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  • 2024.01.09 Tuesday
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ひとりよがりの王国を超えて吾と汝

 

■1■真冬の夜中に知人が尋ねて来て、急いでいるのでと玄関口で用件を述べる。外はしんしんと冷えていて、吐く息が白い。彼はずっと外を歩いてきたので、外気に慣れてしまっている。私は寒くてたまらないが、それを伝える隙間もなく話は続く。私の寒さと彼の外気に慣れた体感を同時に体験はできない。

 

■2■電車の中で女の子がCDを聞いている。ベッドフォーンからはリズムセクションだけがシャカシャカと漏れてくる。ヘッドフォーンから音楽を聴きながら、同時に外に漏れ聞こえているシャカシャカした音を聞くことは誰にもできない。外気経由と骨伝導の自分の声すらも、同時に聞き分けられないのだ。

 

■3■街中で携帯電話を使って大声で話す者は、自分の声の大きさを知らない。貧乏揺すりをしている者は、傍にいる者の不快感には気づかない。タバコ飲みの多くはタバコを吸わない者の不快感を思いやるよりも、自らの禁断症状からの解放を選択する。私たちは永久に他者の気持ちは分からないのだろうか。

 

■4■知らないということを知らないと知っていると思う。知らないことは不幸ではない。知らないということを知れと言うのは理不尽なパラドクスだ。しかし他者の気持ちに一切注意を向けることなく、注意されてそれに気づくまでの自らの快感や平穏は、不可侵特権だとする姑息さを自分に許さないように。

 

■5■みなひとりよがりの王国に住んでいる。生物学的な意味での単体はある。その幻の王国を否定するわけではない。しかしその国民がその国の主たる自分1人だけだと知った後、それでもなおその幻に籠らないこと。せめて国境を意識しよう。国境の外部によりその幻想の別名である「自己」があるのだから。

 

■6■国境付近の調査も大切だ。幻想の国境界隈には、よく未確認飛行物体や未確認生物や、幽霊や妖怪が立ち現れる。時には神もどきや悪魔もどきに姿を変えた、自己もどきが徘徊するのを目撃するだろう。自己が自己もどきと出会った時、もどきは歪んだ鏡像だと知る。自己も幻影だと知るまであと半歩だ。

 

■7■あと半歩、国境の外に足を踏み出すこと。薄膜の霧のような国境の外にこそ他者がいる。自己と他者の初めての出会い。あなたとわたし。50音図の最初と最後。もしくは5行ずつに折り畳めば吾と汝。単細胞生物の、もしくあるいは多細胞生物の内と外は繋がっており、より大きな「私」の一部でもあると知る。

 

■8■あなたと私の差異は、それ以外が全て同じだということの裏返しだ。あなたと私の決定的な視座の差異は、絶望ではなくむしろ恩寵である。あなたと私の決定的な視座の差異の間にこそ、次元垂上方向のヒントがある。問題はこの2つの異なるものの間にこそある。リバーシブルであるとする視座の獲得。

 

■9■同じであることに慈しみを感じ、違いがあることを祝福と感じる心のベクトル。同じは素晴らしく、異なることはさらに素晴らしい。その2つを共に見る時、幻想の自己の中で目覚める「私」がいるのではなかろうか。幻想とは言え、国境越えはある種の反転でもある。再度反転して王国に戻ってみよう。

 

■10■ひとりよがりの王国は居心地が良い。様々なことを忘却する。しかし記憶力や想像力もある。憎悪や悲哀を感じもするが、慈愛や至福もある。彼の凍え切った手を取る私の手は温かいだろう。騒音も煙草の煙も、笑顔で差異を伝えられる。忘れても思い出し、また忘れても思い出すであろう大きな「私」。


ひとりよがりの王国を超えて(1)

2006.06.16 Friday /rewritten & replaced on 2018.03.11 Sunday

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


自己を自己る自己について

 

