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本屋に行けずに119と911した
- 2008.01.30 Wednesday
- ■数の世界
- 23:00
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- -
- by 小野満麿
■最近本屋に行っていないので手元に読む本があまりない。まあ読むべき本やいつか読もうと思って買ってある本は少なくないのだが、へばりていているPCから目と手と腰を剥がして一休みするときちょっと読んだり、風呂の中で気軽に読んだりする類の本のことだ。そこで活字中毒と自称している嫁さんが読んでいる本の中から何冊かピックアップして読む機会が増えている。職業柄の偏りやベストセラーが多いとしてもである。
■『日本人が知らない松坂メジャー革命』(アンドリュー・ゴードン)とか、『ユダヤ人大富豪の教え(1)(2)』(本田健)とか、『金持ち父さん貧乏父さん』(ロバート・キヨサキ&シャロン・レクター)とか、とにかく自分ひとりでいればおそらく手にもしないであろう本を読むのが、今は逆に目新しい。もっとも数十ページ読んで壁に投げつける糞本も多々あるが、それでも嫁さんの本棚はいいパラメーターになっている。
■まあ他人の読書内容なんてさほど興味がないと思われるので詳細は省くとして、今読んでいるのは『フラット化する世界』(トーマス・フリードマン)という上下2冊本だ。数と形と暦と音と文字と天体と猫と温泉とサッカーと…と好きなものを上げ連ねていってもこの本に辿り着くことはないので、リサ・ランドールの『ワープする宇宙』を読む時のようなスタンスで読み始めた。内容に関して直接言及するつもりはないけれど。
■9.11という数の並びについてはことさら説明する必要はないだろう。しかしうっかり見落としていたのはこの逆の11.9という数の並びが表している1989年の事件だった。つまりベルリンの壁の崩壊である。この年は今では既に矮惑星に格下げされている冥王星が海王星の軌道内に侵入してからまた外に出るまでの20年間のちょうど真ん中だったけれど、元号も変わり諸事反転の年だったことは間違いないだろう。
■友人のハンダコーセン氏のリニューアル本がもうすぐ出ることになっているが、確か本ので出しは1989年の11.11ではなかっただろうか。11.11に関しては彼の別嬪な姪っ子の誕生日だったり、CDのタイトルにあったり、数秘術関係でも様々取りざたされていたりするけれど、この2日前の11.9という数と9.11という数の反転は、誰でもデジタル時計で毎日目にする可能性と同様月並みなものなのだろうか。
■嫁さんの学生時代からの友達にMちゃんという美人さんがいるが、その彼女の愛車はポルシェ911である。浅草のテラバイトでそこのお寺の奥さんはすぐ隣のマンションの911号室に住んでいる。まあこれくらいのプライベートリークはさほど問題ないだろうが、ほかにも個人的な数的符合は少なからずある。当人がそれに気がつくかそうでないかを別にすれば、おそらく誰の周囲にも同様な数の並びは溢れているのだろう。
■911というのはそもそもアメリカのポリスコールナンバーだから、日本人なら110番に相当する。むしろ日本の消防への緊急コール119番の方がこの話の流れからはフィットする。9:11と11:9を並べて書くと、それぞれ和すると20:20となり、平均すれば10:10となることがわかる。携帯電話の数字キーでは1と9は対称の位置にあるけれど、個人的には10進法の1つ上のよじれ対称性を見てしまう。
■しかし今ネット検索していて、自分がなぜ119という数字に引っ掛ったか分かった気がした。つい最近レスリングの吉田沙保里の連勝が「119」で止まるというニュースをチラッと見ていたからだったと納得してみる。しかしまあ数のシンクロに驚く人たちもこんなものだろうとタカを括ろうとしてはっと気がついた。119連勝が止まった日は今年の1.19だったのだ。全然読書の話でオチまでもって行けなかった私である。
僕の1万円と君の1万円を交換しよう(3)
- 2008.01.29 Tuesday
