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  • 2024.01.09 Tuesday
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トーラス斜断面上のヴィラルソー円



■ひろなさんという方はご自分のブログ上で、ヌースコンストラクトョンの向かって左側を赤に、そして右側を緑に色を付けて紹介していた。この形は平面上ではそのままベシカ・パイシスと重なるのだが、私はものの奥行きをテーマにしていた時、どんなものでも立体裸眼視する癖がついていて、このネット上にある赤と緑に塗り分けた図をも交差法で見たり、効き目と余り目交互の側に意識を集中したりして遊んでいた。

■赤と緑とは補色関係だ。赤血球と葉緑素、ヘモグロビンとクロロフィル。もしくは中心のFe:鉄とMg:マグネシウム。誰もがそうではないかもしれないが、これがそのままトーラスの形に見えるような気がした。もちろん概念としてはそのままトーラスとしてイメージできるし、実際に図のように互いに直交する赤と緑のトーラスとして捉えることもできる。しかしそれよりもっとリアルな視覚的に見られるのではないか?



■思い返して見れば私は、パソコン通信の時代も含めて20年近くもトーラスというハンドルネームを用いている。「ひょっとしておうし座だからですか?」と問われることもある。もちろんそれもかけているが、おうし座のスペリングは<Taurus>だが、円環面とも訳される環っかの方は<torus>だ。トポロジー的な意味でのトーラスはきわめて多様な図形だが、ここで言うトーラスとは最もありふれたリングドーナツや浮き輪の形である。

■トーラスの形と大きさを示すには、回転体の断面の円(小円)の半径rと、小円の中心がなす円(大円)の半径Rの2つの値が必要となる。実はこのトーラス上の任意の1点からは、そこを通る4つの円を描くことができる。このうちの2つは直ぐに分かる。1つは大円に平行な円であり、2つ目は小円方向にできる円である。なおこの1点には接していないが、それぞれの円には中心を通る水平面及び垂直面に対の円が存在する。





■そして残る2つは、中心を通る適切な角度でトーラスを斜めに切断することによって生じる1対の円である。この形状は天文学者にして数学者であるフランス人イヴァン・ヴィラルソーにちなんでヴィラルソー円と呼ばれている。すなわち任意の1点からは大円と平行な円が1つ、垂直な小円方向に1つ、そして適切な斜めの角度に沿った1対の円が2つの合わせて4つというわけだ。3つの断面で6つの円が描かれるとも表現できる。

■なおトーラスの大円と小円の半径比はあらゆる数値が想定できるが、この比が2:1のトーラスからできるヴィラルソー円は、その面に対して垂直方向から見ると(ヌースコンストラクションの形でもある)ベシカ・パイシス、すなわち互いの中心が相手の円周と重なる一対の円になっている。今後言及していくヴィラルソー円は、主にこの大円と小円の半径比が2:1のトーラスからできるベシカ・パイシスのことになるだろう。
        (※)今回の画像はネット上の様々なサイトから画像を拝借しました。

                       


妖怪博士とLに〜にょ名古屋に



■4月27日の朝6時半頃、Lに〜にょと妖怪博士こと甲田烈氏が、東京から高速夜行バスに乗って名古屋にやって来た。妖怪博士は、名古屋に来るといつもなぜか予定がびしびし入って濃すぎる日々になってしまうので、今回はいつもと違って心身長征を兼ねたいわゆるお忍びモードである。

■Lに〜にょは一風変わった若きヘアメイクアーティスト。光透波という価値体系を脳の懐に収めつつ、今回は数と形への興味もあって、仕事の休みの日である火曜日限定の弾丸ツアーである。人間だから辛い事や悲しい事もあるだろうに、会うときはいつも実に心地よい顔面笑顔満開だ。



■Lに〜にょは名古屋駅で帰りは当家のすぐ近くにある高速夜行バスの停留所から乗車できるチケットをゲットしてから、妖怪博士と共に地下鉄で御器所に到着した。それでもまだ午前7時なので、早起きして近所のミスドで待ち合わせ。1時間話している間に家では愚妻がてんやわんやの大掃除。

■そして8時過ぎに当家に移動。早速くつろいでもらって色々な話を始める。Lに〜にょがどこか愚妻とよく似た超陽気さを感じるのは私だけであろうか。幾何学的なオモチャや手製の多面体などで実際に体感する物事に素直に感動している姿を見るにつけ、やはり実際のブツの必要性を感じる。



