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  • 2024.01.09 Tuesday
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幸福という名の伝染病



■12月23日付けの中日新聞のコラム『中日春秋』に、「幸福な人と接触のある人が幸福になりやすい」という話が載っていた。つまり「幸せな人のそばにいると幸せになる」ということだ。シンプルな格言としても十分通用すると思うが、これは米国の有力大学の研究チームが5000人弱を対象に20年以上かけて調査した結果であると英紙インディペンデント電子版が伝えているそうだ。

■実際どのように調査したのかの詳細は分からないが、「1マイル(≒1.6093km)以内に幸福な友人が住んでいる者が幸福になる可能性は25%アップ、隣人なら34%アップ…」などとも数値化されている。「幸福な人」の論理的定義や、数値的証明などに難癖をつけるより、自分の感覚に照らし合わせれば自明の理であり、また影響を与えられるだけでなく与える側でありたいとすら思う。

■逆もまた真なりを想定することもできる。自らのネガティブな世界観を周囲にも空気感染させるような不幸の爆心地のような生命状態の人もいる。バーナード・ショー曰く「悲観主義者とは、あらゆる人を自分と同様に不愉快な人間だと考え、そのために全ての人を憎む者である。幸福な者とは他者もみな幸福だと考える楽観主義者や、他者も自分と同じになるべきとする愚者ではない。



■他者も自分の力で幸せにしてやれると思い込む愚者である前に、自らの幸せを感じてただいればよいのだ。そしてその後にあえて自らも愚者を演じてみることはできる。順番が逆だと様々な悲喜劇が生まれる。まあそれも含めて全てが人間なのではあろうけれど。「自分が幸福であるかと自問してみると幸福ではなくなってしまう」などというパラドクスを過去の遺物として陽光のように生きよう。

■…て、窓辺で日の光を浴びながら心地よく書いていて、どうしてそこで日が陰る…?ああ、真逆のシンクロニシティも含めて、人間って本当に面白いなあ。私は愚者ではあるけれど、少しは幸せであるには違いない。自分が不幸だと思い込む愚者もいるのだから、少なくとも自分が幸せであると思い込むことができる愚者はやはり幸せなのである。…ほーらまた日が差してきた。

年の背の脳天気予報



■私からすると普段は読まない雑誌『週間ダイヤモンド』に、「総予測2009・次に何が起きる?」という特集があったので、ついちょっとだけ覗き見してしまった。最後のほうに「若者たちの○○離れ」という括りコーナーがあった。曰く「活字離れ」「タバコ離れ」「理科離れ」「洋画離れ」「献血離れ」「新聞離れ」「クルマ離れ」「酒離れ」「海外旅行離れ」「ギャンブル離れ」…。

■そこでふと自分は全てに当てはまっていることに気がついた。昔はひたすら読みまくりの時期もあった本も今はあまり読まない。献血はしない主義だし、タバコは吸わないし酒もほとんど飲まない。車の免許はないし、ギャンブルへの意欲も皆無だ。高校の時から理系は諦めてたし、海外旅行より国内の温泉が好きだし、新聞が真実を伝えているとは思わない。

■もちろん私はとうに若者ではないので、現代の若者と同じだなどと言うつもりは毛頭ない。別に誇れることではないけれど、だからと言って恥じ入ることでもない。自分の現状を書き連ねても、若い人たちのためには多分ならないだろう。携帯電話依存癖はないし、コンビニが取り分けて好きでもないし、何でもグーグルで検索して事足りるとも思っていない。



■それが貧しいということではないし、逆に自由だとも考えてはいない。グルメ志向も宗教心もないし、ファッション感覚もないし体力もないし性欲もない。…あー最後のは真っ赤な嘘だけれど、赤面することもなく口にするというがさつキャラもできるようになった。物欲も風前の灯である。それにしても私は一体どこに向かっているのだろう?

■不安なのか、それとも楽しいのか?…実に面白い。不安や恐怖を煽って他者や世界を操作しようとする愚者がいるかも知れないけれど、未知は取り分けて怖くはない。ことさらに霊的進化を騒ぎ立てて現状を否定する輩もなくはないけれど、今日この時はそれほど悪くもない。己自身を信じられずに世界を語れるのか?世界を信じられずに自分が優しくなれるのか?

