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  • 2024.01.09 Tuesday
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デルピエ郎の猫魚雷



寝ようとして布団を敷いた。寒いので布団をたくさんかけて、最後にベッドカバーをふわりとかけたその途端、黒いものが隙間に猛ダッシュで潜り込んだ。
 
その黒いものはカバーのひきつれめがけて動き回り、爪を上に立てて切り裂いてしまった。穴が開いた。そこから頭を出しては引っ込めて、またもやカバーの下を蹂躙だ。

ひとくされその光景を見てから、ようやく落ち着いてきた黒いものを画像に収めることにした。黒いものは夜中も元気だ。シーツでカサカサ音を立てるとダッシュだ。

   

嫁さんはその猫魚雷が面白いらしく、よせばいいのにカサカサゴソゴソしまくってる。やらせじゃないのに、それではやられっぱなしである。うおお、猫魚雷爆発〜っ!
 
尻尾は膨らんでいるのだろうか。ふと本棚の上を見上げると、黒いものの片割れが冷静に見学していた。ねこにはやられっぱなしの私である。ああ、うれしい…。

…さて、寝ようっと。

猫まんが:新しいペンターブシステム

      
      
      
      


ナンバープレートウォッチング



■一昨日、久しぶりに「竜泉寺の湯」という名古屋は守山にある日帰り温泉施設に行ってきた。そこは温泉よりも温度や特質の異なった多数の岩盤浴ルームが特徴なのだが、今回はその紹介や評価ではない。そこは人気の有る大きな施設なので、広い駐車場がいくつもあるのだが、車を停めて入り口に行くまでに、色々な車種を見ることができるのだが、個人的には並びの良いナンバープレートを見てしまう。

■上の画像はそのうちのほんの一部だが、左右対称や繰り返しや7の並びや黄金比の逆数やら、いろいろな特徴の数を発見することが多くて面白い。自宅の近所にも多数の駐車場があるのだが、たまに同様ののりでそれら4つの数字の並び群を、わくわくしながら見て回ってしまうことがある。数ギーグ(初級レベル)である。忘れていたのだが、先日の3113vs2013でプレートウォッチングに火がまた付いた。

■それにしても4並びの数、そしてその倍の8桁の数字列は、本来私たちが口にしたり記憶したりするのに間尺があっているのだろう。今では一度送受信すれば本体が記憶してしまうが、携帯電話の番号も4+2+4の10桁だが、そのままの10桁で記憶しようとしたら、ちょっとややこしいことになるだろう。体操やスポーツでも1,2,3,4、2,2,3,4…とリズムをとるし、人間は4で括る特性があるらしい。



■SACCOという猫友達が博多にいる。彼女は3という数字、そして03や13に異様に縁があるというか、付きまとわれているというか、ある意味3と言う数字そのもののような人間である。上の画像はそんな彼女に対する画像プレゼントである。我が家のi-stop搭載のアクセラには、ダッシュボード中央に信号待ち時にエンジンストップした時間の累積が表示されるのだが、温泉帰りにそこに出た数字だ。

■数字を言葉の語呂合わせで覚えやすい日本語の国に生きていて良かったと思う。7584で名古屋市、4649で宜しく、37564で皆殺し。そういえば、千載一遇(…せんざいいちぐうと発音)の「載」は「万」とか「億」と同じ数字の桁数を表す字で、千載一遇を数字でそのまま表すと、1/1000,0000,0000,0000,0000,0000,0000,0000,0000,0000,000010、10の43乗分の1となることが今数えて分かった。


20091120 ■映画『犬と猫と人間と』を観た



■今池のシネマティークという映画館で、『犬と猫と人間と』という映画を観た。午前1回だけの上映も今日が最終日。日本捨てられた犬猫が施設に入れられたり処分されたり、ほんの一部だけ引き取ってもらったりを、ずっと本当に優しいが感傷的ではない目線で追っていくドキュメンタリーだ。殺処分数が年間30万頭以上、一日1000匹近くの計算だ。明日殺される子犬たちの目。野良猫とホームレス。

■目を背けずに見続けること。自然に涙が流れているのに気が付くのだが、義憤とか悲惨さに打ちのめされてとか、現実を諦念したためとかの理由づけする以前に、それは流れ出している。これら全てが生体や精神の条件反射であるとも思わない。現実のありさま。子供達の思い。犬猫の様々な境遇と死。動物の話だけではなく、直接自分たちの意識のありようや未来に関わる、見えない日常の世界。



