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  • 2024.01.09 Tuesday
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決して忘れ去りはしないから



■久しぶりに会った友人が離婚していたりすることも、昨今ではそう珍しいことではない。その元夫婦なりカップルなりの相方を知らないままならさほど問題はないが、両方共に親しく接していた場合は、単に鈍感な者として振る舞うわけにもいかない。極力その辺りを話題から離しておくのもわざとらしいし、閉じ切っていない傷口に塩を擦り込むかもしれないまま素直に問い質せるほど人間ができていない自分がいる。

■目の前の友人の元相方が背景からフェイドアウトしたまま、もう一生会えないままとなる可能性大なのもどこか腑に落ちない。友人のいないところで元相方側の知人から非難の言葉が巡って私の耳に届いてくるのもどこか心苦しい。カップル間の諸事情は理解しがたいし、知る必要がないところも多々あろう。男女の友人が離婚しても、性別に関係なく絶縁絶交したとしても、どちらとも疎遠になったりせずにいたいものだ。

■人間関係や世間とはそういうものだと言って諦めるつもりはない。少なくとも私の心の中ではどちらに肩入れするとかでなく、等距離で自然に接したい。もちろん今は会いたくないと言うのに、こじ開けるように入っていくつもりは毛頭ない。そのあたりはもう私の意識の中にその因があるわけではないので、それはそれで尊重したい。しかしもし街中で突然会ったなら、変な気使いで固まることなく笑い話の1つもかましたい。



■両親が離婚してもどちらとも自然に会いたい子供の心情のように、非力ではあるけれど偽らざる気持ちだろう。しかしまあ世界は周り状況は変転する。「過去をすっぱり忘れて未来に目を向けよう!」という想いやり半分の言葉に身を委ねずに、せめて自分の心の中だけででも、会えなくなった人たちを無理に消し去ることなどせずに、ときどき大切に思いだそう。いつ街角で巡り会っても笑顔で言葉を交わせるように。


猫迷惑な賀状用画像撮影



■嫁さんが今年こそ年賀状を正月前に書きたいと言い始めて、そのためのデジカメにおける画像撮影を敢行した。その際、寝ぼけまなこのままの私はまあいいとして、撮影タイマーを押すたびに抱えられてカメラに一緒に向き合わされる猫の迷惑感は無視できないものである。最初はおとなしくおさまっているが、3〜4枚目からはもうジタバタ暴れ始めている。いい感じのものが撮れるまで10回ほどシャッターが落ちる。

■猫はもうじっとしておらずに大騒ぎだ。その一部を猫どもへのお詫びがてら晒しておこう。動物愛護協会からのツッコミはないだろうけれど、宇宙愛猫連邦からのチェックは入りそうである。そしてその際の状況証拠として、1枚だけその画像を恥じを偲んで上げておこう。この恥ずかしさが猫へのお詫びに繋がればいいのだけれど、それもまた身勝手なロジックに過ぎない気がするなあ。



■ちなみに撮影終了後、無理強いしたお詫びとお礼を兼ねて、そのために購入してきたカジキマグロを振舞いましたとさ。「猫迷惑 恥を晒して 共倒れ」…意味不明。ごめんな、デルピー、すまんの、みかん。


ECCOと暦師からのXマスプレゼント



■今日という日。私にはさほど意味を持たないが、知ってしまっているからには無視をする必要もないクリスマス・イヴ。そんな日に2つの宅急便が届いた。1つはあのアイソレーション・タンクのあるECCOからのプレゼントで、「ゆずこしょう」と「エプソムソルト」。ECCOが今年始めた農場からの自然農法で育てた柚子とECCOの庭で採れた唐辛子のブレンドはとても辛いと書いてある。薬味に調味料に有難く使わせて頂こう。

■そしてエプサムソルトとはアイソレーションタンクに使っている硫酸マグネシウムで、風呂に入れると身体が温まりリラクセーションに良いとのこと。またマッサージソルトとして使ったり、デドックスにも使用可能とのことだ。フットバスやハンドバスにもとてもよい効果があるらしい。寒い冬なので早速使わせてもらうことにしたい。いや実に有難いクリスマスプレゼントである。来年のECCO農場の方も楽しみである。

http://www.eccoproject.com/



■もう1つの梱包を解いてみると、暦師杉山開知氏からの出来立ての『ヘリオコンパス・地球暦』2010年版だった。昨日届いてすぐに発送してくれたもので、デザイナーや製作協力も優秀なスタッフであることがすぐに分かる、実にクールな出来栄えだ。この版からはKKビオマガジンとアネモネ通販部が発売元らしい。この完成度からして多数のニーズが想定できるが、実際にこれを自在に使いこなせる人はまだ多くはないだろう。

