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絶滅危惧種の言語と世界観
- 2010.03.31 Wednesday
- ■言葉と論理の世界
- 19:20
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- -
- by 小野満麿
■研究方法や統計のありようにもよるが、現在世界中で使用されている言語は約6000と考えられている。この様々な言語の仕様地域分布、及びその仕様人口数にはかなりのばらつきがある。言語数から見れば、アフリカ・アジアの言語が全体の約32%、アメリカ大陸の言語が15%、太平洋の言語が18%を占めている。
■一方ヨーロッパの言語は全体のわずか3%に過ぎない。逆の表現をすれば、全体数の96%の言語は世界総人口のわずか4%が使用しているに過ぎない。現今のインターネット上のコンテンツの9割以上は、たった12言語で占められている。現有言語のほぼ半分が消滅の危機にあるとユネスコは報告している。
■生物の絶滅危惧種は様々に上げ連ねられていてそこそこ耳にも入るが、消滅危惧言語の問題に関しては一般人はほとんど知ることすらもない。言語の問題を語るには、この辺りの諸現状も踏まえねば、江戸時代の国学者のように言語に対する未知ゆえの独善性とローカル性からはみ出しての考察は難しいだろう。
■例えばパプアニューギニアには確認されているだけでも832の言語があり、同様にインドネシアでもその数は731を数える。アフリカのナイジェリアとカメルーンだけでも341の言語があるし、メキシコにも295の言語が、そしてオーストラリアにも268言語という多様なネイティブの言葉が現存している。
■現今の世界ではBRICsの経済発展が著しい。世界全体に対してこの4か国だけでも国土面積で29%、人口では42%と圧倒的な比重を占めている。しかしこと言語そのものを見ると、ロシア語こそ国連の公用語の1つだが、世界全体に対してブラジルには234の言語が、インドには400の言語がある。
■中国は共通の文字を用いて「普通話」と称される標準語が若者を中心に浸透しているとはいえ、大きく括っても七大方言とか十大方言などに分類される語圏があって、国内バイリンガルも特別ではない。これらの国が今後の世界経済を動かしていく時、迅速な情報共有というものは何語でなされるのだろう。
■それが英語や国連の公用語で成されるのも変な話だが、それぞれの国の標準語が国外にも国内にも翻訳されて伝わるというのも奇妙な話である。翻訳能力が向上すると言っても簡便さにより生じた余力を言語のコミュニケーションに用いるのでなく、経済効率や戦略に用いるのであればさほど意味がない。
■絶滅危惧種のリスト入りしない言語が健全なのかというとそうでもない。言語は他言語を食して生きる肉食動物ではないが、それでも比喩を超えて実際に多言語を飲み込むケースは存在する。しかもそれに対する人為的なマイナー言語の保存活動自体がすでに不自然なのではないかという問題も内包している。
■言語を用いて言語を語る。これは一見単純なパラドクスやカテゴリーエラーに過ぎないようにも思える。しかし実際の世界の未知なる在りようと、自らそれを理解していない「言葉」というものを持って世界に対峙し、自らも含めて記述し展開していくという仕方そのものがすでにパラドクスに満ちている。
■法律を踏まえた司法裁判の諸過程や、政治の公的論争や質疑応答や、商取引の細部にまで至る契約、学術論文や理論構築とその検証などなど、論理的段取りを用いなければならない言語によるコミュニケションは当に時代の速度から取り残されているというのに、代換案すらもないこの現状のもどかしさ。
■つまりいまや、母国語とその他の言語の関係について真剣に考えざるを得ない文明開化の時代はとうに過ぎ、自ら用いている言語と言語そのものの本質的な関係について真剣に考え、言語とはそもそも何かというところまで思考の触手を伸ばさなくてはならない、次元開花の時代に漸近しているということだ。
立体裸眼視の未来方向とは(2)
- 2010.03.30 Tuesday
- ■自己他者問題と世界観
- 09:26
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- by 小野満麿
■通常の目の焦点距離を変えて2枚の平面画像を用いて立体的視覚を得る、交差法及び平行法という2種類の立体裸眼視法があるが、このどちらも実際に2枚の画像が視覚焦点のチューニングによって1つの立体画像に見える直前に、視野の(特に周囲の)明るさが明確に変わる瞬間がある。これは左右2つの視覚の光量が1つに統合される時に倍にならずにほぼ半分に変換統合される境目なのだろうか。
■自らの知覚や思考による認識の能動的拡張によって、人間としての共通世界認識の他にも意識の様々な焦点距離・処理フェイズがあることを知れば、逆に現行の人間の知覚認識のみに特化して、そこを擬似的に拡張する類の科学技術とその構築するバーチャル世界にフォーカスしなくなる人間も自然に多数出てくるのではないだろうか。