■1■心理学用語で「メタ意識」と言うものがある。それは自分が意識していることを意識する能力のことだ。この能力には言語が必要だ。私たちは起きている間中、自分に生起していることを自分に説明している。意識的に言語化しないよう努めることで逆にそれが分かる程に、それは無意識的になされている。

 

■2■周囲の光景や天候から体内の快不快まで、取るに足らぬ気分から超越的な着想まで、四六時中頭の中で自分自身に言語化して語りかけ、そしてそれを思考の流れとして聞き取り、再認識している。話しかけているのは誰なのだろう。それが自分なら聞いているのは誰なのか。そもそも自分とは誰なのか?

 

■3■心理学者ジュリアン・ジェインズは『神々の沈黙』の中で、このような私たちの「意識」を人間は数千年前まで持っておらず、自分の心の中で聞こえる声を、自分ではなく神や超越者の声として捉えていたと主張している。彼の言う「二分心」は2つの部屋からなり、聞くことはすなわち従うことであった。

 

■4■ジェインズはこの「二分心」が、社会生活の中で発達した言語と比喩によって人間が「意識」を持つようになって衰退したと論じる。脳内の神託が消え去り、外での神託や偶像崇拝も廃れる一方、人間は認知力が爆発的に向上し、「自己」を築き上げるようになり、情動から感情が生まれ出たとしている。

 

■5■この二分心に似た幻聴については統合失調症において研究されている。統合失調症にも様々あるが、幻聴を自己の発するものと認識できずに、それを外部からの声・他者の声と認識するのだ。健常人の幻聴もしかりだ。しかし脳をスキャンすると、その声が自分の頭の中で生じるものであることが分かる。

 

 

■6■かつては神・天使・悪魔・守護霊・先祖霊などとして捉えていた、その自分のものとは思えない頭の中の声や言葉を、現在ならば宇宙人・未来人・妖怪・地底人などとも捉えている。そこから半歩進もう。その声を聞いている「自己」は発声主と本当に別なのか?いわゆる自己の中の自己他者問題である。

 

■7■言葉と象徴は、感じたり考えたりしたことを他者に示す時に役立つ。そしてそれは自分自身に対してもなしているのだ。自分自身に話しかけている時、自らが作り出した象徴の自己なのだ。自己他者問題では他者を象徴的に表現するが、ここでは象徴による第2の自己の存在が、最初の自己を変えるのだ。

 

■8■単なる二元の自己ではない。統合失調症の幻聴であろうと、健常者が自らの心の中で自らの内外の世界を自分自身に説明している言葉と象徴であろうと、それによって脳内の化学的物理的構造がリアルで変わることが明らかになってきている。現代版の「二分心」はまさに自己再帰的なニ而不二なのである。

 

■9■ルネ・デカルトの「私は考える、ゆえに私はある(Je pense, donc je suis.)」の私・自己そのものについての更なる考察が必要なのだ。自らが考えていると考えている文言や言い回しはどこからやってくるのだろう?それらは自らに絶えず為している説明や幻聴と、どのように異なっているのだろう。

 

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(※)ちなみに私は何か尋常でない情報や聞こえたり、見えたりすると言うような超常的な経験も能力もない。肯定的な意味での幻聴・幻視能力がないということ。それらに関しては、誰でも可能だと考えるが、能動的にできる人、受動的になされる人、不要な人と、そして不要な時期があると考える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


化かすことなく化けてみよう

 

■1■妖怪博士が喜ぶかどうかは不明だが、「化」という漢字は「人」と「匕」(匕首…あいくち…の匕で「カ」「ヒ」と読む)の怪異文字…いや会意文字。白石静によれば「匕」は人を逆さまにした形で、死者の形。頭と足が逆になった死者が背中合わせに横たわっている形が「化」で、人が死ぬことを言う。

