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  • 2024.01.09 Tuesday
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教育現場というところ

 

■真の教育現場は「正解を探させるところ」であり、「正解を教えるところ」ではない。教育現場では問いと答がセットのテストなどを提示して、個々の力量を高めようとすることもある。しかしそれすらも正解を探させるための大きな流れの中における、プロセスと言う意味での方便であり、メタファーである。

■それはただ機能すれば良いのであって、それが単なる学ぶ者の性格も含めた総合評価のデータ採取のための材料として用いられるのであれば、最初からそれは方法論的に誤謬があろう。煎じ詰めれば教師と現場の理念と目的意識の問題となる。教育とは洗脳ではなく、洗脳を自ら解除する力を発現させることだ。...

■正解とは何のことか?自分にとっての真の正解と、他者とも共有する社会的正解は必ずしも一致しない。しかしそれでも双方とも必要かつ重要である。自らの力を惜しまず出して必要性と共に、ヒントでもあるパラドクスとして、その正解が必ずしもあるとは限らないということも添えて語らねばならないだろう。

■安易に言語化してしまえば、知識の蓄積ではなく知恵の発動を助け支えるところということだ。これだけでは観念的表現の文字列に過ぎないと断ずる人もいれば、逆に言い得て妙なる真理であると勘違いする人もいよう。どっちもどっちだ。そしてどっちもどっちでもないし、言葉遊びでもない。個人の裁量だ。

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(※)現在、様々な「言葉の問題」を脳が占有しており、この書き付け文字列のクリンナップは今すぐには不可能なので、メモとしてここに上げときます(すぐ、どっか行っちゃうから…笑)。一応140文字スタンザで揃えてあるので、許してちょう。

そしてこの図は、ネットから拾って来た画像を再構築したものなんだけど、これを見て品がないと思うか、面白いセンスだと解するか、どうでもいーよと感じるか、エロくて好いんじゃね?とニヤつくか、その他色々あろうけれど、この私が新たに造った絵文字は「META」。

METAPHIGICS、METATRON、METALOGUE、METATAROとかの「META」で、接頭語としては、「高次な−」「超−」「−間の」「−を含んだ」「−の後ろの」等の意味を有するわけ。つまり「鏡を見よ」というパラドクスに似た遊びです。鏡本来は見えずにそこに虚像を見る道具だし、この絵づらを見ずに「META」のメッセージは見えないでしょ?…みたいな。

いいことって、ちょっと面白いこと多いよね。あ、いかん、成すべきことに戻らねば。シツレーしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「第2の心」論(1)



■1■岡潔は常々「人には心が2つある」と表現していた。「理性」を大切にする西洋人は、第1の心以外を知らないと喝破する。この第1の心とは、大脳生理学や心理学が対象とする心のことだ。この心はその中心が大脳前頭葉に宿っている。この心は「私」と云う主語主体を入れなければ自らは動かない。

■2■しかし人間には第2の心がある。この心はその中心が大脳頭頂葉に宿っている。この心は無私であり、「私」と云うもの、もしくは自我・言葉・理性・自覚・主語等を入れなくても働く。この心のわかり方は意識を通さない。直下にわかる。東洋人は仄かにではあるが、この第2の心の存在を知っている。

■3■日本人は第2の心のあることが非常によくわかる。そもそも日本人は大体第2の心の中に住んでて、時々第1の心が現れるだけだった。日本人は自然や人の世の情緒の中に住んでいる。情緒とは我が主体となる感情とも感覚とも異なる。この日本の「情緒」は今の文明を救うキーワードではないだろうか。

■4■人の真心に感銘する心は無私のところである。第2の心の領域だ。第1の心もしくは自意識と云うものはそれを後から自覚する。では第1の心と第2のこころは別個のものかというのは浅い認識論だ。心の最も基本的な働きは、2つの心が融合可能だということだ。第2の心の世界は「二而不二」なのだ。

■5■では「自我・言葉・理性・自覚・主語」等は意味も価値もないものなのかというと決してそうではない。自ら全体を捉えて分を弁えれば、それらは実に有能で有意義なものになる。他者の言葉を瞬時に理解し自ら思考して即座に言葉にするのは、第2の心の領域ではないか?第1の心はただそれを見てる。

