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  • 2024.01.09 Tuesday
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後拾遺集



■昨夜は愚妻に連れられて元気な女性群の飲み会におまけで参加。怪奇痛風現象後、快気祝いと初めてビールにトライ。久しぶりのアルコールなので、気のきいたこと言おうと思っても上手いこと頭が回らなかった。馬鹿っぱなしばかりでつつがなし。後遺症はなし。甲斐性もなし。

■それにしても冷房を極力堪えて自然風に身体晒していたのだけれど、6月末なのに殺人的なこの名古屋の気温にめげてエアコン稼働開始。すごいもので28度C設定でも十分涼しい。かつての温度設定はなんだったのだろう。人間の順応力はすごい。猫はエアコン嫌い。別室でナメクジ状態。

■その猫のトイレ周辺が昨今の気温によって臭気が20ミリベクレル/h的危険領域になってきたので、意を決してトイレ丸洗い。荒洗いしてから風呂場で汗だくになってゴシゴシ激洗い。ベランダで天干し日光消毒してから、元の砂少しだけ入れといた。猫トイレの神様、見てた〜?



■どうも7月初頭辺りに前代未聞事件勃発のイメージが離れなくて困る。地震や津波や原発関係は予測のサーチライト内だが、その手のものは必ず想定外領域からやってくるから、様々な予想を先にしてしまうのはある意味正しい。経済?天候?噴火?疫病?電気消滅?集団発狂?宇宙人?天体接近?

■名古屋に来て最初におやっと思ったことは、喫茶店で給仕などしてもらった時、自然に「ありがとう」とお礼を言っていることだった。東京なら無言か会釈か、声を出しても「あ、どうも」程度だった。この違いはカルチャーショックだったが、当地の人は当り前なので素晴らしいとは思わないだろう。他の所はどうなのだろう。

■世界の様々な在りようを2つの対方向に分けて知覚したり認識したりする、人間の2元的分別能力。それを基にした基本的な4値問題として、A、B、AかつB、非Aかつ非Bの4値を提示してきた。しかしA⇔B、ABの在りように対する肯定的姿勢⇔同否定的姿勢の、直交2軸による4値認識もありうる。


楳図かずおの『わたしは真悟』

 

■1■楳図かずおの『わたしは真悟』を一気読みした。『ビッグコミックスピリッツ』に連載(1982〜1986年)にされた作品で、当時は連載を断片的に読んではいたが、内容については分からないままだった。今回は彼の天才性を改めて痛感した。荒木飛呂彦はこの系譜に入ると言ってもいいと考える。

■2■小学6年生の近藤悟と山本真鈴の真剣な恋物語と、意識を持つことになる産業用ロボットモンローの壮大なストーリーに、強烈なショックと感動を抱きつつ泣かされた。毎回の扉絵の幻想的な世界のサトルとマリンも良い。時代性や話の終結は置いておくとしても、今回通読できて本当に幸福だった。

■3■物体から神の意識にまで至り、そして再び順次記憶を喪失して一片の壊れた断片になるまでの、ある意味『アルジャーノンに花束を』のような産業用ロボットモンロー改め真悟の自己語り。そして運命と言う言葉に帰するのが安直過ぎる子供2人の純粋な恋物語。決して忘れてはならない心の振動。

■4■1995年以降は断筆中とのことだが、1980年代に吉祥寺は井の頭公園の池の傍に住んでいた頃、独特の色彩とファッションの服を着て、眉間に皺をよせながら散歩している楳図かずおの姿をよく見かけた。あの頃のきてれつな変人というイメージが残っていたのだが、今回それを払拭させられた。


数値を無視せず踊らされず



■1■現状の判断と対策は国も個人も待ったなしの火急事である。しかし即死に近い瞬時大量被曝は別として、個人的被曝線量の基本限界域をどこに設定するかの位相が揃わない。年間の許容被曝量を1と20と100と250などと割り振ってみても、その単位であるシーベルトを理解しなければ単なる死んだ数値である。

■2■今更ながらおさらいしてみよう。シーベルト(Sv)は生体の被曝の大きさの単位だ。放射線量(シーベルト)は吸収線量値(グレイ)に放射線の種類ごとに定められた放射線荷重係数を乗じて算出する。『Sv=放射線荷重係数×Gy』 という式で表される。放射線荷重係数は一端置いておいて、グレイってのは何だ?

