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  • 2024.01.09 Tuesday
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あなたとわたしの界面活性剤



■高橋トール氏はずっと以前から地動説と天動説の統合ということを唱えていた。半田コーセン氏はその理論の中であなたとわたしの問題を探求していた。トランスパーソナルを専攻する甲田列氏は個人意識の界面に妖怪を見るとした。2元論的にもしくは差異を見ることで世界を分別認識していく現在の人間的世界観は構築されてきた。問題はこの2つの異なるものの間にこそある。

■天動説的に惑星の見た目の動きをトレースした軌跡も、太陽系の極北方向から見た惑星同士の関係も、どちらもその図を見れば認識できる。しかしこの2つは別の捉え方であり、同時にイメージできない。老婆と若い娘、人の横顔とカップのような心理学的騙し絵のように、図と地の交換はできても、同時には捉えられない認識のしかたが私たちの普通のありようだ。2説の統合とは。

■あなたとわたしの関係を幾何学的に説明描写しようとしたり、一直線上にプロットしてその双方向やオーバーフロウから自他の限界を超えた見地を説明しようとするけれど、問題はその2者のあわい、ブラックホールとホワイトホールの間をつなぐワームホールそのものへの注目度だ。どちらとも取れぬその「誰ぞ彼ゾーン」からの双方への視座を獲得するための情報の欠落する論理。

■ものとこと、人と物のあわいに妖怪が立ち上がる。人と人の間、生と死の間に立ち上がるのは幽霊。自然と人間の間には精霊?人間と宇宙の間には宇宙人。こちらからは常に片方が開放されている振動体だ。脳内的感覚の内面世界と、身体的感覚の外面世界のあわいに自分の意識の座がある。一者と万物のあいだに神は据えられ、迷妄と悟脱のあいだに仏はおわします。間はまた全て。

■ああ、だからまずあなたとわたしとが異なるものとして捉えられるなら、あなたでもわたしでもある視座と、あなたとわたしのどちらでもない立ち位置の双方をも考えてみよう。それは元からある。そこからあなたとわたしを別個と捉え、また実は不二なるものと見極めたい心が立ち上がる。ものの見方を変えるには、思い出すこと、はみ出すこと、揺れ動くこと、不動点に立つこと。

■異なるものとして2者を見る自分の、そのまさに見方にこそその見方の元がある。いやいや哲学的なアプローチでは迷妄コースとなる。直接全てを把握する瞑想や直観と言ったところで、それが真実だと自覚する自覚の当体がそれを共有できなければお笑いコースとなる。なぜこのように見えるのかというと、そのように見ているから。ではそう見たいのか見たくないのか。本当か。

■甲田氏がmixiに書いていたのだが、るしえる氏の師匠が用いていた「あの世」と「この世」の界面領域を「その世」と呼ぶ表現は面白い。異界・聖域・結界の中・異空間・魔界…みんなこの世でもあの世でもないところ。そこにこそ自分には明確には捉えがたい異にして妖かしのものとことがあるのだが、それを反転すれば他ならぬ自分自身の立ち位置でもあるのだ。私は影?

■私は本当に生きているのか、死んでいるのか?何をしているのか。何をしていると判断しているのか。これ以上狂気に陥ることなく、言葉が真実そのものではないけれど、言葉にトレースしていって、コミュニケーションをとること。あなたとわたしの間にある界面を活性化させていこうではありませんか。

井の頭 想い起こせば みな輝きて



■実は昔話をするのが、昔から好きではなかった。昔はああだったこうだったと懐古するのは、未来が残り少ない老人になってからでいいと思っていた。後悔と反省と懐古はそれぞれ別の次元だと考え、その時間があればこの今と未来をどう繋げていくかに使いたかった。しかしマヤンの還暦を迎えて自分の中でこれまでの一巡りをリセットしてみると、それすらもこだわりだったことに気がついた。リニアルな時間に敢えて生きる楽しみ。

■さてそのような枕を踏まえて、先の現実認識倒錯事件、もしくは単純に盗作事件の後の話をしよう。私は以前にも増してよく井の頭公園を散歩した。巡る季節を浴びながら毎日徘徊し、思索し、そして記録した。あの界隈の季節感は今でもこの身に刻み込まれている。あの池の三鷹市側と吉祥寺駅側、もしくはサニーサイドと手前の岸の違いは明確に分かる。夜は毎晩のようにじっくり多面体を製作しては、ためつすがめつ転がして見た。