■お昼はせめてもの接待をと、「ひつまぶし」を食うことにした。いつもの「あつた蓬莱軒」はお昼はまだやっていないので、栄の支店で同じものを味わうことにした。ひつまぶしはお店によって微妙に、または大幅に味が異なるけれど、私はやっぱり蓬莱軒のものが一番好きだ。

■そして次なる名古屋名物は、名古屋にいては名物でもなんでもないコメダ珈琲店での一服だ。シロノワールはまだ少し肌寒いのでミニを1つ頼んでみた。あと、小倉サンドというものもコメダ珈琲店の名物らしいのだが、どこにでもメニューにあるのではなく、むしろあるところは少ない。



■Lに〜にょは何やかやと長いようだがわずか1日の滞在だけで、午後11時2分御器所通り停留所から、東京行きの「ドリームなごや2号」に乗って帰っていった。明日早朝に東京駅に着いてから、いつもの時間に仕事開始ということだ。若さゆえに可能なのであろうが、やはり凄い。

■甲田博士はもう少し我が家に滞在し、5月の3日から5日の予定で一緒に福島県いき市の湯本にあるkiraku&草子亭に出発することになる。そこでは次元幾何学研究会の本会を行う予定だったのだが、図らずも意識と生命力の強化合宿になるなどとは、まだ思いもよらなかったのである。


みかん退院、奇跡の生還顛末記



■本日午前10時半、晴れて猫のみかん退院。ちょうど4日前の午前8時半頃、マンションの5階の手すりから地上に転落し、1時間後に倉庫部分の最奥部で発見されたのだが、目立った外傷や骨折症状がなかった。しかし内臓や頭を強打した後、突然のその影響が出てくる可能性も考慮して、一応動物病院に連れて行った。獣医さんの触診や見立てで外傷は左後足の擦り傷だけで、頭も骨も異常なさそうだとの診断にほっとした。

■しかし一応してもらった血液検査の結果、肝臓などにかなりの負荷がかかっていることが判明。そのまま大事を取って入院し、数日様子をみることになった。翌朝から病院のオープン時である午前10時ちょうどに見舞い訪問すること3回。一昨日はまだ病院の空気にも慣れず緊張したままインキュベーターの中で震えながら点滴されていたのだが、昨日は少し慣れて元気になり、会うと嬉しそうにすり寄ってきたりしていた。

■そして今朝。やはり受付開始時刻直後に訪院。少しだけ待たされた後に、担当してくれた若くて優しい獣医さんがキャリングケージに入ったみかんを受付前まで運んできてくれた。病院やお医者さんは存在していても良いけれど、私とは一生縁のない存在だと思っていたがとんでもない。自分以外のものが緊急にお世話になるという可能性に想いが至らなかったが、今回は動物病院があって良かったとつくづく思わされた。



■お世話になったセラフィー動物病院では、5階から落ちて奇跡的に生存したのは過去に犬が1匹だけいたが、猫は今回が初めてだとのこと。これで晴れてみかんが「5階から転落して生存帰還した生物」の猫部門の初代ということになった。いや、決して晴れがましいことではないのだが。 担当の医師は昨夜も遅くまで動物の世話や治療をしていらしたようだ。全く持ってその誠実で温かい人柄も有難くそして感謝に堪えない。

■表面が滑らかなコンクリートや金属や合成樹脂の建材には猫の爪が引っ掛からない。我が家では2匹が追いかけっこをしてフローリング上を曲がる時、スリップを考慮してバイクのように体を傾けながら走っていたりする。しかし人間の生活空間が以前のように平屋や2階建てではなく高層建築が増えているので、猫の超平衡感覚でも高所からの転落事故には順応できないのだ。

■転落事故によって飼っている動物を亡くしてしまった方もいるので、あまりはしゃがないよう心掛けたいが、統計や確率などを持ち出すまでもなく、今回の生還劇はやはり強運・奇跡と表現して良いのだろう。辻麻里子さんの名言に「生きてるだけで丸儲け」というのがあるが、自分だけでなく他者に対してもこれは当てはまるのだということがよく分かった。意外なところからの自己他者問題のあらたなる展開である。



■今回初めて人間だけでなく猫にも、持って生まれた強運・弱運と表現されるものを想定でき、そして同一存在でも時と場合によって運・不運の揺らぎがあると考えることが、そう馬鹿げたことではないという気持ちになった。そして自分自身がまたその時・その場に居合わせて、その時の意識と身体を奮い起して関与することによっても、その運不運に様々な揺らぎを生じさせられるのだということを、今さらながら改めて実感した。

