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  • 2024.01.09 Tuesday
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プチ湯治生活が私の中にやってくる



■「プチ湯治」という言葉がここのところのマイブームだ。昔は湯治というと、農閑期に1年の疲れを癒して次の年に備える必須の行事だったり、もう医療機関に見放された者が最後の望みとして名湯に浸かる生活をすることだったりしたわけだが、最近では改めて湯治生活が見直されている。温泉地の方もそのようなニーズに答えて魅力的なプランを設定してくれている。時代の先取りである。

■料金は素泊まりから1食2食3食まで付くものまで選択肢が多く、名湯に浸かるのは同じでありながら2千円〜5・6千円程度でゆっくり連泊ができる。設備も旅館部ほど充実してはいなくても、清潔で明るく過ごしやすいところが今や少なくない。そんなに休めないという人ほど、実はゆっくり余裕を持って心身を休めた方がいいというパラドクスがここにもある。値段は普通の1泊とほぼ同じなのだから。

■それにしても普通の温泉旅館ではなぜあのように食べ切れないほどの食事を出すのだろう。あのままのもてなしで何日も連泊を続けたら、逆に過食で体にとってよからぬ結果をもたらすに違いない。連泊を想定していないのだろう。1晩か2晩程度の日常とは異なる世界を提供するということだろうか。平素の生活から粗食を心掛ける者には、むしろ食事なしか、あっても簡単なものの方が好ましい。



■近頃では有名な温泉宿でも片泊まり(一泊朝食つき)や素泊まりプランを取り入れて手頃な料金設定をしてくれるところが増えた。宿泊と食事の明確な立て分けをしてくれるところも少なくない。また湯治部の設備充実にも目を見張る。簡素な食事で何日も温泉宿に泊まり、自分自身のペースで食事もとれる。飽食の時代はとうに終わり、泉質本意でシンプルな温泉宿というコンセブトも1つ確かなものとなってきた。

■私の場合は、全く個人的なことなのだが、1人泊だと深夜に目覚めてちょっと怖かったりするので、山の中の一軒宿に単独で泊まるのはよほどの勇気がいる。本来ならば宿もなき山奥の秘湯に一人テントでも張ってその本質を堪能するのが個人的なテイストなのだが、いかんせん見えない者に対する意識できない恐怖と畏怖(そして反転した甘え)がありすぎて二の足を踏んでいる。かなり情けない。

■最近ではノートパソコンと携帯電話があれば、ほとんどどこでも仕事はできる。電波の届かない山奥でもぶらりと山を降りて近くの町まで出てくればノープロブレムだ。むしろ電波の届かないということが恩恵となる。ちょっとした地方都市ならば安価なビジネスホテルに泊まりつつ温泉に浸かるということもできるだろう。最終目的はもちろん湯治自体ではない。しかし今や湯治しなくては身が持たない。



■言うは易く行なうは難し。湯は安く訪なうは高しという金銭感覚は変えようと思う。仕事もせずにゆっくりする時間がなくて、いったい何のための社会、何のための生命であろうか。…いや自らの感覚の正当化やブーム到来の予言もどきなどするひつようもない。私は勝手にプチ湯治するぞっ!とまあ、この宣言をして、その後どんなだったかリポートをすればよろしい。でもできればみんなで行きましょう。

性的パートナーから霊的パートナーへ



■高校の時はプラトニックが自分の中では当たり前だったが、形から入る美というものがあるように、セックスから入る愛というものがある。美の本質を解せぬ者にその姿勢や本質や概念・構造から入って歩を進めさせるように、また感覚や感性が自閉している者にとにかく舞踏や格闘技の技や形から入って染込ませる様に、セックスから入る至高の愛へのパターンもまたあるのだろう。

■ただし性は強力な磁性を有するので、それを超えて精神性や至高の愛にまで純化しゆくのは並大抵のことではないだろう。アゼザル。シェミハザ。なぜ地上の美しい娘達に魅せられて堕ちた天使たちがいたのか。気まぐれや肉欲のみだったのか。そしてそこから抜けられなかったのか。それとも全く別の何かがあったのだろうか。誰が知ることができるだろう。私は天使たちにどこかで共感している。

■また丹波哲郎の言う「霊界」の入り口にあるという「残存性欲の森」というもの。現世でやり残し、思い残してきたセックスを、最適の相手と気が済むまで思い切り耽ることができるというものだ。それならば現世で苦悩しすぎたり犯罪者になることもなく、セックスがうまくいっていてもうまくいかなくても、いずれそこを通ることになっているのであれば、それを楽しみにして暮らせばいいのではないだろうか。



■何か1つ発想を反転すると、残存性欲の森とはこの現世そのもののような気もしてくる。好きなだけ浸っていて自分の進む道を忘れるということや、それでもやがて自力でそれに気づき、立ち上がって先に進むこともある点などもよく似ている。セックスのみならず生活人生全般がそうなのだ。決心するのは常にこの今なのだ。今の心。それが何なのか、何故身体をその想いが駆け巡るのかは分かりえない不思議。

