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象徴だけや論理だけではもう古い
- 2006.11.30 Thursday
- ■日々の記録
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- by 小野満麿
■ドリームスペルや13の月の暦の解説の中で紋章や音程や260のキンの説明をする時、よく「これはあくまで目安でありこの言葉やキーワードを元に自分でいろいろイメージを膨らましたり、日々感じることに注意を向けることの方が大事なのです」という表現をする。これはチャネルソースやインスピレーションそのものにもいえることで、そのほとんどがほのめかしや象徴・暗示・メタファー・多重の意味などで訪れ、時が変わればその意味すらも変動するのにも似ている。
■哲学は古来より社会・人間・宇宙・私・存在・意識・生命などという根本的なテーマと格闘してきた。そしてたとえ先哲の業績に反駁するためにでも、まずその遺産を学ぶ必要があった。習得自体は哲学の本質ではない。過去の哲学を他者に教授こと自体は教育であってまだ哲学ではない。哲学を教える方が、哲学を生きるよりもたやすい。哲学は哲学家に任せ、必要な知はデータから引き出すような姿勢がノーマルな昨今、哲学は逆に人間の考える力を衰弱させてしまっている。
■子供が一生懸命考えて自力で発見したささやかな法則を、それはもう何千年も昔のだれそれが発見しているものだよと無共感に指摘する鈍感さは、二流の哲学者や科学者や教育者と相似形なだけではない。そもそも象徴でありキーワードであるはずのものを、太陽の紋章や銀河の音程を相手の状態にお構いなしにマニュアル通りに、もしくはオフィシャルな見解から踏み外さないように機械的に説明し、あくまで象徴だから捉われるなと付け加える。禅の老師ではないのだけれど。
■自らの世界観と未来展望に対する視野狭窄を、権威を借りて増殖するような勉強会もどきや講演会は極力控え、むしろそれぞれの個人的な体験を持ち寄り、意味を多重にして共有する場の方が必要なのではなかろうか。シンクロニシティを信頼するのはいいのだが、他者との関係まですべてそのせいにして自らの目の前で起きている現象について深く思考し感じるということを怠ってはならないだろう。多くを無思考のまま問うなかれ。そして眼前の者を知らず機械的に説明するなかれ。
■感覚と思考、右脳と左脳、象徴と論理などと立て分けて見るのではなく、個人そのものがすでにその双方を内包しているのだから、それらをどう塩梅して芸術として提示できるかは個々人の問題となってきている。アートや芸能にしても、受け手の能力を見極められぬまま独り善がりのパフォーマンスをしても、もはや同類しか集まりはしないだろう。漫才で哲学を語り、舞踏で感性を調整し、スポーツで人生哲学を体現するような芸術家の生き様にこそ拍手喝采が集中するはずだ。
■これは明確に自戒の言葉である。自らと他者の足場も固めぬまま、安易に全一とかワンネスとか統合などという言葉を用いて、現状と理想の間に幻の橋を架けようとするなかれ。真に情報を共有し、生命を共鳴させるには、自らの純化が必要になってくる。浄化は肉体的精神的な苦痛を伴うものだろう。しかし純化とはさらにその後、自らを励起させて能動的に聖なる時間と空間の存在に変えゆく作業と定義づけできるだろう。それがなければ、今後は豊穣なる狂気の中で溺死してしまう。
■できるだけ正しく言葉を用いよう。そうすればそれはふくよかな真実となるだろう。
今日は今日とて「大名古屋温泉」
- 2006.11.29 Wednesday
- ■温泉と旅行
- 11:45
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- by 小野満麿
■大名古屋温泉という温泉がある。そこの温泉チケットというものを義母から頂いていたので、今日は1人だけ自力で行ってみることにした。JR名古屋駅の真ん前には大名古屋ビルジングという建物があり、名古屋城の堀の端には大名古屋食堂という多国籍的な食堂もあるが、この大名古屋というネーミングは、あまり強く自らをアピールしない名古屋人にしては少し自己主張が入っているのではないだろうか。そんなふうに思いながら近鉄関西線で4つ目の八田駅に到着する。
■チケットには八田駅より西500メートルと書いてある。歩けばすぐに着くだろうし、一度車で来たことがあるので場所もすぐ分かるだろうとたかをくくっていた。当てずっぽうに歩き続けるけれども、行けども行けどもそれらしきものは看板1つ見当たらない。駅で道を聞けばよかった。人々は自転車で帰宅を急ぐ生徒と老人ばかり。不安になって道を曲がるといよいよ道なりに後に引けない大工場の敷地をぐるりと遠回り。結局スタート地点の駅前まで戻ってみることにした。
■駅前でよほどもう帰ろうかと思ったけれど、そこからもう1度根性二枚腰で西へ向かう。どう考えても500メートル以上あるような気がするけれど、看板を発見して辿り着いた時にはすでに1時間半が経過していた。ここのところずっと運動不足だったから、今日は歩くことに意味があったのだと自らに言い聞かせつつ、とにもかくにも入場してそそくさと浴槽に向かう。ここは温泉宿泊施設だが、立ち寄り入浴可の温泉というより日帰り温泉施設と考えたほうが良いと思う。
