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  • 2024.01.09 Tuesday
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一定期間更新がないため広告を表示しています


年の終わりの自己言及の反転文句



■自らその限定を超えて未知に進むためにある形式。その超え行くべき形式も既存のものだけではつまらないので、その自己規制の形式限定をいくつか作ってみた。今この文章もそうなのだが、ほぼ同じ文字数になる段落を積み上げていくという形式。読みやすくするために基本的に3段落で1つの画像を入れるというネット上での形式。その画像の横サイズが必ず17cmであること。必ず毎日1ブログアップすること等々…。

■脳まで届かせずに見た事に関して条件反応的にキーボードを叩いてその場でレスポンスする、「乱文にして誤字脱字無遂行すなわちほぼ無修正モード」のネット的文字列を、「脊髄で書く」という表現をしてみているが、それ以外ではの上述の定型文章を2年弱続けてきたために、今ではほぼこの形でしか文章を書けなくなってしまっている。もちろんそれは自らそれを否定せず超えて、さらに先に進むためであるが。

■何年か前までは37文字×3行で1つのまとまった文章とする「3行日記」というものも続けてみた。これもまたずっと続けているとその形式に自らの文章表現を美的なつもりで閉じ込めてしまう方向に進む。しかしひとたび自力でその呪縛から離れることができれば、またいつでも使うことができるのである。実はこのプログの形式を超えるための1つの手段として、来年また3行日記も再開してみようかと思っている。



■そて大晦日にこのようなことを描いてみているのも、実は1年365日欠かさずに、この文体でブログをアップするということも、自らの中で去年自分に敢えて課してみたものの1つである。まあもっとも来年からはこの自縄自縛的ノルマからは開放されることにているので、言わば最後の一押しなのである。別に今日のものをアップしなくても、全体が点を欠く画竜ですらないのだが、ふと最後の1歩を止めたくもなる。

■そもそも誰からの強要でも大自然への約束でもないので、今日の分で1年連続プログアップというラストの1日を敢えてアップしないというより高度の自由に身をゆだねる見るという誘惑すらもある。遥か昔の話。ハンダコーセン氏がデュオでレコード界へデビューするために作詞作曲していた時の相方だった若き天才アーティストは、超有名な音楽の高校を卒業式の前日に敢えて退学届けを出して辞めた。ロックだった。

■もちろん個人的には大業苦行だが他者にとってはさしたることではない今回のブログ1年365日連続アップというロングイベントは、今こうして書いていることで完遂されるであろうけれど、こんな時に得てしてストーカーのように付随する錯別しゆくものごとへの感傷や、すべて台無しにしてもいい自由すらもあるのだぞという最後の誘惑に身を包んでいることが、この今客観できることもちょっと心地よい。



■来年からは気が向いた時に書いて、気が向かなかったら気が向くように仕立てて書いたり、また異なる新たな形式を作って実験したり、いろいろとやってみようとか持っている。そういうわけで何か気のついたことがあったら、脊髄で条件反射的に書くものでもかまわないのでぜひ突っ込みをお願いしたい所存である。机から見る窓外の最後の1日の巷は陽光に漱がれて思いのほか穏やかで心安らぐ。青空の静かさ。

■何はともあれ、子供の頃からさして意味や価値を感じていなかった年末年始ではあるが、敢えてそれでも確実に存在する共通価値観と集合意識の良き部分の流れに添わせて、皆様のより良き未知に対する寿ぎと健やかさを予祝してしまいたい。断わりなしのヒーリングは一種のテロ行為だと言うその口から、不特定多数への予祝は陽光の如しとも主張したい。365日続けた形式の最後の一文は「みんな元気でね」だ。



              未知なる良いお年を!

平方根のペンターブと√3の諸相を見る



■半径1の円を互いの州都中心点で重ねた形状、もしくはベシカ・パイシスの中には、補助線を引けば上図上段のように平方根での1,2,3,4,5が見て取れる。また中段はこれをさらに3重にした形状のヌースコンストラクションである。後者は平面ではなく多重次元を重ねてみる視座を表現した1つの形だが、平面として見てもその中に黄金分割比φ=(1+√5)/2を見て取ることができる。

■さて上図下段の図は開平長方形である。この図は一番左に描かれた1辺1の正方形の対角線長である√2をコンパスでDからEに移すことで、辺長比1:√2の長方形ABFEを作り、またこの長方形の対角線√3を同様にして辺長比1:√3の長方形ABFEを作るというようにして、単純な作業から平方根での1,2,3,4,5を作り出セルことを示している。もちろんこの操作はどこまでも繰り返すことができる。

