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  • 2024.01.09 Tuesday
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最も身近な自分の中の未知を見る



■最も近しいものの中にこそ未知を見出さねばならない。身近にありつつも思い通りにならぬものの在りように対し、ただ条件反射的な感情で接するのではなく、常にそこにある未知に敬意を持って接することができるかどうか。もちろん瞬間瞬間の判断や応対も固定することなく為され続けなければならない。

■自らの中の当たり前過ぎる思考や情動の流れをも否定せずに見続けて行くこと。既存の経路ばかりの思考流や、専制君主的な感情優先反応を意識し、自分自身をも他の存在と区別することなく、またそれに身を任せることもなく見詰め、それらをも含めた自らの言動と沈黙に対し、しっかりと責任を持つこと。

■他者に対する責任もあるが、何よりもまず自分自身の総体との関係において責任を持つこと。自らの内なる未知への敬愛をなおざりにして過去の既得権にしがみつき、それが侵されることを嫌い、万事を尽くして変わるまいとする自動機械的内部装置を意識し、失敗を恐れることなく不断に改善していくこと。



■仏陀の言う中庸とは、様々な2元の中央にある点ではなく、そこを反転したところにある。4値論理的であり、面点変換を成す次元垂上点である。統計学上の数値化された平均点というものは、それをいかに反転できるか否かで、最も凡庸なもののままか未来へのブレイクスルー開口部となるかの違いとなる。

■世界の万事万物を2元的視座で捉え解釈できるということは、その様々な様相の差異的極限の対は、最も平均的で見慣れているはずの眼前の点を、ひとつ表裏反転したところでよじれて繋がっていることを、ほんの少しだけ未知への視点を変えることで目撃できるということだ。2元には必ず中間の点がある。

■不動の2重の円環の中心を少しずらすことによって、それを焦点が2つある楕円と見越すことができる。その差異振幅がやがて吸収されて円環に戻ってしまったとしても、その中心点が実は2重だったという記憶は残る。円と楕円の関係、球と楕円球の関係、そこに見えるずれこそがほとんど全てを創り出す。



■あらゆる月並みな既知の中に様々な秘密は隠されているが、それが実はあられもない明白さと共にそこに在るということを見逃してしまう。この関係を難解な概念や言語を極力用いずに、また既存のロジックや神話的解釈に権威づけさせる安易さを控えて、いかに日常の既知の中に潜む未知として提示するか。

■自らの固定観念に無自覚な意識の在りよう。その精神のカタチにこそ問題があるのだ。だが先ずはそれに気づくだけでカタチが変わる。自己言及・自己認識という終わり無き生命活動。そこに終わりが見えないのは地獄だと言い放つ者にとっても、自覚なき地獄と比すれば極楽の中の残業みたいなものだろう。

■連鎖反応のような思考も止み、激情の揺らぎも凪いだ自分自身を、客観的と称されそうな少し離れた視座から見詰めると、光と肌が1つになるような穏やかな日差しの中で、時を超えて眺めているような、心地よくも懐かしい感覚を味わうことがある。これを幸福な副産物として味わってからその先に進もう。


全ての既知のすぐ裏後にある未知を寿ぐ



■先日東京で、大学時代からの悪友(いやこの場合は親友と言うべきか)の結婚式と披露宴に、愚妻と共に出席した。18歳で最初に会った時からコンスタントに波乱万乗の詩人的な生きざまを創出し続ける彼は、今回もさまざまなドラマの果てに、ようやく晴れてこの日に漕ぎ着けたのだ。心から言祝ぎたい。

■プライベートを晒す必要はないけれど、別に隠す必要もないだろうから気軽に書かせてもらう。その美しい新婦は聾唖者である。以前、一緒に名古屋まで来てくれたので、彼女のことは知っていた。式や2次会には彼女の職場や友人の方々も多数参列していたので、参加者の多くが手話のできる人たちだった。

■そして私はその場に居合わせたおかげで、非常に貴重な体験と新たなる思考をすることができた。それまでは耳が聞こえないということに関してあまり深く考えず、ただ大変なんだろうなとうっすらイメージしていただけだった。しかし進行は式次第の初めから人物紹介やスピーチまで全てが手話主導だった。



