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  • 2024.01.09 Tuesday
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生きた猫は何匹いるかゲーム…その(1)

■今回はタイトルのまんま、画像の中にそれぞれ何匹の生きた猫がいるでしょうか?…というクイズです。一応正解は下段にありますが、一コマにつき5秒以内で全問正解の人は猫マスターレベルかも。
















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【正解】

(1)8匹…石柱の裏に黒猫が1匹…
(2)8匹…黒猫軍団は区別が難しい
(3)5匹…1匹犬が紛れ込んでいるぞ
(4)2匹…猫人形に中にみかんとデルピーが…


人類間引き計画は地球に優しい?



■地球温暖化の元凶と言われている二酸化炭素排出の問題。日本人1人当たり9.8トン/年、全世界では約226億トン/年であると資料は語る(※1)。全くピンとこない統計的数字だ。ピンとこないから自分とは直接関わり合う数字には思えない。日々の生活が忙しくてなかなか真剣に考える暇もない。自分1人くらいいいじゃんの集合――雑踏の中で雑踏を呪う者は確実に自分自身もその一要素であるというのに。

■様々な陰謀論の中に『人類間引き計画』というものがある。実は上の数字には(少なくとも概念上は)私たちが呼吸により吐き出す二酸化炭素の量は含まれていない。しかし呼吸する者は誰でも、意識があろうがなかろうが、肺で酸素を取り込み二酸化炭素を吐き出している。生きている人間は誰ひとり、自分だけは例外だと主張することはできない。ひょっとして大量殺人者は地球に優しいのではないだろうか?

■話を盲信してパニックに陥るのも地獄、全てを否定して目をそむけるのも地獄。適度の信頼と懐疑を持つのが好ましいのだが、実際呼吸により排出される二酸化炭素の量を概算するのは容易くない。体重、室温、呼吸量、呼吸の回数、居住地のCO2濃度その他のパラメーターが多すぎて、逆にかなりの数値操作が可能なのだ。そこで1日半かけて自分で色々計算し、ネット上の計算も含めて平均値を出してみた。



■不断の呼吸により私たち1人1人は1日に約1kg(515L)、1年で370kgを排出している。全人類だと毎年25億6400万トンという計算になる。先ほどのJCCCAの数値と突き比べてみても総排出量のほぼ9%に近い。これは全く無視できない莫大な量である。現代はもはや呼吸するだけでも有害な時代なのだろうか。せめて不安・恐怖による不規則で激しい呼吸から、平安な心で静かな呼吸を心がけるべきなのか。

■呼吸は1分止めるだけでも大苦痛だし、30分止まると脳死に至り法律上は死者扱いされかねない。しかし安心して頂こう。呼吸により排出される二酸化炭素は推定無罪なのだ。呼吸で排出される二酸化炭素の元をずっと辿っていくと、体内に摂取された食物は食物連鎖の元である植物の光合成に行き当たる。二酸化炭素と水に行き着くのである。つまり大気中の二酸化炭素は循環するだけでほぼ同じ量なのである。

■実際の諸反応は複雑で多岐に渡るが、あえて煎じ詰めて言えば、私たちは間接的に光を食べており、その身体は光の体であるということだ。では実のところ一体何が問題なのだろう?文明的生活と右肩上がりの経済を維持発展するために、化石燃料を無思慮に消費する際に排出される二酸化炭素が問題なのである。もちろんここまでの話にも盲信と全否定ではなく、適度の信頼と懐疑を持ちつつ自らも考えて頂きたい。



■豆腐を切るのにチェーンソーを使うような生活が文化的であるとは決して思わない。先進国と新興国と後進国のビジョンと欲望の落としどころにも目を配りながら、それでも食べ物に対して日頃から感謝の気持ちを持つように、反転した光合成反応でもある呼吸の1つ1つにも愛おしさと感謝を感じたいものである。私たちは日々刻々ただ呼吸し続けるだけでなく、その意味と価値ついても考えることができるのだ。

(※1)JCCCA(全国地球温暖化防止推進センター)の資料による


ふたごのプチトマト



■今年はイタリアンなプチトマトを苗から育ててきたのだが、葉も枯れ始めていてもう収穫期である。先日は1つの卵の殻の中に2つの黄身が入っている、いわゆる双子の卵に久しぶりに当たったのだけれど、実はプチトマトの中にも双子のトマトが発見された。さしてさらに2枚の葉がくっついた双子の葉まで登場してくれている。にぎやかなベランダ菜園。今年から大学生になった姪っ子の美人双子姉妹を思い出す。

