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  • 2024.01.09 Tuesday
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「オレだよ、オレ」…自己言及と進化論



■自分はなぜ今ここにいるのかを考える時、通常はまず「進化論」と「創造論」のどちらかに身を寄せて、そこから持論を構築・展開していくものらしい。前者は、偶然の連鎖で有機化合物ができ、長い時間をかけて自己組織化したという、いわゆるダーウィン以来の進化論だ。一方後者は、旧約聖書の創世記にあるように7日で万物が創造されたということを字義通り信じるスタンスだ。つまり科学と宗教の差異だが、現今ではどちらもすでに破綻して久しい。

■ところが第3番目の考え方がある。宇宙の構造自体がそうなるように設計されているというもので「知的設計論」などど言われている。しかし完全者が人格神的なものではなく宇宙そのものになっただけで、基本的には「創造論」の焼き直しに思えなくもない。しかし神や宇宙そのもののように完全ではないが、人間に比べれば超知性体である何者かが地球の生物進化に継続的に干渉しているという考え方もあって、最近ではこれを「干渉進化論」という。

■この4番目がE.V.デニケンやゼガリヤ・シッチンなどが主張するところの、宇宙人が人間や地上の生物進化に大きく関与したという考え方である。完全ではないので今の私たちも様々な矛盾や問題点が存在するのがその証拠である。この考え方は神仏すらも私たちよりは優れているが、宇宙の完全者ではないという発想に簡単にスライドする。私たちはそのものたちの部分的なクローン入り実験体、被遺伝子操作生物、被観察対象であるというものだ。



■進化論の弱点はいろいろある。例えば中間生物の化石が見つかっていない。いきなり完全体で出現して、近縁種間の前段階的生物がほぼ全く見つからないのだ。何度か絶滅した証拠はある。しかし進化をしていると言う証拠そのものがないのだ。動植物には野生種と栽培・家畜種が存在する。1万数千年〜5千年前までにほぼ出揃っているが、順次進化してきたのではない。何物かに遺伝子操作されたと考えるのが一番合理的な答となり果てる。

■1,2,3,4と来たので、ペンターブシステムではないが、あと1歩進んでみよう。私たちとは別個の外部の存在がそれをなしたのではなく、私たち自身がそれを為したのだという発想だ。そして自らが為したということを集合的に失念してしまっているとしたら。もしくは実験や経験を完全にするために、多重構造の意識の現在モードでは記憶喪失状態になるようにセットしてある…?自己言及はパラドクスを招くが、多重構造ではそれは無矛盾となる。

■旧約聖書の中でモーゼは山上の柴の上に光り輝く存在に向かって名を問うた。その時の答が "Ehyeh Asher Ehyeh" だ。このヘブライ語を英訳したものが有名な "I am that I am" だ。さらに日本語に訳すと「我れは在りて有る者」とか「我れは我なる者」などとなる。しかし訳しただけでは何も分からない。前と後の "Ehyeh"()もしくは "am" の意味は違う。使役の意味や受動態的なニュアンスもある。振込み詐欺ではないがいっそ「オレだよ、オレ」とでも…。
()不定形は "hayah" という動詞で、意味は「有らしめる」「生起させしむる」などのニュアンスがあるらしい。


■「エゴー・エイミ」とは、イエスが捕まって裁判に掛けられた時に言った言葉(ギリシア語)である。英語では「I am that I am」に相当する。ユダヤのサドカイ派とファリサイ派にとっては、このイエス自身の自己言及が宗教上最大の重罪だった。唯一神への冒涜?…自らの?そして死刑判決が下された。「われ思うゆえにわれあり」はデカルトが自分は神に頼らずに存在しているんだという宣言でもあろう。神があったからそう言えるとも言うことができる。

■"To be or not to be, that is the question." …シェイクスピア作品「ハムレット」のセリフ。再び自己言及に戻ったが、さて同じパラドクス構造だとしても、これまでとこれからでは少し意味が異なってくる。いや、同じかも知れないが。しかしまさに、"That is the question!!" なのである。完全なることを忘れた不完全な状態の私たちが、不完全なまま完全な自分を思い出すということが「進化」の1形態なのだろうか。…ああ、どうしよう。

■電話を取る。「もしもし…」振込み詐欺のような口調で声がする。「誰?」「オレだよ、オレ」振込むべきカネはない。あるのはただ、数千年か数万年分のカルマ貯金の利子くらいだ。壮大な一人芝居か、それとも1つの夢か?さて、進化しようか、するまいか…。

UFOかマカバに乗った気分で地球見物?



