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眠り続ける寝顔を守りゆく夢想
- 2006.07.31 Monday
- ■日々の記録
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- by 小野満麿
■目の前で眠る人を見る時、観念や過去の記憶に流されることなく、初めてその人を考えることができる。遊びに来て、はしゃぎ疲れてコタツで眠る甥っ子。普段は隙のない顔つきをしているガールフレンドの化粧を落とした無防備な寝顔。家事に疲れてつい横になり、仮眠している母の横顔。子供の頃穏やかな午睡からふと目覚めると横にあった弟の寝顔。腹を見せて液体状になって眠る、その名通りの猫たち。
■何も構えることもなく、絶え間なく変遷する表情すら休息し、口も聞かず目も閉じて、意識すらここにない者に対し、それでも悪意や禍根や論理的思考のみでそれを見つめることができるだろうか。どんなに憎悪に満ちていたとしても、その対象がまったく無防備に目の前で寝息を立てている時、無表情でその息の根を止められるならば、その人は今現在に生きてはおらず、過去のある時に呪縛されたままなのだ。
■生物学的にも睡眠はあまりに無防備になるから、人は人前で眠ることを好まない。しかし逆に人前でも平気で眠る人は、人々に恨まれるより、愛されることが多い人なのだろう。寝首をかくという言葉がある。眉ひとつ動かさないで殺すことのできる刺客は、自分自身をすでに殺して生きている。健やかに眠る赤子を見て、その可愛いさのあまり抱きしめて泣かせてしまう者もまた、ある種の刺客ではあるけれど。
■友人たちと共にした宿で、夜半にふと目覚めた時。親族と過ごす宴の終わり間際の、ゆるやかにほぐれた時のはざま。また雑魚寝する子供たちの、乱雑な寝姿と純朴な寝顔に眺め入る時。そんな時私はふと夢想する。眠りを見守る夜警になりたいと。眠る者の眠りを不眠不休で守る夜衛になれたならと。報酬を求めるつもりは毛頭ない。目の前の物言わぬ幸せそうな寝顔が、すでにその多すぎる褒美なのだから。
■いや…そんな夢想をするわりには私は実によく眠る。私は私が眠りいる時、私の中の眠らない者がその眠りの番をしていることを知っている。未知なる私、それはまた通常、あなたという他者として捉えられているのではあるけれど。未知なる眠り。もうそろそろ永過ぎる眠りから目覚める頃だとは思うのだけれど。全き寝顔は自分を映す鏡でもある。しかもそれは今まで見たこともない自分自身を映す鏡なのだ。
非・人非人日記(5)rewritten & replaced
ある詩人に…
- 2006.07.30 Sunday
- ■言葉と論理の世界
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- by 小野満麿
■名もなきものに名を与える者がいる。それが生命を吹き込み、同時に死を刻み込む。名のあるものの名を変える者がいる。それは若さを流し込み、同時に無を確約する。無より有を生じる口を持つ彼は、その舌から発せられた途端、その言葉の真実は腐り始めることを知っている。ピアノの鍵盤を叩いた後に生じる音は、ただ減衰しゆくのみだ。しかし唇を動かして大気を震わせない限り、生まれいずるものたちは、その存在の悲しみすらも呪えない。
■天使もどきの羽のふるえは、目に見えぬさざ波でこの次元を満たしていく。この与えられた空間では人は上を見、前に進むようにできている。これは彼が、励起した時顔が向く方向を上と言い、行動を起こした時顔が向く方向を前と定義したことに起因する。この空間総体が移動しゆく時の流れの真中では、人は過去を前、未来を後として、口の端に乗せる。以前は昔、以後は先。後ろ向きに、後ろ向きに、人は時間の中を進む。
■これは彼のちょっとした間違いに端を発する、言語の混乱だ。決してバビロンの昔に責を転嫁する必要はない。身体時間の肩越しに振りかえりつつ見る未来。バックミラーを付ければ今度は左右が反対になる。宇宙空間では上下がなくなると科学者は言うけれど、宇宙時間では前後が左右に巡りくる。それらを偏向なく見分けるために、私たちは仕方なく回転を発明した。回転はその輪を閉じ、詩人の創った時空の中で、遠心力とは逆方向の収縮の慣性系を公約数とした。現在の地球の重力だ。
