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  • 2024.01.09 Tuesday
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3.65次元の『竹取物語』



■昔、ある球体世界に竹取の翁がいた。ある日翁は円柱竹林で1本の光り輝く竹を見つけた。斜めに切り開いてみると、中に直径3寸ほどの超球の女の子がいた。翁は球体人なのでそれが自分と同じように球にしか見えなかったが、その小さな女の子を家に連れて帰って育てることにした。かぐや姫と名づけられたその女の子は、3太陰月もしくは1水星公転周期の88日の間に見目麗しき完璧な真球に成長した。

■姫の超球の射影立体はどこから見ても完全球なので大変美しいと評判になった。近隣の者は言うに及ばず、都のやんごとなき者たちも真球と交差相貫して、立体ベシカパイシスを形成したがった。求婚者たる条件は、3次元的にかぐや姫と共振すべく同じ大きさの球体でなければならなかった。かぐや姫は応じることを望まなかったが、候補者は若く力強い6人と、知があり優れた6人の全部で12人だった。

■かぐや姫を真ん中にして、最大6個の同型同大の球体が望む真球に接することができる。若く力強い6人がすかさずかぐや姫を取り囲んだ。2次元的な最密パッキングである。しかしあぶれてしまった残る6人は知恵と情念を働かせて、3次元的にはさらに上から3球体、下からも3球体がかぐや姫球体に接する余地があることを見出して接球した。3次元空間における最密パッキングは1姫12太郎である。



■その1つの球体に最密パッキングされた同じ大きさの生命球体の重心をつなぐとベクトル平衡体になる。12方向から同じベクトルで求愛して拮抗する球体たちに対して、かぐや姫は「ある立方体のちょうど2倍の立方体を求めよ」とか「1つの角を3等分せよ」などの12個の解決不可能な幾何学的問題を出して、その解を探して来てほしいと言った。12人の球体はそれぞれの解を求めて全国に散っていった。

■かぐや姫の美しさは京の都におわします帝の耳にも入っていた。ある日お忍びで牛車に乗ってかぐや姫に会いに行き、生命が半ば共振した帝はぜひ同行せよとのたもうた。しかし姫は自分はこの世界に属する者ではないので同行は適わないと断った。帝はこの世界と上次元をつなぐ重心点の役目にあるので、かぐや姫とどこか響き合う部分を感じ、和歌のやりとりで心通わすことを約束して都に戻ることにした。

■そうこうしているうちに、かぐや姫は塞ぎ込み、月を見ては嘆息をつくようになった。かぐや姫は自分が単なる球体ではなく超球であり、そしてもうすぐ上次元から自分に迎えが来ることを思い出したのである。翁たちはうろたえ嘆き、なんとか地上に残るようあれこれと懇願した。都の帝はその話を聞いて、姫に与えられた問題の解を求めてさまよう者たちを召還し、12使徒として姫を守護せよと命じた。



■かぐや姫がこの世界に出現してから10000と780日が経った。月はこの間に365回朔望して、太陽との位置の次元交換が成された。さてその最後の夜、満月の夜空が静かにめくれあがり次元貫門が開いた。そこから顕れた月の使者たちは、かぐや姫を取り囲む12の球体に光の触手を伸ばした。しかしそれがばちっと弾かれた時、12使徒は自分たちを外側からぴったり接しつつ包み込む球体があることを知った。

■それは12球体全てと接する外接球で、中心にして13番目の球体でもあるかぐや姫が、光の触手によって彼らがひねり潰されないようにと自らを分身的に面点変換した14番目の球体だった。しかしそれはまた内部に隠されていたかぐや姫が無防備なまま外部にも出たということでもある。光の触手は優しくこの球体を包み込んで転がした。すると外接球のかぐや姫は中心球と共に瞬時に異次元に転送された。

■12の頂点としてかぐや姫を取り囲んでいた彼らは、その時初めて、かぐや姫が中心側で自分たち全てと接していながら、外接球として外側からも接している超球だったことを知ったのだ。彼らは自らの球状形態を保ちつつ、13の反転数であるπの3乗回、すなわち31回自転した時、自分たちが14の面を持つベクトル平衡体だったことに気づいた。3次元球体の彼らの意識が、3.65次元に立ち上がった瞬間である。



■1と2のループが3を見出した時、同時に発生する4も束ねて4値論理を構築するならば、5イコール新たなる1と見るペンターブシステムが完成する。同様に1と2からなる12もまた、13と14を見出した時、それは新たなる1かつ10となるべく15に還っていくことになる。1であり13かつ14でもあるかぐや姫は十五夜姿を呈する月へと還って行った。12球体の真ん中にはぽっかりと虚空の穴が空いた。

■12個の球体は3次元空間を満たすために、それぞれすこしずつ位置をずらして中心の空間を埋めた。そして最終的にその12個の球体たちは、それぞれみな他の5個の球体と接する安定した位置に落ち着いた。その重心をつなぐと正20面体になっていることを帝は知った。その黄金比の塊でもある31の回転対称軸を持つ立体の形状を、転写描出したみそひと文字の和歌には無限の生命エネルギーの元があった。

■ベクトル平衡体の回転対称軸は25である。5つのプラトン立体であり、日本語の5母音とペンタグラムを形成する。ペンタープシステムの5の2乗の25である。ベクトル平衡体の面・点・線の総数は50。プラトン立体の面の総和は50、点の総和も50。足して完全なる100。50音図を形成する日本語。それだけでは発音できない撥音(っ)と長音(―)を除いた日本語の音素は100。これらが瞬時に確定した。



