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  • 2024.01.09 Tuesday
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太陽を睨んでも目は潰れない



■「太陽を直視すると目が潰れる」などと言われているので、普通はさしたる疑問も感じないまま取りあえず直視しないように生活している人がほとんどだろう。失明するかも知れないリスクを冒してまで自らその真偽を確かめる必要もないし、人生においてもっとリスクを賭けてトライすべきことはたくさんある。実際太陽が視野の中に入ってくるとかなり眩しいし、目を逸らすと太陽の残像部分がしばし見えなくなる。

■だが私は敢えて言おう、「太陽を直視しても目は潰れないる」と。もちろん無防備に太陽を睨めつけると、目を逸らした後も一時的に視覚的な障害が生じることは多々ある。私は中学2年の時、真夏の光に満ちたグラウンドで自分が目を無意識に細めてしまうのが悔しくて、敢えて無理やり目を見開いていたことがある。校舎に入ってから5分以上真っ暗で何も見えず、このまま失明するのかとおののいたのだけれど。

■しかし太陽を見つめ続けても目が潰れないということを知ったのは今から20年ほど前のことだ。東京の吉祥寺に住んでいた頃の話だ。友人が井の頭公園の池の端にあるベンチに座って、毎日太陽を眺めていた時期があった。彼は言った。「まろちゃん、太陽は直視できるとよ。わし、いつもお話しとるもんね。」彼はいわゆる変性意識状態だったのだが、確かに目の前で太陽を見詰めて謎めいたひとり対話をしていた。



■意識が正常から外れている状態の者は、時として想像できない思考や行動をすることは知っていた。しかし晴れた空の天中近く昇っている太陽の中に、くるくる回って光る文字が見えると言うのを聞いて、できれば自分もちょっとだけでも見えたらいいなと思った。確かめもしないまま信じ込んでいた常識への、へっぴり腰ながらの挑戦だった。最初は薄目から、次は目を細めて、狭い視野の端にちらっと入れる。

■やがて少しずつ正面に移動させる。虹彩が最小限に絞られていたのだろう。間接視野の世界が暗い。やがて白より明るい光の中に丸い輪郭が見えてくる。一遍に視点を固定しないよう無意識でずらしているからのだろうか、円の中に明るい部分がくるくる回っている。眉間に皺を寄せなくても目は太陽を見ることができる。目を逸らすとそこが景色の中で盲点になるけれど、やがて元に戻ることを知って安心する。

■顎を上げすぎて鼻の穴の中に光が入ると、くしゃみが出るのが面白い。くしゃみのたびに邪気が抜けていくような感覚。やがてそれも止まる。友人は何か交信しているような感じだが、私はただ心なしか気持ちがいい。昇る朝日に手を合わせたり、沈む夕日に見入ったりとは勝手が違うので、他者に勧めるつもりは毛頭ない。子供や老人や病人やお視力の弱い人には特に責任は取れない。ぜひ自己責任でお願いしたい。



■何度も試したので、「太陽を直視すると目が潰れる」ということが常識ではないことを知っている。今でもそれなりにすぐできるけれど、エゴを強調するパフォーマンスや、他者の単なる好奇心を満たさせるためにそれをやるつもりはない。20年以上前にそれを教えてくれた友人からは、もっと別のことをたくさん教わった。常識を疑い、自らそれを確かめることの豊かさをも。彼は今も元気はつらつである。

■太陽を睨んでも目は潰れない。睨む前からその目を潰さずに生きたいものだ。太陽はものを見る光を生み出してくれるけれど、その光を見る目からもものを見る光を自ら発するということの意味。

ケプラーを跨いで踏み出したい足の裏



■■■■■■■ 「ここでは時間が空間になる」…ワグナーの歌劇『パルジファル』におけるグルネマンツのセリフ

■私は数学者、自然哲学者にして占星術師でもあるヨハネス・ケプラーが大好きである。その発想の真の源や思考の形態は分からないけれど、「数」を宇宙の秩序の中心として、それらを「形」にして残しとくれている。5つのプラトン立体を6つの惑星の間に内接・外接する殻球とした多面体太陽系モデルや、天体物理学の先駆といえるであろう惑星運行に関するケプラーの3つの法則などには心酔してしまう。