■もちろん短い代表スピーチをした別の悪友(恐ろしいことに、みな大学で英文学等を教えている)は肉声で話をしたのだけれど、司会進行係が背後でそれを手話で同時通訳してくれた。耳が聞こえる人のために同時に声も出してくれる人もいたが、基本は声による情報交換ではなく、手話がメインなのである。

■そこで私は居づらさや不快感はなかったのだが、ほとんど音のない手話やそれに伴う実に大きく動く目や口の表情でコミュニケートするのが当たり前の世界空間の中では、手話が分からないということがとても大きなハンディキャップであるという、通常とは反転したような感覚を味わい続けることになった。

■そこで改めて実感したことは、視覚や聴覚その他のハンディキャッパーは、世間が通常言うような「障害者」ではなく、単なる「少数者」だということ。弱者ではなく異者であるということだ。これは数的比率を逆転すれば直ぐ分かる。多数決の根底にある最大多数の最大幸福的な発想が不快な理由を垣間見た。



■聴覚が通常多数と異なる者やその関係者は、人間社会で共に生活をしていくために手話や読唇術のようなものを発達させ体得しなくてはならなかった。しかし人類の多くの聴覚が私たちが通常意識もしないような在りようであったならば、意志疎通や共感が誰でも当然できるものという前提がまず問われる。

■見えること、聞こえること、味わえることなどの知覚認識は当たり前のことではなく、とてつもない恩寵なのだということが、改めて己れの身の上に重なる。見えないこと、聞こえないこと、味わえないことなどは決して単なる欠落や欠陥ではなく、ただその在りようが稀であり、貴重な形態だということも。

■新婦友人のパフォーマンスだった「手話コント」は、私にとって未知なる衝撃だった。必然的にパントマイムのように静かなものではあるが、異国語の笑劇を見ているのではない。遅れて通訳の声もあるが、手話の意味が分からない。しかしそれでも注意を凝らして表情を見るとそれとなく分かる部分もある。



■社会派して社会の変革を叫ぶのではなく、また単なる個人的願望として囁くのでもなく、異能者が社会に適応するために様々な努力をするのは当然だという発想以外にも、様々な個人的な在りようがあることを自覚し、そして他者のそれをもイメージできる意識視座を失わずにいようと心掛けるということ。

■数的多少で全ての情況判断をなすなかれ。自分にとっては当たり前のこととして自覚はおろか思考対象にすらもしてなかった様々なものごとを、当たり前では済まさず正視し直そう。そしてどうしたらそれと等値の異なる在りように対しても、敬意と愛情を持って接することができるのか熟考する必要がある。

■様々な点において自分が恵まれており、幸運であるという自覚がずっとあった。そして決して傲慢になったり特権的自覚を持ったりせずに、なぜそう感じられるのかと感じられないのかの差異がどこから生じるのかという問題を、運命や宿命や超越者等の言葉に無思考で貶めることのないよう考え続けていた。



■不足側からではなく充足側からの問題意識も必要だと思っている。しかし自分が恩寵の中にあり、幸運であるという自覚は、裏を返せばそうでない者がいるという判断を、自分がしているということだ。不恵・不運であると誰が判断するのか?自己陶酔癖ではないにしても、そこにはまだ無知と傲慢さがある。

■自分が意識せぬまま多くのジャンルで多数派側にいることに気付き、それを反転させて少数派になった時のことをイメージし、そしてその時の不安や申し訳なさ、違和感や非力さを乗り越えて、そこにそれでも慈しみや親しみや喜びを見出し、共に在ることの不思議さ、有難さを模索しゆく道筋は未来に続く。

■観念や思考実験に留まらず、共に在りつつ、異でありかつ異ならざる者として、総体の中で生きること。未知とはまさに未だ知り得ぬものとして、あらゆる既知のすぐ裏後にある。それらを恐れたり無視したりすることなく、敬意と共に肯定的に接する姿勢を保ち続けながら、改めて新婚者たちを予祝したい。


■ 後 拾 遺 集 6



★日本には2大政党政治は根付かないという表現があるが、2大政党政治そのものがすでに前世紀の遺物なのでは?自民党から民主党になって、さあこれからという感じだったが、時の流れが加速するのもあって、二元論的発想でもある、2大政党政治そのものが対消滅する日もそう遠くないかも知れないなあ。

★日本には願わくば、今後日本的リバタリアニズムへ移行してほしいものだ。まだそのようなものは顕現していないけれど。個と全体を別の論理構造でしか捉えられない発想の貧困さは、下手をするとヒトラーの予言期限である2039年以前に、人間を機械人間と神人に分化させてしまうのではないだろうか。