■1と1から√2ができる。1と√2から√3ができる。1と√3から(√4=)2ができる。1と2から√5ができる。1と√5と2を組み合わせることで黄金比φができる。ここまではいいだろう。ではこれらの数を相互に足してみるとどうなるだろう。まず√2と√5の和は3.65028154…となって、これを100倍すると地球の1年の日数365.2422日に近似する。では次に最初の神秘の数3の平方根√3も絡めてみよう。



■1と√3の和を10倍すると27.320508080…で、月の自転・公転周期27.322日に近似する。また√2と√3の和は3.14626437…となり、こちらは円周率π3.141592654…に近似する。ではここで√3の諸相を見ていくことにしよう。√3は1から5の平方根の真ん中の数である。√3=1.732050807568877293527446341505872366942805253…(厳密には3の正の平方根を意味する)どこまで言っても割り切れない無理数である。

■幾何学的に現れる√3を考えれば、まず上で見たように辺長比が1:√2の長方形の対角線の長さである。また辺長が2の正3角形の高さとして表される。そして辺長が1である正6角形の対辺間の距離に等しい。三角関数ではtan60°が√3に等しい。つまり辺長比が1:2:√3の直角3角形の1辺である。なおこの直角3角形の辺長比は√1:√3:√4だが、この内角は30度,60度,90度で1:2:3となっている。

■ところで辺長が1の正3角形の面積は0.433012701…、つまり√3の1/4である。したがって2次元ではなく3次元的に見れば、1辺1の正4面体の表面積は1.732050808…つまり√3である。蛇足ではあるがこの1辺1の正4面体の体積は√2/12=0.11785…であり、高さは√6/3=0.8165…である。さらに言えば、辺長が1の正6面体(立方体)の各面の対角線は√2だが、立体対角線の長さは√3である。



■また正4面体の中接球半径と外接球半径を比で見ると1:√3=1:1.7321…であり、同じく正4面体の中接球半径と内接球半径の比の方は1:√3/3=1:0.5774…となっている。つまり外接球×内接球=中接球(√3×√3/3=1)という関係が成り立っているのである。なお√3の100倍は173.2050808…で地球の半食年173.31日に近似している。つまり200√3は346.4101615…で地球の食年346.62日の数値に近似している。

■ところで√3の1000倍は1732.050808…となるが、これは月の赤道半径1738.092kmを連想させる。またこの倍である月の赤道直径は3476.184kmだが、こ地らの方の数値は地球の食年周期である346.62日の10倍に近似している。これらの数値的相似は偶然に過ぎないような見えるが、たとえば月の直径が地球の27.322%で、月の自転・公転周期周期27.322日と同じ数値になるような不思議も含んでいるので見逃せない。

■土星と地球の体積比は745対1だが、この平方根は√745 : √1=27.3:1である。月の自転・公転周期と地球の1日の比は、土星と地球の体積比率の平方根の比に等しい。 この745の平方根を考えるために、直角3角形上にプロットしてみよう。直角を挟む2辺を2の2乗の4と、3の3乗の27とすれば、斜辺は745の平方根になる。その場合この2の2乗の4と、3の3乗の27というものが一体何に相当するのだろうか?

■さて√3から少し離れてしまった。またこれについては後日考えることにしよう。

好いてくれた人たちは未来からの天啓



■世の中には趣味や感覚がぴったり合うのでとても居心地がいいというカップルがなくはないようだ。余りにもいろいろなものが近しいと、逆に普通の人であれば注意しないような微細なところの差異が、針小棒大の違いに感じられたりして大喧嘩しないものかと思ったりもするが、まあそれはそのような相手を持たないがゆえの僻みなのかも知れない。近親憎悪などという言葉もあるらしいがよく分からない。

■私は個人的には非常に親しい感覚を受けると言って好いてもらうことはたまにあるが、頻度にしてみればこちらが非常に感性や思考パターンに同族的とも言えるような親しさを感じることは非常にまれだ。もちろんだから私が人を好かないと言う問題では決してない。ただ正直なところ、そのように無垢な親近感を持ってくれ、またいろいろとしてくれた人たちの趣味や感性を、真に共感共有できない自分がいた。

