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  • 2024.01.09 Tuesday
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正6面体の中にスリ・ヤントラを見る?



■上の2つの図は実際にインドに存在するヤントラ(神秘的な幾何学図形)だ。左図のヤントラの中心にあるのは明らかに2つの正4面体が交差したケプラーの星型8面体である。そしてその台座となっている45度位相のずれた2つの正方形は、このケプラーの星型8面体から導き出される正6面体と正8面体が、面点変換でミクロ・マクロ方向にどこまでも連結する双対関係を表していると解することができる。

■また右図はインドで最もポピュラーなヤントラであり、通常瞑想の対象として用いられているスリ・ヤントラ(Sri Yantra)である。全て中央で交差して多重に重なる上向きの4つの3角形と下向きの5つの3角形が、シヴァとシャクティもしくは男性と女性を表すなどと様々な説明が加えられている。しかしここではそのことには触れず、この2つのヤントラを下敷きに正6面体内部を精査しよう。



■ヌーソロジーでは正8面体と正6面体の連続する面点変換の軸方向、つまり正6面体の立体対角線方向を次元連結を貫く「精神の通路」と表現している。この方向から覗いた多重の多面体の面は、上図右のスリ・ヤントラを連想させる。実際この立体対角線の視座を少し上下にずらすと、さらにこの図像イメージに似てくる。ここでは瞑想対象のヤントラ自身には言及せず、明晰な精神の通路を進もう。 

■この正6面体は5つしかないプラトン立体の1つなので、内・中・外の3接球がある。正6面体の内接球は正8面体の外接球と共有している。また中接球(多面体の全ての線心が接している球)はベクトル平衡体の外接球と共有しており、外接球は正4面体、及びその自己相貫からなるケプラーの星型8面体の外接球とも共有している。なお正4面体の中接球は正8面体の外接球と共有関係にある。



■これらの関係をまとめて1つの正6面体の中に重ね、それを立体対角線方向から見た概念図が上図中央である。この立体対角線と視線方向を重ねた力線に対して垂直な平面を色分けしてあるが、それでも全体の立体内部が平面に投影されてしまうので分かりにくい。そこで少しだけ横に回りこんだところから見た2種類の概念図を、理解の助けになればと左右に添えておいた。



■では正6面体内部で3接球を共有する多面体の各面のうちで、立体対角線方向の視線と直交する多重の面を順次見ていこう。まずは手前の頂点に接続する3本の辺の中央を結んでできる逆向きの正3角形だ。これは正6面体の中接球が外接球を共有しているベクトル平衡体の1面だ。この立体対角線の重心を介して対称的な位置には、同じくベクトル平衡体の1面である上向きの正3角形がある。



■次に現れるのは、中心点から延びる3辺の端をつないでできる下向きの正3角形だ。これは正6角形と外接球を共有している正4面体の1面であり、最初の正3角形に比べて辺長は2倍、面積は4倍である。なお外接球を共有しつつ逆向きの正4面体の1面は、この正6面体の重心に対して対称的な位置に、逆向きの正3角形として現れている。この2つの正4面体の相貫体がケプラーの星型8面体である。



■上の図は2つの逆向きな正4面体が相貫してケプラーの星型8面体となることが分かりやすいように斜め横からの視座で描いた図である。立体対角線方向から見るとこの2つの垂直面は6芒星の形を成していることが分かる。またこの正3角形に内接する面積が1/4の2つの正3角形も6芒星の形に見える。これらはケプラーの星型8面体の重畳部分で、正6面体に内接している正8面体の2面でもある。



■これらはまた正8面体の2面であると共に、最初に見たベクトル平衡体の対の位置にある正逆の2面とも同じ面積の正3角形として重なって見えるだろう。それぞれ正6面体の重心に対して立体対角線上の対称的な所に位置し、逆・正・逆・正と2重の対になって小さな6芒星として見えている。そして重心の位置にはこの立体対角線に垂直な平面で正6面体を2分割する断面である正6角形がある。



■この正6角形は後でまた詳しく見る。上の図はこれまで述べてきたことを逆の順番で順次重ねてみたものである。1本の立体対角線には、<正6面体端点−ベクトル平衡体の1面−正4面体Aの1面(正8面体の1面を内包)−重心を中心として正6面体を2分割する正6面体−正4面体Bの1面(正8面体の1面を内包)−ベクトル平衡体の1面−正6面体端点>という安定した内部構造があるということだ。