- ■日々の記録
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- by 小野満麿
■甲田烈氏は多くの成功哲学本を過去に研究して、それらを適度に参考にしつつ各自の成功術を自力で編み出していくのが一番良いのだろうと言う。そしてその感覚を武道や剣術に近いと表現している。これは少しだけかも知れないが分かる気がする。既存の論理的思考は意味を成さす、先送りすることなく即座に解を出さねばならないというところなどは禅問答の公案にもどこか似ている。
■実際に生活している上での様々な問題や事件も、そのとき持っている自分のすべての力を総動員して対処・解決していかなければならないのに、すぐに尻込みして言い訳や逃げ道に走る事のなんと多いことか。若すぎるほどの昔の一時期、常日頃から自分自身とまだ見ぬ他者への言い訳ばかりを考えて生きてきた。それが心の中でできていれば、言い訳は外部に晒す必要もなく安心してものごとに着手できるのだった。
■お金持ちになるつもりも、ならないままでいようとするつもりもないけれど、それでもこの手の本を読んでいて先ず感じるのは、自分は「お金持ちかお金持ちでないか」という分類を無意識に迫られるということです。そして「ではお金持ちになりたいか、それとも惨めな今のままのままでいたいのか?」という選択に迫られる。でもよくよく考えてみると、誰も課そのような価値観だけで判じられる存在ではないと分かる。
■一定の基準や世界観で全てを分類し分析しようとしても、必ずその価値観からはみ出すものはある。戯れに分類のどちらかに己れを入れてみてもいいと思うのは、それをしている自分はそのどちらにも属さないでいられると知っているからだ。自分に正直に問うてみて、別に金持ちにならなくてもいいけれど、それでも怠慢だったところや無思慮な点に気づかされるのはそう悪いことではない。
■今自分が豊かか貧しいかと自問すると、豊かだと感じている。多分ずっと豊かだったのだと思う。胸を張って誇れる友人知人が少なからずいてくれるのが、奇麗事ではなく実質的に一番の財産だと考えている。自由か不自由かというとみんな自由なのだ。ただこの世界では気づくのに時間がかかり、そして気づいてからそれを実際に生きるということにはさらに時間がかかる。気づいたふりをして半端に生きる事すらもある。
■お金持ちと貧乏、幸せと不幸せ、自由と不自由などの2元的世界観はそれはそれでいい。それを頭だけでなく4値論理的にとらえそして生きることが重要なのだ。4値で考え、そして意思と責任を持って2元的価値観の中でも生きるという自由もある。いつも言っていることだが、自由には何もいらない。自由という言葉すらも。またあえて自由度を落として世界を味わうという自由すらもある。
(wrotten on 20080123 & rewritten on 20080126)
僕の1万円と君の1万円を交換しよう(2)
- 2008.01.28 Monday
- ■日々の記録
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- by 小野満麿
■ずっと以前『僕の1万円と君の1万円を交換しませんか』という詩を書いたことがあった。自分が持つ1万円と他者の持つ1万円というものの価値が真に等価であることはまずない。統計学的に近似した経済的レベルの者を強引に一絡げにして平均値を出すことはできるけれど、その平均値が自分の体感覚と馴染まない者は少なくないだろう。その感覚のずれは誤差の内だと表現する統計には血が通っていない。
■そもそも私の1万円はどこから来たのだろう?それはもちろん大蔵省印刷局からだろと言うベタな親父ギャグ。おいじいさん、それは根本的に間違いだぞ。最近紙幣をよく見ていないのか?「大蔵省印刷局」は平成13年の省庁再編で「財務省印刷局」に変わり、さらに平成15年には独立行政法人になって今や「国立印刷局」ってとこが日本銀行券を印刷しているらしいぞ。まあ同じところで呼び名が変わっただけだけどな。
