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  • 2024.01.09 Tuesday
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日記のことを日記に記す日



■自らが狂気に陥らないために日記を書く人もいるらしい。どんなに遅くても酔っ払っていても、その日のうちに日記を書いてから眠るそうだ。理由は自分が狂い始めたら、それを自覚するため。もし狂ってしまったら、直前の自分を残しておくため。同じ日付の下に、定点観測よろしく、毎年日記を記録していく形式だとか。私は日記自体を意識したことはなかった。

■日記との付き合いはかなり古い。最初に書いたのは、小学校に上がる前だった。文字の練習かねてのひらがなで。それから小学校では、こんなことを今日は勉強したと、報告のような日記リポートを担任に見てもらっていた。当時からマンガはたくさん読んだが、言葉や漢字もずいぶん学んだ。小学校の時は、よくある「今日は何々をした」の羅列ばかりの絵日記だった。

■高校では好きな子に手紙を書けば文章がうまくなるといわれてせっせと自分の心を記録した。やがて交換日記なるものもやってみた。1日に何ページも書いていたが、確かに量は質の母となった。サッカーの試合分析や戦略も記録しながらやがて大学へ。詩人志願の連中の影響で詩作もどきもする。英国ロマン派詩人の研究なども合わさって、文学的ひねり回しも加わる。

■やがてマイナー作家としてマンガを描くが、その時は日記がネタ帳や創作ノートと不可分になる。そして某所で友人たちが宇宙人と交信し始め、超常現象を目の前で展開してくれるので、日記の内容も非日常的帯域にまで幅が広がる。波が去り、残った私はそれらが何だったのか分析し記録する。外の狂気を記録する時の内なる狂気と冷静の双眼を磨くべく改めて独学開始。

■ちょっと宇宙系っぽい文章もかなりのボリュームで残っている。他人にはほとんど見せない。こちらの方が日常の秘密日記よりさらに丸秘度高し。他者が見たら明らかに狂気。正気を保つ必要もないと知りつつ、パソコン通信を経てインターネットでの書き込みが始まる。ワープロだと肉筆と異なって疲れ知らずで、お筆先的な無推敲の脊髄反射的文章製作モードもある。

■かくして現在。思えば長いこと途切れもせずに日記をつけてきた。狂っているといえば狂っているし、超正常という言葉で未来とつなげてみようとしたりもする。日記とはまず自らのために書くものだ。未来の自分のために、そしてそれを書いている現在の自分のために。今日生きた証しとして、日々自らのDNAを書き換え続けているのかも。人生丸々走馬灯日記かな。

より曖昧な表現はより正確を期する



■「絶対に」「決して〜ない」「必ず」「全て」「あらゆる」「完全に」…。日常会話でこのような表現を使い過ぎるのはが、少しさつでデリカシーがないのではないだろうか。全体が見える視座から総合的に語ったり、論理的に正確を期しての表現であるよりは、むしろ単なる感情的強勢表現からくる断言口調であり、主観的で狭量な見識がすぐに透けて見えることが少なくない。

■口調が決定論的であるがゆえに柔軟性に乏しい。攻撃的だから議論しようとすると希薄な根拠の代わりとばかりに頑固濃度を濃密にする。これが進むと「人間は」とか「世界は」「宇宙は」「人生は」…などという言葉と共に用いて、個人的経験から来る浅薄な見識もしくは所感を、さも真理か箴言のように使ってしまう。ひとりよがりの王国の裸の王様だ国民はえせ王1人きり。

■「おそらく」「多分」「少なくとも」「やや」「いくらかは」…などという無数にある副詞的表現は、逆にあいまいなように受け取られがちだが、むしろ正確を期そうとするあまり用いられることも少なくない。多用しすぎると言葉の力積が加速度的に乗してアバウトな結果になってしまうが、少なくとも会話の内容と意識においては繊細さが感じられ、受容的でフレキシブルだ。