■読んでくれる人にいらぬ不安・不快やショックを与えないようにと、生命の心配がないと確信できてから日記に書いたのだが、思いのほか多くの方々から優しく温かいコメントを頂いた。少なからずの方々に平穏無事の祈りや想いを送って頂いたことも、経過が順調に進んだ1つの理由だろうと思える自分がいる。本当に有難いことだと感謝している。強運猫であることは間違いないが、私の方ももう少ししっかりしなくては。

■考えてみれば細々と続いている『猫まんが』もあやうく登場人物(あ、登場猫か)の不慮の事故により中断…なんてことになりかねないところだった。実は定まらぬ気候の変動によってか、何日か体調が優れなかったので、数日間の湯治生活を実現しようと目論んでいたのだが、今回の騒動で体の不調もざわめいていた旅の虫もどこかにぶっ飛んでしまった。それもこれもあのバカでかい太陽フレアーの伸び上がりのせいなのか?



■ところで今回家を空けられなかった理由はもう1つある。もう1匹の兄弟黒猫デルピエ郎。今までずっと片割れのように一緒だったみかんが突然いなくなり、初めて何日も単独で過ごす不安さをフォローする必要があった。家にいると起きている時も寝ていてもぴったりくっついてきて離れない。以前はありえなかったことだ。未知はいつも想定外の方向から突然やってくるけれど、猫の瞳の奥からも襲来するとは思わなかった。

■みかんとデルピエ郎。思い起こせばその昔、「1匹だけだと家を空ける時寂しがるので可哀そうだけど、2匹いると寂しがらずにすむ」と言われ、何か抱き合わせ商法みたいだなあとも思いつつ、6匹の兄弟のうちの2匹を一緒に貰ってきた。2匹で正解だった。この2匹が双子のように生きて何年経ったのだろう。そういえば誕生日が2003年4月28日だと聞いているからもうすぐだ。丸々7歳になるということだ。おうし座だ。

■さてそのみかんだが、 昨日までは病院のインキュベーターの中で微妙に不安感が混じった目をしていたというのに、家に着くとすぐにあちこちのにおいをひとくされ嗅ぎ回った後、窓辺に飛び乗ってガラス越しにじっと眼下を見ている。懲りないのか、外の出来事を想起しているのか。左後足には衝撃による内出血の痕がある。毛を刈って治療した痕は腫れも引いていたが、一時はもっと膨れ上がっていたようだ。



■それとこれは怪我の部分ではないが、毛をぺろりとバリカンで刈られて点滴の針を打ち込まれていた右前足の前腕部が見慣れない形状になっている。ぐるぐる巻きにされていたピンクのテープが剥がされて、足の一部だけプードル状態になっているのだ。今だから笑えるが、何か鉄腕アトムの足か、初代ガンダムのアムロのブーツみたいな感じになっちゃっている。白いソックスがブーツに…というより猫手型孫の手のようだ。

■今後みかんは「5階から落ちてほぼ無傷で助かった猫」という伝説を背負う猫となりゆくのだろうか。「不死身の次元幾何学猫」なんて肩書きも気に入っている。タッチするだけで強運を授かるなんてキャッチコピーで受験生に人気になるとか。…あ、落ちたらだめなのか?いや落ちても復活するという意味ではOKなのかも知れない。それにしても改めて5階の落下地点から真下を覗き込んでみたが、やっぱり他界…いや高い。 


猫のみかんマンション5階から落下



■今朝方のことだった。不燃ごみを抱えてマンションのドアを開けたその下端から、猫のみかんがするりと抜け出した。いつものように玄関前のエレベーター溜まりを一回りさせてから部屋の中に戻らせようと思いつつ見ていた。するとみかんが突然、隣家のベランダに不法侵入しようとジャンプした。冷たい雨の降る日だった。濡れた手すりの上で猫はつるりと足を滑らした。

■私は真横から見ていたので、手すりの向こう側でちょっと驚いたみかんの顔がすーっと下方に消えていった。何が起きたのかよく分からないまま、もう1匹の黒猫デルピーを家の中に入れ、早足でその場に駆けつけた。当家は5階建てマンションの最上階。下を覗き込んだが遥か下方の地上には何も見えない。ジタバタして途中の階に引っ掛かっただろうか?

