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  • 2024.01.09 Tuesday
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■女満別空港から網走へ



■旅行に行くと決めるまでは、知床に関しては森繁久弥や加藤登紀子が昔歌っていた『知床旅情』という歌の内容と、2005年7月に世界自然遺産に登録されたということくらいしかイメージがなかった。今年の夏の家族旅行で実と義理の母親に北海道の富良野や旭山動物園行きを打診したところ、実はそのあたりはもう行ったことがあるの別のところがいいと言われ、道東の知床半島と屈斜路湖界隈に目標を変更したのである。

■名前は大地の突き出たところという意味のアイヌ語「シルエトク」から来ているらしい。地図で見ただけで新千歳空港から道東までは東京−名古屋ほどはある。もちろん新幹線などないので移動は車か鉄道、もしくは飛行機ということになる。今回初めて女満別空港というものの存在を知った。地図を見ても土地勘がない上に、時間と距離の感覚がさっぱり分からない。焦らず欲張らず、余裕を持って移動することにした。

■1日1便しかない中部国際空港から女満別空港までの便に乗って1時間50分。そこから昼食を取るつもりの網走市街地までは30分弱なのだが、レンタカーを借りてゆるゆると北海道のモードの運転に合わせつつ進んでいくと、網走スポーツトレーニングフィールドというところでサッカーJリーグの名古屋グランパスエイトが強化合宿をしていた。ちょっと寄り道のつもりで行ってみると、お昼の休憩中で誰もいなかった。



■一応現在の地元チームである名古屋グランパスは、リーグ戦などの肝心なところで負けてしまい、いつもずるずると中堅どころにしかなれないチームなので特に愛着はない。本田選手など好きな人はいるのだが、中位をうろうろするようなチームの体質が情けない。ストイコビッチがいてベンゲルが監督だった頃は、少し前のジェフのような面白さがあったのだけれど。旗とグラウンドだけ撮影してから網走に向かう。

■JR網走駅の観光案内所に飛び込んで、ご当地らしい食事処を尋ねたら、「寿し安」というお店を勧められた。後で調べたら様々な全国版の観光案内パンフレットにも載っている有名な店だったが、行ってみると店の前に観光バスが停まっていた。北海道の温泉と美味いものを味わうツアーの一行がお昼を食べているのだった。良いネタのランチにぎりセットは900円で美味しくリーズナブルだった。満足なり。

■腹が落ち着いたのでいよいよウトロに向かって出発である。左手に見えるオホーツクの海は冬には流氷が接岸する極寒の風景になるのだろうが、現在はそんなそぶりもない穏やかな眺めだあくまでも直線が基本の北海道の道の両側は、麦やジャガイモの畑が続く。途中で天気が崩れて雨が降ってきたので、安全運転を心がけながら走る。やがて平行して走っていたJRとも斜里で別れ、ようやく知床半島に突入である。

(20070723-1)

■最近のノートの切れ端(3)

■さすがにこのようなものばかり連ねるのは気が引けるので、このシリーズは今回は今日が最後です。モットヤバいのがあったりもしますが、自らがの表現や考えや世界観を他者と共有したい時は、相手のコミュニケーション以前の負担を極力減らすのが当然と考えていますので、乱れた文字・文体・態度、醜い画像・手抜きの視覚化、思考の浅さなどはもってのほかです。

■そのもってのほかの一部を自己リークすること自体を、きれいなものしか晒さないというポリシーですらも自我の肥大に繋げてしまわないようにと、パターンを崩す苦し紛れのパフォーマンスということでご笑納願えればと思います。実のところ、余りに異質であっけに取られてしまい、そこから笑いが生まれるようなものが理想なのですが、まだまだその境地は遥かに遠いです。





■というところで、やはり最後は多面体に立ち戻り、これからもがんばるという意志表明にしたいと思います。頑張ります。下の綿棒多面体は綿棒アートや惑星グリッドモデルをすでに越えてしまっている、多面体の女王である某M山女史の作品。表面のバッキーボール(切頭30面体)のみでなく、内部構造に藻注目のこと。惑星グリッドの内部構造もこのようにグリッドが存在するものと思われます。さあ頑張ろう。