■立体TVやバーチャルリアリティのゲームが実際に多数出回ってもいいだろう。それを楽しむことができる人にとっては楽しみが増えて喜ばしいことだ。しかし劇中劇にはまって本来の劇のストーリーを軽んじてしまう未熟な役者のように、多くの者がそこに意識を取り込まれて脱出不可能になりかねないという未来はいかがなものだろう。
■よく似た何ヵ所かの部分だけが違っている2枚の絵を示し、「間違い探し」と称して異なるところを数え出せという絵のクイズがある。昔は2枚とも手書きしていたので、問題の答えとは別のところでも微妙に違っていたりしたものだが、最近は画像をコンピュータ処理をして製作しているそうので、異なる答の部分以外は全く同じである。
■この2枚を敢えて立体裸眼視してみると、その左右の画像の異なる部分だけがモヤモヤとはっきりしないので、そこが答に相当する部分だと分かる。もう飽きたのだが、一時期、同じような2つのものがあるとつい立体裸眼視視してしまう時期があった。別に画像が立体的に見えるわけではないので、単なる立体裸眼視技法の転用に過ぎない。
■しかしこのような原始的とも言える技法すらも、軍事的な目的にも活用されているらしい。実際に軍事衛星や偵察機に搭載された解像度の低い2台のカメラによって同時撮影された2枚の画像を、片目ずつで同時に見ることにより、元の写真を単独で見るよりも立体的に知覚でき、カムフラージュやデコイなどを見破ることができるのだそうだ。
■「3次元映像」とは、字義通り見る者に立体的に見える映像のことだが、私たちが日常生活で周囲の空間を見ている視覚情報のことではなく、むしろ今まで述べてきた両眼視差と共に運動視差、つまり観察者の頭部運動に合わせて映像の見え方を変化させることでリアルに感じさせようとする、技術的な人工映像のことを意味している。
■3次元映像の提示には大きく分けて2つのアプローチがある。すなわち3次元ディスプレイとヘッドマウントディスプレイだ。前者はSF映画などで描かれている実際に3次元空間にホログラフィックに投影される立体画像であり、後者は頭部に装着するディスプレイ装置によって頭部の動きに合わせて両眼の映像を生成して表示する。
■特に後者は原理的には帽子や眼鏡の形をしているため、視野を覆うような広角のものも製作可能であり聴覚と併用することによってよりバーチャルリアリティを実現でき、究極の臨場感を与えうる。現状では高価で高性能のものがはまだ軍事利用に留まっているが、今後は全方位型バーチャルリアリティがより身近になる可能性が大きい。
■究極の臨場感とは、言い直せば現実との区別を究極的に無くしていくということでもある。その根本的差異を自覚認識していない者に対しては、如何なるサイドイフェクトがあるかの実質的データは存在しないのだ。それらの検証を二の次にして経済先行で事を成そうとするのは、原爆や水爆を取りあえず実際に爆発させてみた科学者や政治家たちの姿勢と大差がない。
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■MEMO:両眼視差。虚数のiとしての表現。全てである愛(慈しみ)、余り眼のeye。50音図の1番目と2番目である「あ」と「い」。もしくはあおうえい、数霊における音霊数の1と5、もしくはペンターブシステムのαとΩ。部分と全体。フィボナッチ数列で言うところの大きな1と小さな1、もしくは最初の1ともうひとつの1。道は一を生し、一は二を生し、二は三を生し、三は万物を生す。『老子』第42章。
(未来に続く)
立体裸眼視の未来方向とは (その1)
- 2010.03.29 Monday
- ■自己他者問題と世界観
- 14:53
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- by 小野満麿
■「両眼視差」という単語は、厳密に言うと右目と左目で見える像のずれつまり両眼像差をあらわす場合と、両眼そのものの視座の位置の差もしくは角度自体のずれ・差異をあらわす場合がある。つまり2つの視界と2つの視座双方を表わし得る言葉であり、実際は他者を無縫の世界として見る行為の背後にある4つの要素をも表している。
■「ステレオグラフ」とは、目の焦点を意図的に前後にずらすことで立体的に見える画像全般のことだ。一般に両眼による立体的視覚認識を生ずるハード及びその技術のことを表す。今後流行するであろう3D映画や3Dテレビもまたステレオグラムの範疇に含まれるが、機材を使わずに裸眼で立体視する場合を特に立体裸眼視と呼ぶ。
■人間の脳は左右両眼からの2つの画像の差異を利用して空間の再構築を行う。この特性を逆手にとって、両眼的視差が生じるように平面画像対を写すことで、脳に立体として認識させることが出来る。なおこの時の2台のカメラ間の距離をステレオベースと呼ぶ。多くの場合、人間の両眼間隔の平均値と同じ6.5cmが適当である。
■昔、漫画家のアシスタントをしていた頃の話。仕事場の洋式トイレの壁が、多数の長方形にエンボス加工されていた。ある徹夜明けの未明、寝ぼけ眼のままそこに腰掛けてしばらく壁を眺めていると、その長方形群が大きくなったり小さくなったりすることに気がついた。過度の疲労から空間感覚がおかしくなったのかと瞬時戸惑った。