■3■グレイ(Gy)は吸収線量単位の1つだ。放射線によって1kgの物質に1ジュールの放射エネルギーが吸収された時の吸収線量が1グレイとなる。じゃあジュールって何だ?多数の定義があるが、1ジュールは地球上で約102グラムの物体を1メートル持ち上げる時の仕事に相当する。約0.2389カロリーに等しい。



■4■ではカロリーとは…ってちょっと待て!定義を定義するものをただ追いかけて行っても埒があかない。取りあえずシーベルトに戻ろう。被曝の総量をシーベルト(Sv)で表すのに対し、被曝の強さは毎時シーベルト(Sv/h)で表す。1毎時シーベルトは1時間で1シーベルトの被曝量を受けることに相当する強さである。

■5■では上一端置いておいた放射線荷重係数とは何のことだろう?国際放射線防護委員会(ICRP)という国際学術組織が放射線の種類ごとに定めた荷重係数で、X線、ガンマ線、ベータ線は1、 陽子線は5、アルファ線は20、 中性子線はエネルギーにより5、10、20の値を与えられている。かなりザックリな値だ。

■6■このICRPが年間被曝限度を、平常時は1mSv未満、緊急時は20〜100mSv、復旧時は1〜20mSvと定めている。福島第一の事故を緊急時として許容値を通常の20〜100倍に引き上げることや、事故後も住民が住み続ける場合は1〜20mSvを限度とし長期的には1mSv未満を目指すべきだと提案した。



■7■これらの数値に全く疑いを持たない者は、今後も数字に踊らされ続けるだろうし、この数値を全く意味がないと断ずる者は、自らその代わりのものを真剣に探さなくてはならない。このICRPの提案1つを、単純に全肯定することも全否定することもできない。最初から世界は2元が通用しないとが自明になってきている。

■8■科学者や専門家が自らの研究と人間性を掛けて自論を主張していても、安全性と危険性はの線引きは極端なまでに出そろわない。不要なリスクを冒さないよう生活するのは生物としての自然なことだ。また必要とあらば確率や慎重さを放り投げて、自らの祈運を頼りに視野の広い未来を創出すべく行動することも不可欠だろう。

■9■他者の内なる見えぬものは、いまだ己れの未来の中にある。生きるということは、見えないカタチを目に見えるスガタに創りゆく作業であるとも言えよう。その生きざまが真の芸術家であり、科学者であり、為政者であり、真の人間なのだろう。シーベルトを無視することなく超えていくような未来を創り行きたいものだ。


可視光線の波長の長さ

          光線に色はない。光線は色の感覚を起こさせる性質があるに過ぎない。………アイザック・ニュートン



■1■科学的に表現すれば、物体の色はその物体がどの波長の光をどれだけ吸収するか(つまり各波長の光の反射率)で決定する。ただしその物体の反射光を観測者が視覚神経系を通じて判断された色が、その物体の色として認識される。つまり光そのものには色はなく、光を受けた器官が色を作っているのだ。

■2■普段私たち人間が「可視光」として認識しているのは、波長が380〜780nm(ナノメートル)の電磁波で、555nmに位置する黄緑が一番明るく感じられる。なお色名の呼称は文化によって異なるものの、和名で表現すれば紫、青紫、青、青緑、緑、黄緑、黄、橙、赤と連続的に移り変わるスペクトルを呈する。

■3■ところでこのナノメートル(nm)というスケールについて明確にしておこう。ナノメートルは国際単位系の長さの単位で、10^-9メートルつまり10億分の1メートルのことだ。1メートルと1ナノメートルの比は10億対1だが、地球の赤道から北極までの距離10000kmに対する1円玉の直径1cmに相当する。



■4■60個の炭素原子がちょうどサッカーボールの形になった炭素分子フラーレンの直径や、同じく筒状に並んだカーボンナノチューブの直径はちょうど1ナノメートルである。またDNA螺旋の直径はこの倍の2ナノメートルだ。なおDNAの1回転分、つまり10塩基対分の長さは3.4ナノメートルである。

■5■理論物理学者スティーブン・ワインバーグによれば、宇宙開闢の1/100秒後の世界には10億の光子に対して1個の核子(陽子もしくは中性子)が存在した。この10億分の1の対称性の破れゆえに宇宙が現在のようなカタチになった。kohsen氏はこれを「10億分の1の愛」の存在であると表現した。

■6■この単位で人間にとっての可視光線の波長帯域を表すと380〜780nmと3桁になるが、面白いことに数値だけを見れば、ほぼ土星の会合周期378日と火星の会合周期780日に重なっていることが分かる。また地球の1年と2年の日数365日と730日にも近似していると捉えればほぼ1オクターブである事が分かる。