■2■化は生気を失って変化すること。全ての者は生と死を繰り返していくので変化することを言う。この字から連想するのは「北」という漢字だ。こちらは右向きの人と左向きの人を背中合わせに組み合わせた形だ。背中合わせだから背くの意となり、逃げるの意となる。王が南面するので背は北方を指す。

■3■背中合わせは同じだが、「北」は生きた人同士が同方向を向くが、「化」は死んだ人同士が逆方向で並ぶ。この化は死者の組み合わせだと言ったが、これと「生」という漢字を合わせた言葉が「化生」だ。「かせい」と読むと、組織に別の種類の細胞が生じてくることで、英語で言えばmetaplasiaとなる。

■4■しかしこの「化生」を「けしょう」と読むと、仏教で仏・菩薩 が人々を救うために、人間の姿を借りてこの世に現れるという意味になる。化身。さらにはよりどころなしに自力で忽然と生まれるもの。また神道では、神や精霊が滅したり相変によって、そこから多くの物や神が生まれ出るという意味だ。

■5■また小説・劇画などの異界譚の中で、剛の者が美女に誑かされて「さては化生の者か」と悔しがる類の化生は、化けることや化けたもののことだ。要するに妖怪・変化・化けものをいう。また最初に上げたように、仏教では仏が人間の姿に化身してこの世に現れることもある。共に人知の及ばぬところだ。

■6■つまりコンテクストの違いはあるが、実は私達は神や仏や大精霊なのだけれど、現世の人間的な苦悩や喜悦を実際に味わうために、敢えて自ら失念して今を生きていると想定してみることも可能だということだ。出自が妖怪や精霊であるということに喜ぶ輩もいるかも知れないが、可能性も絶無ではない。

■7■病理学的レベルにおけるネガティブな化生に留まらず、生物進化に直結するような化生もまた起こりうるのではないか。そして幼形進化の最中であるかも知れない人間。スポーツや芸事において、突然それまでを遥かに凌ぐレベルになることも「化ける」と言う。私達もまた様々に化けてみたいものだ。

)別の言い方をすれば、BABYMETALのように立ち止まることなく、どんどん化け続けて行きたいものだということなんだけれど、それを語るのは非常に大変だから、せめてつい先日(1/11)のメタリカとのずっ友写真を貼っておく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人間として共に見るということ

        

 

■1■視点、視線、視座、視角、視野、視界、視覚。「視」のしめすへんの元は「示」。新字体の偏は「ネ」。「天が示す天意」の意で神や祭礼について示す。「見」は跪いている人の上に目を強調してあり「見る」の意味。「視」は神の姿を仰ぎ見ることによって示されるので「しめす」の意もある。

 

■2■「視野」とは目を動かさないで見ることのできる範囲のことで、顕微鏡や望遠鏡などでレンズに写る範囲をも意味する。「視線」は直接的には眼球の中心点と見る対象とを結ぶ線のことだが、目で見る方向の意もある。「視座」は物理的なものではなく、見る者の物事への姿勢や立場を意味する。

 

■3■「視角」は対象物の両端と目を結ぶ二直線が作る角度のこと。さらには物を見る立場。視点。「視差」1つの対象を異なった2点から見た時に生じる視方向の差。「視界」とは実際に目で見ることのできる範囲のことを指すが、「視野」とは意識の中で主観的に自分の観察・思慮などが及ぶ範囲。

 

■4■「視覚」とは眼を受容器とする感覚のことだ。広義には事物の色彩・形や、それらの奥行・運動などを弁別・識別することも含む。したがって視覚は光感覚・色感覚のほか,奥行知覚 (立体視)、運動知覚 (運動視) なども包括する。 これらはな基本的に人間の「見る」ということに関した言葉だ。

 

 

 

■5■人間の2つの眼球は顔の前面に左右並んで存在するので、前方方向しか見えず、後方や側方を見る時は通常以下のようにする。(1)眼球を動かす。外眼筋は、私たちの身体感覚の直交3軸方向の2軸を合わせた3種の回転を可能としている。直交3軸の体感は三半器官がそれを生み出している。