■そろそろ少女マンガから足を洗おうかと考えていた矢先、現実の激流に足を絡め取られて全身びしょぬれになった私は、マンガの流れからしばし離れることにした。そして莫大な自由時間の中で何をしたかというと、よく言えば研究家、悪く言えばオタクになった。「本当に好きなことをやって、それで生きていけなくなっても、ただ死ぬだけだ。」やけくそではなく、根拠無き自信からの決意だった。今でも私は死なずに生きている。

■サンロードを行き交う人たちの笑顔やしかめ面、ロンロンの何かが緩やかに吹き抜けるような雰囲気、そして武蔵野の自然たちを1人きりでどれだけ愛したことだろう。時々隣の西荻窪にいたマンガ家矢野健太郎氏のところで仕事を手伝ったりしながら、私は1人で生きることを良くも悪くも、楽しくも苦しくも満喫した。「たとえ世界中の誰からも相手にされなくても、私は…他ならぬ私だけは、決して私を見捨てずに見守るよ。」

■「オタクも10年続ければいっぱしの研究者」というのは、私の冗談めかした持論だが、幾年か数と形をひとりよがりで研究していると、自分のやっていることは必ず意味があり、いずれ様々なものと結びついていくだろうという確信があった。もし世界中の誰とも交われなくても、今ここでやっていることが全体の中では必ずどこかで繋がっていて価値があると考えた。拙いけれど自分なりの世界観が少しずつ構築されていくのを感じた。

■井の頭公園南側のベンチに座っていた時に、自分がそのまま仏陀やキリストやマホメット、そして名も知らぬ聖者たちだとしても、その自覚がなければ普通の人として生きているはずだと考えた。いや敢えてそれを楽しんでいる可能性もあるのではないか。であればそれに気づいた普通の人はどうなるだろう。まともな視座からは世界は大混乱に見えるだろう。しかしそこでもう1回反転して戻ってこなければただの狂聖人だ…等などとも。

■それをネームとコンテにまとめてみた。タイトルは『明珠』。主人公は一般人でなくいっそ高校生にしてしまえ。二元論を超えるには反転が2度いるだろう。相方の視座がいるな。こちらは可愛い女の子にしよう。何気ない一言が世界を変えていく。魔境に見える現実世界はコミカルに描きたいものだ。ラストはもう1度最初にもどるけれど、すでに世界は元の世界ではなく…。そんなふうにして作品を仕上げ、S学館BC賞に送った。

■後日、BC賞入選の知らせが届く。特に驚きはしなかった。そしてやがて何本かをS学館の青年誌に発表することになるのだが、こちらはまた後日の話としよう。今思い返せば、いつもいつも自分は幸せだったのである。戻ろうとも思わないし、戻る必要もない日々。ただこの今この時からの祈祝と寿寵は常に発信しているつもりだ。自分だけにではなく、他の人たちにもそれが届けばいいななどと妄想しつつ…。

(※)誠に勝手ながら一部画像は以下のHPから借用いたしました。謹んで感謝とお礼を申し上げます。
井の頭恩賜公園・井の頭公園 http://www2.famille.ne.jp/~taki/furoku_001.html

言う言わぬ 嘘も真も 美しき



■ものは言いようだ。私たちは言葉で表現できないことまで言葉にしてしまう。「言語に絶する」とか「筆舌に尽くしがたい」などと表現してしまう。嘘と本当についてすらだ。嘘をついたくせに、「その時嘘をつきたかった自分自身の気持ちに正直だった」などと言ったりもする。白を黒と言い変えるのは可能である。私たちが普段する会話は、何を言っても口から出た途端、あらゆる言葉が嘘へと腐敗を始める。

■言葉を上手に使えば人を動かすこともできる。よく言えば雄弁、悪く言えば詭弁。どちらも口をつぐませた方が正直者に見える。「沈黙は金」という諺がある。また、それを改変して「沈黙は銀、雄弁は金」などとも言う。言葉の上のきんさんぎんさんは、実は双子なのである。雄弁が詭弁へと堕することがあるように、沈黙にもその質的深度や重ねる想いの濃さ薄さがある。それを知りつつの沈黙は本物だ。

