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  • 2024.01.09 Tuesday
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NUMBER 01-09:1と2から3,4,5へ…正方形の等分割



■3と4。足せば7、掛ければ12、差は1。「文明人」と自分を称する者たちが「未開人」と呼んだ人たちは幸いにも大きな数を必要としなかった。1と2の違いが自明であれば、3は「1と2」と呼び、4は「2と2」と表わせば、ほとんどがこと足りる生活をしていた。10進法で数を数える私たちにとって、この3と4はそれを明確に捉えつつそこを超えてさらに先に進むために、とても重要な数である。

■私たちの日常でこの3:4は思いのほか頻繁に目にしている。アナログ放送時代のTVモニターの縦横比は3:4だった。TVだけではなく横長や変形寸法のもの以外のパソコン画面やデジカメ画像の縦横比も3:4である。その対角線比は5だから、私たちは無意識のうちに辺長比が3:4:5の直角3角形と向き合っていることになる。無意識的には3+4+5=12、3×4×5=60も刻印されていよう。

■地球の大気(0℃,1気圧) と水(20℃)の相対屈折率は1.000292:1.333010=1:1.3334だから、ほぼぴったり3:4である。水の身体を持ち大気を呼吸する私たちにとって、この界面比は視覚のみではない意味を有するだろう。また10進法を念頭に月の10公転周期273日を見れば、地球の1年(13の月の暦)の364日とはぴったり3:4である。神聖暦ツォルキン260日と食年346.6日の比もまた然りだ。



■地球から見て公転軌道が1つ内側にある金星と1つ外側にある火星を考えれば、地球−金星の会合周期584日と、地球−火星の会合周期780日の比はほぼぴったり3:4である。私たちの聴覚によって成り立つ音楽における4度の音程、たとえばドとファの振動数比もまた3:4になっている。また正6面体と正8面体の中接球を共有させた相貫体で考えれば、この2立体の体積比もまた3:4になっている。

■3と4。大和言葉では「み-mi」と「よ-yo」。それぞれ2倍の数6と8になっても父(子)音は同じで「む-mu」と「や-ya」である。中接球を共有させた正6面体と正8面体の体積比は3:4だった。「ひ-hi」と「ふ-hu」は数の基本。3+4=7で「な-nana」は名無し数。3×3=9で「こ-koko」は10進法で最大の一桁の数詞。「い」5は偏在して1〜4を束ね、倍の「と」10で繰り上がる。日本の数詞。

■1と2から3と4が生じ、5でミクロとマクロ双方向に数は広がった。3の4乗は81で九九を括り、4の3乗は64でDNAのコドンや陰陽の卦を束ねている。4から5へ到達できたとしても、今度はそれをもう1度反転させて6へとつなげる認識が必要だ。先ずは1,2,3,4…と最初の数をもっと正確に数えられるようにならねばならない。地球人として、人間として、そして現代に生きる者として。



■東洋の4と西洋の3。中国では1か月を10日の「旬」で3つに分けたが、西洋では7日の「週」で4つを1か月で括った。また大きな数の桁数を表す時、東洋では4桁ごとに区切ったが、西洋では3桁ごとに区切った。この3と4の区切りのずれが再び重なるところは1012の1,0000,0000,0000=1,000,000,000,000、つまり1兆=One trillionだ。火星軌道長半径の1兆分の1はほぼ1キュービットである。

■辺長比3:4:5の直角3角形の3辺の和は12であり、3辺の積は60だった。またこの直角3角形の面積は6である。1,2,3,4,5の最小公倍数は60であり、1,2,3,4,6の最小公倍数は12である。60は1,2,3,4,5,6,10, 12, 15, 20, 30,60と全部で12個の約数を持っている。最小公倍数を考える場合、1,2,3,4の次の5ではなく6の方が5倍もコンパクトになる。

■木星の公転周期は12年だが、土星の公転周期はこの5と6の積の30年である。公転周期比は2:5だ。つまり土星の2公転の間に木星は5公転して位相が揃うということである。さらに木星と土星の会合周期は20年だから、この60年の間に3回起こるということだ。なおより正確には木星の公転周期は29.457年であり、土星の公転周期は11.862年である。またこの2惑星の会合周期は19.858年である。