■mixiの中で友人のkojiさんが、そのオンライン日記の中で、Google Earth を用いて大陸側の上空から日本列島を見た面白さを語ってくれていた。私も早速Google Earth を用いて、この方面からのビジョンでは、東京は内海のように見える日本海越しの「地の果て」に位置するということを追実感してみた。任意の何地点かを直線上に置き、その方向に地球を回転させてみると、自分が衛星軌道上を飛んでいる感覚にもなれる。どちらもバーチャルではあるのだけれど。

■今回は次の直線ルートで地球を回ってみた。(古代の世界の中心地)エジプトのギザ→(昔も今も騒がしい)イスラエル地区→(バビロニアの遺跡もある)イラク→黒海→(右手にタクラマカン砂漠を見つつ)カスピ海→(シルクロード上の)モンゴル縦断→中国東北部→北朝鮮→日本海→(弓状になった日本列島の最も外側に)東京→ほとんどが水球圏に見える太平洋ど真ん中→南米大陸の先端(をかすって)→アフリカ大陸の一番へこんだ湾辺り→エジプトのギザ。

■このような一直線の地球大円ルートは無数にあるのだけれど、このルートを上空から見ていると、なにか衛星軌道上から眺めおろしているような気分になる。この感覚がとても面白く不思議で、また新たな発見もあるのである。子供の頃、これだけは忘れまいとしていた、生まれてくる前の記憶と思い込んでいる、衛星軌道上から地球を眺めおろしていたビジョンにも似た感覚。人によってこの地球の大円回転はいろいろとなつかしい(?)感覚が異なるのだろうか。



■地上での平衡感覚や現今の緯度経度の軸方向を頼りにしつつの回転するとは異なる視座と視野を持つこの感覚は何だろう。それにしても何もマニュアルがなくても画面を直観的にいじれば地球を自在に回転でき、かつズームのアップもダウンも簡単にできる操作方法は、まさにUFOかマカバに乗って、3次元的・物理的次元の地球を眺めているようなバーチャルリアリティを感じられる。まだ粗いとは言え、物理的な宇宙からの帰還シュミレーションも可能だろう。

■今回は翻訳中の『エノクの鍵』がらみで、ユダヤ民族とヤマト民族の相似性を物理的地理的につなぐ視座を探してみようと思い立っての地球大円周回のシュミレーションだったのだが、人工衛星となってその軌道上から地表を眺めるとか、地球の磁力線やアクシオトーナル・ラインそのものになって地球を回転するとか、占星術として地上から星座側を見ている視野を反転させて星座側から地表の自分達の位置とその関係を再思考してみるとかも可能だろう。

■そういえば以前、ハンダコーセン氏がいろいろいじっているうちに「うおおっ、わしの家までちゃんとあるっ!」とネット上で驚いていた。後日私も試してみて、自宅がしっかり見て取れることに軽いめまいのようなものを感じたことがあった。グーグル・アースをオンラインから無料で入手してできるこのような未知の遊び。Googleは何を考えてこのようなサービスをしてくれているのか分からないが、バーチャルとはいえ、これは実に有難いことである。



■もしこの感覚にも陰謀が刷り込まれたりするのでないならば、お手軽なのでひまな方は試してみるのもよろしいかと。ほかにも普通では気付かない視座やルートがあるはずだ。他にも無数の異なる楽しみ方があるだろう。楽しみ方そのものを自分で発見できるという素材でもあるわけだ。私は別にGoogleの手先でもないし踊らされている自覚もないけれど、踊らされ操作されないように気をつけつつ、アストロノーツか生前の視座でまた地球を眺めてみたい。

■いや今日は巷ではクリスマス・イブらしいので、自ら異次元のサンタクロースに扮して自分自身にそのサンタクロースの視座そのものをプレゼントしてみるのもいいのかもしれない。

私の視線越しに同じ世界を見る何か



■今晩風呂に入った時の話だ。鏡の中を覗き込みながら、いい加減に伸びてしまっている無精ひげをそろそろ剃ってしまわねばなどと考えながら頭を洗った。頭にシャンプーを泡立てた後、お湯をかけてその泡を洗い流す時は当然目をつむる。まだ2歳頃だったと思うが、小父に連れられて近所の銭湯に行った時の事を思い出した。小父は何か考え事をしながら、私を膝の上で仰向けにすると、頭をのけぞらせて洗面器につけ込んだ。

■私はその背と腹が逆転しているだけでなく、そのままさらに後頭部を後ろに回されながらお湯の中に入れられる恐怖に大声を上げて泣き叫んだ記憶がある。今でも目を閉じると後頭部がどの辺りにあるか分からなくなる。経験上何度もそこに自分で手をやって、ああこの辺りなのだなと確認した記憶の中の位置感覚はある。しかしそれで目を閉じると、目を開けて世界を見ているつもりの視座のさらに奥がどこなのかは分からなくなる。

■シャンプーを洗い落としてから、その2歳児の時と変わらぬ感覚のまま目を開けると、別人のような見慣れたひげ面が鏡に写っていた。そしてあの記憶のままの自分もこのアイデンティティの中におぼろげながらあることを確認していると、本当にあの頃には自分が世界を見ているつもりの視座の位置のさらにもう少し奥の方から、何か自分ではないものが自分の視線に重なって世界を見ているという感覚があったことも思い出した。