■沈黙の行というものがある。字義通り何もしゃべらないのだ。3人の僧がいた。彼らは沈黙の行をしようと決めた。しばらくすると1人が「ああ腹が減った…」とぽつりと言った。2人めが「あ、お前今しゃべったな」と言った。3人目は「ふふん、私だけがしゃべっていない」と口にした。とまあ、こんな話だった。とかく沈黙の行は為し難いということ。頭の中から声が聞こえ始めたら、1から考え直さねば。

■友人の甲田氏はインドに滞在中、言葉が分からないことを逆手にとって、1人でこれをやったとか。1ヶ月近く続けて、これ以上はヤバいと感じてかろうじて日本に帰ってきたらしい。口を閉じ、筆も持たずに意識的に生きる者は強い。意識的に黙り、意識的に語る所作が身に付いている者も強かろう。嘘をつかない詩人の言葉はみな実現すると言う。嘘をつかないのではなく言葉そのものを真実にするからか。

■人間社会では言葉も強力なコミュニケーションのアイテムだ。言っていることが「嘘か本当か?」という問い自体、かなりがさつである。普通の人は嘘だけつけるなら悪魔、本当のことしか語らなければ神のような存在だろうが、その両極間のスペクトルで揺らぐ振り子のようなものか。4値的に「嘘でもあり本当でもある」と「嘘でもなく本当でもない」も入れれば少しは話の裾野が広がろうか。

■若かりし頃、私はまだ言葉と現実の物事とは1:1対応していると愚直にも考えていた。そしてより正確に世界や自分の思考や感情を表現しようとする時、果てしなく自己注釈していく言語障害(それをそう呼べるならだが)に陥りかけたことがある。嘘をついても双方が言葉の反転的表現を理解していれば問題はない。私は今語り続けることにしている。饒舌の行かな。その果てに何があるか見極めるため。

■言葉の問題。それにしても日本語は美しく、そして異様だ。他国語を学んだり使ったりすると特にそう思う。日本が滅びても、日本語だけは消滅しないよう願いたい。語り合いましょう。

我れ乗せて いずこを走るや 横須賀線



■先日実に久しぶりに横須賀線に乗った。今は実家も藤沢に引越しているので、帰省するのはもっぱら東海道線だ。車体は東海道線の緑とオレンジに対して、青とクリーム色のツートンカラーだった。私はこの「スカ色」をちょっと気に入っていた。窓から横須賀港を見たら、毎年新年を迎えた途端、港中の船が喧しいほど汽笛を鳴らし続けたことを思い出した。昔は横須賀駅のすぐ近くで、窓から米軍基地が見下ろせる山の上に住んでいた。

■横須賀線はもともと旧日本海軍の横須賀港への連絡を目的として建設された路線だ。昔まだ国鉄だった頃、祖父母は省線とか呼んでいた。横須賀駅のホームは1〜3番線があるのだが、1番線はずっと使っていない。2番線が横須賀発着であり、3番線は久里浜方面へ続いている。この駅には階段がないので、今でも横須賀駅はノンステップのまま列車に乗れる。私はラッシュが嫌で、毎朝7時前に電車に乗って登校していた。…あの振動。

■横須賀線は盲腸のようにどん詰まりの感じもする三浦半島を縦断している。高速でガタガタ揺れる赤い車体の京浜急行も走っているが、逗子や鎌倉や大船を抜けていく横須賀線には一種の落ち着きがあった。ユーミンの新譜を何度も聴いていたので、雨の日のちょっと物哀しいような匂いまで思い出される。しかしボックスシートに座っても、車輌は名残の色ラインが入った最新型のステンレス製だ。明るくてカッコよく、そして味気ない。

■昔は東京だった終着駅も今は成田や木更津になっている。東海道線と平行して走っていた路線は川崎あたりでコースが変わり、総武快速線直通となったので東京駅も地下ホームとなり、成田や鹿島、内房線外房線までつながっている。かと思えば湘南新宿ラインと称して新宿経由で高崎方面に直通する列車も走っている。鈍感にならねば生きていけなかった何十年もの年月をすっ飛ばして、昔の奇妙に過敏な感覚が戻ってきたようだった。

■そういえば一昨年35年ぶりの中学校の同窓会に出席するために、十何年かぶりで横須賀線に乗ったことを思い出した。なぜ忘れていたのだろう。横須賀駅前はまったく記憶の中とは様相が変わってしまっていた。どぶ板横丁という名称が似合わないほどきれいに整備された裏道。美しい駅前の臨海公園。同窓会は昔米軍がダンスホールとして使っていた建物の跡地に建てられたビルだった。…私は今、本当にここを歩いているのだろうか。