■7■ここで余談を1つ。可視光線より短く軟X線より長い電磁波(紫外線)の波長は10〜400nmだが、蛍光管を使うブラックライトでは、ウッズガラスと呼ばれる深い青紫のガラスを使って波長400nm以上の可視光線をカットしている。このブラックライトの場合のピーク波長はちょうど365nmになっている。

■8■網膜内にある3種類の錐体細胞が吸収する光の割合が色の感覚を生む。錐体細胞はそれぞれ長波長・中波長・短波長に最も反応するL錐体・M錐体・S錐体があり、それぞれ赤・緑・青と対応視することもできる。しかし私たちは実際のところ単色の黄色と赤と緑の波長が合成色の黄色とを区別できない。 


目に見えないものを観ようとする姿勢



■1■百聞は一見に如かず。私たちは自分の肉眼で確認するものが最も確実だと考える。しかし世界には目に見えるものと見えないものがある。見えるものの中にも蜃気楼や心理幻覚のように不確実なものがある一方、見えないけれど確かに存在するものもある。今その扱いに火急を要する放射能もその1つだ。

■2■見えないものをひとりよがりではない認識として共有するためには、科学技術と人間に信頼を置く必要がある。様々なタイプの放射能検出機があるが、その特性を知らぬままでは役に立たないし、その性能や使用法を保証してくれる人間がいなければ、その上に現れる情報を使うこともできないままだ。

■3■ネット上や書物などで放射能に関する情報は存在する。検出器を所持していたとしても、ある程度の放射能に関する知識がないままでは、脳内恐慌に陥るか他者の操作のなすがままになる。最低限の人体に関する影響を知る必要があるが、今最大の問題は学者たちの考えが不統一のままだということだ。

■4■状況を判断する基準となる外部情報は不可欠だから、まずは発信・伝達する他者を信頼する必要はある。放射能及び原発関係の情報は、誠実なリポートから混入された操作情報や根拠のない蒙昧ニュースまで、玉石混交のまま溢れている。しかし自分が入手できる情報はそのほんの一部でしかない。

■5■生活や生命と切り離された情報の海の中だけでいっぱしの評論家気取りの者もいる。結局は情報発信者とそれを読み解く自分自身との真摯さ・誠実さという生き様同士の結びつきの問題になる。誠実さや温かみや公平性、欺瞞や尊大さや独善性を、私たちはたがわず読みとることができるはずなのだ。



■6■自らの手を汚さない対岸の評論家にも陥らず、他者の激情に自分を身投げしてカス駒にも堕さず、己れの生命の平衡感覚を信頼して、謙虚かつ誠実に巡り会った情報に接しよう。既得権を手放すまいとする論調や自他を情動のみで分かち巻き込もうとする扇情なども、侮蔑ではなくただ笑い飛ばそう。

■7■これまでは見えないものに対しては、個々人は自分の力量に沿った知識や判断だけで生きてこれた。しかしこれからは見えないものに対するこちらの姿勢を変えると共に、見るということそのものの質といみもまた変えていく必要がある。そもそも見るとは何かについて再考する必要があるのである。

■8■不可視なものが全て不可思議であるとは限らない。見えるものと見えないもとは非平衡な対称性を有する。二元性を超えて世界を見る人間の能力を今自覚できなければ、眼前の見えるものすら見誤り見失ってしまうこともなりかねない。人間にとっての原子力の本質を謙虚に考え始める時が来た。

■9■幻覚・白昼夢・視覚異常・錯覚・残像・共有幻視。それらもまた「見る」という範疇から排除することはない。見ることと見えていることの違い。意識と無意識というこれまた非平衡な括りの中で、また有意識と無意識をまとめて「意識」と括ろうとする意識。そもそも意識そのものは見えやしない。

■0■いや意識そのものしか見えていないとする表現の方が正確ではないだろうか?…さてこれでようやくこれから「見る」ということについて語り始めることができる。


曇天の朝 窓辺近くで 生と死が


                  ◆Pictured by ►CubaGallery Andrew @cubagallery #photography

■1■愚妻が机の上に置いた小さな写真に目が行った。先日の四十九日の葬儀の時、母の友人に頂いた生前のスナップ写真だ。それを見て、母の一生は幸せだったのだと思った。父もまたそうだったのだと思う。この現在も一生懸命生きている人たちのことを考えれば、そんなことは決して軽々しく口に出せる言葉ではないけれど。

