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  • 2024.01.09 Tuesday
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振動の視角的パターン認識



■1次元的表現…ピュタゴラス音階や中国の三分損益法は、振動する弦長同士の簡単な整数比から音高や音階を視覚的に示した。理論的な協和共鳴関係と人間の聴覚認識のずれは可聴領域帯の辺縁に行くほど歪む。

■2次元的表現…クラドニは鉄板上に蒔いた砂が簡単な共鳴システムから、板上の振動の定常波パターンが幾何学模様として視覚化できることを示した。音高を変えることでそのパターンの形状は様々に変わる。

■3次元的表現…球面上の定常波は、振動部分(面)とその振動が相殺する結節部分(線)を生じ、その線同士が交差する領域(点)を惑星グリッドと呼ぶ。振動数が上がれば、多重多面体のパターンであるその形状も変わる。

■4次元的表現…時間もまたその非対称性を超えて振動であると解し、現在を過去と未来双方向からの振動の交差界面として捉え、現在の意識(存在)パターンを変え得るならば、過去と未来も連動して変わり得る。

■共に異なる次元での認識だが、振動を視覚的なパターンとして認識している。それぞれ振動数が上がればパターンも変わるが、その移行は連続的ではなく異なる次のパターンが生じるまでは混沌状態を呈する。

■これらの振動パターン及び変遷は、原子内部の振る舞いや細胞分裂の展開や惑星の諸条件などとも、またオーラやチャクラなどと表現されている超身体、そして意識そのものの変容にも比喩を超えて通じるだろう。

アイソレーションタンクを内外に反転する



■2009年01月22日の日記『内なるエアコン・外なるエアコン』で、想像力を用いれば暑さ寒さの感覚も案外自在に変えられるという類のことを書いた。真夏の暑い時は真冬のあの身を切るような寒さを取っておけたらいいのにと思う。また真冬の寒い時には逆になぜあの真夏の暑いといううだるような感覚を記憶していないのかと考える。人間は暑さ寒さの元である物理的状態も、暑さ寒さを感じた感覚の身体記憶も保持できないのだ。

■まあそれが普通の人間の常態である。様々な気候を操作でき、かつ諸般の感覚記憶を身体上に留めておいたら、ノーマルな日常生活そのものが様変わりしてしまうだろうから致し方ない。味覚や嗅覚は自己催眠的にある程度鈍らせたり鋭敏にしたりできる。私たちは拷問的光量下でもない限り視覚は目を閉じれは遮断できるし、騒音下でも聴覚は意識的に音高帯域を選択したり、方向の指向性を持って対処することができる。

■皮膚感覚には温度覚のほかに触覚や痛覚もある。私たちは感覚器官が鋭くならざるを得ない状況の時には、脳内物質を分泌したり、細胞レベルで内圧を高めたり、イメージ力で逆の感覚を作り出したりすることで、状況にカウンターを当てたり感覚を鈍化させたりすることができる。しかし「人は地面に触れる時自らの足に触れる」という表現があるように、逆に見れば外的刺激があって初めて身体感覚を自覚することができるのだ。



■しかし盛夏や厳冬などの気候の厳しい時に間逆の感覚をイメージするのであれば、むしろ気候の穏やかな春や秋の方が、暑さ寒さの逆のイメージングがたやすいのではなかろうか?…自らの感覚に問うて出した答はNO!だった。刺激が少なければそれから逃れようと強く望む気持ちも弱く、むしろその感覚にカウンターを当てるまでもなく意識しないで過ごすことができてしまう。では外部刺激がなくなったらどうなるのだろう。

■ジョン・C・リリーが考案したアイソレーションタンクというものがある。内部に高濃度の硫酸マグネシウム溶液を入れ、その中に浮かぶことによって視覚・聴覚・温覚などの感覚を遮断するタンクである。現在日本では、東京都港区白金にあるリラクゼーションサロンECCOというところに、フローティングジェルと呼ぶタンクが常設されている。実は私はそこの宮部和雄氏のご好意で、それを体験させてもらったことがある。

■物理的な環境が身体感覚に与える刺激をイメージで打ち消したり逆に持っていったりするのは、かなり能動的な操作である。しかしその外的刺激がほとんどなくなると、意識的に感覚をイメージ操作してみようと試みてもほとんど上手くいかない。まず能動的に操作しようという意識そのものが萎えしぼむ。そして内部からの感覚や記憶と区別がつかなくなってしまう。気がつけば受動的感覚と記憶一辺倒を体験しているのだ。



