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  • 2024.01.09 Tuesday
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鶴舞公園の仔猫軍団



■暮れなずむ秋の夕刻、近所の本屋に行く道すがら、駐車中の車の下から見知らぬドラ猫が、突然「ドミギャーモ、ドミギャーモ、ドミギャーモ」と3連呼してきた。驚きつつも覗き込んで見ると、「チョー腹減り、何か喰わせちくり〜!」といっているようだ。仕方なく道を挟んだ近くのコミンビニまで走り、カリカリキャットフード350g入りを購入し、急いで戻ったらもういなかった。

■明けて翌日の昼下がり。鶴舞公園を散歩。私の住む昭和区にある鶴舞公園は名古屋で最初に整備されたとても広い公園で、多数の野良猫が生息している。今日はその植え込みの中にいる3匹の子猫と遭遇した。白猫2匹と黒猫1匹。勝手にハク、ハツ、チュンと命名。デジカメ画像に収まっていただく。モデル料はカバンに入っていた昨日のキャットフードをたくさん。誘拐したいほど可愛い。

■その足で大須まで歩き、商店街を散歩。大須は名古屋で特に好きな町の1つだ。久々に自然食材のみを用いたお気に入りの中華料理店に入ってランチを食す。大須の7階建ビルの3階フロアーはかつて中華料理店ばかり10店舗ほど入って、独特の雰囲気を醸し出していた。しかし昨今不景気に中国食材の不安が輪をかけたからなのか、この日は客もほとんど皆無で閑古鳥すら鳴いていない。



■ほぼ一万歩ほど歩いて家に戻る途中、再度鶴舞公園を通った。もう暗くなって足元も良く見えないバラ園の近くで、突然目の前を何かが横切った。子猫だった。またカバンからカリカを出して与えると、兄弟らしき黒い子猫が2匹、木立の中から出現してきた。ポン、チー、カンと名づけた。あげてもあげてもウガウガ食べている。捨てられたばかりなのか。春生まれのチビ猫多し、鶴舞公園。

■元気を予祝して再度帰路に着く。途中、昼間の猫たちはいかにと木立ちを覗いてみると、誰かが作ってやったらしい寝床用のダンボール箱の中に納まっていたので、安心して家に戻った。鶴舞公園にはほかにもたくさんの猫がいて、それなりにガリガリではない姿で生活しているから、多くの人に支えられて生きているのだろう。媚を売らず、かといって怯えて警戒しすぎもしない猫は良い。

■この公園はたくさんの犬の散歩道でもあるので、公園のベンチに座っていれば犬も猫も鳩も烏も、雀も鷺も亀も鯉も眺めることができる。それにしてものんびりベンチで横たわる猫の姿のある風景は平和を感じさせてくれるものだこと。さてそれはそれとして、ひょっとして私はこのままカバンの中にキャットフード一袋を丸ごと潜めて歩く不審人物になり果てるのだろうか。茫漠とした未来である。

見えないけれどそこにある慈愛



■取り分けて急ぎこなさねばならない雑務もなく、不安を醸し出すような人間関係のこじれも見当たらぬまま、窓越しに雨があがりかけの曇り空を眺めながら静かに目覚めた肌寒い朝。季節が晩秋から初冬へと熟れ切って落ちゆく寸前のように震えているしめやかな大気。子供の頃からつい昨日までの様々な過去がほぼ等距離でそこにある。静かに回想する時に通奏低音のように流れている懐かしさと愛おしさ。

■今現在が激動の渦中であれば、余裕を持って過去を回想できない。現在の苦境から逃避するための過去回帰の話ではない。それがどんなに苦しかった時期でも辛くて身を捩るような葛藤の日々であっても、全て否定せず受け入れられるだけでなく、いま一度そこに戻れたらその時は余裕がなくて味わい切れなかった素晴らしい時空であったと感じられるのは、この今が穏やかに幸せだからなのに違いない。

