スポンサーサイト

  • 2024.01.09 Tuesday
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

一定期間更新がないため広告を表示しています


まずは自分の中の「あなたと私」から



■売り言葉に買い言葉。そんな会話で感情的になっている自分にふと気がついた。快感に対してもそうなのかも知れないが、とりあえず不快感に対しては機械的とも言えるリアクションの連鎖に近い条件反射の応酬では未来へ続くものが生まれてこない。しかもゆっくりした核反応のように不快感が周囲に広がりゆく。多人数ならば不快感が共有空間に共振増幅していってしまう。ではそれに気づいたらまずどうすればよいのだろう。

■人間心理の力学的構造分析や、倫理的な正しさを論理的に説明して行くよりもまず、自らのうちに生じているリアクション的な不快感そのものを無視したり否定したりすることなく正視し、異なる視座からも自覚分析して、それに飲み込まれることなく超えていくことから始めるべきなのだろう。過去に形成された無意識的な心の轍から意識の車輪が外れないまま、会話や交流を自動操縦に任せておくのは精神ゾンビ化現象である。

■ユーミンこと松任谷由美は20歳前に衝撃のデビューをしてから、現在に至るまで第一線で創作活動を続けている。彼女の曲の多くが心に染みるのでとても好きなのだが、時々「あなたと私」の関係ばかりテーマにし続けていて進歩がないのではないか?と思うことがあった。だが今改めて思うに、「自己他者問題」などと堅く表現するまでもなく、一番重要な「あなたと私」の関係を日常で正視することなく来てしまった私がいる。



■人間関係の最初で最後でもある「あなたと私」の問題。現代人はひとりよがりや思い込み同士でコミュニケーションが崩壊しかけていると表現する者もいるけれど、そもそも聖者や覚者ではなかろう私たちは、最初からコミュニケーションは成り立っていなかったし、まだ「あなたと私」の問題を云々する立ち居地にすら至っていなかったのだ。葛藤の中と外の両方の視座を持ちつつ人間の心の今とこれからを想像していく姿勢。

■そのような視座を持ったら問題は解決するのかというと、もちろんそうではない。そのような視座を持ったもの同士のレベルでの更なる「あなたと私」の問題が出てくるだろう。そしてそこで何らかの解決方向を見出し、その次元両生類的な視座から、精神の立ち足を外の方にシフトしたら、人間ではない者になるのだろう。しかしそのような者同士の間にもまた、次元の異なる新しい「あなたと私」の問題はあることだろう。

■いやそこまで展開する必要は今はない。まず最初に、自分の内にある不快感や否定的な感情を反射したり外部に連鎖させたりすることなく、いかに変容昇華させていくかというところから着手しなくてはならない。感情的になると、それを自覚する意識との断絶が生じる。血液中の化学反応が心の在りようを規定するように、心の中の化学反応に流されて自らを省みる視座とリンクしない。そこにも「あなたと私」の問題はあるのに。

■多くは語るまい。まずは言わんとしていることを、行動せよ!実行せよ!である。しかし面白いことは、そのことに気がつけば、問題の解決は始まっているということだ。1回きりの思いつきではなく、繰り返し自覚し持続していこう。感情的に反応している自分自身は結構笑えるし。

真の聖火は内なる心の中に灯る



■私は別に聖火に聖性を感じはしない。聖性とはそれを物に与える者の内にこそあるものであろう。その共通認識が崩れたら、それは単なる人工の物に過ぎない。もちろんまだそれに聖性を見る者がいてもそれは自由である。ただそれを他者にも押し付けるならば、それは独善的な行為である。ましてや他者を傷つけてまでそれを武力で守らねばならないのであれば、貧相な世界認識による醜悪極まりない愚行であろう。

■ちゃんと向かい合う1人1人の中国の人は別に嫌いではない。むしろ好ましいところも多々ある。一党独裁の共産主義による中国政府の在りようが、いまや世界中の目に「裸の王様」として映る。世界情勢や毛沢東主義などまったく知らない若い子でもそれはそれなりに分かってしまう。お前が騙されている様々な陰謀や策略の存在を知れと言う者があるならば、その者もまた同じ論理で内省せねばならないだろう。

