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  • 2024.01.09 Tuesday
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一定期間更新がないため広告を表示しています


休息…?

毎日更新で突っ走ってきましたが、現実的に為すべきことが大切な時期を迎えましたので、残念ながらしばしの間、「毎日更新」は休息を取らせていただきます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

君の1万円と僕の1万円を交換しませんか



■君の1万円と僕の1万円を交換しませんか。君と僕そのものがまだ交換できないのならば。君は1万円で半日の生活しか出来ないと言うけれど、僕は1万円で1週間生きていける。君の1万円の代価と僕の1万円の代価を交換しませんか。さてはたしてそれによって君が損をするのだろうか、それとも僕が損をするのだろうか。双方向における真の代価の等価ならば、どちらも損得しないはずなのだけれど。

■根本的なところをいつもいつも見逃し続けながら、1万円と1万円相当の物品を交換するという幻想。人と人とで1万円の価値が違うように、国と国とでもこの1万円の価値は違うというのだろうか。何と何とが等価交換のための約束事なのだろう。等価交換という建前は何だろう。国と国との違いがその差異を生むのであれば、そのそもそもの国と国とのたてわけを永久に止めることはしないのだろうか。

■数を数えるようにお金を数えられると考えていることの不思議。君の1万円と僕の1万円の何が違うのだろう。君の12時間と僕の168時間を交換しませんか。君と僕とが交換できないのであるならば。同じ1万円で君はそれまでの14倍の時間を得られるし、僕はそれまでの14倍のスピードを手に入れることが出来る計算になるのだから。交換は出来ない?ではお金で交換している者は何なのだろう。

■1日24時間の7日を交換できるのならば、1日21時間の8日と交換できるはず。1日が違うのか、1時間が違うのかは、君の時間と僕の時間が等価でないからだろう。君の一生の価値と僕の一生の価値も等価計算できるのかな。それは一体誰の価値基準による等価なのだろう。純粋に客観的な視座に立って、そこから2人の一生を計算出来る者がいるのかな。君の1万円と僕の1万円を交換しませんか。



■君に取っての君の時間と価値が、僕に取っての僕の時間と価値が、本来ばらばらだからこそ交換できないのであれば、交換してみればその価値の違いが分かり合えるんじゃなかろうか。同じは違うで違うは同じ、君は君で、僕は僕。同じは同じで違うは違う、君は僕で、僕は君。私はお金というものを時間により生じる利子を生むための装置として見ているんだ。君の1万円と僕の1万円を交換しませんか。

■本来、ものごとに値段は付けられない。にせ金流通世界ではそれが可能となる。世界がにせものだと気づくまでそれは続く。ひとりよがりの王国の生じる場の設定。なぜ利子が利子を生むかの初期設定がどこまでも不明瞭のまま。古い1万円と新しい1万円とで価値は違うのだろうか。1万円を2万円で買うことを禁止しているのは法律だけれど、法律そのものに権威を与えるものが私には見つけられない。

■健康食として豆腐を食卓に上げるのはいいけれど、たかが冷奴1つ作るのにチェーンソー使うのは止めてほしい。包丁の銘がオッカム印だったなら、包丁を使わずに皿に豆腐を投げつけろ。数学と幾何学には美しさがあるけれど、今の経済と政治には、どんなにひっくり返しても美しさが出てこない。不様さが醜さが、本来無職透明なはずの数字の上にこびりついている。それが価値だとは認めはしないけど。

■君の無心の微笑みに値段をつけずにただ楽しもう。僕の無償の愚かな愛を、あれこれ値踏みされるのはとても辛い。君は何百万も持っているけれど、僕は1万円すら持っていやしない。ああでも、それだからこそ今ここで、君の1万円と僕の1万円を交換しませんか。君と僕が交換できないのであるならば。意や交換できないのであればこそ、いっそ1つであることをただ思い出せばいいのかもしれないね。