■12の点、20の面。正12面体と双対関係にある正20面体の回転対称軸の数は31。正6面体と正8面体の回転対称軸13本が反転した31本。正12面体と正20面体の線数は30本。この線心をつなぐ回転対称軸の数15は、惑星グリッドから15本の大円として残った。この152が金星の公転周期225日に定まり、さらにφが交差して1年365日となり、月はこの間に20/φ回(12.369)朔望するようになった。

■次元をつなぐ大役をこなし続ける帝に対してかぐやは、その立体形状の本質概念を不老不死の妙薬媒体としてφを残していた。しかし帝はもはやかぐや姫が存在しないこの世界で、個人として不老不死であることは無意味であるとして、霊峰富士の山頂に二元論を超越すべく而二不二神社を建てて祭った。そこから今でもフィボナッチ数列の第1項と第2項の1として世界中に溢れ出ているといわれている。

■なおこの時以降、帝は自らを3.65次元に置いて3次元と4次元をフラクタルにつないでいるので、1年365日が確定した。また正20面体へと変形してしまった12人の求婚者たちは、各個体に戻るために面点変換して正12面体となったので、1年は12ヵ月になったといわれている。またかぐや姫が最初に3寸だったのは、月・地球・太陽の3体間の各距離を1寸に落とし込んで納めたからだという話である。

■前次元と次次元のあわいに存在する私たちは、この球形世界の射影であるとも、未だに帝の3.65次元の球体内に残っているとも言われている。しかし物語とはいわゆる物に語られる話である。物の中心のさらに深奥に在る所に目を向けるよう、物の語りに耳を傾ける習慣を、我々はもう少し取り戻さなければならないのかも知れない。
 


今見えるもの、今見える数



■早朝の雷鳴爆裂と豪雨落弾に猫2匹、尻尾膨らませてビビリまくり。雨後の朝の涼やかさの中、久しぶりに近所のスタバに来とるなり。やはり空間を変えると自らの空間も能動可変であることを想起する。ミニマムなので、容量が頭の中が1,2,3,4でいっぱい。5を超えて10まで遠いなあ…。

■1つの正3角形の上に3を見るという表現をした場合、その3は3つの角なのか、3つの辺なのか、3つの点なのか?全部で9の要素とその内部全体も1と見ると、ここに既に10の要素があるではないか。しかし靴下1セットとその片方が2つをどう区別するか?合わせて3は間違いでないか?

■10進法的世界観では、どうしても1,2,3,4の背後に9,8,7,6が反転してへばりついており、しかも同時に6,7,8,9もそこにあるのだ。反転対称か反転並進か…ではなく両方が。太陽系惑星の4つの地球型惑星と4つの木星型惑星を両手にどうプロットするかの問題の差異に似て。



■やはりキモは5だ。そしてその表裏が正4面体の虚実をケプラーの星型8面体としてこの実空間に対称性を置き換えて引っ張り出したように、この5の表裏を星型8面体のように自然数の数列に現れたのが10。ダジャレ的に言えば「互」が倍になって「重」。で「何時(いつ)?」「既(とう)に」。

■5と10は高次の2と3だ。1ではない。接球を介した連続体積比列で基本の1が正8面体であり、内惑星10進法でも基本の1は惑星ではなく月であるように。そして多面体の体積比列での5はベクトル平衡体、内惑星10進法での5は水星と金星の会合周期に当たる。2つのベクトル平衡体、2つの月。

■この1の内外である実1と虚1を2重の1として実数空間に引っ張り出そうとしたものが、フィボナッチ数列である。一歩進んで初項を2、第2項を1としたリュカ数列がそれを裏打ちしている。初項を1、第2項を5とした数列はより高次であり、これを表裏2倍にしたものがフュンク・ウレの数列だ。



■1である自らが知る者と知られる者との複合体である2になったがゆえに、他者は4の余地を残しつつ2から3に退縮した。2つの目、2つの耳、2つの脳の絶妙なあわいに3がある。一意で目の前の視覚(□)世界にはそれはなく、自らが参画(△)することにより5(正5角形)に至る。

■数は先ず何よりもそれを数える者の意識の中にある。笑わせるための駄洒落でなく、言葉がないがゆえに表現代行として用いる駄洒落は苦しいけれど、5を知ろうとするに「吾」は5と0に見立てる50ほどに遠い。「伍」で2×5=10とするか、「悟」で10角に数えるかなりして、未私なる他者へ。

■ああいかん、普通の人的には脳内変態の言質なり。妄想ですからね、妄想だけ。孟宗竹(←ダサ!)。4から5へ道は茫洋としており、5から6への道ははるかに遠い。しかしゼノンのパラドクスのように絶対に到達できないものではない。10進法への遥かな道。そして12と13への…。行くべし。 


計算や証明する前に先ずは楽しく数えよう



■数学者や哲学者でなくても数を語ることはできる。数学の認識論と存在論に関する「形式主義」「直観主義」「論理主義」を知らなくても、数を数えることはできる。「1」という数を証明するために27もの定義を用いて論を展開してもまだ完全ではないとするような「数論」や「数理哲学」の領域に、深くは足を踏み込まなくてもとも大丈夫だ。高等算術や数学を用い、て複雑な計算や難解な証明をするために莫大なエネルギーを用いる必要もない。

■ただ単に数を数えると言うことは、現代の人間として気がつけば既にそれは自然に出来ている。私たちは先験的に1〜5くらいまでは自然に認識できるカタチをしている。片手の上の5を両手に合わせれば10。人間として普通に生活するのに足るこの10進法の10、もしくは片手の親指以外の4本の指の節の数の12、1ダースとして括られる12までの数を元にして、そこから順次数を数える仕方そのものの数を増やして行けば世界はどんどん広がって行く。