■これを数値で表すと、πの3乗≒31。グレゴリオ暦1ヶ月の最大日数。31は正12面体の回転対称軸の数。正6面体の回転対称軸の数は31を反転させた13。4週間28日の13倍は364日。πのπ乗の10進法的解釈は、36.462×10≒364。数は言葉とは対極にあるので、詩人の言語ではないけれど、彼のふとした言い間違いを明確に天照す。糞色にまみれた小悪魔どもが、群れなして波打つ街角の上にも昇り来る満月。滴るように赤い満月が天秤の釣り合いを取っているのだ。
■名もなきものに名を与える者がいる。虚空の未来に光水を蒔きながら。名のあるものの名を変える者がいる。飽和の過去を石火にくべながら。全ての朝焼けと夕焼けを見る者はいない。しかしその事実を呪う過去を持つ者を、一握の光明でも見る幸せに感謝するように、自らの意志で変容させるという戦略の首謀者。名もなきものから全てが生まれたように、ものの数ではない1から全ては生まれた。彼の語る言の葉の秘密は、世界の終末まで理解されてはならないのである。
■さて、彼とはあなた自身である。男女の違いはない。他人事ではない。あなたの中の詩人を見殺しにしないように、私は私の中のあるはずもないと思っていた詩心を振り絞り、あなたの中の詩人に挨拶をする。私はあなたを裏切ることはないのです。生きましょう、くっきりと。
非・人非人日記(4)rewritten & replaced
ふと息を止めて宇宙の呼吸を考える
- 2006.07.29 Saturday
- ■数の世界
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- by 小野満麿
■かつて湘南の海岸でひと夏の間、ほぼ毎日海岸に打ち寄せる波の数を数えていたことがあった。1分間に打ち寄せる波の平均はほぼ10であり、波の数は1日にほぼ14400回であると確認した。その時に自らの呼吸も数えたのだが、これまたほぼ同数であり、1日にほぼ14400回であると自覚した。最近その数値が上昇している地球の固有振動数(シューマン共鳴)は、人間の脳波のα波の振動数帯域とよく似ている。
■ホゼ・アグエイアスの創出した『ドリームスペル』という時間のゲームでは、銀河側から吹き込む銀河風と太陽側から逆に噴出す太陽風を、20の紋章を用いて大きな1つの呼吸であると表現している。260日や260年や26000年等という大きな周期もまた、1つの呼吸として捉えることが可能なのである。1つの周期の間に生体や空間波反転していると考えることができる。暦の諸周期はまた反転周期でもあるのだ。
■数学者モーリス・コットレルは太陽黒点周期の研究から、惑星歳差運動周期と長期的太陽黒点周期の長さが同じ年数であるということを発見をした。ガス状液体の塊りである太陽は、全てが同じ速度で自転しているのではなく、1回転するのに赤道付近で26地球日、極周辺では37地球日を要する。この2つの周期は87.4545日ごとに交差する。これを1単位として、48単位が11.49299年で太陽黒点周期に近似する。
■さらにこの781ビットごとのパターン、つまり68302日(187年)の周期があることが新たに分り、またこの19周期が3回、20周期が2回で合計97周期(18139年)という大周期があることも分った。この20周期は1366040日(もしくは3740年)で、5254×260…つまり5254ツォルキンとなっている。この日数は260の2乗の20倍1352000と54ツォルキンの和でもある。この太陽の磁極シフトの年数は「黒点周期」と呼ばれている。
■ところでドイツのドレスデンにあるマヤのドレスデン・コーデックスには1366560日というスーパーナンバーが記されている。ちょうど前述の1366040日に2ツォルキン520日を足した数値である。これらの2数にはまだほかに深いかかわりがあるのだが、マヤ人が地球の地殻変異につながる黒点活動周期を特別に重要視していたということは、ほぼ間違いないだろう。
1366040=1352000+14040=260^2×20+260×54 (14040=54×260)
1366560=1366040+260×2