■2■客観的には父も母も人生は決して裕福でも有名でも栄光に満ちたものでもなかった。人間として普通に生き普通に死んだだけである。それでも充実した一生だったのだという強い思いが私の中にはある。父と母の子で本当に良かったという思いは、自己欺瞞や身内への偏愛だけから来るものではなく、過去全ての肯定であろう。

■3■死者はみな仏という表現。不条理な死や不遇の死もあるけれど、それでもやはり死者はすべからく愛おしい。では翻って生者もまた愛おしいと言い切れるだろうか。イエスと言い放つほど私は傲慢ではないし、悟りの境地とやらからは遥かに程遠い。不安定で複雑な現実の中では、生ける者と死せる者の対称性は非平衡である。



■4■それでも時として生きている者や様々な生物たちを、やはり限りなく愛おしいと心の中で呟きたくなる時が訪れることがある。それを単なる調子っ外れな意識の迷妄状態であると解するよりは、死せる者たちからの直接的な恩寵であると捉えて感謝するのもいいのではないか。個と全体、生と死を反転する小さな機縁として。

■5■いくつ齢を重ねても、自分でも辟易するほど心元なく初々しい情感に纏いつかれることがある。そんなことは他者には単なる不快事だろうからと秘密にしているが、そのような時はささやかなしかし確かなる幸福感に包まれる時でもある。何とかひとりよがりを超えて生の肯定感と死の親近感を共有できないものだろうか。

■5■いくつ齢を重ねても、自分でも辟易するほど初々しい情感に纏いつかれることがある。そんなことは他者には不快事だろうからと秘密にしているが、それはささやかだが確かなる幸福感に包まれる時でもある。何とかひとりよがりを超えて生の肯定感と死の親近感を共有できないものだろうか。


両手を左右に広げたら1尋



■1■歳を取ると向上心や好奇心の減衰を失念し易い。これ以上技術や知識を増やしても死ぬまでに使う機会はないとか、蓄積した経験が構築した世界観に鑑みて突出した興味を湧かせるものはないとする、肥満気味の尊大さによるとか自己分析することもできる。しかし鈍感と怠惰による実情も否定できない。

■2■尋(ひろ)は尺貫法の長さの単位で、元々の定義は両手を一杯に広げた長さである。身体尺なので微伸縮は避けられなかったが、明治時代に1尋=6尺=約1.818mに定められた。英語圏にも同じ定義でファゾムという単位がある。1ファゾム=6フィート=1.8288mと定められている。

■3■日本語の「ひろ」は両手を左右に広げるのヒロと同義である。対応する「尋」という漢字にも「左」と「右」から「ナ」の部分を省略した「エ」と「ロ」が入っている。もちろんこれはH系の「エロ」ではないが、この漢字の由来を無視すれば、取りあえずそ上から「ヨ・エ・ロ・寸」と覚えられる。



■4■この「左」由来の「エ」は祈りごとの時に持つ呪具を、「右」由来の「ロ」は祝詞を入れる器を表している。この右と左を上下に組み合わせた形そのものが「尋」という文字で、そもそも神の在る所を尋ねるという意味だ。面白いことに「右」という字も「左」という字も共に「助ける」の意味がある。

■5■上の図は古い形の漢字である。(1)は5本の指を開いた手であり、(2)は手を横から見た形。(3)は左手に呪具を持つ形、(4)は右手で祝詞を入れる器を持つ形。そして(5)はこれらを1つにした形で、神の佑助を求めるためにその所在を尋ねることを表す形である。


リハビリ外出・町内徒歩徘徊



■1■久しぶりの御器所スタバ。例の痛風突発による強制禁足も和らぎ、近所を鈍行徘徊によるリハビリで、3か月ぶりくらいに入店したのだが客少なっ。以前は健康再志向のため万歩計再装着で徒歩遠行のため、スタバは近所過ぎてパスしていた。やはりここは落ち着く。久々にドリレップコーヒー注文。

■2■以前は居心地がよいけれど通い過ぎると何か恥かしい気がしていた。万歩計装備後は足が遠のき過ぎて今度は申し訳ない気がして入店が憚られた。どちらも単なる自意識過剰とは自明だけれど。外は雨上がりの後の明るい曇天。この空が地上の世界各地とも人々の内面はるかとも繋がっている不思議。

■3■朝スタバに行こうと決めた時、髭を剃るかちょっとだけ迷った。2週間前から室内でも思うように動けない日が続いて、洗面所に長時間立つことがなかったので無精髭自由奔放。髪の毛は白髪がないのに髭は白髪混じりの面白さ。もちっと伸ばし続けてみて、画像晒してから剃るのも有りかも知れぬ。
 


語らぬ者にも2方向がある


             ◆"look girl 'emerald'" This photo was taken by YUKIHIRO YOSHIDA.