■「惑星軌道は楕円である」とする第1法則、「面積速度保存の法則」である第2法則の次に、10年をおいて発表されたケプラーの第3法則というものがある。「惑星軌道において公転周期の2乗と平均軌道半径の3乗に比例する」というものだ。これにより初めて、惑星間の相互関係を考えることができるようにになった。太陽からの距離が分かると公転周期が求められ、公転周期が分かると太陽からの距離が得られるのだ。

■さてではただ騒いでいるだけでなく、この第3法則をとりあえず1度ちゃんと確認してみよう。公転周期はその単位を地球の<日>、平均軌道半径をメートル法の<×10^6km>として、<公転周期の2乗/平均軌道半径の3乗>を求めてみると下記のようになる。つまりその値はみなほぼ0.0398…という数値になって一致するということが分かる。



 公転周期(日)平均軌道半径(10^6km)A^2/B^3(=0.0398…)
水星    87.9690   57.91    0.039847
金星    224.701   108.21    0.039848
地球    365.256   149.6    0.039847
火星    686.980   227.92    0.039860
木星    4332.60   778.57    0.039774
土星    10759.2   1443.5    0.038487
天王星   30685    2872.460  0.039727
海王星   60190    4495.1    0.039887
冥王星   90465    5869.7    0.040468

■この数値になったのは公転周期と平均軌道半径の単位設定のせいであり、別の設定であれば別の数値で等しくなるだろう。公転周期を日ではなく地球の1年とし、平均軌道半径も地球と太陽の間の平均距離として設定されている1天文単位にすると、この「公転周期の2乗/平均軌道半径の3乗」はほぼ1になる。ほかの惑星たちの値も以下のとおりになり、誤差は最大でも0.5%ほどしかないことがわかる。

公転周期(年)平均軌道半径(AU) A^2/B^3≒1(カッコ内は逆数)
水星    0.240847    0.387098    1.000045 (0.999955)
金星    0.615197    0.723330    1.000044 (0.999956)
地球    1.000017    1.000001    1.000031 (0.999969)
火星    1.880848    1.523679    1.000062 (0.999938)
木星    11.861983   5.202603    0.999200 (1.000800)
土星    29.457159   9.554910    0.994722 (1.005306)
天王星   84.030473   19.218446    0.994761 (1.005266)
海王星   164.770132   30.110387    0.994507 (1.005523)
冥王星   247.790362   39.540245    0.993232 (1.006814)



■惑星の公転周期の2乗と楕円軌道の長軸の3乗との比が等しいとは、一体どのような意味を持つのだろう。周期の単位の2乗と長さの単位の3乗との比が等しいということの奥には一体何があるのだろう。公転周期は何かの平方根であり、軌道長半径はその同じ何かの立方根として現れているということでもある。時間的要素である周期の平方と、空間的要素である軌道半径の立方の比率が等しいとはどういうことなのだろう。

■軌道半径の3乗はとりあえず空間的に立方としてイメージできるが、公転周期の2乗を同様にシンプルな平方として幾何学的にイメージするのは少し違うだろう。時間を面積として捉えることと空間を体積として捉えることの間に、モデル化の混乱が生じないだろうか。天体の運行を考える時、2乗3乗および2乗根3乗根も思考の視野に入れておく必要があるのだろうか。

■1より小さい0以外の少数の累乗はより少なくなるし、逆に累乗根は大きくなる。1より大きい数の累乗がより大きくなり、累乗根が小さくなることと対称性を持つことも視座に入れて考える必要もあるだろう。また0と1という数が特別な数であるということも改めて見て取れる。ケプラーを跨いで踏み出そうとして持ち上げた足の裏は、まだ当分その下ろし場所を見出せず、どこにも着地できないままである。

私は冥王星が今でも好きなのです



■私は冥王星が好きだった。そしてそれは今でも変わらない。2006年に「冥王星は準惑星という扱いとなり、惑星という位置から降格した」というニュースを聞いた時、私は少なからず不快感を感じたものだ。人間が発見する前からそれはずっとあったものであり、惑星という言葉の定義がしっかりしていなかったがために起きた出来事に過ぎない。昇格も降格もそもそも冥王星の在りようには関係ないはずなのだ。