■この聖火というのは、神々の姿に似せて創造された人類に、プロメテウスが「火」を伝えたとされる神話を模したものだ。プロメテウスはその行いに怒ったゼウスにより山頂に張り付けにされ、生きながらにして肝臓をハゲタカについばまれる責め苦を強いられた。プロメテウスは不死なのでその肝臓は夜中に再生し、ヘラクレスに解放されるまで半永久的に拷問は続いていた。現在のヘラクレスは外部にいるヒーローなどではない。



■オリンピックの聖火とはギリシャのオリンピアで採火して競技場へ伝える火で、1936年のベルリン大会で初めて採用された。象徴だからあえて象徴で表現すれば、火とはまた智慧でもあろう。その知を与えた人たちに半永久的に責め苦を与える、狂ったゼウスもどきという構図。今の日本はいい具合に愛国心が熱狂的になりえないが、中国人の少なからずが持つ愛国心のファッションもまた裸の王様状態のようだ。

■醜い王の裸体なぞ見たくもないのだが、これは自らとは別の外の世界のことだけではなく、内なる世界にも反転してつながっていることである。己れの内なる中国政府にも目をそむけることなく、裸の王様とならぬよう居住まいを正し、変え行く未来をしっかり見据え、己れの内なるチベットの声に耳を傾けること。ヘラクレスとはひとりよがりを超えた内なる自由意志だろうか。何事も言下に否定せずに生きたいものだ。

■己れの内にある真なる聖火を、誰にも犠牲を強いることなく灯し続けていきたいものだ。

思い立ったが好天吉日グランパス



■ここのところ毎日毎日、部屋の中でPCに向かって、奇妙な太陽系のことばかり考えているので、ストレスが溜まり気味だった。昨日までぐずついていた天気がからりと晴れ上がっていたので、今日は外出することに決めていた。お昼前、そういえば今日はJリーグで首位を走っている名古屋グランパスが、近所の瑞穂陸上競技場でジェフユナイテッド千葉を迎えたホームの試合があることを思い出した。よし、サッカーを見に行こう。

■昔、Jリーグのナイトゲームがあった時、我が家の窓から瑞穂競技場のライトが見えていた。今は途中にマンションが建ってしまって見え難くなっているけれど、それでも今シーズンのグランパスは気になっていた。昔はまだ大好きだったピクシーことストイコビッチがまだ減益でブレーしていた。引退するまで見に行こうと思い続けていたけれど、結局1度もスタジアムに足を運ぶことはなかった。そのピクシーが今は監督なのである。

■御器所から地下鉄桜通線に乗って3つめの瑞穂運動場西で降りて、競技場まで500mほど初夏の光の中を歩いた。道が分かるかどうか少し不安だったが、たくさんの人が歩いて向かっていたので迷うことはなかった。3500円でバックスタンド側の席の入場券を買っていざ入場。チケット売り場で少し並んだけれど、このように思い立ってふらりと入るサッカー観戦もいいものだと思った。パックスタンドは日向でとても気持ちが良い。



■試合は10分頃にPKを得て、ヨンセンが少し危なげながらねじ込んで先ずは1−0。ところがすぐにコーナーキックからすばやいシュートで1−1の同点にされ、さらに同じような失点から1−2となって前半が終了する。ジェフ千葉は前半、よく走るいいサッカーをやっていたが、後半は見ていて楽しい攻撃的なプレイを続けるグランパスに押され、ヨンセンが今日2点目をボレーで入れて2−2の同点になる。ファンの大歓声が上がる。

■そして後半途中からいつものように投入された俊足の杉本が、ついに4試合連続のゴールを入れて3−2と逆転した。GKがボールを持つと、大きく前線にけりだすジェフと違い、グランパスのGK楢崎は必ず左右どちらかのBKにパスをして、そこから丁寧に繋いで前線に運ぶ。最後はもうほぼ一方的で、後2〜3点は入ってもおかしくなかった。サポーターと選手たちの交流も含めて、試合終了後の競技場の雰囲気も味わい深い。