■正方形は簡単に3,4,5等分化が可能である。正方形の1つの辺の両端から対辺の中点に向けて線を引くと、上図左から2番目の図となる。この操作を鏡像的に繰り返すと3番目の図となり、これにさらに90度回転させて重ねると右端の図となる。この正方形の4頂点及び4中点を3点ごとに結んで描いた変形8点星は、各辺を正確に3、4、5等分し、またこの正方形を9、16、25等分することができる。

■このことを表わしたのが下図である。上段で示したように4交点を結んでその線分を正方形の端まで伸ばすことで、各辺の3等分及び面の9分割ができる。同様に中段の位置の4交点をつなぐことで各辺の4等分及び面の16分割ができ、下段で示した8交点をつなぐことで各辺の5等分及び面の25分割が可能であることが分かるだろう。なお線の2等分及び面の4分割も可能であることは言うまでもない。

■この最初の1頂点から対辺の中点へ引いた線分は、この正方形の1辺を1とすれば(√5)/2≒1.118となる。この図法はマルコム・スチュアート氏が"the Sand Reckoner's Diagram"と呼んでいるものに等しい。(01-05)節では円から3,4,5を見出したが、これは正方形からも定規やコンパスを用いることなく正確に3、4、5を見出す方法である。日本の折り紙では古くからこのことを知っていた。












NUMBER 01-08:4分割と4周期と

 

■メトン周期とは太陽の周期と月の周期を、閏月を挿入することで整合させようとする太陰太陽暦の要請から見出されたもので、暦の上のある日付と月の満ち欠けが一致する周期である。B.C.433年にギリシアのメトンが提唱したものは、1太陽年を365日で「19太陽年=235朔望月=6940日」として示されている。235=12×19+7だから、12朔望月=1太陰暦の19年間に閏月を7回置けばよい計算である。

■より正確には19太陽年は365.242194日×19=6939.601686日、235朔望月は29.530589日×235=6939.688415日で、わずか0.09日ほどずれている。この微細な端数差が蓄積されていくと、200年で約1日ずれてくる。カリポスは1太陽年を365.25日として計算した。すると19年×4の76年で27759日となって4メトン周期より1日少なくなる。これを235朔望月×4の940朔望月27759日と一致させた。

■「喜寿の誕生日に月を見ると生まれた時と同じ月が見える」という表現がある。「喜」の字は草書体だと十七の上に七が付いたような形なので、77歳を喜寿と呼ぶようになったらしい。喜寿とは数えで77歳のことだ。満では76年だ。19×4=76。つまりこれはメトン周期を修正した「76太陽年=940朔望月=27759日」のカリポス周期のことを言っているのでもある。カリポス周期はB.C.330年に採用された。



■ヒッパルコスはこのカリポス周期をさらに4倍して1日引き、304年=3760月=111035日とした。304=76×4=19×4×4であり、3760=940×4=235×4×4でもあるということだ。ヒッパルコスは現代につながる46星座を決定した。また天動説を含む古代の天文学の体系を成立させたとも言われている。このように4サイクルをさらに一括りにすることで、より正確な数値を求めるという考え方がある。

■グレゴリオ暦でも4年に1日閏年を入れて調節している。また100で割り切れる年は平年という例外を設けているが、その4倍の400で割り切れる年は例外中の例外として閏年と定められている。プラトン周期もしくは惑星歳差運動周期に近いマヤ的な世界観における26000年では、大周期の1/4の6500年周期もあれば、4周期を1つにした104000年のフナブ・ク・インターバルという大きな括りもある。

■分別認識した世界をさらに2分して様々なものを4で捉えるのも、私たちの原初的な世界認識の1つである。人間の性格の4タイプ、4大元素、四季や方角、血液型や時空の4つの次元などと枚挙にいとまがない。もちろん3つに大別した括り方や5つに区分する捉え方もある。さらには6分割や7分割、それから8分類や9タイプ化もあるが、基本的には人間の瞬時で直観的な認識の数感覚は4が限度だ。



