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  • 2024.01.09 Tuesday
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たまには嫁さんシリーズでも(ダジャレ編)



■嫁さんと町を歩いていたら、道端に犬が繋がれていた。少しだけじゃれあってからまた歩き始めたら、100円の飲み物の自動販売機があった。嫁さんは「あ、ワンコ in ドリンク」と言った。昔むかーし、村上龍が『コインロッカーベイビーズ』という小説を発表した頃、「子 in ロッカーズ」と言って受けたことを思い出した。私はいつも一人で世界とダジャレ合戦をしている。ただそれだけなんだけれど。いつか必ず世界を爆笑・震撼させるギャグを吐き出したい。

■嫁さんと日差しの中を歩いていた。新しく整備された道路の端にある排水溝に書いてある字を見て、女の子が母親に尋ねた。「ママ、これ何て書いてあんの?」「浸透桝(しんとうます)」「新しい機関車?」…新トーマス?おいおい、機関車トーマスは以前TVで見たことがあるが、こんなところにへばりついてはいないぞ。私の頭の中だけで弾けたダジャレを数度繰り返している間に、その無作為芸人2人は空き地のタンポポを眺めてる。笑いは個人の脳内でかように発生。

■嫁さんが東京に出張の日の話。自分で洗濯機を回してみた。鬼のいぬまに洗濯。洗濯されるのは多分命。そして鬼の方も別のところでしていることは命の洗濯。…いや命の選択なのかも知れない。宮崎県には鬼の洗濯板というものがある。鬼も洗濯するのか。猫が遊んでくれとジャレ棒を持ってきた。猫は洗濯はしない。自らの一張羅を丁寧に舐めて身支度を調えるだけだ。洗濯機の上でジャレ棒を振ってみた。猫がその中に落ちた。水がなくてセーフ。猫による命がけの笑い。



■家でネットをやっていたら、嫁さんから携帯に電話があった。すぐ近所にノラ猫がいる。エサを求めて擦り寄られているけれど、何も持っていないので立ち往生をしているとのこと。わたしはいつものように常備の猫エサを抱えて出動。猫国際救助隊。行って見ると街灯の下で、半年振りくらいの黒猫ロナウジーニョがいた。胸のところだけ白い毛がポヤンと生えているやつだ。エサを与えつつ少し撫でた。家に戻ると、うちの猫が袖の臭いをクンスカ嗅いだ。

■嫁さんは匂いに敏感だったが、猫と生活するようになってから鈍感にすることを覚えたらしい。猫は時々余りに遊んでくれないと想定外のところにちょびっと放尿する。わたしがオシッコ臭いと言わないと気がつかないことすらある。日向で猫が寝転んでいると猫喜んだと言って、一緒に横になる。そしてかなりの頻度でそのままかなり熟睡してしまう。時々急に目覚めてダジャレを言う。半分寝ぼけてる。匂いに鈍くなったのではなく、脳が鈍感になったのかもしれない。

■嫁さんは忙しいらしく、幸いなことにあまりこのブログは見ない。これからも話のネタとして、リークしていこうかとも思う。まあ、それはまた自らの鈍感さを表わすことにもなるのだけれど、本当に鈍重なのだからしかたがない。

2つのものを1つこととして見る



■図か地のどちらかの絵柄に意識を合わせる事で2種類のイメージが見て取れる騙し絵。しかしその2つの絵を同時に見ることはできない。立体裸眼視すると元の絵とは異なる立体的な図柄が見える3Dアート。しかし立体視と平面視の両方を同時にすることはできない。人間は通常、2つの世界観で同時にこの世界と接する事はできない。できることはその2つをできるだけ早く交互に切り替えることくらいだ。

■私たちが未知の体験をしている時も、同時にノーマルな意識でそれに接することはできない。過去の似たような経験を記憶から検索して、リアリティの方をその過去に当てはめて認識しようとする。しかしそれがそのままリアリティにしか見えないところが限界でもある。実は目の前の世界は常に初めて生起する事なので、通常意識もまた現実を正確に把握することはできていないと考えることは難しくはない。



