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『ベルセルク』を読んだ



■このところ、たまにネットカフェや漫画喫茶でささやかな娯楽を啄ばむことがある。喫茶店や図書館に持ち出していたノートPCが壊れ、毎日デスクトップに向かっていると、空冷式ファンの継続する機械音にやられて意識が歪み切るような気がするからだ。いやそれは半ばはこの日々の暑さと進まぬ手順に辟易して、何か意識のブレイクスルーのようなものを必要としている現状の言い訳なのかも知れない。

■そこで何日かの間『ベルセルク』というマンガに夢中になっていた。作者の三浦建太郎氏が1989年からずっと継続して描いている作品だ。ヤングアニマルという雑誌があることは知っていたし、ずーっと続いていることも知っていたので、いつか完結したら一気読みしようと前世紀から思っていた。しかし先日ふらっと名古屋駅前のネットカフェに入って、もう完結しているものだと思って読み始めてしまった。

■重厚な画質でびっしり細部までかきこまれている、中世ヨーロッパ的なダークファンタジーの世界の話だ。複線やストーリー展開に無駄と無理がなく、深く妥協なきシリアスな世界観ゆえに、読み進むのには結構時間がかかる。それでもストーリー的にはノンストップ的で区切りはそう多くないので、次から次へと読みたくなる。何日もかかるのだ。そしてようやくまだ未完であることに気がつく。なにーっ?



■今まで単行本では32巻まで出ているが、ネット検索してみるとまだ未完であること、当分終わりそうにないこと、そして作者が死ぬまでに話が終わるかどうかすら危ぶまれていることを知った。20巻を過ぎた頃から、もうすぐストーリーの波頭近くまで来てしまうという気持ちから、なおさらじっくり読み進めた。しかし何事も時の流れというハイパー兎の前では、追い越される運命の亀足であることを知る。

■作者はこのマンガをほぼ連日4時間弱の睡眠で描き続けているとのことだ。『ベルセルク』という作品、全くもって半端ではない。現代日本のマンガの中で最高峰の1つであるだろう。ネット上の情報で、彼の真剣な生き様のほんの一部を知った。そしてその昔、大島弓子の『綿の国星』にハマったということなどを知り、三浦建太郎氏を大好きになった。作品のみならず、作者の姿勢にすらも元気付けられた。

■『ベルセルク』もぜひ全巻揃えたいものだ。本当に気にいった音楽などもそうだが、私にとっては『バガボンド』とか『風の谷のナウシカ』のように、現在出でいる本当に気に入った単行本は、全巻揃えたいと思っている。やはりすごく好きなアーティストの作品は、それに見合った市販料金を払って手元に置くのが、私の個人的な受益者としての心意気というか、非常に数少ないポリシーです。

■これからまた私の意識の中でのみ埋もれている名作たちを発掘することができると考えるだけで結構幸せだ。日本人でよかったなあと思うことの1つが、やはりマンガがとても身近にあるということである。『ベルセルク』は、作者が元気でずっと続いていてほしいけれど、それでもやはり完結してほしい作品だ。 アニメ版は別物だと思っているが、名作らしいのでそちらもぜひ見てみたいものである。

ひつまぶしの素敵なお値段



■連日暑い日が続く。天気予報などを見ていても、名古屋は広島・大阪・京都・名古屋・岐阜などという地名の上に乗せられる予想最高気温と同様に、他所より2〜3度高い。東海や関東より高い。無論北陸や東北よりも。そこで夏の土用の真っ盛りである昨夕、土用の日は四季ごとに18日ずつあるなどという話は放り投げておき、熱田神宮の近くにある有名な「あつた蓬莱軒本店」に行って「ひつまぶし」を食した。

■案内係に誘導されて駐車場に車を停めると、TV局の中継車が来ていた。夕餉時のうなぎラッシュアワーを外してちょっと早めに来たのだけれど、いつにもまして慌しい店内。しかし店のつくりそのものはいつものようにべり・ジャパニーズスタイルでしっくり落ち着いていて好ましい。しばらくして通された部屋は、沢山あるうちの初めてのゾーンだった。しかし「ひつまぶし」は美味い。ここのは特に素晴らしい。

■さていざ退席の段になり、請求書を見るとひつまぶし一点2730円となっている。いつもと違う値段だとすぐ分かる。これが2780円とか2840円とかなら気づかずにいたのだけれど、2730日という数は月の100自転・公転周期なので、私の無意識層の数ギークゾーンが見逃すわけには行かなかったのだ。ちなみに13×14×15もまた2730だけれど、そんな話はここでは捨て置こう。ひつまぶしはいくら値上がりしたのだろう?