■みかんが途中で飛び移ったかも知れないと、各階ごとの廊下とベランダの部分をくまなく探したが見当たらない。わずか30cmの隙間なのだが、地上の真下部分だけは土で植物が少し生えている。しかし辺りには何の気配もない。次元の狭間に消えた?現実がよく飲み込めないまま、そんな感覚が強かった。地上の周辺はマンションの狭い駐輪場。雨の中を探し続けてもいない。



■猫は雨に濡れるのが嫌いだから、塀の外にまで出向きはしないだろう。というより、本当に5階から落下したのであれば、無事では済まないだろう。途中に引っ掛かったのではないかと、何度も階段を登り降りして探して直してみたが、足跡1つない。誰かが見つけて病院に連れて行ってくれたのか?そんな暇はないはずだ。嫁さんも何度もマンション周りを探すが見当たらない。

■部屋に戻って再考してみた。階段部分と各階のベランダ突出部分との隙間部分はわずか30cm余りだが、途中階にはどうもいないようだ。やはり地上まで十数メートル落下したらしい。そうであれば、ショックで少なくともそう遠くには行けないだろう。階段の下の物置スペースはどうだ。何度も覗いたが見当たらなかった。しかしかなり暗くて奥はよく見えなかったはずだ。

■もし超常現象でも起きていない限り、落下現場すぐ傍の階段下の倉庫スペースしかないのではないか。懐中電灯を持って行き、これで最後と思って身を乗り出して奥を照らした。何か見たことのある毛皮が垣間見えた気がした。か弱く鳴く声がした。みかんらしい。怪我をしていないはずかない。どんな状況なのか?手を伸ばすが、ショック状態らしく、さらに奥に潜り込もうとしているようだ。



■回収すべく猫用のキャリングケースを取りに5階まで戻り、取りあえず再びライトを照らす。いない。部屋に戻った間にどこか別の場所に移動したのか?階段下の奥の奥、積み込まれた建築資材と地上と階段背面の間に10cmほどの隙間がある。そこに入り込んだのか。再度部屋に戻って手鏡を持ってくる。狭い。ほぼ地べたに横になる状態で、思い切り手を伸ばして、鏡とライトで裏を覗き込む。

■何かいた。見慣れた毛皮の白い部分が確かに動いたようだ。そこに到達するには、この腰も伸びない狭い共用スペースに詰め込まれた重い建材のダンボール箱を、いったん外に運び出さねばならない。症状も分からないので、ゆっくりしている暇もない。もうここからはTVニュースなどで時折見かける、穴ぐらの奥に落ちた動物の救出劇そのままだった。ただし誰も見ていない。孤独な作業だ。

■このマンションの張替えタイルらしいダンボール箱。1つ10から15kgほどだろうか。それが奥に沢山積み込まれている。腰を曲げても体が回らないほどの狭いスペースから、1つずつ取り出しては外に積み直す。すぐに腰が軋む。腕が痛くなる。みかんの顔が見えた。ぴったりはまり込んでいる。不安からかショックからか、みかんはさらに一番奥に潜り込もうとする。



■もう当方の服も体も結構ボロボロだったが、そんなことを気にかけていられない。最後は建材の入った箱を立体パズルのように少しずつ動かして、ようやくタッチ。要救出者確保!どうにかこうにか無事保護したのであった。みかんの身体チェック。どうやら重大な骨折はないようだ。先ずはキャリングケースに入れて、5階の部屋に運ぶ。のろのろとだがそこここを歩いている。

■取りあえずまた地上に戻り、表に出した建築資材や具材や道具を元に戻す。端から見たらかなり怪しい行動だ。またもや腰がきしんで悲鳴を上げる。雨なので自転車置き場に利用者が来ないのがせめての救いか。部屋に戻ってみかんチェック。どうやら奇跡的に大怪我はしていないようだ。動きが少しゆっくりだ。色々な匂いを嗅ぎまくっている。そう普段と変わらない。

■ひょっとしたら一時的記憶喪失状態かも知れない。デルピーがいつもと違う状況と知ってかおとなしい。一度はもう再びその姿が見られないかもと諦めかけたが、取りあえず目の前で普通に生きている。この猫は本当に幸運の塊に違いない。これは奇跡だ。別の意味での超常現象が生起したに違いない。私もまた自らを運が良いと思うことのできる幸運者と自認していたではないか。



■いや、しかし待て!と頭の中から理性の声。マンションの5階から落下したら、たとえ猫でもそれはまず死ぬ。今目の前で何事もなかったかのように生きていても、念のため病院に連れて行くべきではないのか?頭を強く打った場合は、その時は平気でも後になって効いてくることもある。骨は大丈夫でも、内臓に過負荷がかかっている可能性もあるのではないか?