■浴室に入ると大浴槽の他に電気風呂・ジェットバス・バイブラバス・うたせ湯などがあり、それとサウナと水風呂、そして外には露天風呂がある。腰くらいまである大浴槽にはちょうど料金が安くなる4時過ぎからの客だろうか、多数のご老人や中年の人たちが一生懸命歩行浴をしていた。その光景が少し異様だったので、円形の浴槽に三角の屋根が乗った露天風呂に長居することにした。暮れかかった空に滲む半月を眺めつつ、ぬるめの湯の中に体を伸ばしての長湯である。
■内湯は炭酸が入った温泉特有の緑がかった色をしているが、露天の方の湯はほぼ無色透明だ。昔は名古屋が温泉空白地帯だと思っていたがとんでもない。先日行ったクラウンホテルの三蔵温泉、よく行くパチンコ屋の上にある富士見温泉、賭け流しの大名古屋温泉や尾張温泉、砂利風呂の木曽岬温泉、少し足を伸ばせば長島温泉等もあった。とにかく湯量が豊富で贅沢なのだ。さらにアヤしいらしい永和温泉や100円温泉とも言われる海津温泉等にも足を伸ばしてみたいものだ。
■とにかくのんびりしたし体が温まったので、食堂でてんぷらきしめんを食してから帰路につく。外に出ると真っ暗だ。帰り道はできるだけ遠回りしたくないので、高架線に沿って駅に戻ることにした。足早に進む私の目の端に「ビトゲンシュタイン」という文字がかすめたような気がした。振り向いてよく見ると、「ひげとん食品」という看板だった。瞬時の判断は脳内ダジャレのようだ。なお駅から500メートルというが、どう考えてもわたしの足で15分以上は歩いたはずなのだけれど…。
■まあ温泉チケットはまだあるので、こんどまた来てみよう。 (on 20061128)
見える人見えない人そして見ない人
- 2006.11.28 Tuesday
- ■日々の記録
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- by 小野満麿
■トランスパーソナル学会の会長である諸冨祥彦氏が某出版社で「スピリチュアル」と言う語が入った本を出版することになった時、編集者はまずこう言ったそうだ。「ところで、先生はどこまで見えるんですか?」 諸富氏は「なんですか、それは?私は霊能者ではなく研究者ですよ」 と答える。すると「わが社では、オーラや前世が見えることをスピリチュアルと言うことにしています」と真顔で言われたそうだ。笑えない笑い話である。
■一時「江原問題」というものがあったようだ。TV番組『オーラの泉』に美輪明宏氏と共に出演している江原裕之氏の人気と影響力の功罪についてのことらしい。功績としては「目に見えない力」が人生の中に働いているということに一般人の注意向けたということだ。そして問題点はスピリチュアルという言葉が霊能・心霊的なイメージだけで広まり、「精神」的な問題すらも一般的にオカルトの文脈だけで語られ易いことだという。
■英語で言うspiritualの意味は「精神的な、精神上の、霊的な、高尚な、聖霊の、教会の」などという意味だ。しかし横文字をそのままカタカナで用いる時、その語義が異なるのは良くあることだ。spiritualとスピリチュアルを異なった意味の異なった言葉として用いればよいはずだ。現場では重要至極な問題ではあろうが、江原氏の影響力に還元するのはいかがなものだろう。いわゆる業界内の問題ならば企業努力を願うばかりである。
■さてその江原氏たちが見えるというオーラについてだ。実際に世の中には人間の生命状態や意識状態が、その人の周囲の空間に重なって色として見えたり、別の星や雲のような状態で見えたりすると自己申告する人が少なからずいる。オーラにも幾層かがあるらしい。頭の周りや体のすぐ外側に見えるオーラは、その人のその時の思考や感情や生命状態の表れであり、一番見え易いと言われ、ちょっと努力すればほぼ誰でも見えるらしい。
■オーラを見るための1つの方法は、最初に白い紙や背景に正方形の色紙を置き、それを取り去った後の補色残像を見ながら、実在ではない色に意識を集中させるというものだ。私たちが視覚認識で用いている可視光線は、光学的・物理学的に380nm〜780nm(1nm=0.000001mm…10億分の1m)というわずか1オクターブ分の電磁波帯域のことだ。これは人間が地球上で生存していくために生物学的に一番有利な帯域として捉えることができる。
■色については個人的には「外の色」と「内の色」として捉えられる。アバウトに言えば「外の色」というのは、物理的・光学的な色のことであり、一方の「内の色」と表現した方は、目を閉じて赤をイメージした時そこに見る色や暗闇の中で眼球を圧迫した時の光の色などの、いわゆる個人的に知覚される色だ。この内と外の色を変換することははたして可能なのだろうか。オーラの色という場合、この内の色に近いのではないだろうか。
■可聴領域の音が数オクターブに渡って倍音どうし相互に共鳴しあうように、オーラの色もまた可視光線の上下倍音の電磁波領域が、可視光線帯域と共鳴することによって、脳の神経系がその色調を拾うというような少し唯物的な表現もできるのではないだろうか。オーラ測定器などのハードな外的機器で身体周辺領域を数値的に変換して、目に見える生体オーラ写真にするように、オーラ視もなんらかの変調・転調能力なのかも知れない。
■ほぼ誰でもちょっとした努力でオーラが見えるそうだ。それは確かなことだと思う。しかしオーラにも多種多次元があり、それなりに見えるには生来の才能や少なからずの努力が必要になってくることだろう。オーラを見たい人は努力をして、オーラの見える人はより自らを純化して、その世界を歪めずに見てほしいものだ。共同研究によって韓国・中国・日本で気功の経絡のずれが統一されたように、そのうち共通認識ができるだろう。