■声に出すことで言葉に命を吹き込むように、数えることで数に精神を注ぎ込むことは可能ではなかろうか。そして今度は数え上げた数同士を比べてみる。言葉重ねや駄洒落というものは、その研究者よりも芸人さんの方が達者だし面白い。ただ単に同じ言葉を重ねるベタな親父ギャグのようにではなく、微妙な差異のある数同士の相似性や、異なるジャンルにある数同士の関係が比で見ると同じ構造に見えるものなどを、興味の赴くままに見ていきたい。



■あとはその「数を数える」ということをいかに楽しみ、そこにどれだけ美しさや驚きを見出せるかが問題になるだろう。その数そのものの美しさではなく表現の形の方を美しく繕い飾ろうとしたり、難解に提示することで自分の理解をひけらかそうとしたりしがちな我欲を自戒しつつ、他者と共有する時の負荷は少なく面白さは多く、「しっかり数を数える」ということが「真正に生きる」ということと重なり行くような道を模索していきたいものだ。

■記憶を全く喪失してしまったとしても言葉を話す能力は残されている人のように、真の数の存在や意味を失念してしまっているとは言え、それでも数を数える能力はちゃんと残っている。だから語る言葉を真剣に用いようとすることで記憶が蘇ることがあるように、数をしっかり数えることで人類がどのように数を獲得してきたかを思い出し、また一個人として生まれてから、数を数えることをいかに体得してきたかを想起することができるかもしれない。

■全く別のこととして捉えてきた異なるジャンルの間に自分なりの相似形を見ることによって、なぜ似ているのかとそこに推理を働かす楽しみも生じてくるかも知れない。混乱を生む安直で強引な結び付けを自戒しつつ丁寧に数え上げることは思いがけない美しさや喜びをもたらすこともある。そしてその数の面白さを知識として記憶するのではなく、個々人が自力で発見したものを、すり合わせ共有しあうことの豊かさの元となれば望外の喜びである。



■それでも時にはそこに他者とは異なる見解や感覚を見いだすことがあるに違いない。それは決して単なる混乱やひとりよがりだけではなく、他者ではないほかならぬ自分自身としての個々人で異なる意味を見出す元なのかも知れない。自分が何者でなぜここにいるのかを思い出すことに繋がるような問題を含んでいるかも知れないのである。まずは自分なりの驚きや美しさを発見しながら楽しく数えること。そして考え始めるのである…「数とは何か」と。 


1,2,3,4の諸和を無限大まで伸ばす



■1,2,3,4をそのまま足すと1+2+3+4=10となる。10進法と重なるので居心地が良い。ギリシア人が言うテトラクティスというやつだ。このようにどんどん数をっ満たして行く数を日本語では「3角数」と言う。古い言葉では「俵積み数」とも言う。音階で言う振動数比が1:2、2:3、3:4の比であるオクターブ、5度、4度の関係が、そのまま数として目に見えるので分かり易い。ではこの自然数をどこまでも足し続けていくとどうなるだろう?

     1+2+3+4=10
     1+2+3+4… →∞

■無限大という言葉も概念も知らない子供ならば、この「∞」の記号が数であるか否かなどという疑問も持たないが、大人であれば、数学的な定義ではなくても、この印のおおよその意味は分かるだろう。もちろん「∞」は数ではない。「→∞」と書いて、「無限大に向かう」と言い表す。ものごとには何事にも逆がある。1,2,3,4…に対して1/1+1/2+1/3+1/4…を逆数という。ではこの逆数をどこまでも足し続けていくとどうなるだろう?

     1/1+1/2+1/3+1/4=25/12
     1/1+1/2+1/3+1/4…  →∞

■これもまたやはり無限大に向かう。それでは次に細胞分裂のように倍々になる数を考えよう。細胞分裂は無限に繰り返しはしないが、話の展開上際限なしと考えればこれら「1,2,4,8,…」の総和もまた無限大に向かう。ではここでこの数列の逆数の総和はどうであろう?これは「1/1+1/2+1/4+1/8…」と表現されるが、倍々は2の累乗だから「1/2^0+1/2^1+1/2^2+1/2^3…」と書いても同じことである。これは2に収束する。

     1+2+4+8=15
     1+2+4+8… →∞
     1/1+1/2+1/4+1/8… →2
     1/2^0+1/2^1+1/2^2+1/2^3… →2



■さてでは1+(1×2)+(1×2×3)+(1×2×3×4)を考えてみよう。答は1+2+6+24=33となる。これは1!+2!+3!+4!=33とも表すことができる。この<!>(イクスクラメーションマーク)は「階乗」を表す。かつて漫画家の大島弓子はこの感嘆符を作品の中で「ビックラゲーションマーク」と呼んでいたことがあったが、実際にn!でn が大きくなるにつれて驚くほど大きな数になるので<!>が階乗に使われるようになったらしい。

■この「1!+2!+3!+4!…」も限りなく加算していけば無限大に向かうことはすぐに予測できよう。それではこの数列の逆数の総和を考えてみよう。この「1/1!+1/2!+1/3!+1/4!…」もまた無限大に向かうのだろうか?実はこれは1.718281828459045235360287471352…に収束する。これに1もしくは1/0!を加えると、驚くことに2.718281828…つまり自然対数の底、もしくはeとして表されるネイピア数となるのである。

     1!+2!+3!+4!=33
     1!+2!+3!+4!… →∞
     1/1!+1/2!+1/3!+1/4!… →e
             (e=2.718281828459045235360287471352…)