■しかし本当に私たちはそのように2つの世界を同時に認識することは永久にできないのだろうか。オーラやチャクラや霊やエネルギーなどを見ることができるという人はいる。そしてその人たちの中には、意識の焦点を変えるようにして、普通の見方をしたり、別の見方に集中したりということができる人もいるらしい。そして努力すれば、そのような見方と共に普通の見方も同時に世界を見るとができるようだ。

■「上の如く下も…」という表現があるが、「内のごとく外も…」という表現もある。前後・左右・上下の方向対を仮に1,2,3次元的と称するならば、4次元的な方向を空間で体現すると内外対、つまりミクロ・マクロ方向の対であると表現することができる。元々多面体の内部と外部は等価性を有している。そしてその大きさにに関係なく、正4面体はその界面を内と外の双方を内包して正4面体なのである。

ADULT課金話と13の繋がらぬ繋がり



     ADULTサイトの課金を払ってくれだって?

■床を磨いていたら携帯電話が鳴った。知らない番号が表示に出ていたので、いったいこんな時間に誰だろうと思いつつ出たら、NTT関係の者だがアダルトサイトの課金の件で云々という話だった。身に覚えがないので一笑に付したが、まだこのようなことをしてお金を巻き上げようとする者がいることに呆れてしまった。もっとも引っかかる者がいるからやってはいるのだろうけれど。それにしても一体どうやって私の携帯番号を知ったのだろう。やれやれである。

■このようなことをする者も人間なので切り捨てて否定はしないけれど、私のHPの掲示板やメーリングリストに匿名や偽名でアダルトサイトのURLを一方的に書き込みしてくる輩と同類なのだろうか。ところでこの匿名で私の携帯に電話をかけてきた者の電話番号が受信履歴に残っている。使い捨てのものかも知れないが、どうも個人の携帯電話からかけてきたようだ。番号を残したままでいいのだろうか。武士の情けで番号は記さないが、間抜けなのではないだろうか。



     13の月の暦と尸魂界の護廷13隊

■ネットのYOU TUBEでアニメ全編を見て、ようやく週間少年ジャンプの『BLEACH』という連載マンガのリアルタイムに追いついた。先日東京の「13の月の暦の会」でレクチャーをした時に気がついたのだが、このマンガの中でホロウと戦うための尸魂界に作られている死神の部隊は、護廷13隊といってまさに13番隊まであるのである。隊長と副隊長合わせて26人のキャラクターは覚えられそうで覚え切れない絶妙な数だ。太陽のような恒星の中では原子番号26の鉄までが生成される。

■全然関係なさそうだけれど、数の符号は無意味ではありえない。5つあるプラトン立体のうちの正6面体と正8面体は面点変換できる双対の立体である。このわたし達の3次元的な空間認識においては一番馴染みがある立体だが、この立体は共に回転対称軸が13本ある。対の位置にある2点、2つの面央、もしくは2つの線央を軸にして回転するということだ。ということはすなわち面と点と線の合計が13×2=16あるということだ。フルファベットがなぜ26なのか誰か言える?

イッちゃってる人・キてる人



■昔はあっちの世界に行っちゃってる人とか、頭に電波が来ているとか言う表現があった。余りいいイメージではない、いわゆる責任能力の欠如した変性意識状態のことや、それっぽい感じのする人のことを少し砕けた表現としてそう称していたわけだが、イッちゃってる人・キてる人という言い方は今でも生きている。それが良いか悪いかは別として、通常は空間的な移動を表わす「行く」「来る」という言葉を用いて表現をしているところが面白い。

■肉体と精神は不可分であるという主張があったり、肉体は精神や魂の乗り物であるという表現もある。ドリームスペルという時間の3Dゲームでは、この身体のことを3次元のスペーススーツ(=宇宙服・空間服)と呼んでいる。もちろんイっちゃってる・キてるという表現を用いる時は、この物理的身体ごと移動するのではなく、意識が通常の閾値を超えた別の状態・世界に行ったり、またそこから別の意識状態が来たりしているという意味だ。

■向精神性の薬物や植物を服用した場合や性的な絶頂時などは、通常意識を維持できずに「飛ぶ」とか「行く」という表現をする。身体をはみ出して動くと表現されているものが、意識だけではなくそれによって操作しうる「気」や何らかの「エネルギー」であることもある。昔はハンドパワー云々で「来てます、来てます」と言えば、手の平に気や未知のエネルギーが来ているということを表わしていた。今では遠隔透視や遠隔ヒーリングなどという言葉や現象すらもある。



