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  • 2024.01.09 Tuesday
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円周率πと黄金比φと1の関係と誤差



■昨日は5π≒6φ^2と表現している円周率πと黄金比φ(の2乗)の関係、及びその微細なる誤差を円に内接する正6角形と正5角形と重ねて見たが、この5π≒6φ^2という式は1≒5π/6φ^2もしくは分母分子を入れ替えて1≒6φ^2/5πとも書き表すことができる。普段は差異がほんのわずかなので等号で表わしたりもするが、ここで改めてその差異を確認してみよう。

   1≒6φ^2/5π=1+0.0000153211811294438540391539833…
   1≒5π/6φ^2=1−0.0000153209463944490701852055693…

■ここでどちらの式も乗数点以下8桁までに丸めると1±0.00001532となる。昨日は6φ^2−5π≒0.00024という数値で誤差を見たが、取りあえず今日は誤差をこの数値で考えることにしたい。昨日はその差異を円周上の角度差で見たが、こちらの数値で1を地球の1年365.242191日に対応させると8.057535分…すなわちほぼ8分ということになる。

■8分は1日(24時間×60分=)1440分の1/180である。また太陽が地平線に頭出してから完全に離れるまで、もしくは太陽が地平線に接してから完全に沈み終えるまでの時間はほぼぴったり2分、つまり地球の1年に対して、地上から見て太陽円盤が天空を4個分移動するだけの時間に相当するということだ。バビロニア起源の昔の表現で言えば、この間に人間は4スタディオン歩く。



■このスタディオンという距離の単位は、地平線から太陽が出現してから地平線を離れるまでの間に人間が太陽に向かって歩く距離はだいたい180m前後だから、720mほどということだ。(ちなみにバビロニア、エジプト、ギリシアのスタディオンはそれぞれ184m、179m、185mに対応する)太陽円盤の視直径は0.5度だから1日の間に太陽はちょうどその太陽円盤の視直径の720個分移動して元に戻ることになる。

■これだけでは単なる偶然としか見えないだろうが、私たちの意識とπやφや自然数などから世界が創出されていると見る世界観を想定してみると、垣間見る符合として捉えることもできるのかも知れない。科学的世界観のみにとらわれず、混乱することなくそのような考え方も許容する余裕があると、世界はより豊かで美しく、しかも私たちとより密着して感じられるかもしれない。

■なお6φ^2/5πと5π/6φ^2の差は0.000000000234734994783853948414…つまり0.0000000001余りもしくは百億分の1となる。有効桁数を無視して数値をいじくり過ぎるのはあまり好きではないが、円周率πと黄金比φ、数字の5と6のふくよかな関係は他の様々なところにも浸透していることは間違いない。安易に誤認した意味を負帯させることなく健やかに数に接していきたい。

   6φ^2/5π−5π/6φ^2=0.000000000234734994783853948414 


5と6もしくは火と水・φとπ



■水星及び金星は地球との関係において、水星の会合周期116日にπを掛けると364.42日となり、金星の公転周期225日にφを掛けると364.06日となった。また地球と水星の自転周期及び会合周期の関係を地球公転軌道上にプロットすれば6芒星となり、また地球と金星の会合周期の関係は5芒星となった。

■5芒星と6芒星と言えば以前、漢字の火と水を対応させてその「ヒ・ミツ」を考えてみた。ところで黄金比φと円周率πの間には、5π≒6φ^2という関係がある。これは逆に言えば正5角形と正6角形(5芒星と6芒星)の関係のみならず、5と6との関係にもπとφが見て取れるということでもある。

■これを視覚的イメージとして表現したのが、同じ1つの円をπで5分割したものと、φ^2で6分割したものとがほぼ等しいということを表した上図である。角度は別として単なる円グラフとして見ても構わない。これをベシカパイシス的に交差させたり、完全に重ねたりして関係を見ることもできよう。



■しかしまずはこの5π≒6φ^2がどれだけ近似しているかを見てみよう。πはWindows7のアクセサリにある電卓機能の数値を、φ及びφ^2はこの電卓を用いて(1+√5)/2及びその2乗で32桁まで出したものを示した。特に意味はないが、まあオーバーフロウした意気込みというか心意気である。

     π=3.1415926535897932384626433832795
     φ=1.6180339887498948482045868343656
     φ^2=2.6180339887498948482045868343656

