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  • 2024.01.09 Tuesday
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9:1…右利き左利きと異性愛同性愛



■さてまたもやにルービックキューブだ。6つのどの面も3×3の小さい9つの面に分かれている。つまり全部で54面あるということだ。また小さなキューブは3×3×3で27個ある。このうち外から3面が見えのは8個、2面が見えるのは12個、そして1面しか見えないのが6個。それぞれ正6面体の点・線・面の位置に相当する。そして1面も見えない1個が重心の位置にある。この小さいキューブの1面はそのまま外の各面の9面と対応する。

■人間の右利きと左利きの問題。成人の自己申告制による非公式な調査では、右利きと左利きの比率は概算で9:1になるという。もっとも右利きと左利きを優れた手と劣った手とするのは古い概念だ。左手でコードを押さえ右手で弦を鳴らしながらギターを演奏する時、左右の優劣を云々するのは無意味だと分かるだろう。強い右利きから両手を使う者を経由して強い左利きまでのスペクトルがあるだけだ。ただし右利きと左利きは確かにある。

■古い資料だがキンゼイリポートには性的志向の存在比率の数値がある。異性に対する強い好みから、バイセクシャルを経由して同性に対する強い好みまでが、両極の幅から約9:1の比率で連続的に表れているのだ。最近では性同一性障害や性転換から、同性結婚を合法とするのみならず、それを両親としての養子も認められる地域もあるくらいだが、幼児体験などを考慮に入れてもそれでも生物学的な同性異性志向の比率には大差がない。



■9:1についてのばらばらな話のオムニバスのようだが、この人間の右利き左利きと異性愛者と同性愛者の問題、もしくは表現を変えれば両手利きとバイセクシャルの比率には、生物学的・社会学的に何らかの関係があるのではないかという考え方がある。もちろん両手使いイコール両刀使いということではなく、分布比率の出現構造にという意味である。「アスパラガスが好きでなくてよかったわ。だって好きなら食べなければならないでしょ。」

■この言葉は不思議の国のアリスの言葉だ。幸か不幸か私は、最近は衰えてきたとはいえかなり強度の異性志向だが、もし不幸な幸いの結果バイセクシャルや同性愛者であったとしても、アリスの言うセリフの本質と同じ言明をするだろう。質的な正常と異常ではなく、量的な多数派と少数派なだけでどちらも正常なのだ。私は少数派に偏見を持つつもりはない。ただし愛し合うかどうかはまた別の問題だ。もちろん相手が異性であってもである。

■人間が10進法で数を数えるということ。もしくは9の次に桁が1つ上がって新たなる1(=10)になるということ。単に進化過程で両手の指が5×2あったのでそれを用いて計算したために10進法が発達したという説明はあまりにがさつに過ぎるだろう。男女の存在、左右の存在、それらの関係。3軸直交とミクロ・マクロ方向の対称性、右脳と左脳、交差と反転。…そんなことを考えながら、今日もまたルービックキューブを回しているのである。

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■p.s.  友人の「Φ=WHY?」氏から「塩基」(アルカリ)を決定する水酸イオンOH-の陽子数と「酸」を決定する水素イオンH+の陽子数の比率も9:1であるということ(水酸イオンOH-と水素イオンH+が結合したものは「水」)を指摘していただいた。ここに感謝共に併記させていただく。


野菜スープ責め最高の再考



■最近は腹が減ったら食べるという原始的生活をしているが、今月の中旬くらいからほとんど毎日野菜スープばかり食っていることにふと気づいた。「おいおい、もっと早く気づけよ!」と言う突っ込みは正論だが、いろいろとやりたいことに夢中で、元々少ない脳みその可動メモリーが食事領域までカバーする余地がなかったのだ。で気づけば大根・人参・玉葱などの根菜を煮込み始め、味付けはどうしようなどと考えている自分を発見する。

■基本的に味付けは塩・胡椒だが、あとは鶏がらスープか、ガーリック&バターか、ベーコン&コーンか、コンソメ&生バジルかカレー風味か…とダシと具でバリエーションを持たせている。バジリコを入れるので見た目はいつも赤みがっているけれど、味は見た目よりかなり幅を持たせている。レーズンとか新ジャガ小玉の丸揚げとかを半ば無意識に入れて目先も変えてみている。慣れてくると手際も良くなり、サラダなどを添えてみる。