■意識そのものが飛んだ行ったり来たりしている人のそばにいるのは、いびきをかいて寝ている人の傍にいたり、気兼ねを失念して煙草を吹かしている人の風下にいたりするような、なんとも理不尽な思いをすることが多いけれど、もし意識が通常の概念や状態を超えて移動するのであれば、それが受動的・突発的な生起に任せるのではなく、能動的・意識的に自在に行ったり来たりできればよいのである。気を扱うのでも、暴走することなく想いや慈しみがあれば良いのだ。

■人はどこから来て、どこへ行くのか?何を成すべきか?などという問いが哲学的であるとして持ち上げられているけれど、実際のところ私たちのこの現有意識そのものが、どこから来てどこへ行くのだろう。そしてまず「どこ」を鑑みる場合、それを考える足元でもあり考えそのものの場でもある「ここ」がどのようなところであるのかを明確にしてからでなくては、どこにイっちゃうのか、どこからキているのかもあやふやなまま何も始まりはしない。未始なる人は多い。

■イくとは「命を生くる」こと、クるとは「命を繰る」ことでもあろう。「行き来」するとはまた「息・気」でもあろう。

顔と顔と顔と顔と蜜柑と蜜柑

■■■■■■顔と顔と顔と顔と…再び顔について



■東京駅で在来線から新幹線に乗り換える時、東京駅の通路に溢れている利用客たちの顔をまじまじと眺めてみた。なぜに人の顔を見るのはこんなにも面白く感じられるのだろう。見る者は見られるわけだけれど、これだけの雑踏の中の1人だから、当方も数え切れないほどの顔たちの中の1つとしてほぼ無の状態だ。見ていて不思議に感じたのは、美しい顔や整った顔や交換の持てる顔が続く時と、その逆の時の波があるということだ。

■これは全てが勝手な確率的な揺れに対する思い込みかも知れない。しかしむしろ個人的な内面と外面の偶然を少しはみ出したリズムのようなものがあるのかもしれないとふと思わせるような不思議な周期である。もちろん全ての顔を瞬時に眺めるのではなく、半ば無意識的に一人の顔から次の一人の顔へと視線をずらしていくタイミングや任意性などとも関係があるのかもしれないと、つい考えてしまうような顔の数珠繋ぎである。

■■■■■■たわわに実る夏ミカンの樹



■JRの藤沢駅と鎌倉をつないでいる江ノ電の最初の駅は石上駅という。この駅のすぐ傍に、塀から道路にはみ出すほどたわわに実る夏ミカンの樹がある家がある。私の実家はこの駅の傍にあるのだが、毎年この時期になるとこの壮観な夏ミカンの生り具合を歩きながら見上げていたものだ。今年は家への帰りしなに、人間の智慧や閃きの果実たちも願わくばかくの如くにたわわにあれとの思いを込めて、思い切ってこの豊かな夏ミカンの実をデジカメで撮ってみた。

■それにしてもこの時期なのになぜ夏ミカンという名前なのだろう?夏ミカンの正式名称は夏ダイダイで、日本では江戸時代中期に山口県の海岸に流れ着いた果実の種を蒔いたのが最初だとか。明治以後に食用となったが、昭和40年代に新種の甘夏ミカンに切り替わっていった。収穫期は4月〜6月なのだが、暖かい土地では2月中下旬〜3月が収穫適期とされているとのことだ。かつては他の果実の端境期となる4月〜6月に生産される唯一の生果だったのだ。

坊主憎けりゃ袈裟まで憎いを坊主は憎まず



■ラフな作務衣で塔婆を書き終えた和尚さんが、これから始まる法事のために急いで袈裟に着替えている。お寺で法事が始まろうとしている。接客用のお茶菓子を用意しながら、私の頭にはふと「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉が浮かんだ。坊主すなわち当人は不在であっても、それを想起させる周辺の物に対してまでもネガティブな感情を抱く。連想させるものによっては憎さだけではなく、愛しさを感じることもあるというのは人間の心理的力学現象である。