■2730円の消費税抜きの値段は2600円だ。これもマヤ的数値がらみですぐわかってしまう。現在の税抜きの値段が2600円だとすると、2500円だったら税込みで2625円。こんな半端ではなかったはずだ。2400円だったら税込みで2520円。…あ、これだったかも。これも数ギークにはおなじみの数である。2520という数は48個の約数を持ち、1から10までの全ての整数で割り切れる最小の数である。ちなみに7トゥンだ。

■先日暦師がわざわざ当家までやってきて、暦を図形で表わしてつなげていくことについて話を煮付めていった。ほぼシンプルに円を描くことのつながりで、空間的には水星から始めて冥王星までなんとかつながった。あとは時間的なものだが、こちらはもう1セッションしてみなければ終わらないだろう。2520も2730もみな暦的数値なのだが、時間的要素である諸周期と空間的要素である惑星軌道の関係は深い。

■暦師が帰った後、現在整理修復中である自分のHPを見て気がついた。実はこの円でつなげていって世界を理解しようという方法を、私はずっと以前から「サークルゲノム」と呼んでいたということに。自分で書いておいて忘れていることのなんと多いことか。ネット検索していて、おおこれは面白いことを言っていると思ってよく見ると、自分のHPだったりすることがある。これってかなりの間抜けである。



■で、整理したHPを印刷記録する作業をしている。そのインクが切れていたことを思い出し、帰りしなに電気器具の量販店に入った。インク売り場のすぐそばにあるPCをふと見ると、先ほど食ってきたあつた蓬莱軒本店を中継していた。最近ではPCでTVも見られるのか。必死にメモを暗記していた女性リポーターも出ている。ああそうだ、今晩はサッカーの5輪チームのオーストラリア戦がある。急いで帰らねば。

■暑さのせいなのか、歳のせいなのか、はたまた多重時間があふれている地球のせいなのか、とにかく想起することが多い分、失念することもまた多い。私だけなのか、みんなもそうなのか。何はともあれ、確実なことは「あつた蓬莱軒本店」の「ひつまぶし」はうまいということだ。などと思っていると、そのPC画面の中継で、あつた蓬莱軒のひつまぶしが210円値上げしていたと言っていた。20:21、重要だよ。

日向の意識、日陰の意識



■連日名古屋でも猛暑の日が続く。もっともまだ殺人的な酷暑とは言いがたく、昼夜の気温較差が大きいので、夜などは風があればかなり涼しく感じる。これが真夏の盛りともなれば夜も気温が下がらず、翌日の日の出頃からすでに30度を越えるような日が続くのだろう。何はともあれ、この暑さを味わってみようと外に出た。ぬまっとした昼下がりの空気と日差しも、慣れればそれとなく心地よい。

■長髪がうなじにまとわりつくのは不快なのでぴっちり結え、面白がって伸ばしつつある無精ひげがそろいかけていたりするので、あまり普段見たことのない姿が街角のガラスに映っている。見てくれなんぞは気にかけまいと過ごしてきたこの数日だが、朝の鏡の中でそのだらしなさに打ちひしがれて、他者に不快感を与えないくらいの気遣いはしようと決めたばかりなのに。…一体誰なのだこいつ?

■まあ自我の自己評価は反転すれば至高への道筋なので、それとなく味わっておきつつ自らの感覚に意識を戻そう。日陰側と日向側に分かれている道の両側が、実際にそこを歩いてみることで、別の次元とも言いたくなる別世界だった。意識しているということそのものに対する自覚が、日向では揮発性の液体のように抜けていくことが分かる。意識の完全蒸発の直前をちょっと楽しんでみたりする。



■日向の過酷さを味わえばこそ、日陰の吹きぬける風の心地よさが感じられる。当たり前のことだけれど、改めて皮膚で感じてみて、その新鮮な感覚にちょっと感動する。決して喉元過ぎれば熱さを忘れるではないが、感覚的な快不快は普通すぐに忘れるものらしい。その時その場をしっかり味わうということ。日向を歩き過ぎて、意識はしっかりしているのに耳が高山に登った時のように変な感じだ。