■まあこの齢になったから半ば時効ということで敢えて厚顔無恥に言わせて貰おう。単独だといろいろと問題があるので、長年の間の複数としておこう。女の子に感覚的にとても親しいからと好かれて、こちらも好みであれば悪い気もしないので付き合いもした。ところが突然、趣味や感性の違いに驚かされることがあった。男女の違いでは済まされない俳優や芸術作品への好みや人生に対するベクトルのあられもない違い。



■自分の感覚も絶対ではないので、それが悪食とか悪趣味と言うつもりはなく、あえて互いにユニークだと形容しておくけれど、自分には決してハンサムとかカッコイイとは思えないタレントやアスリートをすばらしいと褒めちぎっているのを見て、「ああそうか、そのような感性の延長線上で自分も好かれているのか」と思い当たった時の、自己イメージとのギャップに立ち眩んでしまうあの何とも言えぬ情けなさ。

■だから好かないでくれとか放っておいて欲しいなどと言っているのでは全然ない。いやむしろそうと知ってもこの3次元的なこの有機生命体の主は、誤解してでもいいから好感を持たれたいというのが偽らざる本音である。そして趣味や感性の近さと表現していたものが、他生の縁や魂の故郷を持ち出しつつ無償の好意を注がれると、こちらとしては理解できないまま罪悪感に似た申し訳なさすら感じてしまったものだ。

■まあ最初から異なる感性異なる趣味を前提に、それでも重なるところや共鳴するところを互いに発見しつつ人間関係を深めていくのも悪くはないと考えている。まったく違う者同士でも、同じ人間であるのだから、相違点をいくら上げ連ねてもそれ以外は同じであると言う反転気味の信頼感を胸に、つまびらかにしゆくのも良いことだろう。感謝しつつもひとりよがりの王国同士の高次統合に向かいたいものである。



■思い起こせばあれもこれもと、不本意ながら本当にたくさんの人を傷つけてきたものだ。そのかさぶたを繰り返し自虐的にいじくって傷口を大きくするようなことはせず、むしろそのかさぶたの傷痕を今と未来をよりよく生きるための反転の支点として、感謝と共に生きたいものだ。ぴったり感覚が合うのも素晴らしいし、大きくずれているのもまた素晴らしい天啓なのだ。1人の檻を超えて天啓を味わい尽くすのだ。

2倍進法の表と裏と反転と…



■以前ナチュラルスピリットで出版された『フラワーオブライフ第2巻』の語訳について、翻訳の方から電話で相談されたことがあった。受精卵のように1,2,4,8,16…と倍々に増えていく数列の系を意味する日本語はありますかというご質問だった。ちょっと調べてみたけれど見当たらないらしいのだ。ほかにも翻訳や幾何学の専門の人はたくさんいるのに、なぜ私の如き者にと思ったけれど私も少し調べてみた。

■結局見当たらなかったので、「なければ自ら言葉を作ってしまえばいいのですよ、そうですね、たとえば文脈から『2倍進法』とか」などと半ば無責任に答えてしまった。おそらく編集の方からこの人ならひょっとして知っているかもと話を振られたのだろうと思うが、翻訳の方はそのまま採用してくれたのみか後書きに謝辞まで入れて下さった。しかしそれは個人的には責任の一端を担ぐことでもあり気になっていた。

■しかし今日『数と建築』(溝口明則著)という本を読んでいて、このように倍々に増えていくことを「二倍進」と表現していることを知り、独りよがりのつもりだった肩の荷がすっとおりた気がした。さて前振りが長過ぎたが、今日のテーマはこの数概念の2倍進法な発達において、1から2,4,8…と増えていく時、同時に裏では1/2.1/4,1/8…と半減進法的な展開も同時に対としてあったであろうということである。



■これはもちろん2の倍数展開のみならず、普通の整数倍的数列にもそのまま対の逆数的数列の展開でもありうるのだが、特に2倍進法的発想で考えてみたい。細胞分裂においても、数が倍々に増えるに従ってその1つ1つの細胞の大きさが逆数的に減っていくのではない。それぞれがまた成長していくので、全体としても爆発的に大きくなって行くように、それぞれのフェイズ自体が異なる意味を持っているのである。

■これを1日・1年・月の1朔望などの周期で考えてみよう。1日は2日と半日となり、1年)は2年と半年となる。また1朔望周期(29.5日)は2朔望周期(59日)と半月(14.75日)となるが、この14.75日は以前「月の1日」(29.5日)を基本として諸周期を『内惑星10進法』と見た時に、これを20進法でも見ることができると表現した、月に2回ある大潮小潮周期でもある。また満潮干潮も半日ごとに、つまり1日に2回ある。