■マヤでは東・北・西・南とも対応する赤・白・青・黄色の4色が、この順番で数の1,2,3,4と対応している。たとえば虚数累乗がi、−1、−i、+1で循環するように、この4色は5以降もずっと繰り返す。ラジオ体操で「いち、にー、さん、し、にー、に、さん、し…」とリズミカルに4で繰り返すのにも似ている。この4色はトウモロコシの色だという説もあるが、原始的な数と色の関係はある。

■世界的にはそう多くはないが、チベットや中国や日本のように方位と色を対応させて捉えている世界観はある。次元を表す時にそれぞれ点・線(線分)・面(3角形)・胞(4面体)…と対応させることもあるが、私たちが実際に世界を見る時、点が2つあれば無意識的にそれを結びつけて線とし、3つあれば顔に見立てて捉えたりしてしまうが、それは数理や幾何的認識以前の生来の感覚認識なのだろう。

■普段は箸を使って食事をする私たちだが、ナイフとフォークで洋食を食べる機会も少なくない。ところでこのフォークは先は3本でも5本でもなく、なぜ4本に分かれているのだろう。ヘンリー・ペトロスキーの『フォークの歯はなぜ四本になったか』という本によると、中東の宮廷ではすでに7世紀には2本歯のフォークが使われていたが、巡り巡って英国にフォークが登場したのは17世紀のことである。



■それ以前も素手で食べる場合以外は、金属製の2本のナイフを宮本武蔵のように(?)左右に持って、肉などを押さえたり切ったりすくい上げて口に運んだりして食べていたのである。しかし肉を切る時、串状のナイフでは肉が回転したりして固定しにくいので、先割れの2本歯のフォークが使われるようになった。だが2本歯だと突き刺した食べ物がすべり落ちやすいので、3本歯のフォークが出現した。

■やがて刺すだけでなくすくう機能も兼ねて、フォークに湾曲カーブを持たせるようになる。しかし3本歯だと歯の隙間から物がこぼれやすいので、食べ物を乗せたり刺したりしたまま、口に入れられる大きさも加味した4本歯が主流になった。5本以上のものも出現したが、歯が多すぎると本来の突き刺す力が分散されるので不便である。さて理由づけは分かったが、それはまさに手の相似形ではなかろうか。

■人間の手自体が物を掴む時の指の本数をイメージする時、親指は別枠として、平行の指が1本では突き刺すしかなく、2本でも掴みにくく、3本では隙間からこぼれやすく、4本でちょうどよくて、5本以上だとかえって多すぎて不便だという表現をするとしたら、その表現自体の中にすでに現在の手の形状と感覚が反映されており、その延長上にフォークの使い勝手の相似的感覚があるとも考えられよう。



■一方、日本人や東アジアの箸は4足歩行に比して2足歩行とも言えようか。4足に対して2足は不安定だが、不動の4歯のフォークに比べると2本の箸は細かく調整しながら用いねばならない。食文化の一環としてマナーはなかなか変わらないだろうが、アメリカ式のように先ずナイフで肉などを食べやすい大きさに切っておいて、右手に持ち替えたフォークだけで食べるということも合理的作法ではあろう。

■かつての給食で出てきた先割れスプーンや、ナイフの先にフィギアスケートのエッジのようにギザギザが刻んであるものや、果物やケーキ用の小さめな2つ割れフォークなど様々なものがあるので一概には論じられないが、フォークの先が4本になったということも、道具は欠点を補うことでデザインが洗練されるという見解をさらに超えて、そこにペンターブシステムを見ることができるのではなかろうか。










NUMBER 02-04:地球周長と太古の計測単位

 

■太古の人は地球周長の4000万mから40mを引いた3999万9960mに相当する単位系を用いていたらしい。この数は1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,113,14,15、及び18,20,21,22,24,26,27,28,30,33,35,36,37,39,40,42,44,45,52,54,55,56,60…と多数の約数が存在する。

 39999960=1X39999960=2X19999980=3X13333320=4X9999990
     =5X7999992 =6X6666660 =7X5714280 =8X4999995
     =9X4444440 =10X3999996 =11X3636360 =12X3333330
     =13X3076920 =14X2857140 =15X2666664 =18X2222220
     =20X1999998 =21X1904760 =22X1818180 =24X1666665
     ………

