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ブッダと龍樹の四句分別

 

          自己であると教えられていることもあれば、
          自己ならざるものであると示されていることもある。
          しかしいかなるものも自己ではなく、そして、
          自己ならざるものではないと諸仏により示されている。

                                         (『中論』18・6)

 

■1■別所で改めて別の文脈の中で「四句分別」あるいは「テトラレンマ」について語ることになるが、厳密にはこれと似て非なる「四句否定」(便宜的にこれもテトラレンマと呼ぶこともある)というものもある。これは仏教の初期経典中にも見られるものであり、龍樹はその伝統を受け継いでいるのである。

 

■2■たとえば龍樹の「世尊はその死後に、存在するとも、存在しないとも、その両者であるとも、両者でないとも、いうことはできない」(25・17)という詩頌があるが、これは原始仏典『マッジマ・ニカーヤ』(63)でマールンキヤープッタがシャカムニ・ブッダの教えとして伝えるものと同じ構造をしている。

 

     『永遠なるものは世界である』とか
     『永遠でないものは世界である』とか
     『有限であるものは世界である』とか
     『無限であるものは世界である』とか
     『命と身体は同じである』とか
     『命と身体は異なっている』とか
     『如来は死後存在する』とか
     『如来は死後存在しない』とか
     『如来は死後存在し、かつ、存在しない』とか
     『如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない』とかいうこと

 

■3■マールンクヤプッタは、上記のような見解がブッダによって自分に語られておらず、捨て置かれ拒絶されていると感じる。そして語ってくれるならブッダの元で清浄行を行い、語らないならば学ぶことを止めて還俗しようと心に決め、ブッダに近づいて敬礼すると、このことを尋ねた。ブッダは口を開く。

 

 

■4■ブッダは丁寧に1つずつ繰り返して話した後、見解ゆえに清浄行をなすのではない、見解の有無に係らず生老病死があり愁悲歎悩がある。私によって語られなかったことは、語られなかったものと憶持しなさい。そして語られたものは、語られたものと憶持しなさいと言う。マールンクヤプッタは喜んだ。

 

■5■この中に毒矢の喩えが出てくる。毒の塗られた矢によって射られた時、人は医者に見せようとする。しかし射られた者が、射た者の名や様々な特徴、弓や矢や弦や矢羽などの詳細を知らない限り矢を抜かないと主張すれば、この者は死ぬだろう。同様にブッダは語らず、マールンクヤプッタは死ぬだろう。

 

■6■だからこの経典は「毒矢の喩え」とか、「形而上学的な表現をしないと宣言したブッダ」とか言われたりもする。しかし龍樹は自らの『中論』(25・17)の中で、しかしこのマールンクヤプッタの10連フレーズのうちの最後の4行を、ブッダが語らなかった四句否定として、四苦分別を被せて語っている。

 

 ブッダが語らなかった四句否定

     「如来は死後存在する」
     「如来は死後存在しない」
     「如来は死後存在し、かつ、存在しない」
     「如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない」

 

 龍樹による四句分別

     「如来は事後存在する」のではない
     「如来は死後存在しない」のではない
     「如来は死後存在し、かつ、存在しない」ということはない
     「如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない」ということはない

 

 

■7■四句否定をまた否定する。『中論』にはこの形の四句分別が実に多い。ものは自らも生ぜず、他からも生ぜず、自他の両者からも生ぜず、無因(両者の無)からも生じない(2・2)と言ったり、本体についても、自己の本体、他の本体、存在(自と他)、非存在(両者の無)の全てを否定している(25・315)。

 

■8■龍樹は本体の論理と現象の論理の撞着を示す。名辞(見解・観念・形而上学的な表現)と現実存在とが一致しないということを明示するためだ。「不死の人間は美しくもなく美しくなくもない」という表現は矛盾なのか。不死の人間そのものが存在しないならば、西洋のロゴス論理でも立言できるだろう。

 

■9■「兎の角は鋭くもないし鋭くなくもない。」この立言が成り立つのもまた、兎の角が実在しない偽りの名辞だからである。そしてさらに半歩進んで言えば、実在する成員のない名辞として示しているのは兎の角だけではない。およそ一切の名辞というものは、全て実在する本体を持たぬ「空」なのである。

 

)「箭喩経」『マッジマ・ニカーヤ』第63経の邦訳テキストはネットのこのページで見ることができる。丁寧であるがゆえに語句の繰り返しが多く、現代的には冗長に思われるが、ブッダの思いがひしひしと伝わって来る。
http://manikana.la.coocan.jp/canon/malunkya.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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