に「諸々の事象は、滅する性質のものである。怠ることなく修行せよ」と、中国語の文法に沿って主語と述部の前後を逆にして訳したのだ。

 

■5■主部と述部を交換しても意味が変わらないと安易に考えるのは、「AがBならば、BはAである」(A=BとB=Aは等価であるという交換法則)という西洋論理学の手法と同じである。意訳として安直に語順を交換して布置された翻訳は、そもそもの話者の思考の流れという重要な要素を無視している。

 

    「滅する性質のものは、諸々の事象である。怠ることなく修行せよ。」
                                       (パーリ語原典『ディーガ・ニカーヤ』16・6・7)
    「諸々の事象は、滅する性質のものである。怠ることなく修行せよ。」

 

■6■子細な事のようだが、語る内容ではなく語る論理そのものについて考える場合、このあたりの細やかさがなけれは根本から間違ってしまいかねない。元々インド・アーリア語族にはテトラ・レンマ的発想があったものの、二元の論理を一元に統合する流れと、4値に展開する流れに大きく別れて展開した。

 

 

■7■西洋の論理学には文章の否定しかない。東洋の論理学には文と語の否定がある。現代の西洋論理学は「ものは有る」という「有」の立場を取っている。この立場で単語の否定を入れると、存在論的な立場は簡単に崩れてしまうので単語の否定は排除される。4値論理は認識論的な「有と無」の立場を取る。

 

■8■否定には2種類ある。「文」の否定と「単語」の否定である。単語の否定には、基本的に2種類の解釈がある。文の否定と同じ意味をもつものと、名付けられたものの属性を否定する場合である。この2種類の否定の併存を許容できない西洋の「2値」の論理学はこの「2種2階の否定」を受容できない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


4値は東に、2値は西に

 

■1■「四句分別・テトラレンマ」は古代インドの仏教僧ナーガルジュナ(龍樹…150〜250年頃)が確定した「世界を観る方法」だが、すでに言及したようにその原型は『リグ・ヴェーダ』のナサディヤ・スクタ(10.129)の中にも見出される。論理学の様々な分野の用語を用いて存在論的な思索がなされている。

 

■2■これは後に「四句分別」の4つの円(「Aである」「Aでない」「AであってAでない」「AではないしAでないということもない」)と言う形で再定式化されることになる。肯定、否定、肯定且つ否定、肯定せず否定せずという4句からなる。なお「テトラ・レンマ」は四句分別のギリシア語訳である。

 

     1 肯定 西洋排中律
     2 否定 西洋排中律
     3 肯定でも否定でもない 東洋容中律
     4 肯定でも否定でもある 東洋容中律

 

■3■またリグ・ヴェーダの中の「宇宙開闢の歌」の冒頭には、無も有もなかったという内容の表現があり、形式化はなされていないものの、ここにも同じ思考スタイルを見て取ることができる。2点を線の両端に固定するディレンマに対して、テトラレンマは4つの端点を持つ正4面体のように自由度が高い。

 

■4■シェイクスピアの戯曲『ハムレット』の中の“To be, or not to be : that is the question.” というセリフの最も有名な訳は、「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」だが、これもテトラ・レンマなら「生きるべきか、死ぬべきか、死んで生きるか、生きも死にもせずか」と深い含意を持つ。

 

■5■テトラレンマとは西洋の「論理」に対して、東洋の「非論理」と呼ばれる。この「非論理」は「無論理」ではなく、西洋論理とは違うもう1つの論理を意味する。テトラレンマとは世界を観る「知性」(intelligence)でなく「叡智」(sophia)だ。西洋の論理知性においてのパラドクスは問題ではなくなる。

 

 

■6■「レンマ」は哲学用語の1つで「律」「句」の意味だ。テトラレンマという名前の思考スタイルは、これを4つ使って構成される。これはインド古来の思考様式と言われている。古代ギリシアに発する西洋のロゴス論理は、それより古いテトラ・レンマの中の最初の二律のみへ特化しての論理と言えよう。

 

■7■ロゴス論理は言わば、「四句分別」(テトラレンマTetralemma)に対して、葛藤という意味を伴う前の「二句分別」(ディレンマDilemma)である。西洋的なものであるロゴス(科学、論理、言語、言語依拠制度、[個物]同一性)を、四句分別は東アジア的に空無化もしくは相対化することを可能にする。

 

■8■古代ギリシアの懐疑主義哲学者ピュロンは、ロゴスの体系化をなしたアリストテレスが教育したアレクサンドロス大王のアジア遠征に加わって、インドを訪れたことがある。そのピュロンについてのアリストクレスによる記述の中には、ピュロンが口にしたとされるテトラレンマ的な言説があるという。

 

■9■釈迦による初期の仏教は、縁起主義に立って四句分別を排している。しかし龍樹は大乗仏教中観派の礎としての『中論』で、四句分別を肯定的に捉えている。また『ジャイナ教綱要』では「七句分別」の主張というものがあり、四句分別と共通するところが多分にあるが、それよりなお複雑になっている。