■占星術師も天文学者も共に使える実に美しい暦であり作品だが、今年のバージョンは各惑星のピンも付いてきている。全く至れり尽くせりだ。そしてヘリオコンパスをメインにしたホームページがついに開設されたというニュースも伝えられた。早速以下のURLを辿って訪れてみることにした。ことらも自分のHPが旧世代に見えるほど、実にクールな佇まいであり、ヌースな感覚も与えてくれるシンプルで美しいHPだ。

http://heliocompass.com/main.html



■現在製作中の部分が多いが、多くは英語バージョン共有らしく、最初から相手は日本だけでなく世界らしい。さすがは太陽系鷲づかみの地球暦だ。これらがほぼ完成したら一体どうなっていくのだろう。自分のHPの大改築や、猫まんがの英語バージョン着手ももたもたしてはいられないと思わせてくれる有難い刺激である。クリスマスイブ。冬至から3日目。来年はより加速して突き進めるだろうか。猫も元気だ。グッドラック、私!…である。


ヌースDVD鑑賞会with裏ヌース終了



■無事『ヌースDVD鑑賞会with裏ヌース』が終了した。最初にウィンドウズ7・VAIO−X・DVDプレーヤー・外付けアンプ付きスピーカー・プロジェクターの連結からの操作にまごついてしまい、少し開始が遅れてしまった。「まあkohsen氏も実際にこのように機器操作でもたつく場面もあるわけで…」と言い訳して笑いを取ろうとしたが、本編の中で彼が操作で実際にもたついていることろがあって個人的に笑った。

■参加者はふうさん、miaさん、スイカさん、φさん、コタローさん、Kさん、seishinさん、私の8人。三重・兵庫・静岡・岐阜・滋賀・愛知と6県から参集してくれたわけだが、これは全国規模でまんべんなくヌーソロジーに関心がある人がいるが、特に名古屋にその密度が濃いわけではないということだろうか。昔のkohsen氏のビデオを拾い見ると現在のレクチャーがいかに整理され、全体構造が見えているかの違いが分かる。

■さてその当家で行われた鑑賞会だが、プロジェクターの画面をふすま2枚に投射する仕様にしたためにエアコン出口が塞がり、暖房は2台のパネルヒーターだけだったので、一部かなり寒かったようだ。後でホットーカーペットを敷けば良かったとか、座布団を出しておけばとか「悔いたが後悔先に立たず、先に立ったら先悔いになっちゃう」ということで、次回の教訓とすることに。参加者の熱い求ヌース姿勢に感謝である。



■今回はチョコボ氏が年末で実家に帰ってしまって不参加だったので、その昔のヌースレクチャーのビデオの一部をDVDに落としてもらおうと思っていたのだが、これは来年以降の話となる。参加者のひとたちは画面に見入っていたのが、私は猫が出入りするたびに2つのドアを開け閉めし続けた。当家の猫は前足でドアを開けるが後ろ足で閉める才能はない。飲み物などの準備が機器操作に手いっぱいでできなかったのも心残りだ。

■参加してくれた方々に様々なお土産やプレゼントを頂いたが、これもその多くを皆で食するような手はずにまで至らず申し訳ない限りであった。次回からはどうぞお気遣いなくとお願いしたい。それにしても長距離を移動し、時間を割いて参加してくれた方々の理性や情熱や探究心に関しては、実に学ぶ点が多い。自らの崩しきった姿勢の居住まいを正すありがたい機会でもある。自らの及び至らなかった生命振動は有難い未知である。

■それにしてもスイカさんがとても繊細な感覚も人だったこと、コタロー氏とφさんの理知的意見交換、seishin氏のヨガとヌースの統合姿勢、ふうさんの意外なダジャレ攻撃、miaさんの細やかな心遣いもみな常に新しい発見であり、喜びでもある。Kさんも機会があったらまたぜひご意見など伺いたいものだ。次回は来年の1月30日(土)ということになるのだろうか。その前の16日(土)には本家の地元レクチャーが九州福岡である。



■私としてはそちらにも参加してから、今月は叶わなかった阿蘇の野中亭まで足を伸ばし、さらに温泉を巡りたいと考えている。黒川温泉界隈の多数の温泉を攻略するつもりだが、それはまた別の話である。2月は20日に東京で旧友の結婚式がある。その近辺に東京で次元幾何学研究会の寄り合いでも持つ予定だ。それにしても年の瀬の崖っぷち。別に困苦はないけれど、意識混濁のゾンビ状態になりがちな自分で自分の尻を叩かねば。

