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  • 2024.01.09 Tuesday
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あくび空 重ね言葉の スポーツ紙



■早朝に通勤電車に乗っていると、混雑した車中でも日課のようにスポーツ紙を読む人たちがいる。普段の私は名古屋特有の文化らしい喫茶店モーニングを食しながら、サッカー情報を得るためにスポーツ新聞各紙を読むけのだれど、電車の中にいると何か昨日の試合結果が気にもなる。中年男性が目の前でガサガサと紙面をひっくり返す。めくれた紙面の記事がいやでも目に入る。

■スポーツ各紙トップの馬鹿でかいツカみ文字には相変わらず閉口させられるが、それでも言葉遊びの異様なきらめきには時々驚かされる。ジーコジャパンの国内組FWの2トップを、久保竜彦の竜と玉田の玉をとって「ドラゴンボール」と呼ぶかと思えば、最終回の表で2点入れられるがその裏で3点取って逆転勝利した高校野球で転を点として「2点3点した」試合と表現する。

■このスタイルがいつ頃から確定したのかは知らないが、この独特なダジャレセンスは面白い。その昔、私の大学受験勉強の頃、毎日スポーツ新聞を読んでいた時期があった。ストレス解消のためと思って母親が一般紙と共に購読してくれたためだ。今思っても妙な気配りだと思うけれど。その頃のはまだこの独特な言葉重ねのセンスがなく、記事はもう少し泥臭かったと記憶する。

■日本語の幅広さと多様性は実に多くの重ね技を可能にする。数字の並びをゴロ合わせだけで覚えようとするのも、これだけ多くの読み方ができるからだろう。しかも同じ音で沢山の異なった意味と漢字にも対応している。日本語とはなんと言葉遊びの奥行きが広い言語だろう。落語や駄洒落や言葉遊びと共に、言霊を用いるスピリットすらも搭載していている日本人とその日本語。

■昨今のスポーツ紙の記事の中には、その言葉重ねの見事な味わいに「うまいっ!」と唸ることが少なくない。そこでこれもまた私が齢をとっためにその親父ギャグ的な言語センスに馴染んできたからではないかと自問してみた。しかしもし万が一そうだとしても自らの加齢に対する悲哀をではなく、言葉廻りにおける多重深度の含蓄を、賞味できるようになったと素直に喜びたい。

■駅売りのスポーツ紙には欠かせない(?)エッチ紙面は愛嬌であるとして、実は朝の通勤電車などの中でスポーツ紙を読み耽っている男性諸氏は日本語センス構築の一翼を下から支えているのかも知れないなどとも妄想してみる。まあすぐ隣りに妙齢な女性がいるのに、平気でピンク系の紙面を眺めているオヤジさんはプチセクハラ状態の自覚を持って欲しいと思いもするけれど。

■現在もスポーツ紙は決して一流のメディア媒体ではなく、かつてのマンガが被っていたような大衆的サブカルチャー的な情報媒体の扱いを受けていると考えられるけれど、それでもその言葉遊びの感覚を楽しもう。頑張れ日本語を使う人たち。頑張れスポーツ記者たち。電車は揺れる。電車の振動はなぜかくも眠気を誘うのか。窓外は花冷え降るやあくび空。おや霙が落ちてきた。

五分桜驚かさるるや千切れ雪



■弘法筆を選ばず。しかしとりあえず筆はいる。コンパスと定規。この2つは幾何学の最初のアイテムであり、世界創造の神もこの2つの道具を持って天地創造をしたものと考えられている。神はコンパスを選ばず。自らの親指と人差し指をコンパスと為し、自らの身体を定規として世界を創出したのではないか。もちろんこれは喩え話だが暗喩のみに留まらない真実も含まれている。

■今日はこれから1人で、コンパスで描く円同士の接と重の関係の中に世界との対応を見る「サークルゲノム」遊びをする。強制ではなく自由意志で自らの手で描く面白さを味わい、その円の美しさを楽しみたい。惑星周期の数字的比率や音楽的倍音構造などを視覚化することで両脳的に回転とその軌跡を眺めては、実際のデータと照らし合わせて、その比率の微妙なずれに感心する。