■最近のノートの切れ端(2)

■今回の内容に関してはわずか1週間手くらいの間に走り書きしたものばかりで、実際はもっとカッコいいものや、きれいなものがたくさんあるとか書くと、ウソではないけれどまた言いわけになってしまう。ここまでしていつまで毎日プログを書き続けるのかというと不明だが、今年1年はできればやってみようかと思っている。来月は九州に温泉旅行でもできればいいのだけれど。








■最近のノートの切れ端(1)

■画像に関していろいろと言い訳がましい文章や注釈を書いたら、自分のミスで消えてしまった。本来そのような文章を書く時間がないので、メモ代わりのノートの断片を晒すことでブログを途切らせないつもりだったのに、なんとかカッコ良く取り繕おうとしていたスケベ心のあった自分に気がついた。他者のせいにせず、自らが自分を諌めたということにしよう。そういうことで、テイクアップ2はシンプルに行きます。








裏から見てもらう裏事情



■今月は忙しかった。それでも『太陽系トポロジー』もしくは『幸せな幸せな幸せな正4面体』の原稿書きに初めて真面目に着手した。しかし自らのメモ兼用のノートの内容をまとめ、貧しいソフトで作図し、原稿をそれなりにまとめ推敲してからネット上に上げるという操作をするには、物理的な時間量が大いに不足している。しかし今年になってからも1日たりとも欠かしてはいないこのブログ更新を中断するのも忍びない。

■そこで私は考えた。乱雑な書きなぐりノートやメモの切れ端を見てもらい、それをこんな風にクリーンナップしているのだと一部だけその過程を晒し、このような少し手のかかる作業はできないので、下の乱雑なノートの一部を画像としてそのまま晒してみるのはどうだろうか…と。未完成なものを晒すのは本位ではない。ましてや走り書きの文字や図形などは見るにも美しくない。しかしそれを逆手に取って芸にではできないか。

■実はこの上にある画像は下にあるノートの走り書きのスケッチとメモから起こしたものである。上の画像には説明部分がまだ別に文字本体として存在する。その説明の補助のためにPC上で作図中のもので、まだ未完成である。実はこの1枚の画像を作るという作業だけでもかなりの手間がかかる。下にこの過程の一部をミックスして示してみた。過程を知ってもらうということは泣き言や言い訳ではないので恥ずかしくはない。



■説明文を書く時間もないという事情なので、勝手ながら以下に貧しいPCのオマケソフトで作図していく過程と、その元になった別のノートのメモ部分を晒しておきます。オタクのノートの一部を見るのは、ちょっと怖いのも見たさも手伝って、不気味面白いかもしれません。なおこのブログがアップされたものをリアルタイムで読んでもらっている頃には、私は栃木・福島あたりに行っている予定です。



■この下の画像がメモ代わりのノートの一部です。このブログの明日からの3日間も最近のノートの一部画像をランダムに晒します。興味のない方は誠に申し訳ありませんが、スキップをお願いいたします。また文字が見えなかったり潰れたりしてしまっているのは、縮小したせいです。元々はB5版ノート見開きです。内容が分かり難い稚拙さが露呈している不細工なものですが、雰囲気だけでも見ていただければ幸いです。


プラトン立体の諸要素の積



■プラトン立体は全部で5種類である。5種類の面の総和は50、点の総和も50、あわせて完全なる数100になる。またそれらの面に数字を振ってプラトン立体サイコロとすると、その目の合計は月の12朔望周期354(+1)日、及び月の自転・公転周期355日に等しい355となる。また双対性を考慮に入れて正4面体にもカップリングを許せば、その目の合計は地球の1年の日数365となる。