■あまり西洋風のカロリー計算や1日30品目などというものは信じていないが、それでも今日まじまじ考えてみたら、微妙に塩分の取りすぎ気味なのと、やはり栄養が偏ってきているのを何となく感じた。血の滴るようなステーキや焼肉を欲しはしないけれど、果物や穀類が食いたいと身体感覚のどこかが主張している。毎回唐辛子を入れすぎているからだろう、少し内臓が疲れ気味なきもする。ヨーグルトを毎日食ってはいるのだけれど。



■しかしきっぱり「野菜スープとはしばしお別れ!」というつもりはない。半ば無意識的に作って食べるという行動を止めて、もう少し意識的に食べ物を味わおうということだ。そもそも野菜スープを上手いと感じて食べ続けているのは、素材がいいのもあると思う。宅配野菜を毎回食べ切らねばというのも野菜スープ責めの一因だ。ご飯を炊いて食べれば野菜も消費できる。野菜だけ食べようとするから、美味しさを味わう余裕がないのだな。

■ということで今度はクリームシチュー風とか、カレーライスとか、塩もみ浅漬けにするとか、もう少し幅広く展開していくことにしよう。ベランダではバジルが少しずつ成長している。その横から自然に芽吹いた大葉を20枚ほど収穫して、今日はバジルの代わりにシソペーストを作り、ジェノベーゼならぬシソベーゼを作ってみようとした。しかし結局オリーブオイル不足で野菜たっぷりシソパスタ+野菜スープ+野菜サラダになってしまった。

■まあ自分で作ったものは美味いに越したことはないが、何より自分の体にいいという感じがする。コンビニ弁当やてんやものも今は企業努力もあってかなり美味しくそして安い。しかしちょっと高めについても時間が許すなら自分が食べるものは自分で作って食べるというのが、精神論や健康理論を放り投げておいても心身に一番いいと自分で感じている。惰性で機械的に作る愚行に陥らなければ、それはきっと心身が喜ぶ贅沢なのだろう。


『バクマン』は未来の設定だったんだ



■今日発売の「少年ジャンプ」の『バクマン』を読んでいて、現時点からすればこの作品の設定世界が未来の話であるということに気がついた。最初のページの2コマ目にジャンプの背表紙が描かれているが、2010年の40号と41号になっている。ということは今回の雪の話は2010年末の話と言うことだろうか。しかし40、41号といったら10月頃に出る号数のはずだ。これはいったいどうなっているのだろう?

■そこで何冊かジャンプのバックナンバーを読んでみた。前号は年が明けて新年会のハーティーの話だったわけだから、今号はその続きでまだ新年から間がないはずだ。ということはひょっとしてこの2010年の40、41号は「金未来杯」で蒼木・中井コンビの『hideout door』が載った号と、蒼木に一緒にやろうと誘いをかけた間界野昂次(KOOGY)の『カラフジカル』が載った号なのではと考え直しました。

■ということは、今回の『バクマン』の話の中はすでに2011年の初めという設定になっているということなのではないだろうか。…まあ今後すぐに2012年12月21日系の話題とかが出てきたりすることはないとは思うけれど、綿密なリアリティと意外性が1つの真骨頂でもある個の作品に関しては、図らずもついマニアックになってきている自覚があります。これも侮れないジャンプの影響力なのだろうか。



■それにしても『バクマン』は絵の上手さは一目瞭然で、原作もしっかりしているので展開や表現も完成度が高く、安心して読むことができる。しかもほぼ毎号36〜38ページも載っているのだ。少年ジャンプの中でもかなり別格の作品である。作品の中の登場人物も極悪人は出てこないし、性格がまっすぐでないキャラもギャグ扱いで出てくるが、基本は実力の世界だ。

■今回も私の好きな新妻エイジは相変わらずちょこっとだけ、しかもかなり小コマのギャグタッチでしか出てこないが、それでもいい味で描かれている。下手な人が同じ話を書いてもチンプな感動モノに過ぎないのだろうが、立派な読み切り話になっているのが凄い。それにしても最近はなんだかんだ言いながらこの『バクマン』を読みたいがために少年ジャンプを購入して読んでしまっている。