■まあどちらとも言えるということでその問い自身をも超えて行こう。明日を心配するあまり今日の輝きを見逃し続けることもなく。たとえ明日が世界の終わりだとしても、野に出て花を摘むサンダルフォンのように、今日は今日の光の中で心の野山で花を摘もう。己の内なる髄縁真如を信じて生きれば、明日は明日の智慧が湧く。今この瞬間の2013を超えて行こう。

■年の瀬の脳天気予祝…全国各地の心の野山は晴れから晴れ晴れに変わるでしょう。

■ねこまんが「白黒猫二元論の向こう側」





新月・冬至・長周期末の祈願



■今日は新月。夕べ姪っ子とちょっとだけ話をして、受験までの最後の新月だと分かったので、願い事をするチャンスだと伝えた。様々な本やネット上のサイトにはその祈念のハウトゥーが書いてあるけれど、基本的にはそうこまごまとしたやり方や禁止事項などにまで神経質になる必要はないだろう。必ず願いが叶うのであればみんなやれば良いし、全く無駄なら誰もやらないだろう。

■その時初めて、新月と冬至が似ていると思った。冬至はその直後から夏至まで1日の昼の時間が少しずつ長くなり、太陽はそのエネルギーを(象徴的なだけでなく)強くしていくけれど、月も新月直後から満月まで少しずつその見える部分を広げていく。多分月の光のエネルギーも増大していくのだろうと推測する。私たち人間もそれら様々な周期の中にいる生命体である。

■この朔望周期と地球の1年の相似は、考えてみればある意味自明なのだけれど、この時冬至・夏至と新月・満月のイメージが初めて感覚的に重なったのだ。そして今日び人々の関心を呼ぶマヤの長期暦(13バクトゥン)1872000日の端境期、もしくは2012年12月21日問題。これもまたさらに超長期のサイクルにおける新月超え・冬至超えと解することもできるのではなかろうか。



■まあこの日付けはちょうど冬至でもあるわけだが。ちなみに2012年最後の新月は12月13日だ。この相反転は逆に1日1日の周期にもあるはずだ。頭で考えるだけの、いわゆる時計が刻む24時00分00秒ではなく、自分の住んでいるところが太陽から一番遠くに到達した時点、もしくは太陽が地球の真裏側180度に来た瞬間であろう。私たちは時計の上ではなく地上で生きているのだ。

■これはさらにホロニックに私たちの1呼吸や心臓の1鼓動にも言えることである。心臓の収縮−拡大の波形が反転する時。呼吸でも吸気と呼気の間に静止の時があるけれど、それを意識してみれば吸から呼に転じるところはある。話の大風呂敷をどこまでも広げてもしかたがないのでそそくさと畳み始めながら、少し居住まいを正して今年最後の新月の願いを為してみようかな。

■相転換期をホロニックに重ね合わせた上で、地球や人々や生物たちも含めた生命の海の1波頭として、自分の幸せはもちろんのことだが、自分の周囲の海域とも言える友人知人たちの、そして全てで1つである大きなこの生きている大海そのものが、総じてより好ましいカタチになりますように。本当は日々刻々、いつもいつもそんな意識で生きていきたいものではあるけれど。 予祝!

)太陽側から見れば地球の裏側にいる時以外の月はいつも満月だし、他の惑星から眺めるとしたら全く別の見え方をするわけだから、この地上で「新月の祈願」をすることができること自体、地球人としての1つの贅沢でもあるわけだ。地球に生まれ、生きてきて良かったとしみじみ思う今この瞬間である。

■1,2,3(その2)

■昨日の続きである。昨日とは逆に、同じ正8面体に内接・中接・外接する3つの正6面体を想定すると、この3つの正6面体の辺長比は1/3:1/2:1/1となる。



■天王星、海王星、冥王星の公転周期比は、30688.49日:60182.42日:90505.55日もしくは84.02年:164.77年:247.8年で、この値はほぼ1:2:3である。

■また土星、天王星、海王星、冥王星の軌道長半径を天文単位で見ると、9.5549 :19.2184:30.1104:39.5399で、ほぼ1:2:3:4である。



■1つの大円に内接する2つの中円、その大円と中円の間に収まる小円の半径比は1/1:1/2:1/3となっている。またこの3つの円の中心を結ぶと3:4:5の直角3角形ができる。