■動物たちの命を救うためになった獣医さんが、その命を奪う役割をさせられている。そのなかで殺処分される数を減らすことに使命感を持ち、そしてそれでも殺さねばならぬ時、自ら愛情を持ってそれに臨むという獣医。憎んでいる者に殺されたらもう本当に救いようがない。愛する者が殺すということ。言葉だけならパラドクスだ。しかし私は裁かれるカルガモを見ていた時のあの感覚を思い出した。

■自らの手で殺めるということで救われるものは何か。悲しみでも怒りでも無関心ですらもない、あのカルガモが捌かれるのを立ちつくして見ていた未知の感覚の本質が少し分かった気がした。生きている者は真正に生きなくてはと自らに思う。高次元とは一意で愛と共にあるということだと分かった。他人に映画を薦めたり問題意識を押しつけたりするつもりはない。センチメンタルになる余地もない。



■でも『2012』とどっちを薦めるかといわれれば、もちろんこちらではあるけれど。

http://www.inunekoningen.com/


簡単画像日記(1)バジルと猫



■今年最後と思ってバジルペーストを作った。2日もかかったのに、まだ最後ではなく残ってる。3〜4リットルはあると思う。多分1度に作った量としては最高だ。友人知人に少し送ろうか。冷蔵庫の冷凍庫にはまだ在庫が多数。春まで大丈夫か。そういえば最近、自分の家でジェノベーゼ食べていない。もう一生分食べたと思ったのに、またぞろ食べたくなってきた。




■ベランダの収穫後のバジル。もう毎日水遣りしなくてすみそうだ。さてこの土をどうしたものか。というより来年はさすがに200本も育てられない。20本ほどにしてじっくり大きく育てよう。そして余裕で他の野菜も作りたい。ひろい大地で自然農法でいろいろやってみたいものだ。




■ベランダのバジルの種を取ろうとして、ビニールのレジ袋を窓辺に広げたら、あっというまに猫に占領された。見た目はカルガモか何かのような形に収まって、なにやら良い気分らしい。猫はなぜ狭いところが好きなのだろう?悪意はないのだろうけれど、邪魔なんですけれど…。日向の猫は好きです。




■ウチの猫は時々こうやって頭を抱えて悩むポーズのまま寝ている。何か哲学夢でも見ているのだろうか。それにしても寒くなってきたからだろうか、猫が最近やたらと良く寝ている。昨日はついにコタツを出してみた。黒猫デルピエ郎は速攻で入り、夜中まで出なかった。冬である。


シンクロニシティは上次元のダジャレ



■現行のマヤ暦(長期暦…187万2000日=13バクトゥン、西暦換算で約5125年の周期)の起算年はB.C.3113であり終了するのがA.D.2012である。終わるのは言うまでもないが、正確には2012年12月21日だ。うちの嫁さんの新車のナンバープレートの3113だが、先日、それと対称を成す2012(いまや映画にもなるくらい有名で別物の色合いを帯びてしまった)を超えた2013というナンバープレートの同じ車種と色の車があった話をした。

■TVのCMでもやっているマツダのアクセラという車(i-stopとかいう、街中で信号待ち時に自動的にエンジンストップするエコカー)だが、今日見たらいなかつた。どうも一時的に駐車してあっただけらしいが、街中ですれ違ったらちょっと恥ずかしいような気もする。しかしその後もいろいろとシンクロっぽいことがいくつかあった。マツダ本社は広島にあるけれど、広島在住のマイミクのEMMYさんとこの車も3113だそうだ。

■先日ヌースレクチャーのDVDを見てから後ずっと、シンクロが起こるたびに「半田コウセンの念だ〜!」などと冗談をカマしていた。今回のナンバーに関しても「半田コウセンの念か〜?」とか言っていたら、なんと彼から「わしの愛車と同じナンバーだったのねん」とコメントがあった。しかも念ではなく、当人の文尾には「…ねん」とかあるし(爆)。自書のタイトルに必ず2013を入れている彼だけど、車までそうだったんだ。



■そんなこんなのままだと、2台を並べた前の画像も、3113ナンバーの前向き画像と2013ナンバーの後ろ向き画像ということで意味ありげに思えてきてしまう。それにしても話題のi-stopだけど、信号待ちでエンジンをストップした時間の累積総和がダッシュボードのほぼ真ん中に表示されるんだよね。これだけエコしてますということなのだろうけれど、こんなに何時間も信号待ちしているということの方がなんかムカつきます。