■もちろんどちらが良いとか好ましいという極論表現をしているのではない。コミュニケーションをより滑らかに転がしていくには、後者も現実に能動的に関与していこうと言う自らの価値観や視座を明示しなかったり、無意識的に責任回避性を感じさせたり、現実描写に力点があり過ぎて表現内容が不明確だったりなどと、色々とネガティブ要因をあげつらうこともできるだろう。

■しかしそのどちらかに偏り続ける必要はなく、どちらも用いて良いということ。ただしより意識的に。問題はその会話の場の雰囲気や全体性を見据えつつ、時には細やかな表現を用い、時には敢えて強勢的断言口調を使ったりしつつ、コミュニケーションという生き物を共に創っていくことだ。確定したハウトゥーはない。一寸先は未知。しかしそれを闇と見るか光輝を感じるか。

■刻々の生の軌跡の交流が調和的であれば創造的な方向を向きやすい。スポーツや舞踏や武道においても、バランス感覚は美しい。私たちの現実に対する平衡感覚もまた美しく感じる。願わくばまだ無言や静止や不可視の中にそれらを表現するのではなく、一連の動きや交差の中でトータルに調和しているような生き様の軌跡を残していきたいものだ。右脳も左脳も無能も使いつつ。

眠りの中で眠りを考える寝言



■翻訳作業モードへの移行がスムーズでなく、なかなかペースがつかめない。上京したりレクチャーをしたりすると、それまで淡々と続けてきた作業の空間を再構築することがたやすくない。誰でもそのようなことがあるものだという慰めの言葉に妥協して、自らの集中力のなさを正当化することは自戒したい。集中と弛緩。その無理なき移行は身体から、形から入ることも可だ。

■見よう見まね…というよりもただ見かけた色々なものを、いつの間にか自分の体内に取り込んだかのように、体を勝手に動かしてみる。両手を頭上に伸ばしたままつま先立ちで静止してみたり、宇宙空間でのガンダムよろしく四肢を振り回わす反動で思い通りの回転や静止をしてみる。ハタヨガや太極拳のようなポーズで動いたり揺れたりしてみる。体は自らを良く知っている。

■人間の身体はなんと緻密にできており、人間の意識はなんと繊細に動くことだろう。旧約聖書の中には人間が塵芥か石木のように扱われ、意思も自由もなく命を奪われていく場面が何度も出てくる。岩石や樹木にも意識や記憶があると考えるこの時代に、人間が確率や偶然のように自由意志とは別にその生命を地上から抹殺されることは耐え難い。相殺という言葉は嫌いである。

■人間は地球の癌であるとか、生命圏の寄生虫であるという発想は一目置こう。しかしそれを陳腐な常套句のように用いて人間全体を語り、地球の未来を憂いているかのように勘違いした薄っぺらな悲観論には、意義を唱える。知力に満ちた者が肉体労働させられたり、優しさあふれる者が知らぬうちに虐待の片棒を担がされたりする現実。しかし地球の最大の資源は人間なのだ。

■人間が人間を虐待するよう仕向ける人間。それをまた操る人間。すでに個々人の意識や生命ベクトルだけではない次元となだらかに繋がっている。そして構造を明確に提示はできないけれど、それは明らかに私自身の意識のどこかとも繋がっている。月並みな表現だが、自分の生き様を絶えず姿勢制御しながら、ローカルとグローバル、個と全体を考えそして感じながら進みたい。

■惰眠を貪るのも断眠を強いるのも、共に生命の本質や意味を知らぬまま迫害していることだ。そのあわいで自らの意思が未知の中を手探りながら選りすぐって進む中で、自らをもう少し目覚めさせておこうとする努力。音読したり、豆菓子を食べたり、伸びをしたり、整頓をしたり、猫を撫でたり、茶を飲んだり…。それでもモニターの前で落ちてしまう自らの意思よ強かれ。