■見た目がほとんど変わらない旧友もいれば、全く記憶から欠落している人たちもいた。自分はこの世の幽霊なのだ。現実という共通の幻想の中でも人は死ぬ。同窓会とはそういうものなのだろうが、すでに亡くなったクラスメートたちの名を知らされて、心の一部が抜け落ちた感覚を味わった。決して親しくなかったのだが、親しくする前にこの世を去った人たち。人には言えないし言っても分からない記憶の群れがまだぶら下がっている。

■帰りに乗った横須賀線はどこのものとも知れぬ空間だった。列車は最新車輌のはずなのに、昔の心もとない記憶の中の空間でもない。もっともこのような界面領域は嫌いではない。虚無感や孤独感、感傷や自己憐憫などに侵されなければ、未知なる未来にも通じうるからだ。それにしてもはたしてあの夜私はちゃんと家に帰りつけたのだろうか。そして私自身に辿り着けたのだろうか。そう自問するとすべてがはなはだ心もとない。

■私の一部は今でもずっとあの空間に残されたまま、どこまでもどこまでも移動していることに気づく。他者と共有できない時空の私だけの横須賀線に乗って…。

面眺め 風光を背に 笑みの咲く



■ピンポ〜ン。玄関のチャイムが鳴る。毎週配達してくれる有機野菜を届けに来てくれたのだ。ご苦労様ですと言いつつ、先週の通い箱を渡す。先週から配達する人が女性に代わったのだが、ドアを閉めてから「はてどんな顔だったっけ」と思った。そういえば私は普段、あまり人の顔を見ない。今日の喫茶店でも、ウエィトレスに丁寧に「有難う」と言ってはいるのだが、実は相手の顔を見ていないのである。

■普通はフェイス・トゥ・フェイスではなく、それとなく全体像を見ているようだ。別に対人恐怖症とかそういうのではない。呼吸のように意識的にしてみようとすれば、もちろんちゃんと顔を見ることはできる。しかしまあ普通は声や雰囲気、しぐさや名前、歩き方や居住まいなどで人間的対応をしていることになる。昔からそうだった。子供の頃はひょっとして対人恐怖症というやつかと悩んだこともあった。

■子供の頃は相手の顔をちゃんと見ると、考えていることや感じていることまで見えてしまいそうでちょっと怖かった。「ちゃんと相手の顔を見て話しなさい」という言葉がなんともがさつに思えたものだった。ちょうど「働かざるもの喰うべからず」と同質の、独善的な匂いがした。子供は仕事をすることも相手の顔をちゃんと見ることも重労働なので、決して義務ではない。目力の差というものもあるわけだし。

■そして子供の頃、よく人の顔を見るようになって最初に思ったことは、人の顔は見るたびに大きく変わっているということだ。人の面には感情・人相・造作と3つの次元が1つになっているなどと以前書いたこともあったが、造作まで変わって見えるのだった。オーラとかアストラル体とか霊波とかいう言葉を持ち出さなくても、元々人間は見ただけでその人の今と全体が分かっているのではないだろうか。

■普段から「何かあったの?」とか「ちょっとしんどそうだね」とか言ってくれる人は、普通見えるつもりのもの以上のものが見えているのかもしれない。そして人間誰しもは本来それらが普通に見えるのではないだろうか。その人たちだけが特殊なのではなく、大多数の人たちの方が実は人間として異常なのかも知れない。本来そうであれば、オーラとかアストラル体とか霊波とかいう表現もいらないのである。

■ゴヤの絵画に「裸のマヤ」と「着衣のマヤ」という作品がある。このどちらが好きかという問いには、良識ある大人のふりをして「両方」と答える。また「化粧した顔としない顔のどちらが好き?」という問いにも「両方」と答はするが、実は私は基本的に化粧しないほうの顔が好きだったりする。もちろん時と場合と人にもよることは言うまでもないけれど。化粧は間接視野だと時に見えないものがあるからね。

■それにしてもやはり一番見ていないのは自分自身の顔だろう。鏡の中の顔はすでに反転しているし。となるとやはり守護霊とかその手で表現される視座でなければならないわけだ。しかしそれらの視座こそが実は上位次元の間接視野なのかも知れないな。そこから直接見るものは、普段の私たちが見えないものではないだろうか。…いや何よりも先ず、お礼を言う時にはもう少しだけ相手の顔を見ることにしよう。

