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  • 2024.01.09 Tuesday
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ゾンビワールドとよく似た世界



■1■昨日は久しぶりにDVD鑑賞。まずは『STAKE LAND』と『クレイジーズ』の2本。スティクランドの方はゾンビ映画かと思っていたら吸血鬼映画だった。アメリカ的な野蛮さは日本とは根本的に異なるだろう。基本的に話の流れにゾンビか吸血鬼かの差は重要ではない、少年の成長を描くロードムービー。

■2■2本目はかのジョージ・A・ロメロ監督が『ゾンビ』製作以前の1973年に作った『ザ・クレイジーズ/細菌兵器の恐怖』のリメイクとも言える感染パニック映画だから、これも基本的にはゾンビ映画ではない。感染者と非感染者の対決のみならず、全てを抹殺して証拠隠滅を目論む軍隊という対立軸がある。

■3■このゾンビと非ゾンビという局地戦的ドラマとは直接交差しない、証拠隠滅を推し進める強大な勢力とは、現今の日本の情勢に被せれば日本政府を動かす原発マフィアや巨大なエネルギーパンパイア組織と重なる。ゾンビ系の映画は基本的に暗示的なラストばかりだが、痛快無比な終結の話も見てみたい。



■4■キリスト教では自殺は大罪だと聞く。生き物を殺すなかれと説く仏教でも、自分自身も生命体なので自殺は基本的に良からぬ行いと解されている。いや宗教以前に自殺は生命体として基本的に否定される。しかしゾンビ映画の世界ではそうではない。自覚を失い他者の血肉を喰う存在に堕す前の自殺の可否。

■5■今までかけがえのないものだと信じて疑わなかったすぐ隣にいた者ですらも、ゾンビに咬まれたら感染し、人間ではないアンデッドと化して動き出す。フィクションであるという前提の架空世界の話の中でのものだが、もはやそれまでの死生観は古臭いものとなっている。それが地獄でここは極楽なのか?

■6■人間としての尊厳と自覚もないまま他者を喰い尽くそうとする様を、単に即物的世界観として以上に捉えることが可能ならば、欲望に規制のない経済、古カビと腐臭のする政治、確たる理想や目的のない文化や学問に満ちた現今の世界はゾンビワールドと極似している。問題は先ず自分に自覚はあるかだ。



■7■この現実として捉えられている世界を救いようのない闇の世界と見る者もいれば、眩い光に満ちた世界と見る者もいる。二択ではない。二択の一方としか見られない者の現実世界はもはや地獄の様相を呈している。光も闇もなのだ。闇の中の光と闇だけでも、光の中の闇と光だけでもなく、全てここにある。

■8■なお蛇足的だが、ロメロ製作のものもリメイク版の『クレイジーズ』も、感染者は血管が浮き出て醜くなりはするけれど、意識は完全になくなってはいない。従って狂気の中に憎悪や人間としての自覚も残っている。ここがゾンビとは異なっているところであり、ここでの自殺問題は逆に新しい未来がある。

■9■またこの2本の他に、1980年代にヒットしたSF『V(ビジター)』のリメイク版1〜12話分のDVD6枚も1週間借りて来たのだが、昨夜は疲れて1枚目途中で寝てしまった。こちらも面白かったりしたら、後日また取り上げようと思う。それにしても最近は現実の方が映画の中のようで怖くて面白い。








どらほー、ぐらほー、しゃちほー!



■1■昨日は「どまつり」見るために栄と駅西まで出向いた。一番のお目当ては名古屋学生チーム「鯱」。愚妻&義妹と共にナディアパーク広場のステージ、及び駅西商店街を爆舞しつつ移動するこの130人以上の舞団に付きっ切りで移動。実は義妹のM(私の姪ね)がこの「鯱」のメンバーなのである。

■2■いや〜他の多数のチーム共々、残暑をものともしない爆発的エネルギーについて行ったものの、さすがに名古屋駅西で水分と冷気切れを起こす私。愚妻の導きによって、名前だけ知っていたマタハリに初入店。実は姪っ子Mは双子であり、その片われのEも栄の高級ケーキ屋さんでバイト中だった。

■3■この日はこのどまつりの優勝が決まるのだが、私と愚妻は義妹と別れて車で豊田に向かう。Jリーグ2位に付けている名古屋グランパスが豊田スタジアムでヴァンフォーレ甲府を迎え撃つ試合を観戦するためだ。遠目からは悪の組織の本部にも見える豊田スタジアム、中に入ると広くて素晴らしい。