 

■これはもちろん立体対角線を逆側から見ても、また他の3本の立体対角線についても同様なことが言える。この面積比は<0−1−4(重畳する1)−6−(重畳する1)4−1−0>であり、辺長比は<0−1−2(重畳する1)−1−(重畳する1)2−1−0>である。切頭6面体や切頭8面体がさらにこの間に挟まる関係についても後日見直すことにして、今日はここまで。同時に見るということ。

       (…多分続く)


数と言葉の重ね方…駄洒落以上、論理以下



   「父」には×が入っており、「母」には÷が入っている。
   「男」には+が入っており、「女」には−が入っている。


この1行目の表現は独特な日本語研究をしている磯辺氏との対話で出てきたフレーズだ。そして数の四則計算には×と÷の他に+と−があるので、こうも言えるだろうと私が考えたのが次の2行目である。またこのようなダジャレ的な言語感覚背景としたロジックとは真逆のスタンスも持つ数学研究家の舟木氏は、この話を聞いて「×」と「/」なら、「+」と「−」を45度傾けたものになるとも表現してくれた。つまり

   「−」を45°回転させたものが「/」であり
   「+」を45°回転させたものが「×」である

   「−」を90°回転させて重ねたものが「+」であり
   「/」を90°回転させて重ねたものが「×」である

とも言えるという事だ。これだけではまだヨタ話レベルだとしても、ダジャレの域をはみ出して日本語の深みにまで続く何かがありそうな気もする。これはkohsen氏がヌーソロジーのロジックとは別に好んで使う「5,6,7」が「火、水、光」に対応するという象徴的な表現にも通じるところがある。これをさらに前後に伸ばせば、一意で次のように書くこともできるだろう。

   「1,2,3,4,5,6,7,8…」は
   「一、丁、人、十、火、水、光、米…」



また四則計算で、フィボナッチ数列の初項と第2項を「大きな1と小さな1」もしくは「1とそれとは異なるもうひとつの1」と表現して、数理世界全般のフォーマット自体に「創造の二段階説」的な構造を想定する捉え方があるが、この「1ともうひとつの1」からの四則計算だと次のようになる。

   1+1=2
   1−1=0
   1×1=1
   1÷1=1

これも厳密な数学的論理からではなくイメージ的なもの言いだが、複素平面状の単位円を超えて行くものとしての「+」の強力さを感じる。それ以外は原点0に戻るか、単位円上から回転はすれども直交方向に動けない。もちろんこれは厳密な言語学や数学ではない。しかしダジャレ以上論理以下のような辺りの話にも妙に腑に落ちるところがあるのが面白い。



自己他者問題を虚実複素空間で表現するヌーソロジーでも、その累乗が+i、−1、−i、+1の回転を生む虚数iが自己を意味する「I」に通じる。またさらにこの数字の「1」にも形が似ている「i」はまた、それらをつなぐものとしての「愛」ともその音で通じている。 

自己言及や自己認識や自己表現にも自己の累乗とそれによる視座の回転・位置の回転が生じると捉えることができるだろう。虚数の累乗回転と、愛の累乗回転。鏡像の事故も含めて、先ずは世界と他者を認識する視覚視座・目(eye)の回転。

この手の「駄洒落以上、論理以下」領域の話には事欠かないので、また後日にも考えてみたい。


独仏英西伊みな転び蘭は?…グループリーグ1/2終了時

■日本vsオランダの前に書いておかないと、後出しジャンケン的なもしくは結果論的なずるい表現になるので、あえて的外れや未知の不確定要素を知らぬままの現今の所感を記しておくことにしよう。それにしてもイングランドが2引き分け、ドイツまで負けるとは。この想定外の日々を楽しむことができるならそれに越したことはない。



■A組では開催国の南アフリカが誌上初めてグループリーグで敗退濃厚。前回準優勝のフランスもメキシコに破れて風前の灯。私の好きな中南米チームのウルグアイとメキシコが抜け出そう。

■B組は抜け出たアルゼンチン以外の韓国・ギリシャ・ナイジェリアが共に1勝2敗で並び得失点差までもつれ込む可能性も。ナイジェリアvs韓国、バリシャvsアルゼンチン共に目が離せない。

