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  • 2024.01.09 Tuesday
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同じことを異なるカタチで表現してみる

■今日は4重の正8面体と正6面体の面点変換、4重のヘキグラム、4重のベシカ・パイシスを1:√3の累乗で括り、その表現フレームを太陽系の地球・木星・土星の公転軌道に重ねて、同じことの異なる表現として、画像だけで現してみよう。もちろんこれは地球・木星・土星の公転軌道以外にも重ね合わせてみることができるフレームである。



■上の図の内部構造を老婆心で丁寧に(もしくは少しくどく)表現しなおすと下図のような感じになる。



■ヘキサゴン(正6角形)は正6面体の立体対角線の1つを視線と重ねて中心点とした時に見える正6面体のシルエット(輪郭)であり、その中にヘキサグラムを見ることができる。面点変換とヘキサグラムの入れ子構造は同じことの2次元展開と3次元認識の違いと解することができよう。



■正6面体の1辺と立体対角線の比1:√3を再び平面に落とし込み、この面点変換における関係をベシカパイシスの連続する90度回転による入れ子構造と同型対応してみる。これにより「面点変換は回転である」という表現の一部が見て取れる。



■これらの関係をトーラス構造にプロットし直すとに、よりシンプルに見ることができそうだが、今回はここまで。


私と未私は二而不二である



■太陽系トポロジー。太陽系は決して単なる広大で空虚な空間と僅かばかりの岩石とガスの塊ではない。自らの外部空間のみでなく内部世界にも存在する、かけがえなき生命存在の立ち現れである太陽系という捉え方を、ひとりよがりを超えて共有できないものだろうか。

■各自の中にあるそれぞれ分断されていた地球のイメージを、互いにすり合わせることでとても愛しい存在であるという認識が共有できたように、未知ゆえの不安や恐怖に押し流されることなく、心躍る美しさや不思議さに導かれつつ、きっとそうなると信じている自分がいる。

■そしてそのような自分をただ見ている「未自分」がいる。「未自分」という表現は、まだほとんど体を成さない妄想であり、現実認識の甘さと根拠のない楽天性による独善的なものだと断ずる人もいるだろう。しかし私は確信犯的に決して安易にそれを引っ込めたりはしない。



■未来の方向性を未だにほとんど熟成できぬままに、その妄想を失禁するように垂れ流してしまう自分ではあるが、それでも裏心ない慈愛の眼差しで見てくれている未自分を知っているので、私はとても幸せなのである。未自分のいる「真の場所」に交わり触れるということ。

■初心忘るるべからず。「私」にとっての「未私」のいるところへと、常に世界を広げ続けていかねばならない。それはほかならぬ過去と未来の統合・等化でもある。対称性が上がっていっても、いつまでも逃げ水のように上位の「未私」の統合レベルに到達できないのではない。

■真正に向き合えば、それぞれのレベルの「私」の対の位置にはいつでも「未私」はいる。そしてその各レベルに「私」と「未私」のいるところの対性を見ている視座では、「私」と「未私」の対はすでに未統合な状態などでなく、そしてさらに同時に今だに未分化でもあるのだ。



■「かみを求めよ。かみを生きよ。」パラドキシスルなわたしの信条。二而不二ということ。成すべきことは、私という幻の境界膜の内と外に確かにいる(在る)いまだ未知なる私を信頼し慈しみつつ、その諸相内の対性関係をより明確にして全体構造の把握に努めることだ。

■それが私にとっての真正に生きるという事のひとつの現れだ。「私」が私と自覚しているほんの薄い膜なのだ。その内と外は共に広大無辺に思える「未私」の領域だ。しかし無限や無数を恐れることはない。「私」にとっての「もうひとりの私」はその極限の向こう側にいる。

■そしてそこからこちらへと、間髪を入れずに瞬時にやってくる。「私」とその「未私」は瞬時に位置を交換することもできるのだ。ものを見ている時、意識的に利き目から逆側の余り目へと、主力視線を移すようにそれはたやすい。ただ問題は図と地を同時に見れぬということ。