■1■原発事故、被災地の惨状、無能な政府、教育の荒廃、経済停滞などなど…。多くの人々が自らの主張や情動を声高に叫ぶようになってきた。これは良いことだろう。しかし現今の社会の在りように対して「沈黙を守る者は敵だ」と声高に主張する愚者もいる。しかしこれは昔からあった稚拙な論法だ。

■2■確かに非力感から無関心に淀み、身辺の快適さを追求に血道を開ける者もいる。しかし過楽観や過悲観の未来妄想を描くことなく、ぶれない不動の人たちの存在も想定すべきだ。信頼する世界が破滅するのであれば、その時はそれを甘受しようと腹を括って、黙して未来に続くことをやり続ける人たち。

■3■昔、猛獣に食べられる小動物たちの猛獣に対する深い愛情を感じていたことがあった。その愛はおそらく小動物が意識しているものではなく、もっと深い生命の連鎖と繋がりの中に流れているものであろう。今、静かに自らの為すべきことを成している人たちの中に、よく似た慈愛を感じている。


                        ◆"My Crazy Princess-Tosia " taken by Ola Heland

■4■もし明日が世界の終わりであるとしても、今日は野原に花を摘みに行こう。そのような科白をサンダルフォンに言わせた者は誰だろう。決して世界を否定せず、悲観的な世界観すらも否定せず、それでも自らは世界が続く未来の方に信頼の体重を掛けて、今日という日を黄金の輝きとして生きていく。

■5■それは決して他者依存の生き様や、無自覚で無責任な行動ではない。実際のところ原子力や放射能の人体への影響やその災害を正確に把握できる者はほとんどいない。それらの有象無象な情報を娯楽のように嘗め回すことに自らの時間を用いることなく、潔く自分にしかできないことを続ける人たち。

■6■彼らは愚かなのだろうか?もし愚かだとしても唾棄すべきなのか、愛すべきなのか?愚かさは誰にでもある。外部の愚かさを非難するだけでは賢くならない。自らの内なる愚かさをも愛しつつ、それを少しずつでも賢さに原子転換しゆく姿勢の放棄が愚かなのだ。愛すべき者たちをも見過ごすなかれ。



■7■先ずはどっしり構えてみよう。世界が終るのであればそれは終わるのだ。自分だけが運命として死ぬのであれば受け入れよう。しかし個人の運命を他者に決め付けらけるられることに対しては最大の抵抗をする。しかし自分も属している世界の黄昏には、素直にそれを受け入れて眠りに就こう。

■8■結論。黙し語らぬ者が全て羊とは限らない。沈黙の中にある世界への信頼や未来への意思も補足できる余地があれば。喧騒の中の自失や無知も見抜く余力を持てたなら。沈黙は未知に溢れている。そこに不安や苦痛や否定を見るだけでなく、未知を愛し、そこを能動的に開き行く生き様を軽んじるなかれ。

 


電気とはそもそも何か考えよ



■他者に思いや考えを伝えたい時に用いられるものは知性に訴える「論理」、感性に働きかける「情動」、そして本能に共感させる「生命の純粋さ」などがあろうか。現在のマスコミ情報にはその構造上必ず操作が混入する。それらに踊らされている自らを日々超えゆくべく、自己純化しなくてはなるまい。

■原発促進派の正気を失ってなりふり構わない(自己論理の再精査能力が自壊している)言動は裸の王様軍団だ。しかしおのれの内の原発に対する漠然とした嫌悪感もまた、対立利権勢力による扇動に乗せられてそれを本能的嫌悪などに貶めず、各自で深い生命的直観に磨き上げる努力を怠るべきではない。

■インターネットやTVや配信音楽の再生鑑賞やドラマや映画やアニメなどのDVD鑑賞も自ら過度に依存していないか自己チェックすべきではないか?それらを全て否定するつもりはない。しかしそれらも外部エネルギーを消費する。単に生甲斐だからとして無制限に浸る自分を看過すべきではなかろう。


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