■C組はスロベニアが半歩抜け出そうだったが、個人的には嫌いでないアメリカの驚異的な粘りで引き分けになりおあずけ。イングランドが勝ちのないアルジェリアにまさかの不発で引き分けに。

■D組もまさかのクローゼ退場で動揺し、ゲルマン魂は見せたがセルビアに敗北し、ガーナのできによっては最悪グループリーグで敗退の可能性すら出てきた。セルビアも微妙。オーストラリアは厳しい。



■E組は日本に負けたというより自滅したカメルーンは這い上がれないだろう。デンマークのまとまり具合にもよるが、オランダとて完璧ではなく、ここをどう越えるかで日本の浮沈もあらかた決まる。

■F組はオープニングゲームのイタリアvsパラグアイ、ニュージーランドvsスロバキアが共に引き分けだったので、きれいにみな1得点・1失点・勝ち点1で並んでいる。NZはまあ下に別枠だろう。

■G組はブラジルが別格。初戦をスコアレスドローで分けたコートジボワールとポルトガル、ドロクバvsC.ロナウド共に機能せず。このどちらが抜け出るか目が離せない。北朝鮮は得点してほしい。

■H組は初戦が無敵艦隊ならぬ沈黙の艦隊だったスペインがどう立て直してくるか。スペインが敗退すれば、今後のトレンドも変わる。チリとホンジュラスが堅守速攻のスイスとどう戦うか楽しみ。



■前回準優勝のフランスはグループリーグ敗退濃厚、優勝国イタリアも全くぱっとしない。さすがと思わせた前回の3位のドイツもセルビアによもやの敗戦。史上最強と言われていたイギリスも2引き分けで崖っぷち、無敵艦隊スペインも初戦でこけた。前回4位のポルトガルもぱっとしない。

■「何が起こるかわからないのがサッカー」というフレーズでは括り切れない、予想を覆す様々な結果。高地と低地の差、新ボールの弊害、退場者によるゲームバランスの崩壊、多数の国がシーズン終了後に季節が逆の南半球開催。人工芝と自然芝の混用ピッチ…上げれば不確定要素はきりがない。

■南米中米北米チームの好調さに比して、アフリカ勢・アジア勢のへこみ具合は相変わらずとして、欧州勢は優勝候補でもあるドイツ・イタリア・イングランド・フランス・スペイン各国がこけたりつまずいたりしている。オランダもここに入ることになれば、日本の決勝トーナメント進出の目もあるのだが…。



■そのほかの欧州勢、特に旧ユーゴ系のスロベニアとセルビアは国が縮小してもサッカーの質は変わらないのが凄い。FIFA世界ランキングは以前にも増してリアルタイムな現実に追いついてきていない。ギリシャ、スイス、デンマーク、そしてスロバキアは中堅どころだがここまでは大ポカはない。

■ぱっと見で日本語の字面的に紛らわしいのが「スロベニア」と「スロバキア」だ。全世紀末に解体と独立の紛争で大悲劇が生じた旧ユーゴスラビア最北部に位置するスロベニアは、早々に分離独立(1992年)した勤勉な国で、スロバキアの方は1993年にチェコと分離独立した国である。

■W杯も現今の社会情勢や大きな歴史や星の巡りの変革期と全く関係がないとは言いきれないほどの混迷と予測の困難さを呈している。未来が過去の累積の結果だとしても、そのデータその他の累積が未来方向からやってくる時にしか見えないのだ。何事が起きても想定外に自然に対処できるよう生きていきたいものだ。 


無敵艦隊撃破さる…W杯1回戦終了



■過去3分け15敗だったスイスがスペインに勝った。「サッカーは何が起こるか分からない」と言う使い古された表現の本質は常に新しい。無敵艦隊と讃えられ、優勝候補の揺るぎない一角だったが、スイスの堅守と力強い速攻、そして運(スペインから見れば不運)に0−1で敗れ去った。

■スイスが華麗なパス回しや芸術的イマジネーションやアジリティで相手を圧倒するのではなく、堅実で組織的な守備を基本と置くのは日本とも同じ。この試合は日本がカメルーンに1−0と勝った試合とよく似ている。しかし現在までのベストゲームとワーストゲームくらい質やレベルが違うのだ。