■しかし人間が認識し関与するものたちはみな、その扱い方によってその在りかたが変化する。人間が関与しようがするまいが、知るということの知り方そのものに、その人間にとっての認識のされ方は規定される。それに関係なく変化しようのないそもそもの在りようというものは、私たち人間によって知りうべくもない。だからこそそれが勝手にひっくり返された時、衝撃ともいえる違和感を感じてしまったのだ。

■冥王星に対する私たち人間の共通する扱いが、科学的定義によって始められ、科学的再定義によって変えられてしまうということ。もちろん肉眼では見ることもできず、処理される前の画像すらほとんど見たこともないけれど、それは視覚的な在りよう以前にその存在に対する諸イメージの総体が、混乱を防ぐという理由によって混乱させられてしまわないようにと、降格という表現で意識野から外した人もいるだろう。



■科学的な変更の言い訳はこうだ。地位が下がったということではなく、太陽系外縁天体にして準惑星である天体を「冥王星型天体」と呼ぶのであり、むしろそれらの代表としての地位を築いたのである云々。2002年に直径約1200kmのクアオワーが、2004年には直径約1700kmのセドナが発見されだが、2003年に発見されていたエリスの直径が2390kmの冥王星より大きい2400kmであると分かって混乱が現実化してしまった。

■それにしても大きさだけでいえば、木星の衛星である半径2634kmのガニメデや土星の衛星である半径2575kmのタイタンに比べても、それより1つ上の惑星レベルである水星の半径は2440kmしかないのである。そして準惑星の冥王星はこれよりもさらに少し小さい。さらに少し小ぶりだが木星の衛星イオ(1821km)や地球の衛星である月(1738km)もひっくるめて、ほぼ同じくらいのスケールなのである。人間の定義の不確かさ。

■天王星、海王星という名前は中国人の訳語が日本にも定着したらしいが、冥王星という名前は日本人が付けたものだという。英語で言うウラヌス、ネプチューン、プルートーの訳だが、原子番号92のウラニウム、93のネプツニウム、94のプルトニウムも当然呼応してきている。しかし友人ハンダコーセンの最初の交信情報で、タイタンと冥王星が絡んでいたのも、私が冥王星が好きな理由の1つなのかも知れない。



■1979年に海王星軌道の内側に入り、1989年に太陽に最接近し、1999年に再び海王星軌道の外側に出て行った冥王星。ちょうどマヤの20進法とも絡み合って(10年+10年=)20年間私の心をざわめかせてくれた冥王星。諸事情から別れてしまったけれど、離れてからも憎しみあったり執着しすぎたりせずに、心地よき思い出として心の中に残っている異性へのイメージにも似た、冥王星に対する気持ちがあるのだ。

■…ああいけない。こんな表現をしたら、今度は冥王星にもちょっと艶っぽいイメージが付着してしまったような気がする。人間の定義づけに限らず、その単なるイメージ化すらもかくも現実とそれに対する自らの在りようを変えてしまうのである。それだけの力があるのであれば、狭いけれど広大無辺なこの世界の中で、自らの意識の持って行き方や健やかなイメージを創造的に作り、共有していきたいものである。

太陽系の惑星の数を数え.る



■太陽系の惑星の数。有史以前から数千年間、地球から見た惑星は水星・金星・火星・木星・土星の5つだった。これに太陽と月を入れて7天体を7曜日に対応させて考えていた。ところが18世紀(1781年)にウィリアム・ハーシェルが天王星を発見した。続いて19世紀(1846年)にはガレが海王星を発見し、さらに1930年にはトンボーが冥王星を発見したので、20世紀には惑星は9個であった。

■2006年に国際天文学連合によって惑星の定義が見直された。「第10惑星出現?」とか「惑星が12個に増える」などというニュースが世界を駆け巡った後、最終的に「惑星は8個である」ということに納まった。一部の衛星より小さかった冥王星より大きい小惑星エリスが発見され、冥王星が準惑星へと降格したのだ。「水金地火木土天海冥」という記憶法は過去の呪文になってしまった。