■10倍の双眼鏡を持っていったのだが、ピクシーや選手たち、そしてゴール裏の熱狂的なサポーターたちが良く見えた。そしてTVと違い全体が広角に見渡せるスタジアムは、試合の流れや選手同士の意識的な連動性まで見て取れるので楽しい。帰りはすこぶる機嫌が良かったので、春は満開だったが今は新緑の桜並木が有名な、山崎川沿いをゆっくり歩いて帰った。グランパス、今年はどこまで行ってくれるのやら、今から凄く楽しみである。

月と地球の大きさのマイルを逸脱して



■月と地球の大きさはほぼ3:11であるとは何度も書いた。メートル法では月の半径は1738km、地球の半径は4378km(画像では384400kmとなっているが、これは月-地球館の距離で間違い)だが、ヤード・ポンド法で表示すると月の半径は1080マイルとなり、地球の半径は3960マイルとなる。ここで上図のように360マイルを基本の1単位として考えれば、月と地球の半径が3:11であることはすぐに見て取れる。

■さてここで360マイルを基本の1としてこの月と地球の大きさをた場合、直径の和は28となる。月と地球の半径の和は14だが、この月と地球の半径平均を求めると7となるわけだ。ここで「13の月の暦」に興味のある人は、1週間7日が4週間で28日の1ヶ月であり、それが13ヶ月の364日に1日を足して1年365日となっている構造を想起してみよう。

■この直径28ユニットの円の円周は(28π=)87.965となる。ところで水星の公転周期は87.969日であり、数値的にはほぼ等しいことがわかる(99.99%)。なお1マイルは1.609344kmだから、100φマイルは260.39kmとなり、ほぼツォルキンの260に近似する。また364マイルは565.8kmとなり、金星の会合周期584日に近似する。そしてこの金星の公転周期を念頭に225マイルを計算すると362.1kmとなり、地球の1年365日の数値に近似する。



■では次にこの基本の1単位である360マイルを1日と同系対応させてみよう。すると1日が360マイルなのだから、地球が1回転して1日となると考えれば、回転の1度(もしくは経度の1度分)が1マイルに相当することがすぐ分かるだろう。なおこの360度が360マイルの円の直径はほぼ114.59マイル、半径は57.296マイルであり、これまたホロニックに水星の会合周期115.9日および自転周期58.65日に近似している。

■なおここで想定してみた円周が360マイルの球体と実際の地球の大きさの比は、1:22π=1:69.115で、ほぼ1:69である。ところで古来より円周率πの代換値として22/7(=3.142857…)が用いられてきていたが、この22は基本の1が360マイルの時の地球の直径であり、7は月と地球の半径の平均値でもある。

■ところで円周が360マイルのユニット円の直径は(360/π=)114.5916マイルだから、184.35kmとなる。そしてこの円周が倍の数値は368.7kmである(円周が倍の720マイルの円の直径と考えても良い)。この368.7という数値は、天王星の会合周期369.7日と海王星の会合周期367.5日の平均である368.6日に近似している。

■これだけでは様々な異なる系の数値をごっちゃにしていると思われるかもしれない。もちろんそのような錯誤や非論理性の部分もある。しかし全てがそうではないだろうと感じながら、喫茶店で簡単なメモとして書き留めておいたものなので、とりあえずこここにメモして置くことにする。後日またしっかり見直さねばならない。

世界に対して自然に微笑むということ



■4月も半ば、とても過ごしやすい季節になってきた。晴れて陽光が窓の外に輝くので、昼前に食事がてら街に出てみた。街路樹の銀杏の木はいつのまにか燃え上がるような新緑をまとい、花みずきの並木はもう満開に近い。今日はいつもは前を通過するだけで、1回も入ったことのない道路沿いの喫茶店でランチを食べてみようと思っていたのだが、行ってみると今日に限って臨時休業だった。こういうことは確かにある。