■ただ日本の対オランダ戦のモデルにはなる。全員が一瞬たりとも気を抜かず、全員で連動して迅速かつ効果的に動き、少人数で勇気あるカウンターを何度か仕掛ける。トルシエ的にオランダ戦を捨てて次のデンマーク戦に全力を注ぐ手もあるが、何にしても悲観や絶望で思考停止してはならないことを学んだ。



■様々な人が「順当なら」という前置きをして試合結果を予想するが、どんな専門家でも必ず予想のいくつかは外れる。自国の予想外の良い結果は相手国にとっての最悪のものとなる。どんな強国でも絶対はない。無知から来る楽観は滑稽だが、未来を閉じる悲観もまた生命失速の因となると改めて自戒せねば。

■今回のチーム全てが一回戦を終えた。初戦の緊張や調整不足も随所に見られた。普通はグループリーグ3試合での結果がまず全てだが、優勝候補国たちは決勝まで全7戦を想定する。ブラジルやイングランド同様スペインも初戦にベストコンディションを持って来れない。しかしだからこそ足を掬われもする。

■サッカーは0.5点も優勢勝ちもないデジタルな結果。ここまでで熱いチームは韓国・北朝鮮・チリ・スイス。特にチリのカウンターの力強さと速さからくるあの胸のすくパフォーマンスが続くのであれば、次のもう後がないので死に物狂いで来るスペインとの試合はスペクタクルなものになるだろう。



■オシムが標榜した美しいサッカーに未来はあるのか。それとも堅守とカウンターの速攻というパターンの中での限定進化に未来が続くのか。戦術や戦略やシステムや精神論のさらに向こうにある未来。手が使えない10人ずつで、独自の流動性と特性を持つ2つの生命の樹が絡み合うように戦うサッカー。

■何はともあれ夜型生活パターンは続く。4年毎に開催される世界レベルのお祭りなのだから、それを裏心なく楽しもう。日本は応援するが、他の国のチームや人間、そして全世界の人々とも位置の交換のみならず悦の交歓ができるよう時を過ごそう。サッカーの身体性、時と空間、数と形。そのみなが美しい。 


初見と初めての2度目の差異を見る視座



■初めての2度目。以前もこのような表現をしたことがある。初見と2度目以降の違いは明白だ。既知と未知。しかし2度目以降をまとめて初見と対比するだけではまだ粗雑過ぎるのではないか。2度目には初めて「初見ではない」世界にいるという感覚がある。3度目には初めて「初めて『初見ではない』世界にいる」という方向の無限後退は、そのインパクトからしても詭弁として、今は捨て置いていいだろう。

■初めての2度目。もしくは初めての既知感覚。通常はそれにさほど意識を向けずにスキップしてしまう。しかしそれが未知ではなく既知のものであるという初めての感覚は、自らの内に起こった変化という未知との現実的な初見であるということだ。もちろん初めての2度目は実際に再遭遇しなくても生じうる。意識の中でその初見印象を想起し、反復・強化できるのだから。問題は「初めての想起」ということだ。

■想起できるということは、既に初見はあったということだ。最初に想起できるまではその想起されることは在るとも無いとも言えない状態下にある。想起できて初めて「初見」に対応するものが潜在的に在ったということが確定する。「数は3から始まる」とピュタゴラス学派は言った。老子42章には「道が1を生み、1が2を生み、2が3を生み、3が全てを生んだ」とある。初めての2度目の視座が3なのだ。



■現実的な「初見と再見」と、意識の中における「初見とその想起」を混同せぬように。3度目以降は初見とは異なり、基本的には2度目の世界の反復・増幅となる。そして初見の未知感覚は対数的に減衰していくので、初見の印象を描き変え続けていく。未知の1と既知の2。1のみでも2のみでも何も顕現しない。初めての2度目と表現する1と2の最初の出会いの精査と確定の視座が3。未顕だった全てが4である。

■1と2の間に直交する3と4。同じインド・アラビア文字を用いて表現しているので混乱しやすいが、この場合の1と2は、先の未知と既知。3は初めての2度目という視座であり、4は生まれ出た全ての数に対応する。この時初めて1の中に1〜4があったとホロニックな表現ができる。アプリオリという表現だけではまだがさつ過ぎるということだ。全く新しい着想はどこから来るのか。3なのか、5なのか。