■20歳の頃、性風俗の本とは知らずにフックスの「風俗の歴史」の全集を古本屋で買った。その中に自分のフートと仲たがいする娘の話が出てくる。フートとは当時のドイツの言葉で女性性器のことだ。娘はお前のようなグロテスクなものはこの美貌と肢体には相応しくないので邪魔だと言い、フートの方も顔や体は飾りに過ぎず、自分がいるからこそ殿方はそれを目的に寄ってくるのだと主張する。2者は別れる。

■しかしいたるところでフートなき娘は化け物扱いされ、フートの方は気持ちの悪い生物としてさんざん棒切れで叩かれる。結局2者は野原の真ん中で再開し、互いが必要だと泣きながら合体するのだ。それだけの話なのだが、子供の頃や純粋過ぎる人は自分を崇高なものに捧げようと思う余り、自分の性器を切り取ってしまいたいなどと思うこともあるだろう。しかし正常な人間にはそれは必要なものなのである。



■性的妄想というものは、一概にバカにできない強烈なものだ。それにしても大人の世界などと表現されている世界や意識に未だ自分はそ到達していないという自覚があった頃と、今現在の自分とはさほど変わっていないということに改めて気がつく。しかし今でも、そしてこれからも性愛のあり方や、理想のセックスなどというものはモデルがないしありえないとも思っている。では私は一体何がしたいのか?

■多くのカップルや夫婦が、見られていないながらも「それが正常なもの」としてセックスをし、時には異常と正常の線引きが困るような嬌態をベッドルームという他者には見せぬ空間で為していることに対し、当たり前のこととしてやり過ごせない何かがまだあることに気がつく。ただのセックスパートナーから精神性を高めあう関係となり、最後には精神的な至高のパートナーへと純化しゆく道もあるのだろう。

■どんなにその時愛しいと思っている相手と夢中で愛し合っていても、その相手の通常生活では見られない痴態を見つつ、自分が何故このようなことをしているのか、「させられて」いるのかと思う瞬間がある者はいるだろう。DNAにか、神にか、本能にか?事後に改めて思うこともあるけれど、普段の精神状態での回想や再思考は、また別の意識での判断や思考となってしまう。1人ではない聖なる共同作業。

■ただしこの日本の超現代では、性的パートナーを飛ばして霊的パートナーとなる関係も、もはや少なからず存在するような気がする。そしてもちろんそれは、逆ピラミッド型の年齢別人口比社会へと転がりゆく中で、それが国力を低下させるとか世界に貢献する日本国の活力を喪失させるなどというレベルの話ではない。もっとも私はこの超現代では古いタイプの人間というRPGで貫き通すつもりではあるが。

相互交差する真円の力と歪んだカタチ



■形そのものには力はない。もっと正確に言えばあるかないかは関与もしくは観測してみなくては分からない。人が関与することによって力は顕現する。まあそれはさて置き、その途中をスキップして「形には力がある」という表現で話を進めるとすれば、幾何学的に美しい形は力があり、アンバランスな非対称性の歪み捩れのある形には力がないばかりか、それを無防備なまま見た者の力すら奪ってしまう。

■形そのものが視覚的にも力を有していないロゴやCIや屋号や紋章などの視覚的デザインは、それにアイデンティティを重ねる者から力を奪い、生命力を衰退させる。今回は何が言いたいかというと、あの民主党の不細工なシンボルマークのエネルギーバンパイア性についてである。あの片方が真円ではなく無様に歪んでいる円と真円が中途半端に重なっている図案は一体誰が採用し、意味づけしたのだろう。

■誰が見ても美しいとは言わないだろう。円は完全である。円を2つ中心と円周が交互に重なるようなに配置した形は力強い。そこから陰陽・主客・善悪・虚実などの2元認識そのものを相対的でリバーシブルであると見る第3の視座を獲得できる配置になっている。また半径を1単位とすると、この図形から√2、√3、√4=2、√5という基本的な虚数が既にそこに見て取れる。実に基本的で美しい形状だ。



■半田コーセン氏が構築中の『ヌース理論』ではこの2次元的形状のモデルを「ヌースコンストラクション」という名で用いている。そこに新たにプロットされた諸関係性をトレースしていくことによって、「反転」の概念に至る最初のゲートとして表現されている。その説の内容はさて置いておくとしても、このモデル及びその図形自体の形状は悪くない。均衡なモデルの中で不均衡をも表現できている。

■一体誰の陰謀なのだろう。何か用意周到に準備され、忍び込まされ、自己修正する力を奪い取るという意図が潜んでいるのではないかとカンぐるに足る醜さだ。縦に2つ重なった真円という形そのものは決して悪くないが、その片方が歪んでいること自体に対して、私はかなり真剣に異義を唱えたい。あのマークそのものを見せ続けるのも宜しくない。力を回復がなければ、非力な野党のままではないか。

