アボブでなくビロウな話

画像は『THECOOLIST』 http://www.thecoolist.com/earth-from-below-by-stephen-alvarez/ より借用。

 

■1■今月初頭から膝が痛くてずっと曲げることができなかった。ここ数日、ようやく180度から160度、140度という感じて曲げることができてきて、今日はようやく90度まで曲げることができるようになった。もちろん関節本来の複雑な捻じれや回転自在な動きにまでは、いましばらくの時間が掛かるだろう。

 

■2■尾籠(びろう…or below)な話で申し訳ないけれど、今月頭からずっとトイレに行っても膝が曲がらないので、小用はできても大用はできないままだった。個人的にはほとんど常に快食快便なので、便秘系の悩みは一切なかったのだけど、大用スタイルに近づけると痛みで体が自己強勢便秘になっていた。

 

■3■昔は「居ても立ってもいられなければ中腰になっていればいい」などと、人の苦しみを知らぬまま放言していたけれど、今日8日目にしてようやく痛みの不随意筋関所がフリーになり、よく便秘薬のCMなどで「スルスルっとでました」とか言うように、出国規制の廃棄物たちを自然に返すことができた。

 

■4■8日間分だからどれだけのボリュームなのだろうと、ちょっと個人史最大量の期待をしていたけれど、フツーにいつもの1日分より少なかった。いつもであればの8日分は一体どこにいってしまったのだろう?小用対象物なら、再度血管に戻しての濃縮還元はあろうが、大用対象物は濃縮って無理だよね?

 

■5■不思議なので8日目にして初めて体重計に乗ってみたら、いつもと全く同じだった。身体は不思議だ。たまに故障して動けない時とか、痛みを抑えつつ足を引きずって歩くときなどに、人間はなんと美しく歩き動くのだろうと感動的に思う。自らの身体は反転した自然で、内外の界面が私なのだと考える。

 

■6■環界という自分の外界の少なくとも自分の知覚認識できる範囲は、自分の内側の自然が反転した自然と等価であると捉えている。もちろん自らの知り得ぬ自然も存在するけれど。自我とか自己というものは、今はその内と外の反転するめくれあがりの片面だと意識してみている。でも大用対象物はどこへ?

 

■7■アセンションとか次元上昇とか、わざわざこちらから上がっていく話より、そっちがこっちにディセンションしてこいやと不遜に思っている私ではあるが、upに対してはdown、overに対してはunderが対義語なように、belowの対義語はaboveであることを付け加えて、上や下にも色々あることを示し残そう。

 

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p.s.正4面体の2面角である70.5度まで膝が曲がるようになったら、もうこっちのものだ。単純ではないけれど、バレーボールのスパイクやサッカーのシュートの時の関節の基本角度は70.5度で、ためを作ってからボールにインパクトを加えると考えているのだが、補角の109.5度が作れれば3次元が回復できる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「正面」を向くということ

 

■1■「知覚正面」という難しそうな単語はしばし横に置き、身体にとっての前ではなく「正面」について考えよう。ダンサーの田中泯さんが「僕の踊りはカメラを正面にしていない」と語った。観客(見る人)のいる方向を正面に見立てて、様々な芸能や演武は為されている。相撲にも正面と向う上面がある。

■2■バレーは観客の視座で自分の姿を見るために鏡の前で練習する。1つ反転がそこにはある。しかし自然の中で身体に沿って踊る泯さんの言う「正面」は意味が異なる。全てが正面なのか、正面はないのか。そういう概念の横滑りではない。泯さんは動物の正面は面ではなく点だと言う。意識の面点変換だ。

■3■脊索動物は進化の過程で呼吸方法を変えて水中より上陸した。前後左右の方向に、重力という上下方向が身体を貫いた。6倍の重力に対して自らの身体を支え動くために四肢を発達させた。顔の角度を90度変えることで進行方向を見据えた。やがて重力に抗して直立すると、顔面は再び90度角度を変えた。