■もう少しだけ足を先に運んで、それぞれの2乗の和を考えてみよう。これはいわゆるピラミッド数だが、1^2+2^2+3^2+4^2は1+4+9+16=30となる。これもどこまでも足し続けると、もちろん無限大に向かうだろう。それではこの逆数の総和を考えてみよう。この1/1^2+1/2^2+1/3^2+1/4^2…が驚くべきことにπ^2/6(=1.644934-67…)に収束する。このことを最初に証明したのは、あの天才レオンハルト・オイラーだった。

     1^2+2^2+3^2+4^2=30
     1/1^2+1/2^2+1/3^2+1/4^2… →π^2/6



■整数をただ少しずつ操作しながどこまでも加算していくだけで、ネイピア数eや円周率πが出現するということは、級数というものも含め実に不思議である。それだからこそその最初である1,2,3,4…という数のしっかりした定義とその証明を新しく確立確定していかなくてはならないのである。


古い数の世界を背景に新しい数の世界へ



■数を数え上げるという能力は、社会の中で育たなければ獲得できない。しかし人間や霊長類に限らず、動物や鳥などもまた1,2,3…くらいまでのものなら、ぱっと見で直覚的に捉えられるようだ。つまり生物として2つと3つの違いは例えば赤と青のように知覚段階で分別していると考えられる。しかし諸研究を持ち出すまでもなく、カラスや犬猫や猿なども、5と6の区別はなかなかつきにくいらしい。

■人間の数の世界においては、大人の数学でも0と1はπやeのように特別な数として別枠で括られることが多いが、数の認識の発達段階としても、数そのものの構造に照らし合わせても、2という数もまたかなり特別である。極端な話、数に対してただならぬ愛着を持つと3も4も5も6も…と全ての数が特別なものであるという視座にまで横滑りすることもあり得るが、それでは話が始まらないまま終わってしまうだろう。

■ということで、「1,2,3,4…5イコール新しい1」という表現で括った話を見ていきたい。「1と2という数は数が認識された時点で、種としての人間にア・プリオリに内在していたことが分かる」とただ言い放ってみたところで概念的な話なので、現場としてのリアリティがない。種としての人間の数の獲得と重なる部分が少なくないであろう個人の数認識とも合わせ見ることはそれなりに意味があるに違いない。



■小学校の現場で1年生に数概念の指導をする場合、まず最初に教えるのは「3」だそうだ。まず「3」から指導して、「1」「2」と教えるらしい。もちろん大きい数としては「10」まで、1,2,3,4,5,6,7,8,9、10という数詞と概念はほとんどの子が既に知っているので一気に数え上げていくのだが、その過程で3つのリンゴと4つのみかんで7つなどという、概念と実際のものとの対応関係も示して行くことになっているようだ。

■古い数の世界とは、ア・プリオリに私たちが体得したと捉えて普通に用いている数の世界のことだ。これに対して数学的な数のほとんどは、新しく獲得していく数理精神を持っている。「古い数」と「新しい数」という表現の違いとは何か?それをきちんと表現するためには、そのどちらの見方からも自由な視座に立たなくてはならないので明言はできないが,数そのものは変わらずに、私たちの数に対する扱いかたや捉え方が根本的に変わるということだろう。

■現代数学の最先端をいきなり提示されても、どうリアクションしていいものか困惑してしまう。数学的素養がある者はそれでいいけれど、何が分からないのか分からないほど全体も部分も分からない者は、ただただ狼狽するしかない。相手に過大な負荷を与えるコミュニケーションは極力避けて、シンプルなものごとを組み合わせ、より広い世界を見ようとするところから始める気概があるならば、まずは言葉と概念をそれなりに接近させる必要があるだろう。 


1,2,3,4の回転、1,2,3,4の累乗和



■メトン周期を4倍して1日引いた「カリポス周期」(76太陽年=940朔望月=27759日)や、これをさらに4倍して1日引いた「ヒッパルコス周期」(304年太陽年=3760月=111035日)もまた、4サイクルをさらにひとくくりにすることでより正確な数値にしようとしている。プラトン周期もしくは惑星歳差運動周期に近いマヤ的な26000年の大周期。これもまた4つ分をひとつにした104000年のフナブ・ク・インターバルという大きな括りもある。

■面点変換により、次元を圧縮するという捉え方を考えてみたい。点・線・面の0,1,2次元を1つずらして自然数の1,2,3とし、この3を支点にして面点変換するように3,4,5へと回転すると捉えることができる。同様にして4回この操作を繰り返すことで1〜9までの1桁の自然数が出そろう。この面点変換に対応する3,5,7が奇数であり、3繋がりの真ん中の数が2,4,6,8と偶数になるのは自明のようだが改めて知る。

     1,2,3
         3,4,5
             5,6,7、
                 7,8,9


                                        画像はユニクロから

■改めてこの4つの回転もしくは面点変換の中心を見ると、1〜9の真ん中でもある5だ。面倒臭がらずにこの5を中心に左側(小さい方)にある1,2,3,4と右側にある6,7,8,9の数的関係を見てみることにしよう。まずは左右4つの数の和は左側が10、右側が30となる。またそれぞれの2乗数の和は、左側が30、右側が230である。右側の4数の和30は、左側の4数の2乗の和30に等しい。また左側の4数の2乗の和はこれに200を足した230だ。

     1+2+3+4=10             6+7+8+9=30
     1^2+2^2+3^2+4^2        6^2+7^2+8^2+9^2=230=200+30

■さらに左辺の3乗の和は100。そして右辺の3乗の和は1800だ。また左辺の4乗の和は354。そして右辺の4乗の和は14354である。左辺の354は月の12朔望周期日でもあるが、右辺はこれに14000を足した14354である。数の累乗も5までて一応打ち止めにするとして、左辺の5乗の和は1300であり、右辺の5乗の和は116400である。