■検索の仕方がうまくないのかも知れないが、ネットで民主党関係の検索をやっても、民主党のシンボルマークの意味は、「2つの赤い円が交差で無限大「∞」を示しているということです。そして下の赤い丸の輪郭がガチガチになっているのは、新しいものを生み出していく様子を示しているようです。つまりまだ成長途中で輪郭がはっきりしていないということですね」などという伝聞調の説明しかない。



■このセリフは民主党の政治家の言葉である。そもそも記憶から抜け落ちてしまいそうなほど印象が薄いこの政党の、結成当時のいつ頃このシンボルマークが決定されたのだろう。誰かこのあたりの成り行きに詳しい人がいたら、ぜひお尋ねしたい。口さがないかもしれないが、形のことについては少しだけ発言をしなくてはいけないと思う。民主党の方は是非このシンボルマークについてご一考願いたい。

なおこの文面と半田コーセン氏のヌース理論とは全く関係がないことを明言しておく。

this is it の now here

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■名古屋にずっとニューエイジ的またはスピリチュアルな流れを作り、また支え続けてきた「this is it」というお店がある。私も『メタトロンレクチャー&プレイ』と称した話半分・討論半分のちょっとしたゼミ形式の集いを、毎月この名古屋市中区新栄にあるお店でやらせてもらっている。JR鶴舞駅近くの高架下にあり、ロハスギャラリーカフェなどと分類されており、オーガニックなハーブテイー、コーヒー、ハート型特大クッキーなどが楽しめる。

■様々な瞑想のクラス、レイキヒーリング、アチューメントなどのほか、13の月の暦の勉強会や幾何学的な数と形に関する研究会などもスケジュールに沿って随時行っている。18年以上存続しており、名古屋のニューエイジやスピリチュアルなものごとなどに関する情報ターミナルとしての役割も果たしてきている。さらにギャラリーもあり、そこでは様々なアーティストの常設および企画展を催したり、ミュージシャンの発表の場としても機能している。

■しかし今回はそんなお店の紹介の話ではない。様々な人たちの出会いの場でもあるこのお店が、実はもうすぐ強制立ち退きで消滅してしまう可能性が大であるという話をつい最近聞いたので、そのことについて自分のスタンスを考えてみようと思う。 内部状況を必要以上にリークせずに、結果だけうまく引き出そうなどと目論んでいられる状況ではないと考えられるので、私は無責任にならぬよう注意しつつ、自分のスタンスから書いてみようと思う。

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■遥か先代からの借り店舗であり、又借り的状況のまま維持されてきていたらしいのだが、その親借家人が倒産してしまったため、家主であるJRの業務代行会社が面倒な借主(又借り主)はカットして新しくしたいらしく、弁護士を立てて早急に立ち退きを求めてきたようだ。借主が倒産して整理された後の元の又借り主という位置関係にあるためか、一切の抗弁や主張が認められないらしい。残る手段はお店存続のための嘆願書と署名しかないようだ。

■ということでこれまだ長年に渡ってお世話になった人たちや、現在もなっている人たち、そしてこの活動に興味を持ったり共感してくれる人たちに、このお店が存続できるように希望するという主旨の嘆願書を書いてもらったり、長文は書けないけれど嘆願の署名ならしても良いという人に、ぜひ一筆、一声お願いしたいという活動を今夜から始める事にした。たかしっち氏がネット上で最初に動き始めたので、私もそれなりに呼応することにした。

■5月9日付けで退去してほしいという文面らしいが、いまのところ5月一杯くらいは現在の場所にお店はまだ存続できるだろうと予測されている。法律的なことに関してはやはり法律に詳しい人のアドバイスなり活動がまずは一番大切なのだとも思うけれど、とりあえずまだ死にゆく人が安らかに逝けるようにというホスピス状態以前であるという状況判断のもと、この文章を読んでくださった人たちには以下のような活動もしくは関与の形態がある。

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■(1)直接お店存続の願いやその運動に対しての思いを、直接this is itというお店に持参するか、郵送するか、ファックスで送信する。(これらはまとめて弁護士のところに持っていくことになっている。)

住所⇒名古屋市中区新栄2-47-3 。定休日⇒月曜。営業時間⇒12:00〜23:00。最寄駅⇒JR中央本線鶴舞駅。TEL/FAX⇒052-262-0139

■(2)以下のURLにある嘆願の署名の紙(pdf版)に署名し、また友人知人で賛同してくれる人の署名もあればそれも含めて、やはりお店に持参するか、郵送するか、FAX送信する。

・嘆願の署名フォーマットのpdfのあるたかしっち氏のページ
 ⇒http://mixi.jp/view_diary.pl?id=415265115&owner_id=454201

■(3)mixiに入っている人は、その中のthisにとにかのコミュニティに意見や激励の言葉などを一言なりと書く。そのコミュニティのアドレスは以下の通り。(もしmixiに入ってない人でも、このblog等に書込みしてくれれば、私が責任を持ってmixiにコピー&ペーストします。)

・トピックのページ ⇒ http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=17770178&comm_id=679747
・this is itのトップ⇒ http://mixi.jp/view_community.pl?id=679747


■(4)直接動いたりすることはできないけれど、このささやかな活動に対する心の内でのサポートや、お店の将来に対する良いイメージを自らの内でポジティブに念ずることなどをしてみる。それもまたひとつの大きな関与であり、関係性の構築であると私は信じている。

■何もできないというのではなく、その最も良い行く末を念じつつ、現在の状況とその未来に対して、好意的かつ肯定的に眺め念じつつ、温かく見守っていってくだされば幸いである。 決して狂信的になったり悲観的になったりせず、無理をし過ぎず怠惰にもならず、自分のできることをして行きたい。望み通りになれば最高だし、望み通りにならなかったらその結果の方が想定の最高よりもさらに良いものだという、全く論拠のない確信がある。YES!