濡れ衣 時巡りても 謎霧中



■数と形について私はいつから自分で研究を始めたのだろう。人に問われて改めて考えてみた。日記を見直してみると、親友が異世界と交信を始め、尋常でない情報を周囲にリークし出したのが1986年の春だから、それから単純に20年は経過していることになる。やがて彼は病院に入り、退院してしばらく東京で活動していたが、実家のある土地に戻った。私は井の頭公園の池の傍にあるアパートを動かなかった。

■数と形の思い出を巡らしていると、少し不遇な時期のことを思い出した。少女マンガを細々と描いていた私の身辺にも大小の超常現象が勃発し、ついには少女マンガ描きをやめざるを得なくなった不本意な盗作事件に巻き込まれた時の事だ。すでに商業ベースでマンガを描くことに辟易していたので、渡りに船的な出来事だったが、今でもあれは本当にあった事なのか分からない。多分死ぬまで分からないのだろう。

■忘れもしない、東京は吉祥寺にあるPARCO裏の喫茶店。そこでネームを作っていると、美しいがどこか魔女のような女性が突然声をかけて来た。話の中でマンガを描いていると言うと、とっておきの話を教えてあげると言ってストーリーを語ってくれた。私は夢中でそれをメモした。コマ割りまでイメージで入ってきた。最後のキメ台詞まで語ると、必ず描くのよと言って彼女は店を出て行った。

■何度も繰り返し思い出しているので、勝手にイメージが固まっているのかも知れないが、目が大きく痩身の彼女には2度と会っていない。ネームに詰まっていた私は、その話をできるだけ語られたままの形で31ページの作品にして、締め切りに間に合わせた。それから1か月ほどたってから編集部に呼び出された。担当の編集者の第一声は「盗作でもう顔を出せないかと思っていた」というものだった。

■私の作品が少女マンガの某大家の作品の盗作だというのだ。ファンレターならぬ罵倒レターもいつくか見せられた。編集長もしょうがないなという顔で「まあ、しばらくアシスタントとかやって出直すんだな」と笑った。何がなにやら分からぬまま、何かの冗談だろうと思いつつ帰宅し、言われた作品の単行本を買って見比べてみた。何とコマ割りからキメ台詞までほとんど同じだった。超常現象の只中にいた。

■私の頭は妙に冷静で、他人事のようにいろいろと事件の実情を推理した。あの女性が私を貶めようとしたからかい説。遠隔意識操作のようなもので、誰かが大家の作品を私の頭に飛ばした超常能力説。私自身の多次元の意識が連動して夢現としたという多重意識の自作自演説。壮大なジョークを含んだ世界的陰謀説…等など。しかし納得のいく解答は出なかった。その編集部には2度と行かなかった。

■1986年に友人がおかしくなってから、身辺では奇妙な人が多数出没し、非日常的な事件も多発したので、その友人の身に起きた現象を自分なりに解明し、納得しようとニューサイエンス系の本を沢山読んだ。数理や幾何的な世界の記述に夢中になって、いろいろなことを独学した。そちらの方に興味がシフトしていき、マンガに対する情熱は冷めていった。事件はある意味恩寵だった。世界は遥かに広がった。

■私以外の他者が見比べたら、明らかにこれは盗作ですと断言するだろう。それほどそっくりなのだ。しかし私は本当にその大家の作品を知らなかったのだ。知っていたらこれほどあからさまにコマ割りやセリフまで同じにはしないアレンジ意識が働くだろう。結果として今の自分に繋がるので、あれはあれで良しである。今は多次元の意識が連動して自作自演の夢を今の現実へと強引に接続したのかとも考えている。

■誰もその本当のところは解明できないだろう。私自身すら分からないのだから、それでも理解してくれる人はいたけれど、それは現実を解明したのではなく私自身を信じてくれたということだろう。絶望はしなかった。世界とはそのようなものだと妙に納得すらした。再びマンガを描いて発表するまでに3年かかった。屈辱なき沈黙と至福の時期。そして今度は青年誌での発表だった。その話はまた後日にしよう。