■4■スタジアム内は試合開始の2時間以上前から様々なイベントやグランパス情報で盛り上がっていたが、試合は先取点を取られたものの地力の差で結果的には4−1の勝利だった。愚妻の応援するプロ野球中日ドラゴンズも3−1で勝利したらしく、スタジアムを出て駐車場まで戻る時間は超ご機嫌。

■5■さらに姪っ子が踊っていたチーム「鯱」が今年のどまつりで優秀したとの報が、愚妻の携帯電話に届く。「ドラホー、グラホー、シャチホー!」と大盛り上がり。前回に雨に濡れそぼちながら瑞穂陸上競技場でベガルタ仙台戦に0−1で負けた屈辱を思えば天と地の差。この日の夜は疲れて爆睡なりき。

■6■ドラホーはドラゴンズヤッホー。グラホーはグランパスヤッホーだが、監督がドラガン・ストイコビッチだからこちらもドラホーでもいいわけだ。シャチと言えば名古屋城のシャチホコだが、昔鯱が堀川運河に迷い込んだ無事海に戻ったことがある。その時の中日新聞のタイトルが「ここにシャチあり」。









未来に己れの理想を持つ

 

■混迷を極める現今の諸情勢の中で、メディアやネットの諸情報が撒き散らす不安や不信に晒されて、多くの人が明確な未来ビジョンを持てないまま時だけが過ぎている。政治家や経済学者や科学者たちのみならず、スピリチュアル関係の大家たちの発する未来展望ですらも、平衡感覚にフィットするものはない。

■現今の実情から乖離せぬまま在る程度明確な個人的な未来のイメージが構築できなければ、過去に成してきた様々な成果や葛藤もまた、今現在からリンクが外れた単なる記憶の総体に過ぎなくなってしまう。この未来とも過去とも乖離した現今の意識の閉塞感を打開するために必要なものを先ほど想起した。

■それは「理想」だ。それはこう表記すると単なる言葉だが、他者に与えられたり社会に植え付けられたりした「理想」という言葉の概念や語義ではない。他ならぬ自分自身の生き様の総体が、さらなる未来を構築し過去を変容させて、真の「他者」に邂逅するために必要な、精神の中心部分に必要だったもの。



■理想なき生き様は未来を切り開けない。その「理想」は現実と陸続きでないイデア界のみの形像ではない。それは現在意識の中の未顕現な現実なのだ。過去の総体が要請して止まぬ未見の現在なのだ。未だ未知にして未邂逅だが、確実に他者との邂逅のために不可欠なもの。それは自分自身の「理想」である。

■自分の理想は他者とは一致しない。なぜなら他者の理想と自己のそれとは方向が逆だからだ。しかしそれは交差しうる。他者の理想と自己の理想が一致したら、それはもはや理想ではなく現実そのものとなる。その時を創りゆくために他ならぬ自分自身の「理想」を努めて構築しゆく努力をしなくてはならない。









ミルクと魚とうちの猫

 

■漬けもの好きの猫や味噌汁を飲む猫など、常識的規格外の猫は多々いるので驚きはしないが、当家の2匹の猫は牛乳を全く飲まない。子供の頃から何匹も猫を飼ってきているが、ミルクを飲まない猫は初めてだ。まだ乳離れしない時は仔猫用のミルクをスポイトで与えていたというのになぜミルクはまたぐ?

■魚でも外国産の薬漬けのものや、養殖ものには見向きもしない奴らだから、ひょっとしたら通常出回っている牛乳そのものが美味い不味い以前にアブノーマルなものなのかも知れない。そう言えば愚妻も牛乳飲まないなあ。乳搾り機を取りつけて毎日何リットルも搾り取られる乳牛たちも可哀そうだなあ。

■そういえば吸血鬼が世界を支配した未来という想定の『デイブレイカー』というSF映画があった。あの世界では捉えられた人間は飼育というより機械に埋め込まれて、死なない程度に血を搾り取られているが、乳牛も手で絞るならまだしも、完全に機械と一体化させてデータを取るシステムも増えていく。



■まあ当家の猫は私が横になっているとその上に乗って一体化したり、買ってきた魚を食べずに跨がれても私と愚妻が焼いてきれいに食べるという、一部猫上位システムだけれど、特に何の問題もない。ただしまだ暗い未明に玄関先で町中に響く「新聞配達まだか?」的なホアーホアー鳴きは睡眠不足の元である。








365日全てが人間の誕生日



■人間にも春と秋に一回ずつとかいうような「発情期」というものがあり、年がら年中セックス脳が発動可能でなかったとしたら、個々人の星の巡りとの関係を観る「占星術」というものがかように発達することはなかったであろう。排卵の周期戦略も月の位相に支配を委ねたものではなかったのであろうに。