■最初に「未知」への初見があり、2度目に「初めての既知」への初見があり、3度目以降には既知感覚が反復・強化・変質がある。未知が1、既知が2、そして初めて未知が既知であると確定したところが3、同時に3の対で生じる4。3の顕現で初めて1が1と2になり、2が3と4になるということでもある。そしてそれぞれの間には0.5ずつずれた「整数」がある。表現は稚拙だが言いたいことはそう複雑ではない。



■この2度目と3度目以降との明確な差異にも、もっと注目しなくてはならないだろう。だが「初めて想起した感覚を改めて想起する」ことは難しい。私たちは未知に遭遇した時、その未知と既存をすり合わせて分かる差異に注目し、それを過去の記憶の組み合わせで解釈しようとするからだ。しかし呼吸が無意識だけでなく意識的にもできるように、意識的に初見を初めてのまま味わうこともできるはずだ。

■この世界を最初に認識した者がいたとしたら、その初めての世界は過去を組み合わせて認識したのではないはずだ。「初見事」とは失神しかけている意識のように頼りない過去の記憶の中にある出来事だけではなく、今この瞬間の眼前にあるこの世界のことでもある。眼前には無数の初見なる未知が溢れている。そしてまたこの世界を最初に認識した者と初めての世界いうのも、この自分自身と眼前の世界でもあるのだ。

■「妖怪が襲うのは3番目の子」と言う。妖怪変化がいる場所に隊列を組んで進み行く子供たち。妖怪は最初の子に驚き、2番目の子で様子を見て、3番目の子を襲う。もちろん襲うのは蛇でも霊でもかまわない。しかし3番目の子が襲われると最初から分かっていれば、その子はいつでも反撃し撃退する姿勢でいられるだろう。1番目の子も2番目の子も、4番目以降の子も一緒になって、襲うものを袋叩きにできるのだ。



■光だけでは何も見えない。どこまでも貫通していくだけだ。ホログラフの参照波のようにそれに関与・干渉・交差する異なる光が在って初めて光は見える。見る者の視座、見ると言うこと自体が光なのだ。観念的なものの言い回しだが、見る「光」だけあっても何も見えない。2つの光があって初めてものは見え、初めてものが存在する。見る者なき光は存在するともしないとも言う者がいないので、まだ在るともないとも言えない。

■見る者と見られるものがあって初めて「見える」のだが、同時にその裏ではそれまでは見えると見えないの対立すらなかったところから見る者と見られるものの不在からなる「見えない」が立ち上がる。数は3から始まる。しかも同時に4を伴って。さらにはその時初めて1と2も露わになる。1,2,3,4は同時に顕在領域からは潜在の領域から顕現する。同時に潜在領域と顕在領域の対性も確定する。何も複雑ではない。

■3としての見る者の見るという行為そのものが1,2,3,4もしくは見られるものを顕現化するのだとしても、見る者が全てを創出しているという見識は舌足らず思考足らずである。3が1,2,4を創ったのではなく、同時に出現するのだから、3も3そのものによって(自らによって)創出がされるわけだと自覚する必要があるだろう。つまり自己他者問題と自己言及問題は同時に立ちあがる表裏のものだということだ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


簡単なことを簡単に語り合う姿勢



■ひとつ分かったことがある。いや、分かっていたことを自己再確認したと言うべきかな。多くの尊敬できる人たちは、自分が長年考え整理し纏めつつあるものを、頑張って多くの人々に伝え知らしめようと努力してくれている。それはとても貴い姿勢と行動だと思う。しかし幸か不幸か、私にはほとんどそのような情熱や使命感がないのである。私的には幸なのだが。

■では新発見や未知への突入などによる至福や恍惚や恩寵感覚がないかというと、それは確実にある。比較することはナンセンスだが、多分同程度はあるだろうと自認している。ではそれでいいのか?いのである。間を端折って極端な表現をすればだが、自らの思考を考え整理し纏め上げて自らの中でカタチにできれば、その時点で他者にも伝わりゆくと考えている。

■さてそこに怠惰はないのだろうか。正直に言えばそれは確実にある。怠惰な自分を鑑みて、それを自然なまま放逐しておくのではなく、善後策を考えることはある。ただ他者にも分かるように自分を鼓舞して生きるのは、そうせざるを得ない生き様の1つであり、私は否定も肯定もする視座を持たない。もちろんその生き様を尊重はするが、自分の中では仔細なことである。