 

■10■元々はサンスクリット語でチャトゥシュコーティ(catuskoti)が東に行って漢訳の「四句分別」となり、西に行ってギシリャ語の「テトラレンマ」となったが、ギリシアでは「二句分別」の強力なロゴス論理が主となったということだ。別の表現をすれば「4値は東に、2値は西に」ということになろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


インダス文明とリグ・ベーダ (4の歌 B-9曲)

 

■1■前2600〜前1800年を中心に、現在のパキスタン領内のモヘンジョ・ダロとハラッパーを2大中心地としてインダス文明が栄えた。この文明の文字は解読されておらず、この文明の宗教・思想は未だ憶測の域を出ない。このインダス文明末期、アーリア人がヒンドゥークシュ山脈を越えて西北インドに侵入した。

 

■2■パンジャープ地方に定住した彼らは、後の文字の発達とともにインド最古の宗教文献である数多くのヴェーダ聖典群を編纂・文書化した。中でも紀元前13世紀を中心に成立した『リヴェ・ベーダ』はとりわけ古くかつ重要な位置にあり、インド・アーリア人がインドに侵入した紀元前18世紀頃にまで遡れる。

 

 

■3■『リヴェ・ベーダ』は古代より長い間口承されてきたもので、元々はヴェーダの「ことば」を意味する語であり、呪力に満ちた「賛歌・呪句」を表した。財産・戦勝・長寿・幸運を乞うて神々の恩恵と加護を祈った讃歌の集録である。最初期の神への讃歌の中にはテトラレンマ的世界観が既に存在している。

■4■やがてそれらに内在する「神秘力」の意味で用いられ、さらにこの力から「宇宙を支配する原理」とされた。サンスクリットの古形に当たるヴェーダ語で書かれており、全10巻1028篇の讃歌からなる。アーリア人が残したこの偉大な文化遺産は、インドの思想・文化の根元的理解に欠かすことができない。

 

■5■梵「ブラフマン」宇宙原理と我「アートマン」個体原理が本質において同一であることを瞑想の中で明確に直観することを目指すのが梵我一如の思想である。これによって無知と破滅が克服され、永遠の至福が得られるとする。梵我一如の思想の背景にあるのは、ヴェーダ祭式の「同一視の論理」である。

 

 

■6■この「同一視の論理」とは獲物の足跡を獲物の足と同一視し、それに傷をつければ獲物は遠くへ逃げることができなくなると考えるような呪術の論理だ。ヴェーダの祭式では、祭式の場にあるものを神話の世界や自然界の事物と同一視した観点から、呪術によってそれらを操作し自然を支配しようとする。

 

■7■ウパニシャッドの哲人たちは、この同一視の論理を祭式ではなく、能動的な瞑想で用いた。異なる2つの対象を同一のものとみなして意識を集中し、分別による知を乗り越えて対象の中に入り、主観は対象と融合する。対象と1つになることにより、その力や性質が自分のものとなり、体得が可能となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


強い二元論と弱い二元論

 

■1■神か悪魔か、正義か悪か、味方か敵かというように世界を区分し、自らが属する側のみで世界を統治し、対立するものは殲滅してもよしとするのが欧米的な思考法だ。これを「硬い2元論」と呼ぼう。強固な1人称が前提となり、「汝−我」と「我−それ」が強固で明確な2人称と3人称を構成している。

 

■2■それに対して例えば中国の陰陽思想などは、昼夜・男女・光陰・表裏などのように2元的に捉えはするが、相補的に2者で1つの総体として相互に増減・律動しながら展開しゆく。これを「柔らかい元論」と呼ぼう。どちらがより良いかという短絡的な比較を始める発想もまた、硬い方の2元論的である。

 

■3■強い二元論と弱い二元論は、生物の外骨格系と内骨格系にも少し似ている。体の外部を硬い骨格で覆うことを選択した外骨格系の動物は、環境の大激変に適応できずに絶滅してしまうのに対して、体の内側に背骨を持った内骨格系の動物は、大量絶滅に際してもどうにか柔軟に適応して生き延びるのだ。

 

 

■4■現在は偽典とされている旧約聖書の『エノク書』の記述を見てみよう。人間の見張り役だったシェミハザら天使の一団が、地上の人間の娘たちに魅かれてしまい、集団で下界に降りて文明と魔術を教えた。やがて巨人ネフェリムが生まれる。暴虐は地上に満ち、人間は堕落して道を踏み外すようになった。

 

■5■これを知って神は怒り、大洪水で地上世界を終わらせることを決意した。堕落した人間たちは水によって滅ぼされ、堕落した天使たちは劫火によって焼き尽くされるが死ぬことはできず、荒野に放逐されてしまう。東洋人はこの人間の娘に惚れた天使たちに同情心を抱き、神に違和感を抱かないだろうか。