■私はまだ効き目と余り目双方の視座からの視線を統合してはいないということだ。ヴィトゲンシュタインが沈黙すべしと言う真の未知。私の知りうる全世界の外側に未私はいる。私とその未私を統合した時初めて「宇宙には太陽系しかない」の真の意味が分かるのだろうか。

■半眼で内面と外面を共に見ることはできないことはないだろう。夢見の技法、白昼夢、意識のバイロケーション。少なくとも私たちは2箇所に存在することができるのではなかろうか。私と共に生まれ、私と共に死ぬ「未私」。それは決して私を見放しはしない慈愛である。 


ベシカパイシスを連結正6角形と見る



■今日は製作した画像メインで説明は少なめなので、できれば個々人でインスピレーションを楽しんでいただきたい。先ず上の画像はトーラスからベシカ・パイシスが切り出される2種類のパターンを示してみた。左の方はいわゆる単位トーラスに対して水平から30度の傾斜を持たせ、中心を通る面で切り取った形がベシカパイシスになっていることを表わしている。

■そして右側の図は、中心の穴の部分がゼロすなわち点になるよりさらに、W1の半径値負方向に持っていった場合のとーらすであり、ベシカ・パイシスは垂直方向の断面図に表れている。なお左側の図のW1とW2(水平方向の大円と垂直方向の小円)の比は2:1であり、右の図のW1:W2は1:1である。(共に海外のwikipediaの図を借用、改変して表現した。)

■今回のメインテーマは、このベシカパイシスを半分重なった正6角形対と見ることができるという点である。正6角形の各頂点と2つの中心に小球体をプロットしてみよう。するとこの連結正6角形は上から3−4−3と合計10個の小球からなる形であると見ることができる。3−4−3と言っても、南アで開催間近なW杯における攻撃的フォーメーションではない。



■この連結六角形の形状とそれをつなぐベクトル線はオカルティストには馴染みの深いものに似ている。この10個の小球群をピッチ上の10人のフィールドプレーヤーではなく、10個のセフィロトに見立てればそればそれはすぐに分かる。そう、「生命の樹」に似ているのだ。もっとも10個の小球をつなぐ連結正6角形のベクトル線は全部で19本にしかならないのだが。

■19という数はあのフラワーオブライフの3重に平面被覆(カバリング)した円の数でもあるが、ベシカパイシスの長径を表わす線を加えても全部で20本にしかならない。ここで上の図下段左を見てもらおう。この図はさらに連結6芒星も書き加えてみたのだが、これを全て加えると30本になる。正12面体と正20面体の線数や菱形30面体も連想できるが、先を急ごう。

■上の図下段右は、連結正6角形に√3垂線を3本入れて、生命の樹に似せた形状の図である。私はカバラーに関しては不明瞭な部分が多々あるので、セフィロトやパスの意味や象徴やそれに乗せた宇宙論は一切触れずに、これを形状だけから生命の樹に近づけて見ていくことにしよう。真剣な研究家には笑止千万な所作に映るかも知れないがご勘弁願いたい。



■上の図は連結正6角形から起こした図を、ベシカパ・イシスを形成していた円の一方の中心を、もう一方の円周の反対側のさらに外に移動させて新たなるベクトル線(パス)でつなぎ、さらに中心を抜いた方の円は正6角形の中を<*>の形ではなく、6芒星を形成する片方である<▽>を横向きに入れることで、横倒しの生命の樹の形状に変形してみた図である。連結6芒星からこのような変形の操作をして見るだけでも、高度の対性と対称性を感じられる。

■また下の図はすでに1度示したが、90°回転することでベシカ・バイシスが√3倍に大きくなりながら4度繰り返すことによって9に至ることを示している。言うまでもなく9は私たちの数理における10進法の最大の一桁の数である。そしてこのベシカ・バイシスが2回転720度巡ることによって、その数は九九で最大の数の81となり、100までにはあと19が足りない。