■この面数・点数・線数のほかにも、プラトン立体の諸要素としては1つの面の角数及び1点に集まる線数がある。今ここでプラトン立体の数的整合性を別見するために、この下表の横の5つの要素(回転対称軸数を除く)を全て掛け合わしてみよう。この数値も3組の双対関係から、864、6912、10800の3種類となって現れる。これらの数値の比は1:8:125=1^3:2^3:5^3となっている。

   

   正4面体■#4X4X6X3X3=■■864==108X8=3^3・2^5・1^3
   正6面体■#6X8X12X4X3=6912=108X8^2=3^3・2^5・2^3
   正8面体■#8X6X12X3X4=6912=108X8^2=3^3・2^5・2^3
   正12面体12X20X30X5X3=108000=108X10^3=3^3・2^5・5^3
   正20面体20X12X30X3X5=108000=108X10^3=3^3・2^5・5^3

■ところで1日の秒数は86400秒だから、この正4面体の諸要素の積である864はちょうどその1/100となっている。またこの数は正6面体及び正8面体の6912は1/12.5もしくは2/15であり、正12面体及び正20面体の108000は1/8となっている。ちなみに5の5乗、4の4乗、3の3乗、2の2乗、1の1乗を全て掛け合わせた数値の半分は86400000となる。つまり(5^5・4^4・3^3・2^2・1^1)/2=86400000で、こちらは逆に1000日分の秒数ということになる。

■この正12面体及び正20面体の108000はまた、マヤ暦の計時単位における15カトゥン(15×7200=108000⇒300トゥン)でもある。これらのプラトン立体の諸要素も見方によっては、現代人やマヤ人などの数のロジックを見て取ることが可能なのかも知れない。また音に対する私たちの脳の左右の切り替えのありようを見ることによっても、惑星グリッド的世界観に繋げることができるのかもしれない。

■角田忠信氏の研究によると、会話に用いる100Hz以上の帯域では文化的差異が出るが、99Hz以下は地球上の生物は地球の磁気や月の影響などで左右の脳の切替えが起こるという。しかもそれは40Hz、60Hz、80Hzぴったりの所でしか起きず、1Hzずれても元に戻るのだ。20Hzは1日に1728000=120^3回振動する周波数だ。同様に40Hz、60Hz、80Hzは120^3×2、120^3×3、120^3×4となる。

■地球そのものが大きな磁石であり、月齢や惑星の配置などでも脳のセンサーが乱れると不快になるが、この言葉の領域の下限である100Hz以下の振動数帯域には意識的・理性的ではない大きな地球の固有振動数的な共通部分があるのではないだろうか。これらもまたプラトン立体の組み合わせからなる惑星グリッド的な捉え方へと繋げることができるのかも知れない。

(on 20070718)

■後拾遺集…相手・若人・現今・嗜好



■目の前に今存在する人と自分との、今現在から未来にかけてのより良い関係を構築しようという姿勢が重要なのだということ。極力かかわりにならずに時をやり過ごすという選択も時にはあるだろう。しかし思い通りにコミュニケーションが取れなかったり、人間関係をうまく構築できない時に、自分と相手との間にある状況そのものの不快さを全て相手の責任にして非難するのは、不公平であり不正確である。

■おのれの心の平成を保つために、ついつい相手のことを人間的にルーズだとか、社会的に無責任だとか、他人に対する思いやりがないなどと言う。それは一方的な非難であり、保身の現れである。しかし社会的とか人間的などどいう射影的なものの見方や表現よりもまず大切なのは、今ここで目の前の相手といかに人間同士としてよりうまくやっていくかということを考え、そして実行していくということだ。

■自らもその共有空間を生んでいる自分をその状況から切り離して責任なき所に置き、目の前の状況を相手に責任転嫁するなかれ。既存の見方や受け取り方を無視するのではなく、それは当たり前のこととしてその先に進むためには、まず1対1のところから始めなくてはならないだろう。1対それ以外、個人対世界の関係性の次に考え生きていくステージは1対1なのだから。そこをスキップして社会や人間を語ることは空虚である。