氷上の天使群と銀河暦のスピン



■荒川静香やロシアのプルシェンコのフィギアスケートは他を圧倒した滑りだった。上位揃い踏みのエキシビジョンもまた圧巻だった。見るものを沈黙させ、鳥肌立たせ、そして曇りなき喜びを湧き上がらせる氷上の空間。ただその場にいあわせるだけでも、ただ見詰めるということだけでも、おのれの生命を励起させ、未来方向を指し示してくれる魂の舞いの慈悲に感謝。…美。

■「天使たちの群舞」などという喩えを古くさい文学的な表現だとずっと感じていた。しかしエキシビジョン最後の全員の演技をみて、ああ、天使たちの舞いとはこのようなものを言うのだろうと思った。選手らの常人には耐えられぬほどの練習と研鑽の集大成を、安直に天使が降りて来て舞うなどといわれるのは不本意だろう。しかし二心なくただ無防備にその輝きを称えたい。

■天使が降りてきて憑り移るのではなく、魂の中から自らの天使性を放射させ、誰の中にもある等質の天使性を眠りから覚ませ、本来の輝きを誘うような共振空間。日々ほとんど何の努力もせず、ただ無駄飯を食む石潰したるこの身をも、生命を輝かせるべく励起させ、おのれ自身の為すべきことに真正に対峙する勇気を与えてくれる存在と光景が、天使と恩寵でないはずがない。

■さて、thisisitでのメタトロン・レクチャー&プレイだが、静岡県よりはるばるいらしてくれたmiaさんには心から感謝したい。場があり、時があり、聞いてくれる人がいるからこそ、自らの中にある様々な考えやアイデアを毎月まとめるという作業ができるのだ。非力なおのれを元気付け、見守り、ヒントを与え、そして肯定してくれる全てのものに対して深く礼拝いたします。

■メタレクが終わったところに、私とグレゴリオ暦で同じ誕生日のタカ氏が来た。彼と話をしているうちに、今年のグレゴリオ暦の誕生日が自分の銀河の署名KIN:140黄色い惑星の太陽になるということを思い出した。これはどういうことかというと、260キンのツォルキンがこの日に65スピンするということだ。太陽太陰暦だと52年が巡り、銀河の還暦が訪れるということ。

■今年の念頭に、誕生日までに52年を整理し、為すべきことと為さなくても良いことをしっかり見極めておこうと決心したことをすっかり失念していた。子供の頃風呂に浸かって100まで数えたように、日々をデイキーピングして数え上げるということは、1日1日をおろそかにせず生きていくということだ。計算により導き出される数字だけではない、自分の日々を愛しめ。

コンパスと定規と猫とユーミンの昔話



■明日25日は名古屋は鶴舞でメタトロン・レクチャー&プレイだ。ほぼ毎月Thisisitというお店でやらせてもらっているが、当地で22回目、各地開催も含めると43回目ということになる。今回はオンライン・フライヤーにも書いたとおり「サークル・ゲノム」と題して、作図をしながら数字との関係を見ていこうと考えている。用いる道具は古代からのアイテム、コンパスと定規である。

■最近個人的には飛びぬけて評価の高い、ランダムハアス講談社発行のピュタゴラス・ブックス4冊は、惑星の運行、多面体ワールド、音の視覚化、そして数学的証明の美をそれぞれのジャンルで表現するとこうなりますというシンプルなまとめ方をしてくれているが、本質的にはほとんど全く同じことを言わんとしている。シンプルさと美しさ、そしてそれらを見る人間精神の形と未来形と。

■それこそ文字だけでは伝わりにくいものだが、コンパスで円を描くということ、円と円を重ねていくこと、円の中に円を入れ込むことなどの平面の操作でも面白さとシンプルさと整合性が見て取れる。そして正方形と円の1つ上次元の対応物としての正6面体と球体。この内接球、中接球、外接球の関係と、ベシカ・パイシスの数値の表れの対応などを、実際にコンパスを使って辿る作業だ。

■正直なところ、このように日々の記録のようなことをここに記してはいるが、実際はもっと数字や図形やイメージを組み合わせては転がしながら考えているので、それに近いものを記録したいのだが、いまのところその手書きの図形やそのクリーンナップされた画像や、いちいち確認するための数字の表などはネット上にさらすすべと時間がないのが残念だ。文字化されたものの共有性と限界と。