■眠気が後頭部にこびり付いたままの視覚が、視線焦点を眼前の壁面上に結べないまま前後方向に揺れ動いていた。しばらくしてから、エンボス長方形の重なりがずれたまま異なる大きさの長方形として揃い、壁面の奥行き感覚が狂ってしまっていたのだと気がついた。無意識にそうなるのであれば、それは意識的にもできるのではないか。
■そこでその両眼のピントを意識的にずらして壁面を見ると、壁面までの何段階かの距離感を味わうことができた。特に交差法で極端に両目を寄せていくと、単なる交差法の焦点距離よりさらに手前にも焦点距離がありうることが分かった。このように繰り返し図形パターンを持つ画像は、焦点の合わせ方で異なった距離感を味わうことがある。
■このような見え方を壁紙錯視と呼ぶとらしい。それにしてもこれを本当に単なる錯視として括ってしまっていいのだろうか。実際の壁面より奥に焦点を作る平行法の焦点距離のさらに奥側にも仮想壁面を見ることもできるだろう。両眼でモノを見る通常のピント以外にも、焦点距離の異なるスイートスポットは多数あるのではないだろうか。
■逆さ眼鏡や左右逆鏡実験のように、疲れはするがこの異視覚焦点世界空間も慣れればそこで生きることができるに違いない。両眼視差から創出するこの通常の空間と奥行き感は、決して唯一無二のものではない。では実際に体感もでき、それ以上に想定もできるこの奥行き感の多重の距離感、もしくは多層の空間とは何なのだろう。
■この通常の空間認識は実に強固で、ほとんど真剣に再考されていないように思えるが、これは人間としての種の、単なる深い無意識レベルにおける脳内演算の統一規格の1つなのだろうか。それとも生物学的にこの距離感でなければならない理由があるのだろうか。おそらくあるのだろう。あるとしたらそれは何か?そして変え得るのか?
■これは目の主に視線との直交グリッド(特に上下+左右の)がある場合、その手前や奥向こうにも異なる焦点による異空間「面」が想定できるということだが、これはまた任意の単位グリッドがなければそれらもありえないという見方もできる。しかしさらに逆に言えば、普段は見えていない諸空間が自在に想定できるということでもある。
■実際の物理的・光学的・身体光学的研究と成果からなるステレオグラムの仕組みを利用すれば、ホログラフィなどで実際に立体的な像を作り出さなくても、仮想立体的に見せることができる。しかしそれは逆に私たちの視覚深度の多様多層性の中から現行の視覚に固定し、その外に出さないよう封じ込めてしまう方向に働くことになるだろう。
■通常の両眼立体視とは、左右の目に微差異を有する映像を見せて、現在の3次元空間認識に固定された錯視錯覚を利用するものがほとんどだ。正確に言えば、このような視覚は実際のホログラフィを見るような完全な3次元の知覚ではなく、2次元の視覚に奥行き情報を追加した、いわば2.5次元の仮想現実的な知覚である。
■もちろん実際に外部に3次元立体的な形状を呈しているホログラフィそのものもデータに過ぎないという認識とはまた別に、この視覚深度の多様性という話そのものも、単に実際的な物理的・光学的・身体光学的な表現だけでなく、この空間認識そのものとは少し、もしくは全く異なる多様な存在可能性があるというメタファーを含んでいる。
■ここまで考えてくれば、実際に私たちが通常の3次元空間として認識し、その中で生活している空間というものの総体も、私たちが脳内で情報処理をして3次元的に認識し、人間として共有しているつもりのこの空間もまた、私たちの情報処理といういわば生体プログラムによるデータ処理の結果に過ぎないという括りで捉えることもできる。
■ではそのプログラムに喩えられる認識過程は何者がインストールしたのであろうか。なおこの表現は決して人間を作った神とか超越者の存在を前提としたもの言いではない。むしろ人間の意識の総体がそれを今現在共有稼働させているとか、ほかならぬ「私」がそれをプレインストールしたのではないかという想定も含む、全く自明ではない自問である。
■実際のところ、立体テレビやステレオグラムは人間の技術により、錯視を利用した擬似的な3D体感による外的・ハード的技術である。つまり自らの能動的能力展開による進歩ではないので、自らの未知なる知覚領域の広がりやその可能性を知るためには意味があるが、そこに快感や芸術的感性だけを求めるのは如何なるものだろう。
■明確に言えることは、知らないうちに外部から「そこ」に全体的操作を受ける可能性があるということと共に、現在のTVやマスコミそのものの在りようを見ても分かるように、そもそもそこにより広い世界を見るべき方向に進もうとしているのではなく、むしろこの知覚世界に閉じ込め、外に出すまいとしているのではなかろうか。
■芸術表現領域が広がるのはいい。しかし政治がらみの経済的戦略の中に、意識せず組み込まれ続けるような社会の形には、もういい加減に辟易していいのではなかろうか。現行の技術開発や実現に向けて努力をしている人たちを貶めるつもりは毛頭ない。しかしそこに携わる者のどれだけが広い視野と共にそれを成しているのだろう。