■読みたいマンガが安定して何本かあるからだが、単行本でまとめて読む快楽とは違った、週間でリアルタイムで読む面白さもたまらない。『ONE PIECE』『NARUTO』『BLEACH』は長い長い大団円的なクライマックスの最中で外せない。『AKABOSHI』は絵がムチャ上手いが話はどうだろう。普通ならありえない発売日を楽しみに待ち、当日に購入して読むというパターンは、なんか当分続きそうだ。


ルービックキューブで立体裸眼視?



■平面に描かれた正6面体は、見方によって中央の頂点部分が手前に凸とも、奥に凹んでいるとも見える。もちろん実際は平面だから凹凸はないのである。そこで私はルービックキューブを手に取り、同様のことを試みてみた。もちろん3次元立体なので最初から立方体頂点は手前側に凸なのだが、それを意識的に反転して見てみようとしたのだ。奇妙な話だが、片目をつむってやれば、手前の最凸部を最奥凹部として見ることは案外簡単にできてしまう。

■立体裸眼視もしくは3Dアートというものがある。交差法か平行法のどちらかで両眼視差の焦点を意識的にずらして、平面画像を立体的に見るというあれだ。この立体裸眼視の最中に目の前の画面を少しずつ回転させてみたことがあるだろうか。ある角度まで来ると立体的に見えていた画像が崩れてしまう限界角度がある。ルービックキューブの凸部と凹部を反転視しつつ、こちらの視座をずらしても似たような感覚を受ける。早すぎると崩れてしまう。

■菱形30面体という立体がある。正12面体や正20面体と同じ5重対称性を有する立体だ。この立体を知らない人や、実際に手にとってみたことがない人はもちろんだが、その特徴をよく知っていている人でも、平面上に線だけで描かれたこの立体を見ると、時として凹凸を成す正6面体の塊か、ペンローズタイルのパターンのように捉えてしまうことがある。私たちの空間を見る目が正6面体に内包する直交3軸に馴染み過ぎているからだろうか。



■人間の知覚がそのように錯覚しやすいのであれば、それを逆手にとって、通常見えている私たちの3次元的な立体の認識能力…もしくは人間型ゲシュタルト…を揺らしてみることもできるのではなかろうか。ということで最初に戻るのである。のっぺらな正6面体でもいいのだが、せっかくだから3×3×3のグリッドが入ったルービックキューブを手に取り、最先端部を意識的に最奥部へとひっくり返すのだ。最初は片目で、そして次は両目を使いながら。

■ひっくり返すと言ってもあまり役に立たないスプーン曲げのように実際に物理的に変形させるのではない。錯覚しやすい私たち人間の視覚認識を、自分自身の意思で能動的に錯覚させるのである。この操作は思い込みの激しい人の方が得意で、論理的で概念操作が得意な人の方が苦手なのかも知れない。ただ普通に見えているこの世界自体もまた錯覚の一部でありうるという発想へつながれば、世界の見方を能動的に変えられるかもしれない。

■ただし急激にのめりこむのは宜しくない。3Dアートを見ながらその絵を回転しすぎると気持ちが悪くなるように、ルービックキューブに限らず、直交3軸がメインのビルディングや部屋の隅などの3次元の物体の凹凸を反転させながら自分の視座や視角を急激に変えたりすると、やはり気分が悪くなる可能性があるので注意が必要だ。まあこんな真似をする人もいないのではあろうけれど。「見方を変えれば見え方が変わる」にもいろいろあると言うことだ。



■ひっくり返すにもいろいろある。地球の曲率をひっくり返せば地球空洞説のようなペルシダワールドになるし、太陽を挟んでDNAの2重螺旋をイメージしながら地球の位置をひっくり返せば、惑星クラリオンの世界にもなる。問題はそのどちらをも等距離に見る視座があるかないかということから始めなくてはいけないということだろう。”I am another yourself.”という言明でなされている、その反転の道筋をトレースすることも怠ってはならない。