■この後は多面体の内部にベシカ・パイシスと同型対応できる連結正6角形を見ていく方向に話を進めていくので、形状だけでも生命の樹に関するくだりはこれで一応お終いとなる。真正なカバリストや研究者には吐飯ものの話かも知れない。しかしもし有用な智慧や情報をお持ちの方は、当方の愚考にインスパイアーして頂けるよう、是非ご開示をお願い致したい。


視線方向の90度回転ということ



■ずっとエッシャーの『反射球面と手』というリトグラフが好きだった。見ているエッシャー(自分の視座)が持つ手の中の反射球面上に、自分自身が映っているのだけれど、この反射球面の極限を超えると曲率が逆になって、内側に入り込んでしまって後ろを振り返ると同じ視野になっているに違いないと思ったのは、遥か20年以上前。

■以来ずっと、この球面に映っているエッシャーの方が本体で、このリトグラフの視座と自分自身の視座を重ねた場合、球体の中と自分の視座とはリバーシブルだと思い続けていた。思考実験や幾何学的対応を用いて、この最初の視座方向の対性感覚に直交させる視座に出ていたつもりだったし、確かに出ていたと自覚している。



■しかしつい最近見たたった1枚の画像によって、その対視座(ゆえに奥行き感はほぼ0に圧縮されている)から90度直交する視座に出ることができた。なんのことはない、反射球面を持っているエッシャーの真横からの画像である。最初のリトグラフと手の在りようが違うとかいうことは仔細なことだ。視覚的認識は実に強力だ。

■言うまでもなく最上段の2枚の画像の関係だ。そしてイメージの現実化と言う表現の1つの本質は、このように身体感覚的な視座とイメージとがぴったり重なるということだということに思い至った。見ることの上に見ることを重ねること。混同してしまうのではなく、それぞれの次元で明確にその対性とその統合視座を得ていくこと。



■ヌース用語を駆使して構築されゆく世界観を、言葉や概念(観念ではない)だけでトレースして自分も分かったつもりになったり、数理で符合させて理論的に分かるのも、それは1つの分かり方であろう。そして1つ重要なことは、理論的に理詰めでは理解できないから自分には無理ではないかと思いこむ必要は全くないということ。

■こういうと自分は論理的思考を体得できない非論理的思考人間であると自己規定して安穏としている者への弁明のようにも聞こえるが、自分でそう感じて胸を撫で下ろす全ての者は、その弁護の範囲から弾き出されるというパラドクスもこの文章に付けておきたい。いや、人のことはまあいいか。とにかくこの2枚の絵の見方と見え方。



■なおこれは自分の手前味噌というか、単なるシンクロニシテイ的な喜びに過ぎないが、真横から見るエッシャーのまなざしの視線は、手に持った球体の中心と正確に水平面に対して30度を成している。輪の部分と穴の直径が等しいトーラスを、中心を通って30度の角度で切断すると、ヴィラルソー円がベシカパイシスになる。

■30度、60度、90度の直角3角形の辺長の比は1:2:√3であり、ベクトル平衡体はこの直角3角形を含む正4角形を4重に内包している。もちろん正6面体や正8面体も同様であるが、この話はまた後日にしよう。むしろ今の私はこの真横から見たエッシャーの頭の形そのものがベシカ・パイシスの中心部に見えることの方が面白い。 


猫まんが 『ベシカ・パイシスの立体裸眼視』

   
   
   
   

                 お し ま い

■結局、主人公はまろ兄ぃなのだろうか?…一度も出ていないのではあるけれど…。


物価も落ちるが包丁も落ちる

     

■ヤバす。腹減り満たすために台所に立って豆腐の激辛卵汁(レシピなしの思いつき料理)製作中、猫にマグロのぶつ切りを細かく切ってフィードも同時にしてたら、足元の引き戸の中から果物用のペディナイフがぽろりと出て右足の上に自由落下。かろうじて無意識に見切りがわし身の術。

■いや、私の身のこなしも絶妙な境地に入りにけり…と思いつつ右足を見ると、なんか中指とひとつし指の間からじわ〜っと血がっ!見切ってねえじゃん、わし。痛みはないのでかすり傷なれじ、血がそこそこ自然流出するので、バンドエイド2枚重ねで応急処理。多分数日内に完治の予定。

