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■映画『フラッシュバックメモリーズ』を観た<2>

 
■夕べは鑑賞後寝てしまったので、感想を少し追加したい。ドキュメンタリーなのにあえて主人公と呼ぶけれど、彼が超イケ面だったり、逆に普通の一般的生活をする人間だったら、まったく異なった話となっていただろうと思う。事故後最初に自分が何者かもわからず絵を描き続けるところなども凄い。

■鑑賞の視座は撮影の視座であり、視座視点というものの重要さも考えさせられる。演奏する主人公は観るものに対して前後が真逆だが、想像力によって自分自身が境遇・状況も含めて彼と位置の交換をした場合、スクリーンの中、そして話の中で語られている者とはほかならぬ自分自身ともなりうるのだ。

■記憶がなくてもそれなりに言葉はしゃべれ、文字は綴れる。また語りかける者に関する記憶がまったくないが、その人の顔は覚えている。自分は何者なのかという激しい自問は、人間としての思考や情動を踏まえて、それでも行われる。娘に怒鳴った記憶がない不安、体が覚えていて演奏できる喜び。

■この作品の上で語られていることの中で他者と異なる点もあれば、未だ語られていないことの中で他者と共通する点もあるだろう。手は外にはみ出した脳だとも言われるが、演奏…というより曲そのものの進行と不二なるものとして動く手。自分を映している鏡の中にある見たことのある他者の顔。

■アボリジニのような点描の絵は誰でも描けるのだろうか。彼自身ですらこうならなければ描きはしなかったであろう作品群。自己他者問題を想定する上で、その自己が壊滅したら他者なのか、相殺の無なのか。自己のほとんどは記憶であろう。そしてそれを超えて方向性を模索する精神、視座、生命振動。

■過去が消滅し、未来を明るく創造しようとする現在。誰もが記憶や憧憬があろうとも、常に「今、ここ」という視座から逃れられていない。過去の想起は今なされ、未来予測は今作られている。誰にでもその今を不安と自責で生きることを止め、幸運なる2回目の人生として歩み始めることが可能なのだ。

■製作者サイドと出演者たちに、その生き様や意思も含めてに多大なる感謝と敬愛を抱いているが、未鑑賞の人に何を言ってもかえって先入観や不要な期待感を植え付けることになる。しかも上映館は少ないので、おいそれと見られるものではない。それでも鑑賞したい人は、観た後でぜひ語り合いたい。

■いくらでも連想から文字を連ねようとしてしまうが、それすらも自粛しなくてはなるまい。この作品が完成したことは奇跡的である。主人公が自分自身と重ねられるような体験がある人は幸せである。ない人は主人公と同様に記憶がないだけなので幸せである。彼はまだ今を生きている。彼は私である。

(感想というものは多分に個人的なバイアスがかかっているものと思われますが、それでもこの作品を観ることができて、世界に感謝しております。)













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  • 2020.07.01 Wednesday
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