■その単位がほぼダブルキュービットに等しいことはもちろん、様々な証拠から推測するに、太古の人はまた地球が球体であることやその大きさを詳しく知っていたようだ。ダブルキュービットに黄金分割比φを掛けるても、また1キュービットに円周率πを掛けても、ほぼ人間の身長となること等も興味深い。

   WキュービットX黄金比φ≒人間の身長
   1キュービットX円周率π≒人間の身長

■空間的な長さである地球全周長と、時間の長さとしての地球の1日を「分」「秒」という同じ単位で表さすことができる。地球の1日は24時間=1440分=86400秒であり、地球全周の角度は360度=21600分=1296000秒である。そしてこの2者の比は1:15になっている。言うまでもなく60:15=4:1である。



■古代メキシコ人は9、エジプト人は10、カルデア人は12、マヤ人は20、シュメール人は60を底とする位取り記数法、つまり進法を用いていた。これらを掛け合わせると(9×10×12×20×60=)1296000となる。この数値はまた円の1周360度の秒数に等しい。このことは人間の数として単なる偶然なのだろうか。

■この1296000を50で割ると25920となる。これは即ち地球の惑星歳差運動周期25920年の年数である。そして60で割ると上記のように21600という360度の秒数となる。シリウスの周期を知っていたドゴン族の話にも50と60が出てくる。5と6、φとπ、金星と水星、生物と鉱物等の関係にもこの大数が散見できる。










NUMBER 02-03:メートル法とWキュービット

 

■キュービットはシュメール起源になる古代オリエントの基本的な単位でその意味は肘である。キュービットの定義は「肘の角から中指の先までの長さ」であり、地域や時代によってわずかな違いはあるとしてもだいたい500mm前後になっている。エジプトのキュービットを表す象形文字は「肘」そのものである。

■その単位は様々な地域に肘を意味する言葉と共に広まっていった。メソポタミアの1キュービットは30ディジットに分割されており、2キュービットで60進法との整合性を保っていた。一方時代にもよるが、エジプトの固定キュービットは7パルム=28ディジットに分割されていた(1パルム=4ディジット)。

■この2者の分割法は、共に太陽の回帰と月の朔望の周期などの天文学的な知識に裏付けられた太陽暦・太陰暦的な対応も見て取れる。つまり1年30日×12ヶ月(+5日)=365日と、1年28日×13ヶ月(+1日)=365日である。シュメール・バビロニアとエジプトではこの単位相互の数値が異なる部分がある。



■近年古代バビロニアの遺跡から、長さがほぼ1mの棒(振り子)が発掘されている。決まった長さの振り子は決まった周期で振動する。ガリレオが発見した「振り子の等時性」である。そしてこのほぼダブルキュービットに相当する1mの長さの振り子は、ちょうど周期2秒で1往復する「秒振り子」になる。

■太陽が天空をその視直径分移動するのに要する時間がちょうど2分=120秒であること、そしてその時間に人間が歩行する平均距離に相当する1スタジオンがほぼ180mであったことなどを考え合わせてみても、この60進法をベースにした古代の計測法、及び単位系と自然との精緻な整合性は驚くべきものである。

   ディジット(digit) 指幅 (現在のデジタルの語源である)
   シュメールでは30ディジット=1キューピッド
   スパン(span) =3パルム
   パルム(palm) 親指を除いた4指の幅



■ピラミッドの建設には2種類のキューピッドが用いられていたことをアイザック・ニュートンも認めているが、この463mmと524mmの2つの数値の間には円積問題の関係があることが分かった。つまり図に示したように463mmを1辺にとった正方形の面積と、524mmを直径にとった円の面積と等しいということだ。



■また741mmという最長のキュービットがピラミッドの基底部から見出せるが、これは524mmのキュービットの正方形の対角線である(5242+5242=7422)。なお、これらの数値は463mm(=61×7+36)、524mm(=61×8+36)、741mm(=777−36)と見ることもできるが、これには何か意味があるのだろうか。