★個々人の自覚と行動が基礎にないところに、社会的・全体主義的なものを導入しようとするのは、それがどのように慈悲的動機に基づいていようとも、形を変えたテロリズムと大差ない。国家的規模で成そうとするベーシックインカム運動をあえて否定はしないが、私はそんなバカでかい国家はいらないなあ。



★政治の素人や社会福祉に興味のない奴はだまっていろ!という声もあるかもしれないが、そのような人たちはヌーソロジーや神聖幾何学、ひいてはグノーシスやヘルメスの系譜などのようなものは、基本的に何ら人生の役にはたたないという表現をする。もっともそれを為している者達もそう自評するのだが。

★しかし実のところそれと正対して真剣に探究している者は、確実に以前より人間としても「いい奴」になり、日々進化している。それは目的ではなくほんの副産物だが、これは事実だ。もしそうでなければ、正対していないまま歪んで追及しているか、それを評する者自身が歪んだ見方をしているかだろうな。

★Kohsen氏がポロリと表現した「ベーシックセックス」という表現とその本質は、実に興味深いツボだと考えている。「ベーシックインカム」の目指すところがただの最低限の金のばら撒きでないように、もちろんこちらも最低限度の性的充足が着地点ではない。もっともそこが始まりですらないけれど。



★セックスを金に変えるという発想は、時間を金に変えるという問題に似て、現代まで続いている人間社会の根源的な間違いだろう。時間を買う、セックスを買うという発想とその行動は、実際に時間を買い、セックスを買ったのだという社会的幻想共有によって、その大いなる誤謬を自覚させないまま続く。

★いまだ目覚めなき子供と、すでに枯れ果てた老人は議論の範疇から外すとしても、基本的な心身も含めた健全な生命活動のベーシックを、現代社会ではそれを勝ち取るために莫大なエネルギーを要し、かつ長期に渡る欠乏感をストレスとして抱えて生きているのは、社会レベルの根本的な錯誤ではなかろうか。

★別に性的マンネリや欲望の枯渇を打破しようとして語っているわけではない。現状に特に不満はない。(←ちょっと嘘混入。)しかし若い頃から、社会の中でも巧妙に自然界の生存競争扱いされている結果としての欠乏感・孤独感・妄想・非力感などによる不要なエネルギーの大量消耗も知ってきたと思う。



★ベーシックインカムを思考するのであれば、ベーシックセックスまで思考を伸ばしてしかるべきではないかと言う気概はある。もっともそれを能動的に変革する社会革命家とか性的自由主義者でもありえない。金・時・性・数の背景に、通奏低音的に隠れ秘めてある巧妙なる忘却固定された共通意識のカタチ。

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()画像は以下のページより借用させていただいたものを加工しました。
 "Pictures from the Deepest Depths" http://www.collthings.co.uk/2010/02/pictures-from-deepest-depths.html


■ 後 拾 遺 集 5



■赤ん坊は赤色を強く認識するので、赤ん坊の玩具は赤色を基調に作られている。外部からの見た目が赤いから赤ん坊なだけでなく、赤いものに視覚的に惹かれる特性があるということだ。人間もまた外部から見える容貌や人相という特性はそれだけでなく、内部から外部への固有特性を重ね持つのではないか。

■開眼と閉眼と半眼。内面世界と外面世界というものの界面に立ち、仏陀の半眼は第3の視座からその双方を同時に見ているのだろうか。昼と夜、覚醒と睡眠、様々な二元的認識を否定せず、そこから垂直に立ち上る方向に足を半歩踏み込みながら、それでもその両者を見限らずにただ見つめ続けているその目。

■目覚めしなのあの半覚半眠、もしくはその真逆の意識空間。開眼と閉眼と半眼。それはまた日の出や日没そのものにも似ている。黄昏時には色も明るさも共におぼろげだが、それでも共にある。太陽や満月の半円の中心が地平線に掛かるその時。自らの半眼と天体の半眼をつなぐ場はこの間の向こう側にある。



■モノと身体を接して一緒に移動する時の感覚。意識の集中点(アッセンブリッジポイント)の想定とそれによる身体感覚の差異。自分より大きいくらいのものを持つ時、そのものの重心より上の位置に意識を集中して持つと、何もしないより軽く持ち上がる。モノと自分の間にある関係の真裏側の空間の想定。