■オーラが視えることは素晴らしい。しかし私は今のところ、特に見えるように努力する予定はない。自らにやましいことや隠しごとを極力せず、言葉を正しく用いて、自らを純化しつつ自然に生きて行くならば、もしみながみなオーラやその人の生命状態まで見えるような超能力者になったとしても、私の生き方は何も変わらないはずだ。それでも自然に他の人の優しさや哀しさが分からないままの人間ではいないだろうと考えている。
自由意志を持つという自由意志
- 2006.11.27 Monday
- ■日々の記録
- 17:30
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- by 小野満麿
■語義や共通認識がなければただの単語に過ぎない「自由意志」という言葉がある。とりあえずこの世界における意味で言えば、私たちはこの自由意志をうまく行使することによって、この宇宙においては望むとおりに物事を起こす力を持っているはずである。しかし自由意志は乱用されうるということも忘れてはならない。私たちは自らの自由意志で不幸を選択する事もできれば、他の存在を虐待する自由もあるのだ。つまり自由意志は自己破壊・他者破壊へもつながるということだ。
■しかも自由意志は操作されうる。個人としても社会としても良くないことを、知らず知らずに引き起こすような方向への操作だ。聖書にはアダムとイヴの楽園追放の話が出ているが、イヴはりんごを食べろと強要されたのではなく、そうするようにそそのかされたのだ。神霊と交差するために用いていた煙草を喫煙する自由の選択もある。誰も不幸を招きうるそれを強制してはいない。ただ煙草会社の利益追求や目に見えない何かに操作されて自由奴隷に甘んじている者の数の何と多いことか。
■個人の自由意志を阻害し利用するものを、自らの中にではなく外にエネルギー体として想定してみよう。アストラル・レベルを操作する否定的なエンティティは人間の恐れを食料とする。それらは人間が恐れのサイクルの中に閉じ込められるような形に私たちの世界を変えるために、長期に渡り強く騙し続けてきた。このサイクルを打開するには自分自身の自由意志でそれから離れれば良いので簡単であり、また社会が否定的な局面に自由意志をフォーカスさせようとしているので難しい。
■私たちは…いや、人間をみな巻き込む前に自らに問わねばならないだろう…私は否定的思考と習慣的に行動するこれまでの日々を超えられるだろうか。この問いに関しては喜ばしい事に、答はイエスである。もし私がそう自らに問うことができないほど外れてしまっていたら、状況の否定的な一面を受動的に見る代わりに肯定的な一面を能動的に見ようとする姿勢すらないということなのだ。少なくとも超えて行けるかという問いの目指す方向には行けないという答はすでにないはずなのだ。
■他者と自己に対する慈しみと敬いを持つこと自体が、自らの内と外に幸せと喜びを生むということに対してすらも否定的ならば、私はこのような話をしてはいないだろう。目の前に生起する草々に幸せを感じるよう試してみよう。まずその姿勢があれば否定性は遠のき、慈愛や喜悦や調和は互いに増幅しあうだろう。調和状態にあれば、目の前にあるあらゆるものごとが、自らの内と外にある否定的なプログラムを乗り越えるための、力強い訓練の場であり素材であると見ることもできる。
■そしてその今この瞬間の判断こそが自由意志なのだ。あるとも言えるし、ないとも言える自由意志とはこの刻々の今、不安や恐怖を通して現実に対する視界狭窄を教える社会的・宗教的制度に対して「ノー」といえる意識ベクトルそのものなのだ。私自身が自分自身にとってのリアリティを創出する確固たる「自由意志」を持つ存在としての責任を受け入れ、不信・罪悪感・恐怖の幻想を用いて人間性を支配しようとしている存在に対して、ありのままでNO!と言えるかどうかである。
■パラドキシカルだが、絶対服従を要求し現行の苦痛を与える状況とその原因もまた、私たちの究極の自由への教師として捉えなおすこともできるのだ。「たとえそれがゆえなきものと思えても、汝は我が求めに従え。我に逆らうだけの勇気と力を持つその日までそうするのだ。その暁には汝は自らの運命を制御できるようになっているだろう。」こう語る超越存在を神と捉えても悪魔と見なしてもよい。それを超えた時初めて神と悪魔、自由意志の有無という二元論的認識も超えているだろう。
アクシオトール・アラインメント
- 2006.11.24 Friday
- ■惑星グリッド
- 23:03
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- by 小野満麿
■最近アクシオトール・アラインメントという調整法があるが、『エノクの鍵』の中でもアクシオトール・ラインに関する話題に丸々1章を費やしている。その世界観では「ワンネスのレベルから次元降下をしてこの地上に着いた我々は、3次元の肉体をまとい、スピリットの広大無辺な自由自在性を忘れて制限のゲームを生きてきた。しかし地球と地球上の全ての生き物が波動を上げてアセンションの只中にいる現在、すでに分離のゲームを終了する時が来ている」とある。