■ひとりよがりの王国?他者がどう思おうと知ったことではない?もちろん直接問われれば、自分なりに誠実に応対しているつもりだ。ただその見極めは簡単ではない。相手が望んでいないのに自分の考えをだらだらと話すのは恥ずかしいことだ。しかし望まれているのに気づかず目することもあるだろう。そのスタンスは個人的特徴ということで自ら収めている。

■論理的であることは重要だ。常々そうありたいと思う。しかしその伝えたい事を、すでに体得して真正に生きている者に対してまで、時間がかかりすぎる論理的対話で共有しようとする努力はさして意味がない。こちらの見方を既に知っていてあまり能動的に聞こうとしないのか、単に興味がないのかを見極めることは、自他共にとっても重要だ。

■もちろん面と向かって瞬時に相手を正確に把握できる人はそうはいないだろう。もしそれができる人ならば、すでに論理最優先ではなく、それを1つの有用な道具にしているだろうし。論理的思考や対話を貶めているのではない。論理的ベースを踏まえた上での、それを超えた情報共有の話である。瞬時の正確な把握に不可欠な、誠実さ、正直であること、相手への敬意。



■もっともそれすらも恣意的なので、自然同士が一番楽ではあるだろう。自然体というものが難しい現代社会ではあるが。昔から未来は超能力・異能力の者がどんどん増えていくだろうと予想していた。そしてみんなが相手の本質やエゴの諸相が瞬時に分かるのであれば、隠し立てしても仕方ないので最初から正直な自分自身であればよいと考え生きてきたつもりだ。

■もっと現実的にはエゴの増大も詭弁を弄ぶのもそれなりに自分に許してきた。それすらも自然の範疇だし、カッコつけたりするのは自分のキャラなのだ。それが本質なのか仮面なのかはまた別の話だ。無駄なエネルギーはずいぶん節約できた。自己内エコロジー。問われなければ語らないということは、問われればそれなりに誠実に語るということでもあるのだ。

■知っていることを全てべらべらと語って、相手が自力で考えたり発見したりする喜びすらも奪うような語り口は、鈍軽浮薄な感じがする。自分のための出し惜しみではなく、相手を慮っての思考配列の触手的距離感。いや言葉による表現も詭弁に偏りやすい。完全ではない自分自身を認めよう。それでも極力そこに誠実さはありたいものである。



■簡単なことを簡単に語り合えれば、人間同士のコミュニケーションとコミュニオンのなんと豊かなことか。いや、理想の前に、一歩一歩のすり合わせや葛藤をも楽しんでいこう。日本サッカーの欠点は、止まったままなら何千回でもボールリフティングできるけれど、全力で走りながら同じことができないということ。苦痛や苦悩の中でも芯がぶれない生き方をしたいものだ。 


5つの間違いと6つの間違い

 

■正解は…簡単なので考えてくださいね。

神戸の版画個展と次元幾何学研究会例会



■神戸で19日(土)〜25日(金)まで版画家草子さんの個展がある。個展会場である『ギャラリー歩歩琳堂(ぶぶりんどう)』は神戸中央区のJR元町駅からすぐのところにある。私としては24〜25日に神戸に出向き、神戸の町と個展を楽しもうと考えている。

■ところでJR元町駅とこの会場との間に『サイゼリヤ』の神戸元町通店があるのを発見した。あのリーズナブル極まりないイタリアンワイン&カフェレストランの神戸元町通店だ。駅前にあり、ギャラリーから直線距離だとわずか50メートルほどのところだ。

■24日及び25日に、ギャラリーにたむろしてばかりいられなかろうから、喫茶軽食も含めて休息がてらこの店にしけこむことにした。そこである程度人数が揃えば、「(近くに絵のある)次元幾何学研究会in神戸」も開催してみようかと思っている。

■25日の版画個展は午後4時までで、草子さんとkiraku氏は撤収作業の後、午後7時から別の会場で行われるAKIRAさんのコンサートに出向く予定。その後の動きは未定だが、草子さんとkiraku氏は26〜27日あたりは名古屋の当家に投宿していただく算段である。