■そうそう、昨日の夕方炊飯器をセットして、それが炊けるまで散歩がてら近所をひとめぐり歩いてみたのだが、「海を見ていた午後」というカフェ・レストランがあったのでついふらふらと入ってみた。店の名前は知る人ぞ知るユーミンの昔の曲の名前である。横浜の山手にあるのだけれど、大学時代に友人たちとそのご当地ソングの舞台となった「ドルフィン」というお店に行ったことがある。

■ミーハーと言われればそれまでだが、八王子にあるユーミンの実家・荒井呉服店にも行ったことがある。もっともそちらは近所だったのだが。その店がまえを見て、四畳半ソングなどが流行っていたのにそのような匂いなぞ一切させない曲を書くのも納得できたものだった。ちなみに実家は江ノ島の近くで、別の曲に出てくるゴッディスというサーフショップの前も昔はよく歩いていたものだ。

■昔話は置いといて、近所のカフェレストランに戻ろう。お店に入ると案の定というか、ユーミンの新曲が流れていた。ずっとユーミンの曲ばかりかかっているのだろう。メニューにも曲のタイトルがちらほら散見できる。そのメニューに夕食500円と書いてあった。今日は肉ジャガと春雨。えっ、コーヒーもついてこの値段?た、食べなきゃっ、と注文。炊飯器はもう炊き上がった頃なのに。

■…ということで、家に戻ってから夜遅くにまた食事を取った(しかもまたカレー)のだが、またいつかは雇用と思った店だった。ユーミン嫌いじゃないし。…もっともずっと絶えず聞き続けるのは勘弁だけれど。家に戻る途中に、毛並みのよさげな猫が待ち伏せしてて、近寄ってきた。ああ、いけない猫マンガの元画像の一部をナチュスピに仮送りしなくては。ああ、隣で猫がうんちをしている…。

猫たちと馴染む穏やかな春の日差し



■昨日は2月22日でネコの日だったらしい。毎日が何らかの聖人の日であるキリスト教の暦のように、日本でも365日全てがナントカの日と決まっているらしいが、そのネコの日に東京は銀座にあるナチュラルスピリット社に出向いた。『超ねこ理論』というタイトルで出版することになった、以前からネットで発表していた「ねこまんが」の打ち合わせのためだ。巷は晴天良好日なり。

■詳細は省くが、どうも上下2分冊にして出し、そのうちの1冊目は4月いっぱい間で荷は発行の運びになるらしい。当方のねこまんがに関しては、ネット上では英語バージョンを製作するとか、DVDにして別売するとか、いろいろな企画が去年末にはあったが、今年になってからは「エノクの鍵」翻訳の荒訳漬けの日々で休止していた。また新作や新企画も発表していきたいものである。

■その後、夕刻から辻麻里子氏の「太陽の国へ」の出版記念パーティーに参加させてもらった。さすがナチュスピ系のというべきか、個性が強烈に豊かな方々ばかりだった。尋常ではない人というのは世の中に少なからずいる。悪しき方向にヘンな人は多々あれど明るい未来方向に半歩以上抜けている人というのも、いるところにはいるものだ。あるがままでいれるのが楽ちんで嬉しいです。

■皆さん酒豪。付いていくのがやっとの私は新幹線の最終をパスし、神奈川は藤沢の実家に深夜過ぎて戻ることも断念。果ては再び編集部に戻って仮眠させてもらい、明けて今日の新幹線で名古屋に戻ってきた。新幹線に乗る前に、穏やかに明るい日差しに誘われて有楽町から東京まで歩いてみた。行き交う人波の中で、すれ違う人たちの顔を眺めてみた。心なしか皆幸せそうに見えるのだ。