■階段を上る時、自分の頭より少し高い位置に意識集中点を置くと、引っ張られるようで登るのが楽に感じる。立ち上がる時や向きを変える時、その方向に瞬発的にわずかなりとも腕を回転させながら動かすと、ずっと楽に動ける。身体感覚の理論や実践をしている人には当たり前のことではあるだろうけれど。

■重い軽いは主観的要素が大きが、同じ重さ・同じ形状の物体でも、黒い物体は白い物体より1.5〜2倍も重く感じるという実験結果がある。結果の信憑性を云々するより、自分で確かめてみる方がずっと早い。同じ荷物でもそれを明るい色にイメージし直して運べばかなり楽だし、新感覚の発見は面白い。

■つまり物質的世界の中の物理的作用や解釈も重要だが、その上にこのようなちょっとした意識的操作を楽しみながら加えることができれば、1つ1つの差異は実に微々たるものであっても、その意識内の力積はかなり大きなものになるってこと。人に教えてもらうのも良いが、自分で気づくのも楽しいものだ。

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140ぴったり文字思考の現場 ⇒ https://twitter.com/onomaro
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■ 後 拾 遺 集 4



■物質には光を透過させるものとさせないものとがある。澄んだ水や空気は光を透過させる。同様にしてガラスも光を透過させる。光が透過する物体と透過しない物体があるのは何故なのだろう。人間型ゲシュタルト的な意味での透明とはどういうことなのだろう?太陽光線でしかも地表に届く帯域での話だが。

■実は透明な物質も全ての電磁波を透過させているわけではなく、ある限られた電磁波だけを透過させているのだ。例えばガラスは可視光を良好に透過させるが、40nm以下の波長の短い紫外線は透過しないし、1000nm以上の長い波長も透過しない。一方非常に高エネルギーのX線は不透明な金属も透過する。

■つまりガラスは人間にとっての透明であり、可視光線を含むもう少し広い電磁波帯域を透過させている存在であるということだ。だから人間の今の在りようを差し置いて「なぜ水晶など二酸化ケイ素メインの鉱物は光を透過させるのか?」という問いかけはまだガサツであり、もう少し洗練される必要がある。



■原子番号14:ケイ素Siの本質を語る場合でも、人間にとってという注釈もしくは前提があった上で、それを含むなり超えるなりした視座からのものを語らなければ、聞く者の混乱を招くのではないか。(取りあえず人間にとっての10進法の)数の意味を語るのと、それを超えた視座からの数とは異なる。

■それにしても原子番号はその原子の中にある陽子の数に等しいのだから、自然界の中で最も分かり易い数の並びで表現されたものの1つであろう。中性子数が異なる原子、つまり同位体も同じ原子番号であることを特殊例とすれば、基本的に質量数は陽子と中性子の数は原子番号の2倍でこれも分かりやすい。

■中性子とともに原子核を構成している陽子()の質量は電子の1836.15倍で、直径は10^-13cm。アップクォーク2個とダウンクォーク1個(uud)で構成されている。なお1836の100倍の183600日は365日のほぼぴったり503倍であり、またほぼ6217朔望周期である。



■それにしても水素の原子核は陽子1個のみで中性子がないので、イオン化した水素(H+)は陽子そのものでもある。化学の領域では水素イオンをプロトンとよぶ。水素は5つあるプラトン立体のうちで唯一双対立体が自分自身である正4面体に似ている。正4面体は原子核の内部構造に対応しているのでは。

■自然界には原子番号92のウランまで存在するが、この半分の46は人間の染色体数であり、現代日本人が認識できる50音上の音の数だ。半分の23は日本語の音素の数だ。 <a,i,u,e,o,k,s,(sh),t,ts,n,h,m,y,r(≒l),w,g,z,d,b,p,詰音(っ),ん>

■正4面体を別枠とすれば、残る4つの正6面体、正8面体、正12面体、正20面体の面の総和は6+8+12+20=46である。面点変換すれば全ての点は46。原子番号1の水素から46のパラジウムまでが核融合傾向を持ち、逆に47の銀から92のウラニウムまでの46原子は核分裂傾向を持つ。


)プロトン。電荷は+1、スピンは1/2。質量は1.67262×10-24g。物理学ではハドロンの1種。

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リアルタイム140文字ジャストのさえずり現場 ⇒ https://twitter.com/onomaro