     1^3+2^3+3^3+4^3=100       6^3+7^3+8^3+9^3=1800
     1^4+2^4+3^4+4^4=354       6^4+7^4+8^4+9^4=14354
     1^5+2^5+3^5+4^5=1300      6^5+7^5+8^5+9^5=116400 


ボード上にはみ出した脳内メモ



■先日訪問してくれたkohsen氏が、DVD上映会のスクリーン代わりにと導入していた当家のホワイトボードを見て言った。「ここに色々書きこみながら考えると、結構考えが広がるよ。」「あー、そういえば映画や写真とかで見る科学者や数学者の背景に映っている黒板には、難しげな数式や記号がぴっちり書いてあったりするな」と答えてみた私。後日、頭の中で思いついたものを転がしながら、ボードにマーカーでメモ代わりに順次書きこんでみた。

■その後その書き込み群の中から、最近のマイブームである「原初的な数の発生と再発見」の「1,2,3,4辺り」の考察や閃きに関係する部分をまとめつないで、プチメモとして幾つかのブログや短文にしてまとめてみた。そして用済みになった部分は消去したので、直接関係のない思いつきやメモが結果的にボード上にパッチワークのようにバラバラに残った。普段なら「御拾遺集」としてまとめてブログの開いた日付に差し込んでおく程度の内容だ。

■さしてエッジの効いた文面でもなければ、ノートやPCにメモって脳内発酵を待つほどの内容でもないので、ホワイトボード上を真っ白にすべく、一気にザクザク消そうと白板消しを手に取ったのだが、その時ふと思いだした。そういえばkohsen氏が何か言っていたな。書きなぐりをこのまま放って置けば、また目に付いた時ひょっとして他の思考と化学反応を起こすかも知れない。「よし、何事も実験だ」と思い直して、書きなぐったままにしておいた。



■そして翌々日の早朝、何のことはない、書き残したままにしたことすらも忘れて、福岡で行われるkohsen氏のヌースレクチャー(第13回)その他に参加するために新幹線に飛び乗って旅立った。福岡での2日目の午後、愚妻よりメールがあった。家庭教師でホワイトボードを使うので、中央の書き込みを消しても良いかとの打診メールだった。御丁寧にデジカメで画像に保存しておくからと添付ファイルまで付けてある。もちろん全消去OKである。

■さて福岡からの帰路に福山のS氏のお宅に一泊お世話になり、さらに翌日はSさんが福山でも一番お気に入りの場所だという仙酔島観光に1日付き合ってくれたりして、帰宅したのは午後も9時近くだった。家に入ってホワイトボードを見ると、真ん中に書きなぐってあった文字だけはや消されていたが、左隅や上に書き込んだ文字列はそのまま消されないで残っていた。後で愚妻曰く、「若き双子の青年たち()は、その走り書きをしっかり見ていたよ。」

              ()上画像の双子の姪っ子たちとはまた別の、愚妻のかつての級友の双子の息子たちである。

■「『未知を愛する』とは何よりもまず未知なるもの事に対して極力否定的態度や過去の何かと安易に結びつける癖を抑え、意識できる範囲で自ら受容的かつ好意的であろうとする態度を持つことから始まる。」これを2人して声に出して読んでから、「うん、言えてるよなあ」と口にしたとか。私は「パンツの尻に穴が空いていたよ」と言われ、その時さらに裏返しにはいていたことにも気づいてしまったような、回復不可能な妙に恥かしい気分だった。



■「宇宙には太陽系しか存在しない。」とか「素粒子世界の構造は人間の精神構造そのものである」とか、かなりぶっ飛んだフレーズならいざ知らず、「果汁100%のジュース各社の酵母発酵比較実験」とか、「鉢植えしたミカンの木の葉が夏枯れしている理由をネットで調べよ」とか、「烈氏、11月下旬、西進作戦発動か?」などのメモは、自意識のタガを外せば何のことはないのだけれど、テレパシストに脳内を読み取られたかのようでちょい恥かしい。

■そしてその横の「マルクスの『資本論』第1巻」というメモを見て、双子は即座に「無理ーっ」と言ったとか。これは資本論の冒頭部分だけを読み、「エンゲルスとレーニンによって間違った唯物論者のイメージにねじまげられたマルクスの本意を読みとり、そこからコタロー氏とkohsen氏が話題にしていた、詩人河村悟氏が語る『霊的唯物論』を見いだしてみるべし」という意味なのだが、そんなことは知られる由もなくスゲーッとか思われたらしく…。

■今度旅行をする時は、ちゃんとホワイトボードを消して行こう。そして考えていることをボードに書く時は、省略せずにしっかり書こう。…いやいや、そんなことに気を使ってもしょうがない。それより頭の中のホワイトボードを充実させることにせねばなるまいぞ。


福山で途中下車して鞆の浦と仙酔島へ



■ヌースレクチャー翌日のSさんの「数学教室」終了後、S氏とkohsen氏の打ち合わせに同席。S氏は数学をもっと子供たちに親しんでもらいたいために、今度本を出すのだそうだ。原稿もほぼ出来上がっており、出版社とも話ができている。しかし何より驚きなのは、本編部分が40ページという全体構成の潔さだ。40ページといえば普通のノートほどの厚さしかない。それなのにハードカバー前後からサンドイッチするという画期的デザイン。乞うご期待である。