■街中の店の並びの中で、お店が変わってもなぜかつぶれてしまう場所がある。風水やケガレ地とかいうことに関する知識はないけれど、オカルトでもなく確かにそのような場所はあるものだ。そして今日、本当に青天の霹靂的に行く気になったそのお店もまた、そのような所にあった。少なくともそのお店の3つ前の代までのお店は覚えている。しかたなくいつも行くコメダ珈琲店に行くとこちらはめずらしくも満席だった。

■しかたなく隣の本屋で時間をつぶそうと思ったけれど、そのまま近所にあるきしめん屋に行って先に昼食をとることにした。きしめんといえば名古屋の食べ物の1つである。新幹線の下りホームにある立ち食いきしめん屋のそれはそこそこ美味い。この店のきしめんも結構いける。きしめんそのものが元々幅広の麺なのだが、それにしてもここのは極端に幅広である。5cm以上あり、ワンタンと見まごうばかりなのだ。



■味噌カツ、煮込みうどん、あんかけスパ…。名古屋の食べ物は押し並べて味が濃い。まあ食文化批評みたいなことは性に合わないので止めるとして、いつもの感覚できしめん定食というものを頼んだのだけれど、3月下旬の体調不全以来、随分と小食になってしまっていて、食べきったらお腹が苦しいほどだった。エネルギー効率が良くなったのと、体の贅肉らしき部分が5kgほど削げ落ちたままなので、まあ調子は良いのだが。

■食べ終わって街に出る。いつもとは違う道を通って帰ろうとしたのだが、ちょっとした家の庭先や道端の植え込みなどに様々な花が咲き乱れていて、それらを眺めつつゆっくり歩いてみた。いつもはぱっとしないちょっとした公園の横を通った時、ラベンダーの香りを思わせるような甘い匂いがした。横を見ると藤棚に薄紫色の藤の花が覆いかぶさるかのように満開だった。大きな蜂がたくさん飛び交って蜜を吸っている。

■藤の花の匂いをこんなにしっかり嗅いだのは初めてだった。その後も帰り道には春の盛りを歌い踊るかのようにたくさんの花が咲き誇っている。いや歌い踊るとか咲き誇っていると感じるのはこちらの主観かもしれない。それにしても心地よい日の光の中で、なんと花たちがこちらに微笑みかけてくるように感じられることだろう…と考えた時、忘れていたことを思い出した。それは自分が世界に対して自然に微笑みかけるということだ。



■世界に対して自然に微笑みかける者は、世界から自然に微笑み返される。もしくは最初から微笑みかけられている。そんなことを昔考え感じて、少しずつ悲観的なイメージから楽観的なビジョンに、否定的な思考から肯定的な生命志向へと変えていった時に、自分が世界に対して自然に微笑んでいることに気がついた。もちろんそれに気づき、忘れ、気づき直して、またわすれしながら、少しずつ身についてきたものだった。

■それをまた忘れていたのである。もちろん自然に微笑みかけるのであれば、それを意識的にやろうやろうとしてできるものとは少し違う。だがやはり意識的に積み上げていくものでもある。「世界に対して自然に微笑みかける」とか言うと大仰なようだけれど、決して宗教的だったり高尚だったりするわけではなく、本当にただ心を沿えて、口の端をちょっとだけあげて世界を眺めるだけのことだ。誰にでもできる普通のことでもある。

■失念していたことを思い出せるだけ、体の調子も回復してきたのかもしれない。また忘れるかもしれない。でもまたいつか必ず思い出すだろう。今は思い出している。しかし実のところ、こちらが微笑みかけようとかけまいと、世界は変わらず微笑み続けてくれているのだという真実。眼差しをひかりとして世界を見るか、ひがみとして歪んだ鏡像を見るか。楽しみながら濁点をはずしていけたらいいなと思うこの麗らかな光の中。


■…ああ、まただらだらと書いてしまった。まあいっか。

この身体の在る空間をよく見よう



■美しく生きるとは、物理的に動かぬ時は身体と重力との関係をバランス良く、動く時は身体と加速度との関係を滑らかにすればよいと思うのだが、その私を含む周囲の空間との関係を滑らかにすることが重要だ。人体は例えば動きにおいて腰と背骨の螺旋回転と腕の螺旋回転と手の螺旋回転とがスムーズに連動すれば、とても強く大きな力を出せる。そしてまた空間との関係においては美しく見えるはずだ。