■見た夢を伝えようと言葉にした時点でそれは別ものになる。同様にアイソレーションタンクの中での体験を言葉で表現するのは難しい。おそらく体験内容の個人差も大きいに違いない。そこであえて挑戦的に「この日常生活の感覚もまたアイソレーションタンクの中である」と個人的感覚を表現してみる。現代生活において狂気に陥らないために、私たちはいかに多くの感覚遮断をし、そして受動的反応に甘んじていることだろう。

■陰謀論者のように現代社会を否定したり、アイソレーションタンクを貶めたりするつもりはない。自らの内面世界に湧き上がるイメージやビジョンを不安や恐怖でゆがめることなく味わい、そしてこの現実として共通認識している外面世界において意識的にイメージと創造力を用いて適応能力を強化することとは、個人の『内なるアイソレーションタンク・外なるアイソレーションタンク』として相補的につながっていくに違いない。

朧月夜という言葉



■「朧月夜」という名詞には月という字が2つカブッていると以前言ったことがある。しかしよくよく見ると「朧」という字の真ん中の下部分にもさらに「月」が入っていることに気がついた。つまり「朧月」という言葉にはフラクタルに3つの「月」が入っているのである。そもそも「朧」という言葉は春の季語である。元々は「ぼうっとしてはっきりしない様」を示す言葉だが、「朧月」に引っ張られて春の夜に特化した季語なのだ。

■つまり「朧」も「朧月」も「朧月夜」も季語としてはほぼ同じ意味なのである。ところで『源氏物語』の中にも朧月夜という名の登場人物がいる。その名は大江千里の「照りもせず曇りも果てぬ春の世の朧月夜にしくものぞなき」という句に由来する。高貴な生まれで帝の寵愛を受けつつも源氏との関係も続けたために、源氏の須磨流しの原因になった。月に見立てた源氏の栄光に陰りをもたらす存在であることから来ている。

■それから高野辰之作詞・岡野貞一作曲の文部省唱歌にも「朧月夜」という曲がある。「菜の花畠に入り日薄れ 見わたす山の端霞ふかし 春風そよふく空を見れば 夕月かかりてにおい淡し。里わの火影も森の色も 田中の小路をたどる人も 蛙のなくねもかねの音も さながら霞める朧月夜。」詩は1番2番とも脚韻を踏んでいる。そして各行とも4+4+3+3音で構成されている。最近ではマライア・キャリーも歌ったらしい。



■子供の頃は余り意識しないままメロディを覚えたが、今となってはこの味わい深い美しい情景がこの言葉のイメージに重なる。付け加えるならば、「朧」は鯛・鱈・平目等の白身の魚をゆで、身をほぐして味をつけ、いり煮にした食品のことも指すけれど、まあ上のようなロマンチックな意味を知った後では興醒めする人もいるだろう。頭の中がいつも朧な私ではあるが、この季語にふさわしき春の訪れを待ちわびる寒き冬の夜である。

)上図真ん中の絵は奥村洋子氏の作品。

サバトラ系白と断定できず



■先日日本の猫の模様の種類を調べてみた。自分の家の猫の視覚的な模様の種類が何と呼ばれているのか知りたかったからだ。ちなみに現在は純粋な「日本猫」は少ないらしいので、あえて「日本の猫」と表現している。猫バカ万歳っ!

(1)黒一色。
(2)白一色。
(3)白と黒のツートーンで、ほとんど白からほとんど黒までバリエーション豊富。
(4)青灰色系…ロシアンブルーのような灰色で多分混血が強いのかデカい。
(5)サビ…黒朱赤が入り混じった鉄サビのような柄。大部分が雌で並べて鳴き声が美しい。
(6)茶トラ系…薄茶から濃茶までの縞模様。マーマレードとかオレンジとも呼ばれる。
(7)キジトラ系…茶色の地に茶色の縞模様。名前は鳥の雉から。
(8)サバトラ系…グレーの地に黒い縞模様。名前は魚の鯖から。
(9)ヒョウ柄系…キジトラの縞が途切れたような斑点模様。少数派。
(10)その他…分類不可能な混合計や独立系も多い。

■なお様々なバリエーションを含んだ三毛猫は少なくないが、純粋な日本猫の三毛猫は余り多くない。遺伝的理由から雄は特にレア。また二毛猫と称す分類もある。基本的に白と何がしかの模様もしくは色で、白黒、白茶、白灰、白トラ柄などだが、順列組み合わせが豊富でひとくくりにするのは無理がある。