■この1日をさらに2倍して4日とすると、マヤ的な赤・白・青・黄もしくは東西南北にも対応する1つのサイクルになるし、1/4倍すると6時間ごとの朝・昼・夕・夜にも対応するだろう。また1年は4年で1460+1日と1つの閏年サイクルとなるし、1/4倍すれば91日ごとの春夏秋冬にも対応する。月の4朔望周期(118日)は反転すれば、1週間7日にも近い月の新月−上弦月−満月−下弦月(−新月)という4つの相になる。



■これは時間的な見方の例だが、空間的に前後左右の4分割を3次元的に上下方向も加えて、自らを中心とした8象限的に把握することや、2次元的にも東西南北の間を取って東南・南西・西北・北東と8分割したり、さらに東南東・南南東・南南西・西南西・西北西・北北西・北北東・東北東と16分割したりすることの裏には空間の高次対称性や、角度が180⇔720、90⇔1440、45⇔2880などと対応するものがのだろうか。

■「上の如く下も」という表現があるが、そのままの語義ではないけれど多面体を用いて使っている「外の如く内も」や「大(マクロ)の如く小(ミクロ)もという言い方も、一方向のみならず反転の概念を含んでいる。そして1,2,4,8…と1/2.1/4,1/8…と数で表現したが、「反転」そのものもただ2元的だったり4値的なところを繰り返すのみならず、多重多層だが雑然とではなく存在しうるのであろうと考える。

■これにさらに binary triplet(2進3つ組)が入ってくると、話はさらにややこしくかつ面白くなるのだが、今回はここで止めておこう。なお『数と建築』という本は数日前に名古屋の千種でふらりと入った本屋で購入したものだが、2007年12月30日発行となっているのに今気がついた。古い本なのかと思っていたが、本屋に出たばかりのものだった。個人的にはこの本は久しぶりに面白い「数と比と形」の本である。

既存の時間質を整備して現今につなぐ



■さて相変わらずHPの修正改築をしているのだが、これがまたかなり大変な作業であることに改めて気がついた。自らに対する執着も薄れて無私へと半ばひっくり返ってきたつもりの自分自身が、自らの過去を他者のものとして見直すという作業への執着でねじれ再反転しているらしく、わけのわからないエゴイズムに駆動されて途中でやめられない状況に陥ってしまっている。人生最初から本末転倒しているらしい。

■さてHP自体は21世紀初頭から開設して以来順次広げてったのだが、内容は10年・20年・30年以上も前の遺物や創作まがいのものも少なからず体裁を整えたつもりでそこここに散乱放置されている。感覚としては時間は同時並行に流れているというほうが正しいと思う。ただ二度と今現在を保持したまま過去を再体験することは出来ないということを痛感する。つまり人は同じ川に2度は入ることができないのだ。

■つまり記録した者もされたものが指しているものも他ならぬ自分自身なのだが、一生という総体的視座を持って見ない限り、そこにあるものは決定的に今の自分自身ではないのである。まあ今の自分自身もまた同じように回顧される時が平行して今走っているとしても、それに気づいてしまっては今の私は今の私ではなくなってしまうのである。まあそれはそれでいいのだけれど、それが叶わないから人間楽しいのだ。



■先ず感じるのは、住所が横須賀や八王子や吉祥寺や千駄ヶ谷や藤沢だった時や、宿無しゆえに反転して地球の大地全てがねぐらだったすら時も、今現在省みて、その時の未知の時空との不断の連続遭遇そのものを生きていたのだということだ。それは今も変わらないのだが、過去を顧みるという行為そのものすらも省みなければならない感覚はちょっと心地よい。分からないけれど少しだけはみ出して安心していた昔。

■忘れていた仔細事を記録によって想起され、そして記録したことも再読したことも失念していたことを思い出させてくれる記録。記憶そのものは記録がない物事にも存在するけれど、これだけ記録してもその記録したこと自体すらも忘れているのだから、記録されぬまま忘却してしまった、その時は忘れたくないと思った草々があるということを考えれば、この今の多重な時空と思考や感性の交差具合は至福至極である。

■昔から感覚的反応形態と思考の転がり方が混ざり合った文章のパターンや、自らの中にあるがゆえになかなか自覚しにくい世界に対するエッジなどは、恐ろしいまでにほとんど変わっていない。しかしながら昔の過敏すぎるほどの感性はとうに削れて果てていることにも改めて気づかされる。つまり相対的に見れば私は進んでおらず、ぼんくらで凡庸へと転がり落ちつつあるのである。それをわびさびとは呼ばせない。