■近所の犬猫病院はちょうど今日は定休日だった。どうする、どうする?そうだ、最初にみかんが避妊手術をした、本山にあるセラフィー動物病院に電話してみよう。すぐに連れてきて下さいとのことだった。もさもさと餌を食べ入ているみかんを取りあえずキャリングケースに押し込んで、車で向かった。病院のすぐ前の道で自動車事故があり、事故車が晒しものになっていた。

■病院の方々はみんな本当にいい人たちだった。動物が好きで生命を本当に大切にしてくれているのだということが肌で分かる。みかんがマンション5階から落下したのにこうして生きていることが、まさに奇跡で本当に良かったと喜んでくださった。念のために血液検査をする。交通事故や高所からの落下の場合、外的に影響が見られなくても、猫は特に肝臓に影響が出るらしいのだ。



■落下のショックで内部外部の細胞が潰れていると、肝臓が非常事態と判断してどんどん造血するので、その数値を見れば現在と今後の症状と傾向が分かるのだそうだ。血液検査の結果、かなり深刻な数値が出た。奇跡的だと笑って連れて帰るつもりだったのが、一転して点滴を続けながら、緊急入院することになった。数日は色々処置をしながら様子を見ることになった。

■危篤ではない。命に別状があるというほどでもない。しかし安易な予断は許されない。また笑い話やジョークで済まされるレベルでもない。5階から落下したのだから、ある意味それでもまだ幸運の極みだ。何日入院すべきかは明日になれば分かるだろう。明日また見舞いに来ることにした。自分が昨日から体調が優れないことを思い出し、帰宅後早々に横になることにした。

                             (…多分、続く)


トーラス切断 Villarceau circles


『アルジャーノンに反転を』



■私の昔から大好きな小説のひとつに、ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』という作品がある。この小説の中で、主人公である知的障害のチャーリイは開発されたばかりの脳手術を受けて、徐々に知能が上昇していき、ついには超天才になっていくという過程が描かれている。

■作品自体は主人公の一人称視点による「経過報告」の体を成している。最初は簡単な言葉と単純な視点で描かれ、知性の上昇に伴って文体や世界観がどんどん明晰になっていくという構成が、絶妙な翻訳によって見事に再現されており、スムーズに主人公に共感させてくれる。

■このSF小説を最初に読んだのは1980年代前半だと記憶している。しかし実は最近、この意識の明晰化の過程が、1985年に生起したkohsen氏の第1次超常現象的体験の中で、通常の人間的知性から「交信」によってどんどん超知性、超々知性へと変化変容する過程とが、イメージとして重なってきている。



■一段階知的フェイズが上がった途端、すぐに次のフェイズへの問題が提示される。死に物狂いで思考してその解を自力で見出す。するとすぐに次のレベルの問題が…。すぐそばでそれらを見ていた私としては、スタンスがこの小説の読者の視座に近いと表現しても差し支えないだろう。

■はっきり言って自分の目撃した範囲内でも、私がそれまで知っていたつもりの個人から、知性が指数関数的に上昇変容していっていた。当人は言わばチャーリイよろしく作品の主人公の位置であがき思考する位置なので客観視できないそのさまを、私は読者のように、もしくはただ現象学的に見続けていた。

■小説のその後のストーリーをここでは記さなくていいだろう。kohsen氏はチャーリイの知性より遠くまで爆達してからリセットされた(と解釈している)が、もちろんチャーリイの知的障害レベルにまでは戻っていない。そしてその後の体験も含め、再度自力で超知性を回復・到達しようとしている。



■しかし私は最近、あのチャーリイのいわゆる知的障害・精神遅滞状態が、イメージとして私も含めた現在の人間たちのありようと微妙に重なり被ってきているようにも感じている。人間(チャーリイ)が知性を格段に飛躍することによって、舞台「空間」そのものも変容させることができるのかもしれない。

■ところでそれは果たして初めて未知の次元世界への挑戦なのだろうか、それともかつて一度超天才となったのだが、超思考ごとその記憶を喪失してしまっていたことを再び思い出すのだろうか。現在のチャーリイにとって、それはどちらでも同じだ。先ずは超知性獲得(想起)しなくては。