 

 

■6■こちらは6世紀半ばの話。神通力を身につけた久米仙人が、仙力で空を飛んでいたところ、河原で洗濯していた娘のふとももに見惚れて法力を失くし墜落してしまう。しかしこの2人はめでたく結ばれ、久米仙人は俗人として暮らしたのである。仙人は天使ではないが、話の柔らかさが全然違っていよう。

 

■7■聖武天皇による東大寺大仏殿建立の時、仕事仲間から「仙術を使って一気に仕事をしたらどうだ」とからかわれて発奮した彼は、7日7晩祈り続けて法力を回復し、山にあった材木を次々と都に飛ばした。天皇は大いに喜んで免田30町を賜り、仙人はそれを元に寺を建てた。久米寺は今も奈良に現存する。

 

■8■どちらが正しくどちらが間違っているという話ではないが、どちらがより肌に合うかは日本人的には言わずもがなであろう。厳密過ぎる二元論は現実にそぐわないことがある。世界には例外が多いのだ。天使は性別がないとも両性具有であるとも言われるが、少なくとも堕天使は子を産ませる力があった。

 

 

■9■有性生殖の生物は一般的に雌雄異体だが、カタツムリやミミズの個体は卵子と精子を持つ雌雄同体であり、他の個体と相互に交尾して受精し産卵する。また南米のピュラチレンシスという生物は男性器と女性器を持ち、単独で繁殖が可能である。1と2の間にも、様々なグラデーションがあり得るだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


二元論とその超越

 

■1■二元論とは、世界やそこに生起する事象は相互に還元不可能な2つの基本的実体もしくは原理から構成されるとする概念のことだ。両性生殖や受胎細胞の分割などの生物学的戦略と同様に、人間が世界を認識する際も、数的把握の最も原初的な基本単位である「二分割」による数的把握がその基底にある。

 

■2■古代インドにおいては、意識の最も深い内側にある個の根源であるアートマンと、宇宙の根本原理であるアートマンの二元論だった。しかし小宇宙と大宇宙の照応観念を背景としたウパニシャッドの神秘主義的な直感により、アートマン=ブラフマン(梵我一如)として、一元論に還元されることになった。

 

■3■しかし仏教(特に禅仏教等)では、分別知(1)は悟りに到るための障害となるものとされ、そこにある知るものと知られるもの、相対的な主観・客観との対立を超越した真実の智慧である無分別知を立てている。識別・弁別する分別智に対して、それを超えた絶対的な智慧である。無知の知と一部通じる。

 

1)分別はブンベツと読むごみなどの仕分け等の意味ではなく、フンベツと読む仏教の分別知のこと。

 

■4■中国で発達した陰陽思想では、世界は陰と陽の2要素から成り立っているとした。ただし様々なものに対応付けられているこの2要素は必ずしも対立するのではなく、双方が互いに相補的であり、2つで1つの流動的調和を生むものとして捉えられる。一神教のような他方殲滅による一元化の発想はない。

 

■5■それに対して西洋の神学における二元論は、唯一神を根本に据えて、世界を常に対立する二元に弁別したものであり、一方に属するものは他方を隷属させたり殲滅したりすることを良しとする根拠となしている。それぞれの絶対神が異なれば、それを背景とした独善的世界観の元、互いに憎悪し戦い合う。

 

■6■異なるフェイズでは、精神と物質の関係に基づく心身二元論がある。最も有名なものはデカルトの実体二元論で、機械論的な存在である物質と、自由意志の担い手である思推実体を対置されていた。これに対して心も物質も根本的には同じとする一元論があった。現代の文脈では唯物論、物理主義がある。

 

■7■西洋の科学哲学においては、主に物事を主体と客体(観察者と被観察者)に分けて論じる方法を用いる。見るものと見られるもの、知るものと知られるもの、あるいは意識と物という枠組みの主客二元論である。しかし観察という行為自体が観察される現象に与えてしまうという、観察者効果問題もある。

 

■8■二元論的世界観とその論点には「主観と客観」「思考と対象」「意識と無意識」「自我と非自我」など様々な範疇の対構造があり、それらが互いに多岐に渡って入り組んだまま論じられることでより複雑なものになる可能性があり、科学的には二分法そのものに致命的な欠点が内在すると批判されている。

 

■9■大乗仏教の根本経典の『般若経』は、言語習慣に拘泥した主客対立の分別を徹底的に否定した。この否定に基づく智慧の立場が無分別智である。唯識説ではこれを根本無分別智と呼ぶ。その前段階の加行無分別智と、会得後に再び言語表現の世界へ帰還する後得無分別智も含め、二元論は克服されている。

 

)加行無分別智、(けぎょうむぶんべっち)後得無分別智(ごとくむぶんべっち)と読む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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