■6■宗教的修行はみな何やら陰気くさく見えてくる。今や第1の心が第2の心を自分と自覚しただけで目覚めた人になる。もう無駄な苦行をしなくなる。日本の神々は日本の自然によって人を育てている。「哀し」と「もの哀し」の違いと言えば日本人は腑に落ちる。日本語を正しく知る者が日本人である。

■7■第2の心だけだと「花を見れば花が笑みかけているかと思い、鳥を聞けば鳥が話しかけているかと思い、人が喜んで居れば嬉しく、人が悲しんで居れば悲しく、人の為に働くことに無上の幸福を感じ疑いなんか起こらない」となろう。でも第1の心だけの蒙昧を楽しんでいる自分も否定されない今がある。












 

ミケランジェロの『アダムの創造』



■1■ビッグコミックに連載している『レインマン』が新章に突入した。作者は星野之宣。遥か昔、少年ジャンプであの諸星大二郎と前後して手塚賞を獲った超正統派だ。今回の内容は最新の超心理学や大脳生理学を踏まえた意識と無意識、右脳と左脳、超意識とネガティブな超意識等の話が展開していく。絵がしっかりしていて安心だ。

■2■最新号ではミケランジェロの『アダムの創造』がプロローグ的に出てくる。バチカンのシスティナ礼拝堂の天井に描かれたあのフレスコ画の絵の最近の解釈が出てきた。神の背後に描かれている袋状のものやその中身が、解剖学的に正確な人間の脳であるというものだ。神とアダムの腕はニューロンの情報伝達を意味するとも。



■3■さて、ここからがマイテイスト。実は単なるオタク話やトンデモではなく、『アダムの創造』の解剖学的学説がある。1990年にフランク・リン・メッシュバーガーが医学誌で指摘し、マーク・リー・アプラーが検証した。神の後ろの人物像とその背景に描かれている布の表現が、解剖学的に正確な人間の脳に見えるというものだ。

■4■その背景部分の中で神が描かれている部分は大脳表面の脳溝、さらに脳幹、前頭葉、頭蓋底動脈、脳下垂体、視交叉と一致しているという。そしてアダムと神の触れそうな腕はシナプスを介したニューロンの生化学的情報伝達を意味する。神は脳の中心である感情を司る大脳辺縁系を意味し、おそらくは人間の魂を表現している。



■5■ミケランジェロは解剖学の知識を持っていたし、ネタは単なるガセではない。さらに伸ばされた神の右腕は、人間の脳で最も創造性に富み、重要な部位である前頭前皮質を表しているとも言われている。中世の聖歌『来たり給え、創造主なる聖霊よ』の「御尊父の右手の指」という歌詞が影響している可能性があるとも言われる。

■6■上記した『レインマン』でも、作中の登場人物に「あの絵は脳の中の神」であり、「神が人間を創造した」のではなく、「人間の脳が神を創った」という意味だと言わせている。まんがの展開も楽しみだが、取り上げている話もまたどんどん先につながっていきそうだ。ジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』ともカブるし。















 

無意識の在りか



■1■意識は合理的な思考と感情の在りかであり、無意識は非合理的な思考と感情の在りかなのだとフロイトは言った。私たちは思っている以上に、物事の決定は無意識の思考によってなされている。しかし今日の認知心理学者たちは、実際の人間心理はそれほど明確に二分化されるものではないと考えている。

■2■カーネマンは思考を「自動的」と「制御的」の2つに分けて考えている。前者は意識的認識の外にあり、必要なのは単純な刺激だけで熟考や計画性を伴わず、素早く効率的である。後者は逆に、意識的思考を意図的に、比較的ゆっくりと行う必要がある。両者は補完し合うが、時には対立することもある。

■3■行動主義心理学者のスキナーは、人間の活動は周囲の環境で見聞きしたもの、匂いや触れたものに完全に支配されていて、意識的な意図は何ら役割を果たしていないと主張した。その後、環境のきっかけによって直接誘発されることはないという考え方に反駁された。しかし双方ともに行き過ぎであろう。