■さて我が家の愛猫は2匹。真っ黒な「デルピエ郎」は問題なく(1)である。しかし問題はもう1匹の「みかん」だ。トラ模様で下半身側が白いのは、「ナントカ系白」と呼ばれるらしいのだが、そのナントカの部分が(6)か(7)か判断がつきにくいのである。しかしどうも調べていくと、このキジトラ系とサバトラ系は明確に二分できるものではなく、むしろその間の混合と評される微妙な色具合の猫がスペクトルのように存在するようだ。



■近所の野良猫には真っ黒一色かと思いきや、胸の部分にぽつんと白い毛がある兄弟がいる。顔面の左右で真っ二つに分かれているような模様のものもいれば、パレット上で様々な色をむちゃくちゃにかき混ぜて黒っぽくなってしまったような、人間の目からはパッとしないものもいる。結論は「分類は分類を拒むようなものの前で必ずフリーズしてしまう」ということだろうか。

■しかしいかなる模様、いかなる色であろうとも、また美猫であろうとも不細工であろうとも、私は全ての猫が好きなのである。猫に興味がない人もいれば、嫌いな人もいる。それぞれを尊重しつつ、猫と人間双方にとって幸せな世界を創って生きたいものである。…あ、もちろん犬や兎や猿や牛、馬鹿羊豚に狐狸妖怪までも共にである。(馬鹿の部分は作為的に続けて読まないように)

くりそつとそっくり



■夕飯を食いに行った蕎麦屋さんで見た週刊誌『週刊文春』の中に、似ているヒトというテーマで写真が並べてあった。毎年新春にやっているらしい。それを見て私も自分なりに作ってみた。相似を見出すのは全体であり、差異を見出すのは細部である…などと難しがらずに見てみてほしい。自分で普段TVなどを見て、似ているなあと思っている人と人とが、並べてみると思ったより似ていないことが判明してしまった。

■もちろん角度によってはバッチリというのもあるけれど、多分普段その人から受け取っているイメージというものが似ているのだろうと勝手に解釈しておくことにした。個人的には友人知人が似ているなあと思う有名人は結構いるのだが、これは笑いのために友を売る行為に近いので一応差し控えておく。それはそれとして、一応有名人ということで敬称略で並べさせてもらった人たちに説明を少ししなければ失礼だろう。



■先ず最上図の2氏。今回ドイツのブンデスリーガに行く大久保嘉人は現麻生太郎首相の息子といっても良いくらい似ていると思っていた。骨格から来るのか、声の響き方やふてぶてしさや、どうしても上品とはいえない感じ(失礼)とかいろいろあって。しかし比べてみると余り似ていない。そこで麻生氏28歳の写真を挟んでみた。大久保クンも遠からぬうちにその辺りの歳になるし。…すると似ている説がさほど無理でないかもと思い直せた。

■次に上図の4氏。テニスの錦織クンを最初に見た時、マリナーズ所属の城島捕手の子供か?と思った。これまた親子ほどの歳の違いだが、こちらも見る角度によってよく似ているときと、全然違うときがある。どちらもハンサムであるが。それから去年まで中日にいた中村ノリと大相撲の八角親方。TVで相撲の解説をしている親方を見て、あ、ノリがしゃべってると思ったのだが、こちらも並べてみると余り似ていないかも。



■そして上の4氏。北朝鮮から日本にやってきたジェンキンス氏と、ビートたけしが似ていると騒ぎ始めたのはうちの嫁さんだった。角度によってはこれは意外にもかなり似ていた。どこか哀愁のある口元や鼻周り。遠く引いて見ると目や眉辺りまで似ている感じ。そして最後ははんにゃの川島クンが番組の中でめがねをかけて似ていると仲間からからかわれていたのを確かめてみたもの。全体に似ているけれど、特に目じりかな。

■そんなこんなで日々人によって、似ているなあと感じる芸能人とか有名人とかはいろいろあると思う。友人知人は身近かぎて余りおおっぴらに言えないが、時々ふと思い返して心の中で笑ってみたりする。…しかしよくよく考えると逆も全くアリである。まあ似ているとて笑われて世界が少しでも明るくなるのであれば、笑われても良しとすべきかな〜。イメージを極端に貶めるような相似形の統合でなければだけれどさ。