■太陽は内接する正8面体の頂点と思しき点から、<++、+−、−−、−+>と表現できる異なる種類の電荷粒子をスプリンクラーのように放散している。占星術ではまず誕生時に太陽の位置を調べるが、個人の性格形成に大きな影響を与える太陽の位置を地球との角度で表現し、統計学的知識も踏まえた上で算出しようとする。太陽の様々な周期のスパンについてもまた、色々な神秘家たちが言及している。
■神秘的情報源たちによれば、グレートソーラーサイクルは一種の呼吸として捉えられている。つまり12500年間「息を吸い」、一時停止して、それから12500年間「息を吐く」というようにである。 この実際の呼吸にもある一時停止の期間を1000年と置くと、この一呼吸が26000年(920年とすると25920年)のプラトン年もしくは惑星歳差運動周期、もしくはマヤンの26000年という長周期の単位にもなる。
■この26000年の呼吸が8640回為されると、私たちの銀河は1回転する。この1回転をまた1つの呼吸とすると…。いやこれ以上言わなくても、気の遠くなるような年月の周期の一呼吸と、私たちが生きている証としてして何気なくしている一呼吸一呼吸とが、何らかの形で繋がり呼応しているのではという私の気持ちは分かっていただけるだろうか。妄想でもよい。自らの生命に改めて敬畏をもつことができるなら…。
乱雑な部屋は混乱した意識の表れ
- 2006.07.28 Friday
- ■日々の記録
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- by 小野満麿
■正直に告白すれば、私はかなりの面倒臭がりだ。興味のあることには人並み以上の集中力と持続力を示すこともある。しかし朝起きて布団を畳むこと、ベッドメーキング、服のかたずけ、部屋の掃除、机の上の整理、パソコン内のファイル管理、友人との約束の微調整等などは、みなできればせずに済ませたらと思う。しかし身辺の外的混乱の整理整頓は、間接・直接に精神と意識の混沌度の減少に役立つ気がする。
■朝布団を斜めに畳んだまま押入れにぶち込んで外出すれば、無意識にその不具合が体と心のどこかに残っている。きちんと畳み直してから家を出れば、少なくともそのことに対してのカンの虫的な不快感は消滅する。整理整頓は物理的外的世界の美しさの維持と共に、体調や気分も含めた内面世界の安定と健康にも効果があるに違いない。もっとも生きるということは散らかしと片付けの鬩ぎ合いではあるけれど。
■部屋がしょっちゅう乱雑な人や整理整頓がうまくできない人は、多分どこか心の中も混乱し続けているのではないだろうか。もちろん一見無秩序な部屋から素晴らしい作品を創出する人もまれには存在するが、大概の人は外部の混沌さは内的な意識の混乱を反映している。部屋の中の混乱⇔PCの中の混乱⇔脳内の混乱は一連の相似形を体するという法則。乱雑な混沌と繊細な感覚が共存することはまずないだろう。
■また逆に塵のひとかけらもないという表現が示すような極端な整然さを好む人は、これまた自他の生命や動きを止めてしまうような性癖を持っていることがある。この乱れなき清潔さを好む人は、自らの領域への侵入を拒絶するかのように他者のだらしなさに介入し、共有空間のありようを制限する。過度の混沌も整然さも、共に活力と自由さを失っていく。内的均衡と共に外的な平衡感覚も必要だということだ。
■机の上・部屋の中・棚の中の本等の乱れとそれらの整理整頓は、生命活動における新陳代謝に似ている。だらしなさときれい好きの間の黄金分割点は人により異なるし、同じ人にしても時間と共に変動し続ける。精神性も含めた美を体現するために美容体操を成すように、おそらく生活空間を意識的に整理整頓することで、人生を美しく生き生きしたものにしていけるに違いない。
■YES!…確かに…確かにそう思うのだけれど、私は面倒臭がり側に黄金分割点がかなり偏っているらしく、やっぱり整理整頓は面倒臭い。特に個人的な許容限度を超えた共有空間の乱れを目の当たりにした時は、なぜ私がこの尻拭いをしなくてはならないのだと情けなくて悲しくなってしまうこともある。もちろん放置しておいてもいいのである。自らの掃除や整理整頓そのものすらも。ただそれが可能ならば…。
■私は整理整頓された空間が好きなのであって、掃除や後片付けが好きなわけではない。掃除は新しいものを創り生み出していく活動に対しては不毛な作業のようにも思える。しかし実はもっとも大切な創造活動の第一歩なのだ。だから今は本当にやりたいのか、今必要なのかと自問し、やるからには意識的にしっかりやろうと決めて、ただそれを自然に為すべきこととして為せばいいのである。さあ、やろう。はい。