■脳内で好奇心とターゲットがカーチェイスする時、周囲の迷惑や自分の全体的時間とのバランスを考えずに暴走するのは控えよう。観念だけでリアリティと思い込み、実際に淡々と為すべきことをこなしている人のことを失念することのないようにしよう。その上でどこまでも自らを駆り立てる美しさをトレースしよう。わが本懐がその先にあるのならば、未知よどうぞ導きたまえ。

■表現は表現すること自体によって、表現するものとされるものとの分離を生じさせる。表現した途端、それは表現したかった本質との分離によって急速に腐敗しゆてく。その分断なき表現とは、ただ意識的に生きるということと表現とが同じものになればよいのだ。自らの生き様がひとりよがりでなければそれは他者にもおのずと伝わりゆく。自然と芸術が生きることで1つとなる。

■楽しい時はすぐに過ぎてしまい、苦しい時はいつまでも続くように長く感じる…という、物理時間と異なる生命時間の感覚表現がある。しかしいい加減にその古くさい表現に固定される必要がないことを知るのもいいことではないか。楽しい時間もずっと長く続くし、苦しい時はすぐに過ぎ去るという感覚もあり得るということ。惰性のままが楽だからという不変は世界を狭くする。

■為すべきこと。niftyのHP容量が追加料金を払っていたけれど、安くて大量のlacoocanにコピーサイトを作ったので、nifty側に置いてあるけれどアクセス数が少ないと思われるものをlacoocanのみにして、トップページからのリンクを変える作業を早々にしなくては。それとネコマンガや未アップのマンガ画像なども全て入れてもまだまだ余裕があるはず。HP改造は大変だが必須。

)五分桜驚かさるるや千切れ雪… たかしっち氏が遊びに来て、近所のネパール料理店でカレーを喰ったこの日の昼、中東からトルコにかけて皆既日食が起こるからか、天候は晴れ、雨、雪、風など激変した。名古屋では花も5分咲きほどだが、その上にも霙が舞った。(20060329)

暗き夜に桜散らすな春の風



■「暗き夜に桜散らすな春の風」この句かこれによく似た句を作ったのは高校時代のクラスメートだった。2年が終わり3年になる前の春休み。私はサッカー部の合宿だったのだけれど、友人達は新聞部、サッカー部、園芸部、文芸部など、3階建てのクラブハウスの自分の部室に寝泊りしていた。彼らは恋愛詩を書いたり、憧れの娘の練習姿を窓越しに見たりして日々を過ごしていた。

■近くに桜が満開の墓地があり、深夜にそこを歩いた。全ての立木が桜の山を夜歩いて登りもした。夜桜は狂気を招くかのように美しかった。文芸の腕を上げるためにと恋愛を始めてはまり込んだ友人もいれば、桜の山道を誘い彷徨うように手を繋ぎ歩いた女の子もいた。後ろ向きの憧憬や感傷ではないけれど、それでもその時に胸に染み入ったまま絶えぬ響きは今の私を形成している。

■先日まだ花の蕾がわずかに開きかけているだけの上野公園を夜歩いてみた。少し赤みの濃い彼岸桜だけが見事に咲いていた。桜の木の下には屍体が埋まっていると言ったのは梶井基次郎だったか。満開の桜の木たちは確かに何らかの不安すら招くほど爛漫たる雰囲気を放射するけれど、未だ咲きほぐれてはおらぬ枝々を見上げつつ記憶の中の胸の響きが蘇ったのはなぜなのだろう。春。

■人間の顔には造作・人相・表情の3次元もしくはタイムスパンの異なる3層を見て取ることができる。遺伝的要因が大きい造作は身体的特徴と共に、ある意味今生そのものと被るけれど、人相は生き様の力積でもあるわけだから、性根や生のベクトルの変化によっても変わりうる。表情はそれらをベースにはするが瞬間瞬間に変化する。私たちはそれを分離としてではなく同時に見る。

■さらにはオーラや波動色や雰囲気の振動形態など超視覚的なビジュアライゼーションとして物事を見る異能者も少なからずいるけれど、そのような視力を持たなくても爆発的に花を咲かせ、短期間で潔く散っていく桜の花には、根元に屍体が埋まっていなくても、周囲に何か尋常ではないエネルギーを放出しているのは間違いない。狂気・毒気と取る者もいれば至福と解する者もいる。