■貨幣経済は物々交換の煩雑さを解消するために出現したというまことしやかな話を、実は私は信じていない。現代文明社会のただ中ではバーターだけで生きていくのはかなり難しい。他者の価値判断、共通という名目の個人が欠落した標準価格。物と物との交換はそれなりに納得ずくだ。一番難しいのがお金とお金の真の意味での交換だ。ただ摩り替えるのとは違う。あげるだけ、貰うだけも容易い。しかしそれにすら税がかかる。
■「何もないけれど、せめて私のものであるこの世界全てと、あなたのものであるこの世界全てを交換しませんか?」「そうですね、それなら時間と空間とそれ以上のものとをまとめて共有しようということに限りなく近いから、楽しそうですね。」「何も変わらないけれど、でも全てが変わりますね。」「いや、本当だ。では私の1万円と君の1万円も交換しましょうか。」「記念にね」「ええ、ただの記念に」
■お金に関する私たちの意識も、ひょっとしたらかなり早急に変わっていくのかも知れない。変わっていかないのかも知れない。ホゼ・アグエイアスは"Time is money."という発想が現代社会を最悪にしたと言明して、代わりに"Time is Art."を提唱した。初来日の講演の時、壇上で持参したグレゴリオ暦に火を点けて燃やすというパフォーマンスをして、今の13の月の暦に変えようと主張した。日本人として違和感を感じた。
■二者対立の解消には様々な方法と発想がありうる。何も「時は金なり」を否定しなくても「お金=感謝」という等式にまで意識が変わっていったら、「時は金なり」に対して否定的ですらあった「時は芸術なり」の意識すらもが、でんぐりかえってしまうこともありうるだろう。言葉の本質の1つとはそういうものだ。時、金、芸術、感謝を巡り介して立ち戻ってくるところは、「金は芸術なり」ではなく「時は時なり」である。
■「時は時なり」の時、その裏では私の1万円と君の1万円はそのまま芸術になるだろう。
(wrotten on 20080123 & rewritten on 20080126)
僕の1万円と君の1万円を交換しよう(1)
- 2008.01.27 Sunday
- ■日々の記録
- 11:07
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- by 小野満麿
■『ユダヤ人大富豪の教え』(本田健)の(1)(2)に味を占めて、現在『金持ち父さん 貧乏父さん』という本を読んでみた。この手の本の本質的なところは、お金儲けそのもののハウトゥーではなく、むしろより良く生きるための智慧とか、そもそも何のために生きているのかなどというところを、機械的条件反射でではなく頭を使って発想の転換をし、自分独自の生き方そのものの変革や解決に向かって方向付けるものであるようだ。
■名目は「お金儲け」というものだが、これはテーマが「セックス」でも「超能力」でも「人気者になる」でもツカミとしての違いであって、その本質的に持っていくところにさほど大差はない。もちろんハウトゥー本や自己啓発本の類はピンキリだろうから、ここで言うのはその良質なもののことではあるけれど。願わくば科学や数学に関してもこのようにその限定された王国から抜け出る意識反転の本が出てほしいものだ。
■中日新聞のコラムに「儲」という漢字を用いて「<人>の<言>うことを<信>じる<者」は<儲>かる」と言って騙して金を巻き上げていた手口に対して、人の道から外れているばかりでなく、そもそも漢字はそのような分け方をしないという正しいツッコミもあった。この字は人偏と諸の形成文字で、そもそもは「稼ぎ益を上げる」のではなく「蓄え備える」という意味だった。辻麻里子氏の言「生きてるだけで丸儲け」の正しさ。
■はっきり言って5年10年前に書かれたお金持ちになるための本は投資や税率その他の変動について来れていないので直接の役には立ちにくい。しかしその発想の転換や悪しき生命傾向の書き換えは、気づかなかった自らの精神の自由や自分が本当に成したいことを立ち止まって塾考するためにはかなり役に立つ。この混乱している時代には、外界の言動に惑わされず、自ら責任のと意思を持って諸事を決断するきっかけになる。