健やかな 心と体 病なし



■現代は病気や健康の意味にもよるが、「病気は治さなければいけない」という健康信仰なるものが流布している。もちろんこの身体以上に頭脳が羅患しやすい信念に帰依する必要はない。病気を二元論的に邪悪なもの、唾棄すべきもの、地上から消滅すべきものとして排除排斥してしまおうとする力強い発想は立派であるが、やはりそれはかなわぬ夢であろう。自己申告なら「無病息災」よりも「一病息災」がよい。

■蛇足だけれど老婆心と言うことで書き記せば、「無病息災」とは全く病気をせず健康であることであり、「一病息災」の方は全く病気をしない「無病」よりも、ある程度病気をした方がかえって健康に気遣うので、より健康長寿を得るといった意味だ。「息災」は仏教用語で,仏の力によって災難や病魔を退散させるという意味。暦に息災日というのがあり、金神(こんじん)の神に関係があるのだがここでは略そう。

■地方自治体や会社や学校で定期健康診断というものがある。私は幸か不幸か幸不幸とは関係なくか、学生時代を含めてほとんどやったことがない。高校は自由な校風過ぎたために、私はいつもフケていた。大学では何をかいわんやである。社会ではそのような機会に1度も恵まれていない。実家には地方自治体から検診の誘いなどが送ってくるようだが、ほとんどいつもその指定日にその地にいることはいない。

■健康という言葉を敢えて使えばだが、自分の健康に対する根拠なき絶対的な自信はどこから出ているのか自分でも分からないし、それを分析して解明するつもりもない。ただの過信かもしれない。虫歯や肩こりや目の疲れは病気とは少し違うだろう。病気になったらそれこそ一病息災と捉えてそれでいいと思うのだが、大病をする予定は全くないと断言するその精神の方が病気なのか超健康なのかは自信がない。

■風邪は体の警報機とも言う。どこからを風邪というかは別問題だが、風邪1つ引かないと自慢する人が脳溢血や重い病気で突然入院したりすることはよくあるらしい。よからぬものを食せば嘔吐や下痢で排出しようとするのが自然だし、自分の体との対話だけで、心身のバランスの乱れを調整することも幻想ではない。

■自らの体の細やかな感覚を意識できるのは自分自身なのだから、もう少しだけ自分の意識ともども身体の声や表現に繊細になろうと思う。実際に医療従事者が言うには「過去に大きな病気をした事がない」のではなく、「病気はあったけれど運良く症状が出ず、気づかなかったので見つからなかった」だけというケースが非常に多いとのこと。おそらく私も多々あっただろう。自分の自己治癒能力は信頼している。

■肩こりや時々の腰痛などを抱えている時でも、マッサージ師や気功師、ヒーラーや遠隔療法、健康器具や健康食品等のお世話になることも極力控えている。これはまあわがまま頑固の類ではあるが、自分の感覚と自分の身体の関係をまだ信じ切っているからだ。身体の言いなりになるのではなく、身体との対話。もう少しだけ頑張ってくれるかな、その後じっくり気持ちのよい時間を過ごすから。I love my body.

■そしてようやく病を持っていようといまいと関係なく、健康なあなたと私が対峙して共に1つの世界を見ることが始まる。あなたの世界の中の私は健康ですか。私の中のあなたは健康ですか。健康だけれど異なる視座として世界を見れば、そこは1つ立ち上がった健康な世界。そこでのコミュニケーションが始まらなければ、それぞれみんなひとりよがりの王国ばかりで触れもしない。さあ体よ、自らを語れ。

雨煙り 想い響くや クラクション



■今日も雨。街中の車の流れもどこかしっとりしている。左側から進入してくる車に道を譲ると、軽くクラクションを鳴らして礼を言ってきた。交差点で止まっていた車が1台、信号が緑になっても少し出遅れた。すると途端に後ろから複数のクラクションが煽るようにがなりたてる。ただのクラクションの音なのに、なぜこのようにドライバーの気分や気持ちが伝わるのだろう。人間の本質がそこにもある。

■軽く触れるように鳴らしたプアンという音。強く叩くように鳴らした濁音のようなパアンという音。連打や長押しでもタッチのしかたでその印象は様々だ。おそらく感情や情動がそのまま意識せずにクラクションを鳴らせているのだろうが、まるでピアノのキーのように多様な表現が可能である。車は他にライトのパッシングや車体の微動などで様々な意思表示が可能だが、やはり一番の表現は音である。