■今年もまたもうすぐ桜の花が咲く。狂気の者はその時くらいは正気に戻り、邪悪な自己の心に苛まれている者はそれを忘れ、想い届かず胸の苦しき者は花の恩寵に実を委ねて笑い、金のなき者はその樹の根元で眠って豊かな夢を見て、忙しき者はしばし風と花の戯れに脳波をあわせて弛緩し、そして穏やかで心根豊かな者は周囲と世界の更なる幸せの祈りを放射して欲しいと夢想する。

■一番好きな季節。光あれ。誰の胸にも、命にも。

)なお今日は新月。また新しいスタートだ。

52年と52日と52の智慧の重なり



■銀河の還暦。これはマヤ的時間の概念と世界観をベースにしたドリームスペルというゲームにも関係のある概念だ。神聖暦ツォルキン260日と農耕暦ハアブ365日それぞれに名前があって、その順列組み合わせを全て巡るとちょうど52年の全ての日が異なった名前でキャラクタライズできる。そして52年めの誕生日にようやく自分の太陽の紋章が再訪することになっているのだ。

■私にとっては、今年の5月18日のキン140:黄色い惑星の太陽がその日に相当する。そしてその52年目の日のちょうど52日前が3月28日というわけだ。この日からの1日1日が、私の内部ではこれまでの1年1年に相当させて見て取ることができるのである。占星術では1年1日法というものがある。また神仏の1日は人間の1年という表現もある。52=13×4=26×2。

■52枚はトランプの枚数であり、52鍵は現代ピアノの白鍵の数でもある。なおピアノの黒鍵は36鍵で合わせて全天の星座の数88となる。88日となれば水星の公転周期でもあるが、ピアノの最左端のキーの振動数は27.5ヘルツで、月の自転・公転周期27.3日に近くて怪しい。月と地球の直径比はほぼ3:11だが、3/11はほぼ27.3%となり、同じ数値が出てくる。

■ちなみにこのキーの半音ずつあがる12音階平均律では、すぐ前の音の振動数に2の12乗根、つまり約1.0594631を掛けた音高になっている。最初の音に52回掛けた音は31度上音で、振動数は基音のほぼ20倍になる。1年が52週+1日なのは言うまでもない。釈尊の入滅時に集まって悲しんだという鳥獣虫魚の種類も52種だ。この時に猫は遅刻してしまったのだけれど。

■せっかくの銀河の還暦ネタなので、居直って数オタクしてしまおう。人間が生まれてから27年と3ヶ月と18日過ぎると、その間に月は365回地球を回る。つまり太陽と月が地球を介して位置の交換をするわけだが、それに要する日数が10000と1日なのである。銀河の還暦の後、さらに2年と7ヶ月と1週間が過ぎるとねようやく生後20000日となる。一生は少ない数だ。

■惑星歳差周期の26000年に対応させるべく1年1日法的に考えるとして、人間が26000日生きるということは71年と2ヶ月と1週間地上に存在するということだ。71歳とちょっととは日本人の平均寿命に近いけれど、これを短いと見るか長いと考えるかは個々人の人生観や世界観によってさまざまであろう。1日1日を1年1年と等価に生きるならば遥かに永い人生なれど。

■輪廻転生はあると言う人と、人生は1度きりと見る人がいるけれど、どうしてそれらが対立していると考えるのだろう。太陽系も銀河も周期的に回っているけれど、それでも同じところにいるわけではない。同じであり異なってもいる。4値論理では当然のことなのだけれどなあ。日々刻々が2012年12月21日だと表現しても、それが実感を伴わねばただのメタファーに過ぎぬのか。

暑さ寒さも過去も未来もみな彼岸まで



■日本のプロ野球はすでにパ・リーグ開幕となり来週にはセ・リーグも開幕を迎えるので、これまたすでに遅きに失した話題ではあるが、春のお彼岸テラバイトの最中に2次リーグ敗退という絶対的ながけっぷちから奇跡的にベスト4へ抜け出し、3度目の正直で韓国を下して最初の世界一になったワールドベースボールクラシックの中に、暦使いは反応してしまう数的符合が見て取れた。