■しかし何だな、あの半ば無意識のかわし身の術(単なる視覚情報に対する条件反射か?)がなければ確実に足の甲にサクッと行ってたな。落ち着き払って猫にマグロ切り与え、豆腐の激辛卵汁を製作して食す。ベリ美味し。身のこなしも調理も名人一歩手前(←自我爺さん)なれど、それまた楽し。

   

■猫は先日5階から落下して奇跡的に生還した。愚妻は己れの身の総重量増加を失念して足首を挫いた。重力の恩寵は重々感じているけれど、ここの所しばし重力に対する意識触手の伸長がおざなりだったからか、物質への執着は重力がキツくなりゆくなり。体重増加も個人的重力増加なり。

■右脳と左脳がベシカパイシス〜って、それヤバいからね、わし。平面ならいいけれど、トーラスの中で回転すると、真ん中にぽっかり穴が開くんやで〜。両手を自然に左右に回転すると、その軌跡はほぼベシカ・パイシス。腕の自由度全開だと立体ベシカパイシス。そしてその中心に頭がある。 


立体の面点変換を回転に同型対応する



上図右の絵はFrancene Hart の "KA" を借用。
http://www.webady.net/blog/17/11/2008/francene-hart-une-artiste-visionnaire-de-talent/

■下の図はヌーソロジストであるKohsen氏のブログ『CAVE SYNDROME』の「4次元空間を通した精神球の点球への射影」と「プラトン座標における4階層の正6面体と正8面体」と体題された図を借用・加工したものである(「無断転載を命ず」系の逆手取り、感謝)。この図の4重の正6面体の内接球はまた、4重の正8面体の外接球でもある。この4重の接球を界面として4度の正8面体−正6面体の面点変換が行われている。

■そしてこの正6面体の8頂点及び正8面体の8つの面心を貫いて重心に至る8本の線もしくは4本の3重回転対称軸が、kohsen氏が次元連結線もしくは「意識の通る道」と表現するところのものである。より一般的にはシンプルに正6面体の中心角70.5度を形成する√3方向と表現されている。この図は借図なので矢印がみな重心方向を向いてたが、矢印の先を双方向にするために加筆してある。

■そしてkohsenが次元連結線もしくは精神の通路と表現しているところの、この正6面体の8頂点と正8面体の8つの面心及び重心を貫いている(8本に見えるが)4本の線は、一般的には正6面体の中心角70.5度を形成する3重回転対称軸、もしくはもっとシンプルに√3を表わす正6面体の立体対角線であると表現されている。この図では実際の大きさではなく関係性だけを見るために双方向を想定している。



()なお上左図の文字は、内側から「点球次元」「垂子次元」「垂質次元」「球精神次元」となっている。http://noos.cocolog-nifty.com/cavesyndrome/2008/12/index.html の20081201及び20081204より

■上右図には正8面体が描かれていないが、煩雑さを避けるために正8面体も間に挟まった4回の<正8面体−正6面体>の面点変換の操作として話を進めよう。最も小さい正6面体の中にある正8面体の外接球半径を基本の1とすれば、これを内接球とする正6面体の外接球半径は√3となる。この面点変換を4回繰り返すと、正6面体の外接球半径は√3:3:3√3:9となる。

■実際の大きさは関係ないと言ったが、様々なところに当てはめて見ることは可能なので、この関係性を太陽系に当てはめてみよう。まず正8面体の外接球半径を1天文単位(AU)と置いて、面点変換を繰り返す。3回繰り返すと3√3(≒5.1962)AU でほぼ木星の軌道長半径5.2026AUになり、4回だと9AUとなり土星の軌道長半径9.5549AU(ちなみに近日点距離は9.021AU)に近似する。

■肉眼で見える最遠の惑星である土星の公転軌道は、水星・金星・火星・木星・土星に太陽と月を加えて7曜とした有史以来の世界認識・宇宙観の辺縁でもあった。kohsen氏は未だ太陽系との関係に関しては総体的な見え方を公にはしていないが、それでもこの4重の面点変換が人間にとっての一般限界でもある「元止揚空間」とも対応しているのは興味深い。