■自らの内にある様々な時間質。これをある程度把握できなければ、他者との共感や時空共有、未来の共生創造などと言葉で言い、また概念ですり合わせようとしても、机上の空論・砂上の楼閣へと堕し行くことは必定であろう。様々な幸運や他者からの恩寵が私を良い方向へと翻弄するとしても、それに期待してはいけないのだ。しかし未来を過去のように記述して現実化するという衝動には強烈な違和感を感じる。

■他者を差し置いて先ず自らが幸せになるというのであれば、先ずの後のことを強くイメージするべきだ。他者も共に皆幸せになる事をイメージするのは、結局のところ自らのためであることをすぐに知るだろう。知るのは悪いことではない。その後どうするかだ。皆が皆何らかの作法を用いて幸せになるのであれば、それはもう幸せではない。作法を用いなければなれない幸せはまがいものだ。今この瞬間をどう生きるか。

■来年はまた3行日記を復活させるということもいい。まあ何はともあれ、HPを立て直さなくては何も進まない。そして修正改築が終わった時は、HPがもう不要になる時でもあろう。不要にするために完成形態へと急ぐというのは、理論や概念だけではなく現実世界においても少なからず存在している。物事の整理整頓や掃除などは、随分と後ろ向きのイメージがあるが、反転して未来を創出していると信じたい。

簡易版暖房効率向上作戦の末に



■冬至が過ぎ、クリスマスの当日となったが、何やら世界はめっきり冷えている。窓から外を見ると、3連休も終わって年の瀬の最後のお勤めに急ぐ人たちも、いつにも増して寒そうだ。足の下からも底冷えしてくるので、ベランダへ出るガラスのサッシドアにビニールで目張りをしてみた。この夏長細い部屋を半分に仕切って冷房した時に使ったものが押入れから出てきたのだ。端をガムテープで付けただけの簡単な作業だ。

■これは10年以上前に、長野県北安曇の村は池田町の陸郷というところにお邪魔した時、人が住まなくなって荒れかけている大きな農家を借りてすんでいる一家が、戸板やふすま代わりに厚手で半透明のビニールシートを程よい大きさに切って、一つ一つの部屋や外との仕切りにしていたものを真似たものだ。何もないより断熱効果はかなり大である。来る客は拒まず、男女かまわずみんなして雑魚寝したことが懐かしい。

■あの時小学生だった娘さんももう立派に成人しているはずだし、友人が借りていた畑や土蔵付き11部屋で家賃5千円の農家は今頃どうなっているのだろうなどと当時のことを考えながら、ついでに自分の机の前の窓にはでかいダンボールを張り込んでみた。こちらはパフォーマンスでダンボール多面体を作った時の残り物を使ってみた。これもガムテープでただ張り込むだけ。とりあえずその上をインドの布で覆って飾る。



■ビニールシートの上からカーテンをすると部屋の中は暗くなるけれど、室内温度の保持性能が格段に上がった。遠赤外線の電気ストーブだけでも全然平気だ。何でもっと早くやらなかったのだろう。これは気まぐれな応急処置だが、床下の断熱材や雨戸のない窓辺の多重カーテンなど、もっと真剣にやったら確かに省エネルギーにもなる。ただ猫がドアを開けていくのには困った。キャッツらは開けても閉めないのである。

■しばらくまめに猫用のドアボーイをしていたが、この際だと思ってドアを開け放しにしてビニールシートの残りを張ってみた。最初は床の上まで届いているシートの端を、何事かと猫手でつついたり引っ張ったりしていたが、キャッツらも学習能力はある。うまいことシートを潜り抜けて行き来するようになった。ぱっと見はちょっと貧乏臭いけれど、とりあえずはいちいち席を立って開け閉めしなくても良くなった。

■これまたついでにと床にはアジア産の麻のカーペットやエスニックな模様の入った布を広げてみた。暖房効率を上げるためとはいえ、こういうのって結構楽しいかも…と思っていると、猫たちがその下にもぐりこんで遊び始めた。布の下でショートダッシュを繰り返したり、わざわざ勢いをつけて麻カーペットの上に飛び乗ったりするので、元あった位置からかけ離れた部屋の隅にしわしわになって流れ着いてしまう。