■いつものコメダ珈琲店に入る。冷房が入っているのでとても涼しい。意識モードが変わった気がした。なにやら今までは自分がしっかりしているつもりで、やはり夢遊病者のように意識がぼやけていたようだ。なにやら日々の間延びしたここのところの数日の意識そのものが、このように自覚のないまま朦朧としていたのではないかと思い至った。さらにそれを加乗すると普段の意識そのものすらが…。

■いや実際その通りで、今自分が正常であるという自覚ほど不確かなものはない。何を忘れているのか覚えていないが、それでも何か忘れているということの自覚がある時、それは夢を見たけれどその内容を忘れてしまって、そのイメージだけが脳ではなくむしろ体の中に残っているような、そんな心もとなさだけれど、それでも自分が壮大な記憶喪失の中にいるという視座そのものはそう悪くない。



■涼しい喫茶店の中でノートPCを開くと、さまざまなことが思い出された。そして暑い日向でうなされた夢の記憶のように頭の中に沸き上がり蠢いて、そして去って行ったものもまた、その状態でしか想起できない体験なのだろう。寝ている時にしか思い出せないこともある。通常時の意識バンドはとても狭い。初見の世界の驚異と共に、想起された草々に対しても初めての2度目という感動がそこにある。

■いかん、いかん。このように埒なきことをだらだらと語ること自体、猛暑で意識が飛びかけている証左であろう。さっさと家に戻って、本来成すべきことをしっかり成そう。それにしてもこのむせるような夏の日、近所の野良猫たちはどこに隠れているのだろう。おっと、また心があらぬ方向に…。でも朦朧とした意識で見る世界もまた捨てがたい気がしてきたぞ。どちらもいいのだ。本当か?

   (written on 20080714)

爆走する真空行動



■突然猫が騒ぎ出す。シッポをキツネのように膨らませて一方がもう一匹を追いかけまくる。イジメか?と思ってやめさせようとすると、攻守切り替わって廊下を駆け抜け、カーペット上を爆走し、ジャンプしてTVを蹴って本棚の上に。そこから一気に飛び降りたかと思うとダダダダダッと隣の部屋にダッシュする。ドアも頭突きで、ほぼ体当たり。一匹が大人しくなってももう一方はひとりで騒いでいる。

■コーナリングは爪を立てても床は滑るので、肉球を上手く使ってバイクレースのように傾きながら曲がり去る。PC稼動中の机も全く関係ない。そこを駆け抜けて窓から飛び出そうとして、アミドにばーんと当たって跳ね返る。怪我しないのかと腰を上げて見に行くと、もう体をぺろぺろ舐めながら落ち着いている。今までの大騒ぎはいったい何だったのだと思っている間に眠ってしまったりする。

■よく見ていると、別々にでも突発的に爆走したり、大暴れしたりしている。猫トイレで用をたして、匂いを嗅ぎ直してから、突如全力で走る。虫が室内に入ってきて、追い掛け回し始めた途端出て行ってしまっても、その後関係なさそうな爆走を続けている。不思議に思って調べてみたら、動物学者はこのような行動を「真空行動」と呼んでいるらしい。狩りのエネルギーを発散させているとのこと。



■完全内飼いの猫に多いとか。どう見ても子供が見境もなくはしゃいでいるような大騒ぎなのである。ダダダッっと走って戻ってくるので、あ、やったなと猫トイレを見ると、案の定しっかりウンチをしているのである。快便嬉しいか?確かめたいので首根っこをひょいっととっ捕まえて顔を見てみるが、別に嬉しそうな顔をしているわけではない。まあ猫だから表情に出ないのかもしれないけれど。

■今日も一騒ぎした後は、5階のベランダの手すりの下から首だけ出して、眼下の世界を眺めている。夏日が続くので大きな簾をヨシズのように斜め架けして日を遮り、ベランダ菜園のプランターたちを集めて床ごとたっぷり水をやると少しだけ涼しい。地上の平屋の軒下を黒猫がゆっくり歩いている。それを我が家の猫が目で追う。どのような世界観なのだろう。野良には真空行動はないのだろうか。

■真空行動という言葉がちょっと気にかかる。人間にだってありえないだろうか。突然キれたり、意味もなく走り回ったり…。ただ人間の厄介なところは武器を持って通りすがりに加害しまくることもある点か。記憶がないとか、やれと声がしたとか、心神喪失状態で責任が取れないとか言うけれど、一番しっかりホールドしていなければいけないのは人間としての自分自身なのだがなあ。