■身体感覚は口頭や文字で伝えることは難しい。しかし人間には見立ての力がある。見てそれを自分でも脳内でシュミレーションして体得する能力だ。美しい動きを見れば美しく体得し、アンバランスな動きを見ればそれを覚えてしまう。見る時も見せる時も、最善にして自然なものを示し示されたい。それはもちろん身体のみならず、それと共に動く意識や精神や生命そのものもまた含まれる。見れば分かる。

■ただそこに座っているだけで、心穏やかに安らぐような人がいる。ただ静かに微笑んでいるだけで、心の底から癒され元気付けられるような人がいる。そのような人はただ自然にそのようになったのではなく、様々な苦難や葛藤を通過してきたに違いない。生まれつき神々しい人もいるかも知れない。しかしそれは変な例えだが、イルカを見て共感することと、クジラを見て畏敬の念を持つことの違いのようだ。



■「そのようになりたい、そのようになるよう意識して生きよう」と思い、そしてそれを表明する時は、まだそのような麗しくも自然な状態からは程遠いことだろう。しかし本当の自由とは自由すら望まない状態だと言う表現とは異なる。まずそのような人に少しでも近づきたいと思うこと自体が、すでに第一歩を踏み出しているのだ。あなたはあなたが思っている以上に聖いと言われた時、どう反応するだろう。

■先ずは口を閉じ、無駄口を叩かず、静かに座り、呼吸を整え、世界を落ち着いて味わい、自らの意識を清め、生きている今を自然に生きること。こんなことすら言葉で書かずとも良いと言うことは容易い。しかし「言う者は知らず、知る者は言わず」と老子は敢えて口に出した。この二元対立を超えているからだ。言うも言わずも超え、なるもならずも超え、この私の空間と共に生きる。世界をよく見よう。

■このひとりよがりの空間と身体を、遥かどこま滑らかにつなげることができるのか。時間と空間が置換できる世界をさらに超えて、世界と意識が不二である領域をさらに超えて、健やかに見ること。あらゆるものを見ること。光を見るのではなく、見ることが光なのだ。意識的に見る時、意識は光なのだ。身体で見る時、身体は光なのだ。空間の中の身体を見よう。そして目に見えぬ空間を目を凝らしてよく見よう。

今日この時点で静かに思うこと



■ロンドン、パリ、そしてサンフランシスコでの聖火リレーを巡るチベットを弾圧する中国政府への抗議活動と混乱。IOCが聖火リレーの中止を検討しているが、現時点では今月の26日に長野市でも聖火リレーが行われる予定だ。「長野市とばっちり」という新聞記事があったが、とばっちりではなく、長野市は当事者なのである。長野県民有志や他見からの共鳴者らが抗議の横断幕を計画している。リレー中止の可能性もあるのだけれど。

■長野県警警備2課の発言。「住民や観光客の安全と共に、聖火の安全も考えねばならない。」警備関係の人たちは確かに大変な負担が掛かるだろうが、まずは住民や観光客の安全。次に聖火の安全という姿勢で、人間より聖火を大切にするような自己放棄的な権威的愚行をせずに、人間として粛々とその責務を行っていただきたい。抗議のスタイルも聖火リレーの完遂も、日本人の民度を示すまたとない機会として捉えることもできるのだ。

■長野市商工会の窪田芳夫事務局長の発言。「全国の人が混乱を恐れ、長野市から足が遠ざかるのが不安。長野五輪以来、せっかく国内外に長野市を売り込めるチャンスなのに。」人権より何より経済効果第一の発想で、風評被害を恐れているのだろうか。逆に日本人的な美しく芸術的でもあるような人権擁護やチベット支援の抗議行動を世界に示す大チャンスとは捉えられないのだろうか。私はできれば現地に行くつもりなのだけれど。