■この5π≒6φ^2の左辺と右辺を結ぶニアイコールはイコールとどれだけ違うのだろう。実際にこの5πと6φ^2の差異を電卓で算出してみると、以下のようになる。実のところ特別な視点でも持たない限り、0.00024あたりより下位の桁の数にはさほど意味を見いだせない。

    5π=15.707963267948966192313216916398
 6φ^2=15.708203932499369089227521006194
 6φ^2−5π=0.0002406645504028969143040897956


■そこでこれ以降はこの差異を24/100000に丸めて考えることにしよう。360°をこの24/100000で割ると0.0864°もしくは5.184分となる。これは円周360度に対して、上図の2つの円は1度の1/12度の違いしかないということだ。実際に図で表現する時はこの差異はほぼ無視できるだろう。



■したがって実際はわずかな差異があることを完全には失念しないようにしつつ、今後は等号(=)で5π=6φ^2と表すことにする。なおこの式は例えば5=6φ^2/π、6=5π/φ^2、π=6/5・φ^2、φ^2=5/6・π、1=6φ^2/5πなどと様々に変形することができる。

  =6φ^2/π 、 π=6/5・φ^2、 6/5=π/φ^2
  =5π/φ^2 、 φ^2=5/6・π、 5/6=φ^2/π

  12=10π/φ^2、 1/12=φ^2/10π、 1/6=φ^2/5π
  10=12φ^2/のπ、 1/10=π/12φ^2、 1/5=π/6φ^2

■なお最後に、もう1度だけ実際の誤差は以下の通りであることを付け加えておこう。

 6φ^2/π=5+0.0000766059056472192701957699167
 5π/φ^2=6−0.0000919256783666944211112334157

 6φ^2/5π=1+0.0000153211811294438540391539833
 5π/6φ^2=1−0.0000153209463944490701852055693
 


4コマねこまんが:『夏の暑さで猫寿司に?』

     

他者に「触れる」ということ



■触る、触れるということ。言葉の通じない動物や赤子に対して話しかたり笑いかけたりというコミュニケーションもあるが、最も能動的で効果的な関わり方は触れるということだろう。撫でる、摩る、押す、掴む、揉む、突く、擦る、抓る、捩る、掻く、摘まむ…。

■肌と肌が直接触れるということは、普段の視聴覚主導による認識空間とは異なる、豊かで直截的な空間において、概念的虚偽のない感覚の交流が可能になるのではなかろうか。意識の上においては、情報や生命エネルギーの差による受動と能動の非平衡な傾きがある。

■しかしその交流の多くは、意識に上がってくないところでの様々な交流と共感、そして拒絶があるに違いない。能動的に触れると言っても、暴力的に感じられるほどに急激で力強いものから、優秀な医師の触れるか触れないかの境目にあるような触診まで様々だ。



■肌に直接触れないままその上に掌を滑らすだけで、内部の健康状態や未顕の病状まで見て取れる技術もあれば、離れたところからの気の交流や、遠隔治療や遠隔透視まで様々なものがあるので、どこまでを触ると捉えるかについては諸説あってしかるべきだろう。

■また触覚に関しては、個人においても敏感にも鈍感にも変動するし、意識的にその感度を上げ下げすることも不可能ではない。自らが傷つくほど過敏なまま生活することは悲劇的だし、自らの身体が損傷しても気付かないほど感覚を鈍化させる人生もいかがなものだろう。

■適度に繊細な皮膚感覚を、必要だと判断した時に、日本刀の鞘からすらりと刀身を抜くように持ち合わせることはできないものだろうか。人を切り刻む刀というものも、極意を極めれば抜く必要がないものとなると言う。自己と他者の差異が肯定的なところで不二になる。



■おそらく…というより明確に、インターネットなどの電脳世界のみで生活していたら、それはここで言うところの触るという感覚の再獲得は不可能であろう。電脳空間では情報を均一かつ複製可能なものにしてしまう。直接感覚は1つとして同じであることはない。

■もちろん「全てが異なれば、全ては同じ」なわけで、その背景で差異を支えるものとして、知覚認識パターンを成す人間としての構造があるのだが。基本的に触るという感覚は他者を必要とする。自分で自分をくすぐってもくすぐったくないが、他者にくすぐられると我慢できなくなってしまう。