■私は運転ができないので、逆にクラクション1つで意志や感情の伝達できるドライバーたちのコミュニケーションが異能力に思えてしまう。ハンドルを握れば性格が変わるという人もいるらしいが、クラクションの音感はその人の性格と相似形なのだろうか。クラクションはそれを鳴らす側と鳴らされる側があって初めて意味を為す。双方間の関係性があってこそ、間同士のふくよかな機微が音の襞に乗るのだ。

■しかし話はここで終わらないのである。これまた私は車を運転しないから知らなかったのだが、相手をせかすときなどに使うと道路交通法(第54条)違反だそうだ。本来、標識のある場所及び危険防止のためやむを得ぬ場合以外は、鳴らしてはいけないらしい。クラクションの音量は民度に反比例するという説がある。確かに発展途上国ではクラクションが頻繁に鳴っているイメージがある。すると日本は…?

■日本語のクラクションは英国のクラクソン(Klaxon)という商標名が訛ったもので、元々はHorn(警笛)を使う。昔は「パフパフ」だったのだ。ところで日本のホーンボタンはこれは国産車の場合すべてハンドルの真ん中についているが、外車には国産車でいうウインカーのスイッチレバーやワイパーレバーあたりについているらしい。とても使いにくいが、そもそも緊急時に鳴らすものなのでそれで良いのだ。

■イギリスなどではクラクションの音が非常に少ない。交差点の信号が壊れていても、車は譲り合って自然と流れているそうだ。そして逆に本当に危険な場合は、クラクションを鳴らさねばならない。日本の運転民度は低いのか?優しい運転に穏やかな音が付加されると心安らぐのは、これまた日本だけかも知れない。威嚇的に鳴らすのではなく、優しい意思疎通としてクラクションが響く日本になればいい。

今生きよ 喜怒哀楽も 色添えて



■かつて双子の長寿者として有名になったきんさんぎんさんが名古屋の人だとは知らなかった。100歳を越えてから有名になった2人がCM等でお金を稼いだ時、「この儲けを何に使いますか?」という問いに対して「老後の蓄えにします」と答えた。もちろんこれはジョークで、「金もうけのためにやるのはやじゃ。福祉に生かすのなら」と条件を付けていろいろと出演し、実際にギャラは福祉関係に寄付していた。

■ちなみに1992年の満100歳の誕生日には「100年は短かった」と語った。「100年生きてきて、今が一番幸せ」とか、小学生に「生きていてうれしかったことは」と聞かれて「あんたに会えたことじゃ」と答えるなど、頭の回転は大したものだった。「100まで生きさせてもらって、こんなうれしいことはない」とも。50を過ぎてもまだ子供のままだと公言して憚らない私なども、その前ではまだまだほんの子供である。

■100歳になった年には、当時のヌード写真集を出した宮沢りえと貴花田との婚約騒動があったのだが、その時のコメントは「同じ裸どうしで良かったのではないのですかね」と気がきいている。もっともそのヌード写真集の話題に対しては「何億積まれてもわしゃ脱がん」とも言っている。名古屋弁と愛きょうのある笑顔、そして何より双子の長寿者ということで、日本中だけでなく世界的にも有名だった。

■日本の最長寿者は1995年に116歳で亡くなった猪飼たねさんだが、この人もきんさんぎんさんと同じ名古屋市出身である。最長寿の双子の記録は108歳9日で、米国バージニア州のイーライ・シャドラック・フィップスとジョン・メシャック・フィップス兄弟だそうで、1803年〜1911年まで生きた。ところで私のお気に入りの双子の姪っ子はまだ15歳。私ら夫婦は2人合わせてようやく100歳。なにやら気が遠くなる。

■死に急ぐ人に私は言いたい。「長生きしても何も良い事などない」かどうかは長生きしてみなくては言えないセリフである。その昔、20歳前に私は死ぬつもりでいた。20を過ぎておめおめ老醜晒して生きていく自分が想像できなかったのだ。おそらく頭もある意味キレまくっていたのだが、20歳より先の自分が見えないのは、どこか2012年より向こうの未来が見えない現代に似ていると感じもする。

■「人生は皆さんが思っているよりもずっと長いですよ」というゼミの担当教授が言った一言が、生き急ぎ死に急ぎそうな私を根本から変えてくれた。論文にキーツを選んだ私への何気ない一言だったのだが、もうすぐ80にもならんとするその教授そのものが、その言葉の実証であった。何も長生きすればそれでいいということではない。日々刻々を天寿の如く全うして生を刻み行くことの価値は為さねば分かり得ない。