■知覚器官や脳内処理などをすっ飛ばして、自分が世界を見ている事に関して、幾何学的に視座・視点・視界・視線などと表現しているけれど、自分が世界を見ているつもりの視線とは幾何学的な1次元の線という表現だけでは決して収まらないことが分かる。他者が他物を見る視線というのは、それとは別に幾何学的な線として理解できるのだけれど。これらは別の次元だと感覚的に分かっている。他者が自分を見るとまた別になる。

■その視線の焦点があったターゲットとしての点と、その対にある視座としての点の間の視線こそがこの3次元的な空間の最初で…。いや、ややこしい話も厳密な話もするつもりはない。二十歳頃には自分の後頭部を後ろ側から見られることが異様に不快だったことを覚えている。自分が見えない位置から自分を見られることによって、自分が知っている以上のことを知られてしまうのではないかという恐怖にも近い強迫観念だったけれど。

■いや、脅迫観念と決め付けはしない方がいいだろう。今でも自分が世界を見ているつもりの、その視床下部とか何とかと解剖学的に言われている後頭部の少し下辺りが、自分の世界を見ている視座の感覚に近いけれど、そのさらに少し後ろ側には何があるのだろう。もちろん他者から見た3次元的には後頭部があるのだけれど、世界を見ているつもりの私にとっては、他者から見た私の後頭部以上のもの、私の世界の残り半分がそこにある。



■それはそれとして、ここで問題としたかったのは、私が世界を見ているつもりの位置のさらに奥から、私の視線と重なって私の見ている世界を見ている「何か」とは何かということだ。もっともそれは感覚だけでは表現できないし、言葉と概念だけで表わそうとしても叶わない。他者のそれに相当するものと、私のそれとがどのように繋がっているのか分離しているのか、私が私とまだ自覚していない「私」なのかそれ以上の何かなのか?

■…これはもちろん今、言葉や概念として定格化できるものではない。ずっとしようとはしてきたけれど、できるものでもないかもしれない。いろいろと喩えや自分の世界観に即して表現することもできるだろうが、今はしようとも思わない。全くのひとりよがりの感覚かもしれないが、他者にも同様のものを想定するならば、目の前の人にも自分が今までに知っている過去の総体としての相手以上の存在であると敬い畏れることができる。

■私は私のそれを怖がったり気持ち悪がったりはせず、敬愛し慈しんでいる。別にチャネリングとか直観によって何かためになる情報を与えてくれたり、守護天使や指導霊などと表現されるもののように私を導いたり悟らせたりはしない。ただ見ているのだ。私と同じ視線で世界を。だからこそそれはまた愛おしく大切な『私』でもあるのだ。他の全ての人たちも同様だと想定すれば、私それらをも同様に敬いたいのだが。…So what?

(これまた続く…のか?)

輪廻転生はありや否やと問う前に



■巷のスピリチュアル系の諸情報や仏教的な死生観の流れを汲む年配者たちの生命観に接するにつけ、「輪廻転生…もしくは生まれ変わりはあるのか、それともないのか?」という問い掛けが自他の関係性の中から生じてくる。自分の中だけの問題であれば、何となく本当のところは分かっていると思い込んでいれば良いのだが、他者とすり合わせたり説明したりする必要がある場合には、いろいろとややこしくなってしまうことが少なくない。

■答えられない問いを自ら発した時は、その問いかけそのものの質を考え直さなくてはならない。「生まれ変わりはあるのかないのか?」という問いは自らの体験から「絶対にある」という人もいれば、科学的世界観という観念的なところからだけではなく、これまた自らの超常体験を踏まえて敢えて「生まれ変わりはない」と言う者もいる。私もここでその答がどちらであると主張したり「あるともないとも言える」と煙に巻くつもりもない。

■1つ言えることは生まれ変わるには時間のリニアルな流れが必要であるということだ。1つの魂が時を経て別の肉体として転生すると表現する場合、3次元に時間を足した4次元的な時空連続体としての世界「観」、もしくは日常的な時間と空間の世界「感」を前提にしている。しかし超常体験や臨死体験をした人がよく言うように、あの世・霊界などと表現されている上位次元はリニアルな時間軸系でも3軸直交の空間認識の世界でもない。



■1つの魂がこの世で死んでより大きな生命の中に戻り、再び御霊分けのようにそこから分離して生まれてくると表現しようが、魂そのものは延々と変わらず続きながら、生まれ出てくる度にリセットされてるので過去の記憶が一切ないのだと説明しようが、そちらの方はとりあえず置いておこう。最近は前世までの記憶のかけらを携えたまま生まれ来て、成長して大きくなってもそれを忘れないという子供も少なくないということも現実にあるようだ。

■過去の記憶とは言うけれど、おそらくリニアルな時間軸を超えた世界次元を経由するのであれば、過去から未来に向けて転生するだけではなく、未来から過去への転生もあるはずだ。さらに1歩進んで線的な時間を超えた次元であれば、私たちが異なる時間として見ている過去・現在・未来を同時に見て取ることができるだろう。輪廻転生があるとしても同時に様々な時の中を生き、そしてそれを同時に客観的に見る視座もあるということだ。