■様々なレベルでの他者があるが、接触による感度や情報の流れの多くは非平衡である。逆に捉えれば、ほぼ等価等質な情報の交流も有り得るということだ。眠りこけている者同士の寝がえりで触れ合う手や、街中で不用意にぶつけてしまった肩と肩には意識的交流はないだろう。



■真に愛し合う者同士の繊細な触れ合いを引き合いに出すまでもなく、触れることだけで言語では表現しきれない世界観や生き様の相互理解や共感共有はありうるだろう。触れるという言葉は触れるということそのものではない。1人で触れ合いは根本的にできない。

■眼差しで触れるように見詰めることもできる。声で抱きしめるように愛しさを表すこともできる。しかしもっと直截的に、敢えて表現するならばもっと原始的に触れること、触れあうことに、意識を肯定的かつ受容的に保ちつつ生きてみることも必要なのではないか。

■準備ができていないのに一方的に触れられるのは不快であることが多かろう。準備していても、触れられて初めて知る感触にたじろぐこともある。我執や洗脳など、触覚を歪めるものも少なくない。しかし意を決して他者・他物に触れることができるのは、自分自身でしかない。



■自分自身の左右の手の指先を仄かに触れあわせつつ、掌を会わせゆく感覚にもまた、その都度均質でない新鮮な感覚がある。触れるには他者が必要だと言ったが、自分自身の中の意識できないところにも、未だ他者的存在であって未自分なるところのものはいる。

■触ることの苦痛。触ることの至福。また触らぬことによる真逆の感覚もあるだろう。これらをある程度納得してから初めて、離れていて触るという表現になる領域へと至る方が良いのではないか。距離感というもの。手を伸ばせば届く空間領域以外は、ある種手で触れない内面世界に似ている。

■科学的な受容するだけの光ではなく、自ら発する「見る」ということ自体もまた光である世界で「見て触る」のはその先にある。その先のために言葉で「触れる」ということをあれこれ考えるのは、単なるナンセンスだと笑って済まされる以上のものがあると今は信じたい。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「理」と1つになり超えゆくという道筋



■どんな論理も人間が構築するものであり、強固か脆弱かはそれを構築する精神の反映である。論理を超えたところにあるものが「理…ことわり」であると表現するならば、人間は理に逆らって生きるのではなく、それとひとつになって生きるのが自然であり、また幸福でもあるのだろう。

■しかしその理というものは永遠に不変なのであろうか。理すらも変わるということがあっても不思議はない。理を超え、新たなる理を構築するのは個々人の成し得るところのものではないかも知れない。しかしそのこと自体が不可能であるということもまた、何人も証明してはいない。

■「人間」である限り、その人間にとっての理を超え行くことは不可能であると想定したとしても、それならば人間であることを否定することなく、超えて行けばいいのだ。発狂することなく笑いながら。新しい理。それを今、新理とか神理などと名付けようが、それは未だただの言葉だ。



■先ずはコトワリとカミアウことから始めなければ、その端緒にも就けない。現今の人間の世界観は知覚器官の構造に沿って創られている。三半規管の構造から3軸直交の空間認識となり、蝸牛管の音の振動数の対数的な配置の構造はピアノのそれに良く似ている。実は逆なのだけれど。

■左右対の構造から入って来る2つの情報を1つの世界に統合する脳の構造。また複数の知覚器官が生む複数の世界(視覚世界・聴覚世界・嗅覚世界など)を1つの世界としてまとめ上げている脳の機能。それらの上に成り立つ「意識」は、それらを超えて屹立することができるのか。

■そして人間が時に知覚し認識できる「理」というものに比べれば、人間が日々用いている「論理」というものたちは実に脆弱な体を晒している。しかしその理すらも微かながらも意識が感知できるのであれば、それと1つになり、そしてさらに超えゆく道はあるに違いない。



■「理」は単に人間の論理や言葉によって表された「論理」や「言葉」に過ぎないものでないと捉えられるならば、それを超えゆくという道筋を内包しつつも、先ずはそれと1つになるという道筋は間違ってはいないだろう。さて未だ全貌を顕わさぬ言葉の理は道標と成り得るか。 


本日の私の名前は小野水風呂



■先月から今月途中まで、W杯で脳内活動停止してた。さてやるぞという昨今、連日35度Cを軽く超えている猛暑で、脳内活動復活せず。というより外出する度に熱中症を自分で疑う名古屋の暑さ。そこに勃発するエアコンの機能停止。おまえもかという余裕のない灼熱の日々。