■たとえば子供が意を決してずっと欲しかった物を親に告げた時、「それを買う金がない」とにべもなく言うことと、「どうやったらそれが手に入るだろうか?」と自問させるのとでは雲泥の差だ。脳を止めてしまうか動き出させるかの違い。もし買ってくれるのでも「それを買うためにどれだけ大変な思いをしたかも忘れるな」と言うのは、若い心の表面に罪の意識という傷を成し、永きに渡って取り外せないかさぶたを作る。
■答えを他者にのみ求め続けている者のなんと惨めなことか。どんな些細な事からもヒントを見出す者のなんと輝いていることか。教育とはそもそも洗脳である。真の教育とはその洗脳から自力で抜け出る力を自力で生み出すための準備をしてあげることなのではないか。お金を稼ぐことは良いことだという洗脳。そしてそれを通してそれは良くも悪くもないと理解し、それに使われるのではなく使うものだと自得すること。
(wrotten on 20080123 & rewritten on 20080126)
満月が好きなのです(2)
- 2008.01.26 Saturday
- ■日々の記録
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- by 小野満麿
■惑星と衛星の関係は諸々あるので、土星のタイタンや木星のガニメデなども間近で見れば何か特別な情緒が心に醸し出されるのかも知れない。しかしそれでもやはり地球から見る月の情景ほど心を狂おしく掻き立て、そしてまた落ち着かせるものはないだろうという感性は、私たちの諸感覚器官や認識形態がそのような地球仕様になっているからだろう。
■満月を眺めているとただそれだけで満たされる。富士山もこの感覚に似ているものがある。視界に入っているだけで、そこにいてくれて本当にありがたい。見ているだけで生命全体が居住まいを正し、細胞の1つ1つが励起させられる。雲に一部が隠れたりするのもまた趣がある。月に群雲、山は富士。雪が舞い花咲き乱れる日本の風土もまた美し麗し。
■屋内で目に見えなくても、雲に隠れて朧ろであっても、そして眼前にくっきり浮かぶ月が見えていても、心の中には常に変わらぬ月がある。また満月であろうとも、三日月であろうとも、そして目に見えぬ新月であったとしても、そには月の諸相では揺らがない月がある。未踏なる未知を1人行く旅聖が、月を道中変わらぬ話し相手にしていたという。
■そんな知人の日々の神ごとを思い浮かべていたら、月とは直接関係ないかも知れないが、昨今の製紙会社の再生紙の比率表示偽造問題は、カミの問題だけに神の偽造にも通じそうで面白いと思った。それぞれの社長は心から頭を下げてはいないので、世界の良からぬ憑きモノを落とすためにももうしばらく真の神と月とでカミツキがあるのかも知れない。
■昨日は悪天候だったから満月を見ることができないと思っていたが、深夜に小雨がぱらついている空を見上げたら、頭の真上に雲を突き抜けてその丸い光が見えた。地球の8年はちょうど月の99朔望周期でしかも107自転・公転周期だが、最初に満月からスタートすれば8年間でちょうど100回目の満月だし、ちょうど108回同じところに月が戻るという表現もできる。
■水星・金星・地球・火星の公転周期の和は1365日であり、金星の会合周期584日と火星の会合周期780日の和に地球の1日を足した数も1365日になる。この数値の2倍は2730日で月の100自転・公転周期だが、3次元的に視覚化するために13×14×15の直方体の体積としても捉えられる。明日からはしばし欠け行く月の震える美しさを視覚的には味わうことにしよう。
(wretten on 20080122 & rewritten on 20080125)
満月が好きなのです(1)
- 2008.01.25 Friday
- ■日々の記録
- 14:33
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- by 小野満麿
■満月は好きだ。自分が生まれた時が満月だからというだけではない。今日は曇っていてしかも大変寒いので満月を拝むことはないだろう。しかし満月の日は意識を月に向ければいろいろなことを思い出す。耳の中で高い音がする。自分の過去を思い出すのはもちろんのことだが、こんな日は何か自分の記憶でないものともつながるような気がする。