■そのような次元もしくは世界においては「生まれ変わりはない」と言える。そしてそのような視座にない私たちのこの世界では「生まれ変わりはある」と感じることができる。この普通の世界観から少しでもはみ出した体験をした人なら、このようなことを踏まえて「生まれ変わりはある」と表現する人もいるだろうし、逆にその体験した生死のありようから「生まれ変わりはない」と主張する人もいるだろう。観念ではなく体験からでもだ。



■「生まれ変わりはあるのかないのか?」という問いは、「生まれ変わりを云々する元となる体験をしたかどうか?」という問いになり、そして自らの責任においてそれ以降の生き様と直結する言質として「あり」「なし」と表現することになる。そして真摯にその体験を通過した人は、「ある」か「ない」かは視座の違いに過ぎないと知り、その双方をカバーする視座を持つ者は、その問い掛けそのものにもはや大した価値を認めないだろう。

■かくしてこの3次元において、ただ既存の価値観や宗教観を鵜呑みにして自らは余り考えることなく「ある」とか「ない」とか言い合うのでなく、より深くこの問題について真摯に話し合うために、「輪廻転生はあるとも言えるけれど、私は敢えて輪廻転生はないと表現している」のである。語義をすり合わせることも大事だけれど、その元となる体験と記憶と実感の方も大切にし合わねばならない。過去や未来が想起できない現状にも意味がある。

■たとえ心苦しくて切なくても、今一度背筋を伸ばしてこの一呼吸を味わうこと。もし疲れ果てて辛くても、改めて顔を上げ眼前の彩なす光を味わうこと。もしそれでその瞬間にそれまでと少しでも変わったならば、その中にこそ輪廻転生がありはしないだろうか。周囲ばかりを気にし過ぎずに、それとなく1匹の野良猫や1輪の花に声を出して話しかけてみること。声に出せば何かが変わる。世界は完全だけれどそれすらも超えるために今の無明が必要なのだ。

■…さて、ということで、そろそろ話を始めましょうか。輪廻転生はありや否や?

自由という感覚と対峙する自由



■この今の「自由」であるという感覚は一体なんだろう。「真の自由には自由と言う言葉すらもいらない」というパラドクスがあるが、今感じているこの自由という感覚はその真の自由ではないだろう。ただ自分の手帳には今月や来年の予定がほとんど書き込まれていないということを見て、周囲や世界等の外部からほとんど何も強制的に制限されてはないという現実からも来ていることは間違いない。

■そして人並みに持っているスケジュール手帳に僅かに書き込まれている予定すらも、絶対にその時間と空間で自分が為さなければならない仕事ではないという意識があることも事実だ。もし「やらねば殺すぞ」と言われたとしても、殺されればどの道できないのであり、殺されるくらいならそれに命がけで抵抗することもできる。能動的に「する」ことはできるが「させられる」ことはない。

■不当な強勢や圧力に対しては抵抗する自由がすぐ稼動する。しかし好意や愛情がらみの期待に対する自由は少し難しい。摩擦を恐れず人の期待を裏切るのではなく、日頃から人に安直な期待を掛けられないように振舞うという生き方もあるだろう。ただのいい人というペルソナよりも、期待されても自らを曲げてでも必ずそれに応えるとは限らないというキャラクターを明確に表現しておくことも重要だろう。



■私個人としては、強き意志というよりは生来の優柔不断と、現実的な自活能力の欠損ゆえに、あまり物質的、3次元的な期待というのはされない方だと思う。しかし誰でも実のところ、本来的には自由なのだということも観念的には分かる。問題は今この時の妙に中途半端に感じる、自らが指向している先にある自由とは違う自由感覚だ。禅の修業中などに立ち現れる魔境のような袋小路なのかもしれない。

■日々忙しく一生懸命生きている人は、生半可な生き様の吐き出すざれごとと侮蔑しつつ切り捨てるかも知れない。世の中という大海の上で重なり合う運の波によって、時としてラッキーな時期や人間もあるよなと羨望するかもしれない。世界にはこの今も理不尽な飢餓や戦争で生死を彷徨う者が沢山いる。彼らの前ではそのような自問は無意味だと力瘤を入れて力説するものもいるかもしれない。

■しかし敢えて明言しよう。この中途半端な自由感覚はまた、とてつもなく恐ろしい半面があるのだ。ほとんど全てを自ら決めていかなくてはならないという過酷な自由だ。先例を踏襲してハウトゥーの良いところを組み合わせつつ進めば良さそうだが、そうはいかないのである。時には呆ける時間も必要だ。しかしそれがずっと続くと、元に戻れぬままで世間一般の人間的感覚からもずれていく。