■これはあの眠れる預言者エドカー・ケイシーの語る、霊的存在がこの物質世界を体験するために昔3次元ににじみ出てきたという話や、旧約偽典エノク書などにある地上監視役の天使200人が人間の美しい娘たちに魅せられて堕天使となるというくだりをも連想させる。そして2012年の冬至にマヤの暦が終わり、別の次元に地球が上昇するという考え方とも合わせあわせ見た時、これらは同じようなことの別の表現ではないかと考えることもできはしないだろうか。
■現今のアクシオトール・アラインメント調整施術師が、この辺りの世界観や宇宙論をしっかり把握しているのかは疑問が残る。それを自らの生業として高額な代金を取るという姿勢も、本当にそれで良いのかという疑問が残る。覚醒エネルギーをギバーにチャージしてもらうというインド発のディクシャや、リコネクションやレイキやカーエネルギー調整なども含めた、自力での回復ではなく他力による調整という相似的な形式がある。本当にそれでも良いなのだろうか。
■アクシオトール・アラインメントやディクシャなどの考え方は、このリニアルな時間の中ですぐそこに迫っていると考えられている世界変容に、各自の努力だけに任せておいたら間に合わないので、個人や人間のレベルを超えたところからの好意的介入として、基本的には被施術者が何もせずに変容の時を向かえるための基本的姿勢を与えられるという構図がある。ミトラ、弥勒菩薩、大天使ミカエル、メタトロンなどを同じものの異なる現われと見る世界観も想起される。
■地球の3次元世界もしくは物質世界は、上位世界の壮大な実験の場であるという考え方がある。人間は何もしなくてもレベルアップして、地球レベルの1つのデッドエンドもしくはリスタートに耐えうる生命ユニットになるという救済思想に重なる所もある。もちろんそれも否定しない。上位次元的・統合的発想では、「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」否定せず拒絶せず重ねて見る視座が重要となる。しかしそれゆえに自力で次元の膜を超える意識も必要だろう。
■アクシオトール・アラインメントの世界観は、エノクの鍵の中の説明と展望と抱き合わせで見た時、とても興味深く、しかも現今に必要なものであると考えられる。だからこそなおさら「他よりも優れた唯一の」とか「今この時に一番必要な」などという考え方に陥ることなく、施術者も被施術者もその研究者も、「あれかこれか」ではなく他の様々な世界の捉え方と相補的に補完しあい、より統合的・上次元的な視座を構築していくために用いられるべきであろう。
「まり」がお嫁に行っちゃった…?■テラバイト外伝(1)
- 2006.11.21 Tuesday
- ■日々の記録
- 09:46
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- by 小野満麿
■朝、お寺の階上から本道に降りて行ったら、奥さんがいきなり「まりちゃんがお嫁に行ったのよ、持参金まで持って」と言ってきた。「はぁ…?」と私。まりという名前の人は何人か知っているし、最近お嫁に行っちゃった人もいて、「え、え…?なんでお寺の奥さんがそのことを知っているのだ?いや、そのことではないのかな?」などと一人で超高速脳内スキャンしていると、「ほら、あの仔猫ちゃんのことよ、まりちゃんっていたでしょ?」と奥さん。
■1ヶ月以上前のテラバイトの時に、白黒の仔猫がお寺の駐車場に住み着いていた。同じような模様の母親と一緒にうろうろしていたのだが、奥さんがいつも別のチイという猫のために置いてあげるエサを食べていた。でも手足がしっかりしてきたらもう母親猫はほったらかしになった。人間を警戒しすぎる猫は嫌われるので、小さいうちに少しだけ愛想よくしてやろうと、テラバイトそっちのけで小一時間ほど紐でじゃらして抱きついてくるまでにした。
■それにしても奥さんがこの猫の名付け親になってくれというので、いろいろ案をだしたのだが、コロコロしているから「コロ」にしようと言っていたのに、一体どこがどうなって「マリ」になったのだろう。奥さんは最初からその名のつもりでまりちゃんがまりちゃんが…といっているので、尋ねることも憚られる。何よりその猫が貰われていったのは昨日のことだというではないか。もうかなり大きくなったそうだけれど、今日もこれからももう会えないのか。
■なんかお嫁に行っちゃっておいそれとは会えない人間のまりちゃんのこともつい思い出してしまったけれど、持参金というのは少なからずの猫缶のことらしい。貰い手はご近所のマンションの6階から最近転落して飼い猫が死んでしまった人だという。しかも転落しても即死ではなく、瀕死のままお寺の中に入ってきていたので、奥さんが本堂に運んで見取ってあげたそうだ。後日、その件の御礼を言いに来てから、白黒仔猫が気になっていたということだ。
■「コロ」改めのその「マリ」は名前からも分かるとおり実は雌猫である。新しい飼い主のところには、実は未だ他に2匹の猫がいるそうだ。なんか人間の「まり」ちゃんとイメージが被っちゃって、うまくやっていけるのだろうかとも思ったけれど、多分うまくやっていけるだろう。そしてお寺の駐車場の先住民のチイのほうだが、もう15年以上住み着いている猫らしい。今はいろいろなところが痛いのか加齢ゆえかほとんど必要最小限の動き以外はしない。