■イコンや形見、仏舎利から遺髪、遺影から学生服の第2ボタンまで、心のよりどころとしてそれを抱きつつ寄りかかるかのようにして生きている人もいる。過度に傾けばフェチとなるし、精神性を投影しすぎると偶像崇拝にもなっていく。物質世界に生きている人間は、物質を介して自らが生きていることを確認しようとする傾向がある。見えないものや思いを形あるものの上に投影して、それをエネルギーの変換装置として用いることで自分の生命を維持しているのだ。

■だからこそ逆にそれを介して辛い情感や情動を想起させるような物に対しては、その存在そのものを憎悪する。何でも良いのだが、例えば三味線や小唄の師匠を好きになり、そして自分が納得のできないような別れ方をされたことがずっと心の中のキズとなっている人がいるとしよう。無関係の人とのコミュニケーション時に話題として三味線や小唄が出てくると、それが過去の苦い記憶を想起させるので、新しい人間関係に支障をきたすというようなことは多々ある。



■その時その記憶を不自然に否定したり不快感を増大したりすることなく、無意識的にでも日本の伝統芸術に背を向けたり遠ざけたりすることもなく、しかも友人やGFに不快な思いのおすそ分けという個人的な情動失禁をすることなく人生を前に進み行くには、実際にはどのようにしたら良いのだろう。それまでは観念やただの言葉に過ぎなかったけれど、自らの心身を通してそれを体感した諺として、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という諺を憎まずに生きるレベル…。

■世の中には生来のキャラクター的に間合いの良い人と悪い人も確かにいる。しかし人間は時として運の良い人や抜け目のない人ですらも、自らに落ち度はないのにたまたまそこに居合わせたがために、相手の不快のツボという地雷を踏むこともある。その日の運勢や星の巡りという短いタイムスパンの視座だけでは、偶然か必然かすらも判じかねるままはまり込んでいる人間関係の理不尽さ。他生の縁で仕込まれたブービートラップに責任転化でもさせたい不可抗力性。

■まあそんな状態に自分がはまり込んでいると気付いたならば、極力自らが憎悪対象自体の坊主やその袈裟とならないポジションに身を置くか、いっそその場からケツをまくって遁走するというのが自他共のために良い場合もある。自力で解決する努力はすべきだが、自力だけで招いた状況でないならば、自力でもてあます現状に対して無力のまま立ち尽くしてさらに大混乱に落とし込むよりも、混乱の要素であり続ける役割を降りるという能動的な選択もありなのだ。



■憎き坊主も坊主の袈裟も自分の意識の中を流れ行く情動の中にこそあると考えられるならば、そんな状況すらも笑いながら楽しめるのだけれど。そして無責任と言われようがそりゃー三世を貫く法則に素手じゃあ立ち向かえないと言わんばかりに、戦略的撤退という美名に隠れて現実のありように背を向ける役割を演じてみるという遊び心でもあれば良い。いやいや、遊ぶこともなくシリアスなまま立ち尽くすという状況すらも、トライすべき人生上の演目かもしれないのだ。

東西南北ではなく南東北西の字面



■今でこそ東北新幹線の始発は東京となっているが、かつて上野は東北方面への玄関口だった。それでもローカル線や特急その他の列車の始発駅だ。新幹線のホームもどこか始発駅の風情がある。その上野駅構内のあちこちに最近は「サクラの北東北」というキャンペーンのポスターが貼ってある。古い映画に『北北西に進路をとれ』という作品があるが、明らかにこの方位12区分とは勝手が違う字面である。昔の東北地方は日本海側と太平洋側という区分をしていたはずだ。

■東北地方は青森・岩手・宮城・秋田・山形・福島の6県で構成され、本州の約3割の面積を占めている。そもそも本州の東北部にある地方なのでこの名で呼ばれているのだ。最近では主要都市間に新幹線が通り、東北自動車道その他も整備された。この陸上交通の再編成により、現在では青森・岩手・秋田の3県を「北東北」、山形・宮城・福島の3県を「南東北」と区分する例が増加しているらしい。なお余談だが、東北は全ての県に新幹線が通っている唯一の地方である。

■さて字面の問題である。日本海側と太平洋側という区分は今でもあるだろうが、これはいわば東北地方の西側と東側ということでもある。3月に山形の銀山温泉というところに行こうと思っているのだが、いわば山形県は南東北の西側にあるわけだ。南東北西…これだけ見たら東西南北全て入っているので、何のことかさっぱり分からない。日本語は優秀なので、会話や文章の中で混乱する事はまずなかろう。それにしてもやはり下部町上中郡などのような名前に違和感はある。