■かといって逆に遊びなり勉強なりの予定を未来の手帳にびっちり組み込んでみても、進化方向に進んでいるつもりでひとりよがりの王国の中で自ら揮発性の意志を拡散させ続けて道に迷う。こなすこと自体が目的へと横ずりしていることにも気づき難い。社会には自由意志で選択しているように思わせて支配する構造がある。自らの内にも安易な満足が自由だと思い込む自己欺瞞のトラップもある。

■それにしてもこの今の「自由」であるという感覚は一体なんだろう。多分過渡期のある種の真空感覚なのかも知れない。特に年の瀬で人々が忙しそうに立ち働いている時に、個人的には不本意な集まりに参加することをドタキャンした直後であることも理由の1つだろう。出席者に対する失礼は重々感じるが、それでも自らの感覚を第一にした選択だった。これを生死にかかわることもある直観とは呼ばないが。

■今為すべきは、この選択の質がいかなるレベルのものなのかの自己評価と、個の奇妙な自由感核をそのまま放置するのではなく、どの方向に能動的に進むか良く考えるべきである。観念だけの思考転がしではなく、束縛からの解放感を自由と履き違えたまま歩きすぎて、脳内に靴擦れを起こすこともなく、血管の中の快楽物質辺りから来る感覚も踏まえたよりリアルな意識の自己トレースをしていこう。

(これまた未完のまま、未来に続く)

猫のひげづら、私のひげづら…



■12月はあまり人と合わなくても良かったので、家でPCに向かう時間が多かった。月の中旬になると、鏡の中から見たこともないような顔がこちらを覗き込むようになった。いや、より正確に言えば、鏡の向こうの見慣れた顔に今までになかったオプションがついていた。無精ひげだった。しかしこの口の周りの黒いものが与えてくれる違和感が何か面白かった。興味津々で鏡に見入るというのではないけれど、たまに覗くと今までの自己イメージでない面がそこにあった。

■自分の体は見えても顔は見えない。鏡に映して初めて見える顔が、長年付き合ってきたつもりの自分の顔の印象と日々異なっていく。人の顔のひげは何度も見たことがあるけれど、自分が自分の顔に今までにないパターンを見るのは、無精ひげイコールだらしがないとかみっともないだけではない、不思議で新鮮な感覚だった。似合う似合わない以前の、そして手入れをするしない以前の問題であり、まさに無精ひげに毛の生えたようなありきたりの生物的現象なのだけれど。

■そういえば『チャングムの誓い』という韓国のTVドラマに出てきたミン・ジョンホというキャラクターがヒゲをはやしていた。この役を勤める俳優の素顔を本で見たけれど、時代劇の中の設定とはいえひげをつけている顔の方が印象深かった。『パイレーツ・オブ・カリビアン』をビデオで観て、ジョニー・ディップのひげが何かかっこいいと思えた。最近は以前より多くの人たちがヒゲを伸ばしているような気がする。ひげを生やすファッションやブームがあるのだろうか。



■中学生の頃、初めて1本2本と生えてきたヒゲが何か恥ずかしかった記憶がある。旧海軍の軍人だった父方の祖父は、口ひげを蓄えていた。普段は優しいのだがひと度酒を飲むと性格ががらりと変わってしまうのを見て、あの手のひげにはいい記憶がないまま大人になった。そのせいかどうか分からないが父は酒を飲まなかったし、ひげも伸ばさなかった。私もひげを剃る理由も分からなかったが、伸ばす理由もないままとりあえず剃っていた。若い頃はひげがとても薄かった。

■ユダヤ教徒やイスラム教徒やヒンドゥーの聖者や北欧のバイキングなどにしても、意識をひげに迎えて見れば様々な人の顔にひげのある。顔という「地」の中のひげという「図」が目に付かなかったのだけれど、一回気がついた騙し絵のようにあちらこちらの顔の上にひげというものを再発見している。他者から見て私のひげが快か不快かも問題だが、まずはそれ以前に自分で自分のひげ面に対してもそれなりのバリエーションとしての地位を与えるか否かの選択が重要である。

■ひげが生えるのは男性ホルモンのせいなので、稀な例外を除けばやはりひげは男性の領分だ。とすれば放っておくと不精ひげに成り下がるのでしかたなくまめに剃っていたけれど、うまく扱えば男性にしか為すことのできない自己表現の1つとして扱うこともできるはずだ。しかし自分の顔面上のひげに関しては、まだ伸び揃っていないこともあるが見慣れていないので、まだ違和感があり、剃ってしまおうかと思ってしまう。さて私の顔面上のひげに未来はあるのだろうか。

(どうでもいいことながら、未来に続く…のか?)