■決してチャネリングとか前世の記憶とか言うものを持ち出さなくても、おそらく誰にでもありうることなのだろう。啓示のような直観や至福感を伴う恩寵などがやってくるのだから、こちらからも既存の世界の半歩外にある何か尋常ではないものに対しても知覚の触覚を伸ばすことができるはずだ。後はそれを共有するための表現力と優しさだ。
■月は誰のものでもないがゆえに、誰のものでもある。誰にも似ていないがゆえに誰にでも似ている存在はあると思う。イデアとか原型とか神とか、そのような既存の言葉や概念に括ることなく、だたそう感じられ受け入れられるかどうか確かめてみる。何も特別なことではないのだから、ことさらに騒いだり恐れたり得意がったりすることもない。
■満月は好きだ。もちろん新月が好きという人もいれば下弦の月の欠け具合が良いと言う人もいるだろう。だからといって自分の感覚のみを主張して相手を無理やり納得させたりする必要はない。みんな同じ月を見ているわけだから。今日は私の番。月は大好きだけれど、その中でも満月の時の面と雰囲気と、そしてその時間質が私はいっとう好き。
■西行のようにどんな状況の満月かまでは指定しないけれど、死ぬのなら満月の時がいい。何かこのまま生きていると新月の時に死ぬような、そんな気がしてしまう。これからは毎回満月の時に死に、満月の時にまた新生しよう。水星・金星・火星の公転周期の和はちょうど1000日になる。地球のそれも足せば、月の50朔望周期と等しい時間になる。
■満月が好きな情緒というか生命の傾向性が先ずあって、それを正当化することなく理屈づけするのだけれど、月が好きだからそれもまた楽しいのである。ただ満月が大好きであるということをこの寒空に向けて意味もなく宣言しよう。何ものにも煩わされることなく、ただ好きなものを好きだと言うことのできるとは、なんとも幸せな世界である。
(wretten on 20080122 & rewritten on 20080125)
太陽系トポロジー的加法計算?
- 2008.01.22 Tuesday
- ■天体の運行・太陽系トポロジー
- 10:37
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- by 小野満麿
■以下の数値は太陽系の地球型内惑星である水星・金星・地球・火星の諸周期のデータである。地球の1日を基本単位として極力整数化してある。その後にはこれらの数値を様々な組み合わせで加法計算してみた結果である。このような計算はそれだけでは天文学や数学でも特に意味を持たないだろう。しかしそれなりの整合性があるような気がする。この計算はいったい何をしているのだろう。全てが無意味なのだろうか。
(01)水星の自転周期は58.5日。
(02)金星の自転周期は243日。
(03)地球の自転周期は1日。
(04)火星の自転周期は1日。
(05)水星の公転周期は88日。
(06)金星の公転周期は225日。
(07)地球の公転周期は365日。
(08)火星の公転周期は687日。
(09)水星上の1日は176日。
(10)金星上の1日は117日。
(11)地球上の1日は1日。
(12)火星上の1日は1日。
(13)水星-金星の会合周期は144.5日。
(14)水星-地球の会合周期は116日。
(15)水星-火星の会合周期は101日。
(16)金星-地球の会合周期は584日。
(17)金星-火星の会合周期は334日。
(18)地球-火星の会合周期は780日。
(19)月の公転・自転周期は27.3日。
(20)月の朔望周期は29.5日。
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■公転周期及び惑星上の1日の和を見る
・水星,金星,火星の公転周期の和は1000日である。
・水星,金星,地球,火星の公転周期の和は1365日で、ちょうど月の50自・公転周期となる。
・水星、金星、地球、火星それぞれの上の1日の和は295日で、月の10朔望周期に等しい。
■水星の会合周期を中心に見る