 

■6■(2)首を回転させる。自分の後頭部は常に見えないが、空間的な後方はかなり見ることができる。(3)上半身を後方にねじる。いわゆる見返るという状態だ。しかしこれも自らの背中を直接見ることができない。(4)身体の全体をそちらに向ける。タイムラグはあるが、360度の視界は確保。

 

■7■鏡を使うと、自らを回転せずとも鏡を回転させることで全方向の視界を得ることができる。合わせ鏡を用いるとさらに視野は広がるが、奇数枚使用時は左右反転した視界となる。上下方向の鏡像倒置も、そのような眼鏡を制作して生活すれば、数日もかからずに先ず脳が、次に体が慣れてしまう。

 

■8■見ると見えるの違い。光学的な意味を超えた光を発する能動的な「見る」。3次元空間認識的な生活空間を共有している私たちは、物理的制約によってものごとを見る視界を完全に重ねることはできないが、「共に見る」ということで世界を共有する視野を持とうとする意志を示すことはできる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


あなたと私ともののあわい

 

1■それが悪いという意味ではないが、言葉で思考し論理で展開するだけの文字列になぜ魅力がないのかという点についてももっと真剣に考えるべきだ。つまり使っている言葉や思考そのものについてということだ。言語化できない強烈なものに包まれる体験を、ただ言語化しようとするワントリックポニー。

 

■2■例えば多面体をただ思考で理解しようとしても、すぐにトレース仕切れない空間概念や形状認識に行き当たる。取り敢えず試行錯誤するために制作し始めて初めて見えてくることは多い。数の計算をどこまでやっても自分自身から1ミリも離れない。数も形も意識の古層の身体感覚的な経験が基底にある。

 

■3■では思考や実験を放棄してただぼーっとしていれば直感が訪れるのかと言うと、決してそうではない。周囲に満ち満ちた洗脳操作溢れる日常の条件反射に埋没していくだけだ。限界まで思考し、身体を動かすのが好きなものは鍛錬を尽くし、その限界の少し先で訪れる未知に対して丁寧に正対すればいい。

 

■4■思考や論理が劣るという話ではない。直観と直感をしっかり見極めるためにもぜひとも不可欠なものだ。そしてそれを見極めることができたら少しだけ引いて、その先の不連続な体験を切り分けて台無しにすることなく、分を弁えて身体感覚や他者と共有できるものに意識を開く必要があるのではないか。

 

■5■過去の誰がどのように上手い言葉を吐いていたからといって、自分の思考をそれに肩代わりさせるのは、表現者としては楽をしている。思考中はそれでも良いが、その先を言わんとして過去の他者の物言いを安全牌として、もしくは権威づけとして己の論の中に組み込むのは論文だけで充分ではないのか。

 

■6■表現者の思考の流れに沿って読む者。その思考の流れの背後にあるものを感受する者。直接表現者の生き様を掴む者。そして自分の都合よい解釈や甘受をして、上から目線で評価までする者。言葉を控えよう。脳内の思考ならば自動回転から離れてみよう。ものと私のあわいたちを丁寧に味わってみよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


太古も未来もあわいにある

 

■1■あるものと別のものとが接している時、その接点には今ひとつはっきりしない「あわい」とか「界面帯域」のようなものを、私たち日本人は容易にイメージできる。西洋的論理で表現すれば「どちらでもある領域」または「どちらでもない領域」とでもなるだろうが、私たちはさほど苦もなく共有できる。

 

■2■私とあなたや、私と世界という問題の対置設定自体がすでに、西洋的な自我前提のバイアスがかかっているのだが、日本語的な言葉で表現すれば、一意で「皮膚」と「肌」の違いでこれを区別できそうだ。象徴で用いない限り、皮の境は目は見える。しかし肌は目に見えない様々なものごとも含んでいる。