■もう1台のエアコンがある部屋に自主引きこもりしてもいいのだけれど、そこだと成すべきことがほとんど成せない。だってベッドルームだし。そこで今朝、ついに水風呂を作って心身没入。冷鉱泉のひやっこい奴に意を決して入る心境だ。しかし意外にもすぐなれる。

■人間の身体と表皮神経その他は実によくできていて、静かに入っていれば皮膚の周りの水が温まったまま動かず、神経も少し鈍くなる。熱帯夜で睡眠不足のここ数日だから、このまま風呂場でうたたねも心地よい。いわゆる「水眠状態」だな。入り過ぎると体は冷えるけど。



■このままでは死ぬるかもと意を決して外に出る。出た途端に空気が熱いぞ、たまらんぞ。しかし体の芯側が冷えているので頭は動くなり。頭頂部以外は冷やさない方がいいらしいけど、保冷剤をタオルにくるんで首筋や額などを冷やし続けねば頭は回らない。

■身体が冷えるのは色々な健康法や身体技法では良くないのかもしれないけれど、そんなことかまっていられないほど昨今の熱気温は尋常ではない。もう1度水風呂してから、街の本屋と喫茶店に出る。体を十分温めてから寒風の中に出て行く冬の真逆状態も数分しか持ちません。

■その後は日陰から日陰を渡り歩くや日蔭者。それでも100メートルも持たないので、ガンガンに冷房の効いているコンビニやスーパーや本屋などに立ち寄り、プチオアシス的な生き返り大作戦。コメダ珈琲店に入って幾何学的計算をするが、脳がうまく答を出しきらないまま数時間。



■家に戻ると猫が2匹、玄関で融けている。汗が噴き出る速度と競争しながら残るエアコンのスイッチを入れて扇風機の前に立ち尽くす。なぜか猫たちはエアコンで冷えた部屋より風通しの良い廊下がお好き。Jリーグ中継をTVで見る。名古屋vs清水は結局3−3のくたびれ儲け。

■明日からは水風呂滞在時間をもう少し増やそうか、それとも朝からスタバか、ひがな図書館にいるかでもしなければ、脳内活動の具体的痕跡残しはままならぬなり。ああ、ライトスタッフ用の4コマ猫マンガも作らねば。あと、もう少し考えねば、正8面体中の中の正20面体も。

■部屋の中では仕方なくほぼ裸族生活。まあ可愛い女の子が同じこというなら、色々と微笑ましくも好ましい妄想もありだろうが残念でした。不快がる野郎どものためではないけれど、まあ男子はfree tin-tinだといろいろ不都合もありにしなので、揮発直前の理性のパンツを1枚。



■こんな仕様もないことを後まで残るブログにまで書きこむなんて、どうかしている私である。みんなみんなこの酷暑がわるいんや〜。…と、さてひとくされ、騒いだし、脳のみならず身体も冷やすべく、もう1度小野満麿改め、小野水風呂となってから寝ることにしようかな。水風呂、いいのか悪いのか?


正8面体の中のベクトル平衡体と正20面体…試解提示編




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【問題】 上図の大きな正3角形の中の小さな2つの正3角形の(1)辺長比、(2)面積の差、そして(3)2者間の回転ずれを求めよ。
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【試解】

1辺2の正3角形ABCの各中点をD,E,Fとする。
またこの正3角形ABCの各辺を(反時計回り方向に)黄金分割する点をそれぞれd,e,fとする。

ここで直角3角形OEeを考える。
直角3角形ABEの辺長比は1:2:√3であり、AE:OE=3:1なのでOEは1/√3である。

BEは1であり、点eはBCの黄金分割点だから、Beは2/φである。
Eeはこの2者の差だから(2/φ−1=)1/φ^3となる。

ピュタゴラスの定理よりOE^2+Ee^2=Oe^2だからOeは

√{(1/√3)^2+(1/φ^3)^2}=√(1/3+1/φ^6)
=√(1/3+0.05572809)=0.623747884

ここで△DEFと△defは相似であり、
またOE:Oe=DE:deかつDE=1だから
√(1/3+1/φ^6)/(√3/3)=0.623747884/0.577350269=1.080363027

したがって以下のようになる(ただし有効桁数小数点以下3桁までとする)。

(1)△EDFの辺長:△edfの辺長=1:1.080
(2)△EDFの面積:△edfの面積=0.866:1.167=1:1.348=0.742:1
(3)△EDFと△edfの回転角度差⇒22.239度

 (以上。計算及び監修してくれたふうさん、Sさんに深く感謝いたします。)

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■なおこの問題を、「この大きな正3角形は正8面体の1面であり、2つの正3角形はそれぞれこの正8面体に内接するベクトル平衡体と正20面体の正3角形面である」という条件に敷衍展開すると、以下のようなことが分かりました。もちろんこれらは現時点では数学的論理とは関係のない落としどころですので、上述の問題とは明確な区別をお願いいたします。

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1辺2の正8面体の体積→   3.771
内接するベクトル平衡体の体積→2.357
内接する正20面体の体積→   2.748

1辺aの正8面体の体積は →√2/3・a^3
正8面体とそれに内接する正20面体の体積比は8:5(
1辺aの正20面体の体積は →5(3+√5)/12・a^3

)正8面体の中接球とベクトル平衡体の外接球が共有しているということ。
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■上の条件より以下のことが分かる。正8面体に内接するベクトル平衡体の体積比は黄金比に近似していること。また正8面体に内接する正20面体の体積比は、正8面体を1000とした場合3の6乗、もしくは地球の2年の日数(−1)と同型になるということ。さらにこの正8面体に共に内包されているベクトル平衡体と正20面体の体積比は、ベクトル平衡体を100とした場合、正20面体は水星の会合周期日と同型になる。

つまり

(4)正8面体に内接するベクトル平衡体の体積比は黄金比に近似している。
(5)正8面体に内接する正20面体の体積比は1000:729である。
   正8面体を1000とした場合3^6、もしくは地球の2年の日数(−1)と同型になる。
(6)このベクトル平衡体と正20面体の体積比は100:116である。
   ベクトル平衡体を100とした場合、正20面体は水星の会合周期日と同型になる。 


正8面体の中のベクトル平衡体と正20面体…問題提示編



■単眼視座で正6面体の立体対角線の方向から見ると、正8面体も正6面体も共に正6角形の形に見える。したがってこの2者が中接球を共有した形の正8−6相貫体もまた、全く同じ正6角形に収まって見える。またこの正8−6相貫体の重畳部分であるベクトル平衡体をこの軸方向から見ると、30度回転した小さめの正6角形(√2/3倍)に見える。

■この回転対称軸と視線方向を重ねた時、正8面体の線央をつなぐとベクトル平衡体になる。この時ベクトル平衡体は正8面体の各面の中にその面の1/4の正3角形を共有する。この小さい正3角形の各頂点を大きい正3角形の辺に沿ってずらして行くと、小さい正3角形は面積を増やしながらこの軸を中心にして回転する。

■各辺に沿って回転させると、面積が最少なのは頂点が1/2すなわち線央にある時で、正8面体の1面の1/4であり、最大になるのは頂点が線の端点まで60度回転した時で、1/1となる。ところでこの頂点を線を1:φもしくは1:1/φに分割する点、すなわち黄金分割点まで回転させた時、この立体はこの正8面体に内接する正20面体となる。




■それを表したものが上図である。右側がベクトル平衡体であり、左側が正20面体である。共に最初の回転対称軸方向から眺めている図だが、正8面体の各稜線に沿って正3各形が連動しながら回転している様子が分かるだろう。上段の2つは正8面体の各面と共有している面を強調したものであり、下段はその立体の形がより分かりやすく示してある。

■なおこの視座からは正6角形の中で平面的につぶれてしまっているこのベクトル平衡体と正20面体が分かりやすいように、異なる位置から正8面体とその中にある2立体を示したのが下図である。こうして比較すると、線上を黄金分割点まで移動していくことで、ベクトル平衡体の14面のうち、正6面体由来の6面の正方形が対角線で2分割して、同じ大きさの正3角形になることが分かる。



■この線上連動して移動する小さな正3角形の各頂点を、正8面体の各頂点から見たのが下図である。正8面体の各頂点には4本の線が集まっているが、ベクトル平衡体の頂点位置では線央にあった4点が交互に黄金分割比をそこより遠くと手前に移動して、近くに移動した2点が折れ曲がって2つの正3角形となるが、これは正8面体の面の中で回転した正3角形と同じ大きさである。


■つまり正8面体由来の正3角形の8面と、正6面体由来の正方形が2分割・変形した(6×2=12)面の合計で正20面体となっているのだ。上図右はこの関係を頂点方向から見た図である。また下図は正8面体の1つの面の中で、その頂点が線央から黄金分割点まで移動回転した正3角形を示したものである。これらのことから、数学の得意な人は以下のような問いにすんなり答を出してくれるのだろうか。

■(1)この時できるベクトル平衡体と正20面体の辺長比は?
 (2)この正8面体の1面である正3角形とその中の正20面体の正3角形の面積比は?
 (3)この正8面体と正20面体の体積比は?(正8面体とベクトル平衡体とは8:5)
 (4)このベクトル平衡体の正3角形と20面体の正3角形の回転のずれは何度?


数学的素養のなさを痛感しつつ



■前世紀の遥か昔の話。某kohsen氏は井の頭公園駅に近い池の傍で、ひとり踊り狂っていた。色々な人間と意識を共鳴させるとその人になれるというようなことを言いながら、色々なロックシンガーに成りきって歌いながら体を捩っていた。1985年初夏のある日のことである。

■尋常ではない意識状態が続いていた。しかし散歩などで人が通りかかるとぴたっと止まって、「パフォーマンスで〜す」と言ってやり過ごす。奇声を上げながら踊り動く彼を見て、大丈夫なのだろうかと思った人も「ああ、劇か何かの練習か」と納得して歩き去っていく。

■練習ではない、変容意識の本番真っ最中なのである。ミックジャカーその人になって歌うと、あの口と歌いかたはミックそのものだった。彼は正4面体の4頂点に4つの意識や、地球や土星の衛星タイタンや冥王星などをプロットした。そして正4面体の稜線についても。



■彼はこの正4面体の6本の稜線を黄金分割する点を辿ってオリオンに至るというような話をした。ところで申し訳ないが、このエピソードは単なるツカミだ。まあこの話の続きは別の機会にするとして、問題はこの「稜線の黄金分割点を辿って…」というところだ。

■残念ながら正4面体ではなく正8面体だが、その各稜線を黄金分割する点をつなぐと、正8面体に内接する正20面体ができる。当時意識で宇宙の果てまで行って、宇宙パトロールに捕まって、「またkohsenかよ」と言われながら戻されてきた彼は、今でも求め続けている。

■何をかというと、その1つが正4面体−正4面体の繋がりから正8面体−正6面体の系への繋がりは見えたのだが、未だに確定して見えていない正20面体−正12面体の系への幾何学的な繋がり方をである。5重対称性・黄金比などが関係していることは熟知しているのだが。



★おそらく正8−6相貫体に直交するベクトル平衡体と菱形12面体を介してであろうことはそれとなく予測しているのだが、正8面体に内接するベクトル平衡体の正3角形面を正8面体の稜線に沿って黄金分割点まで移動した時に、ベクトル平衡体は菱形12面体に変形している。

■もちろん数学的・幾何学的にはこの事は知っていた。しかしそれがどのような意味を持つのか、もしくは持たせられるのかは分からないままだ。しかし正4面体の稜線を黄金分割する点で正4面体を重ねれば、5重及びそのデュアルである自己相貫体になることとの繋がりは?

■長く話を伸ばすつもりはない。要するに正8面体の1面である正3角形に内接する辺長比1/2の逆向きの正3角形を、辺に沿って黄金分割点まで移動する時、その正3角形はどれほど回転(右回りと左回りが在り得るが絶対値は同値)するかが知りたいのである。



■なんか、何度か計算してみたのだけれど、多分どこかで間違っているのだろう、どうも正確ではない値になってしまうのだ。問題の図は明日のブログに載せるつもりなのだが、数学的素養のある人ならサクサクッと計算して、概算値なりと出してしまえるのだろうけれど。

■なお、1985年以降のkohsen氏の愉快な大冒険は、いずれしっかり形にしますので、こちらの方もお楽しみに。それと、私個人的な自己他者問題のモデルとしては、正8面体と正6面体の相貫体及びその系は実にフィットするのである。8+6=14。ま、こっちはまた後日。 


上諏訪温泉・ホテル鷺の湯



■諏訪インターを降りてから諏訪湖側に戻る距離は思っていたより長かった。上諏訪は大きなホテルや旅館が林立していて、温泉銭湯が多数ある下諏訪とはイメージが全く違っている。特に湖畔沿いは明るいリゾート地の雰囲気たっぷりだ。人通りの多い湖畔に立ち並ぶ「紅や」「ぬのはん」「油屋旅館」「RAKU華乃井」などの中に「ホテル鷺の湯」があった。

■実はこの宿は愚妻が予約したところだった。3連休の直前にネット予約しようとしたのだが、湖の良く見える良い条件の部屋はどこもかしこもほぼ埋まってしまっていた。中京地区からも都心からも高速道路とJRのどちらでもアクセスが良い温泉リゾート地だから必然であろう。そこでもうどこでもいいからと愚妻に丸投げしたのだが、ここ「ホテル鷺の湯」は大正解だった。

■玄関ロビーから続いて奥にある広々とした中庭と、独特の建築デザインが相まって特別な空間を構築している宿だった。伝統のあるホテルにふさわしい様々な飾り物や演出がさりげなく満ち溢れている。この広い庭に孔雀が放たれているのも当宿の特色の1つだそうだが、残念ながら骨折でリハビリ中とか。



■さて第一目的の温泉だが、実はどこも湯量豊富な宿だろうから、せめて高層ホテルの最上階からの眺めの良いところが良いかなと考えていた。しかしこの宿の湯殿は湖の眺望への特化ではなく、温泉そのもののトータルな空間の創造が素晴らしかった。特に内湯の外に屋根つきの露天風呂が設えてあるのだが、この屋根が宿の改築の時、玄関にあった大屋根をそのままここに移築したという話だ。

■床は位置張りで四方に柱があるので、ちょっとした能舞台の真ん中で風呂に浸かっている気分である。特にその片隅にある1人には広すぎる釜風呂というか窯風呂は消毒薬も泉質検査剤も一切入れない完全源泉のみという潔さである。泉質はナトリウム・カルシウム−炭酸水素塩泉で、源泉温度は56.9℃、pH7.62の掛け流しである。もちろん加水・加温なし。微妙にモール泉かも。

■私は上諏訪の温泉は基本的に無色透明の単純温泉か単純硫黄泉であると思いこんでいた。しかし浴室に入ってまず驚いたのは、湯が茶褐色の濁り湯だったということだ。後で改めて宿の人に聞くと、昔は多量の硫黄を含んだ白色で、浴槽に付着すると白い鳥の羽のようになるので「鷺乃湯」と呼ばれていたそうだ。関東大震災の後に湯の色が変わり、現在は少しだけとろみのある茶褐色になったとか。



■通された部屋は4畳余りの間切り部屋とゆったりした十畳間で、窓の外には古くて立派な洋館風の建物があった。どんな宿なのだろうと良く見ると、以前立ち寄ったことがある片倉館だった。夕食は部屋出しだが、大食らいの歳を超えた者にとっては程よいボリューム。ただ配膳の間合いや手順の乱れは、この日はほぼ全室満杯らしいので目をつぶろう。

■唯一にして最大の不快点は、この部屋だけでなくこの棟の全室なのかもしれないが、湯と室温の調整機械らしきものの音と振動が大きくて寝付けなかった。譬えて言えば小笠原に行った時、船のエンジンの傍で横にならねばならなかった時の全身で感じた逃避不可能感だろうか。夜で逃げ場もなくそこで寝るしかないのに場そのものの振動と音で眠れない不快感。これは問題だ。

■まあ普段は最後に埋まる部屋なのかも知れないし、無理を言っても代わりの部屋があるわけでもなし、ビールをしこたま飲んで朝まで爆睡した。いや、何はともあれお湯は実に良かった。日が変わると男女の浴室が交代するので、翌朝はまた改めてゆっくり茶褐色の湯を楽しんだ。朝食は大広間で部屋ごとに設えたテーブルで取ったのだが、ここでも宿の人たちは明るくて気持ち良い。



■ゆっくり上諏訪の高原リゾート気分を楽しみたかったが、愚妻の伊那での仕事がまだ残っているので、そこそこ早めにチェックアウトをした。車の窓から大本元の教会がいくつも目に付いたのだが、後で大本元教教団総本庁?が下諏訪にあるということを知った。下諏訪の秋宮に立ち寄ってから、岡谷インターから高速に乗り、岡谷ジャンクションから中央高速を南下して伊那に向かった。

■直接口には出さないが、ちょっぴり愚妻に感謝する私であった。 


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