村八分・ルービックキューブ



■私たちは心の平静を取り戻そうとする時、お題目を唱えたり深呼吸を繰り返したりと様々なことをする。『ジョジョの奇妙な冒険』に出でくるプッチ神父は自分を落ち着かせるために素数を数え上げていたが、最近の私はやいつも持ち歩いているルービックキューブを必要な時にカバンから取り出して回すことにしている。まあ気分転換に近いのだが、今のところこれがチェンジオブペースには結構有効だったりする。

■最短の時間と手順で完成させために決まったルールや手順を完璧に記憶するというような根気はないので、決まった手順の間に何ヶ所か試行錯誤する余地が残っており、そこでのトライが心をシフトさせるのだ。今日1つ分かったのは、車の中でやると気持ちが悪くなるということだ。地下鉄の中では大丈夫なので、本を読む時と似たような脳の部位を用いているのかも知れない。他者と話をしていてもよく間違える。

■私たちはちょっと意識的にやれば、人と話をしたり本を読んだりしながらも、その意識の背景で数を数え続けることができるのだが、ルービックキューブはほかにも形・色・位置・回転などの要素もあるので、少し複雑な操作のようだ。ぱっと見ただけであとは目を閉じたままでも完成できるというような境地には興味がない。もう少しこの3軸直交の回転軸の混交や、3×3×3のキューブ自体について面白がりたい。



■そしてそれを為すこの「手」そのものの構造の複雑な稼動形態と、そこにある「手自体の知」のようなもの、さらには瞬時に見て判断して次の動きを連動させる意識、回っているのは常に私の方でもあるという視座、また90度回転と270度回転は正逆のリバースであることや、90度回転と180度回転では全くフェイズが異なるということなども、頭の中で色々思い巡らすよりも実際に手にとって回転させたほうがよく分かる。

■健康のために腹八分目、ルービックキューブ目…なんてダジャレを言ってもしょうがないので、そろそろ前後・左右・上下の回転対称軸についても考えてみることにしよう。


歩いて、猫見て、考えて



■知人の日記に、自分は以前万歩計を付けて1日1万歩歩いていた時期があり、歩いているうちに別の思考モードになったということや、人間の巡航歩行速度は計算してみると(不眠で歩き続けるという前提でだが)1年365日でちょうど地球を1周する早さだなどということを書き込んでから、ふと最近は歩いていないことに気がついた。これではいかんということで、今日は徒歩で片道20〜25分くらいのところにある鶴舞公園まで散歩することにした。

■第一目的は、先月末に東村山の北山公園の広い菖蒲園で、花を管理している人に聞いて知った「愛知の輝」という種類を観賞すること。第二目的は同じく広々としたバラ園の状況を見ること。そして第三の目的はそこに生息している猫たちに愛に行くことである。歩くことはその後の目的に瞬時に格下げしてしまったのだが、まっいっか。早速少し広めの菖蒲コーナーに行ってみたら、様々な種類が咲き乱れるシーズンはまだもう少し先のようだった。

■菖蒲の種類が記された立て札群はたくさん並んでいるのだが、まだ咲いていないものが多かったので、今回は黄色い花の「愛知の輝」を発見することはできなかった。ちょっと拍子抜け。しかし真っ白な第三目的は、まだ咲き揃っていない菖蒲の株の間でしっかり昼寝をしていた。軽く挨拶をしてから、第二目的に足を向ける。こちらはすでに繚乱状態だった。そしてあちこちで、多くの人出にもめげずに生息する、第三目的生物たちを散見できたのだ。



■ガリガリの黒猫や、目つきの鋭い子猫や、おっとりしていて人に撫でられている猫たちを目で愛でてから、休憩がてら鶴舞図書館に入って調べ物をした。日本語源辞典などで大和言葉を調べたのだが、か「日」、かぞ「父」、かず「数」、かたち「形・型」、かたる「語る」、かたな「刀」などがずるずるつながっていることに圧倒され、これはもっと本腰を入れて調べ直すべしと自らに課題を出しつつ帰宅。歩きながら考えるというのもいいもんだ。