■記憶の中の世界を今静かに思い起こすことによって初めて、雲間から顔を出した太陽の光を浴びてそれまでのおぼろな風景が輝き出すのではなく、それは最初から遥かに光に満ちていた世界だったということが分かる。表現の差異はあるだろう。しかし私が気がつかなかっただけで、最初から私の周囲の世界は実に愛すべき、慈しみに満ちた世界だったのだ。今その時に戻れたらそれを味わえるに違いない。



■これは単なる個人的な幻想や心理学的錯誤であると断ずる人がいるかもしれない。しかしそのように言うのであれば、むしろ論理的な人生戦略としての妄想なのだと見てほしい。もし未来にこのような思いで今現在を回顧するとしたら、この時空を今私が個人的に知覚認識しているよりもっと光に満ちた世界であると判ずるだろう。今の私がそれを観じられなくてもイメージはできる。それが重要なのだ。

■今この時を主観的かつ客観的に見る視座の据え所。以前は客観とは単なる主観の寄せ集めだと思っていた。しかし主観と時間方向に広がる主観群という客観的視座、もしくは通常の意味での主観とは異なった主観としての客観という表現もあるだろう。そしてさらにその昔半ば無意識的に感じていたのは、時を超えた自分の慈しみや愛おしさだけでなく他者のそのような思いもそこに在るということだ。

■もちろんそれは私が自覚できないだけで今も在るに違いない。難解に考える必要はない。時を越えた自分の主観の集合を客観と呼ぶならば、同様に時空を超えて放たれた他者の主観群もまた客観と表して然るべきだ。私がわずかなりと他者を想うように、それもまた必ずあるはずだ。自他と分け隔てる必要のない、優しさや慈しみに満ちた光のまなざしが。見えなくてもよい。感じられなくても良い。



■それは確かにそこに、そしてここにも、どこにでもあるのだ。幻覚だと評されてもかまわない。この静かな至福感の因って来るところと私とはつながっているということ。そしてそのつながり具合のありようを少しずつでも解明していこうという心積もり。そしていま心の中で繰り返してみる。いつでもどこでも、みんな元気で、健やかに!私の知っているみんなが少しでも多くありますように。

■また雨が落ちてき始めたようだ。さあこの新たなる一日を始めよう。偽善や怠惰の足取りで雨にぬかるんだ一本道で転倒しないように、慎重にしかし面白おかしく歩いていくよう努めよう。未知に対する不安も無明もOKだ。肩方の力を抜いて、大きく息を吸い込んで、まずは新たなる一歩から。

口に出さずに抱き生きる言葉



■夢を見た。そのとき言葉について分かりかけたことがあった。真実の言葉は口にする必要はない。ただ真実として持ち、生きていれば良いのだ。その言葉のほんの一部でも露わにしかける時、その言葉の意味と思っていたこと以上の秘密が明らかになりかける。言葉を安易に口にせず、それを内に抱いて生きていれば、想いは純粋になり、生命はおのずと力強く燃える。

■もうその夢の中のエッセンスは記憶から抜け落ちてしまった。しかしそれは間違いなくこの生命の中には残っている。最初からあり、最後まで残っている。言葉として人間の日常生活で共有しなくても確かにあるもの。文字として書き残さずとも受け継がれていき滅びないもの。その存在を忘れず、真正に生きていきたい。言葉とは何か。どこから来たのか本当は知っている。

■「5つあるものの2番目が重要だ。2番目が一番大変だ。」忘却の引き潮からこのセンテンスにして救い残した。もはや何のことか分からない。寝言や妄言にしか思えない。ナンセンス。しかし私はこの言葉に残そうとした真実に触れたことを覚えている。この語義や意味はもはや大したことではない。ただ確かに真実はあることを知っており、その中にいた事実が重要なのだ。



■語り合う言葉の全体をもっともっと広く深く理解し感得するよう努めよう。剣を交えるように命がけで望み、油断も過信もなく素直に語り合おう。その時その会話の内容と場はいつも新しく、そして意味を確定されていない価値ある未知の世界そのものであるだろう。一見無意味な会話ですら、語り合われなかった真実たちはそこにある。ここで語れなかったそれはとても美しい。