 

■3■「芸術家肌」とか「肌が合う」という時は、気質や性格という目に見えないものを指すし、「肌で感じる」と言えば皮膚の身体感覚や思考だけでなく経験全体を語っている。「ひと肌脱ぐ」とは他者に力を貸すことだし、もはや古風な言葉だが「肌を許す」と言えば女が男に体全体を委ねるという意味だ。

 

■4■「肌」はあわいとか界面帯域のように境界があいまいで、色々なものがはみ出したり染み込んだりする象徴的表現が可能な、実に日本的な言葉だ。私とあなたや、あなたと世界や、別のあなたと私とかがいろいろと互いにつながりあっている。皮でなく互いの心の肌を重ね合うことができる私たちの言葉。

 

■5■「あわい」とか「界面帯域」と言ったとき、まず先にひとりよがりの王国の辺境帯域と解するか、その接するものやこと同士双方の明確な線引きのできないあたりとイメージするかは、そのイメージする者の視座がどこにあるかを炙り出す。自我が強烈でない者はそのあわいが広くても余り問題ではない。

 

 

■6■「肌が合う」という表現をした時、自分の皮膚感覚が相手の皮膚としっくりくると解するのか、双方の肌のあわいが心地よいと捉えるのかの差異は小さくはない。あわいは私のものかあなたのものか、わたしとあなたのものか、どちらのものでもないのか。思考の基盤と姿勢で、ものは何とでも言えよう。

 

■7■必要以上に強烈な自我がなければ、あわいには私もあなたもいない。しかしそれでも接している。その帯域を大切にして敬えば、古えの神や精霊裁ちが顔を見せるかもしれない。ただしそれは「後ろ戸」とかある種の「ゾーン」的なところで通じるのかもしれない。私が小さい時、大きな私が重なり来る。

 

■8■「はだし」や「はだか」という言葉を見て、その語感が思考だけではなく身体感覚にも想起させるものを持っている人は多いだろう。個人差は様々ではあろうが、言葉の持つ基底の力は原初的な身体感覚とも繋がっている。これは比喩だが、その個々人の脳内ではなくあわいで言葉の共有は成されている。

 

■9■幾何学的表現だが、辺境は中心でもある。中心から辺境への方向性を全て反転させてみれば分かる。案外難しいことではない。3つ4つ反転させてみれば他も連動してひっくり返る。中心だと思っていた自分が満弁なき辺境に行く。この反転作業によって、他者のみならず自分自身とも肌を合わせられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


リポゾームと多面体の不足角


 


■レクチャーで使うプロジェクターで用いる画像は、1枚1枚内容に沿って作っているのだが、そのうちカード仕様にしてみようかとも思っている。ところで面白いことに別個のジャンルの2枚を合わせると、また別の内容の話が浮かび上がってきたりする。例えばこの2枚は生物の話と多面体の話のものだ。

■1枚目。親水性のリン酸部分の頭部に疎水性である脂肪酸が2本の尾部がついた「リン脂質分子」が並んで2分子膜を作り、親水性側を外に疎水性側を内に自然に丸まって内と外のある球体になる。この時点では自己他者の意識や、外界を光で認識することもまだないが、最初の内と外が生まれている。

■2枚目。凸の多面体は展開図から多面体を作ることを考えればイメージできるように、それぞれの点が周角360度から何度削り取って頂点を作ると考えれば、その時削り取られた角度を「不足角」という。ここでは分かり易いようにプラトン立体を例にして示したが、全ての凸多面体の不足角合計は720度である。

■この通常共有しているつもりの空間の中にある物体(このさい、閉じているモノとして捉えるという意味で、実際の凹凸は問わず球体状の多面体として考えてみる)はすべからく720度の不足角を有していると考えることもできる。3軸直交で捉える空間認識の中でのモノは、一意で円周率πを2つ持っている。