(その2に続く)
夢と現のステレオグラフィ
- 2010.03.28 Sunday
- ■日々の記録
- 10:04
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- -
- by 小野満麿
■夢を見た。自宅の窓越しに小奇麗な喫茶室を見ていた。そこには可愛い娘がいて、こちらを見上げている。今までそこに行ったことはなかったが、急いでそこに行ってみた。女の子はもういなかった。そこから我が家を見上げると、そこに彼女がいた。こちらを見下ろしている。よく見ると私だった。
■変態願望ではない。ドッペルゲンガーではないもう1人の私自身との位置の交換に思えた。未知なる自分。自分だけの未自分。含蓄のある夢だった。目覚めると我が家はいつものこじんまりした5階建てのマンションだった。ベランダ越しに外を見ると、そこにはスーパーの屋上駐車場があった。
■実際にその駐車場の縁に行ってみた。もちろんあの可愛い女の子はいない。ベランダや我が家の居間とほぼ同じ目線の高さなので、思っているより我が家の居間や寝室がよく見える。これまたもちろんだが、私はそこにいない。私は今ここにいるのだから。しかしそこにはもう1つの視座があった。
■他者の視座から自分を見ているはずなのに、日常感覚ではそこに自分だけがいない。家に戻って猫の目線を辿ってみる。子供の視座。嫁さんのビジョン。世界からのあらゆるまなざし。そして初めて本当の自分の視界に触れる準備ができた気がした。この現世界が私自身の肯定的な夢に思えた。
■いましばらく夢を見ていることにする。この夢は美しく楽しく面白いから。もうすぐ終わってしまうに違いない夢という名の現。名そのもののリフォーメーションが起こる時、名と名づけられるものの混用から離脱できなければ、恐らくそれは脳内の天変地異。夢と現のステレオグラフィ。
正8面体と正6面体の多重面点変換
- 2010.03.27 Saturday
- ■数の世界
- 17:26
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- -
- by 小野満麿
■ヌーソロジー的には、正8面体が「止核」のカタチ、正6面体は「核散」のカタチと同定させている。ここでそれを聞く側が自戒せねばならないのは、安易にそれを単なる既存の知識と受け取らぬことである。高次の同定は通常次元ではせめて対称性の高い比喩として認識するあたりから始めた方が無難であろう。
■ヌーソロジーでは「核質」とは3次元認識をさせるチカラであり、「止核」とは3次元認識に留まっている人間の領域で、もう1つの次元が時間に化けて出てくるという表現をする。立体対角線は正8面体が3本、正6面体は4本。正6面体は単なる3次元の立体ではなく、4軸直交のカタチという解釈を取る。
■正8面体をマクロ側に面点変換すると、体積が6倍の正6面体となる。これは外接球→内接球の変換でもある。同様に正6面体をマクロ側に面点変換すると体積が9/2の正8面体となる。そして2度の面点変換で体積が27倍の正8面体となる。この正8面体は辺長が3倍、面積が9倍、体積は27倍である。
■正6面体をマクロ側に面点変換すると、体積が9/2倍の正8面体となる。これは外接球→内接球の変換でもある。同様に正8面体をマクロ側に面点変換すると体積比6の正6面体となる。そして2度の面点変換で体積が27倍の正6面体となる。この正6面体は辺長が3倍、面積が9倍、体積は27倍である。
■正8面体→正6面体→正8面体の面点変換時に、正6面体と中接球を共有した正8面体を想定すると、この辺長は最初の正8面体の2倍となる。つまり最初の正8面体、面点変換した正6面体の中接球共有の正8面体、最後の正8面体の辺長比は1:2:3、面積比は1:4:9、体積比は1:9:27である。
■正6面体→正8面体→正6面体の面点変換時に、正8面体と中接球を共有した正6面体を想定すると、この辺長は最初の正6面体の2倍となる。つまり最初の正6面体、面点変換した正8面体の中接球共有の正6面体、最後の正6面体の辺長比も1:2:3、面積比は1:4:9、体積比は1:9:27である。
■この正8面体→正6面体→正8面体の時の正6面体と、中接球を共有した正8面体の体積比は6:8=3:4である。また正6面体→正8面体→正6面体の時の正8面体と、中接球を共有した正6面体の体積比は6:8=3:4である。共に最初と最後の体積比が1:27でもこの2つの中接球は異なる。
■6:9/2もしくは2倍して12:9=4:3。この異なる2つのルートを介して2重に正6面体と正8面体が面点変換の道筋を持っていることを失念してはならない。3:4。この地球上における水と空気の相対屈折率の比。また正4面体の回転対称軸7本の、<線−線>の3本と<面心−天>の4本の比。
■3:4。言うまでもなく音程における4度(forth例えばCと4度上のFとの振動数比)であり、正4面体の高さと外接球直径の比でもあるこの比は、私たちがデジタルに統一されるまで長年見詰めてきたTVモニターや最近までの通常のPC画面の縦横比であり、対角線との比は常に3:4:5であった。