タージオン領域を超えて生きる



■「解明する」とはどういうことか?言葉を用いて「思考する」とは何をしているのか?そもそも自分は今何をしているのか?(もしくはしていないのか?)先ずは「今何をしているのか」と自問している。何を問うているのかと自問しているとも言える。パラドキシカルな構造を持つ問いだ。メタローグっぽい。何を問うているのかは分からないとしても、問うということ自体は自明で成している。

■ならば逆に一足飛びに多重の応答もしくは解答が出てくるかもしれない。「思考」が最善の策であるとか、「論理」が最短の道筋だとは思わないが、取りあえずそれを用いて前進していこう。何をしようとしているのか?自らが通常自分と思っているものを超えたところの「未」自分と対話しようとしている。未来に意味を見いだそうとしている。集中しながら真剣に接すること。

■意味の未だ定まらぬ未知に自ら能動的に関与して意味を与えゆくということ。他者に一方的に与えられているだけの意味には、まだ個人的な価値はない。他者が定めている価値に対して、自らの価値と重なる意味を創出して、それを生きていくこと。刻々新しく広がりゆく世界に能動的に関与するとはそういうことだ。その時初めて思考や論理が過去と癒着したかさぶたからはがれて生きる。

自省・自覚・自信による王国の統治



■世界と自らとを信じゆくことから始めよう。身体の不調はある程度は自力で治し癒すことはできる。肩が凝ったらそこを意識しつつ呼吸してみよう。「気を流す」というような言語表現を、概念側からではなく体感側から為してみよう。頭痛や腰痛が自覚されたとしても、ただ為すすべも無くそれに取り込まれるのではなく、それと対峙して新たなる在り方を模索しゆくことができる自分を思い出そう。

■自省から自覚に。そして自信へ。過信や盲信へ至らぬために、自省と自覚を怠らぬこと。またその能動的操作の繰り返しを、単なる機械的作業にしないこと。未知なる世界を未知なる自分が、日々進み生きているということに「不安」があるとしたら、それは既知・既存から「今の自分」が自由であることの自覚でもある。未知なる眼前の世界に意味を見いだしているはみ出している自分に自信を持とう。

■諸事の不都合による不快・不満を安直に他者の責に帰そうとする自らの浅慮を自覚して改めよう。自らの内なる葛藤の問題を、自己他者問題まで内包する高次世界の問題で扱おうとすることは、さらに難しい選択であるはずだ。それなのに内部の葛藤を外部の問題にすり替えて他者の責に転嫁しようとするのは、自らの内に自省・自覚・自信という確たる道筋が形成されていないがゆえの愚行であろう。



■先ず自らの王国をしっかり統治しよう。たとえそれがひとりよがりの王国であるとしても、その国境を明確に認識できないまま、自らの愚かな法を外部にも展開するということは、そのまま自らの王国の中で囚人もしくは機械人形と堕しているに等しい。自らの身辺にある見える世界の全てが「第一の王国」である。混乱を調え、美しく統治せよ。その姿勢で国境を越えて世界と良い関係で関与するために。

世界に対して張るテント



■大きなテントの中で夜を過ごす。仕切られた内と外。多面体の内と外にも思える。自然界をささやかに切り取ったつもりの人工の空間。自然が少し荒れ狂っただけでもすぐに剥ぎ取られてしまう界面は、それでも外界と区切られて見えないことで安心感を与えてくれる。見えないことによる安心と、そして同時に不安も与えてくれる。テントには内と外を視覚的につなぐ窓が付いているものもある。

■外が見えないことに対する不安を払拭すべく穿たれた窓。そしてまたそこから外が見えることで不安や恐怖も入り込む。見えるものと見えないものとの差異。音は見えないけれど聞こえてくる。テントの周りをうごめいているらしい何か見えないもの。窓から覗き見ても恐怖。目を背けても恐怖。まあ恐ろしさばかりを強調したけれど、喜びや楽しさも同様かもしれない。もう1つの身体的感覚。