■この件に関しては、続報その他も書かねばならないと思っているので、どうぞよろしく。

心根正しく紙折るところに神は降る

■1枚の紙や1本の紐などを用いて、日常的な所作でもある「折り・包み・結ぶ」という作業に自らが特殊の形象を持ち込むことで、万物生成の過程を追体験するということ。しかも身を清め心の居住まいを正すことによって、宇宙の絶対者と自らが合一してそれを成すのである。そしてここには知識として知ることと、実際にやってみることの違い、そして実際にそれを成すとしてもどれだけ真剣にもしくはいいかげんに成すかによる違いというものがある。

■例えば現在世界的にも芸術性や幾何学的意味等も含めて評価されている「折り紙」というものが、。相撲や雅楽も元を辿ればそのあたりに繋がっているらしいという漠然としたイメージではあるけれど、そのルーツが日本の神事にあるということはそれとなく知っていた。「紙は神を示現する。1枚の紙は表裏・陰陽・上下・左右・四大を備え、しかも清浄である」と言われてはいたけれど、自らがそれを折ってみようとする時、改めてその意味を再考する。

■「折り目なき状態を天事(あまごと)と言い、大宇宙活動以前の状態と同意義である」という表現も、確かに自分が机に向かってそれを折ろうとすると、そこはかとなくではあるけれど不可思議な効験が分かるような気がする。神折符(かみおりふ)とは古神道において秘密裏に伝えられてきた日本独自のものだ。伊勢の斎宮の系譜で何代にも渡ってその家の女性にのみ継承したので姫事(=秘め事)というが、単なるダジャレじゃんというツッコミ感覚はない。

■「折り包む前にすでに事後一切の玄意を内包具有し、折り包み上げた後も質量増減がない」のは確かなことだし、 結びにより結び目が生ずるが、それは芽でありそれにより万事成育するという表現に対しても、単なる言葉の重なりとして捉えてお終いにするのではなく、むしろなぜ言葉が重なるのか、普通のダジャレでも面白いと頭で理解する前にすぐ笑うのかに思いが至る。結ぶ前と後で質量は不変だが、そこに小宇宙である○(円)が生ずる。真理である。

■折る前に禊が望ましい。手を洗い口を漱ぐ。半紙を用いる。裏を上にし、折り目をつける時は息を止める。折り間違いは折り直さず新しい紙を用いる。…などという心構えも、それを踏まえて自らが紙を折る時と踏まえずに折る時とではこちらの姿勢が違うわけだから、その折り上げられたものも異なる現れをするのであろう。踏まえても踏まえなくても同じような幾何学的な形象ができるのであれば、異なるのは人間とその折り紙との関係性なのだろうか。

■様々な秘伝の折り方があるが、その中に折り上げた形が正5角形になる供物包(くもつつつみ)という折り方がある。こちらの心身の居住まいを正すことなく遊びとして折っても、また純粋に学問的に折っても、5芒星を内包した正5角形ができる。黄金比や白銀比なども含む数学的・幾何学的な知識がなくても、普通の紙や半紙はその辺長比が1:√2になっているので、幾何学的にも精妙な均衡と美しさを持つ正5角形を折り上げることができるのである。

■古神道の作法では、折り間違えた紙や役目を終えた神折符は安易に捨てたりすることなく、ほぐして新たに1本の折り目をつけ、「神火清明、神水清明」と呪を唱えて川に流すか庭などで焼くことになっている。では古神道を否定することなく、しかも煩雑な諸作法やそれにまつろう呪や霊の世界観から自由になりつつ、幾何学的な結果だけでなく、その効用すらも力や光として獲得するすべがあるのではないだろうか。居住まいを正す姿勢はもちろんだが。

■以前に正20面体を綿棒で作させることよって、家庭内不和と妖怪が見えてしまう子供の問題を簡単に解決した、甲田列氏の話を書いたことがある。霊的に敏感な人は、美的感性の鋭い人のようにプラトン立体に対してもポジティブな反応を示す。ただ置いておけば風水的に気が良くなるという表現は好ましくないが、自ら居住まいを正してその立体を製作するということによって、自らが以前とは異なった世■■■■■■■■■■界との関係性を獲得するのはアリだと思う。