HCNOの分子モデルと白黒青赤




■先日、日本古来の色表現は「白・黒・青・赤」の4色に限られているということ、そしてそれは大相撲のやぐらの4柱にある4つの房の色にも表されているなどと書いたが、今日ネットで分子模型について調べていたら、水素⇒白、炭素⇒黒、窒素⇒青、酸素⇒赤という対応になっているということを知った。

■他色モデルも稀れにあるようだが、市販の原子分子モデルは日本のものに限らず、外国のものも多くはこの色を使っている。改めて言うが、白・黒・青・赤がそのままH・C・N・O、原子番号は1・6・7・8である。接球を介した小正8面体、正6面体、正8・6相貫体の裏、大正8面体の体積でもある。

■天王星・海王星・冥王星と原子番号92・93・94のウラニウム・ネプツニウム・プルトニウムが、ある程度恣意的に付けられて定着した名前だが、これらの名前の関係総体が個人的な作為というよりは時代のある種無意識的な総意であるように、この原子(分子模型)の色対応も実に興味深いものがある。



■なおDNAを構成するもう1つの原子である15:Pリンに黄色が対応していれば、これはもう陰陽五行思想などとも確実に対応しているに違いないなどと暴言暴説を捻くり出しそうだったが、幸いにも(?)リンはオレンジ色に対応していて、黄色に対応しているのは結晶が黄色の次の16:S硫黄だった。

■また「この4色はカ←(ア)→オの対称性と、シ→(ロ)←クの対称性の交差でもある」とシンプルに表現したが、これだけでは両端が電磁波の波長が長い赤と波長の短い青の間にある可視光線の色相の諸スペクトル、及び両端が白と黒である灰色明度の諸スペクトルであるという物理的表現に誤解され易い。

■上代日本人の色彩感は現代とは異なっていたというのが国語学の定説なので、もう少しだけ詳しく説明しよう。色彩は色相・彩度・明度という3属性からなるということはすでに述べた。現代の色名は主に色相の差異特性を指すが、実は日本古代では彩度と明度を基本としていたという点に注意が必要である。



■日本古来の「白・黒・青・赤」の4色の背景も実に深い。現代の色彩理論を元に上代の色を語るのは、本質的に本末転倒であることを承知の上で、それでもあえてシンプルに表現しようとするならば、「彩度の大小の極大対が赤⇔青の対であり、明度の大小の極大対が白⇔黒の対であった」ということになる。

■「赤」は彩度が高い鮮やかな状態を表現する語であり、「青」は彩度が小さい色彩を表現する。「赤」<aka>は明るい(bright)と同じ語根であり、「青」<a(w)o>は「淡」<awa>と意味が近く、桃色や水色や灰色も一括して「青」と呼んでいた。蒼、碧とも書き、時には緑色をも指す。

■「白」と「黒」は明度もしくは光量の大小に対応した語で、「白」は上代においては、現代の色の白っぽい(whitish )よりも、「光輝いた」(shining)に近い原義なのに対し、「黒」<kuro>は光の少ない様、または光の欠如、即ち「暗」(kura)が原義だったと考えられている。



■紅白饅頭や紅白歌合戦や運動会の白組赤組などの赤と白の対は、彩度の大と明度の大という2つの異なった対称軸の優位なもの同士の対だということだ。上代語の「黄」は用例自体が少ないが、彩度の大きい「赤」と明度の大きい「白」の間をつなぐ言葉だったと考えられている。15リンでなく16硫黄か。


■ 後 拾 遺 集 3



■恒星の内部における水素の核融合反応には2種類ある。太陽が行っている核融合反応はp-pチェーンと呼ばれる。複雑な過程を省いて言えば、4つの水素Hの原子核が融合して、1つのヘリウムHeの原子核になるということだ。この過程で失われた0.7%の質量が莫大なエネルギーに転換しているのである。

■すなわち計算によれば、太陽が行っているp-pチェーンの核融合反応においては、1グラムの水素がヘリウムに変わる時、およそ1億5000万キロカロリーのエネルギーが発生することになる。ところで地球と太陽の間の距離は1億5000万キロメートルである。また太陽の中心温度は1,500万度Kと計算されている。