■でも結局、第三目的が実のところ第一目的であったことが改めて分かった。家に戻ると我が家の2匹は何も知らずに爆睡してた。今日は結婚記念日らしい。


緑を眺め続けて緑になる日



■毎朝スタバに行くと何となく気恥ずかしいので、今朝は手前のミスドに入った。いつもと違う窓の外。今日は道を急ぐ人通りより、雨上がりの澄んだ陽光を浴びて、青空に映えながら微風に揺らいでいる並木が先ず目に入った。自分がこの世界に生まれ出たこの新緑萌える素晴らしい季節に、木々や草々を改めて眺めると、それだけで心は落ち着き気は和む。優しく知に満ちた緑の命たち。視界の中に植物がある限り、私は狂気に陥ることはないだろう。

■遥か昔からこの地上を覆い、大気を整え、大地を豊かにしてくれてきた植物たちを、私は今とてもとても愛しているという実感がある。そしてベランダのプランターから雑草として草や小花を抜き捨てたとしても、収穫した野菜をスープに煮込んで食したとしても、それでも植物にとても愛され、大切にされているという自分自身を感じている。平常心で考えれば、それは単なる妄想でありひとりよがりの世界の見え方に過ぎないと判断されるだろう。

■しかしもし余裕があるならば、今為している仕事の手をちょっとだけ止めて、窓外の樹木や室内の観葉植物に目を向けてみてほしい。いつも通る大通りの並木や神社を取り囲む森の木々を想起してもらってもいい。壁に絡まって家を覆うような蔦や、アスファルトの割れ目から伸びている雑草や、庭木や芝草をイメージするだけでもいい。ただそれだけでも、心のどこかが癒されてはいないだろうか。そこに確かに在る優しさを感じはしないだろうか。



■広い公園のベンチの片隅に座って、繰り返し繰り返し風になびいている木々を眺めていると、自分を超えた記憶や知識や情動が流れ込んでくる気がする。その一にして多、多にして一の生命体が、遥か昔からその存在たちのすぐ端で繰り広げられてきた命たちの喜怒哀楽を、逃すことなく刻み込んできた記録たちの残響。音として耳には聞こえないけれど常に歌われている調べ。言葉で綴られてはいないけれど語り続けられている真の記憶たち。

■大樹の幹に触れて、心の中で静かに挨拶をしてみる。「…こんにちわ、私です。」人間なら「私って誰だよ。おまえなんか知らないぞ。馴れ馴れしくするなよ、キモいな」などとリアクションされるかもしれない。しかし植物なら今ここでの在りのままの私を、そのまま「ああ…おまえさんか」という感じで受け入れてくれている気がする。いつもいつもいつも、もの言わずただそこにいてくれる植物たち。無限の情報を保ちながらも、もの言わぬ植物たち。

■コンピュータ用語でユビキタスという言葉がある。世界中のあらゆるところでコンピュータとアクセスできる、いわゆる「どこでもコンピュータ」の概念だ。世界中の植物はその独自の場でつながっているという。もし植物とつながることができて様々な情報をやり取りできるとしたら、これこそ真のユビキタスネットワークとなるだろう。どうやって取り出せばいいのかまだ分からないけれど、これからは少しずつその情報を共有できていくという気がする。



■まあそのような不確かな発想は置いておいても、このまばゆい光と水と風の中で改めて思う。私は植物が大好きなのだと。私は植物たちに大切にされているのだと。そしてこの爽やかな5月の大気の中で、緑なす木々たちを眺め続けていてふと目を閉じると、赤い血を身体に巡らせながら生を刻んでいるこの私という生命体すらもまた、風に揺らぐたおやかな草木になっていく…。そうか、赤と緑は補色なのだ。ああ…そう言えば、今日は私の誕生日だ。


湿やかな雨の日に反転する思いたち



■静かな雨の日曜日、交差点にある新しい喫茶店2階の窓辺に座って、過去と現在を未来につなげるために思考と情緒を転がしてみる。玉石混交の砂利石を両手でふるいにかけているかのように、様々な記憶たちを右脳に傾け左脳に転がしてみる。細やかな記憶や滑らかな思い出は網の目から落ちて行き、苦々しくがさつなままの未解決な記憶たちだけが、前頭葉の上あたりの意識空間に吹き溜まり、乾いてた音を立てながら残っている。