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褒め言葉とお世辞の違いとは
- 2006.07.27 Thursday
- ■日々の記録
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- by 小野満麿
■子供の頃はいつも、褒められると居心地が悪くなりもじもじしていた。大人の褒め言葉とお世辞との違いが分からなかったのだ。どちらも悪意はなく好意に満ちていた。そこでつい照れ隠しから、自分を過少評価する言葉を吐いた。すると大人たちは慢心がなく謙虚だといってはさらに褒めてくれた。私はさらに困惑の度を増し、「ありがとう」の一言もいえずにその話題が過ぎるまでの時を耐えるのが常だった。
■褒め言葉とお世辞との違いとはなんだろう。褒めるとは「物事を評価し、よしとしてその所有者・行為者にその気持ちを伝える」ことだ。お世辞とは「他人に対して愛想のよい言葉、人の気をそらさぬうまい口ぶり」のことである。これがもう少し度を過ごすと、口先ばかりで実意のないお世辞を言ってはこびへつらう、おべっか、おべんちゃらになる。お世辞を言われることに対する羞恥心も1つの感性だ。
■この褒め言葉とお世辞の根本的な違いは、相手の本質的な長所を見抜き、将来に向けてそれをより好ましい方向に伸びてほしいという気持ちがあるか、その場の自分の安定と心地よさのための言葉かの差だろう。後者はその場凌ぎの犯罪だ。もっともそれを見極めて自らの未来への活力とするか、舞いあがって我を忘れるかは受け手側の問題だ。嘘や策略ではない褒め言葉を見分けられないのも自己責任だろう。
■もっとも普段はそのように2極化しているわけではなく、褒め言葉とお世辞の間のスペクトルを揺れ動くものだが、いくらかの時間をその人と共に過ごせば、その基本的な色調は分かってくる。今では私もその違いを少しは見分けられるようになったと思う。そして思いやりのある褒め言葉には、お礼も言えるだろう。もっともいまや人に褒められるようなこともほとんどなくなってしまっているのだが。
■いまだにお世辞を言うことは苦手でできない。しかし本当に良いと感じたことを素直に誉めることは、ぎこちないながらもできるようはなったと思う。せめて面と向かった人の美点や長所がより自然に伸びていくことを祈りつつ、控えめに称えていけたらと思う。
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ニネヴェ定数と銀河の1回転
- 2006.07.26 Wednesday
- ■数の世界
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- by 小野満麿
■某ヌース理論では宇宙には太陽系しか存在しないと主張する。ところでその太陽系の惑星や衛星などの諸周期が全て揃って1巡するにはどれだけの時間がかかるのだろう。答、約620万年。では銀河の1周には一体どれだけの時を要するのだろう。答、約2億2350万年。惑星歳差周期とはどのようにな関係にあるのだろう。答、銀河の1周はぴったり8640歳差運動周期である。これらの数字に意味はあるのだろうか。
■紀元前7〜8世紀に現在のイラクに実在していた古代アッシリアの首都ニネヴェの図書館の遺跡から発掘されたシュメールの粘土板には、聖書のノア伝説の元ネタになったギルガメッシュ叙事詩などと共に、謎の数値がいくつも記録されている。ほとんどの科学者はその意味を見出せずに放置しておいたが、これらの粘土板群の中から、モーリス・シャトランが195兆9552億という巨大な数の意味を解読した。
■このニネヴェ定数と名付けられた195,955,200,000,000は、太陽系の惑星・衛星・彗星などの諸天体からシリウスなどの恒星までも含む公転周期もしくは会合周期の整数倍となっており、それら全てが同一の出発点に回帰する超大循環周期だったのだ。これを1日の秒数( 86400秒)で割った数が22億6800万であり、さらに1年の日数(365.2422日)で割った数が6,209,578.19224(620万9578.19224)である。