■折り紙というと辺長比が1:1というイメージがあるが、周囲に紙として遍在している、辺長比が1:√2になっているコピー用紙やレポート用紙を折るという操作だけでも、形を整えてそこに霊気を込め、自らと周囲の人たちへのお守りや寿ぎや予祝や喜びの連鎖として、現実に形にすることができるのである。そこに世界と自分自身に対する畏敬と慈愛、喜びと感謝が込められるかが大きなポイントではあるけれど。強きものはみな優しく、そして易しい。

図は神折符入門「新伝神折符」供物包より借用 http://www.channeling.jp/kamiorifu/new/10001.shtml

月・地球・太陽の3体問題



■月・地球・太陽の3体問題、もしくはそれぞれの関係性における3態問題。天から見れば地動説、地から見れば天動説。ではこれら双方を同時に見る視座はどこに設定すれば良いのだろう。宇宙のありようにしても天動説的世界観と地動説的世界観にたて分けられているけれど、高橋徹氏はこの2者を統合した新しい天動−地動説的な新しい世界観をを立ち上げようとしている。天・地・人という構造を背景に、私はこれを人動説とでも称してみたい。

■『古事記』上つ巻の三貴子誕生の記述には、黄泉の国から戻ったイザナギの命が川で左目を洗ったらアマテラスが生まれ、右目を洗ったらツクヨミが生まれ、鼻を洗ったらスサノオが生まれたとある。この三者はそれぞれ鏡、勾玉、剣に対応している。またアマテラスが太陽、ツクヨミが月もしくは太陰とも対応しているが、スサノオは地球そのものと対応していると見ることも可能なのだろうか。二元論ではない3つ組問題。

■月と太陽、右目と左目。月読みと日読み。日読みはカヨミからコヨミとなり「暦」となったと考えられているが、月読みもまたツクヨミからツキヨミとなり「暦」に通じるのではないか。月と太陽の直径比率はほぼ1:400だが、地球からそれまでの距離の比もまたほぼ1:400なので、見た目の大きさはほぼ同じであり、それゆえに日食月食が起こる。月と太陽が重なって見えても、同じ平面にあるのではないことを私たちは知っている。



■陰陽の太極はまた太一と表わされるが、太陰暦と太陽暦もまた双方を別物と見るのみならず、合わせて1つの暦として見る視座もあってしかるべきだろう。目や耳など一対の器官は左右が交差して、それぞれ大脳半球の右脳と左脳に逆に接続している。左右対称性のある身体各部も然りである。しかし嗅覚を担当する鼻は外部の穴こそ2つあるが、内部ですぐに1つとなり、左右交差することなく記憶と情動部位を通って直接知覚認識に連結している。スサノオ…。

■地球の大地を「地」宇宙方向の天空を「天」と見た場合でも、科学的には月や太陽はその天にある他の惑星と同様の天体と基本的には同じものとして扱っている。しかしイメージ的には月と太陽はそれぞれ太陽極まってその中心に生じる陰の点、太陰極まってその中心に生じる陽の点と見なすことができる。しかも一様に見えるが、太陽が全天を覆う陽天の膜と、太陰が全天を覆う陰天の膜の二重膜とその臍のような特異点としての月と太陽である。

■この全天はイメージとしては2重に配列した分子の疎水部同士が会合し、水と接する部分には親水性部分が表れる脂質二重層の構造的な表裏の関係にも重なる。特異点としての月と太陽は細胞膜にある内と外をつなぐ開口部であり、そこから様々なエネルギーが流出していたり、逆に取り込まれる吸入部だったりというイメージだ。この2重の2重膜の特異点である月と太陽が重なるということは、天文的には月・地球・太陽が一直線になる「蝕」である。



■右目で見ている世界と左目で見ている世界は2重世界として1つの世界に見えているのかもしれない。そして左右の目の盲点部分が反転して外部にあるのが、それぞれ太陽と月…。問題はそれを見ている者の視座だ。太陽と月が重なり日蝕になった時、それを月側から見ている地球の位置。月食になった時は自らの影を月面に見ている地球の位置。自らの立ち居地、視座もその中に入った世界観。そしてその全体を見ている第4の視点。

■地球上のどこかで日食・月食が起こる周期、つまり地球の食年(346日14時間52分54.405秒)と地球の1年との比は19:20だが、この比はまた冥王星の公転周期247.8年と1キンを1年とした神聖暦ツォルキン260年との比でもある。さらに言えば5芒星の1つの辺と、その外接球直径との長さの比もまた19:20である。19+20=39だが、これを2分割すると19.5度で正4面体の最重要角となり、3分割するとウェイブスペル1つのサイクルである13となる。

■月の自転周期は27.3日。月と地球の関係は月の公転周期27.3日。地球の自転は基本としての1日。地球と太陽の関係は地球の公転周期1年として365.2422日。太陽の自転周期は赤道付近の37日と両極付近の26日の全体平均としての28日。月と地球と太陽の関係の朔望周期は29.5日。3天体とその象徴である空間は別々の次元のものであり、太陽空間と月空間は地球空間を解して連結している3重のトーラス構造としてみることができるだろう。