■予選から通じてのイチローの公式記録打率は、全試合で33打数12安打で打率が3割6分4厘、つまり364×0.001である。計算すれば0.363936…だが、打率は厘まで出すので四捨五入して0.364となる。そして翌日の新聞に載っていたこのWBCの経済効果は364億円であるとの試算数値。こっちは364×1億だが、それに目を引かれた人間は少ないだろう。

■これは別にだからWBCがどうとか、イチローがこうとかいう話ではない。ただ数的シンクロニシティが多発するようになったという人は、それまで注意を向けなかったものに注意を向けることによって、自分に意味や関心のある数に目が向き、それに気づくということ。それは他者にはあまり意味がない。しかし全くないと断言できるかというとこれまた逆に自信がなくなってしまう。

■春のお彼岸テラバイト期間中に、ヒビが入っていた湯飲み茶碗が1個自然に割れた。金属疲労ならぬ陶器疲労であろう。客用に階上の戸棚から出してきた同じ形の湯飲み茶碗は50個あったが、お彼岸中は49個で通すことになったわけだ。そして終了時に元に戻すべく3階の戸棚に入れようとすると無傷の茶碗が1個潜んでいた。全部でまた50個。50に纏わるプチ怪奇現象である。

■確かに真っ二つに割れた湯飲み茶碗は、すでに前々日に不燃ごみで出してしまっていたが、数年前に確かに50個まとめて買いに行ったもので、割れていない同じ形のものは49個しかないはずなのにである。お寺の奥さんに言っても忙しいのでああそうとしかリアクションがない。これによって私の人生観が変わるものでもなく、むしろ今となっては勘違いのバリエーション探し中だ。

■他者にこの話をしても、まず私の誠実さや記憶力を疑うか、「まあそういうこともあるよね」で済まされてしまうだろう。逆の立場でも然りだ。人間の記憶はその時点から離れていくと記憶すら曖昧度を増し、自らの創出した記憶との区別がつきにくくなる一方である。このようなことも数値の一致に目が止まるのと同じように、注意深くあれば少なからず意識の網に掛るものであろう。

■お寺の中だからだろう、お客にお茶を入れながら「果は因の因なり」というフレーズが頭をかすめた。仏や霊が私の頭にそれを流し込んだなどという表現は好きではないので、私はそれを今は採用しない。それに呼応して私は「因は果の果なり」と口にした。原因と結果という線的で二元論的な認識を、仏教では因果倶二と言ってこの瞬間に共に併せ持つと言う。話はその先の4値論理。

■結果はその原因のさらなる原因になる。原因はその結果のさらなる結果になる。…実際どうでもいいような話とも思えるし、私も特別重要だとは思っていない。ほかにもっと重要視していることはたくさんある。ただあらゆるものがすべて共時性を有していつつ、しかもそれ以上に私たちの通常の時間認識を超えて連結しあっているのであろうと直観的に腑に落ちる日々の諸事ではある。

次元幾何学研究会春の例会の追想メモ



■東京から8日ぶりに戻り、昨日は鶴舞でメタトロンレクチャーをこなし、今日はようやく通常生活に戻ることができた。もっとも通常生活が普通の生活かどうかはまた別の話ではあるけれど、あえて自己ツッコミはすまい。さて遅きに失した感は否めないが、先日の次元幾何学研究会の春の例会について記しておこう。参加者は当方の予想を大きく上回って総勢20人。感謝の極みだ。

■テラバイト終了後、待ち合わせ指定場所である上野警察署横のドトールコーヒー店に行ってみると、すぐに人々が参集してくる。初見者の人も少なくないまま、広くない1階フロアーの座席は埋まっていった。横に長い席なので話しにくいことしきり。とりあえずショート自己紹介をしてもらいつつ、全体の顔を把握する。その後まだあてのないままコーヒー店を出て空間移動を開始。

■少人数なら流れに任せてふらりと飲み屋で話しをして…などと甘く考えていた私は、全体を仕切る能力もないまま、とりあえず駅前の飲み屋ビル4階受付で20人予約をする。段取りの悪さから寒風すさぶ路上に15分以上立ち尽くさせてしまい、心苦しいばかりであった。さていよいよ入店すると、席は大きく2つのテーブルに分かれていた。着席し乾杯すると三々五々話を始める。