■プチトマトとバジルの葉のツイン状態は写真に示しておいた。シャム双生児のようで少しキモいかもと思われる御仁もおられようが、プチトマトの方は見つめていると形の良いおっぱいのようにも見えてこないだろうか。というか、私個人でいえば、人間型ゲシュタルトゆえに一度そう連想してしまえばもう元には戻らない。そしてバジルの葉の方はホウェールウォッチングしたザトウクジラの尾のようにも見える。



■そして双子ではないけれど、ツインでもらわれてきた我が家の猫。植物群の配置が日光の差し具合や雨の降り具合でしょっちゅう変わるベランダを眺めながら、一番風の流れるところに居をすえて、梅雨の合間の猫ミーティングだ。霊的双子とか反転自我とか何でも表現されていいけれど、人間にもまたどこかに自分の総体の片割れが存在するので、絶対的孤独なんて不要であるという世界観も悪くないなあ。

 


私は日本語が大好きです



■日本語についてまた少し考えた。何も疑問に思わず、色々なものごとを機械的に数に還元してしまうのは好きではない。しかしそれでも50音図に1〜50までを割り振り、シンプルに数に置き換える神道由来の「数霊〜カズタマ」には、何か好き嫌いだけで切り捨てられない未知のロジックがあるに違いなさそうだと何度か思わされた。そこでここ20年ほど数霊も含めた「和語」の音と意味について独自に研究(…オタク?)を続けている。

■「ア・オ・ウ・エ・イ」の語順でア段は「1・2・3・4・5」である。以下「カ・サ・タ・ナ…」と続く行は「6・11・16・21…」から始まる。たとえば「み・ち・ひ・き」。潮や勢力や運気の「満ち引き」も連想させる4音に「し」を加えて日本語の音の中に様々ある深い意味を覗いている。この音に対応する数は「35・20・30・10」及び「15」だ。興味のない人はスキップしてかまわないが、みなイ段であることには注目しておこう。

■幾何学的な意味での「面・点・線・胞…めん・てん・せん・ほう」は「み・ち・し・ひ」と同じ「35・20・15・30」だ。だからどうした?といわれてもちょっと困るが、自分で戯れに出してみて「いま」が6の乗の36、「みらい」が9の2乗の81、「かこ」が13となったりすることに驚き、不思議さを共有してみたいという思いはどうしても残る。「生く」が13、「死す」が28となることなど見ても「13の月の暦」がらみにも十分なりうる。



■「地・水・火・風・空」に正6面体・正20面体・正4面体・正8面体・正12面体を対応させたのはかのプラトンだが、シンプルに「た・ち・つ・て・と」を「太陽・地球・月・天王星・土星」と結びつけて考えられるのも日本語の面白いところだ。まあ長々と持論を展開しても辟易するだろうから今日は止めておき、昨日人体の各部位の名前を並べ連ねてみて、ハ行とマ行がたくさんあることに驚いたので、それだけでも少し共有してみたい。

■音読みの専門用語は基本として除外することにした。hitai-額、hitomi-瞳、hoho-頬、hana-鼻、hige-髭、hokuro-黒子、ha-歯、hara-腹、hizi-肘、hiza-膝、hada-肌、hihu-皮膚、hone-骨、heso-臍、hukurahagi-脹脛、hikagami-膕…。それからme-目、mimi-耳、mayuge-眉毛、matsuge-睫、manako-眼、mabuta-瞼、momoage-揉み上げ、mata-股、momo-腿、mune-胸、mizoochi-鳩尾…などだ。おそらくほかにもまだあるだろうけれど。

■日本語の言葉重ねや数重ねは、単にダジャレや数合わせに過ぎないと笑って過ごせないものがどうしても残る。言葉遊びのセンスがよい人はオヤジギャグは言わない。ましてやオヤジギャグですら当人が意識している以上の含蓄を読み取ることができる。電話番号を覚えやすい別の言葉にするセンスは別の言語とは異なる独自のものではないだろうか。思ったことが瞬時に喉から声として発せられるという事実1つでも奇跡そのものである。