■3■しかし泯さんの言う「動物の正面は点」とは、動物が本能と環境に添って自然と一体となって生きていくことを指しているように思える。鏡は正面ではないが、正面性を意識させる神器ではある。私達は過去の記憶や未来の予測も含めた世界を世界鏡として見据える。3次元空間の中にそれは収まらない。

■4■前世紀末にBOBは「重力は人間の意識の総体」という類の物言いをしていた。それは今でもアリなのかもしれないが、個々の重力力線の一方をたどれば、たしかに地球の中心方向で1つになり、逆方向は全方向に拡散する。見る視座がある顔を「面」と言う。正面は視座の前方でなく後方かもしれない。

■5■人間の意識と関わりのある重力はまた、私達の身体感覚とも分かちがたく係わっている。勝者は重力を味方にする。様々な格闘技は相手を倒して大地に横たわせようとする。柔道やレスリングでは背を大地につけ、腹を天空に向けさせようとする。動物が腹を見せるのは服従のしるしだ。2足歩行と4足。

■6■『あしたのジョー』というアニメに「明日はどっちだ!?」という決めフレーズがあったが、それは明らかに3次元空間の中にはない。もしくは全ての方向が明日だった。芸を極めんとする者は能楽における「翁」という1点の向う側を正面とすることではなかろうか。自らの身体の中心の反転した向う側。

■7■完成された芸術作品に対して正面を向くのではない。自らの人生を1つの壮大な作品として完成すべく生きる、その生きざまを向ける「正面」を考えるということでもある。重力や回転加速度や腸管の蠢きでもある心を繊細に感受する身体そのものが、向けるべき1つの正面そのものでもありはしないか。

■8■観念ばかりの難しげな話ではなく、誰にも身近な身体感覚を通して話を進めようと思ったけれど、結局別の難しげな話になってしまったかもしれない。しかし私達は芸能や哲学だけでなく、いまだ生物進化の途上にあると自覚して、身体感覚も含めて向くべき「正面」について考える必要があるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人間の手に見るペンターブシステム

 

■1■自分も含めた人間の手の骨の数を確認してみよう。肩から肘までを繋ぐ1本の骨は上腕骨。肘から手首までは橈骨(とうこつ)と尺骨の2本。そして手首の先には肘側に舟状骨・月状骨・三角骨・豆状骨の4個と、その先に大菱形骨・小菱形骨・有頭骨・有鈎骨4個の骨が8つ固まりあった手根骨がある。

 

■2■このうちの豆状骨はいわば痕跡的な骨で三角骨に乗っている形だから、豆状骨と三角骨を1つと見ても良いだろう。。そしてその先に5本の指の骨が付いている。1つ1つの骨の名前は専門家に任せておいて、骨の数に注目してみよう。肩〜肘に1本、肘〜手首に2本、手根骨が3個と4個、指が5本だ。

 

■3■冗談ではなく、1−2−3−4−5となっているのだ。いわゆるペンターブシステムというやつだ。1キュービットは肘かわ指先までの長さだから、個の間に2,3,4,5があって、それを方からの1本の上腕骨が統括している。なお親指以外の4本の指の骨もまた、4本の骨で手根骨が統括している。

 

■4■手足の指の骨に付随するだけでなく、体中にある種子骨を除けば、手には上述の1,2,3,4と、掌のなかにある第二中手も含めて、指の骨は19本を合わせると29個となる。先述した痕跡的な豆状骨はいわば骨も入れれば30個になる。太陰暦は月の朔望周期の29.5日を29日と30日に整数化して処理する。

 

■5■30個として四肢の骨の総数は120個。29個として捉えれば116個。120という数は各所に顔を出すので省略する。12の10進法ホロンだが、116の方は地球と水星の会合周期の日数でもある。指先から肘までつまり1キュービットの中の関節間の長さが、順次ほぼ黄金比で拡大することも失念してはならない。

 