連載中と単行本と完全版の生



■連載小説などもそのようなケースはあるのだろうけれど、連載まんがは通常ある程度まとまると単行本として発行される。最近では豪華本とか復古本とか完全版などと称して、さらに同じ作品に差異をつけて販売していたりもする。それなりの力がある大学教授は、1つのテーマをまず講義で用い、次に論文の形にまとめて発表し、最後は本の形で刊行するという。つまり3度同じテーマを使いまわすというのだ。

■しかしこのマンガの話を持ち出して考えたいことは、連載時と単行本によって同じストーリーで2度もしくは3度稼ぐということではなく、連載時に読んだ者と単行本になってから読んだ者とでは何が違い何が同じかという点である。もちろん細かく見れば、連載時でも1つのまとまりとしての終わりはあるし、単行本でも完結していないうちに1冊分まとまるたびに発行されるので、明確に二者を区分できないが。

■ただ話が連載で完結し、単行本としても完結している作品がある場合、その作品自体はすでに作者の創作という手からは離れている。しかし連載時は作者もまた大筋のストーリーやプロットやモチーフなどがあったにせよ、読者の感想や反応や出版社の販売向上の要望などの介在者としての担当者が存在する。大御所でない限り良い作品を創るにはむしろ担当者との二人三脚的なところが必要ですらあったりする。



■すなわちストーリーが完結するまでの連載時は、作者ですらその全体性が分からないままであるということだ。我を通しすぎては最悪打ち切りすらあるし、逆に人気があればもうやめたいのに話を伸ばして続けさせられてしまいもする。これが旧約聖書や他の諸経典にも登場する「神」もしくは「神々」にも当てはまるのではないだろうかと考えてみた。経典になって残っているのは、もう連載ではなく単行本だ。

■「神」とされている何らかの存在もまた、人間に関与する場合は下位の神やその使者であり、関与が完結していないうちは諸状況や人間自体の反応によってストーリーの仔細なところや展開自体も変わりえたのではいだろうか。聖典や経典は一番大衆に受け入れやすい形もしくは操作しやすい形に後に編纂されている。つまり作者や神がまだ存在していても単行本の発行差し止めや修正ができないような形である。

■私たちの時間感覚から言えば、連載時のマンガには作者や他の読者や登場人物などと、先の展開が未決定のままである未知の時を共有しながら読む楽しみがあり、単行本の方では作品全体の中のどのあたりを進行中なのか、また他のプロットとどのようにつながっているのかを知りながら読む楽しみがある。連載時に読んで単行本でも読むという両方楽しめる人と、完結した後で読む人との間には時間の決定論がある。



■宗教的な書物や経典もまた、まずは文字にすらなっていないリアルタイムでの出来事ややりとりがあり、それを後日書き留めた弟子や記述者たちがおり、そしてそれらを宗教的展望に照らし合わせて都合の良し悪しで取捨選択された後のものが、さらに時代の様々な波に晒され続けて眼前にある。作者すら手が出せない完全版。神のさらなる関与も拒む諸経典。連載時の楽しみはないのだ。往年の現実性はないのだ。

■人間の一生もまた同様の視座から見ることができる。諸経典や単行本もまた、イメージを働かせて当時の意識で新鮮に読むこともできるだろう。私たちの人生もまた、今この瞬間に連載中の不安や楽しさを味わい続けている。ならば全体を俯瞰する視座を想定してその全体性の中の現在はどのあたりに相当し、どのような生き方をすれば作品としての完成度が高まるのか見据えつつ生きていくことも可能ではないか。

■時間にもまた多重のスパンがある。輪廻転生はその枠を超えているので、個人で一番大きいのスパン一生である。前世紀から「一人一宗教」と主張してきたけれど、自らの一生を自らが作者であり主人公でもある1つのストーリーとして「一人一作品」を製作する意識も良いだろう。日々刻々様々な時間のスパンの視座を踏まえつつその完成度を高めゆくために、書き続け書き変えていくことができる生命燃焼法。

■私は古今東西の優れた「一人一作品」が好きだ。そして現在進行中のそれらをも。連載中の読者としてのみならず、その中のキャストとしての関与すらできるという相互貫通の21世紀地球劇場。舌足らずのままこの話は閉じるが、浮つきすぎず沈み込みすぎず、袖触れ合うも他生の縁ならぬ、袖触れ合うも多重の生ということで行きましょう、生きましょう。

猫と蜜蜂と決断と責任とその向こう



■猫が妙に大騒ぎしていた。窓辺で2匹が交互にジャンプしている。少しだけ開けておいたアルミサッシの隙間から虫が入り込んで来て、それを掴まえようとドタバタしているのだった。虫はよく見るとはぐれミツバチのようだ。戸を全開にしてすぐに退出してもらおうか。それともここのところ構ってやれなかった猫たちの格好の遊び相手をあっさり奪わず、もう少し様子を見ようか。もたもたしているとミツバチが危ない。

■以前ベランダでアシナガバチにちょっかい出して、肉球を刺された雌猫ミカンの方は記憶が蘇ったのかちょっと及び腰のままだが、雄猫デルピーは骨太の前足でミツバチを捕まえようと思い切り伸びたり飛び跳ねたりしている。ミツバチはアルミサッシの上の方に行きかけては、窓ガラスに頭をぶつけて床近くまで落ちてくる。どうしよう。サッシをもう少し開ければそこから外に脱出できるかもしれない。オープン?