■通常3次元を見ていてもモノの表面の裏側は見えないという意味でも2次元的な平面としてしか見て取れない。しかし3次元的にそれを見るならば、もう1つの軸の不足角の360度分(に相当する円周率)が見えないまま隠れていると考えて、そのπの3乗分(31.0062766802998…)的な視座を獲得すればよい。

■いわゆる5重回転対称性を有する正12面体・正2面体の系の世界のことだ。正12面体・正20面体の回転対称軸数は31だ(正6面体・正8面体の系は13本だ)。ひょっとしてその第3番目の目そのものが他者と異なる自分だけの視座のある位置、今眼前に物を見ている意識焦点と重なっているのかも知れない。

■3次元空間の中の直交3軸のうちの2つが、無限に伸びるのではなく円周率πによって閉じて円を描くとすると、球体と残る1本の軸となる。この残る1本ももう1つのπによって閉じていると考えると、数式を用いない素人的な発想では、3次元空間の中では点の中に見えなくなってしまっていると捉える。

■言い忘れていたけれど、360度×2の曲率閉塞は、人間の左右2つの目の存在とも深くかかわっているのかも知れない。第3の目があればこれらに対する奥行き方向が見て取れるのだろうか。しかしいわゆる脳下垂体の中の受光物質は両眼の受光物質ができる前に存在したもので、「見る」とはちょっと違う。

■あと1つだけメモしておこう。固視微動…眼球が固定した視標を注視するときに発生する高周波数の微小振動のことだけれど、これについてももっとよく考える必要がある。固視微動そのものは心臓同様不随意に運動するにもかかわらず、横紋筋で駆動されているし、また自律神経によって調節されている。

■何かを注視している時にこの目の小さな動きを止めてしまうと,静止したシーンは私たちの視界から消え去ってしまうらしい。この固視微動を強制的に止め続けたら、本来混ざり合わない補色同士が相殺することなく今までにない混色として(!)見えるという実験結果も出ている。ここも要チェックである。












 

こんなカメラがほしかった

こんなカメラがあったら世界の見え方が随分変わります(^^)。そしてありました。変わりました(^^)。
 
■それにしてもこのカメラ…とそれからそれによって撮った画像データは実に面白いです。専用のアプリをインストールすることによって、画像が360度回転するだけでなく上下方向にも動かせて、まさに全天の360度方向を見ることが可能だし、ズームインもアウトも可能だという優れもの。グーグルアースのストリートビューを想起させるけど、こちらの方が画像は断然見やすい。

■一個人の視座からではなく、他人数の視座を集めた視座という概念に通じるものを感じます。ちょっとヌーソロジー的なイメージ創出にも使えるのではないかな。1つの物質に多数の人の視線が集中して360度から見た1つの物体を認識できるということに対して、1つの物体から全方向に対する視座視界を放出する1つの視座という反対の在りよう。RICOH、やってくれます。













 

交差しない2つを交差させるために



■1■C.G.ユングは「サイン」と「シンボル」という用語の違いを明確に示している。「サイン」は明確に知りうる何らかの概念や物を指し示す。「シンボル」は相対的に不可知なものを仄めかす際に用いる表現である。一般に科学と記号論理学の象徴は「サイン」であり、芸術の象徴は「シンボル」である。

■2■インド哲学でもこれによく似た2つの用語がある。1つは直接知(pratyaksa)で、実体があり5感で認知できる直接的な領域て、覚醒意識の領域を指す。もう1つは間接知(paroksa)で、覚醒している意識では直接知覚できない純粋に知的なもの、霊的なもので、聖人や賢者はヴィジョンで見る。

■3■「Aは非Aではない」というアリストテレスの論理や思考は重要である。と同時に「Aでありかつ非Aである」というニ而不二的知覚・認識も不可欠である。夢の中では主体と客体は不分離であり、複数のものが同一の場所を占有できる。この2つの捉え方の片方に固執せず、双方を繊細かつ意識的に用いること。