■日々ぬるま湯の中にいることをつい失念してしまう。…ああいかん、もう忘れかけている。完全にまた忘却の中に没する前に「忘れていることを忘れるな」とメモしなくては。後は夜中に見た夢のメモを後になって意味不明の文字列と見限ることなく、コードブレーカーとしても頑張ってみよう。自分の失念事項だけでなく、もう少し大きい集団記憶喪失フェノメナンに対しても。でもって、えーと、そもそも何の話だったっけ…。

画面と鑑賞人数の反比例問題



■今日は冬至。あとちょうど3年後がいわゆる2012年12月21日、マヤの暦が終わる日というやつだ。現地のシャーマンや様々な研究者はもちろん、マヤ暦やドリームスペル暦の研究家は別に大災害や大異変が起きるとは言っていないのに、このばか騒ぎは何なのだろう。恐怖と不安を煽る映画や番組が溢れ、位相を合わせるように様々な問題をこの日に重ねようとしている。起こることは想定できるほとんどのことを超えているはずだ。

■まあ今日は3年後の冬至の話をするつもりはないが、通常「冬至」と表現するのは世界共通時で、平均的な太陽日と時間を用いて表すので、まず日本時間などローカル時間では時には1日分もずれるということ、実質の太陽の動きと平均的な時の刻みとでもずれがあるということを念頭におく必要がある。ましてやマヤの暦の終焉ということは、西洋の時計のように単純で機械的なものではないということは失念しない方がいいだろう。

■冬至の翌日から新しい太陽が再生するという捉え方から、新年にあたるという概念とは全く関係ないが、明日は我が家でヌースレクチャーのDVD上映会というか、研究会モードで裏ヌースも行うことになっている。前回はDVDプレーヤーからTVモニターに直接入力して、実にノーマルに上映したのだが、何か新しいことを常に盛り込みたい19.5度へそ曲がりな私は、PCとプロジェクターで少し大きめな画像で見られないかと思った。



■手に入れたばかりのVAIO−Xと、嫁さんが某大学で使ったプロジェクターをつなげて投影してみた。取りあえず和室のドア2枚をつなげて、それをスクリーン代わりにした。ちょっとプチシアターっぽくて良いかもしれない。試し画像を映していたら、猫のみかんが正面でそれらをじっと見詰め始めた。アフリカの動物たちの動画なのだが、何にせよ観客第1号は人間ではなく猫だった。ちなみに第2号も黒猫デルピーである。

■ところでこのプロジェクター自体には音声出力機能がない。ノートPC自体のスピーカーでは非力だし、デスクトップのスピーカーシステムはいかれたままだ。しかたないので近所のK'sデンキまで車で行って、スピーカーを買ってきた。別にこれは明日のためではなく、今後のホームシアター構築のための第1歩である。ここで問題が1つ出てきた。にわかエンジニアを悩ます、画面の大きさと鑑賞人数の反比例関係問題である。

■画面がでかいとその投光の中に頭が入ってしまうし、部屋の真ん中で多くの人がゆったり見られるようにすると今度は画面が小さくなってしまうのだ。ただのプロジェクターをオーバーヘッドプロジェクターと言って、嫁さんに「古っ!」と笑われてしまったが、どうもできるだけ多くの頭越しに投射すべく、プロジェクターを高い位置に据え、スクリーン面を微妙に上向きに設定するのはどうだろう。



■にわかエンジニアの試行錯誤は続くのである。頑張れ!私はお前を見捨てないぞっ!…って、ああ、それは自分か。明日は結局、TVモニターもありかもということで。


のろけと見紛う電卓への賛歌



■いつものスタバに入っていろいろと計算を始めようとして、電卓を家に忘れてきたことに気がついた。あれがないといきなり思考が止まってしまう自分がいた。ほとんどいつもカバンの中か机の上にあって、思い立った時に手を伸ばせばすぐに気になる計算を開始できたのだが、あれが座右にないと思考の展開が進まない。あちこち一緒に旅をしたし、何度も無くしたり忘れ物にしてしまったりしたけれど、その都度手元に戻ってきた。