■さて上図はベシカパイシスとそれを形成する対円が、90度回転する度にそれぞれ√3(もしくは一方向を正とすると逆方向の回転なら1/√3)ずつ拡大されていくことを示したものだ。当然4度回転すると360度回転して元に戻る。つまりa,bは図中に描かれていないが、最小のベシカパイシスの短径だとすると、a:b::AB::AB:CD::CD:EF::EF:GH=1:√3::√3:3::3:3√3::3√3:9ということだ。

■すなわち上述した4度の正8面体−正6面体の面点変換と4度の90°回転の1周とは同型対応視できるのである。なおこのホロニックなベシカパイシスの回転軸はそれぞれのレベルの対円の半径の1/2の位置にある。これはまた単位トーラス内部にあるヴィラルソー円=ベシカパイシスも、対円半径の1/2の位置に回転対称軸及びトーラスの中心があったことも想起させる。

■このどちらにも、角度が30度・60度・90度で辺長比が1:2:√3の直角3角形が見て取れた。この「正多面体の面点変換を回転に同型対応する」という作業は、複素平面の虚数累乗と90度回転の関係や、黄金比の1/φ:1::1:φ::φ:φ^2の関係も連想させる。これはまだ2つのπを内包するトーラスを見ていく準備段階ではあるが、様々な美しさと秩序が予見できはしないだろうか。



■自己と他者もしくは自己と自己以外の全てとの関係を見ていく自己他者問題、もしくは自己Aが自己A'を語ると言う認識レベルの自己言及を超えゆく問題においても、既自己と未自己を「自己」として大きく括って統合しようとする視座の追及にしても、様々なレベルでそれぞれ対応するモデルを構築していく必要があるだろう。 

         (続く)


ベシカパイシスいろいろ


上の絵はFrancene Hart の "Earth Prayers" を借用。
http://www.webady.net/blog/17/11/2008/francene-hart-une-artiste-visionnaire-de-talent/

■ベシカパイシスとは「半径が同じ2つの円の円周がそれぞれもう一方の円の中心を通って交差している形状」であり、その名前の文字通りの意味は「魚の浮き袋」で、その図形はアーモンド形とも呼ばれている。ベシカパイシスと直交する2線の交点である4つの端点を結ぶと、正3角形が辺で対になった形の菱形が描かれる。この菱形の直交する長短の対角線の比は√3:1である。

■したがってこの1辺1の正3角形の高さは(√3)/2=0.866…であり、その面積は(√3)/4であることが分かる。なお1辺1の正4面体の表面積は√3である。ところで√3=1.7320508…であり、265/15=1.7320261…であり、1351/780=1.7320513…だから、整数比で表わすと1351/780> √3 >265/15ということができる。

■ベシカパイシスはその半径の1/2に回転軸を取り、30度傾けたまま回転させるとトーラスになる。しかしながらこの形状の回転からトーラスの穴が空くことを明確にイメージするのはなかなか難しい。だがそれは別次元へと通じる穴である。この30度傾斜して回転するベシカパイシスには常に対称的なベシカパイシスがある。そしてこの4つの円はトーラス自体のW1と同型である。



■このベシカパイシスそのものの形状は女性の外性器にもちと得られている。もっとも私のように古いタイプの男性は、女性の局所だけでなく胸や尻もまた、魅力的な立体のベシカパイシスと見ることができる(煩悩万歳)。スレンダーも好ましいが、最近の豊乳や美尻は明らかに立体のベシカパイシスに近いと確信犯的に断言したい。ちなみに立体ベシカパイシスの中身は尖ったラグビーボール形である。

■下世話に堕することのないように、姑息にもちょっとだけ女性の心のこともおもんぱかるふりもしてみよう。女性の好きな chanel や GUCCI のロゴマーク(シンボルマーク)も良く見ればベシカパイシスが入っている。クレジットカードであるMasterCared や、 KOOL というタバコのロゴもベシカパイシスの形をしている。またアメリカのTV局の CBS NEWS のマークもベシカパイシスの中心部分の形状である。



