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  • 2024.01.09 Tuesday
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猫まんが 『見る者は見られるの多重次元』


猫まんが 『日本原発数え歌』



 


外国からのみならず、猫界からもかようなエールが届いておりまする。

数を用いた意識操作は許さない


                                        ■All rights reserved by Eric 5D Mark II

■1■西洋の数は3桁区切りで、東洋の4桁区切りとは根本発想に差異があり、無意識的なずれが生じやすい。事故勃発当初に用いられていた単位がマイクロシーベルトだった。しかしその数値が上昇したので、1000倍のミリシーベルトが使われ、さらに1000倍のシーベルトが用いられるようになった。

■2■つまり1シーベルト=1000ミリシーベルト=1000,000マイクロシーベルトというスケールなのだが、これらを同時に用いた時期はあまりなかった。隠蔽し続けた情報を隠せなくなって公にする時に、極力小さい数値であるようにこれらを読みやすいようにという名目で上手く使い分けていた。

■3■放射線量その他の数値を過小の最低ラインで出して、現実に起こっていることから目を逸らさせていたのだが、どうも最近は戦略を変えてきたようだ。1シーベルトと書けば良いところを逆に1000ミリシーベルトとか、10ミリシーベルトを10000マイクロシーベルト等と表記するものがある。

■4■小さい数値で過小に表す虚偽がもはや通じないので、逆に大きく感じさせて危機感や恐怖感を煽るよう転換したのだろうか。政府やマスコミが、同じ値を視覚的に大きな数で表すことで、無意識側の不安や恐怖も用いて現実感覚をマヒさせとしているのではないか。数を用いた意識操作は許さない。



■5■日本の原発数え歌。ひとつ(東通)ふたつ(福島)はいいけれど(良くねーっ!)、みっつ美浜に原発が、よっつ志賀にも原発で、いつつ伊方も原発だ〜。むっつもんじゅは大失敗、ななつ7基も柏崎、やっつ浜岡停まっただけで、ここのつ九州もう玄海、とうは泊と思ったが、大間にあわず東海だ〜。

■6■私は日本の国家と国旗は嫌いではない。むしろ好きな方だと言ってもいい。スポーツの時などはひねこびず素直に国旗掲揚や国歌斉唱を見たり参加したりもする。しかしそれをひとたび強制されたら断固拒否するスタンスは変えないだろう。拒否も自発も他者の強制関与するところでは決してない。


真の日本人と日本という国



■1■日本は最早「国」の体をなしていない。そのように見えるのは慣性的な脳内残像の共有ではないか。「日本」というものはこれからもずっと存続し続けるだろう。しかし「日本国」は空中分解してしまった。元々形をなしていなかったことが、このような非常事態下で明白になっただけなのかも知れない。

■2■今の日本国は個々の生命を能動的に守ろうとしない多くの愚鈍たちが政治を行っている。だから今の政治に関しては何も求めない。経済も米国ほどではないが、欲望と強者の論理が強い。極力経済の主流からは離れていたい。守りもせず、騙し、強要し、税だけをかき集める下劣な国家は認められない。

■3■自衛隊や警察や消防や公務員たちの現地での働きは崇高であった。被災地で人間として生きる個々人に対しては強く共感を有する。日本国は機能していないとしても、清廉なる日本人はまだ沢山いる。私は右翼ではないが、天皇の御佇まいは敬愛するに余りある。あれは日本の体現の1つだと観じいる。



■4■子供や老人は例外として余力がある人や血縁者が守らねばならぬだろう。しかし自発可能な個人の命は自力で維持し展開し行くべきである。漫然となにもせずに他者に守ってもらおうという甘えを断つ自立姿勢がスタートラインで、そこから自助と他助と互助を構築・展開して行くのが順当ではないか。

■5■今後原発が急激に減りゆくことはあっても、その逆の未来は正常な頭では想像できない。日本語が残れば、日本人は残る。日本人が滅亡しなければ「日本」は在り続ける。多大な犠牲を伴った今が、いずれ世界中から理想とされる「日本国」を、実際に作り上げていく千歳一隅の機会なのかもしれない。

■6■生き様や言動だけでなく、表情や人相を見るだけでも、その人物が信頼するに足る存在なのか、自利のために他者の人生と未来を平気で掠め取る者なのかが判別できるような時代になって来ている。自らの自発的判断力と生命力を信じ、世界との関係において正直であれば余計な葛藤はほとんどない。