■4■神話の構造と、個人的な困難と自己超越の構造、精神異常と新しい世界観の獲得、生物の行き詰まりと進化などはみな同じ構造をていると述べてきた。今は新しい神話創造の時代である。SF世界を超えて超常現象や異世界との交差が、個人レベルでも世界レベルでも始まっていると見ることもできるこの時代。

■5■プレアデス、オリオン、シリウス、そしてそれを外から見つめるアンドロメダ。そのようなもの言いはサインなのか、シンボルなのか?前世はそちらだったのか。前世という表現そのものはサインなのか、シンボルなのか?どちらでもあるのか、どちらでもないのか。繊細かつ意識的に自覚して用いねばならない。

■6■言葉の言わんとしていることを瞬時に理解できる不思議、思いがそのまま言葉として発せられることの不思議。言葉そのものの本質を深く探究しつつ、論理的・知性的な言葉に情緒に満ちた慈愛を乗せ、また直観的・本能的に口から出る言葉に偽らざる叡智が滲む響きを発するための努力を未来に向けて成すべし。












 

プリズマティカ



■去年の夏くらいから、ましまし氏と胎盤の話をよくするようになって、1991年にkohsen氏が室長をしているパソコン通信のFMISTYの20番会議室『有機体ノウスの宇宙論』というエリアに書き込んだ「詩」のようなものをずっと思いだそうとしていた。昔のフロッピーデスクまで捜したけれど見い出せなかった。

■自分の結構広大なホームページのどこかにひょっとして書き記されていないかとおもって、結構探し回った。何気なく訪問してくれて、内部で迷子になる人が続出するという話はよく聞くが、自分でも全体を端から端まで完全には把握していないことがよく分かった。物理的にメンテナンスし切れないのである。

■ところがついに今日、偶然発見した。『プリズマティカ』というタイトルで、日付は1991,1,18となっている。しかし読み通してみて、自分がイメージしていたものとちょっと違ったことに驚いた。もっと肉感的でしなやかなものかと思っていたけれど、ちょっと幾何学的な硬質なものだった。うーん、ショック。

■だから自分のショックは書き記すけれど、こんなものだと能動的に提示する気にはあまりならない。自分が胎児であり、いまも別の次元に自分だけの胎盤が存在するというイメージは今でもあり、また次の世界に生まれ出る時は常に今であるということも変わらないのだが。…変わるのはイメージの方だ。 



     ■PRISMATICA■

今日私は澄んだ意識で鏡と対峙した
それは直交するX・Y・Z3面の合わせ鏡であり
その中心点から光り輝くもやが立ち昇っていた
もっと良く見ようとして私はそこに頭を突っ込んだ

するとそこは光でできた多重多面体の中心となった
それは内面から見ると全て半透明の鏡張りで
重奏する眩さのため多面体は数えられなかったが
そのきらめく断片の中に私はひとつの話を見た

 (鏡張りの真球の中は地獄だと乱歩は言うけれど
 そこは案外シンプルな整合性のある高次元かもね)
 

   彼は全世界に君臨する王であり
   その時間と空間はみな王の領土であった
   そこにはあらゆる人物・生物・鉱物が存在した
   なんと美しく豊かな王国であることか! 

   ああしかし長く平和な統治の果てに
   王は自らの内に恐ろしい事実を見いだした
   全土に存在するものはみな影の影の影であり
   真の国民はその王ひとりきりだったのだ

   その国はひとりよがりの王国といった
   閉じた世界の絶対的な孤独境!
    『我が名は人間』と王がつぶやくやいなや
   世界は静かに崩壊の時を刻み始めた

   しかし救われるかな王にはある守護天使がいた
   その名はPLACENTA PRISMATICA
   ただ静かに退化を統化として調整すべく
   光り輝く美しい少女の姿してそこにいた 
 