■心の中で考えてみた、「声に出さない幸福の呪文」。足早のOLに「こんにちわ」。不安げな面持ちの会社員に「大丈夫」。試験前らしい女子高生に「頑張って」。老犬と散歩する老夫婦には「健やかに」。言葉にすると異なるけれど、口に出さずに心で唱えればその発する振動は同じ。心臓あたりからそんな挨拶振動を放射する度にこちらの方が幸せを感じ、至福感が臨界領域にまで達する。

■袖すら触れ合わぬ人たちにすれ違いざまに「声に出さない幸福の呪文」。他生に残さぬ今生における瞬時の縁。脳内に快楽物質が少しだけ多すぎる感じがする。そこにその人が通りすがってくれることへの感謝。発することで幸福感じる呪文。でも心の内が幸福じゃなければ、発することができない呪文…。という二元論的パラドクスや、因果の観念ループからするりと抜け出してまず実行。

■光がすすぐ大通りの交差点。信号が変わって交じり合う人波の中で、外界世界が自らの内世界のメビウスな映し鏡ならば、「声に出さない幸福の呪文」はまず自分自身への挨拶であろうと考える。無限ループの罠ではなくて、黄金螺旋のように絶えず開き行くこの命の空間。私とあなたという垣根を健やかに超え行くために、居住まいを正して今ここで「声に出さない幸福の呪文」を口にする。

■みんな、健やかに。みんな、軽やかに。…そうキーを叩きながら悦に入りかけた時、2匹の猫がキーボードの上に肉球を乗せてきた。妄想に落ちてはならぬという警告だろうかと思っても見たけれど、単に遊んでほしいだけらしい。すんでのところでこの猫が観念の落とし穴のへりで現実に立ち戻らせてくれた。かくして改めて打ち直すのである。みんな、健やかに。みんな、軽やかに…。

遺伝子操作・クローン・サイボーグ・ロボット・私



■「花の命は短くて…」と昔はあらゆる花を惜しんでいたけれど、現今ではそれが遺伝子操作されたものなのか、クローンなのか、様々な工学的加工をされた植物サイボーグなのか、それとも精巧なイミテーションなのかなどと確認しなくてはならなくなってきた。いやすでにそんなことをのんきに言って事足りる時代ですらなくなってきている。花ではなく、実験動物でもなく、一足飛びに「人間」についても考えなくてはならなくなりつつあるご時世だ。

■倫理的規制とか人間としての尊厳といってみたところで、眼前に自らクローンや遺伝子操作によって生まれたという「人間」が表れたらどうアクションするだろう?SFドラマなどにあるように差別し蔑んだり、忌み嫌ったりするかというと、私は絶対にそうはしたくないし、しないだろう。いかなる物理的物質的経緯から生まれたにしても、すでに生まれた命であり、今目の前にいるのであれば、それを生きとし生けるものとして慈しみの思いで接し、共にこの世界をより豊かに美しく見詰めて行きたい。

■もちろん何でもありで全てOKなどと言うのではない。生命倫理や個体の尊厳や種としての危機など様々な問題があり、それが拡大しないよう生命の水で食い止める努力は必要である。ろくに考えもせずそれらに努める者に対してはとてつもない不快感を感じる。しかしそれでもすでに生まれてきた者に対しては、決して悪意や否定性や異物としての偏見を持つつもりはない。

■人間は異星人もしくは異次元人によって創造された、もしくは遺伝子操作されて改創された存在であるという世界観がある。私は1つのパラレルかつパラブルな文脈としては否定しない。そのコンテクストで敢えて言うならば、今遺伝子操作やバイオ工学などで人間もしくはそのようなものを実験的にもしくは好奇心によって作ろうとしている者、作ってしまった者は、その昔も同じようなことをしていた者であり、作る者かつ作られる者というループにはまっていると私は勝手に考えている。

■自分の欲望や好奇心の満足のために他の生命を弄ぶ者に生命共振しようとは思わない。多分人間であれば、その生き様を切り捨てることなく、共感しようとすることも不可能ではないだろうが、どうせならもっと異なる未知なるものに共振共鳴していきたい。それにしても世の中、だんだん不細工な生き様に気づかないのは当人だけになってきている気がする。自らの不様さにはよーく気をつけよう。