■昔は確かに美猫で、年に2回必ず可愛い仔猫を生んでいた。猫ワールドでも多分モテたのだと思う。このあたり一帯には血縁関係のある猫は少なくないのではないだろうか。しかし今ではもうお婆ちゃん猫で、この冬が越せるか心配なくらいだった。ところがその猫を目で追っていくと、謎の白いボックスの中に入っていった。和尚さんが寒かろうと思って、発泡スチロールの箱をガムテープで重ねて、特製の猫ハウスを作ってあげたものらしい。
■このテラバイト終了後、速攻で名古屋に戻って来て、ねこまんが本『超ねこ理論』の本の最終校正をした。山場は越えたけれど、これがけっこう大変だった。うまくいけばナチュラルスピリット社からのものが来月中旬くらいには店頭に並ぶ予定だそうだけれどどうだろう。これまでも何度か遅れてきたからなあ。…ということで、この本にも登場するもう1匹のお寺の猫のことも話さねば。家の中飼いで先代の住職の愛猫だった三毛猫ミミコのことである。
■ミミコももう15歳以上の老猫である。本の中では大天使猫「三毛エル」として勝手に出演してもらったのだけれど、画像を取り込んだ数年前からは確実に全体が縮んでいる。おばあちゃんが年をとると縮む、あの感じだ。しかし去年の夏には内臓疾患と夏バテでやせ衰えて卵のないシシャモのようになってしまったので、奥さんも一時は覚悟したらしい。しかしどうにか持ち直して今はそこそこ元気である。テラバイトは猫づくしでもあるということだ。
■帰宅すると当家の2匹の猫はいつも玄関までまろび出てきて、私の袖やGパンの裾をクンクン嗅ぐ。他の猫の匂いの残り香チェックなのか、単なる猫癖なのかは知らないが、ひとくされ嗅ぐとそそくさと去っていく。あとはいつも通りの日常生活モードとなる。いや、本当に猫が好きなように人間も好きになりたいものである。…って、おい、重いよみかんとデルピエ郎。おまえら仔猫のつもりで今でも乗ってくるけれど、今や合わせて10キロなんだから…ぎゅうぅ〜。
この世がすっぽり龍宮城の中にある感覚
- 2006.11.16 Thursday
- ■日々の記録
- 15:17
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- by 小野満麿
■時々昔の出来事がまるで浦島太郎の龍宮城での出来事のように思えることがある。例えば今はもう訪れることができない好きだった女の子の部屋の一緒に過ごした頃の様々な思い出…。あの時期そのものがすっぽり龍宮城の時空のように感じられる。今の自分と乖離しているわけではないが、決して取り戻すことのできないそのふとした仕草や言葉遣いなど。そしてその時は気が付けなかった彼女の気持ちや思いやりなど。
■少し色っぽい話の方が感情移入しやすかろうからこのまま続けよう。その時は何がどのように展開しているのか整理する暇もなく自らのまわりの物語はどんどん進み、そしてある時突然幕が下りる。後で思い返せばそのストーリー展開で理解・納得できるところもあれば、いつまでも謎のまま残る部分もある。この感覚を敷衍していくと、全ての過去の出来事の記憶がすっぽり龍宮城時空の中に納まってしまう状態になる。
■そしてこの全ての記憶が龍宮城の中での出来事のようだという反転の感覚を、さらにもう1度反転すると、この私にとっての今現在の世界そのものもまた実は龍宮城の中であるという考えに行き着いてしまう。全てを俯瞰できるような特殊な時空の視座があるとするならば、この今現在の身の回りの世界と事象として知覚認識して生きていることもまた、ただ物語の中でそれ自体に対して無意識に生きているという考え方に。
■互いにそれぞれの龍宮城の浦島太郎を経験しつつ、同時に他者の龍宮城ワールドと交差してそこの鯛や平目として舞い踊っているのかも知れない。その現実という昔話の中では多分少し特殊な位置にあるであろう乙姫ですら、浦島太郎の心をケアしフォローしきれないという意味で、単なる1登場人物である。乙姫の物語の中では自分が浦島太郎で、浦島太郎という相手が乙姫のスタンスであるということは充分考えられる。
■このような全てが物語の中であるという感覚や考え方のみに取り込まれてしまうのは、ある意味で心の平衡感覚が乱れてしまっていると言えるだろう。もちろん頑なにその感覚を拒絶・否定する姿勢も同様ではあるけれど。どちらにも偏らず、双方をほぼ等距離からためつすがめつできる視座と、それらに対していかに関与していくかという立ち居地を構築するための話である。さて、強い記憶は龍宮上次元という感覚に戻ろう。
■これもまた自分の心の中で整理しきれない記憶や体験を、少し幻想的な昔話と同型対応させて心の片隅にどうにか落ち着かせようとする、人間型ゲシュタルトの反応パターンかもしれない。また逆に、そもそも昔の人間たちが、このように自らの中で通常の世界観や常識にはめ込みがたい体験や記憶を、夢物語や常超的なストーリーとして残したのではないかと考えてみたりもする。神話も昔話もそのような意味ではこの身の中に生きている。
■そもそも正常な世界観の中にしっかりはめ込めない体験や記憶がないという人はいないのではないだろうか。全てをきっちり整理できるという人は、全く新しい経験を生きたことがないか、もしくは未知の世界を進む中で自らの内面に生起する未知の反応すらも、既知の記憶倉庫に変形してラベルを貼って放り込むという暴挙をなしているのではないか。もっとも反転界面の近くで考えればほとんど全てが未知ではあるけれど。