■太陽よりずっと重い星でなされてる核融合反応のCNOサイクル。水素Hは原子番号1。C・N・Oとは原子番号が6・7・8の炭素・窒素・酸素だけど、体積1の正8面体とそれを面点変換した体積6の正6面体と、この正6面体と中接球共有の正8面体の体積は8だし、反転途中と見越せる見えない7まで気にかかる。



■色の色相環構造をずっと見続けていると、なぜか補色関係がメビウスの環が自らの裏側にある360度(W1)+180度(W2)の回転の照応を2次元に落とし込んだ円環図では真向かいの位置に見ているような感覚を受けてしまう。もしくはメビウスの環のスピン1/2の720度を圧縮された180度の位置に見ている感覚。

■八百万の神のようにあらゆる自然の中の色に名を与えて愛でた日本の伝統的な色の文化はまた、記紀などの日本神話の世界では白・黒・青・赤の4色に限られて表されている。相撲の櫓の4柱にある4つの房にも表されているが、この4色はカ←(ア)→オの対称性と、シ→(ロ)←クの対称性の交差でもある。

■忘れると忘れているということも忘れてる。覚えていると覚えていることも覚えている。忘れていても何か忘れているということを感じることがある。覚えている時に何か忘れていないかと不安がることもある。忘れると覚えているの間には、2値でも4値でもなく様々なスペクトル帯域があるわけというだ。


人間の視覚における奥行きについて(2)



■色は幾何学的空間認識で捉えていると考えられている人間の奥行き感覚や距離の判断に影響を与える。暖色系の色は実際よりも飛び出して見え(進出色)、寒色系の色は引っ込んで見える(後退色)。また一般に無彩色よりも有彩色の方が、そして寒色系よりも暖色系の方が、誘目性が高くより手前に見える。

■さらに背景が明るければ暗い色ほど、逆に背景が暗ければ明るい色ほど進出して見える。一般に背景との明度差が大きい色ほど進出して見えるのである。そして白や赤や黄など暖色系の色は実寸より物が大きく近くに見え(膨張色)、逆に青や黒等の寒色系の色は実寸より物が小さく遠くに見える(収縮色)。

■「空気遠近法」という絵画技法はレオナルド・ダ・ヴィンチが創出したと考えられている。これは対象の手前にある空気を強く意識させ、彩度差や輪郭の明瞭差によって距離感を出すことで奥行きを感じさせる技法である。具体的には遠方の対象をかすませたり、青みがかった色合いを含ませて描かれている。



■これらは光学的・科学的には錯覚として括られるが、周辺部に行くに従って対数的に歪むのが、人間の知覚認識能力の特性だ。とするならば、科学的必然性や理想的モデルの比率や数値に人間の知覚認識をはめ込もうとするのではなく、人間としての生理学的・心理学的なずれ具合にこそ注目すべきであろう。

■私たちの世界の見方について、ただ一概に人間型ゲシュタルトと括って貶める前に、一度明確にその偏性曲率を精査してみる必要があるだろう。これらの固有な特性の中にこそ、人間としてモノを見る前から共通認識として固定されている視界風景の先のパースペクティブを見透かす鍵があるかもしれない。


人間の視覚における奥行きについて(1)



■人間の視覚に拘ってみよう。人間の視覚能力に関しては、サバンナに住むマサイ族の3.0〜8.0の視力(中には12.0という数値もあるとか)から、全盲の人までの幅がある。しかし都市に住むマサイ族の視力は平均1.0程らしいので、生存のために常時眺視するという環境が主因とする考えもある。

■現在の私の視力は、乱視と近眼に加えて年相応の(?)老眼も入り、眼鏡作りの時は検査が色々面倒くさい。しかし通常の言葉で表現すれば視覚能力が劣っているという状況を、世界を楽しむ能力に劣ると重ねて考えてはいない。裸眼時と矯正時の2パターンの世界を味わえるのだ。見える世界が自分の世界。

■ここでクエスチョン!ヌーソロジー的に人間型ゲシュタルトを超えて新しい視界を得るのに、現在の3次元のモノたちが明確に見えることは有利なのか逆に不利なのか?アンサー。現実的な視覚能力はほとんど関係ない。ツッコミ。それははたして本当なのか?コメント。もう少し考察する余地があるだろう。