■何でも目新しいものは遊びのアイテムにしてしまう猫たちに対して腹を立て、カーペットの隅にガムテープトラップを仕掛けて対抗しようかとも思ったが、キャッツらはひとくされ遊んだ後にストーブの前に陣取って寛ぎ始めた。考えてみれば私も遊びがてら始めたことなのだから、カリカリせずにゆうるりといかなくちゃと思い直した。すると猫が寝返りを打った後、飛び上がり部屋の外にダッシュして走っていった。

■使い残しのガムテープの切れ端が、背中の毛皮にくっついたのだった。ガムテープは猫の天敵。すごい形相で背中のガムテープをかんで引き剥がそうとしている。仕様がないから手助けしてやろうとして、ドアのビニールシートにぶち当たった。のれん状に張っただけでは心もとないので、下から猫が通れるだけの余裕を残して左右も貼り付けてあったのを忘れていた。仕方がないので猫視線で這って潜り抜ける。

■隣の部屋に到達した時はもう自分で剥がしていた。しかしちょをっとストレスだったらしく、ビニールシートに頭突きダッシュを始めている。暖房効率にはまだまだ改良点があるようだ。温かいものを飲み、厚着をして湯たんぽを抱きながら…。とその時、膝の上に猫が乗ってきた。おおナイス、我が家には生きた暖房器具があるではないか。いいぞ、よしよし、ずっとそこにいるべし。あ、でも寒さで尿意も催してきた。



■眠りを覚まさぬために、じっと耐えること10分。なんか重さで足がしびれてきた。あとどれくらいこのままいなければならないのだろう。おい、猫、起きろ、起きてくれい。うあ、なんで2匹目まで乗って来るのだ。い、いかんこれ以上は腰に来る。ただでさえ、布団の上に乗って寝る時に寝返りを打てないから最近腰痛気味だというのに。ああ、いかん。こっちまで眠くなってきた。このままではいかん。いかんのだ〜。

満月のクリスマスイブに迷宮入り



■今日は満月のクリスマスイブだ。次にグレゴリオ暦の12月24日が満月になるのはちょうど19年後の2026年である。この月日と月相が一致する19年(19太陽年=235朔望月=6940日)の周期は、ギリシアの数学者メトンが発見したので「メトン周期」と呼び慣わされている。より詳しく見れば19太陽年は365.242194日×19=6939.601686日であり、235朔望月は29.530589日×235=6939.688415日で、ほぼ等しくなっている。

■誤差は0.086729日だから、2時間4分53.4秒弱といったところだろうか。もっともクリスマスイブだとか新年だとか、何かその日が特別な日でなければ、あまりこのようなことは考えない。私は満月生まれである。自分の誕生日が次に満月になるのは2011年だ。それだけでは何歳かは分からないが、おうし座であるというヒントを与えればかなり絞り込まれる。もっとも私のそれを計算から出す酔狂者はいないだろう。

■冬至も過ぎたので、1日の昼の長さがじわりじわりと長くなり、また軒から入ってくる陽光の角度も部屋の最深部からミリ単位で窓際へと移動していく。まあ一番寒くなるのはクレジットカードの決済のように1ヵ月ほど遅れてやってくるのだが。ちなみに私は最近はめっきり経済の流れから外れて久しいので、クレジットカードを持っていないため、この表現は実感の伴わない無責任な喩えではあるのだけれど。



■この後さらに月の諸周期やいろいろな暦の話を垂れようかと思っていたが、我が家の猫が布団の中に微量のおしっこを垂れていたことが突然判明した。その解決が第一事となってしまった。近所の大きなコインランドリーで洗うと乾燥込みで2千円以上になるし、年末のややこしい時に弱いながらも臭いのする毛布を抱えてうろつくのは心も身も寒いので、問題部分をてるてる坊主のように括って、家で部分洗いをした。

■さて犯人探しである。容疑者は2匹しかいない。しかし現行犯でなけれどどちらか特定できないのである。最近はめっきり寒いので、どちらも布団の中に入ってくる。同時に入ることはないのだけれど、夜中に何度も交互に出たり入ったり、時には寝返りに潰されかけたりするのだけれど、どちらの仕業か分からない。さすがに2匹の尿臭の区別ができるほど猫バカでもない。明らかに2匹ともしらを切っている。

■掛け布団はセーフで、毛布と敷布団が濡れているということは、掛け布団と毛布の間に間違えてもぐりこみ、そこで作為的にか突発的にか温かい液体を体外排出した小動物がいるということだ。疑わしきは罰せず。二択問題なのに泣き寝入りである。いや、へたに泣き寝入りしたら事件再発の可能性もある。猫は人間よりずっと瞬間に生きている。その現在のつぶらな瞳が、過去に囚われるなよと自分に語らせる。