■6■また想起してほしいのは、この中指の先から肘までの1キュービットが、地球暦上に明白なように、火星公転軌道直径の1兆分の1スケールにもドンピシャであるということだ。なぜ世界はそのようにできているのか?繰り替えすが私たちの世界の見方が、そのまま反映されているからという表現になる。

 

■7■世界や宇宙を外界に観測することと、フィジカルと言った時の物質的な身体の各所を鑑みることによって、その裏側にある見えない本質的なところ…私たち人間の世界認識の仕方、計測単位の設定、論理や思考パターンなど…を知ることになる。そしてようやく人間型ゲシュタルトからはみ出して行ける。

 

■8■生物が水中から大気中の陸地へと移動し、大地に立った両生類の足の指が5本ではなく7本であったところへと繋がり行く。この話はペンターブシステムだけでなく、ミトラ神やパピロニア由来の7曜や7天体や7神につながり、かつヌーソロジーや地球暦とも連結していくかもしれない。

 

(※)画像左は『コトバンク』より借用して加工。
https://kotobank.jp/word/橈骨-103532
   画像右は『All Things Must Pass』より借用して加工。

http://blog.goo.ne.jp/ns3082/e/e3d59ee335fd6e9bac1a35fb9b4e8f66

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


身体尺とメートル法…太陽系トポロジー(01)



■1■私たちが最初に世界を計測した時、そして何かを作ろうとした時に用いた物差しは、私たちの身体そのものだった。世界の様々な計測値を記憶するにも、作ったものと馴染み用いるのにも、それは自然な流れであろう。いわゆる身体尺を使い始めたのは、紀元前6000年頃のメソポタミア文明とされている。

■2■指幅・掌幅・手長・開手幅・足裏長・身長・歩幅・関節間長・骨長など、身体尺は身体そのものが基準なので、時代や地域で文化や人種の大きさからくる差はあるが、理解や翻訳が可能で世界中どこでも共通性がある。中でも使用頻度が高い手は、関節や骨の数も多いので、様々な寸法が多数残っている。

■3■白川静の『常用字解』によると、「尺」は手の指の親指と中指とをいっぱいに広げて下向きにした形で、上部は手首の部分、下部の八の部分が両指を広げた形の象形文字である。一本の指の幅が「寸」で、寸の十倍の長さが尺で、十寸の長さ、ものさし、尺の長さのもの、小さい、わずか」の意味となる。

■4■また四本の指の幅を「束(つか)」というともある。日本の度量衡では同様に指1本分の幅を「伏(ふせ)」と呼び、4伏を1束としていた。さて古代エジプト等で使用していた計測の基本単位である1キュービットは、肘から中指の先までの長さの身体尺だったが、1キュービットは28デジットだった。

■5■1デジットは指の幅の長さなので、これは上述の「寸」であり、また「伏」に等しい。4デジットが1パルムで、これは親指以外の4本の指の幅の長さだが、これもまた身体尺の(4伏=)1束に対応している。西洋風にいえばこの7束が1キュービットだが、東洋にはこの身体尺長の単位は存在しない。

■6■日本神話では八咫鏡や八咫烏など「八咫」という長さがよく登場するが、「咫(あた)」は、中国および日本で用いられていた長さの単位である。最古の部首別漢字字典『説文解字』には、周代の尺で8寸を「咫」というとある。指8本分、つまり両手を合わせた時、親指を除いた両掌の幅の長さである。

■7■音楽の平均律や暦のグレゴリオ暦もそれだけでは閉塞しかけているように、世界を計測する時に、その基準としての「物差し」は唯一無比のものを用いるのではなく、少なくとも2つ以上の単位系を用いる方が、世界へのまなざしとしても、それに対する現れである世界の立ち居振る舞いも豊かであろう。

■8■現在でも残っている身体尺には、「ヤード・ポンド法」と「尺貫法」がある。ヤード・ポンド法はメソポタミア由来のキュービットの流れを汲んでいる。もう一方の尺貫法は中国から伝わったもので、メートル表記が義務づけられている現在でも、その一部は専門分野で用いられ、言葉の中に残っている。