■宇宙における両極として捉えることが可能な男女の意識的邂逅もまた、セックス脳が年中発動可能な潜在性を有するがゆえに可能であり、期間限定のものであったならばその期間外に明確に異性を意識させる生命圧力はなかっただろう。個々人の周期のずれゆえの千差万別な邂逅ドラマも限定的だったはず。

■一応まだ現役引退の身ではないながらも客観視が可能になったのも、セックス脳の発動をどのように捌くかの経験が備蓄されたことと、性的生命圧力そのものの弱まりからであり、青春まっただ中で男女の在りようを思考しようとしても、世界を理解しようとする観念と妄想現実との区別がつかないだろう。



■しかしこのような語り口は、現実的葛藤を伴わざるを得ない若者にとっては空事であろう。そのまま理解できるとしたら、それはむしろ別の不遇を抱えている可能性がある。そこで若い男女と年経た男女の4つの生命視座が意見を交差交流させることで、より実りある相互の差異認識の可能性が生じるわけだ。







 


犬猫馬鹿は動物がいっぱい

 

■1■今朝も4時45分ぴったりに新聞配達のおじさんが、玄関ドアの隙間から猫のみかんに「おはよう、いい子だね〜」と優しい声で挨拶して行った。それが終わるとデルピーと共に2匹、川の中の鮎のように前後しながら戻ってきた。ドアの隙間は風が通るように開けてあるのだが、夕べは超涼しかった。

■2■つまり寒くなったら風通しを良くするためのドア開きは中止せざるを得ないのだが、何か毎朝挨拶してくれるおじさんに対して今からちょっと心苦しいなり。というか、すでに4時半には猫がスタンバッているか確認のために目が覚める私って阿呆?自分ちの猫が可愛いねと言われて嬉しい猫馬鹿なりき。

■3■それにしても季節は確実に傾いてきている。猫草として勝手に育っているのを放置している単子葉植物たちもしっかり穂が出て種まきの準備中。多数育った里芋たち(猫の森)の収穫ももうすぐだが、雨にからめとられて落下した放射性物質はどうなっているだろうか。まあ私はちゃんと食べるんだけど。



■毎週水曜日に届く有機野菜パックの中に、八ヶ岳産の巨大ししとうもしくは実の部分が長いピーマンのような野菜が入っていた。たまに見かけたことがあったが名前は知らなかったので調べたら「万願寺とうがらし」だった。大正時代にカリフォルニア・ワンダーと伏見とうがらしを交雑して作られたものだ。

■以前、中国の原発も事故が起きないとは思えないと書いたが、原発関係(原子力研究所の実験炉らしい)で事故があったらしい。先日の原子力潜水艦事故もそうだが、ほぼ事故やその後の放射能に関しての情報は隠蔽されて出で来ないままになるだろう。日頃から西日本もかなり晒されているのが実情だろう。








数と形と自己他者問題



■1■他者と私の過去と未来が反転しているということは、個人的には動かし難い自明の理なのだが、4値論理や反転キアスム構造だけではまだ明確な認識把握には遥かに弱い。どうしても幾何学的な理解の仕方及びその説明の仕方を提示しなくては、どこまで行ってもひとりよがりの王国から抜け出れない。

■2■メタローグ的対話においては『「他者」の未来は「私」の過去であり、他者の「過去」は私の「未来」である』という表現の、確固で括って強勢したところが逆に『他者の「未来」は私の「過去」であり、「他者」の過去は「私」の未来である』という文章と等価でも別物でもない関係性を持っている。
 
■3■平凡な日常というものは最早ない。未知が時の狭間から、奇異が空間の隙間から常に飛び出してくるかも知れない日常。それは意識するようになってからそうなったのではなく、実は最初からそうだったのだが、意識することによって過去の意味が変わり、それが未来に反映することが見て取れるのだ。



■4■本来成そうとしていたことをどんどん失念している自覚がある。日々刻々の新しい要素・局面が顕現してくるけれど、一番忘れたくないことを忘れないために様々な対応をせざるを得ず、本末転倒だがその努力のために最初の一番好きなことを顧みないまま時は進む。好きなことをシンプルに考えること。

■5■思考力が是弱になると思考しているとしっかり思考していると思う。思考力を奪うマスコミや世評。その背後にあるどす黒いものに100%その責を負わせる者はすでに思考力が疲弊し切っている。そのどす黒いものの様々な対称性として自らのうちに対応するものを目の端に捉えられるか。愚者の一瞥。