■私たちは普通10で一桁上がる数の数え方をしている。この自明の理でもある共通認識の10進法で数を認識する時、そこにはすでに5でひとまとまりとする捉え方や、相似なものや反対のものなどを2つで1セットとして対で見て取ることなどが内包されている。自らの手を見直すと、そこには左手と右手が対であり、両手の5種類の指の様々な組み合わせで高度の対称性を作りうる、合わせて10本の指がある。



■1と2という数は普通の数とは別枠で捉えるべきだという考え方がある。多角形は3角形からであり、1角形や2角形というものはない。この世界でテーブルやイスが安定して立つためには、最低でも3本の足が必要になる。1と2を数えと満の歳の数え方のように0と1に対比させて考えることもできる。10進法は2〜9までの8つの数と、0及び1(合わせれば10)という特別な数から成ると見るのだ。

■例えば数列における初項と第2項は普通の数とは別だとする見方も有り得る。フィボナッチ数列は初項1、第2項1で、以下前2項の和であり2,3,5,8,13…と続くが、この最初の2つの1は別枠と捉えると、第12項がちょうど12の2乗の144となるが、これを10番目で10進法の一桁上がることに相当するとも考えられる。フィボナッチ数列的な文法の数列は、別に初項と第2項が1でなくても良い。

■フュンク・ウレの数列というものがある。これは初項を2、第2項を10とするもので、2,10,12,22,34,56,90,146,236,382,618,1000,1618,2618…と続くのだが、実はこれは黄金比の千倍の整数列になっている。初項と第2項を別枠として数えると、10番目がちょうどφ^0、11番目がφ^1、12番目がφ^12…(以下同様)となり、9番目から逆方向にはφ^-1、φ^-2、φ^-3…と対応している。



■手と足の10本指という別のペアを見出して、マヤ人のように20でひとまとまりとしての自分自身を捉えるかも知れない。太陽系も水星・金星・地球・火星の次には惑星ではなくアステロイドベルトがある。さらに木星・土星・天王星・海王星の外には惑星がなくてエッジワース・カイパーベルトがある。みかたによっては1,2,3,4と来て5でひと括りのホロン構造とも見るともできるだろう。

■5という数字がそれまでの1から4を内包しつつ、ひとつ上のレベルの新たなる1ともなるというホロニックな世界観がある。8で元の振動数の倍音になるオクターブに比して、これをペンターブ・システムという。オクターブの2倍の内部構造は、音楽的には12音階となっているあるが、ペンターブはそれ自体「外に5、かつ内に5」という、太陽系の惑星にも似た10進法的構造と捉えることも可能である。

■4+1の形で10を捉えた場合、10−2=8、10+2=12でもある。また60進法を10と12の半分である5と6で捉える場合でも、10×12=60であり、かつ12×5=60でもある。12−60進法をシュメール・バビロニア起源の独立した数理として安易に語られることも少なくないが、実は2進法・5進法・6進法・10進法・20進法などと、裏に面に分かちがたくからみあっているのである。



■私たちは8つの惑星と見るか10の軌道と取るか、はたまた12の天体と考えるか、外惑星と内惑星に2分するかなどと、同じものを異なる数で捉えるという考え方をすると同時に、矛盾することなく異なるものを同じ数で捉えるともできるのである。つまり数え始めるためにはまずその数える自分自身というものと、数の数え方自体をも意識する必要があるということだ。天空に数を数えるために足下を見る。

■数を数えるということそのものを「私と世界」の問題や、「私とあなた」の問題にまで敷衍・展開することができる。いやおそらく、やがてしなくてはならなくなるのではなかろうか。2人と捉えるその間にいまだ計り知れない未知が存在していることを認めつつ、それでもそこに対称性やペンターブやオクターブの協和や不調和を見、4,5,6とその倍の8,10,12、さらには2や20などの構造も見ること。

■「私が5芒星の時、あなたは6芒星として輝き、10進法12進法を表裏として眺めながら自らを黄金比φとして捉え、あなたを円周率πとして生きる…。」こんな表現が愚にもつかない単なるナンセンスとして笑われもせずに無視されるのか、それとももっと洗練された世界の数え方…世界の捉え方…に取って替わるのか、はたまた何も変わらずにただ消え行くのだろうか。…ということで、さあ惑星の数を数えよう。