■4■人間には生まれながらにして、他人の感情表現や身体的なジェスチャーや、体の姿勢などを模擬する傾向がある。これは乳児の時から観察されることであり、音名でも会話をしている時、相手の身振りや姿勢を無意識に真似ていることがある。これは「カメレオン効果」として知られている現象である。

■5■無意識の模擬は他者に共感する気持ちを培い、互いの間に親密さを生み出す社会的な行動でもある。この傾向は単なる表情の模擬を超えて、思い出しただけでもその人の特徴的行動を真似てしまうことすらある。しかしそれは無意識に起こるので、自分たちの行動がどのように影響されたかに気付かない。

■6■「身体化された認知」の研究分野によると、物理的な行動や感覚はそれらに比喩的に関連付けられる心理状態を引き起こす。熱いコーヒーカップを持っていた人は、アイスコーヒーを持っていた時より、他人について「より暖かく寛大で、より好意的な印象を抱いたというベタ過ぎる実験結果が出ている。

■7■物理的な経験が無意識の内に判断や行動に影響を及ぼす。交渉時に硬い椅子に座らせると、柔らかい椅子の時より頑固で妥協しにくい。ごつごつした手触りの物を持たせると、人との出会いがぎこちなく、上手くいかないと判断しがち。無意識の内にほぼ全てを大雑把に判断しがちであることが分かった。

■8■心とは氷山のようなもので、意識を水面上の部分とすると、その下には大きな無意識層の氷塊があるとフロイトは言った。最近の述語的日本語の捉え方を1つ捩って推し進め、水面を個人とその環界の界面とみると、はみ出した心と無意識は、その存在場である空間側にあると表現することもできまいか。













 

誰にもある共感覚の意識化



■1■聴覚・味覚・嗅覚・触覚はそれぞれ別個の知覚領域を占めていると考えられてきた。しかし最近の脳科学の進歩により、人間の感覚系は従来考えられていたより深く相互に補い合い、脳の広い範囲に関わっていることが分かってきた。

■2■世の中にはそれぞれの数に対応する色が見えたり、ある音高を耳にすると匂いを感じたりするような人がいる。いわゆる「共感覚」の持ち主である。これらは非常にまれなケースであり、時には聖なる超常能力として、また時には一般の知覚認識から逸脱した、神経系の異常者であるとも考えられてきた。

■3■しかしここ数年、神経科学者はこのようなメカニズムの一部を、全ての人間が持っているのではないかと考え始めている。脳は1つのインプットを別の感覚のために代用することができ、また常に情報を多重化している。「目で聞き、耳で見る」という表現が、単なる比喩異常のリアリティを持っている。

■4■Daniel Kishという米国人は1歳の時に視力を失ったが、自分の舌で素早く鋭い舌打ち音(クリック音)を出し、その反響から周囲の状況をかなり正確に把握できるようになった。これに順じた反響定位の実験で、参加した視覚の正常な被験者も好成績を収めたという内容の研究が、2011年に発表された。

■5■白ワインを赤く染めると、一流のテイスターでも嗅覚を狂わされる。正常人でも特定の音によって匂いの感度が上下するし、唇の動きを見ることで単語の聞こえ方が変わってしまう。人間の感覚は想像する以上に様々な情報をやり取りし頻繁に協力している。程度の差はあるが共感覚は誰にでもあるのだ。

■6■数字に特定の色が見えたり、ある音高を聞くといつも同じ匂いを感じたりする人はいる。そしてそうでない者は、自分とは別個の異常知覚者であると考える。だがそのような共感覚を無意識下ではみな持っているという可能性もある。双方を意識的に体験することが可能になる日がいつか来るのだろうか。

■7■私たちは様々な感覚を別個に体験していると思いこんでいるが、脳は多数の感覚情報を、意識的には観察できない形で同期させ、関連付けて外界を認識把握しているのである。その無意識という言葉で括られている、いまだ未知だが確かに存在する領域に対し、敬意を払いつつ探求していかねばなるまい。















 


私の目を通じて世界を観る「未私」


                          Original photo by trombone65(加工してあります)