■7■保身に走り虚偽で身を固めた者は増大する苦痛と共に自壊しゆくだろう。正直であること。己の中にもあるどす黒いものを違わず見つめられるならば、それに見合うだけの清廉にして慈愛に満ちたものもまた自らの中から姿を現してくるに違いない。人間と世界の根底がそのようにできているのだから。

■8■他者の甘えは自らの余力で許容可能だとしても、自分の甘えを他者に強要するような姿勢は暴力として自戒したい。それでも1人だけで生きていくことは不可能だ。既存の科学や哲学や宗教や芸術に寄りかかることなく、自他に対する敬意と慈愛をいかに励起しつつ世界と対峙するかが勝負どころだ。


3の累乗和と365について


                              ■"Holocaust Numbers" By KingVitamanよりその部分。

■1■地球の1年が365日なのは偶然ではなく様々な意味を内包しているとのスタンスから、私たちの思考や計算の基本中の基本でもある「10進法」の1桁の自然数1,2,3,4,5,6,7,8,9、そして0に関して、これまでと同様に丁寧に考え数え上げて計算してみよう。

■2■正6面体を2度面点変換すると体積比27倍の正6面体になることは既に見た。また正6面体の点・線・面・胞の要素8・12・6・1はそれぞれ3次元空間を27に分割し、そのうちの1つが正6面体の内部であること、さらにその分断空間を単位長ベースに圧縮するとルービックキューブ型になることも見た。

■3■まず単位正6面体をレベル1としよう。その体積を1とすると、3×3×3のレベル2の正6面体の体積は27である。下図はレベル1〜4までを表したものである。なおレベル3,4,5,6,7,8,9…の体積は以下の通りである。

      レベル1 体積3^0=1
      レベル2 体積3^3=27
      レベル3 体積3^6=729
      レベル4 体積3^9=19683
      レベル5 体積3^12=531441
      レベル6 体積3^15=14348907
      レベル7 体積3^18=387420489
      レベル8 体積3^21=10460353203
      レベル9 体積3^24=282429536481



■4■ところで各レベルの最後の1桁を見ると、連続する5レベルごとに「1,7,9,3,1」の繰り返しであることが見て取れる。そこで連続する5つのレベルを1セットと捉えて、その内部における2つのレベルの和を考えると、レベル「1+3」=730、レベル「2+4」=19710、レベル「3+5」=532170となる。そしてこれらの数値はそれぞれ365のぴったり2、54、1458倍になっている。

      レベル1+レベル3=730   =365×2
      レベル2+レベル4=19710 =365×54
      レベル3+レベル5=532170=365×1458

■5■なおレベル「1+2」=28で13の月の暦の1か月(=4週間)であり、「2+3」=756で土星会合周期378日の2倍の日数になることはすでに何度も見ているが、このレベル1〜4の総和、すなわちレベル「1+2+3+4」=20440(=365×56)で、地球の56年である。56年は28×2(年)だから、レベル「1+2+3+4」は内包するレベル「1+2」と、「2年1日法」的ホロンの関係にある。

      レベル1+レベル2=28(日)
      レベル2+レベル3=756(日)=378×2 …2土星会合周期
      レベル1+レベル2+レベル3+レベル4=20440(=365×56)…28×2(年)

■6■なお基本単位でもあるレベル1の正6面体の1辺を、1天文単位(地球の平均公転軌道半径・1AU=1.4959810^8km)と重ねると、各レベルの立体対角線は下記のようになる。つまりレベル2は火星の公転軌道直径(3.047AU)に近似し、レベル3は木星の公転軌道半径(5.2026AU)に近似し、レベル4は土星の公転軌道半径(9.5549AU)に近似しているのである。

    レベル1の立体対角線は√3=1.732…
    レベル2の立体対角線は3   火星公転軌道直径(3.0473AU)に近似。
    レベル3の立体対角線は3√3=5.196… 木星公転軌道半径(5.2026AU)に近似。
    レベル4の立体対角線は9   土星公転軌道半径(9.5549AU)に近似。