■100歳を越えてから有名になり、あちこちを旅したり色々な人と出会ったりして、「本当に長生きしてよかった」と言うセリフは安易に否定したり無視したりはできない重みがある。生きながら死んでいるような命もあれば、死んでこそ生きる人生もあるけれど、この肉体の気が遠くなるほどの精密さと多重多元的な調和、それに神秘的な奇跡である意識と精神の存在は生き行くために存在し輝いているのだ。

■良かったら生きましょう。この未知なる不思議な世界で、共にもう少しなりと。

我れと汝れ 長雨る花の 色移り



■私たちは現在、暦法におけるグレゴリオ暦や音楽の音階における平均律などと同様に、度量衡に関しても平素からメートル法を当たり前のものとして用いている。しかし他の世界観が当たり前の世界も多々あるのである。アメリカや英国はメートル法を使わず、かたくなにヤード・ポンド法を用いている。計測単位の基本的発想が異なれば、精神構造や意識のありようも大きく異なるということは充分考えられる。

■アメリカで長期生活する時に、先ず最初にこの計測単位系そのものの違いに困惑してしまう。ヤード・ポンド法で長さ1つを取ってみても、1マイル=8ハロン=1760ヤードなのだが、1ハロン=10チェーン、1チェーン=4ポール、1ポール=5.5ヤード、1ヤード=3フィート、1フィート=12インチ…などと分けの分からない進法だ。しかし10進法やメートル法の方が素晴らしいと断言できるわけではない。

■例えばメートル法では月の半径は1738km、地球の半径は384400kmと表現できる。この数値からは特別な意味は読み取れないが、ヤード・ポンド法で表示すると1080マイル及び3960マイルとなる。こちらは1080マイル=1×2×3×4×5×9=3×360であり、3960マイル=1×2×3×4×5×33=11×360とも表現できる。360を1単位として考えれば、月と地球の直径比が3:11であることも容易く見て取れる。

■ではヤード・ポンド法の方が優秀なのだろうか。こちらの長さの最小単位は1インチ=2.54cm、重さの最小単位は1オンス=約28gである。それより細かな長さや重さを表現するには、1/2インチとか1/3オンスなどとその分数を用いなくてはならないのである。だからアメリカンの多くは大雑把なのだろうか。彼らがアバウトだからそのような度量衡を用いているのではなく、因果はその逆なのかもしれないのである。

■ヤード・ポンド法は西洋では古代からずっと、これとほぼ同じような単位系が使われていた。しかしフランス革命以後世界各国が順次メートル法に移行してきたために、20世紀までにこのヤード・ポンド法の単位系と世界観を使っているのはほぼ英国とアメリカくらいしかない。この2か国といえば影からの世界支配の主役ということで、陰謀論者は色めき立つかもしれない。しかし何を混乱させているのだろう。

■片方ではなく双方の単位系を等距離で眺めることができれば、上述の月と地球の半径比である3:11という数値はまた、金星と火星が最も近づいたときの距離(内合)と最も遠ざかった時の距離(外合)の比にほぼ等しいことが分かる。幾何学的には2重の円の外側の円周上の1点から、内側の円の最も近いところと最も遠いところの長さの比だ。また3/11≒0.273…または27.3%で月の自転公転周期の数値となる。

■これは暦法におけるグレゴリオ暦と13の月の暦、音楽における平均律と純正律と同様に、どちらが良くてどちらが悪いと言う二元論的発想ではなく、メートル法とヤード・ポンド法…そしてもちろん他の計測単位系も与えられた唯一のものとしてどれかを受け入れるのでなく、それらの間の違いを自ら考える視座を持って、日々の生活には自由意志でそれらを能動的に選択して用いていく必要があるということだ。

■必要があるなどというと、大変困難なイバラの道のようにも聞こえるが決してそうではない。1人だけでは苦難な求道者の道だし、他者の言いなりなら安楽な奴隷の道なのだろうが、他者との平等な相互作用によってそれらは楽しく面白いものとなりうるはずだ。これはあなたの当たり前が私の当たり前であるとは限らないので、私たちの当たり前を共に探し構築していきましょうという、当たり前の話なのである。

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