■9■キュービットという単位はヤード・ポンド法には含まれていないものの、ダブルキュービットは現在の10進法をバックボーンとしたメートル法の1メートルに近いので親和性がある。元々は指幅であった「寸」を10倍すると「尺」という上位単位になるが、ここには10進法の原型的な構造も存在している。















 

骨伝導に関する補足



■1■子供の頃初めて録音した自分の音を聞いた時、「こんな声じゃないはず」と思ったものだ。大音量の音楽をヘッドフォンで聞きながら歌詞を口ずさんでも、耳を介さずに自分の声は聞こえる。自分の声が自分の聴覚器官に届くのに、気導音と骨導音という2つの伝達経路があることを知らなかったからだ。

■2■骨導音は気導音に比べて低周波ほど強く、高周波ほど弱く聞こえている。骨導音は特に250Hzあたりの周波数帯域が強いので、他者が効くより自分の声をこもった声として知覚している。つまり自分が声を出す時、他者が聞き、世界に響く音ではなく、自分だけが聞く自分の音を聞いているということだ。

■3■通常、視覚的に他者の視座から見る自分の姿を見ることができないように、聴覚的にも他者が効く自分の声を自分だけが聞こえないのだ。世界に響かせる自分の声を聞くのに、自分の身体(特に骨)が邪魔になる。どうすればその絶対的孤独を超えて他者と声を共有できるのか。ただ単に合掌すればいい。

■4■骨伝導の音は空気を介さず、鼓膜も関与しない人間の骨から直接カタツムリ以降の聴覚神経に伝播する。自然音や打楽器等には超音波が含まれていて、人間の脳波のα波を増加させるという。人間の可聴周波数の上限は2万Hz程だが、骨伝導聴取だと8万〜10万Hzの音でも聞き取るという実験結果がある。

)ただし140デシベルという極めて強い音での話である。

■5■骨伝導ヘッドセットは軍隊、医療関係、病院、警察庁、消防庁、パチンコ店、レストラン等様々な領域で使われている。実際にどこまで聞こえるのだろう。頭頂部や後頭部、首、あご、頬、鎖骨等は良く聞こえ、鎖骨まではどうにか振動が伝わるらしい。しかしさすがに肋骨の振動を聞く者は誰もいない。

■6■晩年耳が聞こえ難くなったベートーベンは、絶望の淵に立たされながらも音楽活動や作曲を止めることはなかった。彼は指揮に使うタクトを口にくわえると、ピアノの音が振動としてタクトを通じて聴覚器官に達することを情熱で発見した。もこれは聞くというより感じるという要素が強かっただろうが。

■7■クジラやイルカはこの骨伝導を用いて音を聞いている。体表面に耳があったら、深海に潜った時に水圧でつぶれたり、長時間水に晒されているので中耳炎になったりするだろう。自分の下あごを聴覚の道具として使っている。水中の方が音の伝播が良く、相互のコミュニケーションに超音波を用いている。














 

骨伝導聴力と音の周波数

       

私達の聴覚においては、空気伝導による鼓膜の振動が有毛細胞を経て脳幹に伝えられて音と認識されているが、そのほかにも骨伝導による「身体共鳴現象」が強く発生している。

アルフレッド・トマティス博士の研究によれば、音の周波数の高低により人体の共鳴する部分は異なっている。

背骨に音を響かせると、共振する周波数は背骨に沿って仙骨、腰椎、胸椎、頚椎と上がっていくほど高くなる。

「腹に響く低音」は実際に骨盤が骨振動を起こし、「頭のてっぺんに響くカン高い音」は頭蓋骨が骨振動を起こしている。低周波音は骨や内臓を直接振動させる力を持っている。



この「骨伝導」以外にも体毛,眼球等の高周波知覚や、精巣,子宮を含む内臓の低周波ゆらぎ知覚等でも認識能力が備わっている。ライブ演奏を会場で聴くと、CD等と異なり、鼓膜の空気伝導以外にこの身体共鳴現象が強く起こる。