■全体を統括した話ができないので、各自で席のシャッフルをしてくれるようにと話してからは、各所分極的話題交錯に任せてしまうことにした。幸いにもあちこちでの話題が盛り上がっているようで、当方の見落としでなければ、ぽつんと1人つまらなそうな人は見当たらなかった。心配したりしすぎるよりは、参加者各自を信頼して、爆裂する話題群も知らぬまま自分も飲むことに。

■次元幾何学とはそもそも何か?と問われたとしても、それはまだ未確定なものであり、今もそれぞれが構築中のものだという答え方しかできないけれど、数理や幾何や天文や音楽、言語や身体や暦日や古代文明など様々なジャンルでいまだバラバラなものたちを1つのパースペクティブで異にして同なものとして語るための共通言語や世界観を創出しゆく運動自体だと言いたいものだ。

■あちこちで同時多発的に展開していた参加者の話題を全て知りたいと思いつつ1つたりとも把握できぬまま、元々頼りない私の意識の明晰度はアルコール濃度の高まりと反比例して低下していき、やがて散会すべきシンデレラタイムとあいなってしまった。個人的嗜好によって「混乱のままで申し訳ない」より「参集してくれてありがとう」という挨拶を選択する。どうぞ次も宜しく。

■知足を知らぬ一部有志は西国分寺の秘密基地に流出してさらに飲話続行。山梨の一面桃の花だらけの景色を見に行って温泉にも入ろうという桃源郷企画や、「エノクの鍵」の翻訳や内容研究のためのHP立ち上げなど、為すべきことは海千山千だが、朝まで諸話題を巡らせつつディスカッションしている者を横耳で聞きつつ横たわっていたつもりで、私は朝まで1人爆睡してしまった。

笑う者と笑われる者が1つの笑いあれ



■最近mixiに参加した甲田列氏の書き込みに「思想芸人」という表現があった。精神世界系・ニューエイジ系の今後を考えるに、正統派の「芸人」を生み出すことが活路であるという。確かに仏陀のアルカイックスマイルにしても、ムスリムのムラ・ナスルディン話にしても笑いがある。禅の坊さんの話でも厳しいだけでなく笑いがある。落語も本来仏教の希釈から始まっているそうな。

■愛や秘教的叡智云々より、彼は精神世界の「お笑い化」計画を不真面目かつ真剣に目論んでいる。言われてみれば確かにスピリチュアル系もある意味ギョーカイ的様相を呈してきている。百花繚乱というと聞こえが良いが玉石混交・群雄割拠。生真面目な人たちはギリギリのところで意識変容を試みているけれど、そういう時こそ爆笑させつつ時空場を励起させる余裕のあれよかしだ。

■芸に秀でているお笑い芸人はある種聖者だと思っていた。逆に有象無象のえせスピリチュアリストらは魑魅魍魎か地獄の亡者に見えてしまう。もちろん魑魅魍魎も亡者達も見切るつもりはない。いつかするりと愚の衣を脱いで、意外な方向から笑いの秘孔(ツボ)をズボッとやってくれるはず。笑いの才能がない人はそれが自分のキャラだと限定せず、その技を磨いていかねばならない。

■アリストテレスいわく「人類を愛するものの使命は、人々に真実を笑わせること、さらに真実それ自体に笑わせることだ。なぜなら、唯一の真実は、真実を求める狂気染みた情熱から自分自身を、解き放つことの中にあるからである。」大家の言を持ち出すまでもないが、笑いの共振場にいる時、人と人との間の距離は0である。後は笑いの質。何を笑うかによってその人柄が分かる。

■目の前で泣いている人がいた時、その現状を分析してアドバイスする生真面目は大変結構だけれど、ちょっとひねった話をしてまずは笑わせるほうが先でしょう。持ちネタや臨機応変、相手に対する思いやり、自分の平素からの上機嫌…何が欠けても目の前の人1人笑わせられない。だからいつも苦味を噛み潰したような仮面を素顔と癒着させる前に他者に笑わされ、自分を笑うのだ。