■君の1万円と僕の1万円を交換しませんか。

チッチー



■ものごころがついた時から、いつもそばには猫がいた。井の頭公園のそばで生活していた時も猫がいた。病気がちで、いつまでも大きくならない白黒のブチ猫。名前をチッチーといった。ある真冬の深夜、そのチッチーがアルミサッシの戸の透き間からひょろりと出ていき、車に撥ねられた。悲鳴を聞いて外に飛び出した私は、道の端にぼろぞうきんのような塊を発見した。一見しただけでもう助からないと分かった。

■しかしまだ絶命していないその猫を私は抱きかかえて部屋の中に運んだ。 だんだん硬くなっていく体をマッサージしながら、私は何が起こったのか実感が湧かずに、ただ静かに見つめていた。口や鼻から体液が止まらず流れ出している。その猫が力を振り絞って長い鳴き声をあげた。その冷たい空気を震わせる振動が最後の一声なのだと直感的に分かった。言葉にならない情動が私の身を包んだ。

■私はこの猫にできるだけの接し方をしていたので、ああすればよかったとか、こうしてやればよかったなどという悔いは何もなかった。ただ何か夢の中にいるような気がした。そのままその横で朝まで眠り、目が覚めてから死後硬直で突っ張った亡骸を、狭い庭に深い穴を掘って埋めた。その日から窓辺で音がすると、反射的にアルミサッシの戸を開けてあげる癖が残っている自分に、何度も何度も気がついた。

■1週間後、ようやく物音がしてもアルミサッシに手を掛けなくなった自分に気がついたその瞬間、胸のところにマヒしていた感情が堰を切ったように溢れ返り、涙がどっと込み上げてきた。その時初めてあの猫が本当に死んでしまったのだという事実を実感した。そしてあの最後の一声を自らの内側でこう理解した。「私の死を辛がったりしないで、これを反転して生きる力に変えて!もし思い出して悲しむのなら、忘れてしまって!」

■私はアルミサッシの戸を大きく開け放ち、その言葉の意味を噛み締めつつ何度も繰り返した。窓の外の植え込みの緑がゆるやかに風になびいていた。最後に抱き締めた時の感触が手のひらによみがえって来た。目に見えない純粋な感謝の塊が、私の中を抜けていった。冬の弱日がその手のひらに温かかった。

■私は今でもたまにその猫の事を思い出す。胸の痛みと共に思い出す。「私は約束した。思い出すたびに、悲しむのではなく、素直に一生懸命生きるのだと決意し直す事を。」そして過去の思い出にこもるのではなく、あの猫を今でも愛しているがゆえに、この今から未来へ続く生き方のエネルギーとしようと繰り返し決心するのだ。ここにも反転の発想があると感じている。

rewritten and replaced

「同行二人」は「同行多数」である



■かつて名古屋の友人が四国の八十八箇所の霊場めぐりのお遍路さんをした。私はお遍路に関してほとんど知識がないので控えめに言うが、昔は辛苦を抱えた魂の救済だったこの徒歩の旅も、今では年間約40万もの人が行うイベントらしい。もっともそれが楽なのかというと決してそうではない。敢行を決意するに至る心や道中の内外の出来事と意識は多分にスピリチュアルなものだと推測される。

■その四国のお遍路さんが着けている装束には「同行二人」(どうぎょうににんと読む)と書いてある。1人で苦しい遍路の道を歩いていても、いつも弘法大師が常に寄り添い見守ってくれているという意味だそうだ。1人きりで苦しき道を行く者にとって、絶対的な孤独ではなく寄り添ってくれるものがいるという意識はどれだけ自らを励まし、折れそうな心を支えてくれることだろう。

■この「同行二人」の考え方には興味がある。お遍路さんと弘法大師の関係だけではなく、より広義に用いることができるだろう。人生という霊場巡りにおいて、自分が自分だと思っている意識的な部分を超えた超自我的な存在を仏陀と呼ぼうが、キリストと定めようが、常に自分にとっての超越者と共に歩む意識であれば、それは「同行二人」であると呼ぶことができるだろう。