■6■立方体の8頂点で接する外接球と6面心で接する内接球を統合するのは、12線心で接する中接球だ。これは1つ次元を下げた正方形の外周と等しい長さの円を求めよという円積問題の解に対応するだろう。2次元では不可能な円積問題の解とは3次元の外接球・内接球、そして2重の中接球の4重積である。



■7■通常自分を正8面体だとすると、他者を双対立体の正6面体と置く。自分を正6面体の内接球と考えると、他者を外接球に対応させる。すなわち正6面体の6面心をつなぐ球とと8頂点をつなぐ球とにだ。しかしこれらを12線心でつなぐ2重の中接球そのものの表裏対としての関係としては体感できない。

■8■数が1から始まる10進法と、1と2がアプリオリで数が3から始まる10進法を明確に区別しつつ、1から始まる12進法と1から始まる8進法を混乱せずに用いられるなら、この世界の3次元認識がまず最初であり、2次元・1次元は4次元・5次元と対で展開するという表現の意図がわかるだろう。

■9■単に同じ構造に見えるものを同型対応させて事足りるわけではないが、この数が1から始まる10進法を他者の世界観とすると、1と2がアプリオリで数が3から始まる10進法が自分の世界の見え方と対応する。1・2・3と進むのが自分だとすると、5・4・3と進むのが他者。3自体にも表裏がある。 








書林もかつてのものでなく



■千種の正文館という本屋やヴィレッジバンガードに置いてあるまんが単行本を見ると、普通の本屋のコミックコーナーやマンガ喫茶に大量に置いてある作品が、いかにメジャーで売れ筋作品ばかりか改めて分かる。あの本棚に詰まっているレアでコアなまんが作品の多くが魅力的でより芸術に近い匂いがする。

■本屋であまり好きではないスピ系の書架に行くと、中丸薫がらみの本がやたら多過ぎる。じっくり1つずつ大切に育もう的な卵子型戦略に対して、とにかく精子を多数製造して幾つかでも受精すればしめたもの的な精子型戦略に思え、繊細さや美的配慮に欠ける旧男性的発想な思想展開戦略の不快さを感じる。

■もし芸術的完成度や職人的正確さにかかずらわっている余裕や才能がないまま、とにかく緊急にメッセージを発しなければならない世界状況なのだということならば、なおさら表現の美しさや作品の完成度が必要であろう。質より量的に量産て読者に負荷を与えるのは、仕事としても戦略的に成功していない。



■「絶対、無限、永遠、超」その他の非日常的な単語を日常会話で安易に多用する者は、自らの言語表現の稚拙さを晒すだけでなく、この曖昧さの対極を表すべき単語自体の曖昧さを増幅させる。また自分の理論の独自性を明示するために、安直に造語連発する者も己れの言語感覚のがさつさを自覚すべきだ。

■『雨を見たかい』はクリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)の1970年のヒット曲だが、最近はよく雨を見る。より正確に言えば、雨と晴れの境目を時々目にする。近頃はゲリラ豪雨や異常気象のせいか、晴れた日に局所的雨雲とその下の雨の地域を見かける。昔はそうなかったのだが…。








真夏の雨のグランパス



■名古屋グランパスは17日の首位攻防戦であるガンバ大阪戦を2−2のイーブンでしのいで首位に躍り出た。これで連勝記録は途絶えたが、連続無敗記録を16と伸ばしている。一方のベガルタ仙台は9戦連続観勝利と低迷している。仙台戦に勝てば夏以降に強い名古屋のJリーグ連覇の確率はぐっと上がるだろう。

■夕べは国立でなでしこジャパンとリーグ選抜の対決だったが、今夜は我が家から近い瑞穂競技場でJリーグ「名古屋グランパスVSベガルタ仙台」を観戦する。同行はストイコビッチが現役だった頃からファンである愚妻と、結構サッカー通でもある名大院生のイケメン甥っ子だ。さて名古屋は終日激しい雨。

■なでしこジャパンもザックジャパンも名古屋グランパスも、共通するのは華麗なパスワークと揺るがない戦術で、見ていて楽しく本当に心が躍る。なでしこのロンドンオリンピック優勝、ザックジャパンのブラジルW杯決勝進出、グランパスのJリーグ連覇と来年のACL優勝と、サッカー馬鹿の夢は膨らむ。



■他の様々な競技も、プレイヤーが美しい瞬間というものはあるけれど、サッカーの場合随所にその人間の身体の美しさが見られるのは、手ではなく重力に抗って大地に立つべき足を自在に使うために、あらゆる姿勢が時間と空間の平衡感覚が不可欠であるところにもある。そして創造性と連動性。真善より美。