■1■ライアル・ワトソンはイカを地球の目であると言った。イカの目はその貧弱な中枢神経系には似つかわしくない精密で大きい眼を持っている。眼で捉える莫大な光のほんの一部すら認識できなさそうなのに。ワトソンは無数に群れなすイカの大群を見て、何ものかに代わって世界を見ているのだと感じた。

■2■我々が最も知性を持つ生物であるなどと自惚れている、私たち人間の目もまた精緻である。圧倒的な光量の内のほんの一部しか脳では認識していない。不要な情報は選別されるのだと解釈しているが、個々人とも不分離でより大きな未知のものが、私たちの目を複眼のようにして観ているのかも知れない。

■3■複眼を構成する単眼は、筒の先端にレンズがあり、逆側で筒内部にある視覚細胞が神経線維と繋がっている。単眼が球面状に並ぶ複眼は、ほぼ全方位を視野に収め、しかもわずかな動きでも単眼では大きな動きとして捉えられる。全体ではより高次のホロニックな高解像度のものを見ているかも知れない。

■4■私たち個人個人の視野は個体の前方の広角円錐内しか見えない。首を回せば視野は広がるが、やはり後方は見えない。もし私ではなく複数の私である私たちがバラバラに見ていると思われている世界が、非分離にして非自己の領域で大きな1つの視界のものを見ていると想定したら、それは不快だろうか?

■5■ホログラフはそのフィルムの小さな断片からでも、解像度は劣化するが同じものが再生できる。乾板の各部分にエンコードされた形で全体が含まれているからだ。単眼的に私たちが見ているものは世界の断片かもしれない。しかし逆に個人個人もまた、複眼的に見える「もの」へのアクセスが可能なのだ。

■6■これは単なるイメージだから、神とか高次生命体とか個々人によって異なる「名前」を敢えて持ち出す必要はない。国家や経済を個人より高次に据えて、私たちを国民とか消費者等という括りで、一律に統制しようとする愚者たちの思い描く未来社会とは真逆の方向性を見出すための、開眼の比喩なのだ。














 

4人の宝探しのバラモン僧



■1■勝手な創作説話集を語ります。昔々、マシ、メロ、シン、レツという仲良しの4人のバラモン僧がいました。みんなとても貧乏だったので、大金を稼いでも仏心には反すまいとの結論を出し、金持ちになろうと4人は旅に出ました。途中、4人は深夜の森の中で、数と形の魔法使いトーラスに会いました。

■2■4人はこの怪しげな人物に、大金を得る手だてを乞いました。トーラスは周期表を知っているかと尋ねましたが、4人とも良く分からないと答ました。そこで魔法使いは魔法の灯心を1本ずつ手渡して、北へ向かえと言いました。そしてその灯心が落ちた所に各自の宝を見つけるだろうと予言しました。

■3■歩き続けると最初にマシの灯心が落ちました。その土地は全て銅でした。マシは思う存分銅版でエッチング作品を作り、それが売れて金持ちになりました。他の3人は先に進みます。次にメロの灯心が落ちました。その土地は全て銀でした。メロは一生好きな銀細工を作り、やはり大金持ちになりました。

■4■2人は先に進みます。やがてシンの灯心が落ちました。そこの土地は金の山でした。シンはその金を用いてやがてあちこちに子供のための学校を立て続けて教育に貢献します。レツは1人で歩き続けます。「最初は銅、次が銀、3番目が金。4番目はダイヤモンドに違いない!」レツの灯心が落ちました。

■5■目の前に美しい少女が立っています。少女は言いました。周期表を知っていますか?知らないと答えるレツ。それよりこの土地はどんな宝からできているの?と問うと、レントゲニウムと答える少女。レントゲニウムってなんだよーと騒ぐレツ。原子番号111で周期表で金の真下にある超ウラン元素です。

■6■元素記号Rgの超アクチノイド元素、というかずっと後世になってから、科学者たちが研究室の中で無理やり作ることになる人工放射性元素ですね。半減期が長いもので3.6秒。こんな原子は使えません。落ち込むレツ。大金持ちよりいいものは在ると、少女は慰めます。レツは本当にそうだと思いました。