      王 プラセンタよ 私は胎児なのだと今気がついた
        私なしではあなたはありえないとはいえ
        あなたなしでは私も又ありえないのに
        私が生まれればあなたは消えてしまう

        その事を思うと感謝の涙が止まらない
        私の世界は全て目に見えぬ子宮の内にある
        私の世界は全て立ち上がる思球の幻である
        どうか私を真の世界に導きたまえ

      P 王よ よく耳を澄ましてみるがいい
        胎児同士では念話交信ができるのだ
        愛されている胎児はさらに聞こえるだろう
        外の世界から語りかけるヒトのささやきが

        月は満ち 日は昇り 時は来た
        さあ二度生まれの人(ドウィジャ)になるのだ
        胎盤もすぐ子宮内壁からはがれ落ちる
        付帯の臍の緒を断ち切って進み行け

      王 行けといってどのようにどこへ?
         全ての方向に閉じたこの時空をいかに?
         自我の重力で全ての直線が曲がってしまい
        自分の後頭部が最も遠いこのこの世界で

      P 王よ 曲がらぬ曲線を辿って垂上せよ
        それは神の力線に沿う黄金分割の門だ
        かとがのあわいにあるプリズム鏡の放つ
        乱反射光の統合線を逆に向かうのだ

      王 プラセンタよ 全くもって私は不安だ
        北の空にはもう穴があき始めている
        全ての道は未知なる闇の中であり
        既知の外では気違いになりそうだ

      P 王よ この世界にはもう固着なされるな
        しがみつく胎児は子宮の中で腐敗する
        腐った胎児は母体をも台無しにする
        母体を危ぶむヒトの次元を思うがいい

        もはやその羊水は秩素化合物で一杯だ
        出生のために縁素が産素を引和合したから
        北の空から王存の層を突き破り
        真世界へ通じる時の門が開き行く

        王よ ひとりよがりの王冠を外し
        恐れる事なくその力の第2の環をくぐれ
        痴性体として生きる仮の思宮から
        知性体として活きる真の智球へと

      王 プラセンタよ まだあなたと繋がっていますか
        まるで私は命綱の切れた宇宙飛行士のようだ
        ここはどこですか 産婆はいてくれますか
        生まれ出れますか 私は誰になりますか

      P 全ての答はその内に折り畳まれて記録済みだ
        あらゆる雑念はトラウマとして残響を残す
        かとがとかがの三同から垂直に立ち上がれ
        産道を滑らかにスピンして新生界へ至るのだ


      王 さようならプラセンタ あなたが消滅した後も
        私が忘れ去らぬ限り胸の内に愛として残る
        願わくば神よ この最後の共鳴の時に
        仮初の空間を天空の音楽で満たして下さい



  そして今王は形態形成の場の次元にいた
  タテ方向には子を孕む子宮が入れ子状に連なっており
  ヨコ方向には娘を産む娘が波形のように連なっている
  産む者と生まれる者とがひとつである世界に

  まだ見ぬ外の光を思いつつ王は考える
  ここには女性性としての優しい恒常性がある
  ここに垂直に交わって新しい次元を創るのだ
  それまでしばし夢を見よう 真実の夢をここで共に


(涙が神の言葉であるならば 笑顔は祝福の宝石箱だ)

その眩い多面体光がぱちんと弾けた時
私は他の惑星からやって来た時の事を思い出した
衛星軌道上から見たシールド越しの地球
不安と使命感が広い船内に漂っていた

子供の頃知らずに蟻を踏みつぶしていた
この蟻は何のために生きていたのだろう
全ての答はその内に折り畳まれて記録済みだ
神とはほかならぬ垂直に立ち上がる私なのだ 

そして私は鏡の中から首を引き抜いた
私はプリズムを多重反射する一筋の光線だ
光り輝くもやの消えた3面合わせ鏡を又覗くと
7人の私が不思議そうにこちらを眺めていた

                        1991,1,18













 


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