■生命が至上のものであり、その活動を奪うことは絶対に許されないという内からの想いは好ましい。しかし自分の外にある権威に依存した様々な原理主義的な戒律として、とにもかくにも自分が納得しようがしまいが生命を絶つ行為は許しがたいという思考と感情を私は諸手を上げては肯首しない。絶対的という表現は絶対ではないし、絶対であったら、絶対という評価は不要だし不適切だ。

■命あるものもなきものも大切にしたい。ロボットでも石でも机でも。そして自分でもあり、いまだ自分ではない自分の総体に敬意を持ち、信頼しながらこの3次元の人間型ゲシュタルトを楽しみたい。耽ることは楽しむことではない。苦痛と快楽を相殺してもなお、静かなそして確実な幸福感が通奏低音として意識されるのは、単なる異常を超えて未知なる未来につながっているとここで宣言しても罰は当たるまい。

■Happy?

2012年のサッカーボールも20-12面体系かな



■明日は「超ねこ理論」の打ち合わせと辻さんの出版記念パーティーに参加するために上京する予定。しかしその裏でジーコジャパンvsインド代表戦があることに気づき、見れないだろうと残念がる。ジェフ千葉監督のオシムのことを書いた「オシムの言葉」という本を読んで、サッカーが人生と哲学と切り離せないオシムの魅力に、久しぶりに感動した。「風の谷のナウシカ」全7巻を読むたびに落涙を禁じえないが、この本もまた心揺さぶられて涙が止まらない。

■このオシムは家族のためにプロサッカー選手になったが、そうでなければ大学で数学を極めようと考えていたとのことだ。今でもフィールド上の選手とボールの動きや力学を、優秀な数学的頭脳で進化させて好評を得ているに違いない。サッカーは立体幾何学でもあると感じたのは、まだJリーグ設立したばかりの頃だった。MFのボールが選手の動きとぴったり納まる様は、時間と空間と身体の関係を心身で把握しているからに違いない。

■これは自分でもサッカーをやっていた頃の身体記憶からも事実だと考えている。私は高校大学と5年間弱、サッカーに熱中していた。ホジションはGKからCFまでいろいろと。この期間のおかげ自分の身体的健康度には一生自信が持てているし、身体の平衡感覚と流動性を観念だけからでなく考えることができていると思う。おかげで一生美しいスポーツとしてのサッカーは大好きだが、実はそれ以前は健康とは言い切れないこともだったのだ。

■中学生の時までは運動に関しては苦手だった。高校に入った時、虚弱体質気味の自分を鍛え直すためにサッカー部に入った。案の定、同級の連中が体育会系のハードな練習に根をあげて次々に止めていった。私はやめたら人生負けだと自己定義して日々を生き残った。歯を食いしばってとか、死ぬ気で頑張るとか言う表現の示す、ただの言葉でない世界をこの身体は記憶している。おかげで喫煙の悪癖に手を染める暇もなかった。

■小学校に入る前までは喘息持ちで、毎夜毎夜が次元の境目、生き死に峠の登り下りだった。深夜1人で目が覚めて、息ができないこのままで死ぬとは何かを考えるのではなく、半ば味わっていた。天井の木目がゆっくり蠢く幽霊に見え、障子度に映る風に揺らぐ樹木の陰が小躍りする妖怪に思えた。その後もずっと金縛りとして残っていた。今はもうない。

■中学生の頃までは、放課後の掃除が嫌な時などに、気持ちが悪いと想えば本当に体調が悪くなっていた。不快に思えるものごとに係わりたくない時は、いでも自分は気分が良くないと思い込むことで、いつでも体調を悪くすることができた。ある時思った。悪くできるのであれば、思い込みで良くもできるのではないか?試してみたらできそうだった。