■ということは、知的障害を打開する開発されたばかりの脳手術(…もちろん、物質としての脳だけではない)というのが、ヌーソロジーに対応するということか?しかしそれを開発したのは前世的過去のチャーリイたるkohsen氏でもあり、時空の高次への旅は始まる前にすでに終わってもいて…。



■…とまあ、微妙に面白げに話をまとめて(というか散らして)みたけれど、繰り返すが私はこの『アルジャーノンに花束を』という小説が大好きであるということが最初の切り口なのである。そして確かkohsen氏も1980年代初頭にこの本を読んでいたはずである。

■それにしても本当にこのタイトルがいい。『自分自身に反転を』…あ、違うか。いや、合っているよな、うん。合ってる、合ってる。あれ、でもこのすでに読んでしまった小説は、まだ書かれていないのか? 


二択の答えはいつも両方

 

          犬と猫どっちが好き?
          …どっちも好き
          …どっちも嫌い
          …ネズミが好き
          問いには必ず思い通りの外の答えを

■「偶然か必然か?」という根本的な問いは、「天動説か地動説か?」という二択に似て正解答はない、時代が変われば入れ替わり得る。どちらの問いも共に論理階型の異なるものを同一平面で語ろうとする根本的な間違いを犯している。どちらでもあり、どちらでもない4値論理の方がわずかに真理に近い。

■「偶然でもあり必然でもあり」と言った時は、必然の方が論理階型が上と考えて良いだろう。『バガボンド』の中に、「すべては決まっていて、それでも限りなく自由だ」というテーマが出てくる。個人的には「偶然でもなく必然でもない」というグノーシス的な表現の答よりは未来志向の人間的で好ましい。

■さて「天動説か地動説か?」という問いかけだ。現在は地動説がまだ優勢だが、中世までのものとは異なる天動説の胎動も感じられる到達点は天動説と地動説を合わせ持つ「人動説」なのか。この場合の人はすでに人と人の間に生きる人間を少しはみ出しているのかも知れないが、天地は今日も激動している。


1/137もしくはその周辺



■さて本日は微細構造定数の近似値でもある1/137についての忘れないように記す備忘録。数の羅列が苦手な人は、循環小数は単なる服のパターン柄か壁紙の繰り返し模様とでも思って見れば、そう苦痛ではないかも知れない。

■1/137=0.00729927 00729927 00729927 00729927 00729927 …もしくは
 10/137=0.07299270 07299270 07299270 07299270 07299270 …もしくは
100/137=0.72992700 72992700 72992700 72992700 72992700 …

■この循環小数のホロニックな部分、つまり07299270という8桁分の繰り返し部分を切り取って見てみよう。この8桁はまた0729⇔9270という4ケタの反転数として見ることができる。そしてさらに前後のゼロを省いて729とその反転数の927として見てみよう。



■729に1を足せば730で、この半分が地球の1年365日の倍の日数となる。729は3の6乗、もしくは9の3乗、あるいは27の2乗だった。そしてその反転数である927は1000に73だけ足りない。73は言うまでもなく地球の1年365日の1/5である。

■ここで927に不足分の73を足して1000にするとどうなるだろう。927の1〜3桁上の数である729に+1となって730となる。つまり天文学的観測による端数を考慮しなければ、ぴったり地球の2年の日数になるということだ。

■そして実際は下の3桁927は上の3桁に+1とするのに73だけ足りない。つまり730000に73だけ不足しているということだ。もしくは730000:73=10000:1だから1/10000だけ不足しているということであり、逆の表現をすれば、729927/73=9999ということだ。



■これは8けた区切りの8つの繰り返し数字列における72992700と7300においても同じ関係である。10進法における桁数というものの内部におけるホロニックな関係を見るにつけ、単に数学的な数値関係だけで見る以上のものがそこには潜んでいるのではなかろうか。

■科学的常識としての地球の1年は365日ぴったりではなく、365.24219…日である。そして月の自転・公転周期は27.3217…日。朔望周期は29.530589…日だ。

■さて137の2倍は274だ。月の公転・自転周期に近いが少しだけ多い。この274に地球の公転周期365日を掛けると10000と1日になる。ところで地球の1公転の間の自転回数は366回だ。これに月の自転・公転周期27.32日を掛けると9999.12日。



■274/2=137であり、また273/2=136.5である。さて、水星・金星・火星の公転周期の和はぴったり1000。そして地球の公転周期も足して、地球型内惑星4つの公転周期の和は1365。またすぐ内側とすぐ外側の金星と火星の会合周期の和に地球の1日を足すと1365。