■五輪メダリストや一般市民ら総勢80人が200〜300mごとに走る。野球日本代表監督の星野仙一氏やタレントの萩本欽一氏や卓球の福原愛ちゃんもランナーリストに入っている。主催者側は有名人にもしものことがあったら困るというような心配をしているようだが、彼らリレーランナーも各自で参加不参加に対して自分なりにその意味を考え、覚悟を決めることができる立派な意志と思考力を持った人間であることを失念してはならない。

■日本在住のチベット人は市内で集会を計画しているが、聖火リレーの妨害はしないと表明している。警戒すべくは意識の混濁した者、やけくそな者、そして事故を持たない者だ。それにしても聖火にぴったりと伴走しながら、リレーを守るなら人間を殺してもかまわないとでも言わんばかりの、あの十数人の青いスポーツウエア姿の屈強な「中国聖火警備隊」は絶対日本には来てほしくない。あれは醜い。機械兵器よりいっそう醜悪だ。

■もう1つ。「五輪を政治的に利用してはいけない」というコメントが安易に散見できる(安易でないコメントがあることも事実である)が、五輪そのものが最初から政治に利用されているのが事実なのだ。それに参加するすべての選手もまた、ただ純粋にスポーツが好きなだけでは済まされず、今やこれらの問題に対して自分なりに自らの立ち居地について考え、決断すべき時代にきてしまっているのだ。それは私たちも同じである。



■私は長野には行くだろう。ただ傍観するためにか、何らかの対話や意思表示をするためかはまだ決めていないけれど。中止になったとしても行くだろう。当地の旧友たちと会うために。そしてこの身のメンテナンスのための湯治生活のためにも。個人的には後者の方が喜ばしいのだけれど、それはあくまで個人的名話だ。様々な当事者たちがいて、様々な未来を望みそして築こうとしている。願わくば滑らかに世界とつながりたいものだ。

ダジャレカルマ解消法











































…って、アドバンスド・エディションのニャンダコーセンが出てきちゃったら、
終わる話も終わらずに つづくっ!

今日はダラダラモーニングで語りを



■桜がもう散り始めている。この潔さが日本人に響くのだろうか。朝家を出て歩き始めると、時折吹く風が舞い散らす花吹雪の中、数人の中年男女が桜の巨木を見上げていた。ところで家を出たのは名古屋独特の週間ともいえる、朝のモーニング喫茶のためだ。名古屋に来てからはや8年。金星も13回太陽を公転し、地球とも5回会合して公転軌道面に5芒星を描い終える年月だ。

■その土地に住むということは、それ以前の土地の様々な影響が抜け去り、そしてその土地の持つエネルギーや人間世界の総体的空間になじんでいくということでもあろう。別に自己が否定されるわけではないが、自分の趣味や習慣も当然少しは変わりゆく。矛盾しているけれど、個人的な趣味を他者に語る時は個人的趣味や偏向に捉われない視座から語っているつもりなので、極力不快な思いはしないで欲しい。

■名古屋にはサッカーJ1の名古屋グランパスというチームがある。プロリーグのJ1立ち上げ時からあるチームで唯一優勝していないチームだ。最初はグランパスエイトという名前だったが、今はその名古屋によくある8という数字でもあるエイトが取れて名古屋グランパスとなっている。毎年いいところまで行くけれど、最終的には中位どまりの根性なしチームだった。去年も開幕4連勝が結局下位に落ち着いた。



■しかし今年は違う。何が違うと言ってピクシーことドラガン・ストイコビッチが監督になったのである。監督によってチームはがらりと変わる。かつてアーセン・ベンゲルがグランパスの監督をしたことがあった。現在はイングランドプレミアリーグで常に上位のアーセナルというチームの監督をしている。トヨタの人脈と金脈のサポートのおかげだろうが、今思ってもよくぞ名古屋に来たものだと思う。

■ストイコビッチはそのベンゲルが監督の時のエースで、チームはリーグ2位までいったと記憶している。今度はそのストイコビッチが監督だ。残念ながら「元」という枕語をつけなければならない、日本代表監督だったあのイビチャ・オシムの愛弟子でもある。チームは現在、開幕から4勝1分けで全勝の鹿島アントラーズに次いで2位と好位置に着けている。今年は今までとは違うぞと期待を持つ私である。