■たかが猫の微量失禁であり、その毛布も今やベランダで、朝日と寒風に晒されて舞っている。くどくどと記述するほどのことではない。それを読まされる方はたまったものではない。そう思い直してパソコンの前に座る。なにやらパジャマの前が濡れていて寒いので、電気ストーブを引き寄せる。…あれ、ちょっと待て、パシャマの股間が濡れている?突然、ひょっとして第3の容疑者浮上か?え?ええーっ?

■落ち着け、落ち着け。Easy, easy. これはさっき洗面台で毛布とかを部分洗いしたときお湯が跳ねたものだ。その証拠にほら生暖かい。生暖かい?や、やっぱり自らの深夜無自覚失禁?いわゆる尿漏れってやつ?寄る歳波に勝てず、ついにネガティブながら老境に?…いや、まてまてまて、毛布に染み込んだ液体の臭いは猫のおしっこだったはず。だけど確認していない。2匹の猫が並んでじっとこちらを見ている。

■事件は思わぬ方向に…、ってだから違う、違うって。笑いを取るために自らを貶めすぎると、後々回復に時間がかかるのでもうやめよう。間違って私が本当に失禁してしまったと勘違いされる前に、この話はうやむやに終わっておくことにしよう。たかが微量の尿らしき液体の跡である。ああしかし高尚なメトン周期の話が、いつのまにやら哄笑すらない臭気話に変わってしまった。まあウケがないのも笑がない。

(on 20071224)

HP整理はいろいろな発掘品がある



■とても古い話で恐縮だが、私が20歳になる直前の頃に、おそらくA.ビアスの『悪魔の辞典』に影響されてだろうけれど、『衒学的みつまろ辞書』というものを作った記憶がある。HPを整理していたら、zone-15の中に「む」の項というのが発見された。今ならもう少しオブラートを増量して表現するだろうけれど、まあ基本的にはスタンスが変わっていないことを自覚した。進歩がないとも言うけれど一部そのまま晒そう。

<む>の項

無為⇒生きているだけで有害なる人間の最良の態度。

無我⇒お経を忘れた坊主が好んで口にする心のデリンジャー現象。

⇒赤ん坊にはなく、子供には分からず、青年には顧みられず、大人はやたら懐かしがり、老人には全てである、時空のひずみを表すベクトルの単位。

向かっ腹⇒男のいちもつよろしく、意志に逆らって立つ愉快な体の一部。

⇒かつて人類が口にしていたという、謎の穀物。

剥き身⇒美少女の最も自然な状態。ときにその比ゆとして蛤やアサリの中身を指すスケベな例もある。蛇足ながら食べ方によっては美味い。

無垢⇒妖怪あかなめ泣かせな、生娘のふとしたしぐさ。

無芸⇒才能を全てに分散しているので、目立った特技のない人のことで、見分け方としてはやたら大食いなのですぐ分かる。

無血革命⇒整理中の女性には参加が許されない、不思議な大人の遊び。

無根⇒女のこと。女の言うことには根拠がないという差別用語。

無言⇒雄弁至極な者の最後の切り札。

無視⇒やりすぎると失明の恐れがある心理攻撃。

虫酸⇒前触れもなく背中を走る妙な昆虫の分泌物。

無実⇒罪人が自己紹介する時の必須単語。

虫歯⇒舌でぐりぐりすると、痛いけど気持ち良いもの。

無臭⇒精神的蓄膿症の世界。

矛盾⇒レトリックのほつれ。昔どんな処女膜をも貫き通すという鉄のいちもつを持つ男と、どんないちもつをも弾き返すという鉄の処女膜を持つ女が、溶鉱炉の中で合体して散々打たれたという愉快な故事。鉄と女は熱いうちに打てとも。

無職⇒人間の本来あるべき姿。能動的にこの職業に着こうとする者は少ない。

無恥⇒恥知らずの総称。特に裸で走り回る男のことを、コーガン無恥という。

無鉄砲⇒考えなしに敵の本拠地に夜這いし、ピストルがないので、思わず女に別のものを突っ込んでしまったりするガンマンの習性。

※みなさま、この若造の、とりすました性的表現をしたつもりの、子供らしさに満ちたつたなさもまた一興かということで、どうぞ呆れ顔はお納めくださいませ。
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(以上、原文のまま)

■なお当時は下の画像のようなイメージが妄想のベースにあったものと思われる。直接は無関係の画像だが、結構この画像は好きなのでおすそ分けということ以外にさしたる意味はない。女性やお子様には申し訳ない限りだが、不快であればスキップ願いたい。かようにすべてを晒さないあたりがよかですたい。ちなみにこの画像は日本でのものではない。これもクールジャパン?