■高校に入る前から、その年からサッカーをしようと決めていた。絶対に途中で根を上げることなく行こうと考えていた。実際に思い込みはある程度までは効果があるが、生き死にに係わりそうな疲労や苦痛には、むしろその時の意識をいかに強く保つかが重要だと体側から教わった。大学の2年の時にそのクラブをやめたのは、あまりにも弱くて話にならなかったからだ。意味があるのか不可抗力か、とにかく体育会系のみではなくなった。

■明日のインド戦から自らの幼少期の虚弱性に話が飛んでしまったが、2012年12月20日には、翌日のことを考えつつ、サッカーボールの切頭20面体の形(プラトン立体の正12面体と正20面体の系から派生した、5重対称性を有するアルキメデス立体である)はそのままなのだろうかソリニアルな表現でその時を越えてもサッカーは存在しているのか、ワールドカップはあるのか。いろいろと気にはなる。

南米でも喜び転がるや綿棒多面体



■以前にテラバイトの相方をやってもらったこともある「共振の旅人」氏が、南米で現地の人たちに綿棒多面体製作を教えているとmixiに投稿があった。喜びはしゃぐ子供たちの画像も見ることができる。日本から製作用具を携えて旅立とうとした時、空港でペーセメは取り上げられてしまい、大量の綿棒だけを抱えての現地入りだったとか。接着剤の代用品は見つけられたのだろうか。

■日本でもやりたいけれどまだちょっと…と、興味がありつつ綿棒多面体製作の楽しみを実際に味わっていない人もいると思われるが、決して裕福ではない南米の子供たちや青年が、先にその面白さを体験してしまっている。時間や空間の交錯は多々感じるが、必ずしも何でもあり何でもできるように思われる日本にいるから、何でも幸せだというわけではないことの映し絵に思えた。

■別に多面体の美しさを知らなくても人生ほかにもたくさん素晴らしいことはあるけれど、個人的には写真の中で笑顔を見せている子供の瞬間的断面ではあれ、楽しさと好奇心、美しさと不思議さなどを見て取るにつけ、やはりなによりも凄いのはわざわざ物理的に現地まで行き、現地の言葉と優しい想いでそれを実際にやってくれた人間の存在に一番心を動かされる。

■決して聖人君主のような非の打ち所のない慈悲の塊というわけではなく、一見ちょっと変わってはいるかもしれないが普通に見える青年の企画力と行動力がなければ、このようなことは夢の中ですら思いつかない。もちろんだからといって、みんなも海外に出て現地の人たちと触れ合うのがいいとか、多面体を製作すべきであるなどと言っているのではない。

■それぞれ自分のいるべきところで為すべきことをちゃんとやるよう心掛けたいということだ。私は今この机の前で頭の中にあることを纏め上げ、それが拙いものであってもちゃんと形にして提示する努力を続けたい。それが私なりの「共振の旅人」氏へのレスポンスだと自認して。街中のノラ猫と異国の少年とイデア界の多面体と自分自身との確実なつながりを見詰めつつ。

■ところで彼はかつて中南米と南米の三大美人国としての3Cをあげていた。チリ、コロンビア、キューバ…だったっけ。人間はこのように3つ(もしくは4つ)のものをひとまとめにして提示することが多い。例えば「学生の関心事はまず3Sだ」と言ってから「つまりスタディ、スポーツ、セックス」と説明すれば、何も新しいことを言っていなくても記憶の中には残る。

■討論や解説の場などでも、まず最初に「そこには3つの問題点があります」と言っておいて、それから3つのことを考えながら一つ一つ話していったりするタクティクスはよくあるらしい。サッカーの試合のハーフタイムなどでも、昔OBで後輩の試合を見に行ってコーチングとしてコメントする時、3つの問題点をあげたりする。1つだけでは少なすぎ、4つでは多すぎて覚えきれない。

■南米の某国で日々生活をしている「共振の旅人」氏の視座、ここでモニター越しにそれを知りコメントする私の視座。そしてネット環境ではそれを第3の視座から見て取れる多数の人たち。それを想定して書く私は、その第3の視座に立つこともできるというネットのありがたさ。これは他の友人知人に対しても同じで、この立ち上がった3角形をまたネット上につなぎ、三角測量のようにしてもう1つ上の視座に辿り着くこともできる。日々の一見他者には無意味以下の日常の草々をつづりあうことによっても。メタ・ポリゴン。