■つまり太陽系の全天体は22億6800万日(約620万年)の周期で元の配置に戻るということなのだ。この195,955,200,000,000を太陽系の惑星や彗星や衛星の諸周期で割っても、秒単位で現代科学のデータとぴったり一致するのだが、この数値はまた70に60を7回掛けた数でもある。 ニネヴェ定数195,955,200,000,000=70×60^7
■我々の太陽系は恒星シリウスの周りを80万年かけて公転しており、これらの双方が2億2350万年かけて銀河の中心に対して公転している。エドガー・ケイシーの生まれ変わりだと言われているディヴィッド・ウィルコックが算出した銀河周期は70,543,872,000,000,000=0.7×60^9(7京0543兆8720億)だった。この数値は銀河の1回転に要する年数22350年に1年の秒数を掛けた数値に近似している。
■彼はこれに1年の日数などを掛けて銀河の調和的年数223,544,814.9201(2億2354万4814.9201)年を算出した。そしてニネヴェ定数を1年間の秒数で割った数値、すなわち6,209,578.19224でこれを割り、36という綺麗な整数を導き出したのである。6×6=36、36×10=360。これらの数字の調和は人間の数であり、地球の数によってなされている。恐れることはない。 2,235,448,149,201,000,000÷6,209,578.19224=36
■さてこれより彼は銀河が1周する間に太陽系の惑星は36回最初のスタート位置に戻ると主張した。またこの周期の間に歳差運動周期はぴったり8640回になる計算となる。8640という数値は1日の秒数86400のちょうど1/10にあたる。ウィルコックもさぞかしこの銀河レベルにまでつながる数のシンクロニシティにはさぞかし愕然とし、恍惚としたことだろう。この数と周期の基本単位は地球の1日と1年である。
■日々の生活に窮々としてばかりおらずに、時には「偶然や創造の産物ではありえないこのニネヴェ定数をシュメール人はなぜ知っていたのだろう?」と考えてみるのもよい。「超文明の存在」や「地球外知的生命体」を想定せずにはいられなくなるのではないだろうか。もっとも個人的には現在の世界観の延長線上にそのようなもの想定はせず、むしろこの人間精神の反転として捉えようとはするのだけれど。
街角で小雨に濡れる人波を見た
- 2006.07.25 Tuesday
- ■日々の記録
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- by 小野満麿
■名古屋に戻る新幹線に乗る前に、有楽町の駅前近くの交差点にあるハンバーガーショップ『ウェンディス』でゆっくり朝のお茶をしながら人通りと町並みを眺めてみた。はるか昔、デスモンド・モリスの言葉を借りてマン・ウォッチングなどと称して、吉祥寺の駅前で人波を眺めていたことがある。あの時は今と違って、今思えばやはり人恋しい気持ちがあったのだと思う。今は自分というものがかなり柔らかい。
■自分は観察者ではないはずなのに、大きな窓越しにすぐ目の前を行き来する人波は、全くの無責任ながらやはりいとおしい存在として感じられる。仕事場に急ぐサラリーマンやOLたちは、一生懸命いきているのだなあと、おのれの身の不確かさを棚に置いて妙な感慨に耽ってしまう。小奇麗に身づくろいして美しい町並みを足早に急ぐ人たちの幸せや充実度までは分からないけれど、これが日本人なのだと感じる。
■今日は朝から雨が降っている。天気予報を知らぬまま数日過ごしていたのだが、ここのところの殺人的な暑さと陽光の強さがなりを潜めて、今日は雨に当たれば冷えて寒いほどの涼やかさだ。濡れた路面を子気味よく水しぶきを上げて走る車が走っている。柳の並木もしめやかに落ち着いた佇まいだ。街を歩く人たちとは少し異なった視座から見る世界は、異次元から覗く世界のようでどこか儚く、そして愛おしい。
■急ぎ足で職場に急ぐ人たちの歩きっぷりの違いや姿勢の良し悪しが気に掛かる。立ち姿と歩き姿はその人のその時の本質とか、それまでの生き様とか、生まれついての性格すらまでも出てしまう。顔に表情や人相や造作が同時に見て取れるように。傘などを差しているとなおさらその体の歪みが協調されもする。それに服装の色やセンスが相まって、万華鏡を覗き込んでいるように千差万別の印象を輝かせている。