■7■後に4人目のレツは、バラモンをやめてその美しい少女を嫁にもらい、尻に敷かれて幸せに過ごしました。ところでその少女は日本人で、名前を原子と言いました。分子や粒子や電子等の娘が生まれます。やがて周期表も体得しレツは幸せで顔がにやけっ放しなので、面デレーFという名前がつきました。

■8■面デレーFは妖怪も好きで、よく夜の森の中に行きます。たき火をしていると、若者が4人連れ立ってやってくるのが見えました。彼らは面デレーFのところに来ると、超貧乏なので大金を稼ぎたいと言います。彼らはマシ、メロ、シン、レツという名前でした。…ところで君たち、周期表知ってる?

  (どっかに続く)














 

『シンクロニシティ・キー』



■本の紹介とかはあまりしたくないんだけれど、この本どうよ?的なノリで晒してみます。先日大津でひらめき集中塾と観音企画に招かれて、綿棒多面体製作をした時に、塾長の柏原由樹氏に「量子力学の中で幾何学的な発見があったのをご存知ですか?」と尋ねられ、知りませんと答えると、ウィルコックのブログ記事の翻訳コピーを下さった。

■うお、これは面白そうですねーと言いつつそのコピーを見ていると、ウィルコックの本の翻訳本がつい最近出たばかりなんですよと言って見せてくれた。それがこのみかんの隣りの本『ザ・シンクロニシティ・キー』である。ウィルコックはエドガー・ケイシーの生まれ変わりと言われている人物で、実に広大な領域をカバーしている研究をしている。

■私はディヴィド・ウィルコックに関しては以前から注目していたのだが、この本が去年2013年の8月20日に全米で出版していたことは全く知らなかった。そしてその翻訳本が4月30日発行で出されていることも。内容に関しては増長になるので別の機会があればそこでするが、良きにつけ悪しきにつけ、知っておくにこしたことはないのではなかろうか。

■アートビレッジから出版され、値段は3000円+税。近々大きな本屋さんに行く予定のある人は、パラパラと立ち読みされてもいいかと思う。この1冊前の本からあぶれたものをしっかりまとめ上げたものらしいが、輪廻転生、シンクロニシティー、歴史等の大きな流れを扱っている本だ。素粒子本ではなかったが、心理学者はどう読むのだろう。

■私もまだ途中までしか読んでいないのだが、早々に一応晒してみた方がいいかもと思ったので、先走ってしまったが、結論はまだ言えない。また西洋人の輪廻転生をガチで捉えようとするとこうなるのかなどの所感もあるが、まあ内容はご随意に。2013年に出版され、2014年に翻訳された、今とこれからの時流に関する何らかの本ではあろうかと。

■もちろん責任は取らないしとれないけれど、もう1度読んでみてから改めて言いたい、「この本、どうよ?」と。ああそうだ、この本は柏原由樹先生に頂いてしまったものです。柏原先生、本当にありがとうございました。














 

■映画『フラッシュバックメモリーズ』を観た<2>

 
■夕べは鑑賞後寝てしまったので、感想を少し追加したい。ドキュメンタリーなのにあえて主人公と呼ぶけれど、彼が超イケ面だったり、逆に普通の一般的生活をする人間だったら、まったく異なった話となっていただろうと思う。事故後最初に自分が何者かもわからず絵を描き続けるところなども凄い。

■鑑賞の視座は撮影の視座であり、視座視点というものの重要さも考えさせられる。演奏する主人公は観るものに対して前後が真逆だが、想像力によって自分自身が境遇・状況も含めて彼と位置の交換をした場合、スクリーンの中、そして話の中で語られている者とはほかならぬ自分自身ともなりうるのだ。

■記憶がなくてもそれなりに言葉はしゃべれ、文字は綴れる。また語りかける者に関する記憶がまったくないが、その人の顔は覚えている。自分は何者なのかという激しい自問は、人間としての思考や情動を踏まえて、それでも行われる。娘に怒鳴った記憶がない不安、体が覚えていて演奏できる喜び。