■開けた方とは逆側に逃げていくミツバチ。猫は二手に分かれてテレビの上側と床側で待ち伏せる。弱肉強食が常という自然の中の動物たちに対してはどちらにも加担せず、ただそれを観察・記録するだけというあるテレビ番組の撮影姿勢を思い出す。ニューサイエンス系の世界観の中の1つに、人間が滅亡しようが現状を打開しようが手を出さずにただ見詰めるだけのウォッチャーという宇宙人の存在を想定するものがある。



■今すぐにミツバチを逃がすか、そのまま猫に弄ばれてやられてしまうのを見詰めるかの判断をしなくてはならない。少しの躊躇も許されない。何も為すすべなく目の前の小さな現実に立ち会うのか、結果の選択に責任を持ってミツバチを逃がすのか。ほんの些細な事で取り立てて騒ぐ必要がないなどとは考えない。小さなことはそのまま大きなことへとつながりうるからだ。ミツバチにチャンスを与えることにしよう。

■私がすべての結果を支配するのではなく、半分だけサッシを開けて猫とミツバチのやり取りの結果には全面的に責任を持たないですむように。そう考えてサッシを開けようとした途端、黒猫の前足がミツバチをガラスに押し当てた。すぐに逃れたが羽に少しの損傷を受けた。デルピーの容赦ない二の手三の手が襲う。ミカンもついに床に落ちて、ブブブ…と羽ばたくミツバチに鼻を近づける。判断がしばし遅れた私の責任か。

■いや、どう転んでもすべての責任を取るというスタンスを自認した私は、その途端反転して、自分が加担していようがしていまいが、目の前で生起するものごとの結果をそのまま受け入れざるをえない視座にいるということを自覚した。問題はそのまま肯定的に受け入れるか、否定的に受け止めるかの差異。そして楽天的に接するか、悲観的に接するかの違い。すべて自らの責任でもあり、同時にすべてに何の責任もないということ。



■ミツバチは最後の力を振り絞るように、ガラスに沿って上昇していく。しかし開け放った側の窓とは反対の方向にである。じっと見ていたデルピーがジャンプしてそれを叩き落す。床に落ちたそれはもう飛べないだろう。猫はネズミをなぶり殺しにして遊ぶという。しかし昔の猫にとって虫や小動物は貴重なたんぱく源だったという話もある。デルピーはしばしミツバチを見た後、それを口にしてシャリシャリと喰ってしまった。

■ガラス越しに冬の弱日が差し込んでいる窓辺には、2匹の猫がもう何ごともなかったかのように日向ぼっこしてている。すべてに責任を持つという心構えも、結局何の責任も持てないと再考するのも、今は私の心の中だけの問題に収束した。目の前で出来事が起こるということ。それを無視しようが、ただ眺めようが、能動的に関与しようが、みな自分に跳ね返ってくるということ。今の私の立ち居地は能動的関与の選択に近い。

■明日もまた私は野良猫がいたらエサをあげるだろう。ただそのことに関しての自らの姿勢と意識が少しだけ変わった。この変わったということが大事なのだと今は考える。目の前で起こることのキャストと背景の総体に感謝したい。世界という無数の劇場の絶え間ない舞台が、この今の私というただ一人の観客席の目の前で巡る。ただ私の内面でだけの出来事とも言えるだろう。そして半歩進んで、内と外が1つになるところ…。

似ていれば似ているだけ違う



■東京での仕事の帰りに東戸塚で「のくん」に会った。彼女は日系アメリカンのジェフと結婚して渡米したのだが、実家の引越しのために帰国していた。日本に向けて旅立った翌日に例の同時多発テロがあった。このニューバビロンの崩壊がらみの話題は置いておくとして、肌がきれいな彼女はかつてのタレント酒井法子に似ていた。またビビアン・スーとも似ているのだが、彼女は自分が誰々に似ていると言われるのが好きではない。

■たとえそれが誉め言葉のつもりで発せられたものであっても、そのような表現は私も好きではない。昔それでちょっとだけ不快な顔をされたので、「ビビアン・スーの方がのくんに似ている」と主客を置き換えたら、少しだけ機嫌が直った。自らの主観に過ぎぬまま「君は何々に似ている」と口にすることは、あまりにも無意識を類型化し過ぎている。もう一度誰と誰が誰にとって似ていると感じられるのかを確認しなくてはならない。

■私にとって「のくん」とノリピーが似ていると感じられるのは、どちらも私にとって好ましい傾向の容貌だからであっても、他者にとってはその好感は同じではないので、当然のことながら言い放ちっきりは舌足らずであろう。「私にとってのくんはノリピーの若い頃に似た、視覚を中心とした総合的印象を与える」と言い放ったところで、その比較対象の一方である「のくん」にとっては、私と同じ視座からはその言明を共有できない位置にいるのである。