■この電卓は1990年以前に吉祥寺の家電量販店で2500円くらいで買ったものだと記憶している。もう少し安かったかもしれない。『CASIO fx-350HA FRACTION』という名前の Saientific Calculator だ。電卓はPCほど進化してはいないのだろうか。というより、どんなパソコンの中にもすでに入っているのだろう。ある意味他人には価値がない単なるボロ電卓だけれど、自分自身には自分の肉体に譬えられる至上の宝物である。

■関数計算もできるもので、途中電池が切れて、1度新しく電卓に買い替えたのだが、キーの操作方法が微妙に異なっていたので使いにくく、それを使いこむより結局馴染んでいるこの電卓に電池をいれて使い続けることにした。今でも使っているしこれからもずっと使い続けるに違いない。元などとうに取れていて、値段なんてもはや無きに等しい。いやもはや私には自分の外界にはみ出た脳の一部と言っても過言ではない。



■もう本当にながいこと一緒にいる。ここ20年というもの、物質的でない意識や想念や思考などは別にして、一番いつでも身近にいてくれた存在だ。大親友でも嫁さんでも、これほど長いこと常に身近にいるものは他にない。かなり古い型番だがSONY製なので形が気に入っているFOMAの携帯電話や、壊れたら買い換えようと思いつつ実に長いこと役に立ってくれている、今となっては少し重めのデジカメも、この電卓に比べたら新参者だ。

■『ガキでか』というマンガの中で、主人公こまわり君の担任であるあべ先生が、フリーマーケットに割れ欠けた普通の安茶碗を出品しようとしてもめるシーンがある。「先生、それなりに価値があるものじゃないと」と言う生徒に対して「だってこれは死んだ猫のミーちゃんが使ってた、とっても大切なものなのよっ」と真剣に答えていた。これはマンガだが、私の電卓も同じように他者には分からない愛着と価値があるのである。

■感謝と慈しみと愛情と、そして親愛の情や時を共に過ごしてきた親友という感覚。名前はつけていない。今さら新しく付けられはしないだろう。これからも名もないままだが、私と現世的生活空間との間の界面であることは変わりない。悪感情は何もない。ある意味、私には常に神が宿るモノとも思える。ここまでくれば数ギーグに対しても変態や病気とは真逆の、至福感を与えてくれる生命励起装置ですらある。



■聖なるものとして祭り上げるような愚行もしない。常に手を伸ばせばそこにあり、思考と計算のドアを開けてその向こうをわずかなりとも垣間見せてくれるこの電卓を、いつも通りに使い続けるだけなのだ。他者に対してまでもこのような気持ちや感覚を押し付けはしないけれど、身の回りのさまざまな物や道具に対しても、同じように愛着と感謝を抱き、そして大切に接していきたいものだと思う。小さなワレもモノなり。コワレモノなり。

■最近手に入れたノートパソコンのVAIO−Xの厚さと、この電卓の厚さ、そして今の携帯電話の開いた時の厚みがみなほとんど同じであることに気がついた。この手に馴染む小ささと軽さと薄さは、おそらく私にとってのほぼ最適なものであって、他者にはまた別のフィット感数値があるのだろう。それにしても、臆面もなく「大好きである」と言える人がいるように、「大好きである」と言えるモノがあるのも幸せなことなのだろう。 


心地よきVAIO−Xの薄さと軽さ



■先日、新しいノートパソコンを買った。SONYのVAIO−Xだ。これまで何台か、ずっとパナソニックのレッツノートシリーズを使っていた。980gほどで唯一1kgを切っていたからだ。重いPCは持ち運べない体質になってしまっているのである。ところがこの私のVAIO−Xは655gしかない。厚さもわずか13.9mmなのに11.1型液晶画面でバッテリーも4〜5時間は持つ。しかもOSはウィンドウズ7なのに10万4000円という値段だ。(

■元来物欲はほとんどない方だと自任しているが、このPCには触手が動いた。旅行時や日ごろの散歩にも記録や画像製作をしていたので、デスクトップとは別にノートパソコンは必要だった。今では安価なネットブックというものがあるが、画像処理には少し非力だし画面も小さいのでパスしていた。発売前の商品発表時点からずっと迷っていて、博多に行く前につい自らに勢いをつけて買ってしまったのだ。

■猫に与える猫缶のレベル(≒値段)を上げるともう元には戻らないように、より軽くて薄いノートパソコンを手にしたら、もう元には戻れないのだ。頭では物理的に手から離しても、手がその掌で感じた軽さと薄さを忘れようとしないのである。操作慣れしていないウィンドウズ7と格闘する必要はあるけれど、オフィス2007も入ったものにしたから、WORD文書がバージョンによって少しずつ異なる不便さもなくなる。