■1365×2=2730である。273は地球の1年364(+1)の3/4にあたる数値であり、27.3は月の自転・公転周期だった。より正確に27.3217×366は9999.7422となる。ちなみに1365日は月の50自転・公転周期でもある。

■ところでこの数字に深く入れ込んでいる辻麻里子さんは、『22を超えていけ』という本の中で、黄金比の2乗を360で割った数値がこの1/137に近似しているということを言っているとか。φ^2/360=0.007272011111…≒1/137ということだ。



■辻麻里子さんゴメン、まだそこの辺りは読んでいません、私。27.3217/2=13.66085であり、2732.17/2=1366.085であり、また13×14×15=2730なんだけれど、誰もついてこないひとりさえずりは取りあえずこのくらいにしておこう。 


2013年までのチキンレース



■ソクラテスは「無知の地」もしくは「知らないということを知っている」と主張して憎まれたが、実のところ現在の私(たち)は「忘れているということを忘れている」のだろう。何を?全てを。もしくは敢えて忘れているということを。1999年の何年か前にも同様のことを書いたのだが、2012年の前に改めてそれを明言しておこう。

■「現人類は総体的な記憶喪失状態にある」という表現がある。この解釈は世界の外部から邪悪な力が関与して常態を乱した結果、現状のようになってしまっているという、ある種二元論的な世界観の上に成立している。しかしもう半歩進んで、実は自ら意識的に失念して無意識に落とし込んだという捉え方もあるのではなかろうか。

■テーブルの端にコインを置き、掌で逆側の端に向けて弾き出す、テーブルチキンレース。コインが止まったところが逆側の端にぎりぎりであるほど勝利ポイントが高いというルール。そして止まった時点で全ての記憶を想い出すという相互理解のゲーム。テーブルの端は2012年末。ぎりぎりほど失念世界を余計に楽しめるのだ。



■これを3次元的な意識においてのタイムラインのチキンゲームと呼んでもいいだろう。ある種のビジョンや直観が訪れたので、一生懸命世界に警告を発する者や、逆に選民思想的なエゴに溺れたりする者も少なくない。しかし実はコインの初速が遅いので、早々にコインが止まりかけて想起が始まっているチキンハートな者なのかも。

■もちろん全員でゲーム参加したらゲーム自体が成立しないので、監視者になった者もいるだろう。コインの総体的スピードをみて、時々テーブルの傾きを微調整しているゲームルーラー役もいるかもしれない。では全員安心なのか?それではゲームではない。力を入れ過ぎてテーブルの外までコインを飛ばすお調子者もいるだろう。

■ギリギリで止まるほど現世を楽しむことができるし、全てを想起するのも早い。早々と止まってしまった者は、くさることなく、ゲームの全体を維持しつつ見守ってくれていると信じよう。テーブルの端が近づいて来るにつれ、記憶が全員の中に浮上してくる。しかしコイン同士もぶつかり合うので最終的な結果は分からない。



■もっと楽しみつつ1つのゲームの最終フェイズを迎えたいものだ。迂闊に進むとテーブルの横の端から飛び出してしまうこともなきにしもあらず。必ず思い出すのだけれど、思い出した時点ではもうその過程と結果は決定しているという意味での決定論。決定していつつ、それでも果てしなく自由でもある多重世界を想起しよう。

■いや「忘れているということを忘れている」ということを思い出そう。少なくともその可能性を入れ込む余地余裕はあった方がいい。そんな意識で現世を楽しんでいるつもりなので、個人的には机上の空論ではないと思う。問題はテーブルの端ギリギリで止まれるかどうかだが、なぜか自信はある。裏付けのない自信。裏付けがあったら、それは自信ではなく単なる決定論だし。

■2012年末より向こうまで生きて行くつもりでいる。もしうまくいかなかったとしても、たかだかテーブルの端から落ちるだけだ。今この時にも生きていることが本当に楽しければ、万が一それが錯視錯覚だとしても、妄昧さゆえに苦しんでいる方が正気だとは思えない。自分がラッキーだと思えること自体のラッキーさはどこから来るのか?