■今回もどこかの温泉に1泊ほど引っかかってから帰ろうと考えていた。しかしいつも通り密度の濃い2日を過ごした後は、体力も残り少ないので、今回も新幹線で真っ直ぐ名古屋に戻ることにしようと思いつつ、中国地方の通り道にある温泉ならどうにかなるかもと思っていたら、kohsen氏が「ならSさんとこに行けばいいんじゃない?」と言った。Sさんも即座に「あ、いいですよ」と言うので、福山途中下車の旅に即決した。未知なる地、福山である。

■切符を買って初めて、福山が名古屋と博多のほぼ真ん中あたりにあることに気付いた。視覚や聴覚のように、記憶の中の地図の距離感も、自分の生活圏から離れるに従って、実際の距離間隔ではなく対数的に圧縮されていることが良く分かる。しかもその圧縮比は全く持って不均一。まあもっとも記憶の中の距離感の方が、個人の意識の中では実際の距離間隔であるとも言えるのだが。車内でひと眠りした後、S氏と共に新幹線で福山に降り立つ。



■ホームに降り立つと、すぐ目の前にどんと城がある。福山城だった。こんなに間近に城があったとは。地図を見ればすぐ分かるはずなのに、地図すら見ていなかった。いつも新幹線では3人掛けの窓側の席に座るので、行きも帰りも東京に向かって右側の景色しか見ていなかったということが良く分かった。取りあえず福山駅前にあるニューキャッスルホテルの「鞆の浦」という和食レストランで夕食を頂くことに。この時はまだトモノウラと読めなかった。

■NHKの連続ドラマ『龍馬伝』で龍馬を福山雅治が演じているから、同じ名前の福山市がやたら龍馬を取り上げているのかと思いつつ後でS氏に尋ねてみたら、鞆の浦は瀬戸内海のほぼ真ん中に位置しており、異なる水塊の境界つまり境目に辺るのがあり、漁獲が豊かなだけでなく、昔から潮待ちの港として交通の要所だったとのこと。そしてこの『龍馬伝』でも重要な舞台となっていたらしい。福山の被りは偶然だとのこと。知らないということは恥かしい。

■さて改めて在来線に乗り、隣の東福山からはSさんの車で家に向かう。ほぼ真っ暗な中で到着した家は実に大きく広いようだ。ヌースのこと、数学の本のこと、食事のことなどいろいろ話してから眠りに就く。翌朝は6時半にSさんと共に、いつもの山道コースを散歩してみた。昨夜は真っ暗な中で到着したので、周囲に人家も何もない山奥かもと思っていたが、歩いてみるとずいぶん沢山の家があった。家に戻って、S氏の父上母上と共に朝食を頂いた。



■「お食事は?」と尋ねられたので、軽い気持ちで「あ、ではちょこっとだけ頂きます」と答えたのだが、いざ食卓に着くと、お皿の上には母上渾身のおかずが満載である。たわいのない話をしながら食べていたら、気がつけばおかわりして超満腹状態だった。厚かましくも無遠慮だった自分に恥じ入る隙も与えないホスピタリティと御馳走でした。いや、本当に御馳走様でした。食が細いSさんは食べると消化するために眠るので、お昼まで互いに休息タイム。

■お昼を回ってからS氏の運転で、龍馬伝でブレイクしつつあるという鞆の浦へ向かった。この地名を3回ほど聞いてようやく鞆を「とも」と読めるようになった。後で調べると、鞆とは弓を射る時に左手首の内側に装着して、弓の弦が腕や釧(くしろ…ひじまき)に当たるのを防ぐ道具だった。なお「鞆」という字は国字だ。万葉集には大伴旅人の「鞆の浦の礒のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも」など、当地を詠んだ歌が8首残されている。

■さて船着き場から船で向かいの島に渡る。この仙酔島、実は島全体が今日び流行りのパワースポットらしい。わずかでも海を隔てた島に渡ると、やはり何か心の中で反転するものがあるのだろう。桟橋に降り立つと、頭の中はもう少し南国モードだ。坂道だが舗装されている山道を、ゆるゆると歩いて島の一部を巡ってみる。ゆったり時間があれば、誰もいない海岸などでぼーっと数時間過ごしてみたいスロータイム and プレースである。



■心地よい風に煽られながら歩いた後は、船着き場の近くにある「ここから」というホテルに付属している、S氏お勧めの「江戸風呂」という洞窟蒸し風呂に入ってみた。それぞれ海藻・よもぎ・びわの葉を敷き詰めてある3つの天然のサウナは、毎朝3時から焚きあげた松の薪の余熱でデドックス効果があるという。それぞれの間にシャワーや母親の胎内風呂などを巡るのだが、世界最大の露天風呂にはやられた。案内通り行くとそこは海そのものだった。

■ゆっくり汗を流してふらふらになりながらホテル内のロッカーに戻って、そこにある展望風呂に入って仕上げである。窓ガラスの外には瀬戸内海の明媚な景色だ。ロケーションとデドックスというコンセプトからすれば、温泉ではないけれどさほど問題ではない満足度である。その感覚を持ったまま船で鞆の浦に戻る。船上から陸地を見ると平地がほとんどない。いかに切り立った山からそのまま海になっているかがより分かる。

■なおこの日は残念ながら、潮が満潮で遊歩道がザブンザブン洗われていたので断念したのだが、次回も行く機会があるならば、次はぜひ五色岩というものを見てみたいものだ。話では特にパワーが込められているということだが、日本で唯一ここにしかないそうなので、全くの空話ではないだろう。これも後でしったのだが、鞆の浦には放射能泉が湧いており、陸地側のホテルに湯給しているとのこと。こちらもぜひリトライしなくてはなるまい。