■ワイヤレスで外でもネットにつながることができるし、この薄さで15ピンの外部出力端子端子もついている。もし何か人前で話をする機会があったならプロジェクターでPC上の画面を外部に映し出しながら話すこともできるのである。我が家には幸い軽くて小さいプロジェクターがある。人前で現在まとめている「数と形」の話をすることも良いかもしれない。原稿をきちんと整理して、しっかりまとめておく必要があるだろう。

■それにしても今年1年は本当に家でおとなしくしていたので、取りあえずその分このVAIO−Xを抱えてあちこちを旅行しまくりしたものだ。ノートパソコン持って温泉で湯治しながら、原稿まとめを敢行する日もそう遠くないだろう。それにはまず基礎体力を取り戻さねば。湯治のために身体を整えるとはパラドキシカルで私好みである。いやほんまに薄くて軽いんだから。久しぶりに素敵と思うモノである。

)バッテリーにも3種類あって、私のは最軽量のもので全部で655gになる。普通は745gで10時間、もう1つ上のものでも総重量1kgを切って20時間駆動と表示されている。オフィス2007が入っていなければ9万を切る値段が標準小売価格らしい。


シドの16:15から月と地球とπの累乗



■12の正4面体数は364、12の正5胞体数は1365。パスカルの3角形を持ち出すまでもなく、この2数の比は4:15である。基本の1は地球の四季の1つの季節に相当する日数の91だが、この比を4オクターブ+3と重ねた「月のフレーム」で見ると、基音Cと1オクターブ上のB(14度上音)との振動数比に等しい。この「月のフレーム」を基音の弦長を円周と考え、それに対応する弦の長さを角度と置き換えてみると、360度と96度になる。

■なお基音Cに対する14度上音、すなわちオクターブ上のBとの弦長比が15:4であり、同一のオクターブにおけるB(7度上音)は15:8ということは、オクターブ下のCすなわち2度した音のBとの弦長比は15:16ということだ。これを再び360度の弦長に置き換えてみれば、1周を超えて384度ということになる。384という数は、ほぼ13朔望周期日であり、太陰暦の閏年の日数に等しい。384日は364日より1ウィナル(20日)分だけ多い。

■ところで月と地球の間の平均距離は384400kmだった。この数値384400は620の2乗であり、よりシンプルに31^2・20^2とも表現できる。また31はほぼπの3乗(31.00627668…)に等しいので、π^6・20^2とも表せるだろう。地球の周長はメートル法で40000kmと表されているが、地球の周長のπ^6/100であるとも表現できる。シンプルに384400kmを40000kmで割ると9.61だから、月と地球の間の距離は地球周長の9.61倍ということなのだけれど。



■なお地球周長を40000kmと表すならば、その直径はほぼ12732.4kmだから、この数値で地球と月の間の距離を割るとほぼ30.19になる。これは月の平均公転軌道が、この倍の60個地球が入るだけの距離であるということでもある。思わず60進法を連想させられてしまう。ちなみに平均ではなく長半径406700kmには32個、短半径354600kmには28個入る計算だ。では月はいくつ入るか?太陽直径にはこの軌道直径がいくつ入るか?それはまたの話だ。

■91は13×7、13週間。364は13×28=7×52。1365は7×195=13×105。19.5度は直角90ドに±19.5度で正4面体の中心角109.5度と2面角70.5度。195×4は780であり、780は260の3倍。196と260は3:4…。話は尽きないが時は尽きる。ほとんどの人が途中で投げ出す話の内容かもしれないけれど、私は別に悲しくもなければひとりよがりに悦に入っているつもりでもない。誰のためかは別にして遠からぬ未来のために書き記しおこう。

■(以下、独り言の中の独り言。気にしないでちょう。)そう言えば、この話の最初が基音Cとその1つ前のBとの関係、もしくは連続するシとドの関係から始まったこととは全く関係ないが、私はセックスピストルズのシド・ヴィシャスが好きだったなあ…。ジョニー・ロットン、今どうしているんだろう。…わし、やっぱセックスピストルズとThe Who 好きやなあ。あとキンクスも。

      


朝風呂に猫闖入してフリード・リンク星



■久しぶりにゆっくり朝風呂に入り、高橋トール氏が翻訳したルハン・マトゥスの『平行的な近くに忍び寄る技術』を読み始めた。半田コーセン氏のヌーソロジーで語ろうとしている世界と大いに重なっている良書だ。ただし表現は全く別のものではあるが。少なくとも2つの異なった視座があれば、自らの内に3番目の視座が生じるチャンスを与えられる。ありがたいことだ。いずれ内容に関して語ることができるだろうか。