■太陽と月にこだわるのは、およそ地上の生物はこの双方に大きな影響を蒙っているからだが、個人的には月相で言えば「満月」生まれであり、かつドリームスペルの銀河の紋章では「黄色い惑星の太陽」であるからだ。太陽と月を共に見る視座はやはり地球であり、そしてそれはまた自らの身体でもある。見える宇宙と見えない宇宙を片方にに引きずり出すのではなく、そのまま1つの太一と見る視座を獲得しなくてはならない。太陽系トポロジー…。

月なる女性を太陽となすために



■「太古女性は太陽だった。」それは良い。そしてそれを知った今どうするかが問題である。ネット上には星の数ほど女の裸画像が満ち溢れている。そのほとんどが性欲を励起させ、金儲けをかあからさまな意識操作のために、男によって取り扱われている。この現実を無視して一足飛びにかつての太陽として扱うべきだと意っても空しいし、新たなる女神像の浮上いう世界観に肯首もできない。いかににしてこの現状と極力滑らかに結びつけるかが問題なのだ。

■品性下劣と言われようが、女の体をモノ扱いしているといわれようが、この現状をなかったことにしての後戻りも抜け駆けもほぼ不可能である。また男としておのれの身だけは安全なところに避難させておいて、特定の他者や現状の悪辣さをあげつこともできない。自らの内にもその欲望はちょっとしたきっかけによる発動を待っているであろうことは自認する。全否定するのではなく、自らの立ち居地とベクトルの見定めと現実への関与体勢から始めたい。

■セックスや女性との様々な触れ合いなしにも生きていくこともできるだろう。しかし何のための生であるかという根本問題は揺らぐ。どのように捉え、どのように考え、どのように接し、どのように関与していくのかは、常にこの今現在の意識の問題でもある。既得の答はない。見出せぬうちはないと等価だ。「言わぬが花。」自らのことに関しては安易に口に出して言わないでいたほうが自他共にとって良いこともまた、それこそ星の数ほどあるだろう。



■しかしもしそれによって周囲の状況も巻き込んで変わり行くことになろうとも、それでも敢えて口にして言わなくてはならない時というものはある。それを決めるのは私で、それは今だ。現在の社会や環境における性的事情はおよそどうにもならないほど悪しきところまできていると考えている。しかし正直なところ、その好ましからぬ状況に身を晒した時、自らの意志は全てを貫きとおせるほど強固なものではない。それでも敢えてどうするかを考えるのだ。

■抵抗し続けるより流れに身を任すということも充分ありうるだろうと自己診断する。私は清廉潔白でもないし、不僥不屈の主義や不変の哲学を有するわけでもない。様々な状況をその都度ケースバイケースで判断し、そしてその場における最大決心で持ち得る責任を持つ覚悟と共に、自らの望むところと未来と整合する選択の意識と共に現実に関与していくだろう。他者の所感や行動基準やその結果に関してはほとんど何もコメントする位置にはいない。

■そしてこれも正直に言うならば、社会的・法律的な制限に関しては、私個人にはほとんど抑制効果はない。むしろ相手の現在や将来を考えての自己内部からの規制や自戒は働くだろう。慈悲に溢れた者にもなりうるだろうし、反社会的異端分子にも速やかになりゆくだろう。それ以前にそのような評価そのものに対して個人的に重きを感じていない。人間関係として先ずは1対1の係わり合いであり、そしてその次に背景同士のすり合わせがやってくる。



■その時、ある程度の未来を見据えつつ一番したいことをするだろう。相手や周囲の人たちの苦痛や心配をあからさまに掻き立てる行動はしないが、一夫一婦制や年齢差が縛りならば意に介さない。法律・道徳・倫理・戒律・義務などには屈するつもりは微塵もないし、しがらみ・義理人情・仁義・強制・脅迫等に絡め取られるつもりも毛頭ない。過去を否定せず、過去に戻ることもなく、共に太陰と太陽となって新しい未来を創りゆくという姿勢と意気込みで。

「読み書き」とは実のところ何をしているのか



■実のところ、「ものを書く、ものを読む」という作業は一体何をしているのだろう。もの書きや研究者たちは自分が何をしているのか、またそれが未来にどのようにつながっているのか、いないのかをも視野に入れて作業をしているのだろうか。もし遠からぬ未来に人間同士のコミュニケーションや知の共有・伝達において、その方法・手段自体が大きく変化変容してしまったとしたらどうするのだろう?