■それにしてもこんな熱い日はつい意識の真空状態が生じてしまう。失神して落ちる分にはまだいいけれど、自分の妄想と他者との区別がつかなくなって、あらぬ暴走をしないようにしたいものだ。

視線の焦点は意識の焦点



■良く見るということ。眼前のものごとのほとんどを、普段はいかにいいかげんにしか見ていないかということに今日また思い至った。昔はマンガの背景に描くために、電車の中の吊り革やパイプの形状とか、街路樹の茂り具合とか、建物の窓や屋根の配置とか、人間の表情や身体の動き方とか、観察眼というやつだろうかとにかく細部にいたるまで描くためによく見て記憶したものだ。

■また自然の中の虫や鳥や動物を描くことによって、その細部や全体が改めて眺められる。特に人の顔などは目の前になければ記憶の中のイメージだけでは描き出すことはとても難しい。幾何学的な問題などは、ラフでもいいから図形に起こしてみるとよく分かったりする。描くものには絵柄などと呼ばれるその人の絵の特徴が出るけれど、見ることにもまた個人的な特性はあるだろう。

■デジカメを持つようになって改めて、ファインダー越しにさまざまなものを被写体としてよく見るようになった。またシャッターチャンスのように、空間だけでなく留めておきたいアングルや瞬間という時間的な奥行きがあることも痛感したものだ。しかし慣れてくると、画像として残しておけばいつでも見られるからと、また目の前のものの全体性をその時に記憶しなくなってきた。



■今この世界でいましばらく生きていくつもりなので、世界の全体と部分をもう1度しっかり見るように心がけたいと思う。しっかり見るとは、見えているものにしっかり意識を向けるということだ。目配り、気配り。舌足らずな表現だが、「見るということを見ながら見る」のである。そこには爆発的大笑はないけれど、しかし微笑みはある。ちとえばそれを見ている私の心の口の端に。

■じろじろでもなくきょろきょろでもなく、すっきりと見る。見るということそのものが光であると友人は言った。そのとおりだと思う。とりあえず共通世界であるとされているこの外部空間のほとんどどこにでも焦点を結べるのは素晴らしいことではないだろうか。立体裸眼視ではないけれど、何もない空間にすら焦点を合わせることすらできるのだ。見るものは見るものに見られる。

■見るということそのものがとても素晴らしい奇跡なのだろう。今日も世界はかくも美しく輝いている。

■23年前のある風景たち



当時は吉祥寺に住んでいた。1985年の夏はBOBが交信に突入した年だ。その前の時期、私はよく新宿に行き、人間を見ていたものだ。

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1984年12月27日(木

■新宿のある映画館の前で、松葉杖の小さな女の子がスチール写真の看板に寄りかかって地面を見ていた。その弟らしい男の子も、アスファルトの地面を見つめている。そこには路上にこぼれ散ったアーモンド入りのチョコボールをかがんで拾っている女性がいる。おそらく母親だろう。無心に拾い続けている。年末の夜風は冷たく、吐く息を白く流す。そばを通る人たちは誰もこの3人に気を止めない。母親もまた周りを気にかけない。町の灯りが時々3人に光を集める。女の子のセーターの袖の小さなほつれ。なかなか集まらないチョコボール。寒そうにてをこする2人の子供。垂れ流しのように聞こえてくる年の瀬をあおる、俗悪なメロディー。

1985年1月23日(水)

■新宿駅通路。冬の昼下がり。心無い人の吐いた痰が乾いてこびりついている。その上に何も敷かずに横たわる浮浪者。子の世を諦めた眼をして、しかしまだ性を諦め切れないでいる。誰も彼を正視しない。子供すら省みない。ポリバケツからスパゲティの残飯をつまみ出し、チュルチュルと音を立てて飲み込んだときの、あの無表情な顔。誰も彼を意識しない。彼も誰も意識しない。これだけの人の通る地下道での、この見世物は何だ。誰も見ていないこの見世物は何だ。



1985年2月1日(金)