■さて、今日改めてうちの車も後ろから撮影して、新しく並べてみたのが一番上の画像である。なんかアミがあってかえって見難くなってしまった。まあそれはそれとして、駐車場の前方に回って撮ったのが、すぐ上の画像だ。何を隠そう、実はウチの車の両隣の車のナンバーはどちらも1212である。本当の話だ。これも何かの陰謀なのだろうか?いくら自分で好きな番号を選べるとは言え、やりすぎでないか。1と2と3ばかりである。

■そして下の画像は、夕べ寒くなったので近所に味噌煮込みうどんを食いに行った帰りに見かけたアメ車の画像だ。あまりにも車高を高く改造してあるのにあきれて、振り向きざまに撮影したものだ。そこでナンバープレートを見たら・・・1だった。もう、とほほ…と言うしかなかった。作為もここまでくれば、それと出会うことすなわちシンクロといっても良いかもしれない。隣に写る車のナンバーの2299すらも意味ありげに見えてしまう。



■それにしても2012年12月21日って、前から思っていたけれど、0と1と2ばっかだよね。最近はこの数字がもう当たり前に人の口の端から漏れ出てくるので、そろそろ次からは2039に話題の中心を動かそうと思う。ヒトラーが人間が機械的人間と神人に分かれると予言した年、ケネディ大統領暗殺に関するウォーレン委員会報告関連全資料の機密扱いが解除される年。クィーンの「’39」って曲は、2039年を歌っている…とかね。


数のダジャレのナンバープレート?



■ウチの嫁さんが最近買い換えた車は、マツダのアクセラという車種である。街中で信号待ちしている時などに勝手にエンジンストップして、すぐに再スタートするという今流行のエコカーである。その嫁さんがつい先日、近所で全く同じ車種を見かけたと言いながら興奮気味に帰ってきた。街中で同じ車種で同じ色の車を見かけることくらい、別に珍しくはくないだろうと言うと、黙って携帯デジカメで撮った画像を見せてくれた。

■それが上の画像の左側である。これは同じ車種なのだが後ろ側から見たところだ。そして右側にあるのが我が家の車の前側から見た画像である。眼目はナンバープレートである。我が家のナンバープレートは最近巷で2012年12月21日に終わると騒がれているマヤ暦が起算された年である紀元前3113年に合わせて「3113」という番号なのだが、もう1台のナンバーはマヤ暦が終わる2012年の向こう側として騒がれている「2013」だということだ。

■この左右の写真は同じ車種、同じ色の車だが、全くの別ものである。そしてナンバーが(BC)3113と(AC)2013。マヤ暦に興味のない人にはまるで意味がないし、興味のある人は面白がるし、そしてかなり通の人にとっては、あまりにベタ過ぎる数字列である。だからそれがどうしたと言われても困るが、ただそれだけの話である。「それだけ」がどれだけふくよかなのか貧しいのかはまた別の話であるけれど。

■…というか、ナンバープレートを丸々ネットにさらしているけれど、何か悪いことに使われるようなことはないのだろうか?さしさわりがありそうなのであれば、画像にモザイクでもかけねばなるまいが。ああでもそうしたら、数字が見えなくて意味がないし…。


DVDでヌースレクチャー勉強会(裏ヌース込み)



■昨日、当家でヌースレクチャーのDVDを観て、その周辺も含めてああだこうだと意見を述べ合う寄りあいを開いた。参加者はハンドルネームでふうさん、miaさん、チョコボっち、コタロウ氏、φさん、スイカ兄ぃ、それに私と愚妻と猫2匹。三重県・静岡県・滋賀県・大阪府・兵庫県・愛知県・猫ワールドと各地から参加していただいた。ふうさんとmiaさんがtwitterで転がしていた小さな瓢箪から出たリアルな駒だった。

■一同みな日々の心がけよろしく、開始時間である午前10時30分前には三々五々ゲートイン。8枠のゲートから各馬時間通り一斉にスタート。…というか馬年は私くらいか。何はともあれ、ヌースレクチャーのDVD(第2回)開始である。コウセン氏の語りはさしたる淀みもなく、淡々と話は展開する。新兵器の電子機器も用いて画像と重なりつつヌースレクチャーのフォーマットは進む。編集にもしっかり時間をかけてある。