デルピエ郎画像の回顧(1)

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■過去の回顧画像(2)

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旧暦元旦新月はアイソレーションタンク仕様



■今日(20070218)は旧暦の新年、1月1日だ。そして新月でもある。新月の日には願い事を書いて祈るということをしている人たちがいるらしい。いわゆるアフオメーションのようなものだろう。新年にして新月。なんとなくめでたいではないか。目出度いはまた愛でたいである。立春の前々日の満月から朔望周期の半分が経ったということだ。さて昨日は13の月の暦の会の主催によって、駒込で「多面体と数と13の月の暦」というタイトルで話をさせてもらった。

■主催者であるhiroe女史の人柄と努力によって、ここのところの考えをまとめさせてもらえて、とてもありがたい会だった。ここに感謝の意を表したい。ないように関しては月末の名古屋メタトロンレクチャーでも話し輪してみたいと思っている。いずれHPにまとめて上げられたらと思っている。ところで2次会(…この会では虹会としゃれて呼んでいるが)もはけて、いざ帰ろうかという時に3次会とまではいかないがお茶を飲んでしばらく話をさせてもらった。

■心根のすばらしい人たちとの語り合いは本当に心和む。さて帰りだ。私は実家が神奈川県藤沢にあるのだけれど、1時間以上かけてただ眠るだけに戻り、翌日(…今日のことだけれど)朝から浅草でテラバイトをすべく未明にまた電車に乗るのも疲れるので、浅草通りにあるカプセルサウナに泊まることにした。上野で下車して浅草通りを徒歩5分弱。以前にも泊まったことがあるので慣れたものだ。こういうところが苦手な人もいるけれど、私は全然平気なのだ。



■なぜこのようなことを書いているかというと、この旧暦の大晦日から元旦への新月を抱いた年越しのせいなのか、それとも単に2次会のビールのやさしい酩酊の揺り戻しなのかは知らないけれど、ちょっとアイソレーション・タンクの中の感覚を味わいつつの寝心地だったからである。アイソレーション・タンクとはジョン・C・リリーが開発したあの感覚遮断タンクのことだ。あそこまで完全な感覚遮断感覚ではないけれど、まあ感覚的にはちょっと似だった。

■いろいろなカプセルホテルというものに泊まったわけではない…というよりいまだ1つも知らないのだが、3000円でそれより安い「ベッド」というものを選択してみた。大部屋なのだが、ベッドの仕切りが高くて他のベッドとは一応隔絶されている。とりあえず早々にサウナ用の服に着替えた。部屋に客数はそう多くなく、そしてすでに暗くしてある。2段ベッドがあったのでその上段に乗って横になった。天井しか見えず、あまり考え事をする意識状態ではないままだ。

■なにやら眠いのも手伝ってか、寝ているのか起きているのかわからぬまま、体はそんなに感覚がない。音もしないし、温度もまあ常温設定なので無感覚に近い。多分起きたり眠ったりもしていたのだろうけれど、夢でもなく現実でもない感覚のまま横たわっていて、それなりに気持ちがそこそこよかったのだ。アイソレーション・タンクとの違いは、夜中にそう遠くないところで他者のいびきが始まってしまい、それに気を取られてしっかり目が覚めてしまったことだ。



■これだけは面白かったのだが、携帯電話の時計を何度も何度も見て時間の確認をするのだが、あまり進んでいる感じがしなかったのである。とてもゆっくりゆっくり進んでいるのだ。酔っているわけでも夢でもない。たま〜にこの感覚はあるのだけれど、とても得をしたような感じだった。ただ考えが明晰にならないけれど。ただそれだけだけれど、休息は長く長く取れた。そして旧暦元旦。外はまだ雨だったが、ゆっくり風呂に入ってお寺に向かった。何もないことの幸せ。

■これはネットカフェでの書き込みなので推敲はあまりできないが、そのまんまアップしたい。旧暦の感覚のおめでとうである。みんなへ、そして自分自身へ。旧暦で数えた暦であってもハッピー多き日々のめぐり来ることを…May!

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