     463mm(=61×7+36)
     524mm(=61×8+36)
     741mm(=777−36)

■中世以降になるとヨーロッパ各地でダブルキュービットが使われるようになり、これがヤードやオーヌやエレになっていったと考えられている。またほぼ1mの振り子の棒が周期2秒で1往復する(1秒ごとに振りきれる)秒振子でもある事も含め、この単位が「メートル」の元となったというのが定説である。

■重量単位の記録に「重いミナ<mina>」というものが残っているが、これはほぼ500gで2倍が1kgになる。また重さの単位のポンド<pound>やリブル<libre>も500gに近い値だった。科学的理想からなるメートル法は、実は科学の衣を纏いつつも古代の天文知識や数的論理体系への大いなる先祖返りでもあるのだ。

1メートル≒ダブルキュービット=60ディジット=3フィート=12ハンド
           1キュービット=30ディジット
               1フート=20ディジット
               1ハンド=5ディジット
1メートル≒ダブルキュービット=14パルム=56ディジット
           1キュービット=7パルム=28ディジット


NUMBER 02-02:スタディオン

 

■スタディオンはバビロニア起源の長さの単位である。砂漠の中で地平線から太陽が出現してから地平線を離れるまでの間に、人間が太陽に向かって歩く距離の平均でだいたい180m前後である。この天空を太陽の円盤分だけ移動する時間はほぼ正確に2分であると共に、その視直径は角度でいうと0.5度である。

■これは別の表現をすれば、角度的には太陽円盤の視直径は0.5度(正確には0.533度)だから1昼夜で太陽はこの太陽円盤720個分移動して元に戻るということであり、また時間的には(720×2=)1440分=24時間=1日ということである。現在の私たちはこの1スタディオンを使わないので覚える必要はない。

■しかし現在でも使っている1時間の間に太陽はその太陽円盤の30個分を空の上で移動するということや見た目で太陽2個分が角度の1度であるということは、人間の平均歩行距離は毎時4kmと言われるが元祖バビロニア風に言えば30スタディオン(5.4km)となることなどと共に知っておいても損はないだろう。



■地球周長40000kmを365で割ると約109.5kmになる。つまり1時間に4.56km余のペースで立ち止まることなく太陽を追って赤道上をひたすら東進すれば、1年で元の位置に戻るということだ(1)。古代ギリシアの陸上競技場はこのスタディオンを基準として設計されたことからスタジアムという名前が残っている。

■紀元前450年頃にオリュンピアで作られた長さ211mのスタディアムの直線走路の長さは192.27mだった。またデルポイやアテナイでは178m、エピダウロスでは181.30mと地域によってスタディオンの値が異なっていた。バビロニアのスタディオンは184m、エジプトのそれは平均179mだったことが分かっている。

■「スタディオン走」とは古代ギリシアで行われた直線の短距離走で、古代オリンピックでは第1回大会(BC776年)から実施され続けた種目である。なお1スタディオンは人間の身体は全力で走りきる距離の限界であり、それ以上の距離を走り続けるためには最高速度を落とす必要があると考えられていた。

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1)正確に言えば、東に進み続けると地球を1周した時点で1日分余計に日の出を見ることになるので、365でなく366で割るべきだが、数値的にさほど大差はないのでここでは問題にしない。なお1日当たり609スタディオン程の踏破距離に当たる。










NUMBER 02-01: MEASURE for MEASURE



■シェイクスピアの戯曲に『尺には尺を』(MEASURE for MEASURE)という作品がある。新約聖書の『マタイによる福音書』7-2には「汝が裁くその裁きで裁かれ、汝が量る秤で量り与えられる」とあるが、このタイトルは劇中でこれを踏まえていると思われる台詞(第5幕第1場)としても用いられている。

■この劇の中では様々な人間の内面性が相対的に比較されているのだが、このタイトルそのものからは「秤をもって秤を量る」というパラドキシカルなイメージや「1つの世界観を論ずるには、異なった世界観の視座が必要となる」という事実を想起させられる。またこの表現には「しっぺがえし」の意味もある。