■意識が最初からいきなり本の内容で凄いところに連れて行かれていると、浴室のドアをこじ開けて猫のみかんが闖入して来た。長湯しても湯温が下がらないように、2/3ほど湯船に蓋をしてその上で本を読んでいたのだが、そこが暖かいのか肉球と尻を乗せてどっかと居座り始めた。最近嫁さんが「シンクロ2匹」とダジャレを行って自分受けしているが、もう1匹のデルピエ郎も当然の顔をして上がりこみ、臨時卓上は急遽満杯だ。



■しかたないからそのままにしていると、やがて玄関のドアが開き、朝飯の素材を買いに行っていた嫁さんが戻ってきた。「漫画喫茶がオープンしたよ!名前も変わっていたし、フリード・リンク星」…漫画喫茶というのは近所にあった店で、ここのところ全面改装工事中だったところだ。11月末オープンのはずが工事が長引き、来年まで無理か?と思っていたところだ。それはいいのだが、フリード・リンク星って何だ?

■フリードリッヒなんとかという感じのドイツ系ユダヤ人の名前か作品でも店の名前に付けたのか?といぶかしがっていると、どうもフリードリンク制ということらしい。嫁さんの話は非論理的で非時空列系だから、右脳的にも聞かなくては、意識が体ごととんでもないところにつれていかれてしまう。湯から上がり、コーヒー入れて美味げなパンと野菜サラダを食らうなり。朝食が終わり、さあ今日も1日の始まり…て、もう昼じゃーん。



■リニューアル漫喫も行ってみなければ。 


「未知を愛する」というマイテーマ



■博多で思いのほかに沢山の懐かしい顔に巡り合った。昨日会った人ですら今日会う時は、異なる時を過ごした、未知を孕む新しい存在である。実はそのように意識して人々と接しようと努めている昨今なのである。しかしそれにしても長いこと会わずにいた人たちが、みな以前の本質的な性格を肯定的で自由度の高い方向に展開していたという現実には、かなり新鮮な驚きを禁じ得ない。

■状況だけを見れば、家庭や会社や人間関係などに問題がなくもないとしても、そのような当人の本質とは別のところに引きずられることなく、能動的に対処しようとしている。生命の輝きがはるかに増大していた。多分当人たちに面と向かってその感想を言っても、お世辞だとは思わないだろうが、それがほかならぬ自然な今の自分なのだから当然だと思い、私の心象風景と捉えるのだろう。

■私自身の内面側から見た輝きということで澄ましておくことにするけれど、本当にみな未来に向かう生命ベクトルに貫かれていた。もっともそうでない人は能動的に眼の前まで現れてはくれないのかも知れないが、私の世界では私の世界で見えるものしか感じられない。過去の生命的力積を尊重しつつも、目の前で逢う人や世界はみな時の波頭なのだから、未知なる面を持っている。



■最近のマイテーマは「未知を愛する」ということだ。身体は自らを維持するために世界や他者に対して恐れと畏れを持っているだろう。しかし未知なるもの全てに恐怖や不安を煽りやすいこの世界で、既知の中に身をひそめて安穏とするのではなく、未知を恐れず自然に自らの面を向け、意識して肯定的・創造的な関係を構築して行けるよう、自らの意識姿勢を整えたいと考えている。

■考えているだけでは観念に過ぎないが、少しずつでもそれを行動や意識の姿勢として反映していくことが重要だ。他者や未知に謙虚になると、そこはかとなくながら敬愛のような思いも生まれ来る。強制や自戒ではなく、そうありたいと思っているというだけだが、みんなが以前にいや増して生き生きしていると見て取れるのは、決してただ私個人の妄想やひとりよがりのせいではない。

■そしてその人たちの生命軌跡の断片たちでも、自分の怠惰や気力の失速や混濁した意識の修正しなくてはと感じさせてくれる。ひとりよがりではなく、過去の他の人たちとその周辺に見ていた世界と、現在のその人たちとその周辺の空気の変わらないものと変わったものを実際に肌で感じるためにも、訪れたのだと再確認した。距離感の確認である。平衡感覚の自乗による内と外の均整のとれた重なりを意識するために。

      

■結構堅い表現だが、既存の言葉と概念で語るには語彙と才能が少なすぎる。かっこいい爺いになりたしなあ。


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