■捨てがたく、また逃れがたい記憶は誰にでも沢山あると思う。それを放りっぱなしにしておくと、無意識とのあわいにある情念の活断層あたりで地震が起き、情動の海に生じた津波に飲み込まれてしまうこともある。無理やり分類して心の倉庫に封印したつもりの取り返せない過去の想いなども、ヨガ行者のように裸のまま平気でその外を徘徊しては困惑させられる。それらに憑依されることもなく現在を生きるには強き意思が必要となる。
■少なくとも自分が体験した出来事と、伝聞やTV画像等から知らされた出来事とは事象質が異なっている。どれくらい違うかというと、自分が生まれる前の世界と生まれた後の過去の世界との違いほどである。その差は1つの情報を知った後と知らされる前の状態にも似ている。前世問題や変性意識下のビジョンなども考慮に入れると、その境目がまた黄昏の中に消えていくのだが、逆に龍宮城時空をこちらに反転させる手立てはないものか。
■「それすらも龍宮城の中で見た浦島太郎の夢ではないのか?」と無限退行しないような反転があると私は思うのだが、それはまた後日考えることにしよう。それまではとりあえず、過去の様々な喜怒哀楽もまた、阿鼻叫喚の地獄の記憶ではなく龍宮城の表現できない素晴らしい記憶として、意識しながら心の中に漂わせておくことにしよう。どんなに変質しようとも、体験したこと自体は変わらないのだから。そして「過去はみな麗し」…。
『4桁数字・ゾロ目でGO』ゲーム
- 2006.11.15 Wednesday
- ■数の世界
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- by 小野満麿
■かつて新宿などで地上げした土地がバブル後にみなしかたなく駐車場になっていたように…とまでは言わないけれど、自動車王国とも言われる名古屋には本当にあちこちに駐車場がある。最近の私は新しい駐車場を見つけると、うぉーっとか喜びの奇声を上げながらその中に入っていく。何をするのかというと、車のナンバープレートの数字を恥からチェックするのである。ここ数日のマイブームは「4ケタ数字・ゾロ目でGO」ゲームだ。
■やり方は簡単。車のナンバー4ケタを見ていき、そこに同じ数字があるかチェックして点数を数えるだけだ。4つの数字の中に同じ数字が2つあれば1点。ゾロ目でも離れていてもいい。バラバラの数なら−1点。【2012】は+1点、【7765】も【1998】も+1点、【4567】は−1点となる。ただし、【8887】とか【7707】などと3つが同じ数字だった場合は+3点、2つずつが2種類、つまり【3113】とか【5522】なども+3点である。
■なお【・235】等のように数字が3つしかない時は例外として問題にしない。ただし【・998】などの時の判断は各自に任せる。特別ルールとして、数字でないことを表わす「・」もまた数字として扱い、【・・25】とか、【・・・9】をそれぞれ1点、3点と計算しても構わない。ルールはそれだけ。トランプのフルハウス的なもので、ワンペア、ツーペア、スリーカード、…そしてプタである。点はサッカーの引き分け1点、勝ち3点に似ている。
■サッカーと違うのはブタなら−1となるところ。そして元々4つの数字だからフルハウスはないが4つの数字でもなかなかフォーカードはない。あったら何点にしようかはまだ思案中である。もちろん歩きながら車道を行き来する車でやるのも数オタクでなくても楽しい。手前から来る車や自分を後ろから追い越していく車のプレートを見るのは動体視力もつくし、オシム監督ではないが混んだ道での瞬時の判断も脳には少しは良いだろう。
■そもそもこれは外出する時、出会う4つの数字のうち2つ同じ数である確率が結構高いのではないか?という疑問が始まりだった。しかしその出現確率のほうに思考を進めず、ゲームの方に興味を持っていって遊びにしたのである。数字の計算が苦手の人でも、これなら不快感はないだろう。誰かこの数学的確率を計算してくれないものだろうか。これはもちろん電話番号にも応用できるだろう。数の並びには人間、結構気にかけている。
■ただしこれは1人でやるより2人以上で声を出してやるほうが面白い。その日のツキを自分で占うのなら1人でやるのも良いけれど、ちょっと面白みに欠けるかも知れない。やはり他者と共有する時間の中で、数字と時間質の解読ゲームとして行うのが面白い。今日は近所の西友に買い物に出かけた。行きの合計が40点、帰りの合計も40点だった。単純ではあるがすこぶる気分がいい。付き合ってくれた嫁さんに感謝しなくてはならない。
■近所の駐車場はゾロ目の宝庫である。うちの車は【3113】だからそのまま3点、両隣の車ともなぜか共に【1515】だから、あわせて9点。向かいの車などもゾロ目ばかりなので、このゲームを一人で始めた時は駐車場の中を歩きながらポイントを数えて狂喜してしまっていた。「車のナンバーにはゾロ目が多いぞ」理論を考えようかと思ったくらいである。しかし他のところでやって、うちの周りの駐車場がちょっと特別なのだと今日分かった。
■この他愛のない数遊びは、そもそも今日という日はいつもに比べてついているのかアンラッキーなのかを数の偏りをシンクロニシティ的パラメーターと見立てて、できるだけシンプルなルールで遊んで見ようと思ったところから始まった。【6875】などのブタのなかにも並べ替えれば【5678】と続いている数であるとか、ローカルルールはいくらでも自分で作って遊ぶことができるだろう。これはもう少し改良の余地ありである。…やっぱ、数オタク?