■以前にも増して流暢なしゃべりとまとめられた資料で、引っかかるところもほとんどなく、ヌーソロジーの基本的なことがスラスラと頭の中に入ってくる。…いや、騙されてはいけない。シジフォスの如く思考に試行を重ねて構築してきたものだから、実に無理なく理論と論理が展開されていくが、あまりに滑らかなので分かっているつもりでそのままどんどん頭に流れ込んで来たはずのものがとどまらずに流れ出してもいっている。



■もちろん、内容に文句を付けるのはお門違いだ。こちらのDVD映画鑑賞のようにお気楽でパッシーブな姿勢を自覚しただけなのだ。見回すと参加者一同、真剣に聞き入っている。それにしても内容を本当に理解しているのかは別として、実に分かりやすくなっていると言うのは事実である。2時間ほどのDVDが2枚組で、それぞれ途中に休憩タイムがあるので、あわせてブレイクタイムを取れば根を詰めすぎて脳爆することもない。

■昼飯や茶菓子をどうするかという話があり、「当方で準備して参加者は500円の会費を払ってもらう」から遠足モードのように「各自が好きなものを買ってくる。ただしお菓子は500円まで」みたいなところを経て、結局「各自の自主性に任せて気が向いた人が持ち寄る」ということになった。結果、各自のありがたい自主性のおかげで我が家は食べきれないほどのお菓子&食べ物天国に!各位の自主性に…いや好意に大感謝である。

■内容に関してはまた別所で云々するとして、今年のバジルも終わりに近づいているので、今回はジェノベーゼ地獄を共有してもらおうと思い、勝手に似非イタリアン料理の毒見…というより人体実験の被検体にもなってもらった。幸い今までのところ死者の報告はあがっていない。何はともあれ2013は近い。半田コウセン氏にはこの世のこともあの世のこともその世のことも色々とパラドクスを仕掛けていただきたいものである。



■それをナンセンスと断捨する人にも、「共に」新しくも懐かしい世界観を構築(≒想起)しゆく楽しみを共有できればいいのだがと思いつつ、朝から人体実験の残り物を暖めて食べている私である。次回の人体実験が行われるかは不明だが、勉強会は今後も続ける方向になりそうである。今後はオープンにして、もっと多数の参加者を受け入れても良いという案もある。礼儀正しいツッコミもある裏ヌース共々楽しみな展開である。


もつ鍋食べたら美味かった



■先日、嫁さんが嫁さんのマイミク夫婦2組+独身の若者(?)とオフ会をしたのに付き合って参加したのだが、岐阜市内の「田中屋」というもつ鍋屋で食ったもつ鍋が美味かったので、昨日の夕飯はそれを再現しようとトライした。キャベツとニラは野菜宅配に入っていたし、タマネギとニンニクもあったので、近くのスーパーに行って、豆腐ともつ肉を入手する。処理済みのもつ肉しかなくて、量の割には結構値段がするじゃん。

■まあ最初だからと、正道っぽい邪道であるレトルト入りのもつ鍋スープから土鍋で着手。大外ししても後が悲しいので、不本意ながらレシピ通りにて完成。いつも多すぎる量を作ってはバカ食いするので今回は2人分。まあ、美味かったのだけれど、最後に雑炊にして食おうとご飯を入れたら、水分をみんな吸ってしまってピラフみたいに…。ちょっと悲しい。明日は多人数でイタリアンだし、今晩もリトライしようかな。

■ぷるぷるした脂のふっくら感を期待したのだけれど、処理してあるからか薄い肉皮だった。他の内臓部分もたくさん種類があるけれど、もつ鍋で使うのは白もつというところが普通らしい。それにしても昨日は精肉専門店まで行ったけれど、もつは入手できなかった。これだけ巷に大量に出回っている肉の内臓がなかなか手に入らないのはなぜだろうと不思議だったが、内臓が一番早くいたんでしまう部位だからだと分かった。



■だから肉食動物たちが捕らえた獲物の内臓から食べるのだろうか。まあ栄養が豊富なのもあるけれど。大昔に東京は西荻窪の駅の近くに肉屋さんがあって、そこのショーケースにはいつも大量の様々なもつ肉があったことを覚えていて、肉屋では簡単に手に入ると思っていたのだが、今考えるとあの店は主に業者相手の特別な店だったのだろう。肉屋に知人でもいなければおいそれと上等な白もつを入手するのは簡単ではないようだ。