■7■さてここで3と言う数の0乗〜5乗までの累乗の和が、13か月×28日の364日になっていたことを思い出そう。つまり3^0+3^1+3^2+3^3+3^4+3^5=1+3+9+27+81+243=13×28=364ということだが、この横に同じく3の6〜12乗までを添えると下のようになる。

      3^0=1  --------3^6=729          ⇒和は730で 365×2
      3^1=3  --------3^7=2187        ⇒和は2190で 365×6
      3^2=9  --------3^8=6561        ⇒和は6570で 365×18
      3^3=27 --------3^9=19683     ⇒和は19810で 365×54
      3^4=81 --------3^10=59049   ⇒和は59130で 365×162
      3^5=243-------3^11=177147 ⇒和は177390で 365×486
      (3^6=729)  ---3^12=531441 ⇒和は532170で 365×1458

■8■最後の3^12もまた6乗下の3^6との和で、ひとつ前の3倍の数列に加わる。また以下も同じである。ところでこの2,6,18,54,162,386,1458…の数列は、以前に見たピュタゴラス音階とも関係が深いプラトンのラムダ(すなわちΛ型に左下には2倍数列を、右下には3倍数列を連ね、その間を埋めた3角形の数の並び)の左2段目の2から右斜め下に連なる数列でもある。

            
           2    3
          4      9
        8  12  18  27
       16  24   36   54  81
    32  48  72  108 162  243

■9■10進法の1〜9までを、1桁で最大の自然数分だけ累乗、つまり9乗すると以下のようになる。見てすぐ分かるように、各数の下1桁はみな累乗する前の元の数に等しくになっている。

      0^9=
      1^9=
      2^9=512
      3^9=19683
      4^9=262144
      5^9=1953125
      6^9=10077696
      7^9=40353607
      8^9=134217728
      9^9=387420489
     10^9=100000000
0
                                                                
 (続く)


12と13…人間の数理の反転界面


                                ■参考:詳しい宇宙の年表

■1■宇宙の年齢は137億年であり、地球の年齢は46億年と言われている。地球の年齢は宇宙の年齢のほぼ1/3である。この数値の「年」を「日」に換算すると、5兆5億日と1兆6790億日になる。つまり宇宙と地球の年齢は、地球の1日を基本としてもたかだか13桁(10^12)であるということだ。

     137,0000,0000×365=5,0005.0000,0000 (宇宙の年齢⇒5兆5億日)
      46,0000,0000×365=1,6790,0000,0000 (地球の年齢⇒1兆6790億日)

■2■もっとも過去の地球の1年の日数は現在より多かったことが地質学的にも生物学的にも分かっているが、そもそもの137億年や46億年という表現もかなりザックリしたものなので、単純に現在の1年365日を掛けただけの日数変換ではあるが、そう大差はないと考えて良いだろう。

■3■地球と太陽との関係において、一応背景としての銀河構成面を想定はするものの、私たち人間が天空の運行(そしてもちろん大地たる地球そのものの運行)を計り数えるための基本単位としては、1公転である1年とほぼ1自転(366:365の誤差はある)である1日であることは間違いない。



■4■漢字文化圏における数の単位の1つである「兆」は時代や地域により異なるが、現在の日本・台湾・韓国では10^12 =(1000000000000) を示し、中華人民共和国では10^6を示している。日本では江戸時代に「一・十・百・千」の4桁を内包する5桁目でひと括りとする「万進」の命数に統一された。

■5■言うまでもなく1,2,3,4桁ときて5桁目が新しい1桁となるペンターブシステムの構造である。これに対して西洋では3桁ごとに異なる呼称命数である。そしてこの西洋の3桁と東洋4桁が再び重なるのが、1の後に0が12個並ぶ13桁目の「兆」という数の単位なのである。12と13の関係。

    1兆(=10^12)は、現代英米英語では trillion、古英語や仏語では billionと呼ぶ。

■6■「地球暦」では全内惑星軌道を含む火星軌道が50cm弱に縮尺されている。この縮小サイズは1/1兆である。こちらは「空間」であり、上述の宇宙の年齢は「時間」だが、ここでも私たち人間の世界の計測と認識における限界の12とその反転である13の関係が1つ界面として存在しているのだ。