)画像は「K's MUSIC ドラム人間科学理論」http://www.ks-music-drum.com/ より。

論理的データがないので一概には言えないが、日本の舞いや能などが下半身方向に、大地の方に重心を置くことや、欧米のバレーやダンスが上半身方向に、天空の方向に向かって飛びあがる動きであることなども連想される。

もちろん大地を踏みしめるフラメンコや、ロシアのコサックダンスなどもあるので様々だが、日本語固有の振動帯域が低いことなどとも、決して無関係ではないだろう。

ホーミーが鼻孔・上顎・咽頭・喉などと振動の共鳴中心を持ってくる場所で音の響きが異なるだけでなく、身体の骨伝導部分との共鳴具合の差異もありそうで、いろいろとイメージは広がる。














 

エロ仙人か、堕天使か

        

■13■色欲により神通力を失う仙人の話が、奈良県橿原市にもあった。久米仙人(くめのせんにん)が、ある日飛行の術を行っていたが、久米川の辺で洗濯する若い女性の白い太ももに見惚れて、神通力を失って墜落した。結局その女性を妻としたというのが個人的にはツボだ。久米寺の開祖という伝説上の人物である。



■14■妖怪博士は今世紀始めに某女子大の非常勤講師になった。最初に彼は「3年で女子大生と問題を起こして辞めるつもり」と言ったその心意気や良しだが、結局彼はエロ問題は起こさずに十数年職務を全うした。私も女人と問題を起こして顰蹙を買う心意気はあるのだが、モテないという根本原点が成就を阻んでる。

視覚的に見たことによって、意識だけでなく無意識の領域にもうねりが生じるは自然なんだと思うけれど、男と女の励起の仕方が異なるところと同じところを互いに理解し合うのも大切なのだろうなあ。

■15■私のことはどうでもよい。問題の久米寺の最寄り駅は近鉄「橿原神宮前駅」だという。寺は真言宗根本道場の別格本山らしいが、本堂とは別に、久米仙人をお祀りするお社があるそうだ。社会常識を踏みにじることなく、自然との折り合いを目指す「エロ仙人の会」としては、いずれ一度は訪れなくてはなるまい。

■16■どうも10月にこのお寺で「久米仙人まつり」が開催されているのだが、その中で「久米仙人踊り」というものがあるらしい。仙人の衣装をした者が、杖で女人の赤い腰巻きをふくらはぎまでめくろうとする踊りをするようだ。今ならセクハラだが、それにもめげぬ度胸を体得すべく、行かねばなるまい。

         加工した画像元は"VOGUE NEWS"より借用。

■17■これを旧約聖書の中の話と比べてみよう。神は総勢200名の天使に地上を監視せよと命じた。天使達は地上に降りたってすぐに人間の娘に惚れ込み、愛欲のために公務を放棄して一緒に生活を始め、天文・薬学・武具装飾品の知識・化粧法など天界の秘術を教えた。生まれた子供達は巨人で大食漢ばかり。

■18■人間界は盗み・姦淫・殺人などがはびこり、巨人達は地上の食物を喰い尽くすと共食いを始めた。堕天使達は自らの業を悔いて神への嘆願書を大天使メタトロンに託す。神は許さず、ノアの方舟完成後に大洪水を起こし地上を一掃した。光のない洞窟の奥底に投げ込まれた大天使達は、以後荒野を彷徨う。

■19■二元論的世界観と一神教的な理念信条を持つ者は不快に思うかも知れないが、私は首尾一貫してこの200人の天使達の側に立つ。神の無能さと対応能力のずさんさばかりが目だつこの話の中で、アザゼルやシェミハザらに親近感を持つ。天使も人間も存在全てを掛けて、神を超え行く神になればいいのに。















 

「第2の心」論(2)