■世界中の古代から現代までの、それこそ星の数ほどもある計量・計測の単位を見ていこうとする時、この種々の計測単位を換算・翻訳するのに、通常現代人はメートル法を用いる。しかしこの1メートルすらも単に地球の赤道から北極までの1/10000000の長さと定義して決められた偶然の産物ではないのだ。



■古代オリエント起源のキュービットは現在エジプト・ギリシア・ローマ・ペルシャ・アラビア・インドなどにも共通単位が残る単位制度の原型だが、メートル法の基本中の基本である1メートルという長さもまた、中世までの西洋諸国において広く用いられたダブルキュービットがその祖型だと考えられている。

■かつて西洋的価値観で他の文化圏を判断した西洋人のように、理想に満ちたこのメートル法を最善のものと信じてこれらの諸単位を見ていくと、痛いしっぺがえしにあうかもしれない。そのような愚を起こさぬために、過去の計測単位にも敬意を払い、単位とその根底にある価値観を探っていくことにしよう。

■計量とは数を数えるという行為の1つだが、それには基本の「単位」がなければならない。強力な統一国家の運営や民族間の交易には、独善や一時的なものではなく、再現性と永続性のある基準としての長さ・面積・容積・重量(そして角度)を定める物指し、升、分銅などの定まった度量衡が不可欠である。



■この度量衡とは東西の文化共に、基本的に長さ・面積・体積・重量及び角度に関することだ。それ以外の計量が重要度を持ち始めたのはたかだかこの100年ほどに過ぎない。この100年の加速度的な進歩と精緻化は尋常ではないが、それでも度量衡の歴史の上ではせいぜいその1/100にも満たないのである。

■さて基本となる単位が定まれば、原則的にはそれをマクロ方向に倍加していくか、ミクロ方向に分割していくかで万事事足りる。未だ「ものの数ではない」全体と、既に「ものの数ではない」無限の間が私たちの数の世界である(1)。この中で基本の1をどこにどのように定めるかは人間の自由だった。

■そして実際に世界を見渡しながら極力普遍かつ遍在的な基準候補を捜すと、基本の1つは「地球」と1人の「人間」が必然的に立ち上がってくる。地球が1回転すれば1日になり、365日かけて1公転すればそれは1年となる。それらを昼夜や季節や月の朔望を頼りにミクロ・マクロ双方向に積算し、分割する。



■また1人の人間が歩けば歩幅長が生じ、手や指を用いて様々な長さを表現する。それを5本10本(そして20本)の指で重ね数える。印象を記憶とし予感を推測として、個人を超えてそれらを伝達・共有するためには、測り数えるための基準の周囲に計測単位のミクロ・マクロな重層構造が必要となってくる。

■計測とは様々な対象の量を決められた一定の基準と比較し、数値と符号で表すことだ。量を数値で表すための基準単位の2倍、5倍、10倍、12倍、20倍、60倍等の倍音的単位をマクロ方向に定め、その逆数をミクロ方向に定める単位系ロジックを見ていけば、その間に相似性が時空を超えて見て取れる(2)。

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1)上下に限りなく伸びる電磁波帯域の中のわずか1オクターブほどの帯域がわれわれに取っての可視光線であるように、この私たち人間にとって理解可能な数の世界もわずかなバンドに過ぎないという可能性もある。「数を元に神が世界を作った」とか「数は宇宙における不変の法則である」という言明は、信念として尊重することができても、決してそこで思考停止するわけにはいかない。

2)例えば日本のとある神社にカゴメの形(つまり6芒星)があるからそれだけで日本とユダヤは太古に関係があったのだと安直に結論付ける姿勢は、かえって全てを台無しにしてしまう。古神道的にいえばマルチョンは一意で人間を含む自然を○と点を用いて表している。そして哲学者のハイデッガーや心理学者のユングが同じ記号を用いて異なる象徴を表している。これらを同じシンプルな幾何学的な記号を用いているから同一であると断定するような、明らかに稚拙すぎる論理に陥らないよう自戒しなくてはならない。 










色と人間の奥行き感について



■「空気遠近法」という絵画技法はレオナルド・ダ・ヴィンチが創出したと考えられている。これは対象の手前にある空気を強く意識させ、彩度差や輪郭の明瞭差によって距離感を出すことで奥行きを感じさせる技法である。具体的には遠方の対象をかすませたり、青みがかった色合いを含ませて描かれている。