■都営新宿線の神保町駅の窓口で、一万円札を両替してもらおうと列に並んだ。私の前のおばあさんが自動券売機のおつりが10円足らないので、窓口の駅員に尋ねている。声が小さいので駅員はよく聞き取れない。私の後ろにもみるみる列ができる。駅員は大声で説明する。その声にイライラした様子が感じられる。窓口に並んだ人々に、自分の責任ではないのにといわんばかりにイライラするふりをする駅員。かわいそうなおばあさん。10円を握らせて追い出すように改札口に向かわせる駅員。次の私の番になる。駅員はやたら愛想がいい。共通の被害者意識を全面に出して言う「おまちどうさま。」イラつく気持ちお察ししますという面持ち。乗車券を買って改札口に向かうと、一部始終をみて知っている他の駅員までも愛想がいい。私は駅員たちも可哀相な気がする。ホームに出るともうさっきのおばあさんはいなかった。何も知らない電車がホームに滑り込んでくる。

相似を見て安心し、相異を見て感動する



■今朝は少し早めに家を出た。目的は特にないが、あえて言えば理由は週に1度の資源ごみ出しがてら、どこかのファミレスで朝食でもと思いつつ町を散歩することだった。歩きながら考えた。そういえば町を歩き回らなくなって久しい。万歩計のカウントを稼ぐための歩き回りよりずっと前、名古屋に住み着くようになる以前は、あちこち移り住んでもいつも近所には、森や水辺といった自然があった。

■井の頭公園、明治神宮、新宿御苑、湘南海岸…。アーケードや繁華街もすぐ近くにあり、いつも意味もなく徘徊していた気がする。まあそれだけ情緒不安定だったのかも知れないが、世界に対しての基本姿勢がもう少しアクティブだったような気もする。攻撃的だったというのではない。もちろん受動的ですらもない。あえて言えば現実に対して交差しないニュートラルさ。微動し続ける未熟な魂。

■あの世界からの外圧ではなく内面からの内圧に耐え切れずに、世界との乖離感を埋めるべくこの時空の中でブラウン運動をしていた緊張感は、今振り返るに結構好きだ。邪悪なショートサーキットの解法への誘いと常に戦っていた気がする。あれも若さの1つだろう。想起しているうちに、今は体のキレ以前に意識のキレが宜しくないという自覚が生まれた。安定に安住する姿勢は即座に老化に滑り込む。



■近所に自然や人の雑踏がないから歩き回らないというのは、後付けの言い訳に過ぎない。街角の電柱の配線やトランスミッターの作るシルエットは1つ1つみな違うことに驚き、通りすがりの垣根の枝振りの妙と小花の色合いに感動した日々。PC上に終日視線を泳がせるばかりの毎日でも、まめに窓の外に視線を動かせば自然の推移や人工の造千差万別な鮮さを見て取れる。もっと世界をよく見よう。

■バス停で重い荷物を抱えている娘の顔つきや、おそらく駅に急ぐのであろうタクシーの交差点での曲がり方や、曇天のように見えて薄皮一枚の雲の上には真夏の太陽がどすんといることなどなどが、鈍磨していない感性にとっては当たり前のことでありつつも生き生きとした世界の喜びでもあることは、みんなちょっとした能動的な観察姿勢を取り戻せばいつでもどこでも自分のものであるという至福。

■忘れぬようにしよう、日々の繰り返しに見える相似の群れの中のちょっとした差異を見る感性を。忘れぬようにしよう、日々のさまざまな感動をいつも新鮮に味わえるのは、その背後に変わらぬまま気づかれない多くのものがあってくれるからだということを。新鮮な喜びはその場で忘れてもかまわない。ただその生命姿勢だけは極力忘れないように生きていこう。世界はやはりどこまでも美しい。

■みもうファイルというものがある



そのファイルはもちろん秘密だ。ネット上には何でもあるようについ勘違いしてしまう人もいるが、本当のところほとんどの「もの」や「こと」や真実や事実は表に出てこない。それに価値があるかどうかはまた別で、人間の無意識層に似て、価値判断の視座によってはがらくただったりもする。しかし表に出てこないままなのは詰まらないので、時にはリークする。フィクションとしてみてもらえれば幸いだ。質問者CはCHACO。

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◆19961112◆

C:暦を替える実験に金星は関わっていますか?

います。

C:なんで金星を持ってくる選択になったのか?(どこかから太陽系に金星を持って来たという話に対して)

暦に意味を付け直すためです。その結果365日になりました。それまでは360日でした。違いを生み出したのはチカラばかりに頼っていた力人です。360日は光ではない。365日は光の公転周期。

C:この365日は意図して生み出したのですか?