■現在全力でなしている論理や研究方法が唯一正当のものでなくなることもあるということも想定しつつ、ものを読み、研究し、書くということは必要ないのだろうか?代換案や未来ビジョンを示さないままこのような問いかけをすることは、不要な不安を煽るだけだとネガティブに取られるかも知れないが、それでもその問いの本質的部分を無視したり逃避したりできる問題ではないので敢えて問わねばならない。

■再び問う。現在当たり前であると考えて成している手段や方法自体を見詰め直す作業にどれだけの重さを置いているのだろう?概念で捉えきれないものや言葉で表現できないものを介した意識の共有や情報伝達…敢えて言葉で表現すればテレパシックな情報伝達や共通無意識下での情動共有とその中での個の確立など…に自らも手を染める意思があるのだろうか。芸術そのものの語義や意味すらも変わりうる「場」。



■それは実のところ「読む・書く」ということ自体ができる不思議さ、何をどうして理解や表現となって行くのかの全プロセスそのものの不思議さをどう捉えていこうとしているのか、いないのかの問題としてスライドバックしてくる。より直感的なコミュニケーションが市民権を得て、それを拡大させて情報や情を交換・共有する時には、論理や科学的手法が余り役に立たないのは経験上痛感しているだろうから。

■さて、他者に放った問いは自らにも返ってくる。私自身は書くという行為を何のためにしているのだろう。思考の文字化・概念化とその再概念化による読み出しなどのプロセスは置いておくとして、1つには「記憶の鎮魂」ということがある。書くということによる記憶とその記憶された内容自体への鎮魂作業だ。ものごと同様に生きざまも手付かずのままでなく、自らとの関係において整理整頓する必要がある。

■南方熊楠は自らの正確で多量過ぎる記憶について医師に相談したという。比ぶるに値しないほど不正確ではあるけれど、私は時として次々と記憶が湧き上がることがある。その記憶をメモし文字化し文章化することで、それを固定し安定させ、そして通常の意識界面から再度忘却の深みに沈潜させるために「書く」ことはある。そして時として既に自らの記憶ではないようなそれらを楽しみつつ「読む」こともある。



■もっとも読んでくれる人の方は、私自身のための鎮魂プロセスの一部を駄文・珍文にしたものを読まさせられ続けてははたまったものではないだろうから明言しておくが、この文章も含め、ブログなどの文章は鎮魂の文ではない。プログはむしろどれだけ自分が毎日書き続けるられるのかを面白がりつつ記録している、遊びに近い楽しみでもある。残念ながら駄文・珍文であることに変わりはないのではあるけれど。

■しかしまた逆に忘却のためではなく想起するために書くと言うこともある。意識上をただ流れ行くだけのシナプス型連想のランダムな線的連結だけでは、どこに流れ行くか分かったものではない。しかし1つ1つの断片を取捨選択して書き留めていくことにより、その道筋や連結の延長方向が、半ば意思的意識的な過去の想起につながることもあるからである。思い出せなくてもその意識の方向は定められるのだ。

■「読み書き」その者が今の在りようをより良い方向に展開変容していくことがあるとしたら、それまでは古き良き懐かしきこの方法を続けていくことになるだろう。ひとりよがりでなくするために、改めて三度目の問いを忘れぬように、または忘れ去るためにここに記して置くことにする。実のところ、「ものを書く、ものを読む」という作業は一体何をしているのだろう。そしてその未来に変化はあるのだろうか?

「超越的な」と「先験的な」のさらに先へ



■人間の精神は「先験的」か「後天的」か、もしくは「超越的」か「経験的」か。それは先天的な枠組みを持っているのか、後天的な構造構成から成立するのか。ギリシアのプラトンは人間の魂は生前にイデア界に存在し、そこでの知識を有していると主張した。ドイツのカントも先験的な知識や認識は存在するとし、2人とも論拠を数学の真理に関する人間の認識力・知識に求めた。一方デイヴィッド・ヒュームらは「経験主義の認識論」を主張した。

■transcendentalという言葉を訳出する時の問題としては、今は「超越的な」と訳されているが、昔は上述のように「先験的な」と訳されていたこともあった。この「超越的な」という言葉は空間的な界面限界というものがあり、その外へと超え出て行くというイメージがある。一方「先験的な」という言葉はすでに既知既存なのだが自らそれに到達するすべを失念していて、未来に再度獲得するための努力を要するという時間的ニュアンスが感じられる。

■もちろん共に現在の個人的な世界の捉え方でもある時空認識、もしくは自らの意識の在りようそのものの限界を超えるということでは時間と空間というたて分け方自体を超えているわけだが、この違いを時間や空間の変化や移動で表すのではなく、常に意識のある常なる「今ここ」の目の前で、周囲が変化していくことによって自分との関係が変容していくと見ることもできる。既知を再獲得するという意識と、未知を既知にすべく経験するという意識。



■いつどこで到達獲得できるのかできないのかも定かではない感覚よりは、過去にすでにそれは在り、一定の期間や努力を経てそれは発現するという把握の仕方は、それがいつ発動するのかは分からないが、自らの心身・生命のうちに「既に在る」という安心感に似た世界肯定的姿勢を作ることができる。それが共にたとえ話のように実際の在りようとは異なっているとしてもである。

■数字の認識で1と2から双方を統合する視座、もしくは等距離に見る視座である3を獲得した途端に、その3の対である4の存在にも気がつくことにも対比できるだろう。4値的に論理的に表現すれば、「A」と「B」がある時、それを共に含む「AかつB」の視座を発見した瞬間、「AでもBでもない」視座が対として存在していることに気がつくということに等しい。ヌース的にはnとn*の関係にも似ている。