■7■余談だが、日本の数の単位は「大数」方向には一、十、百、千をペンターブのひとまとまりとして、万、億、兆、京、垓、𥝱(秭)、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議と(4×4=)16の万進の後に、最大数の無量大数が据えられている。実に構造的に美しい。 

■8■また日本の数の単位の「小数」方向には分、厘、毛、糸、忽、微、繊、沙、塵、埃、渺、漠、模糊、逡巡、須臾、瞬息、弾指、刹那、六徳、虚空、清浄、阿頼耶、阿摩羅、涅槃寂静と全部で24単位があるが、こちらは全て1桁ずつ1/10細かくなっていき、最後の涅槃寂静は10^-24である。


先ずは一者として世界に屹立する


            These pictures are taken by **sirop YUKIHIRO YOSHIDA

■1■道は1を生じ、1は2を生じ、2は3を生じ、3は万物を生ず。これは老子の有名な42章だが、先ず数は1が世界に屹立しなければ何も始まらない。世界には多くの個人がいて、沢山の「私」が存在する。ここで世界を変えんと思い立って先ず為すべきことは、他者と協力して何がしかを成すことではない。

■2■自分自身の本来の姿勢と生命ベクトルを想起し、これから一番やりたいことを自覚し、世界の中で誰にも寄りかかることなく1人立つことだ。それが為されないまま他者と共に何事かをしたり、戦いを始めたりしようとしても、視野狭窄極まりないひとりよがりの王国から半歩すらも出ていないのだ。

■3■他者に強要されたり迎合したり、洗脳されたり支配されたり、およそ非平衡で非対称的な関係で定まることはない。今ここに身体と共に存在する自分自身を信じることができるかどうか。その逃れられない出発点を、荒廃平野に打って出るための橋頭保とするか、いや確たる不動の本丸とするか。



■4■先ずは自らが世界の中で確固たる存在として1人屹立すること。そこで他と、世界と、社会と、他者と、そして未だ遭遇し得ぬ自分自身と真正面から向き合うこと。どこでもない、ほかならぬ世界の中心にして果てでもある自分自身のいる場所で、交換不可能な1として数を数え始めねばならない。


人間として「人間」越えを成す時



■0■アセンションに対するディセンション。この次元が上昇するという表現に対して、上次元がここに降下してくると言った友人がいた。古いけれどまだ腐臭を放っていない「上の如く下も」という表現がある。このリバーシブルな視座の次は、その双方を等距離に見る平衡感覚を有する視座の獲得。

■1■日本があちこちばらばらになりながらトータルでは沈没しているという比喩を見受ける。私は個人的にむしろ(これまたメタファーでだが)掲揚・浮上しかけていると感じている。世界に先駆けて別の領域に入りつつある、もしくは少なくとも入る可能性を有する状況下にあると表現したい。

■2■実は私、スピリチュアル的な浮揚とか次元転換という表現が大嫌いで辟易している。全てとは言わないが、そのほとんどが実際には古い視座であったり、しっかり他者と共有できない個人的な物言いだったり、物事を正視していないままの言質だったりだということが順次露見してきている。



■3■ただその表現の向こうにあるものをイメージする時に、何らかの役に立つ可能性のあるものはわずかながらもある。日々刻々の空の色や空気の質を、いまこの瞬間瞬間が時空と生命交差の最前線、常に変わりつつ普遍な波頭なのだと感じることはないだろうか。この時間を少しづつ増やしたい。

■4■見るものも聞くもの体験することすべてを、過去の記憶からよく似たものを瞬時に生命記憶から引きずり出して、それに似たものの組み合わせとして世界を捉えることで、世界が常に変わらず安定して存在し続けていると見る、私たちの世界観が揺らいで、剥き身の世界感覚が垣間見えたりする。

■5■放射能や破綻した経済社会や既存の価値観と新しい世界観。さまざまな世界が交差したりすれ違ったりしながら並存している。人間の数だけずれた世界が重なっているのだろう。どれが5年後10年後に生き残っている世界観なのかを判ずるのは、過去でも未来でもなく他ならぬこの今なのだ。



■6■逆に言えば物事の判断や決定を先延ばしにしたりあいまいなまま放置したりする余裕は、もはやほとんどないということだ。眼前の世界の見え方と在りようそのものを、5年後10年後、そしてそれより向こうの世界を念頭に置きながら、自ら関与して変えていく姿勢が今必要とされているのだ。