意図して生まれたわけではない。金星を呼び込んだ者がいる。未知なる未来からの者が金星を呼び込んだ。地球に来ている未来からの宇宙人が呼び込んだのであって、その時の地球人がやったのではない。この時点で私たちは未来から来た過去の地球人。この今であるとも言える。

C:地球に来ている未来からの宇宙人と、その時の私たちは一緒?暦の実験に関わっていましたか?

一緒です。でもおかげで太陽系に大きな被害を掛けてしまいましたが、それは未来から来た宇宙人が光を見ないで力ずくでやったからです。でもあなたがたはその責任を感じています。それはこの今の状況を未来につなぐために必要な心の負荷です。愛を忘れなければ、ハーモニック・コンバージェンスのように共振によって相殺します。
未来から来た宇宙人とは蛇使いの神です。蛇使いは13番目のせいで光を当てなくてはまた爆発してしまいます。金星の介入によってマルデクは爆発してしまいました。まるでくの爆発はアトランティスの壊滅と同じ意味です。金星の介入は火星をも死の星にしました。このままでは次は地球です。あなたがたには何の責任もないが、それでも自責の念はある。その宇宙人は蛇使い。

C:なぜそんな事をしたのですか?

時間を掠め取った仕返しです。時間を掠め取ったのはトートです。みつまろさんはそのくだりをアトゥム神から教えてもらっているはずです。今でもアトゥム神とはつながります。太陽神ラーの妨害と嫉妬と。

C:金星を使って360日を365日にしたのはトートですか?

はい。でもトートはいいやつです。他にもいましたが、彼らはさっさと帰った。トートは残って智恵を残し、長生きしています。だからそのような神話が生まれたのです。トートは遅刻していました。ルミーメロウも遅刻していました。実験には関与していない。遅れてきた時には既にマルデク/アトランティスは破滅し始めていました。ルミーメロウとトートは銀河連邦の上の組織から派遣されてきました。ルミーメロウは神の猫ですが、やはり無能でした。



C:すみのお、みらーら、からーらもその時にいたの?

ティア・キアの中にみらーらもからーらもいました。ティア・キアはその時地球の神です。それは秘密の1つです。ティア・キアは金星を呼び込まないで暦の意味を変えようとしていました。

C:暦を替える事はどこで決定されたの?

勧告は銀河連邦から。実行は蛇使い。結果として太陽系に黄金比を持ち込んだから、必ずしも破壊的ではない。火星の裏から逆の黄金比が既に働きかけています。(今)数日前からです。ミラーラ(YOSHIMIさん)の情報を照らし合わせるとより正確になります。今が肝心です。エジプトにいつか行ってみて下さい。ミステリースクールを発見・再現してみて下さい。
ミラーラとカラーラは先生でしたが、時々さぼっていた。でも人気があった。すみのおはその時、ミラーラとカラーラを見張っていた。でも愛されていました。ルミーメロウはトートとまぶだち。頭は悪かったけれど、存在が愛でした。
ミステリースクールは実は暦をただす事を未来につなげるためにやっていたが、それは表には出さなかった。ミラーラかふけた時、カラーラは暦を365日にした。ミステリースクールは5000年前からあります。カラーラはマヤでも360日と365日の関係を打ち立てました。すみのおはマヤにも行ったけれど、暦の確定には遅刻しました。ミラーラはその頃チベットにいたようです。

C:火星からの影響は?

黄金比の累乗は正数を作る。次元を相殺するのでなく、次元を重乗する(10乗)。したがって重い人は重い方へ軽い人は軽い方へ別れていきます。軽い方は重い方に関与できますが、その逆はない。この事は実は軽い方は重い方は重い方をも内包しているという事です。

C:火星人が火星から逆の黄金比を持ってきたのですか?

いいえ、黄金比そのものの自明な光/力です。火星人はまだこの地球に次元交差していた。マルデクからは裏の円周率の力が地球に向かっている。そして自然対数のeは地球そのもの、すなわち10進法によってできる数の論理を貫くものです。全てが地球で出会う時はそう遠くはないけれど、その時初めて0と1が生まれます。そこから幾何学の王国がやってくる。元々横道でしたが、王国になります。ひかりみん13世はい魔、銀河の力を皆さんに分け与えます。
愛です。愛は真実です。あなたを愛するすみのおは愛される道を示す。未来も過去もここにある事を愛のみが知っています。一直線になる事は、実はそれだけでエネルギーの流入と同じ事ですから、蛇使いの神はその次元が重なるであろうエネルギーに乗ってやってくる。

