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太古も未来もあわいにある

 

■1■あるものと別のものとが接している時、その接点には今ひとつはっきりしない「あわい」とか「界面帯域」のようなものを、私たち日本人は容易にイメージできる。西洋的論理で表現すれば「どちらでもある領域」または「どちらでもない領域」とでもなるだろうが、私たちはさほど苦もなく共有できる。

 

■2■私とあなたや、私と世界という問題の対置設定自体がすでに、西洋的な自我前提のバイアスがかかっているのだが、日本語的な言葉で表現すれば、一意で「皮膚」と「肌」の違いでこれを区別できそうだ。象徴で用いない限り、皮の境は目は見える。しかし肌は目に見えない様々なものごとも含んでいる。

 

■3■「芸術家肌」とか「肌が合う」という時は、気質や性格という目に見えないものを指すし、「肌で感じる」と言えば皮膚の身体感覚や思考だけでなく経験全体を語っている。「ひと肌脱ぐ」とは他者に力を貸すことだし、もはや古風な言葉だが「肌を許す」と言えば女が男に体全体を委ねるという意味だ。

 

■4■「肌」はあわいとか界面帯域のように境界があいまいで、色々なものがはみ出したり染み込んだりする象徴的表現が可能な、実に日本的な言葉だ。私とあなたや、あなたと世界や、別のあなたと私とかがいろいろと互いにつながりあっている。皮でなく互いの心の肌を重ね合うことができる私たちの言葉。

 

■5■「あわい」とか「界面帯域」と言ったとき、まず先にひとりよがりの王国の辺境帯域と解するか、その接するものやこと同士双方の明確な線引きのできないあたりとイメージするかは、そのイメージする者の視座がどこにあるかを炙り出す。自我が強烈でない者はそのあわいが広くても余り問題ではない。

 

 

■6■「肌が合う」という表現をした時、自分の皮膚感覚が相手の皮膚としっくりくると解するのか、双方の肌のあわいが心地よいと捉えるのかの差異は小さくはない。あわいは私のものかあなたのものか、わたしとあなたのものか、どちらのものでもないのか。思考の基盤と姿勢で、ものは何とでも言えよう。

 

■7■必要以上に強烈な自我がなければ、あわいには私もあなたもいない。しかしそれでも接している。その帯域を大切にして敬えば、古えの神や精霊裁ちが顔を見せるかもしれない。ただしそれは「後ろ戸」とかある種の「ゾーン」的なところで通じるのかもしれない。私が小さい時、大きな私が重なり来る。

 

■8■「はだし」や「はだか」という言葉を見て、その語感が思考だけではなく身体感覚にも想起させるものを持っている人は多いだろう。個人差は様々ではあろうが、言葉の持つ基底の力は原初的な身体感覚とも繋がっている。これは比喩だが、その個々人の脳内ではなくあわいで言葉の共有は成されている。

 

■9■幾何学的表現だが、辺境は中心でもある。中心から辺境への方向性を全て反転させてみれば分かる。案外難しいことではない。3つ4つ反転させてみれば他も連動してひっくり返る。中心だと思っていた自分が満弁なき辺境に行く。この反転作業によって、他者のみならず自分自身とも肌を合わせられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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  • 2020.07.01 Wednesday
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