■これらは光学的・科学的には錯覚として括られるが、周辺部に行くに従って対数的に歪むのが、人間の知覚認識能力の特性だ。とするならば、科学的必然性や理想的モデルの比率や数値に人間の知覚認識をはめ込もうとするのではなく、人間としての生理学的・心理学的なずれ具合にこそ注目すべきであろう。

■私たちの世界の見方について、ただ一概に人間型ゲシュタルトと括って貶める前に、一度明確にその偏性曲率を精査してみる必要があるだろう。これらの固有な特性の中にこそ、人間としてモノを見る前から共通認識として固定されている視界風景の先のパースペクティブを見透かす鍵があるかもしれない。



■色には色相・明度・彩度の3属性があると言ったが、これらは人間の主観的な「感覚属性」である。これに対して光には「波長・強度・純度」という物理特性がある。基本的には色相⇔波長、明度⇔強度、彩度⇔純度に対応している。しかし実際には人間の色覚現象は複雑であり、少なからずのずれがある。

■「純度」とは光の波長構成の種類の多少を表す。最も高いのが単色光であり、最も低いのが白色光である。「波長」が一定でも「強度」が異なると色相にずれが生じる。一般に強度が低い(暗い)と光のスペクトルの赤と緑に見える領域が拡がり、強度が高い(明るい)と黄色と青に見える領域が拡がる。

■色は人間の幾何学的空間認識の要素でもある奥行き感覚や距離の判断にも影響を与えている。夜の街を歩けば、赤や橙色の電飾看板の方が青や緑のそれより浮き立って見えるし、白昼でも赤や黄色の方が青や紫より突出して見える。一般的に長波長のものほど進出して見える。いわゆる「進出色と後退色」だ。



■これに似た色の対概念に「膨張色と収縮色」や「暖色と寒色」という捉え方もある。一般的に個人を越えた人間種として膨張色⇔暖色、収縮色⇔寒色という相関関係は存在する。しかし自明と思われがちな「膨張色と収縮色」と「進出色と後退色」との相関関係には、実は明確な根拠が存在していないのである。

■カンディンスキーは黄と青を対立させて、進出・後退と共に遠心性と求心性が見て取れると記した。これは暖色と寒色という対性と、膨張色と収縮色及び進出色と後退色の対性に相関関係があるという表現なのだが、明度差という視座を見落としている。明度の等しい赤と青に大きさの差はまず見出せないのだ。

■一般に無彩色よりも有彩色の方が、そして寒色系よりも暖色系の方が誘目性が高くより手前に見えると表現されるし、私たちもそう思い込まされている。しかし無彩色も含めた厳密な実験によって、ものの大きさに生じる差は、明度の効果に比べて色相の効果は量的にほんの僅かなものであることが分かった。



■これに対して、明度差による感覚の差が大きいのが重さ問題である。直接触れずに目視判断での実験では、一貫して明るいものほど軽く暗いものほど重く感じられるという結果が出た。これは私たちがものの色をより明るくイメージすれば軽く感じるという簡単な意識操作に直接つながっている。人間の色。 










多面体の上に3、4、5を見る



■良く知られているように、幾何学が大きな進歩を遂げたのは古代ギリシアの時代だった。幾何学を表す英語の"geometry"は、ギリシア語の土地+測量の意味の"geo+metry"からきている。日本語の「幾何」という言葉は、接頭語の"geo" を中国で「幾何」と音訳されたものがそのまま輸入されたものである。

■この幾何学の起源は、古代エジプトの土地測量の手法にまで遡れるという。実際の話かどうかは別として、毎年定期的に起こるナイル川の洪水の後に、古代エジプト人は等間隔に13個の結び目をつけたロープを使って辺長比3:4:5の直角3角形を作り、それを用いて測地していたというエピソードによる。

■3:4:5といえばピュタゴラスの3角形もしくはエジプトの3角形と言われている直角3角形の辺長比だ。この3つの数値の和12、積は60で、シュメール起源といわれている12−60進法を連想するが、おそらく直接関係があるものと思われる。この12と60の比は1:5であり、この3角形の面積は6である。