黒猫が目の前を横切る幸せ



■猫にもいろんな視覚的種類がある。白いのやキジ猫や三毛、ニ毛、チャトラ、灰色から黄色から、昔の永井豪のマンガに出てきたあしゅら男爵(…知っている人とは、マンガの話でも酒飲みながらしてみたい)みたいに非対称でムチャクチャ模様まで固体識別には事欠かない。しかし最近は巷に黒猫の比率が僅かに増えているような気がする。あくまでも気がするだけだけれど、本当かも知れない。

■この黒猫ってやつは、昔から不吉がられたりしてかなり長いこと不遇の時代を通過してきたようだ。特に西洋では。前世紀末まではまだその残滓が残っていたが、昨今では「黒猫ってのは不吉なんだよね」と平然と言い放つ人はあまり身の回りにはいない。ペットブームとか、虐待禁止の法律整備とか、いろいろあるのだろうけれど、人間が(日本人がか)優しくなってきているのかも知れない。

■ところで黒猫を見ただけで、全部同じに見えるのではなく、よくよく観察するとそれぞれとても特徴のある造作をしているのが分かる。性格などは言うまでもない。背後や真横のロングなどでは固体識別は難しいが、その歩き方やひげの長さで分かる人もいる。正面顔のアップなら数十匹ほどの認識ができると平気で言い放つようになったら、すでに脳内にあるという猫空間が広大無辺人なのだ。

■ウチの近所の大きな駐車場にも、よく出没する黒猫がいる。去年の秋に生まれた兄弟の生き残りであろう2匹だ。いつも一緒にいるノラ猫だ。慎重でいつもびくびくしている真っ黒な方をトッティ、胸とお腹に少しだけ白い毛がお洒落っぽく入っている黒猫をロナウジーニョと名づけた。名づけられた方は知る由もないだろうが、彼らについての目撃情報の交換などには名前は不可欠である。

■今日も散歩の出かけしなに、トッティがぽつんと座っているのを見かけた。一匹きりだった。もう生後半年近くにはなるだろう。まだ仔猫なのだがノラの逞しさと、そして当方の過激な思い込みからそうも見えるのだろうが、どこか哀愁を醸し出していた。飼い猫には飼い猫の幸せがあり、ノラにはノラの幸せがある。それにしてもちゃんと食べているのだろうか。その媚びぬ目が心に残った。

■猫に対してこれだけ一方的ながら感情移入するのであれば、通りすがりの人にも同じように愛情や胸の温かさを感じることができるのだろうか。観念ではなく、実際に自らの体と頭の中をトレースしてみた。信号待ちしている老人、自転車で追い越していった女の子、コンビニのカウンターに立っている若者。自分がなくなる感覚がする。それでは少し違うのだが、それでもまあ胸は温かい。

■家に戻ると黒猫のデルピエ郎が擦り寄ってきた。エサがないのか?キャットフードをやってもさして食べない。ウサギの毛皮で作った、猫の玩具であるチューチューねずみをくわえて持ってきた。最近のブームはこのねずみを5メートルくらいはなれたところから投げてもらい、それをキャッチしたり弾いたりする遊びである。フリスビーの犬のようである。ハイジャンプは天才GKのよう。

■ネット上にも様々な黒猫が紹介されている。本当にいろいろな黒猫がいる。去年行った湯布院のお店にも、宮崎駿のアニメ映画「魔女の宅急便」に出ていたジジという黒猫のぬいぐるみがたくさんあった。そう言えば私も昔から黒猫トーニャスというキャラを持っている。猫は好きだが、猫可愛がりはしない。人と猫との距離感はケースバイケースでみな違うけれど、私は距離感はいらない。

■猫についてはこれからも多々独白させてもらうことにしよう。

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