■1■1つと2つ。数を数える最初の認識。やがてすぐに1の中にも2を見て、2の2乗として4とも見て取れるだろう。心だけに2心房2心室の心臓との比喩、もしくはメタファーにも通じるだろう。4値論理、4人称、4原色の生物と人間、四則計算、幾何学的な4次元などと表現してきたが2つの心とは。

■2■1つ目の心が自我、自己、自意識、主観を全てと思わせしめている。世界はそれほど厳しかったのだ。そこから自他の区別、自己と世界の対比、主観と客観を見て、相互共通認識のための論理・理性・知性を生みだした。2つ目の心を知らなければ、それは暴走して世界を覆い、自ら止まることは難しい。

■3■しかしそれは否定するものではない。出自を知り、分を弁えればそれは最高に機能する。2は1を入れ子にしており、3は2までを、4は3までを入れ子にして余りない。長い目で見れば、日本列島は海からも山からも多くの幸があり続けた。日本人は「情」の人である。1つ目の心を使うこともできる。

■4■物事の良し悪し、善悪、敵と味方、神と悪魔、快と不快を区別することはできる。しかしその片方を否定したり殲滅したりする必要はないし、それはできない。情緒の世界に住んでいる日本人は、暑さ寒さが振り切る四季それぞれを良いと思う。全て良いとする。四季と自分、自他を1つとも知っている。

■5■「あなたの心はどこにあるか?」と問うと、脳を指してここだという者もいれば、心臓を抑えてここだという者もいる。内臓を示してガッツともソウルとも言う。しかし個人の皮膚限界を軽く超えて、両手を広げて身辺の空間を抱くように「この辺もかなー」と言っても、日本人なら何となくそれも分かる。

■6■第1の心で、もしくは論理や思考や言葉でそれを表そうとしても表しきれない。他者に教えられたものでもない。しかしそれが在ることは分かっている。「わかる」ということに2種類ある。意識的にわかると無意識的にわかると。この2つが合致した時に初めて、本当に腑に落ちたと言えるのだろう。

■7■第1の心と第2の心に通奏する「情」というもの。エゴイズムやナルシシズムで濁っていると自覚したらどうすればいいのだろう?ハウトゥーはない。「未知への好奇心と、既知への感謝を。自己への信頼と、他者への慈しみを。」失念時のために私は、そんなふうなフレーズを寿文として置いてみる。

■8■情があるととても生き生きする。生気があるとは、情が溢れていて自分も周囲も生き生きと輝いていることなのかもしれない。ハウトゥーはないし、私自身の物言いが他の人と丸々重なるというのも胡散臭い。様々な遺伝子が時空重畳している日本人を、統一基準で操作しようと試みるのは単なる愚行だ。















 

「2つの心」の比喩としての2心房2心室


■心臓とは血液循環の原動力となる器官で、血液循環系の中枢器官である。ヒトの心臓は内臓の中で最初にできあがり、受胎後約21日目に鼓動を始める。心臓の心筋細胞は誕生後に細胞分裂を行なわず、大きさは生理的肥大によって成長する。そのため何らかの疾患で細胞が減少しても元に戻らない。

■脊椎動物の心臓。「心室」とは収縮することで心臓外に血液を拍出する器官であり、「心房」とは心室の上流にあって血液を貯留し、心室へ血液を送り込む器官である。

▼1心房1心室…魚類の心臓の構造。
 1対の心房と心室から静脈血がエラへ送られ、エラからそのまま全身を循環して心臓へ戻ってくる。

▼2心房1心室…両生類や爬虫類の心臓の構造。
 全身から戻ってきた静脈血と肺から戻ってきた動脈血が別々の心房を通じてひとつの心室に入り、混合した上で肺・全身に送り出される。