ゆらぎの中でゆらぎになり生きる



■揺らぎとは決定論的な予測からのずれの事だ。天体運動には常に微妙な揺らぎがある。人体の中の脳波、神経伝達、心拍、呼吸、睡眠などにも必ず揺らぎがある。音楽にも秩序と調和からわずかにずれたところに平均律がある。まさに万物は揺らいでいるのだ。そしてほかならぬ自分自身の健康や意識の状態のみならず、精神そのものにも揺らぎはあるに違いない。それは欠点ではなくむしろ不可欠なものとして。

■純粋なものよりわずかに不純物が入っていた方が、私たちの知覚系はそれを快と感じるようにできている。化学的に生成されたNacl・塩化ナトリウムはただ塩辛いだけだが、海水から作られた食塩や自然の岩塩をなめると、その微量に混入した成分がうまみを感じさせる。酒もまた純粋なアルコールではなく、適当な不純物が入っていて芳醇なおいしさが感じられる。人間もまた純粋な中の葛藤があるほうが魅力的だ。

■また現在香りによる癒しとしてのアロマテラピーや香料にしても、微量に組み合わせて添加するものが重要な役目を果たしている。不純物や乱れや歪みや偏りという表現は人間から見ての判断に過ぎず、人間そのものが揺らぎを内在しているからこそ、微妙なずれの存在が快不快の要素として大きく感じられ、そして生命そのものの階層を貫いたうねりなのだ。部分矯正や強引な共時化には十分注意しなくてはならない。



■胎児の心拍データによると、母親が妊娠中毒にかかって重態になると、胎児の心拍のゆらぎが小さくなり規則的になる。治療の末に母子共に元気になると、胎児の心拍が再び大きく揺らぎ始める。脳死状態の患者を人工的に延命していると、心拍のゆらぎは少なくなっていく。揺らぎは生命力を表しているのである。一人の意識や生体内では乱れとして表れていても、より大きい社会や時間の中では正常なこともある。

■機械的、規則的、恒常的、条件反射的生活パターンを続けているとゆらぎが少なく、活力に乏しいものになる。車のハンドルや歯車間のあそびがあった方が上手く機能するように、一見無駄に見えるものも決定論的効率主義を超えて、総体の中での余裕として考える必要があるだろう。死にたいほどの落ち込みも、体内で激燃する至福の極みもまた、大きな揺らぎとして見て取る視座がどこかにあればより生きやすい。

■一個としての生命の揺らぎや、人間総体の中の極端に偏ったキャラクターであるとしても、それすらも飲み込んで1つのミクロ・マクロを超えた流れ行くものの、裁断された微部分であるとも捉えられるならば、瞬間瞬間の意識に過剰な価値をおくこともなく、取るに足らぬ機械的な化学反応の表層に過ぎぬとひげすることもなく、揺らぎそのものとしての自らを味わい楽しみ、そして生きられるのではないだろうか。

■差異は相似、不和もまた和。世界は揺らぐ。私も揺らぐ。

written on 19990721, and rewritten on 20080708

数の恍惚・数える至福



数の恍惚・数える至福

わたしはひとりだ
いやひとりですらない
あなたがいて初めてひとり

あなたのひとりと
わたしのひとりは違う
あなたとわたしとでふたり

ひとりがφならば
対をなすひとりはφ’
そこに共通項が立ちあがる

φとφ’が出会い
場という鏡が出現する
φがφを見る時が2の誕生

では3とは誰だろう
彼や彼女や彼ら彼女ら
そこで初めて4の探索開始

数とは名詞
数えるは動詞
数は存在
数えるとは行動
数は卵子
数えるのは精子

わたしとあなたが向かい合う時
あなたがわたしと見詰め合う時
さらなるわたしとあなたが在る

わたしでありわたしでないそれ
わたしでありあなたであるそれ
わたしであり彼彼女であるそれ
わたしでなくわたしであるそれ

4人称を捜していこう
4人称で生きていこう
遍在と局在の1,2,3,4,5

数は詩人の命名による意味付けを拒絶する
数は命名による期限付きの生命を拒絶する
数はその意味が死んだ時透明さを回復する
数はどこまでも詩人らの挑戦を超えていく

私はただ数を数え続ける
…数の恍惚・数える至福
数はただ恍惚として数えられるのを待つ
数える時にわたしは至福に包まれていく

私はただ数に数えられ続ける
…数の恍惚・数える至福

           (on 20001029)

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