■自分の身体内部は他者には見えない。もちろん自分でも見えはしないけれど、感じることはできる。感じたくなくても痛みや快感は身の内を走る。見えないものを見えるようにすることは、名もなきものに名前をつけることにも似ている。名づけることによる不安の解消と、そして新たなる不安の発生。自分というテントを張って世界と区切ることによる安心と、そしてさらなる倍返しのような不安。



■子供の頃、林の中の細い夜道で傘をさしていて、突然の恐怖に襲われておののいたことがあった。降りしきる雨をしのぐための傘の上に、何か得体の知れない妖怪のようなものが乗っているのではとふと思ったからだ。雨の中、傘は外せない。しかし枝から落ちてくる大きなしずくが傘をたたく音が恐怖を増幅する。傘の上を確かめたいけれど、化け物が乗っていたら逃げ場がないという恐怖。

■見えないものもずっと見続けることにより見えてくる。見えるものも見続けることによって見えなくなる。区切って区別することと同時に区切られる前の1つことを共にイメージできるかどうか。「人は同じ川に二度入ることはできない」ということは真実だが、それのみが真実ではない。「人は同じ川にしか入ることができない」という真実表現も同時に存在しうる。同時に双方を見る視座。

■世界と私の間にも、あなたと私の間にも、区切りをつけたり外したりすることができるとしたら、それは恐怖や不快を避けるためではなく、喜びや心地よさを共有したり一人持ちこたえたりするために成していきたいものだ。闇の中では仕切りの有無すらも見えない。視覚を遮断するものを貫通する光と貫通しない光とがあるだろう。怒りや不快を外に漏らさないためにもテントは張れるのだ。

現実という覚醒夢から目覚めねば



■先日「実は私たちは忘れていることを忘れている状態なのではないか?」という表現をした。これは「眠り込んで夢を見ているまま、その夢が現実であると思い込んでいる状態」とも表現できるだろう。単なるメタファーを超えて、それを真実とて考えてみよう。現実と思い込んでいる眼前に生起している世界は単なる夢だから意味も価値もないという虚無方向に進むのではない。

■実際に夢と現実とは対応しているし、現実における世界と自分の関係を修復しているのが夢であるという捉え方もある。もちろんここでは夢が現実で現実が夢だという単なるひっくり返しの表現をしているのではない。現実生活とその中の夢という捉え方そのものが、眠りこけているまま観ているより大きな意味での夢ではないかという視座を想定しているのだ。

■普通に言っているところの夢には夢なりのロジックがあり、またその世界における時空の連続性もトポロジカルだ。普通に言うところの夢と現実の端境期、もしくは眠りとうつつの界面領域というものに注目してみたい。それは言語表現というものに則っているのであるから、1つ大きい夢と現実という想定世界のホロン構造を有していると考えていいだろう。



■夢を見ているという自覚がある状態を明晰夢というが、それだけでは現実に戻ったり現実的な意識を十分に発動できるわけではない。死に瀕する夢の中でこれは夢に違いないと思いつつ、目が覚めないで死んでしまうということも、ホラーな想定だけではなくあり得るだろう。夢とうつつの界面で、意識を混濁させぬまま、その双方を1つに見る視座を獲得できないものか。

■実際に混乱した意識の幻覚だったり妄想の産物でもあり得るイマジネーションや直感や自分を超えたものからの声やビジョンがあるとしたら、そこから大きな現実からの純粋な光を漉し取り、自らの我執や欲望の副産物と明確に区分しようとする意識が必要だろう。自らの混乱の中ではそれは難しい。日々の生活の中で、できるだけ純粋であり慈しみと叡智を抱くよう心がけること。