■遥か昔小学校に登校途中に出会ったのに救い上げてやれなかった、あの捨て猫の小刻みに震えていた前足の感触。自分を慕ってくれている娘に対して、膨れ上がった自尊心に弾き出されて、掛けてやれなかった思いやりの一言。とうに伝わっているはずだと無理やり思い込んで、今は亡き父に対して「ありがとう」と声に出して言わなかった感謝の言葉。弱さゆえに、若さゆえに、狡さゆえに、自ら能動的には関与しなかった草々。

■取り返しのつかないその時々の自分たちを、今の私は責めたり悔やんだりすることはない。その時はそのようにしか生きれなかったのだ。未来を否定しないように、過去たちを否定することもない。ただ本当に今、心に湧き起こってくるのは、もう1度会いたいという気持ちだ。会いたいという気持ちを未練がましいと切り捨てたり、過去は戻らないと理性的に自分を説得したりしていた過去の自分にすらも、時を越えて会ってみたい。



■昔は申し訳なくて、怖くて、情けなくて、会いたくても会いたくなかった。もうとうに世を去った命もあるけれど、今はただ会いたいと強く強く思う。強く思い、強く望めばきっと会える気すらする。この世で会えるのではないかもしれない。過去に戻るのではなく、遠からぬ未来にふとした偶然のように会えるのかも知れない。きっと会えるに違いない。その時は言えなかった一言、向けられなかった笑顔で接したい。きっとできる。

■雨に濡れた路面をすべる車の湿やかな音が大きくなった。店内に客が混み始めてきた。ノートの上に連ねた文字がきれいに並んでいる。干乾びたままの記憶や荒い情動たちを、頭の中で心の中で、荒波のようにあちこち揺れ動かしていたはずなのに、ふと気づくといつのまにか細かいふるいの網の目を擦り抜けたかのように消え去ってしまっていた。本当に人に会いたいという気持ちと自分の中で初めて正対してみた気がする。

■若い頃の感傷や諦念ではなく、本来ありえないと考えるであろう再会というものに対して、なぜこんなにもきっと会えると強く思えるのだろう。見えるもの全てを愛するということは、見えないもの全てに愛されるということ。見えないもの全てを愛するということは、見えるもの全てに愛されるということ。それが論理でではなく直感で分かった。今とても会いたいという気持ちは、必ず会えるという確信のわずか半歩手前なのだ。


スタバ図書館でぺタバイトを思う



■一昨日は夏日でベランダに出ていただけで日焼けしたが、昨日は5月らしい天気に戻った。先日30度C越えの真夏日を観測した北海道のオホーツク海側では、咲いた桜に雪が降り積もるという椿事。当地でも昼前から風が強い。今朝は近所のスターバックスに行って、ノートをまとめつつ姿勢制御をした。この店は夕方には学生たちで混雑するが、午前中は喫茶店と言えばモーニングサービス付きが当然の名古屋だからなのか、客で混雑することはない。

■このまだ新しいスターバックス御器所店の2階は、広々とした交差点に面していて窓外に空間的な開放感がある。ノートをまとめていてふと目を上げた時、店内が何か居心地のよい図書館のような感じを受けた。そういえば昔から図書館代わりに長居ができるファミレスなどで考え事をノートにまとめる習慣があった。1時間半。1つことをちょっとどっぷり目に考え続けて、疲れて現実に息継ぎのように戻ってくるまでの個人的なインターバルである。

■脳内に湧き出たままきちんとした形にまとめ切れていない発想や新しい感覚は、放置したままだと勝手に結びつくこともあるけれど、滞ったまま風化してしまうこともあるので、時々思い付きをノートなどに並べ出して整理することが必要だ。そしてそれを切ったり貼ったり図にしたりしたものを、それなりにパソコンに入力することで、自らの記憶にもメモライズされるのだ。しかし最近ではまたぞろパソコンの中の全体俯瞰が必要になってきている。