■だからどうしたとさらに言われても、今日はこれ以上何も申し上げることはない。しかし日常の中や自らの身体や思いの中にもいくらでも驚異や奇跡が溢れているのだから、生き方の姿勢によっては感動と発見の日々にもなりうるに違いない。そしておそらく謙虚になり慈しみと感謝の気持ちも湧いてくるのではなかろうか。少なくともそんなことは絶対ないと断言できる人はいないはずだ。いたらそれはより良いブレークスルーに通じるだろう。

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p.s.言葉で言葉についてを語る、もしくは音について音を用いて表現する時、そこにはおのずと「言葉」や「音」についての信頼と疑義が大前提としてあるはずだ。人間のカタチそのものについての肯定と超越のベクトル。


未だに「間引き」ができない私



■雨上がりの日は自然に感謝が湧く。朝の水遣りを免除されるからだ。軒の雨だれが跳ね上げる土が葉に付くと土中の雑菌が葉を枯らすので、雨しずく直下からずらせておいた鉢たちを、日照効率が最大になる位置にリフォーメーションする。朝日を浴びで水分を輝かせる若緑が眩しい。プチトマトの赤も美しい。バジル100本化計画は、幼葉も入れればとうに150本を超えている。その理由は私が未だに「間引き」ができないからだ。

■間引きとは、ばら蒔きという種の蒔き方で発芽したものを、幼株のうちに矮小なものや脆弱なものを選別して摘み取る作業だ。それをすることによって選ばれたものがより立派に成長する。それを怠ると狭いところで限られた養分や水分や日照を互いに競い合い、過度の生存競争で多くが発育不良になったり弱り果てて共倒れしたりし易い。普通の農業や園芸をする者にとっては当たり前過ぎて疑問の余地もない初歩的な作業である。

■別に間引きが残酷だなどと独善を気取っているわけではない。では無駄な手間暇をかける余裕があるから、拘泥しているだけなのだろうか。アブラムシの捕殺もそうだったように、間引きもまた意を決して1度やってしまえば、いずれ全く疑念もなくできるのかも知れない。しかし今現在はまだそうではない。だから現状を踏まえて考えることは今しかできないだろう。隙間産業のような隙間思考ではあるが、無意味ではないだろう。



■「間引いた幼葉も無駄にせず食べよう」という弁。確かに正論であり好ましい発想だ。しかし間引きそのものの本質を語るものではない。「大量に蒔いて限られたものが成長する。それが自然の戦略なのだ。」確かにそうなのだろう。しかし経済的理由から遺伝子操作で一代限りの変種を作って自然や生命を弄ぶことも良しとしたり、逆に人間には不可侵領域である様々な確率だけが生殺与奪するのだという世界観も肯首しがたい。

■「間引く」とは文字通り単体同士の空間を広げるという事だろう。通勤ラッシュを改善したいとする発想は納得できる。しかしこの世界から生命の根ごと引き抜いて頭数を揃えれば良いわけでは決してない。安易に同型対応して考えると、カテゴリーエラーに堕して本質を見誤り易い。ただ自分の中で心情的に未整理部分があって、見切り関与にはまだ無理があるのである。まあだから未だに間引きができないままなのだけれど。

■それにしても大きい苗も小さい苗も同時に育ててみて分かることなのだが、生育に従ってその個体差は拡大する一方である。地上部だけでも50cmを超えて数十枚の葉が茂るものがある一方で、まだ5cm足らずで数葉しか付いていないものもある。発芽条件やタイミング、土中の養分や水分、日照時間や害虫との遭遇その他様々な外的要因を考慮しても、やはり種の個体差やそれを超えた個体の持つ運不運まで考えざるを得ないのだ。



■…人間、時間、空間。これらを間引くとヒト、トキ、カラになるのだろうか。「間」を引くとは「反転」させることでもあるのだけれど。まあそんなこんなも考えながら、今日も幾本かの鉢の植え替え作業をする事になるだろう。梅雨の合間の雲間から薄日が射している。ベランダの隙間から流れ込む風で、大きく育った里芋の葉が手招きするように揺れている。哲学的な顔をした猫が、眠そうに葉陰からそれをじっと眺めている。


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