HPの大改造を開始してしまった



■今世紀になってからすでに丸7年が過ぎようとしている。閏年を考えなければ2555日だ。10000日の1/4からすでに55日が過ぎてしまったわけだ。これにあと45日を加えれば10ツォルキン(=260×10)になる。今日の話は45という数字は1〜9までを、そして55という数字は1〜10までをすべて足した数、つまり9の3角数と10の3角数であり、そしてこの2つを足せば完全なる数100になる…とかそういうことではない。

■暦が異なろうとも、太陽暦であればどこから起算しても7年は7年である。そして2001年からスタートした私自身のHPもまた7年が経過している。内容はその時その時の大きなマイブームを追求したものばかりだ。足腰もしっかりしないまま空に伸び上がろうとしている、ノーマルな学問からすればアヤしげな研究もあれば、様々なエッセイもどきや創作まがいのものもあり、それらが未整備のまま放置されている。

■いつかやらねばと思っていた、この少し煩雑に過ぎるHPの整理を数日前から再開してみている。エッセイ仕立てのシリーズものとか、昔取った腐りかけの杵柄にカビ防止の操作を施しつつリニューアルした草々とか、まるで増築を重ねて迷路のようになってしまった温泉宿のようなていたらくである。設計図は何枚かある。しかし時節を経て古くなったものや、過去の遺産はアーカイブとして別枠に保存しよう。



■ブログも1日1ブログをほぼ2年続けてきた。今年はあと1週間ほどで満1年365日、地球が太陽を1公転する間持続し終えることになる。これはもう十分だと考える。書きたいときに書く。毎日書かなくてもよいということの開放感は、かなりの自由度と共にただ何もせずに生きるということの至福感を希釈したような心根になるだろう。ただしもはや世界の方がかなり臨界点まで来てしまっているような気がする。

■HPを整理するという個人的にはかなりおおがかりな作業も、マイナーチェンジ以外はおそらく今後ほとんどその機会はないだろう。聞けばハンダコーセン氏の「ヌースアカデメイア」というネット上のサイトも大々的にリニューアルするという。私のHPがそもそもスタートしたのは彼のサイトにわずかに遅れてのことだった。あと7年たてば件の2013年の向こう側である。はたしてそれまでHPはあるのだろうか。

今日は猫と遊んだ(遊ばれた…か?)

■画像は間抜けで可笑しいけれど、このテーマは陽だまりの中で伸びていたら背中に乗った猫を、いかにして乱暴にではなく対話的に退去してもらおうかということです。まずは寝たままいろいろなポーズをすることによって、こちらの願わくば降りて欲しいという気持ちを表してみたけれど、失敗に終わりかえってへばりつかれてしまったところです。気が向いたら「ぐぐぐっ」とか擬音を入れつつ見てください。



■自分ばかりではつまらないので、最後の1コマは猫の殺人的にかわいらしさ(?)とか言うものにやられてしまっている愚妻さんもまぜてみました。てか、1人ではこの画像は撮れないのでありました。さてパート2は、しかたがないので落とさないようにそーっと(この時点ですでにバカだけれど)四つんばいになり、さらにゆっくり立ち上がって背中から退去してもらおうというパラドキシカルな試みです。



■パート3はもはや立ち上がるしかすべはないと悟り、背中を曲げないように努めながらゆっくり床から離れていこうとする画像です。猫もそれなりにバランスを取っているようだけれど、一向に降りてくれません。仕方がないので最後にポーズを取って、さらに片手片足でバランスを取ろうとしたところ、なんかどっかがパキッとか言って背中と足がつってしまった。真剣にやったのに猫はへばりついたままです。



■私はこのまま一生猫を背負って生きていくのでしょうか。…まあ、それもいっかな。とかそんな心境になった途端、キャッツらいきなりすたこらさっさと逃げていってしまった。まあそんなほのぼのと間抜けな年の瀬の昼下がりもあっていいだろうという、居直り反転筋違いで足がつる…のブログです。こんなんもあっていいにちがいない。

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