■福山駅まで車で送ってもらい、至れり尽くせりの福山途中下車に一応ピリオドを打って新幹線に乗り込んだ。何はともあれ、ほぼ白紙状態だった福山に関しては、様々な記憶が刻み込まれた。知らないということを知らないのは恥かしいことですらない。ただその未知が眼前に出現した時、それを慈しみつつ味わえるか否かはとても重要だろう。学業にしても、人との交流にしても、過去と未来を滑らかにつなぐ今という未知。愛すべきは未知である。

■それにしてもSさんと、そして御両親には本当にお世話になった。改めて心から感謝いたします。ところでSさんはほとんど食べないでも平気だと言うので、特に食べ物のことについては面白くレアな話ができる。普通の不食の人は(いやこの時点ですでに普通ではないが)水とか光とかはそこそこ必要としている。しかし彼はそれすらなくても平気だと言う。おかしいのは彼か、世界の方なのか?…このことに対しては、また改めて言及してみたいものだ。
 


フュンク・ウレ数列の補足





■フュンク・ウレの数列は初期設定の2項である初項と第2項も数に入れたままの通常の項数で言えば、第12項が1000であり、その前後方向に対の形でφと1/φの累乗の1000倍の近似値となっていた。第12項を対称界面として自らを2重に捉えて和し、以降、第13項と第11項の差、第14項と第10項の和、第15項と第9項の差…と和と差を交互に見て行くと以下のようになる。なお第24項以降と第0項お及び負の項数を想定してさらに先まで数値を求めることができる。

第12項+第12項=1000+1000=2000
第13項−第11項=1618−618 =1000
第14項+第10項=2618+382 =3000
第15項−第9項=4236−236 =4000
第16項+第8項=6854+146 =7000
第17項−第7項=11090−90 =11000
第18項+第6項=17944+56 =18000
第19項−第5項=29034−34 =29000
第20項+第4項=46978+22 =47000
第21項−第3項=76012−12 =76000
第22項+第2項=122990+10=123000
第23項−第1項=199002−2=199000
---------------------------------
第24項+第0項=321992+8=  322000
第25項−第-1項=520994-(-6)=521000
第26項+第-2項=842986+14=  843000
第27項−第-3項=1363980-(-20)=1364000
第28項+第-4項=2206966+34= 2207000
第27項−第-5項=3570946-(-54)=3571000
   (以下略)

■また黄金比φとその逆数1/φのn乗を同様に足したり引いたりする値は以下のようになる。これはもちろん上述のフュンク・ウレ数列の第12項を中心として前後方向に延びるそれぞれの項同士の和及び差の1/1000の値である。またこの数列は初項2第2項1のフィボナッチ数列と同じ文法を持つ「リュカ数」も数列である。それぞれ12項の和及び差の値を超えて、さらに先にもその形を伸ばして数値を求められることを、さらに先まで示してある。

φ^0+1/φ^0=2 (=1+1)
φ^1−1/φ^1=1 (=φ−1/φ)
φ^2+1/φ^2=3
φ^3−1/φ^3=4
φ^4+1/φ^4=7
φ^5−1/φ^5=11
φ^6+1/φ^6=18
φ^7−1/φ^7=29
φ^8+1/φ^8=47
φ^9−1/φ^9=76
φ^10+1/φ^10=123
φ^11−1/φ^11=199
----------------------
φ^12+1/φ^12=322
φ^13−1/φ^13=521
φ^14+1/φ^14=843
φ^15−1/φ^15=1364
φ^16+1/φ^16=2207
φ^17−1/φ^17=3571
   (以下略)

■前回はフィボナッチ数列の初項と第2項を別枠としてここに自己他者問題を見たが、このフュンク・ウレ数列の第12項を反転界面とした対の値、及び黄金比φとその逆数の対もまたひとつの自己他者問題のように捉えることができるかもしれない。 


フィボナッチ数列と自己他者問題



■「全体として未だ不二なる全一から、認識するものとされるもの、もしくは全体の部分と全体の残りの部分という分割・分別が生じて、1と2という数的認識が同時に生じた」という捉え方ははたして正しいのだろうか。いやそれを1つの可能性として認めることはできるが、そのほかにもいろいろな数認識の初期のプロセスは有り得たに違いない。ただ1つ決定的に言えることは、全一としての1と個別なる部分の1とは決定的に異なるものであるということだ。

■さてもう言い尽くされているが、フィボナッチは「1つがいの兎は、産まれて2か月後から毎月1つがいずつの兎を産む。1つがいの兎は1年の間に何つがいの兎になるか?」という問題を提示した。結果はもちろん<1,1,2,3,5,8,13, 21, 34, 55, 89, 144>ときて、12ヶ月目は<233>つがいの兎ということになる。この数列はどこまでも続けることができ、数学的な定義が可能であり、隣り合う2数の比が黄金比φに収束することもよく知られている。

■しかしこの数学的意味合いだけを提示するための喩えとしての問題そのものに、文系的発想で的外れな突っ込みを入れることもできるだろう。兎が生後2か月から毎月必ず雄と雌の1つがいの兎を生み続けるという設定に無理があり、さらに生物であるから途中で必ず死ぬものでもあるはずだが、まあその辺りは問題設定として目をつむろう。しかしそもそもの数1が個体としての一匹の兎ではなく、ペアとしてのつがいであるということは見逃せない。



■最初の想定の1と2番目の1が共に最初からつがい(つまり括りは1だが構成要素としては2個体の対)であるということは、単なる例えの綾として看過していいのだろうか。例えばフィボナッチ数列の初項の「1」と第2項の「1」は、単なる数詞もしくは数学的記号として同一に扱われているが、そもそも朴訥に「大きな1と小さい1」とも表現される初項と第2項の1を、不問のまま単なる等価・等量・等序の数として扱うには曖昧な点が残っている。