■独りよがりでわがままで、多くの人に迷惑をかけながら生きていく、未熟で不完全な自分ではあるけれど、そんな自分をいつでも決して見放すこともなく、温かく見守り続けてくれている自分の中の存在。そんな自分の中の自分を超えた存在に気付く時、人生そのものの中で、「同行二人」の旅が始まのである。自分1人きりではあるけれど2人。「1即2」であるならば、「1即多」までは僅かひとまたぎである。



■「1人が悟って解脱すれば、その家系の7代にまで遡ってよい影響がある」いう考え方がある。これは一個人における人生の諸問題もまた、7代くらいの長い時間の流れの中で作られてきたという考え方から来ているらしい。またネイティブ・アメリカンのある部族は、その部族の規則を変える時には、それが7代後の子孫にどのような影響を与えるのかまでを考慮しなくてはならないという言い伝えがあるそうだ。

■7代ということをリニアルな時間的に考えれば、100年以上の長きに渡るということになる。また自らの先祖として考えれば、両親が2人、祖父母が4人、曽祖父母が8人…と考えていけば、7代前までの先祖の総数は127人となる。実際にこれだけの人のうちの1人でも欠けていれば、自分は存在しないか、少なくとも別の存在になっていはずだ。未来方向に反転すれば、最低でもこれだけの人間に影響を及ぼすのだ。

■7という特定の数字に限らず、単に先祖や子孫ということで考えれば、どの代からでもそこからさらに1代遠のくことによって、それまでの先祖もしくは子孫の総数に+1した数で増えていくことになる。3代前までの先祖は1+2+4=7人だが、4代目の先祖はそれに+1した8人であり、7代前までだと先祖の総数は127人だが、8代の先祖は全部で+1した128人となる。ここにも「+1」の論理がある。

■不確かで果てしないこの世界ではあるけれど、そこを遍路しゆく自分は決して1人だけで歩いているのではない。自らの内で「先祖たち、子孫たちと歩いている」のである。そしてどの代までの先祖や子孫を考えても、その総数と1代先の者たちをつなぐ+1であり、自分が正方向へ反転した双対の存在であるもう1人の「私」がそこにいるのである。そう言い聞かせながら生きていくことは素敵ではないだろうか。

面と向かって汝が名を呼べぬ我



■私は面と向かってその人の名前で呼ぶということができない。その場にいない人の名を3人称的に呼ぶことはさほど問題ない。また2人称でも「おーい」とか「あのさー…」などと言って、主語なし文で会話することはできる。かなり親しい友人知人であっても2人称としてその名を呼ぶことはない。抵抗なく呼べるのは弟妹と、ファーストネームで呼び合える外国人だけだ。これは一体なぜなのだろう?自己謎だ。

■「ちゃんと話をする人の目を見て話しなさい」と言う人がいる。対人恐怖症の人をそう言ってたしなめることがどれだけ苦痛を強要しているのか気づきもせずに。そうすることが人間として当然のマナーだという考えが思い込みだということを疑いもせずに。「ちゃんと名前を呼び合って話をして欲しい」と言われることがある。自らに無理強いしてその人の名を口にすることはできるのだが、かなり抵抗がある。

■それは対人恐怖症のように、人の名を目の前で口にすることに恐怖があるのだろうか。どうもそうではないらしい。敢えて呼ぼうとしてみると、どちらかというと羞恥心に似た感覚がそれを制止していることが分かる。恥ずかしさ?確かに名の後に「さん」とか「っち」などと語尾に何かをつけて呼ぶことで距離感を置いて呼ぶことはある。2人称で君とかあなたと呼ぶこともない。主語なし会話しかできないのだ。