■若い人たちのために何ができるか。「幸せな幸せな幸せな正4面体」「太陽系トポロジー」「数の恍惚・数える至福」などの書きかけの原稿をまとめること。またHPをリニューアルすること。ここ数日の東京滞在中に多くの人たちと会ってその確信を強固にした。また長大なドラマの大団円に近づいて、人間関係の絶妙な絡み合いが見えてきているような感覚も強くなってきている。

■今年は実は2007年ではなく、計算間違いで実は2013年であるという話。私は個人的にはどちらであってもさしたる違和感はない。というより、実は何か今年の12月25日あたりが妙に気になるのは何だろうと自問している自分がいるのだ。私は予知能力やビジョンが見えるなどという異能力者ではないので、この微妙な感覚がちょっと不思議なのだけれど。ただ、今為すべきことをすべし。

■月・地球・太陽。実は私は地球が好きだ。20年くらい前からそれに気がついた。私は地球だ。私は満月の夜に地球人として生まれてきた。私は満月だ。私が生まれた日は、黄色い惑星の太陽というエネルギーの日でもある。私は太陽だ。た…太陽。ち…地球。つ…月。て…天王星。と…土星。タ行は天体的なのか。私は太陽系が好きだ。地球暦、銀河暦、自分暦。私は銀河たる自分が好きだ。

■後拾遺集…共時性・新月・本物・心身



■■■■■■■■共時性自体の質

■シンクロニシティなんてないと思っている人は少ないだろう。シンクロニシティは何か普段の月並みな出来事とは別の特別で稀なことだと思っている人は多いのではないだろうか。しかしさらに進んであらゆる物事はシンクロニシティだと捉えることもできるだろう。そうして初めて、他者や自らの日常とは異質なシンクロニシティというものなどないと言うことができる。共時性自体の共時性の次元。

■■■■■■■■新月に願いを書く

■「新月の時に願い事を書くとそれは叶う」いう話。願いはすでに成就しているというイメージをどれだけ疑わずに持つことができるか。「願いて叶わざるは無し。」パラレルワールドの概念を持ち出すまでもなく、強くイメージした物事は別のところですでに実現している。あとはそれに過執着しないで、実現するのを待つだけ。ただタイミングというものも重要だろう。新月にはこの世に穴が開く?



■■■■■■■■本物はただある

■「本物」は自らをわざわざ本物とは言わない。自らを本物と主張するものは大概にせもの・まがいものだ。本物はたとえまがい物と混同されたとしても動じない。おのずとその違いが明らかになって行く。「自由」も「慈愛」も「誠実」も、自らそれを主張して認めてもらおうとはしない。自己主張することなく主張し、自己表現することなく表現していこう。自己愛や自己憐憫することなく自己でいよう。

■■■■■■■■この心身への感謝

■この自らの生命体に感謝している。身体は無理をして動き続けてもらっている時でも、こちらがしっかりしているとしっかり答えてくれる。私はこの身体を大切にしよう。他者多物と同じように愛し慈しもう。自然との調和と協和をしつつ、それに縛られて動けなくなることもないようにしながら、まだ見ぬ未知との交差をするために界面を超えていこう。まだ当分は身と心と共に行こう。

さらなる一歩を踏み出すのはいつも今



■早朝の交差点。台風一過の爽やかな空の下、誰もいない横断歩道の前に立っている人がいる。赤信号が変わるのをずっと待っているのだが、何とも奇妙な光景だ。どうして渡らないのだろう。渡るのも渡らないのも個人の自由だ。「赤信号みんなで背渡れば怖くない」のキャッチコピーは真実と共にかなりの問題も含んでいる。しかし赤信号ならば常に渡れないのであればこれまた少し問題だ。

■「赤信号は渡らない」は社会的約束であって、タブーでも原理でもない。いくら車が来ないからといっても、「赤信号は止まって待つ」という生存のための社会的ルールを教え込んでいる母親とその子供の目の前であろうが全くお構いなしで先を急ぐのは、逆の意味で周囲が見えていない。周囲の状況把握には、やはり社会的配慮を失わぬ優しさを含んだ臨機応変が必要だろう。