■テラバイトに日記を書き込んだ。昔やっていたお寺の掃除のバイト記録である「テラバイト日記」ではない。USB接続の外付けハードディスクの容量の話だ。1.0TB。説明するまでもないが、データ量やコンピュータの記憶装置の大きさを表す単位のテラバイト(terabyte)である。1テラバイトは1,099,511,627,776(1兆990億)バイト(=1,024ギガバイト)だ。接頭辞のテラは10の12乗を指すが、情報やコンピュータの分野においては2の40倍を表す。

■税込み10380円という値段に思わず購入してしまった。動画を記録するのにはいずれ不足する容量ではあるだろうが、動画ではなく写真画像をこちらに移行し、さらにメインのバックアップにもしようという魂胆だ。外付けHDやフラッシュメモリーやメモリーカードなどに多数の原稿や資料が分散してしまい、またフェイルセイフ的に重ねて保存してあるのだが、全体把握の収拾がつかなくなって久しいので、一括保存を考えての購入だ。

■技術革新のすごさは体感しているけれど、それに自らの創出するソフトが全然追いついていかない。再度見直すかどうかも分からない画像やデータを集めるのが目的になってしまってはつまらない。それにしてもメモリーカードの類で今日びは1テラが出てきている。データをたっぷり記憶させたものにしては物理的に小さすぎて保管や移動がとても不安なので、個人的にはハードディスクの方が安心できる。マジで次のペタバイト日記を考えなくてはならない。


野菜スープは美味いなあ



■最近は胃が小さくなったのか、大食いはしない。というよりできない。しかし痩せているかというと微妙に肥えている。単に歳を取ったと言ってしまえばミもフタもないので、エネルギー効率が良くなったと考えることにしている。まだ今後の食糧問題や混乱経済とは直接関係なさそうなレベルだけれど、それでも周囲や環境に極力負担をかけずに自らの生命と意識を明確に保ちたいという通奏低音的な思いとしては悪くはない。

■腹が減った時に食うという自然児的な食物摂取を敢行中なので、通常の食事時とは異なる時間帯にも小腹は減る。できるだけ暗くなってからはヘヴィに食べないつもりなので、今夜はスープを製作してみた。1個33円の新たまねぎ1個、1本50円のにんじんの下半分、80円の半切り大根の1/4くらいをざっくり切って鍋で煮る。塩は適当に小さじ2杯ほど。コショウとコンソメも適当に。にんにくのかけらも刻んで入れてしまえ。

■嫁さんが出先からもらってきたという月桂樹の葉があったので、見た目でそれらしいかもと2枚ほど入れてみた。色が寂しいので大根の葉の茎部分も刻んで加えてみる。思っていたより早く火が通り、たまねぎが解け始めたので、バターを一切れ入れてみる。味見してみたら、なんか結構美味いのでびっくり。ベランダからチャイブを採ってきて刻んで入れたら結構きれい。ECCOの宮部さんが振舞ってくれたスープにパブリカが入っていたのを真似して入れてみた。これはいけますよ、結構。鍋にいっぱい作ったのに、気づいたらもう半分近く。



■食パンを1枚手にして、トーストするのも面倒くさいから小さくちぎってスープに放り込んでみた。これまた結構いけるではないか。汁物だから馬鹿食いしてもたかが知れている。パスタをゆでてペペロンチーノでも添えようかと考えていたのだけれど、気がつけばもう腹一杯。運がいいのか、偶然なのか、私に調理の才があったのか、それとも単に腹が減っていたから美味かったのか。満足したので、もうどうでもいいや。

■今年はベランダでバジルを種から苗に育てている。間引きができない私。いきなりの夏日で日光の直射が若苗にはきついかもと思いつつ、床では古い土たちを袋に入れて直射日光に晒して蒸気殺菌中。放っておいたプランターから発芽したシソがずんずん生育している。室内の植物たちのほとんどの鉢の土をリニューアルしたら腰が痛い。なんか立ち枯れて年を越したナスにもう薄紫の花が咲いているのだけれどあだ花なのかな。

■冷静に考えたら日記にしてアップするほどのことではないような気もしてきた。画像も半分食ってしまってから思い出したように撮ったものだし、さほどうまそうにも見えない気がする。しかしなんと言おうと美味かったのだから、食った者勝ちでなのである。


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