■自問しても明確な理由が立ち上がってこない。あえて正当化するならば、目の前の人の名を直接呼んでも、目の前の存在を正等に指す名前であるとはとうてい思えないのである。その場にいない人の名ならば、3人称過去の名として普通に使うことは出来るのである。ちゃんと名前を呼び合って会話するのがまともな世界だというのであれば、互いに名前を呼び合わずに情報を交換する平等世界もありうるだろう。

■人の本名を口に出してちゃんと呼びはしないくせに、自分が「まろちゃん」とか「満麿」と呼ばれれば何の抵抗もなく応じて会話しているということも変な話しだ。もちろん話をする相手にもよりはするが。また他者が自分の名前を「私」を指す自称の意味で使っている人の前では引いてしまうのはなぜだろう。単なるわがまま?それともこの私のどこかにも名前に対する未知なる秘密が隠されているのだろうか。

■日本語の古文の中には主語を明記せずに、述語の敬語の違いなどによって主語を特定する表現が沢山ある。仏語の2人称単数は親しい仲でなければめったに使われないと言う。真の名前は誰にも教えないという言霊的な「名前」の考え方をする世界観もある。別に自分がそのような感覚だと主張するつもりはないが、どこか通じるところはないのだろうか。たかが名前。しかしたかがでは済まされない名前。

■ところであなたの名前は何だろう?誰にも告げない真の名前はお持ちだろうか?正直に言えば私は人には言わない自分だけの名前を持っている。これはもちろん普通の外世界に対しては最上級のシークレットなのだけれど。自分自身と向かい合う時は心を込めてこの秘名を呼ぶ。私はこの名の当体をを心から愛し、そして愛されていると感じている。すでにダイアローグではなくメタローグではあるけれど。

■名も無きものから全てが生まれた。その名も無きものに秘めたる名をつけて、心の内だけでその名を呼ぶ我れ。…mwtatronic metalogue.

陰謀説を説く者の内側にある陰謀説



■世界は陰謀に満ちている。もしくは世界は陰謀説に満ちている。本物と偽者の情報を織り交ぜる初期情報操作から、世界はフリーメイン上層部のほんの一握りの者たちによって動かされているというシンプルなものや、世界の全てが神の陰謀だとか、陰謀もまた自然なものであるという極端なものもある。陰謀を為している者もまた、更なる上位レベルの陰謀の掌中で動かされているコマだと考えることもできる。

■人類全てを背後から動かしている超越存在としてのナインの評議会。ルシファーが神に対して謀反を起こして戦いに敗れて封印されてまったとする世界観は、神の側の大いなる陰謀であるという考え方。古事記や日本書紀によって日本の上代の歴史が逆さまに書き換えられてしまっているという話…等々。陰謀もまた多重多次元になり、やがて単なる人間レベルの陰謀説は無限と言う数のように数えられなくなる。

■どのような陰謀説を取り上げてみても、取り上げている人の外に陰謀があるという発想がほとんどだ。それら様々な陰謀に対して自分だけは非力な被害者・被騙者、もしくは外部傍観者という立場から認識している。しかし本当に自分の内側には陰謀の根源力がないのだろうか。外部的な陰謀に加担しているという意味ではない。自らに対して陰謀的操作をしているものが内にもありはしないだろうかということだ。

■個人の「私」という認識の仕方にもいろいろあるが、今の自分が「私」として意識できる限界の自分だけではないことは誰にも分かる。そして今私と認識できるところをはみ出しているところが、今の私を何も操作もしくは関与していないということはないだろう。より良い私に、もしくはよりよい世界認識へと導くということも含めて敢えて今の自分からは救済というよりは陰謀と解することができるだろう。

■もちろん陰謀説に拘る必要はないわけで、過去からは陰謀、未来からは祝福と取れるものかもしれない。多重多次元は外的世界だけでなく、自らの内面世界もまた同様だろう。そして内と外は別々のように思われるが、より統合された世界観では別物ではないだろう。外部陰謀説のみならず、内部にも内部側から浸透してきている陰謀があるはずだ。自らの内側にもあるだろう諸陰謀にも注意を怠る事のなきように。