■「泣くことのない叡智、笑うことをしない哲学、子供の前に頭を下げることのない偉大さを避けなさい。」…カーリル・ジブランはいいことを言うなあ。私が現実において敬愛の念を抱く人たちは、それぞれキャラが立っていて特に共通点はない。唯一とも言える共通点はいつも私や周囲を笑わせてくれる人生の芸人であるということかな。笑いを分析するより、一緒に笑う方が良い。

(※)明日から1週間東京に行きますので、ブログの更新はできません。戻ったらまた再開しますのでどうぞよろしく。

虚偽の映像見るよりも満月を共に見ん



■どうしても好きになれないものの1つに、カーチェイスが売りの映画やドラマがある。筋立て以前に直接関係のない周囲の車や人を巻き込んでまで目的を達成させようという者に、感情移入しがたいということがあるが、それ以上に巻き込まれて死傷したり、店舗や商品などの財産を台無しにされたりする人の気持ちには一切触れていない、製作者そのものの態度が耐えがたく不快だ。

■ドラマの中の話で、本当は誰も死んだりしていないので安心だと言われても、今度は派手なシーンにリアリティがなくなる。袖触れ合うも他生の縁などの論理で、巻き込まれてしまった者の気持ちや一生を軽視することなどは、シモネタ以下の下品精神だ。トウフを切るのにもチェーンソーを使うような愚行は個人の精神にも地球環境にもよろしくない。意味もなく死ぬな、登場人物。

■自爆テロやカミカゼを全否定するつもりはない。死の前に人間個人としての人生があっただろうから。しかしもし9.11と表現されているあの事件で、つっこんだ旅客機の乗客のような道連れカミカゼされた者の無念さはまた別だ。ハンニバルという映画で、自らの脳の薄切りを食べても痛みを感じなかった男のような反転したループの不気味さがある。他人を巻き込むな。自分も。

■デュランバロウの3冊目の本には神聖幾何学は出てこない。ハートの中にある世界の話。大気汚染浄化装置の話、目を使わずに見る超能力者の話、内的テレビモニターに映し出される映像の話、瞑想中の異界の洞窟の話などなど。秘教的学問や古代の叡智についてあれだけ研究した者の言であればこそ、ガチガチ頭だけやふにゃふにゃハートだけの話とは違ってすっと心に入ってくる。

■この本の中に南米コロンビアのシエラ・ネバダの山中深くに住むコギ族の話が出てくる。1500年代のスペイン人の侵略を逃れ、今でも1000年前と同じ生活をしている人たちなのだが、今朝mixiで共振の旅人氏の日記を見たら、実際にコギ族の人と会ったりしていたことが書いてあった。シンクロ云々はもういい。観念を超えて実際に現地で行動している人に、敬意と感謝を祈送したい。

■こう書いてからもう1度アクセスすると続報があって、彼が現地で集中して読んでいた本が原書ながら同じデュランバロウの「ハートの聖なる空間へ」だったと知り改めて驚く。やはりシンクロ云々はもういい…ではなく、その量ではなく質を純化していくべきなのだと考え直す。想思とそのリアクションがネット上でも早い。今日は満月。時と所は異なれど同じ光を浴びたいものだ。

風花の舞いを1日眺めていられた至福



■先日チョコボ氏が滋賀県からやって来て、我が家のネット環境を整備してくれた。大感謝である。それまでは何度か自力で家庭内LANを構築しようとしたのだが、家庭内乱脳内乱のまま完遂できずにいたのだ。物事を中途半端にしたままだと、片付かない部屋や未整理のPC同様、なんとも効率が悪く無駄が多い。常時接続の次はHPの充実にトライだ。1つ1つ着実にこなさねば。

■あれやこれやで、ここ数日「エノクの鍵」を訳進から離れている。『スターピープル』18号用のねこまんが製作に2日かけてしまい、日々更新を心掛けているプログの先行製作もないままだ。17日からの上京前に25日の名古屋「メタレク」の準備もしておかねばならない。心は焦り、時間は進む。かつて腕時計がリニアルな時間の手錠に見えたけれど、楽しい玩具と見る視座を。