■25日の午後に上記の『サイゼリヤ』店内で、次元幾何学研究会を敢行する予定なので、興味のある方は遠慮なく参加してください。参加資格も参加費もありません。「数と形」のヨタ話を少しはするかも知れません。できれば情報交換など望みます。

■ことの更なる詳細はまた後日情報を自己リークしますので、それとなくチェックしてみてください。参加表明はこちらか個人メールなどで、それとなくどうぞ。妖怪博士こと甲田烈氏が参加するかも知れません。その場合は妖怪談義もチョイありかも。

■自分の参加したいところに気分でチョイと混じるのもOK。自分の飲み食い代金は大人なのだからもちろん自分で(笑)。草子さんの個展は入場もちろん無料。(気に入った作品があったらお買い上げ?)『サイゼリヤ』はドリンクバーだけでもねばれます。


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★「ギャラリー歩歩琳堂」
http://www.equiv.net/_11_mt/mt029.html

★イタリアンワイン&カフェレストラン サイゼリヤ 神戸元町通店
http://alike.jp/restaurant/target_top/677768/‎


★AKIRA氏のソロライブ 6月25日(金)神戸「キテン」
開場19:30 開演20時〜 ゲスト:大倉朋子 料金:1500円(別途ドリンク500円)
神戸市中央区中山手通1−23−10 http://ameblo.jp/akiramania/
http://gilgil.ld.infoseek.co.jp/L11.htm
 

       


鳩山首相辞任で思ったこと



■鳩山首相辞任。ここのところの歴代首相の政権維持日数は、安倍氏366日, 福田氏365日, 麻生氏358日, 鳩山氏259日 。その前の小泉氏は1980日だけれど、辞任しなかったので別枠。麻生さんが少しへこんでいるけれど、自民党と民主党の首相政権維持の日数は農耕暦と神聖暦の比(つまり365:260)にほぼぴったり。

■その前の小泉氏は1980日だけれど、辞任しなかったので別枠である。この比はまたほぼ正方形の1辺と対角線の長さの比(つまり√2:1)であり、さらにまたほぼ金星と地球の公転軌道の半径比1 AU:0.72333199 AUとも近似している。それがどうしたと言われても、ただそれだけなのではあるけれど。

■かねてから2大政党政治というものがすでに前世期以前の遺物であり、前回の選挙の後で浮かれる民主党と次は見ていろと復活を狙う自民党を見て、2大政党対消滅説を唱えるともなくほざいていたけれど、もうすぐに迫っている選挙は英国形態のさらに先の崩壊体制にならぬよう祈るばかりである。



■もはや政治や裁判や立法そのものが、時間がかかりすぎて現代の社会スピートに追いつけないという厳然たる事実。代換案を持たぬ者は何も言うななどという旧世代の論理的思考オンリーの発想には辟易する。論理は論理の分を自覚し、理性は理性の分を守り、直観的感知と叡智体現の未来観を模索する必要がある。

■もちろん感情や情動も分を弁えねばならない。条件反射的リアクションや意識操作され易いことを自覚しつつ、それを自力で超える能力を自らの内部から燃え上がらせて顕現すること。冷やかしや諦念から嘲笑的に言っているのではない。個人的には鳩山さんに期待し、その理想と共に応援していた。

■長い長い自民党の政治が、もはや進路変更するのにも負の慣性力が極まってしまって、舵取りはほぼ不可能。どうリセットするか、もしくはどう新しいブレイクスルーを見いだすのか。意外なところから出てくる新案。その真偽・正邪を見極めて進まなくては。今日のようにニュースの多い日は、見えない裏にも要注意だ。



■正確には7:5(364:260)だが、政策担当任期も、政権を持ちこたえたり次期体制を構築したりするのにも、地球の1年が基本単位なのである意味自然なことだろう。そして内外からの諸陰謀も含め、それすらももはや功を奏さなくなって来ている。現行の社会に対する政治形態というものの末期的症状だろうか。

■直接関与できない世界や、手が届くほど身辺の周辺で起きていることとは、共に自らの世界鏡に映る偽り無き自分自身の反転した像でもあろうか。単に踊らされるだけでなく、世界と自分がどのような反転と連結なのかを見極めようとする目で、自らに対して真正に、世界に対しては敬愛を持って臨みたいものだ。


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