陰謀や洗脳に関する本が沢山



■それなりに筋の通った洗脳や陰謀に関する本を読むことは嫌いではない。そもそもその本そのものも洗脳や陰謀の一環である可能性を念頭に読み進むという多重腰の姿勢の訓練になるからだ。また自分自身の内に確定してしまって自らは疑うことすらないものの見方に、もう1度確認の振動を与えることができるのもありがたい。ユダのキリストとの関係の根本的見直しのように、自分の中では自明だったはずの諸問題の棚卸作業。

■ビートルズの全曲はカバー曲を除けば全て彼らのオリジナルだと考えられていた。セオドア・アマルドという男が彼らの曲の一部を作ったのだが、その楽譜を実はビートルズの誰もが読めなかったという話を聞かされても、私の中のビートルズの輝きは揺らがない。しかしその無調不協和音曲には、社会的騒乱を創出のための条件付けが混入させていると言われると、真偽確認の前に私の中に拒絶感が生ずるのは問題ではなかろうか。

■マーガレット・ミードやその旦那であるグレゴリー・ベイトソンが実は私はかなり好きなのだが、第2次世界大戦後に表立って動く世界情勢の背後で様々に動いている団体のあちこちにその名前も連なっているということを様々な証拠と共に検証されると、自分の中で拒絶するにしても受け入れるにしても、それまでのままではいられず瞬時の決断に迫られる。判断停止や問題先送りは脳死や自由意志の放棄を意味してしまうのだ。



■もちろん拝金主義的なロック、戦略的な麻薬の氾濫、妊娠中絶と同性愛、結婚制度と乱交、ネット上に氾濫するポルノ、平和憲法と改憲論、すでに破綻している陪審員制度、未成年へのコンドーム配布、殺人悪糾弾への希薄な論理などど、数え上げたらきりがないほど未決定未解決の問題は山積している、しかしそれら全てが陰謀や意識操作の結果と経過であると主張されると、その論旨自体にも素直に疑問を感じてしまうのだが。

■情報の集積と堆積のとめどない加速によって、世界の様々な出来事を記憶に留めておくことが難しい。ブッシュとゴアが最後まで投票用紙の集積でもめた時も、大量破壊兵器を探す名目で一方的にイラクを蹂躙した時も、普通の感覚があればそこに情報操作や欺瞞があることは分かっていた。無謀に反発して自滅するのは良くない選択だが、PCの前でただ何もせず自分と世界を切り離して過ごすのも同じくらい生き様を汚す。

■過去の話ではなく、この今の内面と外面の世界の由々しき問題だ。過大評価も過小評価も困り者だが、過激な陰謀論者に変ずるのも、妄想と詭弁であると無視するのも、選択の自由ではあるが最善ではない。操作する側とされる側という2値では事足りない。操作をするにも防ぐにも4値論理の視座がいる。そして全てが1つと見る5=1のペンターブ的な視座。ひっくり返せば1の中にすでに4値が内包しているという事実。



■残念ながら陰謀と洗脳に関する書籍には、未だに笑いや意外なカタストロフィがない。電脳技術と情報操作で完璧な管理社会を構築したけれど、奴隷ロボット化させたはずの肝心の愚民たちが、みんなまとめて別次元に転移してしまったとか、逆に1人抜け駆けして望みどおりアセンションしてみたら、ヘンな宇宙人によるガチな管理ワールドだったとか、管理社会そのものが1つ上の神々の戯れだったとかなら結構笑えるよね。

(続く)

忍び寄り情動をかき鳴らす音楽



■我が家から車で10分もかからないところにある千種区イオンには「ザ・リブレット千種店」という大きな書店が入っている。広い店内にゆったりしたディスプレイと工夫を凝らした陳列配置で、品揃えや雰囲気にもセンスをかんじさせてくれる書店である。しかしそこの店内のBGM選曲は、これが趣味の良い音楽ですよ的なにおいが感じられていただけない。長いこといると無意識的に不快で不安な気分にさせられるのである。

■ところが近所の本屋のBGMは、それとは対称的に控えめな音量で、選曲も誰でも知っている当たり障りのない名曲ばかり流れている。そしてこれは以前から何度もあることなのだが、マンガや雑誌を立ち読みしていて、その内容に対して共感や同情や憧憬や懐かしさなどで、自分の情動が心地よく揺れているのに気付くことがある。密やかに忍び寄っているBGMのせいだ。それは快感であり、そして同時に実に危険でもある。