■昨日は一日風花が舞っていた。陽光の中を強風に煽られる雪片たちを5階の窓からずっと眺めていた。これだけ長く続く風花は初めてだった。昔は天気雨の雪バージョンという印象しかなかったが、それでも初めて見た風花は感動的だった。言葉そのものも美しいが、青空を背景に踊りながら舞い降りてくる雪片は幻想的だ。季節の端境期でも世界は淡々と巡る。自分の時を生きねば。

■「TVは心のマスターベーション」という表現がデュランバロウの本にある。マオリ族の青年がアメリカ人に対してのイメージだが、日本のTVも大同小異ではないだろうか。TV画面に見入っている時に自分の生命時間は奪われている。全体性の中で教育的側面もあるが、ツカミは1流・内容は3流という時間泥棒は生命時間をも金に換算する、下降ベクトルの総体の手先に見える。

■いや外だけに責任をなすりつけるのはアンフェアの極みだ。何気なく気分転換にステッチを入れる自分。見るともなく見続けている自分。消す前に他チャンネルで面白いことをしていないか一回りしてしまう自分。見なくても人生に大差ない番組がどれだけあろうがなかろうが、そこにも真実を見る者もいる。選択するのは自分自身だ。量も質だが、量が見えなくしている質とは何か。

■断食や断眠とまでは行かくても、一切TVを拒絶して、子供たちにも見させない人もいる。他人の教育や生き様に安直に口出しするつもりはないが、私はやはり時間を奪うものは快く思わないが、時間を奪うものとの接触の機会を奪うのも傲慢ではあろう。教育の真の成果はその教育自体を超えていくように仕向けることだ。意味を常に更新しゆく謙虚さを忘れぬよう自戒し行く日々。

型にはまらぬよう型にはめこむ日々



■昔から「型にはめられる」のが大嫌いだった。そういうとカッコ良さそうだが、「型にはまれなかった」という方がより正確だろう。どんなものでも良いというわけではないが、ある程度型にはまろうと努力してから、しかる後に型を超えるのと、最初からひとりよがりに好き勝ってやるのとでは人間としての深みも違う。努力もせずに反発するのは楽がしたい者の自己正当化だった。

■自分の思い通りにならないと反発して我を通そうとした。その他者の気持ちなどお構いなしという若気の至りは様々な人に不快な思いをさせてきたことだろう。今でもたいそう恥ずかしいし胸も痛む。多かれ少なかれ誰でもそういうものだなどと正当化したり、今さら詫びを入れて楽になろうとも思わない。ただ心の中で深々と頭を垂れてその思いを反転して未来につなげようと思う。

■さて形にはまるのが好きとか嫌いとかを離れてみると、今度はあえて型にはめるところにも新しいものを見出そうという試みができることに気づく。極端から極端への滑空。型にはまると型にはまらないの対思考そのものがすでに1つの型にはまっているということに気が付くと、選択肢として「型にはめてみる」ことがそう苦もなくできるのだ。日本には型から入るという作法もある。

■そういうわけで、実はこの毎日の文章のテンプレートもまた完全に近い定型に設定してある。ネット上では字幅が同じではないフォントが使われたり、括弧や句読点などの自動調整で見た目はずれてはいるけれど、基本的には1段落170文字でガチガチに固定にしてある。だから文字数が足りずによく体言止めで段落が終わったりもする。それが6段落で1020文字という計算だ。

■何年か前、自分のHPで「1001の物語」というZONEを作った。友人が誕生日を期して1日必ず1000文字の文章を書く決意をしたので、私はそれを真似て、「アラビアン・ナイト」の中でシエラザード姫が毎夜1つずつ王に話をしたように、1001文字のエッセイを1001夜分続けてみようとしたのだった。このブログも実はその延長線上にある。定型詩ならぬ定型文。

■短歌や俳句や漢詩等の韻文は5や7が組み合わさっている。散文にも文字や音韻の数だけでなく、視覚的定型があってもいい。日々の記録自体が実験でもある。実験だからといい加減ではない。生きていることもまた壮大な実験なのだから。文もまた生きている。それが確定固着したら放下しなくてはならない。また実りなきものと見極められた時も執着することなく捨て去るべきだ。

)ことなる試みに3行日記というものがあった。こちらもまたいずれ再トライしてみたい。

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