■7■自分の未来、友人知人家族などの未来の視座から、今の世界を「想起」するように考えを巡らせてみよう。過去のほとんどは、未来である今から想起するとそのほとんどが光り輝き愛おしいものであるように、1つの反転だけで未来から今の自分の周囲の世界を見る視座を持ってみるということ。

■8■これはほんの最初の第一歩であり、その次にはその過去の視座・未来の視座・健在の視座を等距離に見る視座を、妄想から持つとも遠いところに自力で構築し、その後はそれ自体を反転んし、さらに…。と先を急ぐ必要はまだないか。この今、最初の一歩を踏み出す資質は誰にもあるはずなのだ。



■9■一枚の若葉、空をよぎる雨雲、水面の羽虫、いつもと少し違う太陽の光。世界のさまざまなものがみな初めてのものに見えるとしても、それはもはや異常な幻覚や変成意識状態などではない。それがより今後の普通の世界に近いのではないか。既存の見え方を否定せず、脱皮し続けること。

■10■誰の言うことも不完全なものである。しかしだからこそ現有の人間の存在総体そのものが信頼と感謝に足るものだということ。完全ならば何も感じず、考えられず、そもそも私はない。眼前の変わり行く世界を味わい、変わり行く世界観を楽しみつつ、成すべきは「人間としての私」越えである。


逆に振り切れる世論の針を見逃すな

 

■1■今だからより真剣に考えなければならない問題がある。未来の日本風景のビジョンの1つ。ほとんど人がいない廃墟のような都市、荒れ果てた元農地、そしてあいも変わらず美しい自然。ここまではまあ良い。だがそこにはまだ異常な値の放射能物質が残留していて…と述べれば悲惨だが平凡な語りだ。

■2■しかし実は生命活動に特にさし障りのないレベルの放射能なのに、過去の原発安全という情報操作に対する、巧妙な逆操作によって生活できない場所と思いこませられた結果、無人の土地となり荒廃して全く同様の風景となっているという語りになりうる可能性も、抜け目なく考慮しなくてはなるまい。

■3■多大な瞬時被曝による悲惨な生体破壊と共に、直接検証しにくい形で5年後10年後にその結果が現れると想定されているのもまた、人工の放射能事故の恐ろしいところでもある。つまり放射能による悲惨な結果となるのか、過大な情報操作であり最小被害なのか、後日でなければそれが確定しない点だ。



■4■長年真面目に研究してきた人のデータや主張すらも逆手にとって利用し、子供たちの健康と未来を真剣に心配している善良な人たちの思いすらも上手く方向付けして、本当のところをぼやかして見えなくしてしまう操作は明らかに諸情報の中に混入し始めている。先ず情に訴える情報には注意しよう。

■5■義憤や悲哀などの情動が自らの行動原因の多くを占めているとしたら、冷静かつ迅速に、様々な言動や情報に対する冷静な比較判断能力も動員して、自らの可能な範囲で構わないから、改めて自らの未来や他者との共生のビジョン再構築をすべき時であろう。純粋な感情は一番操作されやすい。

■6■復旧・復興とは元に戻り、元のように栄えるという意味だ。個々人の内も外ももはや元には戻らないことは自明の理であろう。高齢者や保守的な人には酷なようだが、未来は創出・構築して行かなくてはならないものである。特にこの今現在をその過去と未来の繋ぎ目・架け橋として真剣に扱うべきだ。



■7■例えば福島第一原発の周囲20km以内を、風向きやホットorコールドスポットに関係なく一律立ち入り禁止にした後、ブラックホールのように情報は出てこない。そこで何が為されているのか?原発情報を2ヵ月隠し、今ようやく出てきているそれらは全く改ざん操作されていないと断言できるのか?