■グルジェフの本の中に、確か宗教的理由からだったと思うが、自分の周囲に描かれた円の外に出られなくなっている少年の話がある。あれも奇妙な光景だが、それをいい大人がただ笑い嘲るのはこれまた問題だ。笑われているのはより大きな多重の枷の中にいる自分に気がついていない自分自身だ。あの子は成長して見より大きなえない円から出られたのだろうか。常に越境の心構えでいたいものだ。

■判断するのは常に今この瞬間。



■「過去の危険は人間が奴隷になることだった。未来の危険は人間がロボットになるかもしれないことだ。」(エーリッヒ・フロム)「人間は自ら作り出した道具の道具になってしまった。」(ヘンリー・D・ソロー)もはや過去も未来もこの今現在のことかもしれない。冷静に考えてみると、ようやく環境問題を口の端に乗せ始めた人間の多くは、奴隷であり、ロボットであり、かつ道具の道具なのかも知れない。

(on 20070716)

窓外の風景の自分を生き切る覚悟



■子供の頃、バスや電車に乗って窓の外を見るのが好きだった。鉄道マニアや乗り物好きの人が、運転席のすぐ後ろで1点透視図法の消失点方向への加速や突入を好むのとは異なり、靴をちゃんと脱いで揃え、車窓にへばりついてどんどん横に流れていく世界を見ていた。瞬間瞬間異なる視座から垣間見る、異なる街角や人々の生活を想像してみるのも楽しかった。

■今でも車窓から風景を眺めるのは楽しい。自分の心象が見える風景に反映されるのかも知れないが、眺めている自分はその時自分の内には存在しない。見ている自分と見られている世界の区別がなく1つになっている。しかしその視野のフレームの中に他者の顔が入ってくると、こちらの自覚意識も見えている風景の質や意味も即座に変化する。意識のモードが変わるのだ。

■自分の視野に他者が入って来るとそこに人間関係が生じ、またそれに応じた姿勢や態度の変化が生じる。たとえ人間関係の構築を拒絶するにしても、否定すること自体エネルギーが必要なのは、その前提としてその存在を認めてしまっているからだ。車窓から眺めていたはずの眼前の風景の中に、いつのまにか自分がかかわりを持って立っていることに気づかされる。



■これだけは決して忘れまいと子供の頃から繰り返し想起していた記憶がある。何か生まれる前の次元に衛星軌道上から地球を見下ろしていて、何かを成すためにあそこに生れ降りて行くことに対して不安を感じていた記憶。安易な霊的解釈などはされたくないのだが、気がついたら車窓ではなくこの風景の中にいて、すでに3次元的な世界のかかわりを持っている感覚。

■喪失していた異なる記憶が蘇ろうが、この現実だけが全てではないと確信しようが、この世界を否定し人間関係を断ち切ることによって、元の世界や新しい次元に移行しようとすることは、おそらく間違った道筋だと感じる。否定も肯定も超えたところに行くのに、そのどちらかを通って行く<道>しかないのだとしたら、私は肯定し超えていくかかわりの<未知>が好きだ。

■生前の記憶を忘れたくないと繰り返し強化すること自体によって、どんどん変容してきた記憶の残滓のようなものだけれど、そのエッセンスだけはまだ残っていると感じている。それすらも妄想であるという可能性も認めつつ、他者と能動的にかかわって行きたい。他者にしてみればこの共有世界に引きずり下ろしたのは眼前にいる私の方なのだろうから。

■交差にこそ意味がある。私が今この世界にいる最大の理由は、この世界が好きだということなのだろう。好きだけれど、いつまでも居続けるわけには行かないのだとしたならば、他者他物、そとてこの世界のあらゆるものとことにきちんと別れを告げ、そして異なる次元でまた再会したいものだ。だからこそこの今、できるだけ怠惰や虚無感をこの身と心の中で乗り越えて生きていこうと思うのだ。

■怠惰や虚無感、失望や苦痛、過労や混乱すらも車窓の風景なのだ。ましてや…。

(on 20070717)

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