■3:4。空間だけでなく天空に目を向ければ、水星の公転周期88日と会合周期116日の比であり、水星の公転周期88日と金星の1日117日の比であり、金星の会合周期584日と火星の会合周期780日の比であり、金星の会合周期584日と、木星の会合周期と土星の会合周期の和778日の和との比でもある。
■水星の1日176日と金星の公転周期225日と自転周期243日の平均234日の比でもあり、なじみ深い2数108と144の比でもあり、何よりも先ず神聖暦ツォルキン260日と、地球の食年346.6日の比でもある。自己他者問題でもある1ともうひとつの1、もしくは1と2の背後に常に見え隠れしつつ寄り添っている3と4。
■水星の1日176日と金星の公転周期225日と自転周期243日の平均234日の比でもあり、なじみ深い108と144の比でもあり、神聖暦ツォルキン260日と、地球の食年346.6日の比でもある。自己他者問題における1ともうひとつの1、もしくは1と2の背後に常に寄り添っている3と4。
■これらを内包する正8面体と正6面体だが、中接球を共有して相貫体にすれば、正6面体、正8面体、正8−6相貫体の体積比は6:8:9だ。そしてこの正8−6相貫体の重畳部分だけを取り出せば、体積比5のベクトル平衡体である。なおこのベクトル平衡体の外接球は正6面体の中接球と重なっている。
■このベクトル平衡体の点数は12、面数は14、そして線数は24だが、各頂点はこの立体の重心からみな等距離にある。綿棒で製作してみれば分かるのだが、この重心と各頂点を結ぶ力線は正6面目体の4本の立体対角線に似て、6つの正3角形を内包した4つの正6角形の交差としても見ることができる。
■ここでこの相互に対称性を保持している正6角形の4面は、3次元空間的にはこのように見えるが、互いに直交しているのではなかろうか。つまり3次元での90度直交軸のように、4本の立体対角線を形成する軸は直交しており、また正6角形を作る60度もまた直角の照応射影なのではないだろうか。
■さてヌーソロジーでは「止核」のカタチと呼ぶ正8面体の外接球と、それを内接している正6面体の関係から見ると、正8面体の最大領域である外接球がいくら大きくなっても、正6面体の面央に接するだけでその8頂点には到達しない。ヌーソロジーではこの頂点を3次元性にとっての無限遠点と考えている。
■この臨界面の外に出るためには正8面体−正6面体の双対関係を利用して面点変換することになる。この関係は1度きりではなく、ミクロ−マクロ方向に限りなく連結している。立体を固定してこの面点変換を繰り返すと、この軸を中心に回転しても対称性を取り戻す不動の軸が全部で13本あることが分かる。
■すなわち正8面体の6頂点−正6面体の6面央の連結による3軸直交方向と、正6面体の8頂点−正8面体の8面央の連結による4軸直交方向と、正8面体の12線央−正6面体の12線央の連結による6軸直交方向の、合わせて13本の回転対称軸である。軸の双方向でアルファベット26文字にも対応させられる。
■正6面体の基本の1を設定して、マクロ方向に4回面変換して、間に2つの正8面体を挟んだ3重の正6面体としてみれば、そこに地球の1日、13の月の暦の28日、地球の2年365×2=730日、土星の2会合周期378×2=756日などが見て取れることは別所で述べたのでここでは繰返して言及はしない。
■しかし正6面体の1面である正方形の1辺と対角線が1:√2であることが、マヤの神聖暦ツォルキン260日と農耕暦ハアブ365日(もしくは太陽暦365日)の比に近似していることや、金星と地球の公転軌道半径の比にも極似していることなども踏まえ、立体対角線√3の関係も時空との諸対比を見る意識を失念せぬようにせねばなるまい。
■ちなみにヌーソロジーでは、この正6面体の重心で束ねられた4本の立体対角線を、4次元の等角座標として捉えている。何事も単に繰返すことは退屈で単調な在りようにつながるが、少なくとも4回もしくは5回同じ操作を繰返して見て、そこに数値や形状の何らかの対応や法則を見ようとすることは悪いことではない。
■基本の単位正6面体の1辺を1とすると、その立体対角線は√3である。これは重心から面央と重心から頂点の関係そのものだから、接球半径としての1/2でもこの1:√3の関係は変わらない。正8面体を介して4度面点変換をした3重の正6面体の接球半径比は、√3:3:3√3(5.196…)である。
■太陽系に置き換えてみよう。基本の1を1天文単位とすると、木星の軌道長半径は5.20260AUで上述の数値に近似している。つまり地球の公転軌道を「止核」のカタチである正8面体の外接球と同型対応すると、これを4度面点変換した時の値が、木星の公転軌道半径に近似するということだ。
■このことをもっとシンプルに平面に落とし込んで見直してみよう。少し大きめにコンパスで1つの円を描き、コンパスをディバイダとして、そのままの半径を円周にあてがっていくだけで正6角形ができる。この6点を結んで6芒星を描くと、その内側にできる正6角形を内節する円と最初の円との比は1:√3である。