■8■どんどん悲観的な情報を出しているし、マスコミもまた巧妙にそれらを増幅して新しい常識にしようとしていないか?今まで信用が置ける言明をしてきた者たちすらも、その絶妙な操作に乗って知らぬまま片棒を担がされてはいまいか?放射能は怖い。しかし同時にそのデータ操作もまた恐ろしいのだ。

■9■その事が分かるのにはとても時間がかかる。だからこそこのような未曾有の危機すらも不安や恐怖を煽って一部の者にのみ望ましいところに着地するよう操作されることなく、原発全廃への道筋を感情に任せ過ぎて台なしにすることなく、情報の真偽を問いただす自己判断能力をも研磨して高めていこう。



■10■パラレルワールドの中で生きているような感覚を持つくらい、共有不可能なほどかけ離れた未来ビジョンが乱立している。このような時はAかBかの二択世界観ではなく、AもBもそしてCすらもアリという多重のリアリティを矛盾なく内包できる保留領域を意識内に持てるかどうかが重要だ。

■11■つまり、一方から急激に逆に振り切れる世論及び自己の針の動きを見逃すなということ。昨日まで自分が信頼していた情報ソースにすらも、どす黒いものの触手が混入してくる可能性を全否定することはできない。危険度もまた情報による常識的な値よりも、実のところは凄く上か下かだと考えられる。


身体を用いて自発的に数を数えよう


   ■pictuered by konomiho's → http://www.flickr.com/people/konomiho/ 

■1■私たちはすでに万も億も兆も京も数えることができる。また四則計算や累乗計算もできるし、電卓という便利なものもある。しかし私たちの中で本当に3,4,5…などの数の在りようや本質を良く知っている者はそう多くはない。整数論者や数理哲学者であっても、それに関しては大差ない。

■2■数はまず1〜4までをしっかり数える必要がある。共通認識の道具として自明と考えられている、今用いられている数というものは、その意味や特徴などはさて置いて、世界における自分の自覚も覚束ないうちに、世間に適応すべく1,2,3,4…と10まで、そして100までなどと記憶させられた。

■3■先ずは微分・積分・3角数・群論・行列・虚数などを用いずに、自らの身体の一部でもある原初の計算機「手」を最大に活用して、1,2,3,4、そして5までを確実に、そして徹底的に数え上げてみよう。また両手の指の数である10までについても様々な形で根気強く数え上げてみよう。



■4■人間の片手の掌にある5本の指。1本の指そのものが4つの部分からなり、手首近くで1つにつながっている平行な4本指。それを包み込んで1つにする別方向に伸びている親指の構造なども、自ら動かしながら確認しつつ1,2,3,4…そして5という数構造をしっかり数え直して見ること。

■5■生命を主体に数を考えるか、数に操作されて生命をそれに従わせるかの差異。1日何カロリー摂取しなくてはならないとか、何品目食べなくてはならないとか、何時間寝なくては元気が出ないとか、何マイクロシーベルト/時以上なら人体に影響が出るとか、他者に与えられた数だけで生きるなかれ。

■6■それら外部からの数値だけで生きることが常態であるとするならば、それは「間違った数の用い方」であり、生命への加虐もしくは無自覚なる心の自虐とも見て取れるだろう。もちろん絶食を続けたり、電力や原子力という概念を全く無視して生活するのも、現今では「一種の自殺行為」に近い。



■7■自発能動的に物事に当たるか、受動強制的に世界に対峙するかの差はとてつもなく大きい。生活諸事も各種運動も瞑想・思考すらもマンネリやルーティンワークとしてこなしていると、気づかぬうちに操作され易いし、自発的に立ち向かえば疲労や苦痛にすらも快感が伴う。正しく数えること。

■8■数え上げる数と数え上げている自分とが身体を介して1つであるという自覚。その時私たちは時間を数え上げ、生命を自覚し、関係性を見詰めている。数えたつもりで世界を真正に見ないまま社会に適応させる教育という名の洗脳。真の教育とは自らその洗脳を超える力をつけさせるものだ。

■9■ただしそれすらも洗脳の舳先をぐりぐり突っ込んでくる力流がある。相互信頼を元にしている社会の中で説得力を持つ数値を歪め、都合の良いところだけ晒して不安や恐怖を煽り、正しい数値すらも疑う混乱に陥れ、無力感と悲観的未来を強要する力流に関わらず、身体は常に世界を数え上げている。



■10■私たちはまだ、まるで呪文のように1,2,3,4…と世界を自発的に数え上げることができる。自らの身体と頭脳を能動的に用いて、笑顔の数を、野に咲く小花を、掌の中のおはじきを、自らの悩みと希望とを、1つ1つ丁寧に数え上げて、他者とそれらを確認し合いながら、世界を再整理し始めよう。


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