■ぱっと見でその人の全てが分かるものではない。しかしほんの一瞥である程度の本質や性格が分かることもある。これは別に超能力とか直観力などとご大層な言葉を持ち出すまでもなく、人間として通常の意識であればおそらく誰にでもありうるものだ。例えば満員電車は十分不快なのだが、乗車時に周囲に来る人の自分にとっての快不快を瞬時に見極めて位置を定める技は、重要というより死活問題ですらある。
■道の反対側の軒下に喫煙コーナーがあるのだろうか。数人が貪るように煙草を吸っている。中毒症状に見える吸い方だ。一概には言えないけれど、喫煙者は煙草でストレスを解消するという。ストレスは吸わない人も当然ある。吸わない人もちゃんと別の方法でストレスを解消させているのだけれどね。身体自壊の自由もあるけれど、タバコの臭いは吸わない人にはたまらなく臭いだという事実はどうぞお忘れなく。
■東京国際フォーラムの船のような窓ガラスだらけの建物が雨雲を切り裂いている。人間の創った者はなぜかくも醜く感じられるのだろう。個人的な印象ではあるのだけれど、建築物の多くはがさつで不細工で、デザイナーの自己主張もいやらしく、周囲との不調和がはなはだしいものが少なくない。それに比べると一本の立木、ひとひらの花びらのなんと繊細で理にかなった美を持っていることか。命の細やかさ。
■さあ、そろそろ窓越しの視座から第3者を気取っているばかりでなく、私もドアを開けてそちら側に出て行こう。不細工な物でも嫌わずに、同じ空間のなかで慈しもう。目の前のあらゆるものは、界面である私の内側を逆の方向から眺めている景色の中にあるという感覚がある。様々な対称性を一つ一つ積み上げていって、統合していこう。しかし今はまだ、私の意識の中の流れと区別が付かない人波を楽しみつつ。
角度も長さも時さえもこの身の内に
- 2006.07.24 Monday
- ■数の世界
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- by 小野満麿
■先日駒込で行ったメタトロンレクチャーに来てくれていた暦日家開智氏が、占星術師るしえる氏及び甲田列氏との討論でしてくれた話が面白かった。その昔分度器も持たなかった人間は、なぜ円の1周を360度に分割したのだろう。普通は360という数は約数が多い(全部で24個)ので採用されたと考えられているが、肘の長さのキュービットのように、角度もまた人間本来の体と密着していると彼は教えてくれた。
■地平線に向かって腕を伸ばして親指と小指を一杯に開くと、その先端の間が自分の目から見てほぼ20度に相当するという。また同様に腕を伸ばしたまま指を立てると、親指の爪の幅が2度、小指の幅は1度に当たるとのことだ。だから片手の掌を伸ばしたままその先端をずらしていくと、9回分で真後ろを向き、18回で、自分を中心に世界が1周することになるのである。個体差はあろうが、これは説得力はある。
■その彼からメールで質問が来た。22.5度、もしくは円の16分割についての問いである。答えようと考えているうちに、自分の中で数が勝手に走り出していくので、面白がってトレースしてみた。まずは22.5という数は円周率πと自然対数の底eの積である。正確にはπe=2.45915771836104547343…。22.5の10倍の225は15の乗だが、金星の公転周期でもある。金星が16回公転すると3600日経過するということだ。
■1から5までをそれぞれ3乗して足すと225となる。22.5の10倍だ。つまり225=1^3+2^3+3^3+4^3+5^3=1+8+27+64+125 ( ^ は累乗を表わす)ということだ。360と100もしくは10進法の関係がちょっとだけ垣間見れる気がする。このペンターブの対称性をずらして、3を1から5状までして足すと、3^1+3^2+3^3+3^4+3^5=3+9+27+81+243=363となる。これに+1することで364を得る。
■22.5のかわりに22.68もしくは2268という数に注目すると、10進法とのからみがもう少しだけ見えてくる。2268の16倍は36288である。9の階乗、10の階乗という数の10進法ホロンは、9!=1×2×3×4×5×6×7×8×9=362880であり、10!=1×2×3×4×5×6×7×8×9×10=3628800である。この22.5と22.68のズレは「+1の関係」に似ている。ではこの2268という数値を見てみよう。