■この内側の円の中に再度6芒星を描いて、最初の6芒星との大きさを見るとやはり1:√3となる。この操作を3度繰返すと最初の6芒星の外接円と3番目の6芒星の内部にできる正6角形の外接円との半径比は3√3:1となり、木星の公転軌道と地球り公転軌道の関係比に近似する。つまり先の面点変換の平面版というわけである。
■すなわち1天文単位を外接球半径とした基本の正8面体を想定し、それをマクロ方向に面点変換した正6面体をさらに3度面点変換して3重の正6面体を描き出して木星の公転軌道に至るのではなく、シンプルに3重の6芒星を描けば、そこに地球と木星の平均軌道の関係が見て取れるのである。
■ちなみにさらにあと2度面点変換を繰り返して4重の正6面体を想定すると、重心からの距離は9となる。これはまた太陽系の中心にある太陽から土星までの距離、もしくは土星の軌道長半径の9.55491AUにかなり近似している。このあたりのことはまた別の時に詳しく見ていくことにしたい。
■何よりこの4重の正6面体もしくは4つの正6面体と4つの正8面体を交互に面点変換した値が、10進法最大の1桁の数である9に辿り着くということも、別のことにつながる関係性を見出すことになるだろうが、今日はこのあたりで止めておくことにする。観念だけでなく、実感だけでもなく、1歩前進する方向。
神戸在住の甥っ子訪問の旅 on 20100310
- 2010.03.26 Friday
- ■温泉と旅行
- 13:58
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- -
- by 小野満麿
■義母と実母と嫁さんの3人と共に、神戸の町を旅行した。年に1回か2回、4人でちょっとした旅行をするファミリーイベントが定着している。2人の母は共につれあい、まあ私にとっての義父と実父だが、を亡くしてはや十有余年になるが、おかげさまでそこそこ元気だ。取りあえず元気ならばこそ可能なのだから、まだまだ果てしなく続いてほしいものだ。今回神戸の地を選んだのは、もうすぐ大学四年になる義母の自慢の孫息子がいるからだ。
■嫁さんにとっては甥っ子に当たる彼は、もう成人しているのだから、話題にしても差し替えない程度に話題に乗っていただこう。神戸大学理学部3年ももうすぐ終わるのだが、実は六甲の麓にある飲食店で3年間アルバイトをしている。そこに客として訪れて孫の働く姿を見てみたいというのが、義母の3年来の望みだった。いつか行こうねと言っているうちに、時は早瀬よろしく過ぎ去って卒業してしまうからと、今回は特別にそれを組み込んだ。
■実母は神奈川の湘南は藤沢から前日入りしてもらい、名古屋から4人で新幹線を使って新神戸に降り立った。折しも日本列島各地に雪を得らせた寒波の通過中で、港町を吹き抜ける風も冷たいことこの上なしだったが、それに輪を掛けるかのように時々氷雨がぱらつく。先ずは異人館のある高台までタクシーで行き、1館だけ入ってから町並みを味わいつつ歩き、異人館モードのスターバックスに入ってゆっくりくつろいだ。
■義母と実母には以前クリスマスプレゼントで色違いのお揃いのカシミアの薄手のセーターを送ったのだが、嫁さんも色違いを買っていたので、3人で今回はそろって着てみている。なにやら訳の分からない世界ではあるけれど。嫁さんが甥っ子と連絡を取る。TOEICを受けるために大勉強中だというのに、義母が見てみたいと言っていた神戸大学の理学部を案内させるよう話をつけてから、三ノ宮の先にある旧居留地にランチをとるべく、タクシーで移動する。
■銀行だった建物を食事ができるお店に改造した、チャータードビルなるところでちょい遅めのランチ。ちょうど1つテーブルが空いていたが、お昼はとても混むようだ。でてきた注文の品を見て、そのリーズナブルさが人気なのだと改めて分かる。千円もしないで味もボリュームもしっかりしたランチが食べられて、しかも飲み物まで付いてくる。今回はいつにも増してゆっくり予定を組んであるので、こちらもせわしく行程の微調整などしなくて良くて楽である。
■食後、ぱらつく氷雨の中を三ノ宮まで歩いてから、JRで六甲道まで移動し、甥っ子と落ち合ってタクシーに分乗して神戸大学工学部入口に到着する。高台から神戸の街を見下ろす絶好の立地に加えて、真新しい校舎や施設の綺麗な学び舎だ。お昼に仲間と独占しているらしい、最上階の寛ぎスペースなども含めて、学びたい者には最高の環境であろう。雨の中、義母と手をつないで道案内する甥っ子の優しさがまた心地よい。ひとめぐりした後、再び六甲道に降りる。
■母2人と嫁さんはゆっくり喫茶店で話をしてもらうことにして、私は夕食まで甥っ子に教えてもらった温泉銭湯に行ってみた。去年1年は温泉宿はおろか温泉そのものにもほとんど行かなかったので、今年はどんどん行くつもりだ。この兵庫県にも街中に沢山魅力的な温泉施設や温泉銭湯があるので、じっくり攻めていきたいと考えていだのだが、今回その1つに入ることができるとは思っていなかったので、これまた甥っ子に感謝である。