■この3:4からピタゴラス音階、もしくは中国の三分損益法による音階を弦長比として視覚的に描くことができる。


■1,2,3(その1)

■色々なところに奇麗な数比は存在する。ちょっとだけ1:2:3を見てみよう。多くの言葉を用いるよりも実際の立体を見れば分かるのだが、とりあえず3つの図でそれとなく示しておこう。

■先ずはアルキメデスの墓にもその概念図が刻まれていたという、底面と高さが同じ円錐・球体・円柱の体積比が1:2:3であるという図。



■次は同じ正6面体の内接球・中接球・外接球の半径比は1:√2:√3だから、その半径が創る円の面積比は1:2:3になるという図。



■それから同じ正6面体に内接・中接・外接する3つの正8面体の辺長比は1:2:3であることを示す図。


新しい「旅」の全体



■冬至も過ぎた。これから寒さはさらに深まっていくけれど、1日1日の昼の長さは長くなっていく。日の光の有難味が身に染みる。先日の会津方面の旅行で「ネット検索も含めて事前の情報収集をもっとしておけば良かった」と痛感したので、今回は温泉旅行本・時刻表・ネット検索でこの冬の青春18切符を使った九州方面の超安旅をかなりリアルにシュミレーションしてみている。

■時刻表を使って旅程を細かく作っていくと、実際に旅をしている気分になるという。自分でもそのバーチャル感を少しは知っているつもりだった。しかしネットを使って現地の天候や交通機関の接続状況などをまめに調べ、街や自然の風景も含めた温泉の画像を含めた多くの人の紹介や旅行記を見ていると、下手をすると実際の旅以上に意識が現地に飛んでしまっている状態になる。

■ネット上の情報は「未来」の予定や予測も含んでいるとはいえ、実際には「現在」直前までの「過去」のものであることは知っている。しかしリアルタイムの中継画像や、つい数日前に現地を訪れた人のビジュアルを含めたリポートを見たりしていると、旅行のための下調べのはずかいつの間にかリアリティのある「特別の旅」というひとつの実体験をしているということに気がついた。

■ネット上のシュミレーションとは知りつつも、JRを乗り継いだ長旅の後、徒歩で真冬のローカルフェリーに乗るまでの寒さや空腹も意識した20分くらいの徒歩をしている気分になっていたり、深夜に降り立った街でネットカフェに泊まるか朝まで仮眠できる安い温泉施設に向かうかを検索していて、選んだところが休みの日だと知ってショックを味わったりする奇妙なリアリティ。

■今まで半ば「真実は実体験の中にある」「本当のことはネットの上にはない」と捉えていた。しかしネット上にも利益目的ではない上質の体験記や貴重な画像もあり、自分にとっての新鮮な未知がたくさんある。それを見ること自体が今までになかった新しい感覚であり体験なのである。もちろんそれを鵜呑みにするのではなく自分なりに分析し再構築することを失念してはならないだろう。

■しかしある意味では過去に現地を訪れた人のより多くの情報と知識と体験を知ることができるこの感覚は、、実際に訪れる旅を既存の知識の追体験的な確認行為の連続にさせてしまったり、現実の旅をするよりこちらの方が楽だし面白いと考えて出不精になってしまったりするようになる恐れもある。だが案ずるなかれ、それでもそこに未知はある。不測の事態は起こる。人間の交流がある。

■今回の下調べは下手をすると実際の旅程より時間がかかってしまっているかもしれない。しかしそれも含めたより広義の「旅」だと捉えることができるならば、例えばGPS的な視座と共に現地を歩き、蓄積した諸データと重ね合わせつつ現物に新しい感覚を見出すというように、複数の視座を持つ旅をすることができるに違いない。そして実際に旅程を終えてからもその「旅」は続くのだ。

マンU vs ガンバの試合



■昨日(2008年12月18日)のFIFAクラブワールドカップの準決勝、アジアチャンピオンのガンバ大阪VS欧州覇者マンチェスター・ユナイテッド戦。財力に任せて世界中から有力選手を集めた世界選抜的チームと、今年Jリーグで8位のチームとの戦い。最終スコアは3対5だったが、攻撃的チーム同士の戦いで、実力差は随所で見られたが、それでも実に気持ちの良い試合だった。