■テオティワカンのグランド・アベニューの長さは2268メキシコ・ヤード(2400m)である。コパンにあるマヤのピラミッド及び、ウルにあるシュメールのジグラッドの第1段の底面積は共に2268平方メートルである。ギザの第2ピラミット(カフラーのピラミッド)の体積は2268000立方メートルだ。加えるに銀河系の1回転は26800000年=36ニネヴェ定数周期(6300000×36)=288シリウス周期(787500×288)だ。
■この数値はまた8750惑星歳差運動周期(25920×8750)でもある。ニネヴェ定数を1日の秒数86400で割った数値は2,268,000,000である。古代メキシコ人が算出した地球の外周の60倍にあたる距離もまた、2,268,000,000メキシコ・ヤード(24億メートル)である。ところでこの22.5とこの22.68の差は0.18もしくは100倍して18である。この2数の比は125:126になっている。
■…数字ばかりで恐縮だがたまにはご勘弁を。数と暦と宇宙と遺跡とが、この私たちの身体を解してつながっていると言いたかったのである。数字を使って表現しても、本当に言いたいことはその後で数字が全てかき消されたところにまだ残るものではあるのだけれど。数に辟易せず、また偏愛せず、普通の友のように付き合えるならば、あらゆる秘密も白日の下に晒されていることを知るようになるのかも知れない。
反転した異世界としての地球空洞説
- 2006.07.23 Sunday
- ■惑星グリッド
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- by 小野満麿
■「地球空洞説」とはこの地球の内部が中空であり、場合によっては球殻の内側には異生物や異文明が存在しているとするものだ。現在では疑似科学であるとして省みられてはいない。古代における地下領域の概念は、ギリシア神話における冥府、ユダヤ教における冥土、キリスト教における地獄、日本の黄泉の国などと深く結びついていた。この世に対するあの世。シャンバラは本当に大地の中にあるのだろうか。
■17世紀末にイギリスの天文学者エドモンド・ハレーは極地方の変則的な磁気変動を説明すべく、地球は中心核と2つの内核とからなるという「地球空洞説」を発表した。彼は地球内部は明るくそこから漏れた発光性ガスがオーロラとなると考えた。またオイラーの公式で有名なスイスの数学者レオンハルト・オイラーは多重球殻を採用せず、その代わり全てを照らす一個の内部太陽を仮定した地球空洞説を主張した。
■その後も地球内部には連星太陽あるとした説や、両極には開口部がある5層の同心球であるとするモデルや、内部太陽を持たない単層の空洞地球のアイデアなどが提唱された。やがて作家たちによって隠された智慧を護る秘密の賢人たちや超人的な種族が、秘密の地下都市もしくは空洞地球の内面に住んでいるという説や、UFOは地球内部から飛来するという考え方などが大真面目に取りざたされた。
■1967年と1968年にアメリカの気象衛星が両極に穴を撮影したと言われて世界中が大騒ぎになった。『空洞宇宙起源論』というものがある。我々の世界が凹面の内部に存在し、太陽や月や星は空間内部に浮かぶ雲のようなものだとすると考えだ。さらに他の惑星の写真でも極地に穴が開いているように見えるものが次々に発表されたため、他の惑星達もみな空洞なのではないかと想像するオカルティストも増えた。
■エドガー・アラン・ポー、ジュール・ヴェルヌ、エドガー・ライス・バローズなど多くの作家がこの地球空洞説に基づいたフィクションを書いているが、ロシアのストルガツキー兄弟は『収容所惑星』という小説で、異常に強い大気の屈折のために大地が凹面に見え、高密度の大気のせいで星空も見えず、住民たちは自分たちが凹面の惑星に住んでいると考えている惑星の話を描いている。つまり曲率の問題なのだ。
■今までずっと双対もしくはその反転という概念を提示してきた。地球に対する対の地球を考える時でも、反物質からできている反地球や、太陽のちょうど180度向こう側にある惑星Xなど様々なアイデアが出されている。この地球空洞説もまた、曲率が逆なだけの対の地球と考えることができる。地球の重心が宇宙の無限遠点の面とリバーシブルなのだ。さらに進めば現在の地球もまた反転地球でありうるのである。