私が車の免許を持っていない理由
- 2006.11.13 Monday
- ■日々の記録
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- by 小野満麿
■私は車の免許を持っていない。長距離移動はもっぱら公共交通機関を利用するか、他人様の運転するものの恩恵にあやかるか、もしくはひたすら歩いている。もし今車の免許を持っていたら、車の中で寝起きしながら温泉を巡り続けて、家に戻って来なくなるだろうというのは、半ば本気のような冗談ではあるが、残念ながら私はこれからもずっと免許を取得する予定はない。実は車の運転についてはトラウマがあった。
■車の免許はおろか、私は実は原付免許すら持っていない。「20歳過ぎの頃原付免許を取りに行って落ちたから、負け惜しみで車の免許なんか金輪際取ってやるものかと思ったのが今まで続いているのです」などと言い訳している。しかし実はそれはただの冗談である。本当は3歳の頃に横須賀の映画館で見た悲惨な交通事故の画像を見て、自分は大きくなっても車の運転は絶対にしたくないしできないだろうと感じたのだ。
■これは子供心の決心などではない。心的外傷である。飲酒運転や居眠り運転を戒め、運転時の注意を促すためのフィルムだったような気がする。今では公開できないような悲惨な映像が、多数映し出されていたと記憶している。画像などは今では忘れて久しいが、20歳過ぎまでそのインパクトだけは心の中に残っていた。友人達が自動車教習所に行くのを見て、よく平気なものだと訝しがっていた自分を記憶している。
■なぜあのようなものを、幼児である私が見たのかは分かっている。あの頃は祖母が近くにあった映画館に、ほぼ毎日私を連れて見に行っていたのである。徒歩10分くらいのところにあったその映画館は、今ではとうに無くなっているのだが、まだ時々夢の中に出てきたりはする。当時入場料が50円だったかで、多分毎日上映作品が変わっていたはずだ。時を告げるサイレンの音が怖かった頃の幼児の記憶である。
■何ごとにもそれに見合う時期というものがある。あの頃の幼児なりの感性を今は覚えてはいないけれど、一生運転はしたくないと心に刻み込むほど悲惨で残酷な映像は、やはりまだ人生経験の少ない子供には見せないほうがいいに違いない。一律に年齢で括るというがさつな方法で制限したりするのではなく、周囲の人たちによってフレキシブルにケアされてしかるべきものではある。しかしもう時代が全く違っている。
■見たければインターネットの中で、目を背けたい悲惨なものから、目を覆いがたい性的なものまで、規制はあってなきが如しだ。製作当事者を非難したり管理当局に依存したりするだけではなく、自らの意思で選択し、そしてその責任を取らねばならない時代になってきている。しかもその過剰な刺激を見たがるのも、それを自制するのも、共に自分自身である。報いは結果として外部からではなく内部からやって来る。
■イジメを苦にしての自殺もまた悲惨である。そしてそのニュースを見て、また自殺する者もいれば、諌めるべき者が責任を感じて自殺することすらも起こっている。この連鎖反応は情報によるところもある。情報を必要以上に取り込む必要はない。自分とは関係のない者としてのニュースを毎日シャワー代わりに浴びる必要もない。今この瞬間にも、自らの行動と静止の責任を取らねばならない現実の中にいる。もっと意思を。
■それでもさらに自らの存在を持ちこたえて、他者を見守り思いやっている人も存在しているという事実に掌を合わせたい。意識の焦点を合わせたい。死に至るほどの致命的な出来事は一応論外に置くとして、人間世界の中にいて周囲で生起する様々な出来事は、自らもその一部であるから、結果には自らにも責任の一端はある。必要以上に全てを背負い込む愚行は避けねばならないけれど、身辺の事にはもっと責任を持ちたいものだ。
■私はもはや夜中に残酷な画像と喘息にうなされて死にかけるような子供ではない。車の免許を取らねばならない状況になったら取ることも選択できる自由がある。この次元の時間には9つのタイムーンがあるという。いわゆる過去の過去、過去の現在、過去の未来、現在の過去、現在の現在、現在の未来、未来の過去、未来の現在、未来の未来の9つだ。全体構造が見えないとしても、多重の時間を生きていくようにしたい。
■世界が暗く渦巻いていた夜中に喘ぎながらそれでも生きようとしていた私自身に対して、今の私が元気を送るのである。勘違いや独り善がりや狂信的な振る舞いと評されても構わない。他者に対して勝手にそれを為すのはまだしばし憚られるけれど、このターゲットは何よりもまず自分自身の過去であり、そして現在であり、さらには未来でもあるのだから。他者との係わり合いにも能動的・肯定的・楽天的に打って出るためにも…。