・水星-金星及び水星-地球の会合周期の和は260.5日で、ツォルキン260日に近似。
・水星-金星及び水星-火星の会合周期の和は245.5日で、月の9自転・公転周期に近似。
・水星-地球及び水星-火星の会合周期の和は217日で、月の8自転・公転周期に近似。
・水星の金星,地球,火星それぞれとの会合周期の和は361.5日で地球の1年365日に近似。
もしくは19の2乗361、または円周360度の数値に近似。
■金星の会合周期を中心に
・金星-水星及び金星-地球の会合周期の和は728.5日で地球の2年に近似。
・金星-水星及び金星-火星の会合周期の和は478.5日で月の朔望周期の10φ倍に近似。
・金星-地球及び金星-火星の会合周期の和は918日で月の31朔望周期914.5日に近似。
・金星の水星・地球・火星それぞれとの会合周期の和は1062.5日で月の36朔望周期1062日に等しい。また月の39自転・公転周期1065日に近似。
■地球の会合周期を中心に
・地球-水星及び地球-金星の会合周期の和は700日である。地球の公転周期365日と金星-火星の会合周期334日の和699日に近似。
・地球-金星及び地球-火星の会合周期の和は1364日で月の50自転・公転周期と近似。
・地球-水星及び地球-火星の会合周期の和は896日で、金星の4公転周期900日に近似。
・地球の水星・地球・火星それぞれとの会合周期は1480日で月の50朔望周期1375日に近似。また地球の4年1460日にも近似。
■火星の会合周期を中心に
・火星-水星及び火星-金星の会合周期の和は435日である。
・火星-水星及び火星-地球の会合周期の和は881日である。
・火星-金星及び火星-地球の会合周期の和は1114日である。
・火星の水星,金星,地球それぞれとの会合周期の和1215日は金星の5自転周期に等しい。
■水星・金星・地球を中心に
・水星及び金星の自転・公転・会合周期の総和は730.5日で地球の2年に等しい。
・水星及び金星の自転・公転・会合周期、及び2星の会合周期の総和は地球の4年である。
・水星・金星・地球の自転・公転周期及び水星-金星の会合周期の総和は1825日で地球の5年である。
この数値「月の1日」(地球の29.5日)で捉えなおすと61.8644…で100/φに近似する。
・水星-地球の会合周期と金星の自転周期・公転周期の総和は584日で金星-地球の会合周期に等しい。
■水星・金星・地球・火星を中心に見る
・水,金,地,火の自転周期・公転周期及び水-金,水-地,金-地,地-火の会合周期の総和は3293日で、地球の1年の自転回数366の9倍に相当する3294に近似。
・水,金,地,火の自転周期・公転周期+水-金,水-地,水-火,金-地,金-火,地-火の会合周期の総和は3728日で、月の136.5自転・公転周期3726.5日に近似。
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■このような計算はいわゆるギリシア以来の論理的な意味での数学とは異なるもののようだ。これらが単なる偶然なのか必然なのかは今は何とも言えない。他の惑星から見ればまた異なる見え方があるのか、それとも全宇宙に共通普遍の数的表れ方なのも分からない。なぜこうなるのだろう?…今1つだけ言えるのは、この「なぜ?」という問いがあまりにも未洗練で無骨な形だということだ。先ずは問い自体を磨かなくては。
お金は盟友なり、4値なり、感謝なり
- 2008.01.21 Monday
- ■日々の記録
- 16:40
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- by 小野満麿
■私にとってお金はカルロス・カスタネダが描く呪術の世界の「盟友」のようなものに思える。盟友という表現が分からない人には、普通の世界観では捉えられていない未知なる自然のエネルギー体とでも考えて頂けばよいだろうか。呪術はそれを召喚し、自らそれに取り込まれる危険を冒しつつ、それを現実的な物事の上や、自らの知的拡大のために働かさせる。現実極まりないようなお金は、実はそのようなものだ。