銀河に通じる私たちの地上歩行



■久しぶりに歩きながら考えた。歩くということを考えた。座して考えるのとはその内容と展開が少し違う。私は歩くのが早い。昔は考え事をしていて、ふと気がつくと嫁さんが数十メートル後ろにいたりもした。嫁さんは歩くのが遅い。人間の平均歩行速度は時速4kmちょっとと言われる。現在では幸いにも互いに文字通り「歩調を合わせる」ということを学習した。街中は夏の厳しさを予感させるような陽光の中できらめいている。

■1519年9月20日、はポルトガルの探検家フェルナン・デ・マガリャンイス(1)は、5隻のカラヴェル船に265名の乗組員を引き連れてサンルーカル・デ・バラメダ港を出港して西に向かった。1522年9月6日、1522年2月に彼らの生き残り18名が地球一周の果てに帰港した時、自分達の暦が1日ずれていることに気づいた。太平洋上に想定されている日付変更線というものは現実には存在しない。彼らはいったいいつ暦からずれたのだろう。

■地球は1年365日かけて太陽を1公転するが、地表から見れば銀河の星たちはその間に366回地球を巡る。これは逆に銀河恒星面から見れば地球は太陽を1公転する間に366回自転しているということだ。地球の対恒星自転周期→23時間56分04.0905秒平均太陽時。つまり地球は太陽との関係である1日24時間ごとに3分55秒ずつ銀河恒星面に対してオーバーロードしている。これが1年の間に累積してほぼ1回分の自転になっているのである。



■地球の平均太陽日→1.00273791平均恒星日、平均恒星日→0.99726957平均太陽日。この2者は逆数の関係になっている。わずか365:366の比の差だが、この差も積もり積もれば無視できなくなる。1年365日かけて西周りで地球を1周すれば364回日は昇り沈む。つまり1日分減るのである。逆に1年かけて東進すれば、この間に366回日の出と日の入りを経験する。これは太陽と地球の関係の、銀河恒星面と地球の関係への翻訳とも解せる。

■地球周長ほぼ40000kmを366で割ると109.5km(2)となる。つまり1日109.5kmペースで太陽を追うように赤道上を東進し続ければ、1年で元の位置に戻るということだ。これを時速に直せば約4.5km(※3)である。これは人間の徒歩のペースにほぼ等しい。乱暴な言い方だが、大地に根を張り大地と共に太陽と巡り合う植物に対して、この速度で移動できる人間は、太陽及び銀河恒星面との関係を新たに構築しうるのではなかろうか。

■地球の自転速度(赤道表面)は0.465km/sである。この値は当然ながら上記の時速約4.5km/hのほぼ365倍である。つまり逆に言えば地球(赤道表面)は私たちの徒歩速度の365倍のスピードで自転しているのである。徒歩が自然な空間移動速度であるとすれば、移動速度に関しては地球の1日が私たちの1年ということでもある。占星術で言う1年1日法は天国の1日は現世の1年という表現以上に人間と地球そのものの関係でもあるのだ。



■「太陽暦」そのものの基本が1日、つまり太陽と地球との関係を基本にしていること自体を失念してはならないが、月と地球との関係を基本にしている「太陰暦」と「太陽暦」にずれがあるように、「銀河恒星面と地球との関係」との間にもずれはある。これらの間を真にスムーズにつなげるためには、観念的に時間単位を原子の振動数や波長の整数倍にするだけではなく、ほかならぬ自らの身体と生命感覚をも用いる必要があるだろう。

■久しぶりに歩きながら考えた。巷ではゴールデンウィーク。行き交う人々の笑顔が眩しい。人はこの世にまろび出て這いまわり、立ち上がり歩き出す。地母神より離れ天空を目指す。美しく歩く人、捩れつつ歩く人。立ち尽くす人、座り込む人。みな過去の人間の集合意識でもある重力によって大地とつながり、意識を真の天空に向けるべく、未来の集合意識に導かれて歩き出す。何処へ?地上を無限に巡るのではなく、真の天空方向へ。

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1)日本でいうところのマゼラン。発音はマジェランの方が近い。
2)この109.5という数字は正4面体の中心角と同じ数値であることに注意。正4面体の2面角70.5度と合わせて平角180度となる。なお円周を360度ではなく366分割するメガリス幾何学とも大いに関係がある。

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