■人間の情緒が音楽によって無意識的に揺さぶられ、引っ張られるのは、そのとき限りのものであり自然なものだ。しかし無意識的に浴びている者に対して、人間の条件反射的反応で操作しようとするのであれば、これはかなり有効な手段である。心地よい音楽。日々の生活における時間的空白部分を、音楽を聴くことで埋め尽くさずにはいられないならば、それは依存症の領域に踏み込んでいる可能性を考えなければならないだろう。

     

■これほど分かりやすく扱いやすい音楽的感性を、商業的動機付けや政治的な世論操作その他に用いられていないと考える方が不自然だろう。もちろん芸術として生命の謳歌や人間的精神の肯定などを謳うものもあるはずだ。しかしそれすらも自主的な判断なき状態では一種の洗脳に通じるのである。そう考えて先の「ザ・リブレット千種店」の選曲を考え直せば、むしろ自分を見詰め直させてくれるという意味でも好意的評価を与えたい。

■自らはさしたる努力も何もせず、ただ不可知なる超越次元の慈愛と恩寵を信じて、遠からぬ未来に眼前に訪れるであろう至福の世界を待ち焦がれるというのは、決して最善の生き様ではありえない。グルや神仏に自らを滅却放下して悟達至高の境地を得ようという方法はすでに古い。現代では悪魔や妖怪の憑依や誘惑を恐れるのではなく、個人や社会の洗脳や操作に踊らされ、無自覚な奴隷と化されることにこそ注意を向けるべきだろう。

■色も音も形も数も言葉すらもが私たちの心を偽り、そしてまた逆に妄昧な状態から目覚めさせてもくれる。五感やそれ以上の「識」域を断つのではなく、人間としてそれを能動的に味わいながら未来へ抜ける道を探ること。観念や理論だけではなく、自分の意識の状態を知り、相手の言葉の響きや表情を正確に捉え、自分の空間や共有の空間に張り巡らされた虚偽や罠や過去の遺物を一つ一つ慎重かつ迅速に見抜き、それを超えて行こう。

内なるエアコン・外なるエアコン



■いかに暖冬などと言ってみても、やはり身体感覚的には寒い朝。のろのろと布団から這いずり出て、半ば無意識的にエアコンのスイッチを入れる。カーテンの隙間から窓外を見る。真冬然とした曇天に寒さを感じる。眼下の道路端に立って、この部屋を見上げている自分をイメージしてみた。今朝の寒さがより身に染みる。しかしそれと同時に、遥か昔に井の頭公園の池に面したベンチに座り、似たようなことをしていたことを思い出した。

■ヒマラヤ山中の氷雪の上に座して瞑想していた僧侶が、それを終えてつと立ちあがった時、そこの氷だけが解けていたという話。本で読んだのか、それとも友人から聞いたのか、若かった私はそんな話にも憧れた。現実的な感覚をある程度まではイメージ力で変えられるということは知っていた。しかし単なる知識ではなく、我流でいいから実際にそれをやってみようと外に出て、真冬のベンチに座ったのだった。やはり寒々しい曇天の空だった。

■それは大しで難しいことではない。目を閉じて焚き火の前にいることを想像してみた。遠赤の熱気を頬に感じ、かざした手のひらは血行が良くなっていくという感覚。思い込みが激しい人というのはいるけれど、思い込みを自在にコントロールできたらかなり便利だろう。次に目を開けながら熱い風呂に入った記憶を、身体上に煽ってみた。真冬の寒風が湖面に漣を立てているのが見えてはいるけれど、それでも体の中は暖かかった。



■そこで一転して、現実的な外気に意識を向けてみた。寒さはすぐに暖かさを駆逐した。そして再びイメージの中で焚き火を輝かせてみる。能動的に為す自己催眠は有効だ。交互に繰り返すと暖かさと寒さをはほぼ同時にを感じられる。単なる冬の日の寒さだったものが新鮮に感じられる。感覚の鮮明化。これをさらに強化して超能力のように磨くことに興味は向かなかった。そして今、半ば無意識的にエアコンのスイッチを入れた自分。

■「暑い時は暑い。寒いときは寒い。」禅者の言葉。暑さ寒さは諦めてそれなりに生きよと言う意味では決してない。他者に半ば洗脳的・催眠術的に操られるのではなく、自分である程度操作できると知った上で、改めて作為なく暑さ寒さを味わってみる。他者に感覚をマヒさせされるのは不快極まりない。しかし自分自身の無意識の不活性な辺りで、機械的にエアコンのステッチを入れるその前に、内なるエアコンのスイッチを入れてみよう。