■ほとんどそれと関わらず、意識的には明確に交差しないままそれらのエネルギーに晒されてはいるが、それにさほど左右されない者もいれば、飲み込まれ自らのみならず周囲の者も巻き込んで狂気の中に飲み込まれてしまう者もいる。その実体を直感的にも知的にも知り、そのエネルギーのために働くのではなく、それを自らのために働かせるということが豊かな在りようであろう。無視してもそれはそこにいる。
■優れた富豪の教えと清貧なる聖者の教えが矛盾して聞こえる時、それは二値論理的葛藤を生むだろう。しかしその双方からほぼ等距離を保ってそれらの価値を観ずることができるならば、それはもう4値論理の視座を持つ。現世的なこの3次元では知の限りをもって4値論理で考え、この世界の共通認識が変わる日まで、他者とのコミュニケーションを絶つことなく全霊を持って2値論理の中で能動的に決断すること。
■前向きの人生観、肯定的な生命ベクトルは多くの困難な状況すらも活力とチャンスに変え、個人的な生き方を良い方向に変えていく。しかしそれだけでは全てがうまく行くわけではない。学習することを怠ったり安易な方向を選択したりすることで、たやすくより大きなリスクをも背負い込みかねない。思い込みや独りよがりは大きな力となるが、世界はそれよりは少しだけ大きいからだ。学ぶ時は謙虚に学ぼう。
■お金についても同様に、余り気にかけはしないけれど他者がそれについて問題にしており、身辺にも流れ巡っているものであれば、それが何であるのかを自分なりに考えてみることも悪くはなかろう。「遊び」と「仕事」と「学び」とが、感謝によって「生きる」という創造活動の中でひとつことになるような、そんな未来へとこの今を結び付けていくこと。周囲の人だけに留まらず、あらゆる人たちと静かにつながり行くように。
■「お金=感謝」が自明となった時、お金はなくなるのだろう。
数学的なものだけが「数」ではない
- 2008.01.18 Friday
- ■数の世界
- 11:36
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- by 小野満麿
■「数」の話をする時に、理系的発想を自認する人と話をする場合、先ず最初に双方が共通の場を構築できなくて困惑してしまうことがある。もっとも自称バリバリ文系という人と話をする場合でも、数に象徴や意味を持たせすぎて本質的な話ができにくかったりもするので、これは個人的なひとりよがりかもという余地を残しながらも1つ言いたいことは、数学的にのみ「数」を扱うことが全てではないということだ。
■こう言うと文学的な数の話かと思われるがそうではない。数を独立した存在として扱いその数に内在する法則を探求するという、古代ギリシアから現代まで続く「数学」の範疇で括りきれない「数」の概念もしくは数の本質というものを想定できない「数学」オタク的な科学傾倒者に対して物申しているのだ。ギリシア以前の古代文明たちの多くは、ギリシア以降の数学の発想で数を扱い文化を構築してきたわけではない。
■したがって20世紀初頭の民俗学者が自らの価値観を持って研究対象を扱い論じたことを反省して、その土地の文化や習慣に実際に溶け込んで生きることによって研究を続けていったように、ギリシア以前の古代文明の遺跡や世界観を現代的な数学の見識や操作方法だけで研究し読み解こうとすることは、実は傲慢であり狭量であるといわざるを得ない。しかしいったん数学的思考や発想を手放して自然に接することは難しい。
■実際の日常生活でも非論理的な会話や状況に出くわすと思考停止したり、パニックになるまいと必死に論理的に一度自分の中で理解し直して、その論理によって再び現実に接しようとする人はいる。それは戦略として自ら選んだものであればかまわない。しかしそのようにしてしか世界と接することができないのであれば、別の戦略も試みたりして非論理的な日常も受け入れられる姿勢を取れた方が生き易いだろう。
■数学的発想で世界と接することができるのは実に自由度の高い有利な資質だ。しかし数学的発想でしか接することができないのであれば檻の中だ。「数学」と「算術」に立て分けて「数」を理解しようとするけれど、それ以外の「数」も確かに存在する。「非数学」とも表現されているけれど、それは仏教で「非」をつけて非ず非ずと否定していくことがネガティブでないように、檻の中からは捉えがたいものだろう。