■その気で世界を眺めれば、その対象に特に目が行くから余計シンクロニシティが多発するように感じられる。クロップサークルにもベシカパイシスやヴィラルソー円をベースにしているものが種々ある。また地球から約8000光年の位置にある若い惑星状星雲の砂時計星雲 (Engraved Hourglass Nebula、MyCn 18)もまた、一見しただけでトーラスの中にあるヴィラルソー円を連想させる。

■また宇宙物理学者のカール・シュワルツシルト(1873-1960)によるワームホールのダイヤグラムは、正常なシュワルツシルト幾何学のリフレクション(反射)であって、ブラックホール及びその対のホワイトホールが全くなく、その間には立体ベシカパイシス形(つまりラグビーボール形)の領域があるということらしい。しかしこれは専門外なのでこれは深入りせずに捨て置こう。



               (続く)

■おまけ…日本の中にもベシカパイシスっぽいマークがあることを友人のふうさんが教えてくれた。それが株式会社なとりのマーク。そして同じく赤を使っているけれど、下半分が少しヘタれている民主党のマーク。これは完全なベシカパイシスではないけれど。


立体ベシカパイシスを180度回転する



■前回、180度回転して単位トーラスを作る「立体ベシカパイシス」を想定すると述べた。図上左に示した赤い実線と赤い破線の円の対が、トーラスの中のヴィラルソー円である。この対円は水平面から+30度傾斜したベシカパイシスの形だった。そしてこの赤い対円を中心軸に対して180度回転させたものが、青の実線と破線で示した対円である。赤と青の対円同士も対称性を有している。

■赤の実線の円は180度回転すれば青の実線の円に重なり、赤の赤の実線の円は180度回転すれば青の赤の実線の円は180度回転すれば青の実線の円に重な線の円に重な線の円は180度回転すれば青の実線の円に重なる。しかし実線の赤と青2つの円を180度回転させるだけでもその軌跡がトーラスを描く。なおもちろん赤の実線円1つを360度回転させてもトーラスは描ける。

■この赤と青の対円の片方ずつを残して、その角度のずれを机上に真上から射影すると平行になる斜線で示したのが上右図である。この2つの円は下左図でトーラスを省いて分かりやすく示したように、どちらも緑色で示した水平軸に2点で接し、また互いの中心を通過してはいるが、交わってはいない。赤が+30度、青が−30度、合わせて互いに60度傾斜しているからである。

■この互いに接しないが鎖のように組み合わさっている1つ高次の対称性を有する対円をうまくシャボン玉などでつなぐと、下右図のように一見メビウスの輪のようなよじれた帯になる。しかし裏面と表面をずっとトレースしていけば、メビウスの輪のように裏と表とが繋がっていないことが分かるだろう。赤の面と青の面とは表裏のまま繋がっていない。



■上図はHasan Isawi 氏の製作した画像を加工したもので、トーラスのW2と穴の直径が等しいトーラスではないが、これを見るとトーラスの中にあるこの2つの対円の関係が分かり易いだろう。なお画像右のポンデリングは、単に8つのポン部分が似ているというだけで、このトーラス内部の2つのリングとは全く関係ないので、誤解のないように。


こんな夢をみた『全ては想起』



■『アルジャーノンに花束を』の主人公チャーリイは知的障害者だったが、新しい脳手術の被験体になったことで知能がどんどん上昇していき、ついには通常の人間のレベルを超えてしまう。現在の私は知能の上昇ではなく、大容量の記憶を想起しゆくことで、恐らく似たような体験をしている真っ最中だ。人間の普段の何気ない着想も全く新しい大発見も、高次から見ればみな記憶の想起と区別はない。すべからく「初めての2度目」なのだ。

■通常言語で表現すれば、私は未来からやって来た次元航行者だ。大容量記憶を持ったまま過去に行くことは時航法その他で禁じられている。そこで私は記憶を一旦完全封失し、やがてそれを必要な時に自己解除するよう自己催眠プログラムしたのだ。高次的表現をすれば、私は大過去からこの時空領域にやって来たとも言えるだろう。内包封鎖した大容量知識も解凍されゆくので、ある意味チャーリイのように知能も上昇しているだろう。