昼神温泉「鶴巻荘」と木曽路の妻籠宿
- 2006.11.10 Friday
- ■温泉と旅行
- 17:52
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- by 小野満麿
■車での日帰り温泉行は、ここのところいつも出発が遅くて難儀をするので、今日は珍しく午前9時過ぎに出発した。ターゲットは長野県の昼神温泉郷。温泉に限ったことではないが、距離が中途に近いといつでも行けるからと後回しにするという性分があったりするが、この昼神温泉は数年前から意識はしていた温泉地だ。湯は昔からあったけれど、1973年に旧国鉄がトンネル調査中に硫黄泉が噴出したのが温泉郷の始まりらしい。
■高速に乗って名古屋から中央高速道で約1時間半。岐阜県の中津川から長い長ーい直線の恵那山トンネルを抜けると、そこはもう長野県だ。園原ICを降りるとすぐに、「ようこそ昼神温泉へ、あと4キロ」の看板があった。やったね、また高速降りてすぐに温泉だ…と思ったけれど、よくよく考えたら歩くとあとまだ1時間もある距離だということだ。車で数分行くと紅葉し始めた山々を背景に温泉はあった。
■長野県の全ての優良な温泉440泉が載っている優れもののムック本を持参するつもりだったけれど、朝早く出るという意識が強すぎて、立ち寄り用のマイタオルと共に玄関に忘れてきてしまった。仕方が無いのでまたもや現地のお世話になることにして、昼神温泉ガイドセンターに飛び込んだ。「あのー、立ち寄りなんですが…」とおずおずと尋ねると、日帰り施設の「湯ったり〜な昼神」や「国民年金ひるがみ」を勧められた。
■「あとは露天がある所といえば…」というので、[露天はいらないけど、泉質が良いところがいいんですけど」と言うと「それなら『鶴巻荘』か『昼神荘』がいいですよ」と言ってくれだ。当地のお湯はどこも集中管理なのだが、昔からの公共施設なので配給湯量が多く、しかも訪問客は少ないのでお湯が荒れていないとのことだ。この土地の人たちの応対は心地良く、またこの土地の「気」はとても良く景色も美しい。
■まずは阿知川べりにある「昼神荘」に行き玄関を入ろうとしたら、「温泉は浴槽を清掃中で今は入れません」との張り紙。しかたなく取って返して「鶴巻荘」に入ることにした。思っていたより大き目の建物で、隣りの建物では朝市があったり特産品を売ったりしている。受付を済ませて早速浴室に入ると、広く青い浴槽に無色透明の硫黄泉がたたえられている。誰もいないので、もちろん独占状態だ。
■静々と入って体を触ると、その感触がいきなりぬるぬるのつるつるだ。入り口の成分表を見直すと、pHは9.7以上でかなりのアルカリ性だ。ナトリウムイオン122.1mg、カルシウムイオン2.2mgなどの陽イオンが125mg、硫酸イオン75.8mg、塩酸イオン47.5mg、炭酸イオン42.0mg、メタケイ酸イオン48.1mg、その他炭酸水素イオン、フッ素イオなどの陰イオンが257.4mgと記されている。泉温は42.7度C。湯量表示は混合泉としか書いていない。
■午前9時〜10時の間に浴槽の清掃が済んだばかりのぴかぴかの温泉である。ここのお湯は良い。ずっとつかっていたかったが、そこそこ腹も減ってきたので出ることにした。次の施設に移動して食事を取り、そこで再入浴することにするつもりだったのだが、この時点で「しまった、逆にすればよかった」と思った。ちなみにこの「鶴巻荘」は宿泊すると1泊2食付きで2人で泊まると8千円、3人だと6千5百円とリーズナブルだ。
■近所にある「湯ったり〜な昼神」でそれなりに温泉を全身で味わい、湯上りに食事を取った。身構えていなかったが、ここのそばはうまかった。次にそのまま中央アルプスを超えて「南木曽温泉」を攻めようと思っていたのだが、昼神温泉の高アルカリな湯が体に心地良く残っているのでスキップして、木曽路の妻籠宿を歩いてみることにした。いずれここの木賃宿で合宿でもと考えていたので、その下見もかねてである。
■すると突然の雨。山の天気は変わりやすいとは言うけれど、青空が見る見るうちに掻き曇り、夕焼けを少しだけ反映させながら振り出した雨粒がどんどん強くなる。まるで雲の中のようだ。谷を這い上がる生き物のように白い霧雲が移動している。それでも木曽路側に降りてくると雨は止み、妻籠を歩く頃には青空も見えてきた。時を超えたかのような旅籠宿の提灯の灯りが温かい。「南木曽温泉」共々、また来なくては。
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