■さて本日のメインイベントである、甥っ子がアルバイトしている「庵梵丹(あんぽんたん)」という和食メインの創作料理店での夕食である。開店直前から店頭で待ち、一番客として入店すると、中二階のような作りの仕切られた席に案内された。お店の女将や御主人が挨拶に来てくれて、かえって恐縮したが、予想以上にしっかりしたポリシーと美学に基づいた実に心地よい空間だった。年齢を配慮してか少量ずつ沢山の種類の料理が出てきて、それがみな実に美味しい。
■甥っ子がテーブル担当なので、料理を運んだり、その説明をしてくれたり何かと気を使ってくれたのだが、丁寧な応対の言葉づかいをしっかり使い分けつつ、時々何か照れくさいなと言うのが実に可愛らしい。個人としては様々な悩みや快不快や喜怒哀楽もあるに違いないが、優しく賢く繊細なイケ面の彼の存在自体が義母にとってはかけがえのない喜びなのだということが、改めて分かる晩だった。もちろん私たちにとっても自慢の甥っ子だ。健やかなる生を予祝したい。
■2時間ほどゆっくりしてから、タクシーを呼んでもらって今夜の宿である六甲山中にある六甲ホテルに向かった。下から見るとうっすら雪化粧しているようにも見えたが、途中からしっかり雪景色になっているのには驚かされた。運転手さんも慎重にハンドルを取りつつ、六甲山の多くは800メートル以上のところにあり、山頂は900―トル。街とは数度温度が違うという。
■今まで阪神タイガースの応援歌の六甲おろしなどでその名は知っていたが、実際にその懐の中に入ってみて、わずか車で数十分のところに市街地とは全く別の世界があるという事実に驚きつつ実感した。ホテルの玄関に到着すると、ぐるりと雪国モードである。木々の枝には樹氷のように雪が積もっている。寒い。最上階のラウンジで温かいものを飲みながら眺めていると、手前には雪景色、眼下遥かには神戸の夜景という絶妙さだ。あちこち霞んで見えるのは、この地が雪雲の中にいるからだ。
■神戸の地も最初はどこが特徴なのか良く分からなかったが、わずか1日弱滞在しただけでその雰囲気の一部が体に感じられた。3年もいる甥っ子はもうめっきり神戸人でもあるのだろう。できれば今度は彼の一番のファンでもあり、また神戸の息子の所を訪れたことがない、彼の母親でもある義妹とも来てみたいものだ。明日はこの六甲山麓を越えて有馬温泉に向かう予定だ。朝はさらなる雪景色の中なのだろう。神戸は実に奥が深い。
(on 20100310)
■猫まんが4コマ『5火・6水・7光なら8は何?』
- 2010.03.25 Thursday
- ■猫まんが系
- 14:40
- comments(2)
- -
- by 小野満麿
-----------20100401の追記、及び画像追加------------
★回転か。「田」の字の中の短い縦横の棒パーツ(2本でなく4本と見る)が回転によって吹っ飛んで、もう1度中で対称性を取り戻したら「回」という字になってしまったみたいなことわ考えてみた。「田」も「甲」も「由」も「申」もみんな幾何学的には親戚なのではあるまいか。
★「田」の字は「口」+「十」というだけでなく回転対称性なんかも遊び心で想定すると、2重回転が「日」、3重回転が「囚」、5重回転が「因」、6重だと「困」…。するてーと、失敗作が「図」かな。「囲」なんてのもあるなあ。って、もうわけわからん。てか、 漢字ってすごいなあ。
元祖猫パンチ画像
- 2010.03.24 Wednesday
- ■猫まんが系
- 11:38
- comments(0)
- -
- by 小野満麿
■めぐり巡って海外の猫コーナー…。しかも「最強の猫」というタイトルまで入っている。懐かしいのもあり、まだ新しいことでもあるし、ブログ日記のはざまであるここに採録させてもらうことにする。
用いる言葉の中にある未知を見詰めて
- 2010.03.23 Tuesday
- ■言葉と論理の世界
- 11:01
- comments(0)
- -
- by 小野満麿
■孤独という言葉は、個人的にはあまり意味がない。幸福とか自由とか愛とか権利とか、似たような言葉もひっくるめてそうなのだが、当たり前すぎて、意味のない意味という言葉同様に意味がない。大概は自己憐憫や自己過信や過大視過少視等から出ていたりするそれらの言葉は、洗練や繊細さが足りない。
■つまり自らの生き方に丁寧さが足りないということを見落としている。外の方ばかり見すぎて、内との非整合性を外のせいにしてる。孤独とか幸福とか自由とか愛とか慈しみとか、そのような類いの抽象名詞を頻繁に使っている者を見かけた時、正直に言えば私の心身はすでにその無様さに対して引いている。
■はっきり言って孤独だと他者に漏らせる程度はまだまだであり、本当に自由な者に自由という言葉は不要だし、自らが慈愛そのものの時は慈愛などという言葉は意味がない。他者とのコミュニケーションに必要ではあるが、その言葉はその瞬間を描写・記述するものではなく常に過去のものであるということ。
■予祝の言葉、憧れや呪いや様々な予言は、それ聞いた者に対して力を持つ。もっともっともっと、言葉を大切に用いなければと自分に対して言い聞かせてみる。あまり言葉を用いてのコミュニケーションに依存しすぎる人間関係は、実は非常に狭い帯域の世界しか知らないし見ていないのではないだろうか。