■文系的発想からの突っ込みどころを明らかに間違えた単なる「難癖」として退けられうる事を覚悟しつつ、個人的にはこの辺りをもう少し考え続けてみることにしたい。オッカム印の剃刀の切れ味を少しだけ鈍らせて、初項と第2項を共につがいの2匹の兎として数えてみよう。もちろんその結果の見た目は、単にフィボナッチ数列を2倍にした<2,2,4,6,10, 16, 26, 42, 68, 110, 178, 288, 466…>という数列として映るかもしれない。

■ただしこの数列の初期設定である初項と第2項が共に2であるということから、今現在という時点における後付け的な見方ではあるが、設定そのものの中に<1,2,3,4>という数を見て取ることもできるだろう。つまり初項の中に<1と2>、そして第2項の中に<3と4>を見るということだ。5という数が最初から1,2,3,4を既得的に内包している新たなる1と捉えることが可能なように、1(とそして2)の中に1,2,3,4が既に入っているのである。



■これは、数として「1」(と「2」)が成立した時点ですでに1〜4を内包しているとする、いわゆる「ペンターブシステム」的な考え方だ。また別の捉え方として、フィボナッチ数列的な文法を有する様々な数列における初項と第2項を「初期設定値」として別枠で括り、第3項からが数列の実質的な開始(数学的な定義とは異なるが)として解する捉え方をすれば、そこに10進法と12進法の「ずれ」の一端を見て取れると捉えることもできるだろう。

■フィボナッチ数列の世界だけではあるが、ここには「数的世界の2段階創造説」とでも表現できる最初のフェイズと第2のフェイズが存在していると見て取ることもでる。初項と第2項はもちろんどんな数を置くこともできるが、その2つの項がなければ数列そのものが展開・発展(もしくは収束)を始めることができないのだ。この辺りには未だ数としての1と2(そしてさらに言えば1,2,3,4の数感覚)の確定における混沌未明領域が残っている。

■なお通常のフィボナッチ数列は初項と第2項を既に1と2として数えているが、フィボナッチの最初の問題では「産まれて2か月後から毎月1つがいずつの兎を産む」という設定から、最初のつがいも生まれたばかり最初の月は1か月目ではなく0か月目として表現するのであろうから、0か月目と初項、1か月目と第2項という「ずれ」が最初から存在している。(数え始めを0とするか1とするかという、単なる暦的な数え方の違いと解することも可能だ。)



■ここで上に示したフィボナッチ数列の文法を持った数列を見てみよう。これは何度も引き合いに出している「フュンク・ウレの数列」というもので、初項が2、第2項が10と設定されている。第10項、第11項、第12項、第13項、第14項がそれぞれ黄金比1/φ^2、1/φ、1、φ、φ^2の第4桁までの1000倍になっている。これらを第3項を初項として見てみると、第10項が1000に収まり、前後にφの累乗及びその逆数が対称的に配置していることが分かる。

■ここにもひとつ10進法と12進法のずれと繋がりを見るヒントがあるのかも知れない。また小数点の移動によって1が1/10でもあり、10でもありうる10進法のホロン的な操作の一要素があるのかも知れないのである。なおすぐ下の数列は、先につがいなので個体数をフィボナッチ数列を全て2倍にしてみたように、全て1/2にしたもので、初項1、第2項5の数列となる。5という数はペンターブシステムの数であるのみならず、黄金比を創りだす数でもある。

■最初に問題を提示したが、私個人の見解としては、全一の1は部分の1とは決定的に異なるのみならず、不明瞭さが残ったまま同じ数詞・数記号としての1で用い扱うこと自体に問題が残されていると捉えている。一意でこの二つの異なった1は、フィボナッチ数列の初項の1と第2項の1と重ねて見ることができる。この1と1を和して2と捉え見ることによって、第3項の2、原初の2において、「自己他者問題」が生じているのではなかろうか。



■私たち人間の「個人」は、この2者なる「対性」を「自己の分裂」と捉えることによって、自己認識と自己言及のパラドクスが展開していき、「自己と他者」と捉えることによって、その自らの片割れであるべき他者を未自己と捉える視座からの自他の統合の道を、全一であった方向と無限へと展開しゆく方向に分断し、絶妙なる反転の位置にある完全なる他者としてのもう1つの自己と自己相貫体になるための、遊離した正4面体なのではなかろうか。

■ありていに疑問を呈すれば、私たちは未だ真の1と2(寛容に表現しても1,2,3,4)より大きい数を完全には知らないままなのではないか。もしくは数のこのあたりの部分に関して、未だ大いなる認識不足があるのではないか。原初的な1,2,3,4の数覚と自在に用いる数学的な10進法及びその辺縁なる数との間に、右脳と左脳の未統合なままの未知なる領域が存在するということ自体を失念したままでいるのではなかろうかということである。

■この「未だ真の5以上の数を知らない」と「1,2,3,4の辺りに未知なる失念領域がある」という2つの表現は同じことの異なる表現に過ぎないだろう。これをことさらに推し進めて、異なる1と1として新たな混乱を展開するようなことは、今はまだ成すべきではなかろう。フィボナッチの兎もシュレディンガーの猫も、実はもうとうに死んでいるだろう。死んだものには失念することなく手向けの花を供え、新しい数を数え始める時なのではなかろうか。

                  (この項続く…多分)

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■一番上の画像は以下のサイトより借用・加工しました。
http://www.world-mysteries.com/sci_17.htm 及び tp://yr12mmcdsc2010.blogspot.com/ 


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