■ドリームスペルの「銀河の記憶を想起する」という表現や、「前世の記憶の回復」という概念や、「自らの出生の本懐を知る」という言い方なども、自ら到達・獲得しようと能動的に努力したその先にこそ、その認識にいたる瞬間があるのであって、ただ何もせずに漫然とそれを待つのではおぼつかない。1と2だけに甘んじず、3を獲得しなければ4は絶対に先に認識することはできないのである。しかし全ての想定範囲を超えてそれはやって来る。



■理想境を長いこと追求していて、ようやくその境地に到達した途端、最初からその地にいて気がつかなかっただけだと言うことに思い至ること。天は自ら助くる者を助く。悟りて戻り来れば、山々は変わらず青いままであるが、それでもそれはもはや元の山々ではない。青い鳥の話。山の向こうの幸い。袖に縫い付けられていた宝珠。パラドクスを超えるとそこにはもうパラドクスはない。努力なくばいつまでも壁はある。

■言葉があって概念が付随するのではなく、概念があって言語化する、もしくは同時に立ち上がるものであるならば、翻訳して日本語にするということは反転した作業であろう。本末転倒と言う言葉があるが、それもまた100%悪しきものではない。逆から見ること、急がば回れの遠回りによって初めて見えてくるものもある。「本能」という言葉で万物変転のプロセスをブラックボックスにすることなく、先験と後天すらも超えて在ることで在ろう。

20歳の頃の傲慢なリアリティ



■20歳前には20歳を過ぎてからの自分を想像できなかった。20歳を超えて生きるというイメージが全くなかったので、自分はその前に死ぬのだろうかと漠然と考えてもいた。話をしてみると、同い年の友人達もそのような感覚は共有していた。未来を様々に思い描くこともあったけれど、そのほとんどは妄想やただの概念ばかりでリアリティが無かった。ただその頃の感性や思考力は一番強かったと今でも信じている。

■もちろんそれは今だからそう評価するのであって、当時は自分の感性や思考能力に対して絶対的な自信を持っていた。もちろん何の根拠もないのだけれど、それでもその意識は揺ぎ無かった。自分の美的感覚は誰が何と言おうと絶対であり、自分がダサいと感じるものはダサかった。傲慢であることは自覚できたので、その感覚をひたすら隠してはいた。今だからひとりよがりだったとも評することもできるけれど。

■他者の気持ちに共感する能力がなかったのだが、そのこと自体に思い至らなかった。自分の溢れ出る感性や自己増殖的に湧き上がる思考への対応でいっぱいいっぱいだったのだ。他者への気遣いや思いやりがなければ、恋愛なども思い通りに行くはずもなかった。恋愛に関して言えば、それは美しい者同士がするものであって、それ以外の者にとっては高嶺の花であり、してもみっともないことだと感じていた。



■いがらしみきおという漫画家の作品に、ラブホテルから出てきたカップルに対してモテない男が「おい、おまえら、やったんだろう、やったんだろう、おいっ」と泣きながらからむシーンがある。また別のシーンでは彼が共に不細工なカップルに対して、やはり泣きながら「本当におめでとう、幸せになれよ」と祝福するシーンがあった。笑えたけれど、共感も持てた。これはある意味で自分自身の姿なのだと。

■自己愛の裏返しであると今なら分かるけれど、当時の私は自分をモテない側の者であると自己評価していた。だから自分を幸せな恋愛をする資格のない者だと考えていた。不細工な者が異性に夢中になっているのをみて、とてもみっともないことと感じていた。また逆に美しい者はどんなに性格が悪くてもしかたがないと思っていた。もちろんそのために加害や被害のトラブルのリスクも含まれて入るのだけれど。

■しかしそれでも自分は憧れる資格くらいはあるとも思っていた。そのあたりから芸術は生まれるのであり、幸せな者は創作などはせず、実生活を謳歌するだろうとも。繰り返して言うが、これは今だから…いや今でなくてもその頃からかなり時間が経って、その考え方や感じ方だけが全てではないと分かったから言えることであり、当時はそれが全てではないと想像することはできても、実感が伴わずにいた。



■若かりし頃の傲慢でありつつそのことに無知な自分の話だから、極力隠し立てしないことにする。恋愛とは関係ない側の者と自分を規定していたくせに、いざ自分にガールフレンドができると今度は、何で他の人たちは恋人がいなくても1人で生きていけるのだろうと不思議に思った。1人者を軽蔑する寸前の優越感。まごうかたなき自己中心の思い上がり感覚だ。それでも世界はぎらぎらと輝いてはいた。

■私のことを考えて真摯に忠告してくれる先輩がいた。その正座しつつ語る先輩の姿を眺めつつ、この人は足が短いなあということばかりを考えていた。そしてその後ろ側にある小さな窓に切り取られた新緑の揺らぐ林と光をぼんやりと眺めていた。本当に私はあそこにいたのだろうか。その記憶だけがあっていなかったのか。それとも心神喪失状態で今もあの場に居続けているのが真実なのかもしれない。

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