■そしてこの言明そのものが、ただの妄想であるということも十分自覚しつつ、自己言及・自己スキャンしてみる余裕くらいはあったほうがいい。そうでないとその自覚に満足してゲームを楽しめない。この想起しそうでしない微妙なところが一番面白い。夢から覚める途中の半覚半醒状態を繊細かつ謙虚に味わうことは悪くない。

■自分が日々刻々、意識の上に登りきらないまま忘れ去ってしまっていることの膨大さを自覚できているのかとうと、思い出してしまってもゲーム終了だから、2重の自己でのバランスを取りつつ進み広げ行くことがこのゲームのコツではなかろうか。この世を美しいと言うのと醜いと取るのとでは、ただ個人的に前者の方が好きなのである。


■ 後 拾 遺 集 8 …自己言及として数を数える



■混乱の収拾に向かうために、取りあえず混乱の度を増してみる。混乱そのものの本質の1つが垣間見れるかもしれないからという、無策の中の必策。「数を数える」ということそのものが果てしなく「自己言及」に近いということを、この混乱の中でいかにして共有できるのだろう。

■数の累乗とは自己言及に似たところがある。しかし最も大きい含有は自分自身を指し示す言葉・概念自体を内包しようとする場合の自己相貫形態もしくは表現だろう。1つの論理階型自体を(部分的にでも)見る視座からの言及の入れ子構造の相互包含関係性。

■小数方向には分、厘、毛、糸、忽、微、繊、沙、塵、埃、渺、漠、模糊、逡巡、須臾、瞬息、弾指、刹那、六徳、虚空、清浄、阿頼耶、阿摩羅、涅槃寂静の24種がある。それより小さいが確かにある数量をどう表現すればよいのか。いやそもそもそれが「確かにある」と表現する時、それはどこにどのように「ある」と言うのか。



■絶えざる自己言及。数えるとは何か。形とは何か。色とは、音とは、言葉とは。哲学をことさら切り取って特別視することはない。数学を他の学問や人生と分離して超越視することもない。他者の成すことはそれはそれとして置いておき、何はともあれ、今自分が何を考え何を感じ、何を思い、何を成そうとしているかを、より明確にしていこうとする姿勢を洗練しゆくこと。他者他事は無視するのではない。敬いと信頼に寄りかかりつつ、自らの姿勢を問うのである。自己言及とはある種そういうことだ。

■私は「無限」という数の概念は認めても、それをおのれの生命を通さずにただ論理数式の中に組み込んで計算する感性はない。それは数学的な約束だからという説明は、私はその約束をした覚えがないので自明と言われるいわれはない。数学的な「無限」もまた、少なからずの数学者や数理フリークはそれを理性的にでも直観的にでもなく、強烈な衝動のようなところから到達したつもりになっている未踏の領域として扱っているように見える。

■神や宇宙人、もしくは先行人類に教わったかもしれない。だがその神や宇宙人や超古代人というものは、その数をどのようにその数をどう自らのものにしたのかというヒストリーを探ることと同じ問いであり、それらのギフトや気まぐれのせいに帰したところで止めるのは、何も考えていない思考停止である。話にならない。



■自らが神や宇宙人や超古代人であるということを思い出す作業であってもいい。自己言及の様々なパターンだ。パラドクスが立ちあがったら、そのど真ん中を突き抜ける解をこの手に入れるのだ。

■基本的には大人の日本人呼びその周辺に住んでいる人間としては、数を数えられ、足し算・引き算・掛け算・割り算がそこにできているはずだ。微分積分や高等数学、三角関数や群論などを自在に使いこなせる人は幸せだ。そしてそれを上手く使いこなせない人もまた幸せなのだ。単に忘却の彼方に在るだけで、実は知っているということだ。

■1〜10まで数えられれば、10進法はプレインストールされている。日本語もまた、1人生まれ1人育ったわけではないので、かなり自在に用いられる。太陽系の惑星が大人の都合で勝手に8つにされてしまったとしても、1週間を月加水木金土日と、月と太陽も数に入れ、地球自体を視座として、7曜にしてあること、両の手の指のように冥王星を数から外されても、水・金・地・火+アステロイドベルト、木・土・天・海+カイパーベルト(冥王星を含む)として捉えられること、公転周期や会合周期の諸関係の中に、人間としてはっとする10進法的な整いと美しさを指摘すれば見て取れるということ。



■10進法で数えることにちょっとした図…正方形や円や3角形など…を組み合わせれば、惑星間も様々な調和を成していることの片鱗が見て取れる。ここにたった5つのプラトン立体を、世界を捉える道具として用いれば、あとは色・音・言葉などそれそれの得意…特異分野で自在に転がして行くことができるだろう。


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