▼2心房2心…室哺乳類、鳥類の心臓の構造。
 二対の心房・心室系からなる4つの中空部を持つ構造。

■脊椎動物が陸上に上がる際、呼吸手段はエラから肺に移行した。肺はもともと食道から発生した臓器であり、全身循環の支配下にあった。動脈血と静脈血が混合されるのは一見非効率的なようであるが、粘膜呼吸もする両生類・爬虫類にとってはむしろフレキシブルな構造である。両生類の心室は完全に一つであるのに対して爬虫類の心室には心室を二つに分離する不完全な壁がある。

(※)画像は「あすなろ学習室」 http://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/ より借用・加工しました。















 


貧乏揺すり考



■1■気分転換にコメダ珈琲店に入った。すぐ隣りのオジサンが貧乏揺すりをしていたのが視界の端に入った。自分の手で視野を少しだけ遮ればよいのだが、他人の貧乏揺すりが、一方的な無意識的加虐の暴力のように感じるのは私だけなのだろうか。自分の生命周期や諸振動と不協和だからなのだろうか。

■2■他人の貧乏揺すりは音ではないが、不快な振動に似ている。視覚的に遮ればなくなるので、もちろん聴覚的不快ではない。しかも作為的ではなく、他者に指摘されるまで気づかぬまま、無意識に癖としてやっていることが多い。多くの場合に悪癖だとされるのは、やはり他者の目からは不快だからだろう。

■3■名称の由来には諸説ある。貧乏人が寒さに震える様からとか、高利貸しが貧乏人から取り立てる際に足を揺することが多いからとか、江戸時代には貧乏神に取り付かれると言われたからとか、高貴な人からは貧乏人がせかせか動く様のようだからとか、諸説あるが決定打はない。つまり分からないままだ。

■4■自己他者問題でもある。自分が一人でする分には特に問題ではない。そもそも他者のこの動きに名前をつけているのは日本のみである。英語でもknee shaking(膝揺らし)、leg shaking(足揺すり)、Tapping unconsciously(無意識的足揺れ)、nervous knee-shaking(イラつき膝揺すり)…などなど。

■5■knee jerk(膝蓋腱反射)などと医学用語と同義語で表現されることもある。しかし名前がないだけでそのような動きはないわけではない。ロシアなどでは行為自体が「悪いマナーである」とされている。いつでもだれでも、広い寛大な心で、他者の震動を優しく受け止める余裕があるとは限らないのだ。

■6■貧乏揺すりが激しいのはかなりのマイナス評価だろう。無意識的な自己調整なのだから、他者が不快な感じていると分かったら止めるのではないか。不快感を溜め込みつつ我慢するより、「ヘビメタ的ビート強烈」とか「内的ロック魂漏れ出てますよ」とか、その場でやんわりでも伝えてあげられたなら。

■7■もちろん貧乏揺すりがストレス解消の一端になってるのであれば、自禁するのではなく、一人きりの時に意識的にでも思いっきりすれば良いのではなかろうか。いっそこの癖を逆手に取って周囲の人と話し合っての「貧乏揺すり震度選手権」とか、「貧乏揺すり発電機」の発明とかもあるかも知れない。

■8■原因も突発的に脚の前後の筋が交互に収縮伸張を繰り返すためとか、下半身の血流停滞解消の反射だとか、過接種カロリーの本能的消費とか諸説ある。心理的圧迫で不安や心配や苛立ちを抱えていて、無意識にそのストレスやフラストレーションを解消しようとして体に表れる一種の回避行動でもあろう。

■9■専門家の指摘では、不安や恐怖や欲求不満を抱えがちな傾向があり、見栄っ張りだったり、気が小さかったり、暴力によって発散させようとするなど、キレやすいタイプも少なくないという。勿論、全員がそうではないとは思うけれど。この名称を変えても、この癖を良い印象に変えるのは難しいだろう。

■10■比較的男性に多く表れる貧乏揺すりは、女性が嫌う男性の仕草で常に上位にくる仕草らしい。女性は服装やマナーなどから、自分の脚に意識を向けたので、無意識の行動が脚にも表れにくいと言われてきた。しかし今や社会進出をし、ストレスを抱える女性たちにとってはひと事ではないのかも知れない。













 

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