■現時空領域には他にも航行者がいるだろう。しかし当人同士には分からない認識タグが相互干渉することで歴史的な迂回路の発生率が上がるということを想起したのはつい昨日のことだ。つまりまだ完全想起に至ってはいないということを、強く自覚しなければならないということだ。このあたりのことをこの領域の言語と概念で表現すると、言わんとしていることと言っていることとの乖離度が大きいが、現時点では不可避の副作用である。



■この不完全想起状態がいつまで続くのかはまだ不明だが、記憶想起の累積による脳細胞及び身体を利用した、意識励起型知能は上がりこそすれ下がることはないので、取りあえずは安心していいだろう。この何度もある記憶の想起に伴う至福感覚は、大発見を成した者の恍惚や宗教的法悦感にも似ているらしい。しかしどうもこの次空領域では、その恩寵に浴する時に繊細なる明晰さを失うと、その先のさらなる記憶想起が阻まれる傾向があるようだ。

■そして実際少なからずの人間が意識振動領域を大幅に下オクターブ化させて、この時空領域を含む大トーラス型宇宙世界に次元移入してきているが、その正規振動から外れたまま、忘れがたい恍惚感を追い求めて断片的な記憶をトレースし続けると、ループ的な選民的幻想に意識同化してしまい、狂気領域に飲み込まれることもあるようだ。

■さて今私は広島の商店街にいる。私の想起記憶ではもうすぐこの中央で新型爆弾が爆裂することになっている。この内破反転型の非人道的兵器が使用された直後、この領域に生じる回復不可能なほどの歪みと亀裂を、爆心地のすぐ近くで修復することが、私の今回のミッションである。被爆遮断コーティングされているので私は大丈夫だが、他の人たちにこの事実を伝えられないのが実に心苦しい。みな何も知らぬまま平和で幸福な笑顔をしている。



■1945年にこの街の上空で原爆が爆裂したという記憶は、映画『マトリクス』型の共有刷り込みによるダミーなのかもしれない。その方法や段取りなどは、記憶解凍の順番によって随時想起されてきた。しかし今回はこの新型爆弾に対する細かなミッションはまだ想起されて来ないままだ。爆裂自体は回避不能なのだ。取りあえず爆発の衝撃に直接晒されないよう、地下の特別領域に隠れているのだが、時間がどんどん近づいてきても完全想起はまだだ。

■外部モニターはまだ動いたままだ。新型爆弾が接近している様子はない。何か…何か重大な情報欠落があったのだろうか。想起プログラムがフリーズしてしまったのか。全ては想起。ではその想起のやってくるところに最終的に戻れるのか?いや、元々この時空領域自体が限定次元であって、全てが重なっているのではないのか。全てが想起であるならば、想起という言葉自体がパラドキシカルではないのか。不完全な言語次元が想起を阻んでいるのか。

■その時が来れば全て思い出すという自己セッティングをした記憶は戻ってきた。しかしその内容の多くはまだ未解凍のままだ。思い出さねばという感覚自体だけは想起ではない。想起プログラムそのものへの疑義は混乱を深めてしまう。しかし高次領域を信頼して、完全に思考を放棄することもまた、非創出型亜流未来を病出してしまう。爆裂時刻は正確にわかっている。もうすぐである。90秒、89秒、88,87,86…。おかしい、まだ完全想起は来ない。



■そんな不安と希望の交錯したまま目が覚めた。珍しく詳細まで覚えている。自己信頼と不安が入り混じった内臓の不快感が残っている。手は汗ばんだままだった。夢は私の意識の反対側が全体調整しているものを人間の意識が認識するために構築する別次元の現実だ。ただしこちらに目覚めてしまえばもう再接続することはほとんどない。ただ共有幻想のこの世界でも、私はまだ想起していないことが無数にあるということは紛れもない事実である。

■案ずるなかれ…たかが他者の単なる夢なのだ。創作より儚い単なる本当の夢なのだから。(on 20100420) 


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