■もしろんこの文の主旨は「だから自らの内なる敵に対しても信を置かず抜かりなく対処せよ」というものではなく、内にも自らの捉ええきれない多重多次元の陰謀があると認めることだ。その全体性を今の自分が判ずることができるのだろうか。いや今の自分なればこそ、それが問題になっているのであろう。さればこそ、自らの外なる超越事象にのみ目を向けず、内なる未知にも謙虚に監視の目を向けるべしである。

「これで3回目」の論理を超えて



■ムスリムの昔話。新婚の2人が一頭のラバに乗ってハネムーンに出た。村外れでラバは急に止り動かなくなった。男は降りて棒切れを拾うとラバが再び動き出すまで殴った。「これで1回」と男は言った。数キロ行くとラバはまた動かなくなった。同じ光景が再現された。激昂をこらえつつ男は言った。「これで2回。」更に数キロ行くとラバはまたもや止まった。男は女を降ろすとピストルでラバを撃ち殺した。

■女は驚いて叫んだ。「何て事するの。貴重な動物なのにちょっとしゃくにさわったからって撃ち殺す事はないでしょ。馬鹿気てるわ、それがあなたのやり方なの?全く信じられない。何様のつもりなのかしら。」彼女がまくしたてた後、一息吹ぐと男は言った。「これで1回…。」この話ではこの後2人は幸せな結婚生活を送った事になっている。女が男のこれで何回での目の論理に従ったということなのだろう。

■しかしこの話で、もし女がまくしたてるのではなく、男より先に「これで2回…」と言っていたら、話はどのような展開となったのだろう。先に「これで3回目」と感じた者が生き残るというサドンデスになったのだろうか。それとも双方共前後して「これで2回」と言った後、かつての米ソ冷戦のように3回目が抑止力となって、これまでの方法について双方とも反省し、修正の必要に気づいたのかもしれない。

■3度目の正直という言葉がある。2度あることは3度あるという諺もある。この話は3度目にキレる話だが、仏の顔も3度までと言う表現もある。どちらにしてもそのような回数限定の論理(?)に従う必要はない。この女がこれで何回目という男の論理を無視して、いきなり離縁するなり男をぶち殺す事だってできるのだ。もし仏陀がこのようなことを言ったとしたら、2度目に逆に仏面をぶん殴ってやるもよい。



■2度までは我慢するが3度目はないという自己規定や、3度まで許して4度目は許さないと言う論理は怖い。ある回数我慢すれば+1は我慢しなくて良いのだという心理構造になりやすい。すると1度2度我慢した者は3度目または4度目を心の半面で待ち望むようになるだろう。あと1〜2回我慢すればもう我慢する必要はない。仏の顔も3度までという論理はつまりはそれまでは仏のふりをするという事だ。

■そしてもしこの論理を慣用的に用いるならば、不快なことに対しては「これで1回」と言うことで、それ以降の我慢をせずに済ませよういう脅迫論理だ。真の仏なら違うだろう。即座に嗜めるか永久に我慢するか。それとも面白がって3度まで我慢するよと言うかも知れない。3度までなどと限定して固執する自己中心的な人間とは絶対的な違いがある。なすべき事はただ必要以上慣用句に縛られない事だろう。

■ルイス・キャロルが『スナーク狩り』の中で言わせた「私が3度言う事は真実である」というセリフにはのパラドクスが秘められている。その言明自体の真実性の証明のためには、その言明自体を3度言わねばならないという事だ。そしてその言明の証明自体のため永久に3度目が繰り返され続ける必要がある。しかもそれはどこまで行っても実は証明され得ないということ。間違った数への固執はほどほどに。

恩寵のカノン<000> rewitten & replaced

テーブルの上の100円ライター



■目の前に一見何の変哲もない100円の使い捨てライターがある。黒いボディの上に消えかかった「スナック幹」という文字と0559-21-64-1という数字が読み取れる。明らかにお店の名前と電話番号だろう。この店のサービス品として多数お客に配ったもののうちの1個なのだろう。しかし私は今、東戸塚駅前のファミリーレストランのテーブルの上にある、この小さな人工物に対して様々な想像を巡らせている。