■言葉にならないものを言葉にして理解しようとすることは間違ってはいない。しかしそれだけでは言葉にならないものを感じたり理解したことにはならないように、数を数学的にしか理解できないのであれば、数が生命であるとか数は光などと表現したとしても、舌足らずな文学的表現かナンセンスとしてしか捉えられないだろう。理解できない未知を受け入れようとする余地だけは常に持っていたいものだ。数の感性。
■これはもちろん古代の理解に限ったことではない。未来のことでもある。今ある数学の発想から出ないまま未来の数を論じようとするのであれば、それは同じ伝を踏んでいる。数学を踏み外さずに慎重に行くことは重要だ。10進法で数えること、暦の問題、音楽、美術、幾何学的空間把握法、心理学、社会と常識、宇宙論、教育問題、人間関係、自己認識…。あらゆるものを肯定し、その上を超えて進む覚悟の話である。
料理の本を湯船の中で読む
- 2008.01.17 Thursday
- ■日々の記録
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- by 小野満麿
■調理というほどのことではないけれど、ちょっとした料理を我流で作るのは嫌いではない。別にそう望んだわけではないけれど、大学に通うべく家を出たのが18歳の時。それ以来ずっと1人で食事を作ったりしてきた。もちろん外食やまかないもあるにはあったけれど、第一に経済的に、そして第二に感覚的に自分で作ったものの方が何か血肉になりやすいという根拠のない感覚はあった。
■今だから笑えるけれど、自分で作るといっても最初は近所に住んでいたクラスメイトの女の子に包丁を借りに行ったり、できたものが辛すぎるのだけれど捨てるわけにいかず自分で泣きそうになりながら笑って食べたりしたものだ。夜中にキャベツを油でいためただけのものがこんなにも美味いものなのかと感動したり、友人がうまく味噌汁を作るのに感心したり、とにかくいろいろとあったものだ。
■料理の本を読んだためしがなく、人の料理話とたまに見るTVの番組くらいが外部からのソースだった。今ではレシピなどを見て作るけれど、基本からちゃんと学んだり収斂したものでなかったので、根本的な知識が欠落している部分があるということを最近改めて再自覚した。蒸すこととか弱火の使い方とか、なんというか一気に視野が広がったような気がした。やはり料理は深くそして広い。
■最近、英語の本ばかりの嫁さんの本棚のあるコーナーに料理の本が結構あることに気がついた。私は風呂の中で温泉本を読むのが結構好きなのだけれど、ここのところ温泉関係のものを購入していないので、ついその10年以上前の料理関係の本に手を出した。するとこれが結構面白い。「なーるほど〜」の連発である。そういうことだったのかとか、そこが知りたかったのだとかが山積である。
■食料問題というと、その量や分配方法や安全性などがクローズアップされやすいようだが、やはり自ら丁寧に調理し、感謝していただくという基本の部分も重要なのだという当たり前のことを、これまた再自覚した。手際、段取り、盛り付け、作法、基本技術、愛情、見立て…。いろいろなものが必要であり、出来上がったものがなんというか「感謝」というものの物質化であれば最高なのだけれど。
■その本を読み始めたからというわけではないけれど、嫁さんが最近めっきり料理をするようになった。それもなんというか、結構ポイントの高い美味いものを作っているのだ。ようやく時間的余裕が少しできたのもあるのだけれど、結構真剣に作っているので今のところハズレはない。ペースや手際が違うので一緒に作ったりはせずにお任せだけれど、これには素直に感謝をしておくことにしよう。
■さてこれからお風呂に入るのだけれど、今日もまた本棚からパスタとかその辺りの本でも持っていくことにしよう。
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