■年がら年中、他者とは別の自分として瞑想三昧の生活をするのではなく、この夢かも知れない社会と現実の葛藤や理不尽さをも楽しみながら、もう時代の朝だからと自然に目覚めていくことはできないものか。それにしても最近はやたらと眠い。眠り込んで大きな現実の中で目を覚ますのであれば良いのだが、さらに深く眠り込んで沈みゆくのではないことを祈りたいものだ。



■「夢を夢と見、現を現と見、夢と現を混乱なく1つと見る」と表現はしてみるものの、これだけではまだ単なる観念的なフレーズに過ぎない。しかしこの不可能にしか思えないようなところを目指してみようとする意識のベクトルこそが重要なのではないだろうか。ああそれにしてもなんともすがすがしい秋の空と光と雲。この夢かもしれない世界は実に美しいのである。

猫のいる風景と月明かり



■最近は夜に家の近くまで戻ってくると、半ば無意識にカバンを半開きにして中をまさぐる。ビニール袋に入れていつも持っているカリカリキャットフードの量を確認するのだ。これは街中や出先で突然猫と遭遇してもよいように、いつもカバンに潜めているものだ。左手をカバンに突っ込みながら、家の前の少し広い通りの左右を、これまた半ば無意識に猫スキャンしている自分に改めて気がつく。

■いた。左の電柱のふもとに黒猫一匹。胸と腹の一部が白いロナウジーニョだ。そして右手の車の下に白黒ブチ猫が二匹。菊13号と14号だ。近頃は怯えずにそろそろと近づいてくる。おい、ちょっと待て。今夜はまた夜が浅いから、人通りもそこそこある。人目を避けつつエサをやるために、まずは後ろから来た連中をやり過ごすのだ。立ち止まって携帯画面をチェックするふりは自分への言い訳か。

■おっと手前からはチャリのおばちゃんがやってくる。猫の目がライトに反射して光ってる。ノールックパスのように別の方向を見ながら、足元にひと握りのキャットフードをワンスクワットでセットする。道の反対方向に移動してから、車のタイヤの裏にふた握り分ドロップ。そのままそそくさと当家のマンションに入り、5階のへりから食事してるか猫たちをチェック。速攻でカリカリを補充。



■どこにでも猫嫌いがいるから、昔はちょっとビクビクしながらたまにエサをやっていた。しかしどこにでも猫好きもいるわけで、階上から見ていると座り込んで猫を撫でるカップルや、深夜にキャットフードをあげに来るおばあさんがいることを知った。また近所のお兄さんは庭に来た野良猫にはエサを与えているらしい。自分がエサをやれない日が続いても無意味に胸を痛めることもなくなった。

■しかし決して鈍感になってはならない。猫好きなだけで何をしてもいいというわけではない。不快を覚える人が極力いないよう振舞うことを猫のためにも失念してはならない。玄関を開けると我が家の猫たちがシンクロポーズで駆け寄ってくる。ひとくされにおいを嗅ぐと、また二匹同じポーズで戻って行く。カバンを置いて横になり、床から猫目線で見上げると、猫の耳越しにはぽっかり十七夜月。

記憶喪失の自覚と最初の対処



■記憶喪失。現在の自分の状態は、忘却していること自体を忘却しているのではないか?そしてそれを想起することが、現在もっとも重要なことなのではないだろうか?では何を忘れているのか?現在意識に昇ってこない一切のものごとである。それらの中にはこのままでは今後一生想起しないものもたくさんあれば、思い出そうと意識を向ければ思い出せるものもあるはずだ。それらの界面は均一でも一様でもない。

■哲学的で根本的な問いと思考そのものを、日々の生活では外して生きている。しかしふと浮かび上がる記憶の中には、自分が生きてきた間に知覚認識したものの、一度も明確に意識しないまま広大なる記憶の大宇宙に沈んでいったものも無数にあるだろう。チャネリングや神仏守護霊の交信などと言っても、少なからずは自らの内なる未意識の記憶群との交差と対話であると解することもできるのではないだろうか。