■テーブルの前には久々に帰国したNがいて、そのライターを手に取ってタバコに火を点けた。彼女は日系アメリカ人と結婚して、現在はアメリカに住んでいるので、顔を合わせるのは本当に久しぶりだ。この使い捨てライターは、彼女が向こうでパーティに出席してかなり酔っ払い、いつのまにか持って帰ってきたものだ。いくら思い返してみても日本から来てこれを使っていたような人は思い当たらないらしい。

■しかしこれは明らかに日本からどうにかしてその場に辿り着いたものなのだ。渡米した日本人が忘れ物とか贈り物とかとして、また別のところでアメリカ人の手になっていたものだったのかもしれない。それがまた今日本に戻ってきて私の目の前にある。明日はまた別のところにあるのだろう。Nはこの後沖縄の与那国島や波照間島や竹富島に旅をするので、このライターもその旅路を移動することになるはずだ。



■与那国島の目の前はもうすぐ台湾であり、実際に台湾の人との交流も普通にあるという。だからもしかしたら、このライターは台湾を経由して大陸なり別の国にまで旅する可能性も否定できないのだ。しかしそれもまた、明日をも知れぬ存在ではある。擦り切れている外見にかかわらず、今はまだ炎の勢いがしっかりしている。しかしひとたびガス欠になったら、あっさり捨てられるものであるのもまた事実だろう。

■その汚れている側面を見ながら、0559という局番の地域はどの辺だろう、実際にまだこの店はあるのだろうかなどと考えた。もしこの使い捨てライターが意識を持っていて口をきけたならば、思いもかけぬ移動の軌跡や、手に触れた者の人生の諸断面などを語ってくれるに違いない。いやこの人工物ですらそうなのだから、「人間」という光と情報の塊の軌跡や諸断面は、想像を絶するものであるに違いない。

■そんなことを思い巡らさせてくれる小さな物質を手に取って、またタバコに火をつけようとしているこのNという生命体もまた、想像を遥かに超えた人生経験と精神的軌跡を内包しているのだと考えたら、私は生命の深いところにまでに染み入るような感慨を覚えた。その彼女のちらりと動いた視線の先を辿ってみて、私は手の平の中で黒い100円ライターをくるくる回しながら、弄んでいる自分に気がついた。

■私もまたこの黒い100円ライターだった。

テラバイト日記 (20010523) replaced

生まれ変わってもまた私に生まれたい



■思い出そう。この世に生まれ出る時、それこそ死にもの狂いで産道を抜け出してきた事を。ずっと昔からいつも命懸けで無数の未知に対して、物怖じする事すら知らずに立ち向かい、乗り越え続けてきた事を。初めての空気、初めての水と光、初めての他人、初めての家の外、初めての冬。初めての学校、初めての旅、初めての恋、初めての一人住まい、初めての死の思い。様々な未知に対する畏怖と期待を。

■誰も完全無欠でクリアーしてきた者などいない。心の中に直り切らない青あざとかぎ傷をトラウマとして持ち、己の愚かさが成した取り返しのできない過ちに胸かきむしる夜。一生許せはしないだろうと呪い怨んだ裏切り者への感情。しかしそれでも生きてきた。心をマヒさせまでしてここまで生きてきた。それに意味が見出せないことがあろうか。歪み捩れ曲がり撓みしたところちとのバランス感覚が自分なのだ。

■もちろん幸福な時もあれば、成功も恍惚もあった。そして今思うのだ。人間の人間たるゆえんとは、他者がたとえどんなに自分を誤解し不当に遇していたとしても、おのれの非力を思い知らされて自分の存在が無意味なのではと自己憐憫に陥ろうとも、それでも他者を気遣い思いやる事ができるという事だ。カオスの絶壁に立ち、死の招き声を聞きつつも、世間体や利益のためでなく他者のために行動できるという事。