■極端から極端にで、今度は突然無言の行を始めるという性急さこそが、繊細さや丁寧さの欠如を物語っている。普段と変わらない生活をしつつ、意識の中では変化変容し行くのが好ましい。少なくともそれがマイテイストではある。他者ことをとやかく言う前に、自らの中の未知を見出していくことにしよう。
図は Kinneth Snelson's shelf collection より。
------------------------追記------------------------------------
■自我と言葉はまた別の次元のことでもあろうが、自我が自らの分を弁えてなすべきことをなす時、それは全体との関係においても不可欠で創造的なものとなるように、言葉もその在りようを熟考した上で、可能な限り適切に、かつ心持ちも隠さず乗せて用いれば、それはドンドン今ある世界と来るべき世界に重なって行くのかもしれない。
立体裸眼視と正4,6,8面体の体積比
- 2010.03.18 Thursday
- ■多面体と多様体の世界
- 17:43
- comments(0)
- -
- by 小野満麿
■先日、山陽本線の普通列車を乗り継いで、神戸から福岡まで移動してみた。窓辺でPC画面を見ながら、同時に窓の景色や周囲の人のことも眺めるということは、立体裸眼視に似た感覚を帯びている。どちらにも長時間意識を専在させず、かつどちらをも失念することがない視座と視界とその意識態。
■その昔サッカーをやっていた頃、ドリブルはボールは直接見るのではなく間接視野で捉えろと教わった。ボールだけを注視すると周囲の状況が分からないので、自らの身体を動かしつつ周囲を見ながら、状況に応じて動かすべきボールの位置を絶え間なく予測し動かすのはかなり高度な作業である。
■これらもまた物理的身体的な意味だけでの視覚器官や、それを介して光学的に「見る」という意味だけではない「立体裸眼視」という表現の拡張と、意味自体への問い直しがある。周囲の状況と自分の内面意識のバランスを取りつつ生きていくということ自体、人間の基本的状況であり能力でもある。
■世界を見ている自分と他者(and/or未自分)の違いはどこにあるのだろう?この「どこ?」という問いそのものが、先ず少しガサツ過ぎる。かといって数学や物理的に厳密に会話の共通場を設定するのもしんどい。だからこれらの関係そのものを、利き目とすぐ隣の余り目の関係として見てみよう。
■自らの利き目を自覚し、余り目の方に意識的に視座をずらして見ても、その時は利き目側に未自分は回りこんでしまっている。振り向いても変わらない後ろと前の関係のように。その時、この認識パータンでは追いつけない他者に対して敬意と慈しみを感じるか、不快や恐怖を抱くかの差は大きい。
■左右の目を交互に自分の視座にしてもいいのだけれど、それでは双対の正6面体と正8面体を交互に面点変換させても切りがない野に似ている。そこで外接球と内接球の交換ではなく、中接球を共有させて正8−6相貫体として直交重畳させるという発想が、立体裸眼視の視座に比喩対応できるだろうか。
■この正8−6相貫体の重なっていない部分(6つの小4角錐と8つの小3角錐)を切り除いて共通部分だけにすると、その形はベクトル平衡体となるし、逆に正6面体の8つの頂点と正8面体の6つの頂点をつなぐと菱形12面体になる。この時のそれぞれの体積という数値の比率も重要になってくる。
■正6面体の体積を基本の6とすると、中接球を共有する正8面体の体積は8。正8−6相関体の体積は9。そこから共通部分を切りだすとベクトル平衡体で体積は5。頂点をつなぐことでできる菱形12面体の体積は12。全てこの6と8の間の7を中心に一つの対称性を持つ。
■正8面体を多面体の基本的ユニットとして考えた場合の、面点変換した正6面体の体積は6、そしてその正6面体と中接球を共有した正8面体の体積は8である。この正8面体は最初の基本ユニットとしての正8面体の8倍になる。つまり1辺が2倍、表面積が4倍、体積が8倍の同型立体である。
■この関係をそのまま基本ユニットを正6面体とした場合に置き換えてみよう。最初に面点変換した時にできる正8面体の体積は9/2であり、それと中接球を共有した正6面体の1辺は3/2、表面積が9/4、体積は27/8(つまり3/2の1乗2乗3乗)の同型立体である。
■この最初の基本ユニット正8面体を→正6面体→正8面体と2度面点変換すれば、1辺が3倍、表面積が9倍、体積が27倍の正8面体になる。また同様に最初の基本ユニット正6面体を→正8面体→正6面体と2度面点変換すれば、1辺が3倍、表面積が9倍、体積が27倍の正6面体になる。
■この辺りの諸関係は実に面白いのだが、次回は別のアングルとしてこの原子番号6と8のC炭素とO酸素、そしてその間にある7:N窒素の数的比率6:7:8を元にして、元素周期表上の数的倍数方向を見てみよう。
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