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文字無き言葉をイメージする


■1■偽書で括られているものを論外に置くと、古代の日本列島には文字がなかった。大いなる国であれば立派な文字があったはずであるという考え方は、硬直した前提からなる発想である。縄文後期は豊かで発達した社会だったし、東北地方はずっと先進地域だったと考えられているが、文字は残っていない。

■2■文字が残っていないということは、言葉がなかったということではない。むしろ豊かで美しい言葉を用いていたと捉えることもできる。言葉と文字は表裏一体ではない。文盲という言葉は読み書きできて当たり前だとする思い込みに加えて、文字を用いる者の方が優れているというと思いあがりがある。

■3■しかしここではそのような状態に対する苦言を申すつもりはない。むしろ言葉を用いた時に、文字がないのでそれを書き残すすべのない自己をイメージできるだろうかという疑問を呈したいのである。もちろん文字を用いて生きてきたのに突然それのない世界を想定しろというのは無茶振りすぎるだろう。

■4■しかしあえてそれを自らの意識の上で試みることによって、自分が内面的思考に用いている言葉や、推敲する間もなく瞬時に口にしている言葉をより意識し、大切に扱う姿勢が生じるのではないだろうか。またいかに価値に乏しい観念や概念をこねくり回して脳内エネルギーを消費しているかにも気づく。

■5■もちろん文字を用いた記録群の上に築かれたこの上もなく豊かな領域を、否定したり敵対するものとして対置するつもりもない。その豊饒さに比しても劣らぬ、文字無き世界の豊かさもあるのではなかろうかと想定してみること。文字一体化していない言葉だけを用いて、思考を維持持続できるだろうか?

■6■見たことがある名のある動物や植物や鉱物ならば、音の連なりからその記憶を想起できるだろう。しかし文字無き世界の情緒や思考法をイメージしてみようとすらしないままに、古代の日本列島に生活していた人たちや、同じく文字を持たずに生活していた騎馬・遊牧民族を語ることは妥当なのだろうか?

■7■文字は支配のための法を作り、ごまかしや間違いをなくするために発生した。そして排中律を認めない2値2元的論理や、他の神を認めない一神教の論理を強化するために文字は発展した。文字成立の本場バビロン出身のマニは、文字の本質を問うため、東方ミトラ教の聖典を文字で残すことを拒絶した。

■8■西アフリカのダホメ王国(17〜19世紀。現ベナン共和国)は文字不要の文明を有していたが、英仏と対等以上に貿易し、戦争をしても常勝だった。敗北したのは偽の講和で騙し討ちにあったためだ。他にも様々なパターンがありうるが、文字無き古代日本を脳内で再現しようとする試みは重要であろう。

■9■なお、ここでこのようなことをを文字を用いて書き記しているということ自体が、文字の有と無の2元的対立で考えるならば、それはパラドキシカルとなるであろうが、有無の双方を等価として見て取れる視野ならば、それは内的部分相反もまた、立ち上がる豊かさの色合いとして共有ではなかろうか。


)画像は flickrの "Aurora from Badger" by Frank O Coneから借用。













 

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  • 2020.07.01 Wednesday
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