■意識の界面でも曲率は反転する。あなたと私、世界と私、内面と外面。ドラマはその界面で起きる。曲率0もしくは∞。私にとっての空洞地球は私の心の中にある。では心はどこにあるのか。この私の周囲にある全世界の反転したところに。内面と外面を同時に合わせ見ることができる界面というものを想定した時、私はどの視座から見ているのであろうか。人間空洞説。多くの未知は自分の内部からやって来る。
自らの生命をゆるやかに味わえば
- 2006.07.22 Saturday
- ■日々の記録
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- by 小野満麿
■踏み出す足の一歩一歩、深く緩やかにする呼吸の一つ一つ、心臓の鼓動の一つ一つ、めぐらす思考の一つ一つが、本来あるべき私のありように比べると、まだまだ粗いと感じてしまった宵闇時。何者とも摩擦を生ぜず、何物とも相性が良く、自らの心すらも穏やかに静まりあって、ただこの次元の視座だけがある。あらゆる光を集めて、その美しい影にゆるやかにときめていてる命を自ら抱いて空気の中を進み行く。
■そんなに貪ることもなく、そんなに足早に急ぐこともなく、本当にゆっくりとこの世界を動き行くということ。私はそれほど高速で移動しなくても良いということを思い出した。本当に必要な時は何かが私を迅速に連れて行ってくれるはず。そんな風に考える人を、昔の私はおかしい人だと思っただろう。しかしその時の私もまた実はちょっとおかしかったということを、今の私は覚えているからどちらも愛しい。
■そんなふうに思い巡らせながら、いつもは立ち寄らぬ店に入って紫色した花束を買う。家に帰ったらあのガラスの花瓶に生けてみよう。お金と戦うわけでなく、お金から逃げるわけでもなく、ただ身の回りに流れるままにさせておこう。気が向けばちょっと押したり、引き寄せたりもできるのではあるけれど。流れをいじらず、流れに染まらず、ただその中で交わらず、摩擦も抵抗もないままに居るということ。
■緩やかに歩きながら考えることは足早に考えることよりも巡りが早い。繊細に動かしてみる体のあちこちを意識することは、あちこちの体の自然に動きたがっている感覚を少しずつ知ることができる。重力があればこそ、地上の生活は維持されている。重力は私たち人間の意識の総体であると友人は言った。字有力の恩寵というフレーズを先達の詩人は教えてくれた。重力に沿って動かす体の心地よい回転感覚。
■呼吸は意識的にも無意識にでもできる界面行為だ。随意と不随意、機械と生命、条件反射と自由意志。その呼吸を用いて声を出し、意志を伝え合うという行為は本来、嘘や衒いや虚勢や自己憐憫のために用いるものではなかったのではないだろうか。あなたと私、ものと命、光と影、触れるものと触れられるものを繋ぐ神聖なものではなかっただろうか。呼吸を1つする度に生命は死へと向かう。愛しからずや。
■ゆっくり踏み出す足先を見詰めてみた。足先を気にすることは長いことなかった。十代の終わり頃に畳の上に横たわり、首をもたげて足先を眺めてみた。その足の指たちは遥か遠くにある感覚がしたことを思い出す。あの不思議な感覚。自らの体なのに、手を伸ばしてもいつまでも届かないつま先との距離感。苦節を耐えてきた足先に感謝の念が滲み出て行き渡る。同様に体の各所に対しても有難さが湧き上がる。
■ゆっくりと自らの両の手のひらを眺め見る。右手が愛おしくて左手で撫でてみた。その左手が健気に思えて右手でさすってみる。どちらも私の体なのだけれど、どちらも触れることができ、触れられることもできる素晴らしさ。共に1つに合わさって合掌することもできるけれど、それぞれがばらばらに体のあちこちを撫でさすり、癒し、元気付けることすらもできるという素晴らしさ。
■私は私を抱きしめることで、私は私に抱きしめられる。呪うことすらもできるけれど、私は祝い寿ぐ方を選択する。これは好みの問題かもしれないけれど、自らの好みすらも好ましい。本当にゆるやかな流れの中で、私は自らを予祝し、恩寵に満たされるであろうことを確約する。その思いで取って返して世界を寿ぎ、寿ぐことのできるこの身体があるという喜びに身を震わす。夜が降り、闇は満ち、時は巡る。
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