■それに処理済のものの値段が結構するのは、やはり手間隙がかかるからなのだろう。新鮮なもつを調理するのであれば、何時間も煮込むとか圧力鍋を使うとかしてから野菜系を投入することになる。スープも様々なものがあるようだが、結構奥がくが深そうだ。私は基本的にあまり肉そのものを食さないけれどベジではない。内臓でも捌く時に、部位によって食用か否かを細かく区別するということは、カルガモ捌きで初めて見た。

■鳥・豚・牛・魚の他にも普通の食用部位以外の内臓その他も、強く望んで食するわけではないが、残酷だからとかいう感傷メインの姿勢でのベジには賛同しない。先入観に囚われ過ぎずに目の前で、もしくは自分で生きているものを捌くところを体験すれば、より生命の深いところまで見て取れるのではないかと体験からも思っている。植物は食べても良いとか太陽光だけあれば生きていけるとか言う意見も「不二」なら言う必要もない。



■まあもつ鍋がなくなっても特に困らないけれど、それでも美味しいもつ鍋がありうるのであれば、それがあるうちに食することも吝かではない。いやそれこそが吝嗇なのかも知れないけれど。博多風のもつ鍋も、食いたか。


私はまだヌース理論をヌーソロジーとは呼ばない

(我が家で「ヌースレクチャーのDVDを見る会」があるので、一応自分のスタンスを明確にしておこうと思い、自分の中をスキャンしてみた。)



■私は基本的に半田コウセン氏の理論や世界観・宇宙論への興味よりも、彼が全身で体験した(そして今でもその中にいる)「オコツトとの交信」と称するものの全体構造について興味を持っている。これはある意味、交信と命名されている現象の中心である当人ではなく、その現場でそれを観察者的視座から(もちろんまきこまれ的な2次的当事者であるとも言えるが)接していたことがある者という特殊性のせいでもあろう。

■半田コウセン氏のパソコン通信時代の『有機体のうすの宇宙論』からレクチャーや出版を通じての『ヌース理論』、そして新世紀になってからインターネット上でも諸展開と沈黙の時を経て、最近は『ヌーソロジー』とその活動の全体を括る名前が変遷してきた。交信の相手も「冥王星のオコツト」「オコツト」「OCOT」と変わってきた。しかしその言語化・概念化する前の本質的なところは何も変わっていないのである。

■これを言ってしまっては議論のみか共感共有すらも難しくなってしまうが、夢を言語化して他者に伝えようとする時、その夢の内容と進行と雰囲気を明確に伝達することはほぼ不可能であると感じるように、半田コウセン氏の体験の総体もしくはそのエッセンスを共有すべく、言語化・理論構築化して提示しようと悪戦苦闘しても、現在の人間の言語・論理の在りよう・認識の仕方・などが不完全なままなので叶わないのだ。



■しかしそれでは不可知論的絶望なのか、言語を超えたものを言語によって共有しようとする試みは愚鈍なるパラドクスに過ぎないのかというと、私は全くそうとは思わない。それは人間の構造として個体の差異以外のところは共通のカタチをしているから、人間同士として共鳴理解できるものとことは少なからず在り得る。問題はその人間の共通のカタチを持って人間そのもののカタチを超え行こうとしているベクトル形態だ。

■不完全なる言葉を持って言葉の不完全性を超え行く姿勢や概念を共有することはできる。パラドクスにはその中心にパラドクスの解が発生し得る。たとえば「ヌース用語を用いずにヌース理論を語る」という主張はパラドキシカルだが、全くのナンセンスではない。ヌース理論は巨大なパラドクスなのである。いや、そう言い切るのは不遜だろう。私はヌース理論の想定外のところ、パラドキシカルなところが好きなのだ。

■私には私のスタンスとアプローチがあり、それを他者に強要するつもりもないし、無視されるつもりもないが、それでも個人的にはどのようなところが興味の対象であり、他者と共有したいテーマなのかを提示しておくのは礼儀だろう。「現象としての交信の全体構造」「OCOTとは実のところなにか?」「ヌース用語の総体的文法…発音・表記・意味の多重性と論理」などなど…。ヌーソロジスト達とは随分ずれている。



■半田コウセン氏の表現してくれているものとでは全然違うところに個人的スポットライトが集中しているけれど、彼の理論や研究や表現やビジョンなどの解析や理解や分析などに全くベクトルが向いていないわけでもない。人間としては生涯親友であり続けると思うし、人間としても実に興味深く愛すべき存在であると思う。人間を離れたところでは彼の言うところより彼の存在総体が、私の探求テーマにフィットするのだ。

(この項、続く…のか?) 


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