■スポーツ紙は地元チームの情報を最優先して取り上げるものだが、今朝のモーニング喫茶で中日スポーツ(いわゆる中スポ)を見たら、そのピクシーが同じ名古屋のチームだからと、プロ野球の中日ドラゴンズの応援にドームに来たというニュースが載っていた。ユニフォームを着て貴賓席からドラゴンズの応援をするドラ「ゴン」・ストイコビッチという内容だ。このダジャレセンスも許せる嬉しさである。



■中日ドラゴンズは近年、常に優勝にからむ強豪チームである。落合監督になってから、これまたいつも中位どころではっきりしなかったチームが変貌した。去年はリーグ2位ながらクライマックスシリーズで勝ち抜け、そのまま日本シリーズも53年ぶりに優勝してしまった。実に私が生まれた年以来初めての優勝だったわけだ。強烈な監督はチームの隅々までその力とエネルギーを浸透させ活性化させる。

■改めて言っておくと、私は別に真のドラゴンズファンでもグランパスファンでもない。他チームも好きなチームはあるし(例えばアントラーズとか楽天とか)、人生の全てを掛けて応援するという乗りには一生なれないだろう。しかしだからこそ逆に、自らのホロンなキャラクターにちょっとだけ真剣にチームのファンになって応援してみることもできる。正直なところ嫁さんの影響が大きいのではあるが。

■繰り返すが不快を感じる方にはぜひお許し願いたい。さてその中日ドラゴンズだが、選手の1人1人がとても賢くスキがないように見える。チームというものは監督の影響力でもある同じ振動数を有する有機生命体のようなものでもあろう。名古屋グランパスにもそのように優勝を狙い続けるチームにぜひなって欲しいものだ。桜の葉が紅葉し落葉しゆくこの秋には果たしてどうなっていることやら。期待大である。



■名古屋に住むからには、それなりに今とても元気の良いこの地のエネルギーを味わい、日本に住むからには、その繊細にして新しい物事を創出しゆくDNAの中の潮流を感じ、地球に住むからにはその奇跡的な生命の在りようをこの身と他者と共有する生命圏に体現しつつ、太陽系のことに思い馳せ、また原子や分子の中にも数と形を見詰めつつ、日々刻々のおのれの生命を内から展開し展開して生きていこう。

■後拾遺集/自らと交差する聖なる自乗空間



■熱と咳とで立ち往生した、決して朝は来ないのではないかと思えるほど長い病の夜。あの不安と苦痛と意識の混濁のなかで、それでも必ず元気になるし、一呼吸一呼吸の苦しみと楽しみをじっくり味わってみることができると確信させたものは何か?自分自身であることは間違いないのだ。そこには普通の意味での他者が入り込む余地はない。身内でも私自身の神聖な界面領域には決して立ち入ることはできない。「自乗」空間。

■ヒーラーが他者に断わりなくその体を調整しようとするのはある種のテロリズムである。議論の余地なく目の前で死に掛けている場合や、相手の意識が朦朧としていて確認できないなどというやむを得ない場合もあるから一概に言えないが、私個人としては断わりもなく想念やそれに付随するエネルギー様の何かを送られることは断固拒絶したい。しかしそれに対しては無防備であるという現実。良かれと思って成すテロ行為を自覚せよ。

■上次元の立体が3次元では様々な形として捉えられるように、今まで、そしてこれからも私が会ってきて大きな影響を与えてくれた存在(特に女性かな?)はみなメタな慈愛存在の下位の姿・ありようとして「私との関係において私が認識」できるものと考えている。他者にとってのそれは冷酷な厳父と捉えられたり、また人を誑かす邪悪な悪魔か妖怪のように感じられるのではなかろうか。未然形の私に対する正当な自己愛。

calendar
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930   
<< April 2008 >>
sponsored links
selected entries
categories
archives
recent comment
recommend
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM