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  • 2024.01.09 Tuesday
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『地獄八景だぎゃ』はサイコー!



■名古屋は栄にある損保ジャパンの2階にあるホールで久しぶりに舞台を観た。ひと組というグループがが演じる創作作品の『時代横町』というシリーズの、41番目と42番目の新作『汗かき地蔵』と『ぶいぶいばばあ』の2作。そして藤山寛美の公演スタイルを真似て、エントリーされた5作品の中から客の投票で一番のものを演ずる特別企画で『地獄八景だぎゃ』の3作品だ。

■最初はまあ普通の人情話。次がタイトルの擬音の重さから想像していたものとは大違いの号泣を誘う人生の綾とその解決までのストーリー。最後はこれでもかと斬新でありつつ落ち着いて笑い楽しめる娯楽作品だった。結論から言うと、どんなものかなと先入観なし、かつ期待値もノーマルなまま観たことがよかったこともあり、自分としてはほぼ最高点を付けることになった。

■そのスタイルは「見るラジオドラマ」とも銘打っているように、俳優はその多くを正面に向かって語り演じる。しかしだからこそ逆に玉に挿入される横向きの掛けあいや縦1列に重なり並んでの部分演技が新鮮に感じられる。縛りを掛けることでそれを部分的に解くだけで次元が1つ上げられるのだと思い知らされるユニークで斬新な演出。



■同一人物の子供の頃と、それを語る老婆となった語り手が同じ部台に立っていたり、一番重要なキャラクターの1人である婆さんを人形遣いとその声優の2人が後ろから操作する人形にしたり、部分暗転で時間と空間を交互に幕も暗転もなしで交錯させたり、無理や奇異さを感じさせないままでもエッジの効いた舞台が自然に展開できるのだと思わせてくれる、しっかりした俳優たちと脚本である。

■私は個人的にはやはり最後の『地獄八景だぎゃ』はまた見たいと思うほど高評価を付けたい。名古屋の人はこの地の言葉がそのまま自然に入って来るのだろうけれど、標準語がノーマルモードだった者にとっては、この強烈な名古屋弁(正確に言えば三河弁や尾張弁や、さらには下町言葉や上町言葉などもあるらしいが、知らぬものには区別がつかない)で展開すること自体がまた斬新だ。

■脚本・演出の麻創けい子氏の『大根列車』という作品が日本民間放送連盟・エンターテイメント番組部門で優秀賞を取っており、また『ぶいぶいばばあ』の全編の語りをしていた田中幸子氏は名古屋市芸術特賞を受賞していたり、主要キャストの演技が全く安心して見ていられる完成度だったりと、むしろこの値段でこのパフォーマンスが成立していること自体が驚きである。



■今日は「ねこ鍋の会」という楽しく食事とおしゃべりをする緩い会で、この『時代横町』を観に行こうという話が実現したものだが、その会のメンバーでもあるひと組の高橋潔氏、そしてその奥さんのシャンチー(すみません、今はハンドルネームしか知らない)さんとも、終了後の食事会で気さくに話が聞けたことも貴重な体験だ。表現すること。生きること。学ぶこと。話すこと。みな同じだ。

■実は愚妻も最近名古屋では別格に有名な原氏の演劇集団の練習に参加したりしているのだが、遥か昔取った杵柄がぼろぼろに腐っていないことを祈りつつ、表現すること、パフォーマンスということ、また既存の知識とは異なる新しい概念を伝えようとすることなども含めて、実に自分自身のテーマとも重なるところがあり、大いに良い刺激を受けた。公演期間中にできればまた観たいものである。 


小学生たちと綿棒で正多面体を作る



■河合文化教育研究所主催の公開イベントとして、「数学実験・綿棒で正多面体を作ろう」というタイトルで実験教室をやらせてもらった。参加者は小学生高学年を中心とした21名、及び保護者としての大人が9名の合計30名。どこの馬の骨かも知らない在野研究者ではあるが、昨年『日経Kids+』という教育雑誌に「綿棒で作る多面体」という工作過程と記事を紹介してもらったことも保護者には安心材料となったのかもしれない。

■綿棒・ペーパーセメント・資料その他は当方のやりやすいように準備した。また視覚的ターゲットが複数あった方が理解の助けになるだろうと思って、軸に色を塗った綿棒の軸に蛍光ペンで色を塗ったサンプルを数点製作したのだが、さらにキャッチーなように発展形のサンプルとして、600本を使った「バッキーボール」も1日がかりで製作した。ブラックライトを当てると3重に浮き上がるようにこちらもまた蛍光ペンでせっせと軸に色を塗っておいた。

■しかし教室にいってみると、窓際にあったのは光を遮断して真っ暗にできる暗幕ではなく、普通のカーテンだったので、話の最後に驚きの大団円的として闇の中で蛍光色に光るいくつもの多面体というコンセプトは使えないことが分かった。仕方がないので急きょ大きなバッキーボールは単なる見せゴマとすることにして、製作すること自体の中に楽しさを見出してもらう方向にシフトした。何はともあれ、立体を手で実際に作ることでしかわからないものはある。



■今回は正4面体、正8面体、正20面体の3種類を製作することにした。そして塗れたペーパーセメントを乾かしている間に、5つの正多面体の点・線・面の要素、面の形・1点に集まる線数について、面点変換と双対立体の関係、そして正他面体サイコロとその目の和が月の12朔望周期や地球の1年の日数とも重なることなどをゆっくり話した。しかし後で聞くと製作中に話に注意が行って手が止まってしまう子もいたという。全体のペースを合わせるのは難しい。

■正20面体の製作辺りからスイッチが入ったかのように子供たちのモードが切り替わり、自力でどんどん製作していくようになった。開始前の待機時間に、日経Kidsの製作記事のコピーなどを既に見ていたので、製作手順などはもう知っていたのだと後で分かったが、それでもわずか1時間10分ほどで3つの立体を製作し、さらに星型8面体に挑戦している子供や大人もいたのには驚かされた。やる気がある子は呑み込みも作業もなんとも早いことよ。

■主催者側が全員からアンケートを書いて貰たものを見せてもらうと、総じて好評だったようなのでやってよかったと思う。図形が苦手だと思い込んでいる子供や保護者がいるようだけれど、実際に製作したりすることによって虚見も湧き楽しいものだと捉えられる可能性は小さくないだろう。ちょっとだけ大人用に付けくわえた専門的な話も面白いといわれて少し嬉しい私である。参加者のみなさん、企画者、ヘルプの人たち、どうもありがとうございました。



■他のところでも機会があればまたやってみたいものだ。話相手が大人だけならば、もっと専門的な話をてんこ盛りにして、そちらの方のシャープな情報の交換などもできるのではなかろうか。まあ、今後の生き様次第ではあるけれど。 


ホワイトボードが我が家にやってきた



■月に1回、我が家で「ヌースレクチャーin博多」のDVD上映会をするようになってからもうすぐ1年になろうとしている。毎回前日になると私はふすまタイプのドアを2枚外してきて、ベランダに通じる部屋の隅に2枚立て掛ける。そこに大きな摸造紙を2枚張り、DVDプレーヤー・PC・プロジェクターをつないでそこに投射上映するからである。室内の植物たちやあちこちの備品などを別室に移動したりと、まあ後かたずけもいれれば大仕事なのである。

■まあしかしこのシリーズ企画が終わった後も、当家で何かレクチャーや情報交換の会のようなものを開くのもありだろうという話や、愚妻が当家でやっているちょっとした家庭教師でもホワイトボードがあったらずいぶん楽になるかもという話もあったので、思い切ってネットで購入することにした。アスクルという会社のものがかなりリーズナブルだったのでそれに決めたのだが、その社名は「購入したら明日来る」という商品到着の早さも売りだった。

■それで今日の午前中に早くも到着。ボードの支持パイプ部分などは自分で組み立てるのだが、これも存外簡単に製作できたので、早速一番書きしてみた。何を書いたらいいのか分からないので、取りあえず猫を描いてみた。となりでは遊びに来ている甲田烈氏が何やらねずみ男や妖怪のようなものを描いている。足もとに猫がすり寄ってきたので、抱き上げて「どうだこの絵は?」と尋ねると、何やら指さしてニャガニャガ鳴いている。いまいち下手ですか?



■ホワイトボードは自分の脳内平面の一部と言う感覚がずっとあった。そして図形や文字などを個人の外部空間にその概念などを、質は劣るにしても簡単に引きずり出して共有することができるアイテムであると思っている。まあ客が来た時に通路との間のパーティーションにもなるだろうと思っていたが、長過ぎて出入りするスペースまで間仕切ってしまうので使えない。まあ今後じっくりさらなる用途を考えて行くことにしよう。


「二十日鼠の会」発足の超間近で



■今夜は八事(ヤゴトと読む。いくつもの大学が集まっているちょっとした学園都市…というか町。)でちょっとした寄り合いがあった。3日に渡って開かれている国際会議で研究発表をするために東京からこられた■川五郎氏(あ、伏字の必要ないか)、甲田烈氏、まり庵さん、愚妻、私の5人。

■ちょっと驚いたことに、このうちの3人が5月20日生まれであることが判明。ソッコーで「二十日鼠の会」が発足してしまった。しかもそのうちの2人が生年月日も全く一緒での「キン42:白い電気の風」で、今年がマヤンな還暦だった。

■いつもなら5月18日生まれの私もほぼ同じ括られかたをするのに、何かとてつもなく距離感と感じるほど強烈で入れない人間同期だった。しかし帰宅してすぐに、今日が「キン140:黄色い惑星の太陽」の日だったことに気づいた。イエス、私のキンである。

■つまりこの「二十日鼠の会」は私のマヤンな誕生日キンに発足したのだから、私も無理やり関係者?(笑)烈ちゃんはそもそものセッティングした人だし、他人ごとではなく、楽しい巻き込み巻き込まれフェノミナンだったわけだ。最早驚かないが、やっぱナイスです。


1,2,3,4から10進法への失われた記憶



■3角数(俵積み数)は、自然数を順次加えることにより形成される数のことだ。4の3角数は1+2+3+4=10である。私たちが直覚的に捉えられる自然数は1,2,3とそして4くらいまでだが、これは原初的な数覚によるある程度高等な生物の先験的な世界認識構造の基盤である。私たちが10進法を獲得する道筋は、ほぼ同じ思考能力の異なる展開による幾通りかがあったと考えられる。

■4までをひと括りとしてそれにさらなる1が加わった5を新たなる1もしくは5進法的なプロセスを経て、人体の左右対称性もしくは対性からこの5でひと括りの表裏から10に至る認識過程もあっただろう。ひと括りの4に1を足した5、そしてもうひと括りの4に1を足した6として、世界を満たす6としての10という把握もあったのではなかろうか。

■また大地に物を俵積み数的に積み上げていく過程で、自然数の1,2,3,4に対応する3角数が1,3,6,10となっていくことを繰り返し観察しているうちに、自らの左右の指の数に等しいことに気がつき、1,2,3,4までの直覚的な自然数から、10でひと括りまでの原初的な10進法的な数把握へと飛躍的に進展したという流れもあったに違いない。



■最初は全体の1と部分の1の区別があったわけではなかろう。部分の1の倍が2。つまり1+1=2である。この倍という捉え方が確定すれば、(4は2の倍、)3の倍が6、4の倍が8であることへの展開はそう遠い距離ではない。和語に限るが、hi→hu、mi→mu、yo→yaと同じ子音で倍の数を表わしていることとも関係がありそうだ。そしてkokoとnana…。

■これはミッシングリンク的に未確定な私たち人類の数認識の10進法への飛躍的進歩のことだけではない。個々人の幼児期から10進法体得までの間に起こる数感覚の進展が均一ではなく、体系的な算数や数学に触れる前に(もしくはその初期の遭遇時も含めて)、それぞれかなり異なる過程であろう数感覚や計算能力を体得した過程を想起できないことにも似ている。

■もちろんひとたびその10進法的な全体象を捉えられた者は、それを他の者と共有しようとするだろう。個人の数感覚の発展展開は、親や年長者に「ひ,ふ,み,よ,い,む,な,や,こ,と」もしくは「1,2,3,4,5,6,7,8,9,10」と一気に叩き込まれもするが、それでもその数の不思議や数同士の距離感が均等でない感覚は個人個人で異なるものを味わう可能性はある。



■この1,2,3,4の数感覚と10進法獲得との間の大きなギャップを埋めるプロセスは、60進法や12進法や20進法がメインであった数理世界の存在から考えても、民族や地方によっても異なっていた可能性もあるだろう。そして各個人によってもそれは同型的な問題とバリエーションを含んでいる。本当のところ、私たちはまだ1,2,3…までしか知らないままのかも知れない。

■少なくともこの間のギャップを個々人で捉えなおしたり修復しゆくことなしに、実感のない莫大な数を扱う経済学や統計学や天文学などは言うに及ばず、高度の数学に携わる者から暦やお金の計算をする一般人まで、まずは自らの生得的な数感覚から10までの数を体得した記憶や、数との個人的な関わりと展開の内的な歴史を想起する必要があるのではなかろうか。


ヨナ抜き音階と正多面体の体積比



■長音階の第4音と第7音を省いた音階を五音音階(ペンタトニックスケール)という。これは基準の音から完全5度ずつ上の音を5種類並べた音階でもある。Cの長音階から第4音と第7音(FとB)を取り去ると、「完全1度、長2度、長3度、短3度、完全4度、完全5度、長6度、短6度、短7度」が残る。結果として音程上半音関係にあるものと増音程と減音程がないものとなる。

■第4音と第7音を省くことで唯一の増音程(FとB)と減音程(BとF)がなくなり、半音(E-F、B-C)もなくなる。第5音を主音とする和音がなくなるが、落ち着いた音階になる。近代以降の日本固有の音階も西洋音楽の長音階に当てはめれば五音音階であり、第4音と第7音がないのでヨナ抜き音階(四七抜き音階)と呼ぶ。雅楽の「呂旋法」がまさにこれに相当する()。



■さて厳密にはもう少し説明が必要だが、今回は正多面体の体積比の整数列系で、4と7に対応する立体がないこととの相似を見ていくことにしたい。すでに何度か見たが、正8面体を基本の1として、これをマクロ方向に面点変換した正6面体の体積比は6となる。この正6面体と外接球を共有する正4面体の体積比は2、その正4面体の自己相貫体(ケプラーの星型8面体)は3。

■そして4に対応する立体は見当たらず、正6面体の中接球が外接球になるベクトル平衡体の体積比は5となる。この正6面体と中接球を共有する正8面体の体積比は8であり、この2立体の相貫体である正8−6面相貫体の体積比は9となる。またこの相貫体の頂点をつないだ立体である菱形12面体の体積比は12となっている。そして7に対応する立体もまた見当たらないのである。



■ここには数字以外に同型対応するものがないように見えるが、異なるものの間に数的対応が見え隠れする場合は、その対応の仕方に美しさの有無を見極める必要がある。なお坂本九の歌う「上を向いて歩こう」、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」、谷村新司の「昴」その他、J-POPの中にもヨナ抜き長音階の曲は少なくないが、これと多面体と関係があるとしたら楽しくはないだろうか。

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)同様にニロ抜き音階は「二六抜き音階」とも表記し、ニロ抜き短音階を西洋音楽の短音階に当てはめたときに主音(ラ)から2つ目のシと、6つ目のファがない音階のことである。俗楽の「陽旋法」がこれに当たる。ヨナ抜き音階とニロ抜き音階には以下のものがある。

音階名       音階           備考
ヨナ抜き長音階  C, D, E, G, A, C  呂音階と同じ
ヨナ抜き短音階  A, B, C, E, F, A  陰音階の主音をAに変更
ニロ抜き短音階  D, F, G, A, C, D  陽音階と同じ
ニロ抜き長音階  C, E, F, G, B, C  琉球音階と同じ
 


トーラスの穴の数と生物



■トーラスとはざっくり言えば穴開きドーナツや浮き袋のような形状のことだ。自分のハンドルネームにも用いているくらい私はトーラスが好きである。しかしトポロジー的には穴が2つ、3つ、4つ…と幾つ空いているものも問題にする。個人的には1つ穴のトーラスのことを考えるのにいっぱいいっぱいで、複数の穴があいているトーラスについては、数学者に任せて考えないようにしていた。

■しかし基本的に人間も生物学的には、口から消化管を通して肛門まで抜ける1つ穴のトーラスとほぼ同じである。ほぼと表現したのは口の他にも穴が開いているからである。私たちが実際の感覚として捉えられない程度の微小な穴は除外するとして、頭部には感覚器官としての目・耳・鼻がある。このうち耳は鼓膜で外部と内部が遮断されているのでトポロジー的には穴ではなく袋として扱う。

■鼻は内部で口と繋がっているので開放系であり、目は眼球で塞がっているように思えるが、涙線から鼻に繋がっているのでこれは穴である。正確に言えば左右がそれぞれ2本に分岐しているので目の穴は全部で4つ、鼻の穴の2つ、そして口の穴が1つで合計7つ穴のトーラスということになる。なお肺や尿道などは行き止まりの袋に相当するなので穴としては数えられない。人間は7つ穴のトーラスである。



■「あたしは生まれつきアナーキー」と言って、最初からバージンでないと悪ぶる小娘は、バージンであろうとなかろうと、この部位に関して言えばこれも穴開きではなく閉じた袋扱いとなる。また昔ニューヨークのスラム街で強盗に肺を撃たれ、傷口から流れ出る血を止めようと指を突っ込んで通行人に「アンビュランス、アンビュランス、プリーズ!」と叫んでいた時の知人は8穴生物だったことになる。

■基本的に8穴以上の穴が開くと、それが土手っ腹だろうがこめかみだろうが生命の維持が難しくなる。しかし小さい穴を自ら開けることもある。20世紀末に私も一時8穴トーラス生物だったことがある。友達が耳たぶに針で穴を開けてピアスを通しているのを見て、ついでに私も左耳たぶに穴を開けてもらったことがあるのだ。2年ほどで外していたら穴はすぐに埋まったけれど。まあ若い頃の話である。

■それならへそや唇や乳首にすらもピアスもしている若い奴らは、通常より多穴のトーラス生物ということになるのか?…まあそうである。ただしそれは若者の先進的なファッションと言うわけではない。アマゾンのゾエ族が下唇に穴を開けて棒を刺したり、ニューギニアのネイティブが左右の鼻孔の間に穴を開けて輪を通していたりする方がずっと早い。まあ人間は自然体なら7穴トーラスということだ。



■人間は牛の鼻に輪を通したり、豚の耳に鑑識用の穴を開けたりもするが、自然界では色々な穴の数の生物がいる。例えば魚類には左右の体側に鰓裂(さいれつ)というエラ孔が開いているが、この数が硬骨魚類は5対であり、軟骨魚類は6対、そしてもっと原始的なヤツメウナギは7対ある。ヌタウナギ類は6〜14対で定まってはいないらしい。生物学的に穴の生成過程も面白いがこちらはまたの機会に。

■それでもまあ私は1つ穴のトーラスが好きである。その穴を介して交差し合う直交トーラスの対を物質的な肉体と精神の二元論的ではなく、かつ一元論的でもない生命モデル・人間そのものの総体的なモデルへとして行こうと考えている。しかしその直交する対トーラスそのものを自己他者問題の究極的な幾何学モデルにしようと目論んでいるのだが、その道はまだ遥かに遠い。頑張らねば。 

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()上の画像は以下のページの画像を借用・加工しました。
http://cliptic.wordpress.com/tag/moebius-split-torus/
http://www.laetusinpraesens.org/musings/torus.php
http://forum.upi.edu/v3/index.php?topic=17444.0


原鶴温泉「花農家 和みの湯」



■福岡で今回のシリーズ最後のヌースレクチャーに参加し、そのkohsen氏の家にS氏と共に投宿させてもらい、翌日は同じ会場でS氏の「ヌースレクチャー理解のための数学教室」にも参加した。その後、そのS氏、参加者のminoru氏と共に、これまたヌースレクチャー常連のRyuさんの家で懇親会をかねた強化合宿(弱化合宿という話もある)で一晩お世話になった。

■その日の夕刻、近くにある「原鶴温泉」の近くの香山という小高い山の上にあるビューホテル平成の温泉に入ることにした。この山の頂上付近には昭和62年に原鶴温泉の温泉宿の主人が完成させたという昇龍大観音を見てみた。全高28m、総重量25トンの表面ブロンズ造りの巨大な観音だった。金運を開くらしいが個人的には興味はないが、周囲には12支対応の12仏や、学問やぼけ封じの観音もあり、ちょっとしたテーマパークのようだ。

■さて温泉だ。この高台にある温泉ホテルはさぞかし眺望も素晴らしいだろうと思いつつ入り口まで行くと、「立ち寄り入浴はすぐ近くに併設してある専用の温泉施設にお入りください」という表札があったので、その「花農家 和みの湯」に入ることにした。後で調べると800円でホテル内の展望露天風呂『裸美絵』に立ち寄り入浴ができるということが分かった。さてその花農家の方の入浴料金は600円だった。



■この料金に見合わないほど、食事どころの施設や周辺の公園が美しく整備されている。筑後川が眼下に広がる眺望が素晴らしい道に沿って進むと、どっしりと大きい温泉棟があった。源泉は上のホテルと同じと思われるが、温泉成分表は掲示されていない。しかしアルカリ性単純温泉とのの表示ではあるが、循環ながら透明どころか緑色で湯船の底が見えないほどの濁り湯だった。

■広い湯船はいくつかに緩く仕切られており、しかも深さが3段ほどになっているのだが、濁っているのでその段差が見えずに転びかける人が多いのではなかろうか。湯船に浸かってじっくり建物の中を見ると、一部はどこかから解体移築したのではないかと思わせるほどに太い梁を組み合わせた頑丈な造りの立派な木造である。眼下と耳納連山がゆったり見える広く開放的な窓も好感が持てる。

■夏季用の調節かも知れないが湯温も低く、長湯ができる温度である。もし多数の客が入浴していたたら、途端に評価が下がってしまうかも知れないが、座って体を洗うカランの席は2つのみ、立って浴びるシャワータイプの蛇口も4つしかなかいので、最初から多くの客を想定していないゆったりしたコンセプトなのだろうか。ここまで来る足さえあれば、かなりの好感が持てる温泉施設である。



■雪の日などにじっくり長湯するのもいいのではなかろうか。しかし使いの機会があるならば、今度は上のホテルの露天風呂にもぜひ入って見たいものだ。それにしてもこの筑後川沿いには、実に多数の温泉が湧出している。ゆっくり一つ一つ巡れるような境遇の日々は果たしてくるのであろうか…などと思いつつ湯から上がり、美味しい夕食と楽しい会話と健やかな眠りを求めてRyuさん宅に向かうのであった。


ヌースレクチャーin福岡vol.12



    (PART−1)

■ヌースレクチャーin福岡の第12回は、まず最終回まで参加してくれた人たちへの感謝を述べ、今日は最後なのでいつもより爆裂するつもりですと言って笑いを誘っいつつスタート。今日はオコツトの交信と共にある意味ヌーソロジーの骨子であるカバラに関するネタバラシでもある。

■オコツトにアクセスしていた初期の頃、3重の十字架のイメージがずっとあった。惑星周期研究家で正当なオカルティストである高橋徹氏に会って間もない頃、初めてカバラーのことを紹介してもらったのだが、その内容とこの3重の十字架とのイメージがその時重なった。

■カバラーは深く広い射程を持って歴史の中で展開してきた秘教的なものであると考えられる。ヌーソロジーの20年と共に、カバラーも並行して捉えながら考えてきた。というか、長いこと惹かれてきたからこそ、このような話をするのである。

■人間の捉えている神や仏と言うものの概念をそろそろ変えようではないか。神託を受けたモーゼ5書の世界をベースに、カバラは様々な賢者が深い洞察を持って、神智学的な体系を構築してきた。この「一神」に対して異議申し立てをしたいのである。

■物質主義的価値観、貨幣一元主義経済など、この別な姿を持って現れている一者的なものに支配されている世界の閉塞感。哲学的な同一化。これらはヤハウェが影で暗躍しているのであり、ヌーソロジーはこれをつき破って新しい人間の世界観・宇宙に出て行こうとする。



■古い神は死んだ。新しい神を我々人間が作る。様々なユダヤ神秘主義は、現在カバラー神秘主義に全て統括されていった。ということで今回のメニューは以下の4パート。実際のところ、カバラはこの大系観察子Ω9〜Ω11の辺りを説いているようだ。

 (1)カバラの成立と「生命の樹」。
 (2)大系観察子Ω9〜Ω11周辺の話。
 (3)大系観察子と生命の樹の対応。
 (4)ルーリアカバラにおける想像と救済。

■「ルーリアカバラ」。ルーリアというのは近代カバラを確立したラビの名前である。ゾハールの書。12〜13世紀のスペイン。このルーリアカバラはヌーソロジーと多くの相似点がある。ルーリアは無から創造された世界ではなく、そこに最初から悪が混じっていたという解釈をしたのである。

■イスラエルという名前は、ヤコブが天使と戦って引き分けた結果貰った別名だからとても神聖なものである。それゆえにアシュケナージが中心となって第2次世界大戦後にその「地上的な」国を作ることに対しては、伝統的なラビたちがこぞって反対した。

■ユダヤ人たちが自分たちのアイデンティティを2000年間保つというのはとてつもなく大変なことだった。ユダヤ民族は歴史の中で生きながらえるために、その時代その時代の価値をどんどん吸収し、考え方を柔軟に修正していった(修正主義)。カバラは最終的に結果として残ったものだが、裏を返せばすべてを合体・凝縮しているとも言える。

■カバラという言葉は「受け取られたもの」もしくは「伝承」という意味だ。元は古代中東から起こった秘教的な思考をアレンジしたもの。カバラの原型となったものは?モーゼの立法が重要。諸宗教の交差衝突の地。古代史の折衷。ヘレニズム。



■生命の樹は別名セフィロトとも呼ばれている。10のセフィラー(ダートも入れると11だが、数には入れない)セフィラーは神の10個の神的な属性。10とは数そのもの。数とは段階的な霊。サファイア。光り輝く玉。セフィロトはその複数。それらをつなぐパスは22。ヘブライ文字の数。合計で32(33)の体系で宇宙の構造を考え表している。

■近代セフィロト理論はクリスチャンカバラ、魔術系カバラ、錬金術などにも派生した。ケテル。アイン…無。アイン・ソフ…神が神を見ること。自分自身を見たいと思って宇宙を創造した。『神が神を見る日』が本来の『人類が神を見る日』のタイトルだったのだが、これではさっぱりわけが分からないので当時はあっさりボツの悲哀(笑)。アイン・ソフ・アウル…無量光。

■セフィロトの世界を4つの世界に分けている。アツィルト界(流出)、ベリアー界(創造)、イェッツラー界(形成)、アッシャー界(活動)。アッシャー界が人間の場。ユダヤ人はここにいると考えている。いずれこの創造を逆に辿り、神に至る。セフィロトの男性原理…コクマー。女性原理…ビナー。

    (PART−2)

■キリスト教では「アダム」はあの最初の人類であるアダムそのものだが、ユダヤ教ではアダムとは人間の霊性そのもののことである。なおヌーソロジーにおける太陽系の惑星の対応は以下のようになっている。冥王星のオコツトは、オメガ11(ヒトの定質)をオメガ12(ヒトの性質)にするために活動していると解釈している。

■Ω1・マルクト・地球。  Ω2・イエソド・月。  Ω3・ホド・水星。  Ω4・ネツァク・金星。  Ω5・ティファレト・太陽。 Ω6・ゲブラー・火星。Ω7・ケセド・木星。  Ω8・ダート・土星。  Ω9・コクマー。Ω10・ビナー・海王星。  Ω11・ケテル△・冥王星。 Ω12・ケテル▽・惑星X。Ω13・アイン・真実の地球。 Ω14・アインソフ・真実の月。



■一神教の神を解体しなくてはならない。神が一番上だという卑屈な捉え方。ルサンチマンがある。そこへ昇って行くことが人間にとって大事であるという考え方。上ることばかりを考えているが、上るということはひっくり返った生命の樹では創造である。

■生命の樹は2本ある。イヴが食べたのは知識の樹の実だが、いくらこれを逆に昇ろうとしても叶わないでいる。追放された人間が楽園に戻れば人間は不死になる。ユダヤ教や神智学的な人たちは分かっていない。共通理解するような知がない。ひっくり返して両方ゲットしなくてはならない。双方向と言う考え方。

■自己と他者は全てが逆になっている。しかしある同一性の中に叩きこまれていて、自己と他者を同一に見るようになっている。自己と他者の対称性をケテルとマルクトの対称性として見る。この対称性を獲得して、この間にあるキアスムをカバラその他の諸思考に注入したいと考えている。エゼキエルは紀元前600年頃創造の神を幻視した時、4つの車輪をみた。メルカバー(マカバー)。4つの双対性。生命の樹を奪回せよ!ということ。

■現在まではノス(中和の力)が先に動いているのでヌース(等化の力)が表に出てこない。ヌースでは赤で表現している動きが先手で、青の動きが見えないのだ。ψ13。13は死を象徴する数。人間はまもなく「死」と呼ぶ領域に入る。最終構成。ψ14はシリコンメインのコンピュータと電脳世界。こちらが先手なので、それをどう用いたらいいのかが見えない。

■もうすぐ今までの赤先手・青後手(無意識)がひっくり返って、青が顕在化を起こす。すると無意識構造が幾何学的な構造として把握できるようになる。人間の意識の外面の顕在化。青が先手を取るようになっていく。そのように裏返った時はもう付帯質の外面とは言わず、内面と呼ぶことになる。



■我々の「魂」などと呼ばれて見えなかったものが、見えるようになってくる。人間の自己側における全体を発見すると、2013年からはまたこれらを等化する運動が起こって来る。顕在化した知識が共有される。そのこと自体では2013年から起こるということだ。

■ψ13までを顕在化させるとヒトと呼ばれる存在になる。人間の内部における意識の分離。ある思考などの何かが抜けて行く。両方を併せ持った者が変換人。世界観を相互了解するようになることが共有。宇宙・時間・人間・死などに対する概念が全く変わる。

■否定的なものを先手としていたものが、肯定的なものを先手とした世界観が出てくる。精神が先手になる。世界が反転している。付帯質の外面というものから、付帯質の内面へとかわっている。人間の時間感覚での6500年。

■精神の内面方向。8まで来たものが交差を起こす。ヒトの思形Ω9と人の感性Ω10。これが一体何をやるかということが、第3枠で語られる。人間の内面と外面はψレベルにおけるコンパスの左半分と右半分に対応する。人間の意識の内面の一部である。

■オコツトは奇数系を全て精神と呼び、偶数系を全てフタイシツと呼んでいる。最終的な混乱を避けるために、現在はいろいろと分かりにくいが変えないようにしている。人間の意識の外面とはほぼ人間の無意識のこととして捉えて置いてかまわない。



    (PART−3)

■オコツトはケイブコンパス上の動きにおいて、上に乗っかって来ること(青)を上次元と表現する。赤が下次元。ここで非常に皮肉なことが起こる。先手となった青は影響を与える。付帯質の内面が逆転する。自らが進化を起こすことによって付帯質の内面を外面に反転させてしまう。ドゥールーズの表現で言えば「神によるダブルバインド」。

■人間の意識の覚醒から人間の意識の時間にして約6500年後、ヒトは次のレベルの精神活動の場所である「精神の内面の方向」へと意識の方向性を向ける。この時生まれる方向性への等化力の流れのことを「ヒトの思形=Ω9」と呼ぶ。時間の方向としては虚時間の中で反転して、6500年前に接続しているということ。これからの未来の話が過去の原因ともなっていく。

■素粒子世界には時間はない。時空から脱出したものであるとも言える。時間と虚時間の双方向を認識できる意識存在においては、現時点で人間を育んでいる外在世界が今から約6500年前に出現したとも言えるし、今から6500年後に出現したとも言えるのだろう。

■ヒトの思形の活動と人間の意識の内面の活動の間に生じている、時間に関する不可解な問題。ヒトが誕生して約6500年経過したところは、人間にとっては約6500年前の世界にもなっているということだ。付帯質の内面の形成が人間の認識している時間の流れを約13000年前まで引き戻す働きを持っていると解釈することができる。

■ということはすなわち今現在は13000年前の世界であるとも言えるし、13000年後の世界であるとも言えることになる。人間の時間認識での13000年周期の永劫回帰が存在することになる。今から起こることはかつて起こったこと。かつて起こったことは今から起こること。ニーチェ風には「存在の輪は永遠に回り続ける」。




■人間の歴史を物証的なものから実証している歴史観が逆転していくものと考えられる。現在の歴史時間やダーウィンの進化論は明らかに間違っているのだが、ニューエイジやニューサイエンス、アカデミズムの哲学などは、このあたりのことを考えも口にしない。また思いついていても周囲や全体の中で明らかにすることを遠慮している。

■ヒトの思形と感性は人間の定質と性質に対して、それぞれが全く逆の方向を向いている。この逆転性がおそらく反定質と反性質という命名の由来になっているのだろう。ヒトの思形⇒反定質の元。ヒトの関係⇒反性質の元とうことだ。

■死は創造空間とつながっている。人間をエロスとして働かせて活動させているのは男性的エネルギーであり、抑圧されて隠れている女性的エネルギーはいまだ顕現していない。ラカン曰く「女は存在しない」。

■正統なイブ。これは通常に言うところのものと同じではない。これが開放されると、女上位になると貪欲・淫乱になるリリス。我々のこと。今の人間のこと。アダムは存在の母に動かされ、イブは存在の父に動かされている。追放になったのは実はリリスであった。イブはリリスの先妻。

■押し進められた調整作用による臨界点のことを「ヒトの最終構成」という。ヒトによる調整はその下部構造(下次元)としての付帯質の外面の世界に直結しているので、結果的にはヒトの最終構成が起こると、必然的に人間の最終構成も起こるということになる。



■Ω9の持つ力の方向性は「精神の内面性への方向性」というが、このことは人間における思形であった次元観察子ψ9の本質がψ13の力にあったように、ヒトの思形であるΩ9の力の本質もまたその裏で暗躍しているψ13の力によって支えられているということを意味する。

    (PART−4)

■カバラの上向きの三角形△と下向きの三角形▽は自己と他者である。世の中で見えないものが一つだけある。自分の顔は見えない。他者の顔は全部見える。その意味において自己と他者において絶対的な違いがある。

■他者の顔は見えるが自分の顔だけが見えないというのが特殊性なのではない。単独者として存在している。そして自分がその中心になっている。しかしその中心が見えない。神は言った。私は私を見るために世界を作った。私自身が見えるようになって初めて真の他者に辿りつくのである。

■他者を作る。自分自身を救うために他者を救う。自分の姿がこのように見えているが、見えている他者はみなΩ11である。姿が見えない自分自身がΩ12。初期化されているから見えない。神から言えば創造の終わりの者である。神からのプレゼンス。贈り物。眼前のもの。

■自分の魂は始まりのものだから、他者からみればそれは逆のΩ11とΩ12である。自分自身にしてみればΩ*11とΩ*12である。人間同士を束ねたものが神の世界。時間の矢を逆転しているのに全く気付かない。自分は絶えず不在としてしか感じ取れない顔。



■カバラ的には神は人間の人格としてしか表現されない。私たちは2つの顔を絶えず見ている。唯の自分の鏡としての他者という見方と、自分がずーっと向こう側に回ってそれを通して自分を見る他者から見た自分とは、萎縮している自分と広がり続ける自分との圧倒的な差がある。

■自我の呪いから、「永遠の汝」としてじゆうであるもの。他者。自我は単独者は終わっている。なぜ人を殺してはいけないのか。他者の顔に「汝殺すなかれ」と書いてあるから…とレビナスは言う。本当の私とは本当のあなたなのである。だから殺してはいけないのだ。他者は未来からやって来る。

■カバラの中にはこのような自己他者観が入っているものと思われる。Ω11は肉体である。人間の内面の意識を作るものは言葉。言葉はPリンで作られているとはオコツトの言葉。リンPはエネルギー代謝の全てを司っている。DNAの端に付いているリン酸。

)個人的注釈:リンPの重要性とヌーソロジー的な諸関係について。
・正12面体と正20面体の辺は30あるが、対性を有しているので方向性としては15である。これは5重対称性の複合立体としてのワールドグリッドの大円の数15とも深く関係している。・28日の暦とも重ねられる基音Cに対する28度上音の振動数は15倍。つまり4オクターブの最初の音と最後の音の振動数比が1:15であるということ。・地球と海王星の表面積比もまた1:15である。・金星の公転周期は15の2乗の225である。・1+2+3+4+5=15。・15⇒3次方陣の定和。

■「有機体」とはオコツトに言わせれば全く位置が見えていないもの。宇宙的な精神が全く生まれていないもの。私たちは物質の生成、には全く関与していない。エントロピーが私たちそのものだから。ネゲントロピーを私たちは持っていない。

■お互いが相手こそが本当の私であると思っている世界。それがΩ13である。自分の肉体を指して「これがオレだもん」と言う者は、自分の顔が見えない。



■ヒトの性質として生きていた人間を全てヒトの定質へと変換していく。惑星Xの出現とはΩ11とΩ12の等化が力を持った時に起こるとオコツトは言う。

■同一性の土台。個物における単一性。全体における単一性。この2つの一を同じものとして見る。個物における単一性…モナス。全体における単一性…ヘナス。全体における1と個物における1。最終構成がおきたのでこれを解体しなくてはならない。

■反転とは個物における1を2つに分離すること。それはこのままではこの宇宙がだめになってしまうと考えた神が、自分を2つに分けたのである。自己と他者が差異を見出した。この差異を作る。ルーリアというラビがこのことを言った。

■コルドベロとルーリア。人の偉大なラビ。コルドベロは人類初の構造主義者とも言われている。ルーリアはチャネリングして接神体験を持っていた。1492年スペインからのユダヤ人の追放という大事件があった。スペインにあったユダヤ教の精神的支柱の危機。ユダヤ教における悪の自覚。カバラに修正を加える。

■ルーリアは悪をカバラに入れてくる。既存の中にはなかった3つの概念。神は悪から退却するために自己収縮を行った。残された空虚の場に新しい創造物を作った。ツィムツーム(=神の自己収縮)。悪はあるのだ。そして満たされているのだが、神の世界にも悪はあったとして納得する。



■シェビーラース・ハ=ケリーム(=器の破壊)。10個のセフィロトの内の6個が消え去った(ダートも入れれば7つ)。上位の3つとマルクトだけが残った。そしてティックーン(=容器の修復)。創造の再発火を起こして、破壊された6つのセフィロトを修復させること。

■これはヌーソロジーと全く同じことを言っている。伝統的なカバラは上から作っていった。しかし下から修復するしかないというのがルーリアカバラ。ヌーソロジーではΩ9とΩ10が出てきた時に、せっかく作り上げてきた7と8の力がひっくり返ってしまう。

■コグマーとビナーの発する光が余りにも強すぎたので、(9が出てきたことによって)真ん中の2〜8までの中心部分のセフィラーを吹き飛ばしてしまった。時空に重なっている神を2つに分けられたものが弁証法的に世界を再構築していく。ヌーソロジーと非常に対応性がある。

■マルクトをケテルと見ることと、ケテルをマルクトとして見ることを同時に成すことで、Ω13とΩ14とも繋がる。ヌーソロジーは宇宙論の体裁を取っているが、自己他者の関係を追求するもの。全ての物質に霊が宿っていなければならない。キリストは1人ではなく2人いなくてはならない。

■最後はなんやかやで話があちこちととび、そしてまとめ上げた後に、「永遠なるパルーシア」を朗読して、12回のレクチャーシリーズをパワフルに次回にも連結させつつ終了。以降は3か月に1回ほどのカフェスタイルでテーマごとにやっていくようである。 


4値くらいがちょうど良い



■日本人的な本源的な2元論的厳格さに対する緩さは、生きていく上には心的ストレスの負荷や現実的折衝の摩擦係数も小さく、実質的にも戦略的にも生き易いものであろう。一神論的宗教観やそこからくる二元論的世界観がタイトな外国との事象的折衝や学問的擦り合わせには向いていないけれど、本質的な日本の論理の緩さは豊かへ続く道筋でもあるだろう。

■人間の物事の瞬時の判断から大系的選択まで、好きか嫌いか、右か左か、賛成か反対か、敵か味方か、犬派か猫派か…などと2値で括れるほど単純なものではないはずだ。2値で見る世界は2値で判ずることができない多重多元性や豊穣さが残るという現実的感覚と良識があるならば、アンケートや日常会話でイエスかノーかの選択肢だけではないはずである。

■つまり「犬が好きか猫が好きか?」の問いの背後には常に「どちらも好き」「どちらも好きではない」という答の想定があるべきで、そのような発想のない問い自体の質を先ず疑い、さらに余裕があるならばおせっかいとしてでも問い正すべきではないだろうか。まあつまりは4値だが、少なくとも「答はとちらでもない」のある3値的選択肢は必要である。



■人間の数感覚は視覚的なものの1つ2つ3つ…や、連続する似たような音の1つ2つ3つ…は、赤と青と黄色の知覚や丸いと四角いの違い同様に、原初的な感覚として誰でも持っている(数量の直覚的な差異判断は後頭頂部位と関係している)。これが指での5まで、そして6を越えて10までの数え上げと記憶に対応させ、位取り表記の10進法にまで進化していく。

■内耳の三半規管の構造や眼球を動かす筋肉の3軸系は、私たちの空間認識の前後・左右・上下方向とも深く関係しているが、数感覚においても1と2だけでなく、少なくとも3、そして時にはその対でもある4くらいまでは直覚できるのだから、二元論をベースにしても良いので、それ自体の自乗(自己言及・自己他者問題)から3値的4値的に染み出してよいのではないか。

■地上に安定して立つためにはテーブルの足は最低でも3本、2次元平面を内と外に分ける多角形で最小のものは3角形、空間認識のありようが3次元…など様々な3の括りと事象として見ている自分の視座そのものはその3よりはみ出した外にあるのだから、3までには括られない。地球の1年が365日ではないが、3.65次元くらいと捉えてもいいのではないか。



■3と4の間あたりから1,2,3を見ている自覚があれば、それを洗練していけば自分自身の位置と視座を確定したところは既に4を越えたところになる。私たちの生命戦略の中には0と1のみの完全なデジタルとは別系統の、数が大きくなるほど曖昧にもなってはいくがアナログも最初からあるのだから、それを有効に組み合わせて用いる方が生き易いだろう。

■まあロジックから入っても仕方がないので、「AかBか?」と問われたら、心の中だけででも先ずは「Cもありかな」と考える余裕を持つところから始めよう。もしくは「AもBも」という欲張り(?)だが正当でもある答と同時に、常に「AでもBでもない」も想定して、これらの4値を複素平面上の虚数累乗のようにでもいいから回転させられたらいいのだけれど。 


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