■「似ていれば似ているだけ違う」というパラドクスを好む私としては、彼女が現在の旦那の母国が大変な状況下にあり、また彼女自らもネット上のビーズ店運営で個人的負荷が増すばかりという状況を踏まえた上で、「のくん」は人間として誰にでも似ており、かつ誰にも似ていないのだから、昔からの誰にも似ていない素晴らしい自立心と独自性をさらに伸ばしていき、より健やかに未来へ向かって生きてほしいものだと思うのである。

■どんな人でもそれは同じだ。全ての人がその人独自の世界観と人生観を持ち、誰一人として無用の長物や他者のスペアなどではなく、全体性の中では不可欠なものだという生命観を能動的に選択し、それを観念だけでなく生き様として私は生きていきたいものだ。それにしても…と私はひとり心の中だけで思うのだ。「最近ののくんは細川直美にも似てるなあ。」そして私はそんな矛盾だらけの愚者たる自分が結構好きなのだ。さて何をか言わんやなのである。

■あるものとあるものが似ていると認識するのは、人間の世界観構築の1つの基本的な方法である。しかし敢えてあるものとあるもの以外が似ていないと表現することは少ない。ましてや似ていないものと似ていないものとは似ていないということで似ているなどと人の顔の上で考えることは稀だろう。似ていないもの同士の間にも気がつかない相似形というものが無数にあるとイメージできれば、主観としての「似ている」も生きてくることだろう。

テラバイト日記(040)20010916/20011013 replaced/20061210 rerplaced

意識の面点変換はパラドクス超えて



■一日が安楽ではないことが予測できる時、心の中で「さあ頑張って行こう!」と自らを励起できる場合と、少々へこみ気味のまま打ち寄せる時の波間に対して為すすべもなく呑み込まれてしまう場合とがある。この差異は何だろう。自らを奮起させて肯定的・創造的に現実に立ち向かう姿勢を取るか、ろくな心構えもなく無防備で世界に対峙するかの違い。この差異が繰り返し続けば、自らの内なる生き様の可能性同士のベクトルの差は開く一方だ。

■しかしそうと知ってはいても、自力でアクティブに世界に向かう生命状態を創出できない時もある。そしてそれが繰り返し続くと、世界は混沌であり自分は非力だと観ずるつもりの鬱状態へと緩やかに退色していく。自分が失速気味だと気づいていない時は、ただそれに気づけばよい。しかし分かっていてもできない時は、身辺に不幸や大事件が起こるなりしなければ心を入れ替えて現状を超えて行こうと発心しない受動的感覚の中に留まり滞っていく。

■筋道だてて自らに対する認識を続ければ、自らの現状に満足しなくなる。宇宙空間におけるアストロノーツの姿勢制御にも似た、生命状態の姿勢制御だ。今のままでは良くないが、一体どうしたら良いのか分からないという状態は、「朝起きなくては、起きなくては」と思いながらまた夢の中に落ちていく様に似いてる。「変わらなければと分かっているのにやる気が起こらない」というのは、実はまだしっかり目が覚めていない状態のだ。



■よい習慣を繰り返すという戦略は、意識がより遠くまで到達する可能性を高めてくれる。そしてその決断をするのはある特別な時ではなく、常にこの今、今、今なのだということ。この瞬間瞬間の決断力は自らを反転して内部から生ずるしかないパラドクスだ。その方法まで他者に示してもらっては、それはもはや自由意志ではなく、機械的条件反射に近い。安直な方法論の提示は自主性、自発性、自覚のベクトルなどを根こそぎ奪いかねない。

■負荷とは現状維持に対する外的抵抗だ。現状維持もまた簡単なものではないけれど、そこにさらなる負荷を与え続けるということ。外的負荷が即精神的・身体的な外傷になるわけでもない。スポー鍛錬や生物学的な成長のみならず精神的成長は、日々の生活を破壊しない強烈な負荷が必要だ。自然のまま何の抵抗も労苦もなく成長して大人になるということは、この上もなく幸運なことだが、実のところこの世界ではまずありえない。

■生命活動を決定的に損なう類のものでない負荷とは、むしろ成長に不可欠なものだろう。様々な人の人生上の諸事件もまた、各人のそれに対する姿勢によって、成長の糧となるか障害となるかが決まってくる。過去の不幸を外的原因として自らの進む方向を自己規定して世界と接するような生き方は、明らかに閉じている。不幸すら幸福のバリエーションとして変容させうるような生き様を、自ら体得できる者とそうでない者との違いはなんだろう。

■できる者とできない者という認識の仕方自体にも原因がありそうだ。外部要因に責任転嫁としたり、幸不幸という表現で偶然の確率に還元させることなく、自らの心身を介してどこまでも探求していくべきことである。心だけでなく、身体を実際に打ち震わせるなりして、停滞する魂をも励起するような生き様を顕現させていくこと。安易に口にせず、自らの内にただ力強くそれを秘めて、結果としてその生き様で表現する姿勢を持ち続けたいものだ。

テラバイト日記(251)20040320/20040422-replaced/20061209-re-replaced

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