■視力というとまず、あの体力測定や眼科医でお馴染みの、あちこちを向きつつ小さくなっていくCマークの視力検査(ランドルト環)を連想するが、あれは静止視力の測定である。ほかにスポーツ選手がらみでよく聞く動体視力や、車の特殊免許取得の時に検査が義務付けられている深視力(1)というものもある。

■静止視力とは見る者も見られるモノも共に静止している時の視力だが、動体視力の定義は普通、見る者は静止し見られるモノが動く時の視力である。それにも見る者に対して横方向の動きを識別するDVA動体視力と、前後方向の動きを識別するKVA動体視力とがある。さらに見る者も共に動く系もあろう(2)。

■このうち見る者と見られるモノが共に動く系での動体視力についてはあまり語られていない。ましてやそこでのKVA(奥行き視別能力)に関してはほとんど研究が見あたらない。幾何学的な対称性が上がっていくに従って関係性も高次になっていくことと相似形で、その視覚能力もトレースしたいものだが。



■人間型ゲシュタルトを超え行くべく、空間認識における奥行きについても、なんとか身体感覚的実感を持たせつつその考えを深めて行きたいという熱く語るヌーソロジストたちは、この人間の深視力についても一応考慮に入れた方が良いだろう。身体運動と視覚能力は共に高次対称性を有しているのだから。

■静止視力と動体視力とは相関性があるらしい。近視でも訓練によって動体視力を高めることはできる。そうか、だから高校時にサッカーのゴールキーパーをやっていて、シュートに対する反応が良いと評されたのかと納得する。自慢かな?いや、球戯は見る者と見られるモノが共に動く動体視力の世界である。

■両眼視力は片眼視力よりもその視認能力が若干良くなり、乱視がある場合等にもその傾向が強くなる。また両眼視によって深視力が高まる。クエスチョン!訓練によって人間の視覚能力は高まるのであれば、スポーツをやって視能力を高めるのは高次元を見るのに有益か?アンサー。分かんないけど、やれよ。



■以前、生後間もない赤ちゃんに自覚があるかどうかについての研究に対し、あるともないとも言えないだろうとツッコミを入れたが、視力に関しては、明暗の識別ができる程度から徐々に人間としての視力が発達し、6歳頃までに大人と同様の視力が完成するという記述に対しては、それなりに納得できるな。

■ところで水中と陸上の両者で生活する動物は、一般に陸上では強度の近視となり視力は悪い。もし次元の界面を行き来する次元両生類にならんとするならば、比喩的表現ではあるが、まずは上の次元では視力が弱まるとか変質するということを念頭に置きながら、その記述をする必要もあるということである。 

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1)「深視力」とは、遠近感や立体感を正しく把握する能力のこと。
2)DVA(dynamic visual acuity)と、KVA(kinetic visual acuity)


立体裸眼視の水平線を回転させる



■視覚に関するお手頃な人体実験その2。まず何でもいいから、3Dアートや視座を少しずらした2点から撮った2枚の画像を立体裸眼視してみる。そしてそのままの状態で、画像もしくは自分自身を水平線方向に対して右もしくは左にすこしずつ回転させてみよう。画面はどのくらいで崩れるか。その傾斜角は?

■傾くにつれてだんだん不快感が増すが、ある程度までは脳内処理によっ3D感を導き出すデータの入った2枚の画像を、通常とは異なる焦点深度で3D視している見え方を維持するために、脳内で必死に左右の視覚データの傾きを補正しつつ両眼視差を維持しようとしている自分が分かる。かなり気持ち悪い。

■これもまた利き目優先の回転方向などがあると思われるが、あまり我慢して続けると視覚神経系の軋みから気持ち悪くなるので、深追いはお勧めしない。私個人としては、この実験を左右がネガとポジのもの、または順色と補色に変換した立体裸眼視用画像を用いて、もう少だけしトレースして見ようと思う。



■実はこの人知れぬ人体実験、十数年前に試みたことがある。その時は地球の赤道傾斜角23.4度に近い角度で3D視ができなくなったので、勝手に「ああ、やはり地球の角度と関係していたのだな」と1人でなっとくして終わりにしていた。しかしそれはトイレのタイルなどで試したものだった。

■実験というには設定が他の3Dサンプルも必要だし、被験者=実験者が私1人だけだったので、むしろひとりよがりに過ぎないと言われればそうだろう。現在ならそのこともさえずれるしこのようなことを厳密にやっている機関もあるに違いない。目の前のタイルなどで簡単に試してほしい。


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