■来日直後で時差も抜け切れていないだろうマンUのいなすかのような試合の入り方に対して、ガンバは最初から全力で飛ばしたけれど、得点できなかったのが痛い。前半は結局コーナーキックから慎重とジャンプ力の差という物理的理由大のマンUの2得点。これで終わりかと思えた後半もガンバがどんどん攻め、山崎の素晴らしいゴールで2−1となると様相が一転した。

■交代で入ってきたルーニーの2発を含めてわずか数分で3点を取るマンU。見た目にもボコいじめのような取られ方で1−5となり、改めてやっぱりチーム力の圧倒的差が…と思わされた。しかしそこからのガンバも遠藤のPKと橋本の奇麗なシュートで3−5まで押し戻した。両チーム合わせてシュート41本8ゴールは大味のように見えるが、あのマンUからの3発である。

■実はひそかに1−4というスコアを予想していたのだが、どちらのチームの実体もそれ以上だった。そしてGKファンデルサールが失点後にゴールポストを蹴って悔しがる姿、安田が身を挺して止めているボールにいらだってボールごとマジ蹴りを繰り返すルーニー、別次元のサッカーと遭遇して満足しつつ悔しがるガンバの選手たち。実にいいものを見せていただいた。

■もはや遥か昔であるとはいえ、サッカーを真剣にやっていたことがある身としては、TVで試合を見ていても自分の外で流れる試合展開と共に、自分の身の内にもサッカー血流によるアドレナリン放出や身体感覚が流れ巡るのである。おこがましいが自分の身体感覚と経験を元に、あのプレーは凄いとか注意力散漫だとか口にするのである。サッカーの試合は本当に楽しい。

■ハイライトを見たい人だけは下のYOU TUBE画像をどうぞ。

http://jp.youtube.com/watch?v=o8x-IjnIyes

■後拾遺集/自信・言葉・愛猫



■混乱が現状に対する時空平衡感覚を失わせている。意志方向のロスト。現在は記憶喪失状態だが、不安から恐怖を煽って自己変革の圧力を作るのではなく、未来につながる現在を能動的に確定していくことが重要だ。楽観できる状況ではないが、不安死と恐怖に流れる必要もない。今が変われば未来も過去も変わる。自らの未知なる力を信じつつ繊細に進もう。

■もっと意識的に言葉を口にしてみよう。より論理的に、口調は穏やかに、声は聞き取りやすいように。もっと言葉を大切に用いてみるということ。呼吸と同じように、特に意識せずともそれは可能だし、逆に意識し続けようとしても不可能である。しかし意識的に呼吸をすれば体調が整うように、意識的に言葉を用いれば、その元である意識の姿勢も整うであろう。

■鍋島藩の化け猫騒動。化け猫の不気味さや怪しさをのみ言上げするけれど、私としてはその化けてまで出てくる猫が、いかに姫君に愛されていたかということに心が行ってしまう。本当に化けて出るほどにまでに愛しそして愛されていたに違いない。本当に猫が好きな者は、まずそのような化け猫譚には登場しないし、そのような怪異現象とは交差しないのではないだろうか。

■後拾遺集/「考える」ということを考える



■あまりにも自分で考えていないことに気づいた。記憶喪失状態とは考え方を忘れていることだ。思考の持続ができない現状のことだ。思考にも質がある。思考にも随意と不随意に似た捉え方が在る。過去の学習や経験と現在意識の化学的反応により、自動的に生起するものと、それ以上の自由意志や創造的ベクトルによって創出されるものとが在るということだ。

■がさつな表現だがそれは対極の2元ではなく、両極間にスペクトル状に分布していると解した方がより近いだろう。それを質と表現している。「考える」ということの全体性は分からなくても「考えている」という自覚はある。「考える」ということを考えることもできる。同じな条件から同じようなプロセスと結論が出るなれば、その考え方の質はよろしくない。

■だからといってオリジナルならば全て良しかというとそうではない。意識と無意識、過去からの意識と未来からの意識、自己総体の意識と、自己以外の全ての意識、対認識されている双方を、水星の2公転3自転による1つのサイクルのように、2重にタイトである正4面体の面点変換のように、また素粒子物理学におけるスピン1/2的に巡って自らに戻り生じ来る考え。

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