■修行だ訓練だと我慢したりするのでなく、エネルギー問題だ地球に優しくするためになどと声高に主張するでもなく、ただもう少しだけ自分自身の鈍感に放置しやすい普通の感覚を意識的に用いてみよう。感覚を遮断するのではない。先鋭化繊細化するのでもない、イメージ力と相まって狭い帯域の中だけで繊細な差異を感知できるだけでなく、馬鹿広い帯域をただ網羅するだけでもなく、自由自在に楽しみながら人間の感覚を味わうということ。

洗脳と脱洗脳の行われる位置



■水は地表に豊富に存在し、人体の約60〜70%も水である。生物の生育や熱の循環に不可欠なものであり、私たちにとって最も身近でありふれたものでもある。しかし比熱が異常に大きかったり、液体の方が固体よりも体積が小さいなど様々な特徴を有する異常液体であり、地球上のように固体、液体、気体の3態で同時に存在するのは宇宙では稀である。化学式ではH2Oで表わされる水素と酸素の化合物で、常温常圧では無味無臭で、色は微青緑色を呈す。

■化学的には水素イオンH+と水酸イオンOH-は水分子H2Oの電離状態として存在し、それぞれ酸とアルカリの原因となると説明される。半田コウセン氏の世界観ではOH-を時空上のモノ1つに対する知覚(主体意識)の位置、H+をモノ1つを名指している言語の位置(客体意識)として捉え、「水」H2Oを知覚と言語の一致、すなわち時空上の一個のモノという認識のカタチ(人間の内面と外面の意識の結節点のカタチ)に対応させている。

■洗脳とはこの人間の内面と外面の意識の結節点を言語によって、洗脳者側に都合の良い世界観に歪める作業である。知覚しているだけで未だ言語化されていないモノを、相手と同じ視座に立つふりをして先に言語化してしまうことで、相手の意識のカタチをこちらの言語化された世界観にずらし重ねてしまうのだ。もちろんこの全体構造を理解していれば脱洗脳も可能だが、相手が主体意識を持たなければ、脱洗脳もまた別洗脳と等価であろう。



■洗脳には個人レベルと国家や社会全体のレベルがある。前者は瞬時に成すことが可能だが、後者は長い時間をかけて構築される。それゆえに前者は比較的短時間に脱洗脳が可能だが、後者は長い時間をかけてその全過程を研究し、オセロのコマをひっくり返すように地道に洗脳を解いていく必要がある。なぜならその脱洗脳の元となる思考や発想自体が洗脳されたものの中で足場を固めつつ立ち上がらねばならないからだ。

■もちろん洗脳も脱洗脳もそれを為す者はその視座を超えていなければならない。半田コウセン氏はかつて自己他者問題の位置の交換、もしくは視座の交換を説明する時、眼前であい対している者の目を通して自分や周囲を見るイメージを要求していた。イメージではそれが可能なのだ。そしてそれは自己−他者間で相互反転性を有する。この裏と表の重なりを言語と催眠で都合の良いように不均衡に歪めるのが洗脳である。

)最上図はコーセン氏のブログ cavesyndrome より借用。なおこの発現趣旨は彼のヌーソロジーとは現時点では関係ありません。

■後拾遺集



■今でこそ10進法的な数量の扱いを知っているが、前世紀最初の頃の人類学者が未開人と表現していた人たちの数の数え方は1つ、2つ、たくさんだった。3は1つと2つで表わし、4は2つと2つで表わしていた。ほとんどそれだけで事足りたのであれば、それはそれで幸せであっただろうと考えていた。しかし先日私はこの数え方が最初のデジタル、2進法でもあることに気がつき愕然とした。

■本当に好きなことをやり続けた者が未来を創るという表現は真理に近いだろう。では本当にやりたいこととは何か?様々な社会的洗脳や記憶能力の劣化によって、その問い自体を自分が落ち着いて自問する機会から、身を避ける悪癖がついはいないか。与えられた役割にベストを尽くすことは当たり前のことだ。その上で失敗を恐れず瞬時の判断で新しい発想を実現することを自分に再び許すこと。

■もう少し数や形について考えを深めようとする時、真剣で繊細な意識モードで望むべきであるとの自覚がある。受験勉強が良いとも悪いとも言うつもりはないが、時間を区切ってその間に蓄積した努力を最高の状態で発現しようとする緊張感や意識の圧縮感を味わってみるのも、使わずにいた脳の部位の錆び落としのためにも悪くはない。現実を未来につなげようとする生き様の模索。

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