■嵐の後の濁流に落ちて流され、溺れかけている者が大声で助けを求めている。川の周りにはいろいろな反応をする人がいる。自分の事に夢中で溺れかけている者に気づかない人。自分では泳げないので、他人に助けを呼ぶ人。川伝いにどこまでも並走して元気付ける人。何も考えず、無謀にも濁流に飛び込んで死んで行く人。橋の上から諸行無常と運命を説き、死に際の心構えを諭す人。そいつを川に突き落とす者。

■助けるどころか共に死ぬ可能性が大きいと知りつつ、綿密な計算と可能な限りの用意をして、その上で生死を賭けて飛び込む人…。地球は今、銀河の光の嵐の中に入ったという者がいる。濁流の中で気づかぬまま、狂気の海の中で精神的に溺死する者もいれば、銀河の果てからまた次元の狭間から、人間でないものたちも野次馬にやって来ているし、なんとか助けの手を伸ばそうとしている存在もいるかも知れない。

■共に溺れる危険を覚悟で、この星の人間に生まれて来たものの、その事を忘れて死に掛けているものもいる。実は自分自身が幸せであればいいのだ。濁流も狂気もみんな3次元の夢であり、その夢を楽しむためにみずから忘れているという事を思い出そう。銀河の記憶。記憶の銀河。そして泳ぎ方を思い出そう。多次元間の波乗りをしよう。生まれ変わっても、また新しい私に生まれたい…と言える素晴らしさ。

2013のジグソーパズル rewritten & replaced

荒縄のごとき手の平の感情線



■あまり親しくない人は、私のことを優柔不断な平和主義者だと見てくれるようだが、実は私はとても頑固な激情家だ。私の手相にある感情線というやつは荒縄のように乱れていて太い。自分が感情的な人間だと知っているので、激情に押し流されないように自制して、それを外に出すまいと努めて平静を装っている。感情をもっとオープンにしたらいいのにというのは、もう少し感情的でなく優しい人に言うべきだ。

■まあ自覚しているから自制しているのだが、私の感情は一度あらわにしてしまうととことん暴れまくり、まるで狂戦士バーサーカーのようにコントロールすることが難しい。死にかけるまで自他を傷つけてしまいかねない爆弾だ。もちろん感情を否定するものではない。むしろそれがなければ人生は干からびた荒地を行く、救いなき修道士のふらつく足取りより意味がなくなってしまう。それにしても激しいのだ。

■しかし私は今分かった。界面の双方により深く入り込み、そして戻って来れるように感情の振幅が大きいのだと。恐らく人の平均よりはディープな鬱にもなり、またその分至福の至りとしての躁があるのだろう。この手相の乱れた感情線も又、私自身が押した認め印なのだ。そのこと自体は他者と比べて優劣があるわけではない。問題は私自身がそれを選択して生まれてきたと言うことだ。いやそう決めたことだ。

■躁鬱の両極はもちろん、理性と感情の両界面においてもそれは見とめられる。とてつもない至福感は知性的努力の果てに訪れるし、真理は感情のふくよかなうねりに乗っているときに閃いて光輝く。もちろん界面両生類はそのどちらででも命の危険を背負っている。水中で溺死する可能性も大気中で干からびて死ぬ危険性も併せ持って生きている。こ手の平に宇宙を。しかし手の平が宇宙の映し絵でもあるのだ。

■そこで私はじっと私の手の平を見る。それは働けど働けど楽にならない生活を思ってではなく、続けても続けても光の世界への抜け道をつかみきれないながら、この激情の使い方を弁えることで、自分の進み行く方向性を探求しようと決めていた未生の自分を思いながらである。界面活性剤となるべき、次元両生類としてのヒト。界面のあわいを反転させて、その中にもぐりこんで両次元を生きようとする者の手。

非・人非人日記(8) replaced

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