■記憶の想起は未来であり、一度も想起していない物事は意識の上では過去でも未来ですらもない。未知であり未来であり、未見未聞の未然形である。それら記憶の総体と何らかの交差を意識的にする方法が有り得るのではないか?危機的状況が必要なのかも知れない。しかし現代社会はもはや総体も個人もその危機的状況下ではないのか?意識の質的変容があれば可能かも知れない。しかし無為のままではそれも叶わぬ。



■人類そのものが総記憶喪失状態であるという表現や、アーカシャの記憶とか宇宙図書館が存在するという表現もある。それらの記憶を回復する方法は必ずあると考える。それと断裂したままだと干乾びている状態だと感じる。「かみ」と「がみ」がかみあうことで記憶は生起する。まず何を成そうとしていたか、何を成している途中だったのかを思い出さねばならない。忘れているのは、それから逃げていることに等しい。

■失ってしまっているものは、言葉や概念である前にまず実感だ。他者の喜怒哀楽に共感する感覚。しかし髄縁真如の智慧を生むためには、心身のバランス、知と愛の均衡がなければ叶わないのだろうか。もし突発的にそれらを想起できても、その強烈さゆえに内破して狂気に陥ってしまうかも知れない。不可欠なのは光の道を進む意志。意志を持続させる記憶。記憶回復にはまず健全な心身を取り戻す必要がある。

■記憶の欠落は今この瞬間にも起きている。まず体の切れを取り戻そう。意識の冴えを取り戻そう。何のために?真正なる生のために。記憶を総体に回復するために。もっと現実を肯定し、よりよく関与していこう。思い出してから動くのではなく、動きながら思い出していこう。懐かしき未知の未来へ、この現実を丸ごとで。思い出すことそのものがすでに多幸感に満ちるだろう。まずは現実を極力真摯に味わってみよう。

『GANTZ』というまんがを読んだ

       

 

■「GANTZ」奥浩哉(集英社)を漫喫で一気に読んだ。もちろんまだ未完である。というよりこのそもそものGANTZの設定そのものすら分かっていない。登場人物も読者も何も分からないまま、映画『キューブ』のように残酷極まりない理不尽な虐殺や展開が続きながら、話はどんどん進んでいく。漫画なのにCGを駆使した圧倒的な画力と精緻な小道具などの設定と描写でぐいぐい引き込まれる。

 

■この作品はヤングジャンプに掲載中だが、ヤンジャンは守備範囲の外だったので知らないままだった。しかし実に面白い作品だ。主人公玄野計(くろの・けい)と言う名前はクロノスと時計の計からきているのだろうか。「宇宙人狩り」の理由やナノテクサイズの理由で吸血鬼になっている種族の存在、大阪の別働隊などと話と設定は変わりながらどんどん大きくなっていく。

 

 

■残虐シーンが続くが、はたしてこの先に何らかのテーマが浮かび上がってくるのだろうか。記憶を失った者と残しているものとの再会シーンなどでは、映画『デジャビュ』でも感じたような世界観と人間の異なる記憶の交差と混在を考えてしまう。実はこの世界そのものが、ひょっとしたら異なる記憶の者の集まりなのではなかろうか?

 

■ほかにもアニメーションやフィギアの世界でもはずすことのできない重要な作品らしい。まんがは過程を楽しむものでもあるが、はたしてちゃんと完結するのだろうか。とふと不安になる。感情移入できるキャラクターとできないそれとが混在しているが、この設定そのものから立ち上がるテーマや世界観やその未来などもハズさないことを強く希望する。

 

 

 

■読んだ者が様々に自分の中でイメージを膨らませられるのは、やはり名作・力作・傑作に値するものであるということだろう。今までこの作品を知らなかったことが恥ずかしい。しかしこれからもその不知ゆえの恥ずかしさを知るべく、いまだ知らぬままでいる名作や傑作を知って生きたいものだ。それにしてもアニメ版もぜひ見なくてはならない。奥浩哉氏、ずごいなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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