■この作品の上で語られていることの中で他者と異なる点もあれば、未だ語られていないことの中で他者と共通する点もあるだろう。手は外にはみ出した脳だとも言われるが、演奏…というより曲そのものの進行と不二なるものとして動く手。自分を映している鏡の中にある見たことのある他者の顔。

■アボリジニのような点描の絵は誰でも描けるのだろうか。彼自身ですらこうならなければ描きはしなかったであろう作品群。自己他者問題を想定する上で、その自己が壊滅したら他者なのか、相殺の無なのか。自己のほとんどは記憶であろう。そしてそれを超えて方向性を模索する精神、視座、生命振動。

■過去が消滅し、未来を明るく創造しようとする現在。誰もが記憶や憧憬があろうとも、常に「今、ここ」という視座から逃れられていない。過去の想起は今なされ、未来予測は今作られている。誰にでもその今を不安と自責で生きることを止め、幸運なる2回目の人生として歩み始めることが可能なのだ。

■製作者サイドと出演者たちに、その生き様や意思も含めてに多大なる感謝と敬愛を抱いているが、未鑑賞の人に何を言ってもかえって先入観や不要な期待感を植え付けることになる。しかも上映館は少ないので、おいそれと見られるものではない。それでも鑑賞したい人は、観た後でぜひ語り合いたい。

■いくらでも連想から文字を連ねようとしてしまうが、それすらも自粛しなくてはなるまい。この作品が完成したことは奇跡的である。主人公が自分自身と重ねられるような体験がある人は幸せである。ない人は主人公と同様に記憶がないだけなので幸せである。彼はまだ今を生きている。彼は私である。

(感想というものは多分に個人的なバイアスがかかっているものと思われますが、それでもこの作品を観ることができて、世界に感謝しております。)













映画『フラッシュバックメモリーズ』を観た<1>

 

■『フラッシュバックメモリーズ』という映画を観て来た。実に作品製作そのものも含めて興味深い。全編に渡ってデジュリドゥの演奏が流れていて、これだけでも物凄い。最初はなぜドキュメンタリーに3Dを使う必要があるのかと思い、また主人公の成功話は興味がないので、一部眠ってしまった。

■しかし3D表現によるメモリー画像の多重かさねや、静止画+まんがのセリフを意識したかのような文字によるモノローグ、一部アニメーション的に画像を加工した部分など、普通の映画とは異なる斬新な試みに、途中から好感が持てた。そして一部は3.11とも重なる個人的な重圧感と方向喪失感。

■3Dの用い方がステージのライブと背景の階層画像のように見えることもあり、また演奏されるデジュリドゥそのものが、観客の視座方向に突き刺さるように伸びてくる撮影が、観客として見る視座と、記憶と時間空間概念を失いつつもがき、未来に光を見出そうとする者との奥行きを感じさせる。

■つまりkohsen氏言うところの、この世界をTVなどのモニター越しに見ている私たちは、生まれてから1度もそのモニターの前から動いておらず、モニター越しの世界そのもののほうが絶えず動いているに過ぎないという縦軸方向に沿って、こちらに突き刺さるように動く楽器に啓示の方向を感じる。

■この映画は3Dであることもあって、DVDで観るよりやはり映画館で鑑賞するほうがいいだろう。途中から主人公の現今と未来だけでも、監督その他の意図や創作魂だけでもなく、自分自身の時空姿勢や新しい方向性をも考えさせられた、実に良くできた作品である。そしてまだ未完である現実。

■ストーリーを紹介しても分かり難いだろうが、交通事故により記憶の一部が消えたり、新しい出来事を覚え辛くなるという脳障害を負ったディジュリドゥ奏者の世界とリハビリ。それを後ろから支える家族やバンドの仲間たち。過去はないまま、未来に希望と光を信じる者のメッセージを受け取った。

■映画については好みや趣味や興味などにより、他者に勧めるのは躊躇することが多い。実際、愚妻などは全編に流れる演奏で最後まで爆睡してしまっていたと言う。ヌーシストやアーティスト、そしてそうでない人に対しても、個人的には強く勧める作品である。いや本当にもう古臭い映画はいらない。













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