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  • 2024.01.09 Tuesday
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二而不二(ににふに)

 

■1■「二而不二」という言葉がある。元々は仏教の言葉で「ににふに」と読む。「2である」という意味の「二而」と「2でない」という意味の「不二」を、ピコ太郎の『PPAP』のように半ば強引に1つに合体した言葉で、そのシンプルな意味は「2にして2にあらず」だ。西洋論理学的には有り得ない。

 

■2■サンスクリットの数詞「1,2,3,4…」は「eka-、dvi、tri、catur-…」だ()。そして「不二」と訳されるサンスクリット語のadvaya(アドヴァヤ)という語は「対立する2つのものが存在しない」と言う意味だ。1から数え始めた次の2が、2でもあり2でもないと言われると、その先が数えられない。

 

■3■現今の分別、つまり言語化・概念化によって成り立っている人間の思考法においては、人間の概念化を破壊する新概念である。したがって排中律を認めない論理学的には全き錯誤であり、数学的には有り得ない解であり要素である。しかしそれは破壊的威力はあるが、根絶や殲滅の類の全面否定はしない。

 

■4■無分別を弁えた上で思惟分別の中で数を数えると、それらの数同士にさらなる繋がりを見出すことができ、よりふくよかに数えられる世界が開ける。そこはまだ未踏に近い地である。しかしこれまでの何者をも否定することなく、それらを超えて新しき一歩を踏み出すことができる知と愛の領域でもある。

 

 

■5■二而不二は1よりも2よりも豊かだ。そしてそれは3も4も含んでいる。数の数え始めの辺りでわさわさと蠢いていた概念だと思っていたけれど、気がつくとそれは1と2という数え始めの根本から覆す数の捉え方であり、新たなる1と2を確かに知り、愛し行くために全く新しく数え始めねばならない。

 

■6■数える私と数えられる物のほかに、私が気づかなかった数える者が在る。その数える者と私とは二而不二であることに気づくと、数えられている物と私もまた二而不二であるということに思い至る。見ることは数えることであり、数えることは愛することなのだ。数えれば最初から見られ愛されていた。

 

■7■イン・ラケチ… I am another yourself …の新しい解釈を胸に、これまでのあらゆる数と数えられたものを無に帰することなく、それらに愛され慈しまれていたことを抱きながら、それらを超えて新しく数え始めて行こう。自己他者問題の解の方向性…。4人称には新たなる私と反転と二而不二がある。


()序数だと「prathama-,dvitiya-,trtiya-,caturtha-…」(「第3の」の補助記号略)となる。基数、序数共に名詞あるいは形容詞として用いられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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