■さて瑞穂陸上競技場。バックスタンド側は屋根がなく、降り続ける雨の中ポンチョ羽織って震えつつ観戦だ。内容は技術が未熟ゆえに結果としてダーティなプレイの連続となる仙台と、過密日程に加えて水の浮いたピッチゆえに動きの鈍い名古屋という、楽しいパスサッカーを期待した者にとってはハズレ試合。

■傘を差したピクシーがピッチ際まで出て叫んだり、アンフェアなジャッジに呆れてベンチに戻る姿。めったにお目にかかれないその風情が唐傘差して花道を行き来しつつ見得を切る歌舞伎役者に見えて、ちょっとだけお得感もあり。2時間近く雨中観戦したことで豪雨の森の中でも平気で過ごせる気になった。



■結果は0−1で仙台に初めて勝利を許し、グランパスは3位に後退だ。それにしても勝ち点1差の内にG大阪・柏・名古屋・横浜Mの上位4チームがひしめく大混戦。この試合に勝っていたら去年同様一気に優勝まで突き進んでいただろうから、負け惜しみではなくリーグが興行的に面白い展開になってきた。

■それにしても時に激しく降り注ぐ雨の中、選手と同じ条件で雨具も付けずに試合中ずっと大声を上げ、体を動かしながら熱烈に応援するゴール裏席のサポーター達と、比較的大人しく雨に耐えながら静かに試合を見詰めるメイン及びバックスタンド側の観客の違い。同じ阿保でも踊らない阿保系に属する私。

■負けても挨拶に来た選手たちを温かく応援する観客に対して少し意識の差を自覚した。しかしもし試合が勝っていたらハズレ試合などどくさす評価をすることなく、結果が良ければ全て良し、いい時間を過ごしたと喜んで帰路についたであろう私は、全く持ってグランパスの熱烈なサポーターではないわけだ。







 


自己他者問題を身近に引き寄せる



■昨晩は義母宅で一族の寄り合い。義母1、叔母1、愚妻、義妹2、義弟2、甥1、姪4、アンド私の13人。このような一族が時々顔を合わせる習慣があると、人間は所詮世界の中で絶対的に孤独という世界観よりも、最終的にはみんな1つという楽天的気質が通奏低音に形成されるのだな。女性的生命感覚。

■日本人論をぶつつもりはないが、私たちは「世界と自分」の関係に、欧米やアラブの人たちのように畏れ従いまた戦い捩じ伏せで操作するという発想より、依存し信頼して共に大きな1つの中で生きるという発想があるから、「他者と自己」の問題にも他者≒世界と捉えて、そこに慈愛と叡智を前提に置ける。

■若い頃の私は基本的に「自己と他者」の関係よりも「自己と世界」の関係を主に問題にしていた。思い通りにならず、最悪に近い絶望的な状況でに尖ってしまっても、自己の裏側に在る「他者」も「世界」も優しく賢明なものだと感じる日本人的通奏低音があるから、安心して孤立したつもりの意識でいれた。



■国外に出たり、外国語を学んだりする時初めて、それをパラメータとしてそれまで自分が「他者」や「世界」と捉えていたものは実に狭量だったと知ると共に、日本人としての自分の在りようを深めることができる。生物学的にもmanではなくwomanが「人間」という意味であると先行して知る日本人。

■原子力を傲慢に扱い誘発させた前代未聞の惨状に対し、「身を持って」対処し、未知なるブレイクスルーを模索し、発見し、新しい世界を構築しゆけるのは、やはり元々日本人でしかありえなかったのではないかとすら思ってしまう。未来に光はあるのか絶望なのか?光り輝く未来をイメージできる日本人。

■この日本人の特質の1つの成因に私は「日本語」があると考える。変形したり変質したDNAに通奏低音的に存在していた振動・エネルギーパターンを浴びせると回復することがある。幾何学的にも美しい日本語を語り聞くこと。その空間としての日本。(繰り返すが盲目的日本賛美をしているのではない。)



■原発を転がしてまで成長し続けねばなければならぬ経済なぞもう沢山。そんな過去の亡霊に取り憑かれている産業や経済は不要と考えている人たちまで、強制的な運命共同体に巻き込んで進む国策とは何なのだろうか。それがいくら現実的選択云々と言われても、その国自体からして私は認めるつもりはない。

■気のせいならいいのだが、原発に関する風潮(風評ではない)のせいだろうか、リアルな物理的影響のせいだろうか、最近とみに眠い時間がある。眠り自体は心身共にに生命を調整し新生するためのものでもあると考えているからいいのだけれど、何やら妄想を超えて眠気を訴える人が少なくない気もする。 








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