■多面体の中でも最も空間対称性が高いプラトン立体。その要素である面・点・線に注目しよう。それぞれの立体は全ての面が同一の正多角形であり、全ての辺が同じ長さであり、全ての頂点には同じ数の線が集まっていることが分かる。ここにも3−4−5という数の整然とした連なりを見て取れるのである。

■まず面の形に注目すると、各面が正3角形なのは正4面体・正8面体・正20面体であり、正方形なのは正6面体であり、正5角形なのは正12面体である。次に1点に集まる線の数に注目すると、3本集まるのが正4面体・正6面体・正12面体であり、4本集まるのは正8面体、5本集まるのは正20面体である。

■ここで各面が全て正3角形である正4面体・正8面体・正20面体の「1つの頂点に集まる線の数」を見てみると、それぞれ3本・4本・5本となっている。逆に1つの頂点に集まる線の数が全て3本である正4面体・正6面体・正20面体の面の角数は、それぞれ正3角形・正4角形・正5角形になっている。



■1角形・2角形は存在しないし、1つの点に1本・2本の線が集まっても面は作れない。また面の形が正6角形だと正6角形で埋め尽くされる平面となって立体にはなり得ないし、1つの点に6本の線が集まると同様に正3角形で埋め尽くされる平面になってしまう。つまり3−4−5しかあり得ないのである。

■次にアルキメデス立体を見てみよう。正n角形の面に対して全ての線に正方形が、そして全ての点に正3角形が接続しているものは3種類しかない。正3角形をその中心にした14面体のベクトル平衡体と、正方形を中心にした24面体の斜方立方8面体と、正5角形を中心にした62面体の斜方20-12面体である。

■また正6角形を中心にすると、120度+90度+90度+60度=360度で平面のまま立体にならないので、これ以上の正多角形では成り立たない。なお正2角形なるものは存在しないが、あえて線分から同じ条件で考えると5面の正3角柱になる(※1)。この双対立体は正4面体が2つ接した形のデルタ6面体となる。










和語と位取りの中に数を見る

 

■人間の10進法ベースの数の数え方は、現在1,2,3,4,5,6,7,8,9,そして10もしくは0というインド・アラビア数字を用いることで、数理認識の多くを共有している。しかし西洋の数理と東アジア中心(特に日本)の数理とは初期設定からつまりは精神構造から異なっているのではなかろうか。

■例えば大数を位取りごとに区切って表す命数法においても、前者は10進法の3桁で区切るが、後者は一、十、百、千の4桁で区切る(1)。この4桁が万以降でも順次入れ子的に納まるホロン構造になっている。しかしこの万進法は中国や韓国等他の漢字文化圏でも不完全で、日本のものが最も洗練されている。

■それに加えて私たち日本人の数的論理が他国とは異なる特殊な成立をしたという事実は、日本語研究者たちの言語学的成果から見て取ることができる。私たちは日本語を用いて考える者(そして日本語でその他の言語・文化を用いて考える者)として、まず日本語の数詞の構造を見てみる必要があるだろう。



■上代からの日本の和語の数詞「ひ、ふ、み、よ、い、む、な、や、こ、と」では、1→2、3→6、4→8、5→10というように、同じ子音を持つ2倍の数詞が構成されている。つまり1hi→2hu、3mi→6mu、4yo→8ya、5(i)tu→10to(wo)である。単なる偶然以上のものがここにはあるのではないか。(2)

■なお語尾に「つ-tu」を付けて数える場合「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、とう」となるが、1、2、5のみが-to-、-ta-、-tu-という音が中に入り、アプリオリな数である1と2の関係以外の2倍体の数は何もはいらないか促音の-t-となることが分かる。(3)

■この場合も2倍体関係を有さない別枠の2つの数、すなわち10進法で最大の数詞で「王の数」とも呼ばれ、他の数を屈(こご)めるの意がある9、他の数ではどこまでも割り切れず、名無(なな)し数とも呼ばれる7は、koko(no)、nanaと繰り返す音になる。これは先の立方体の組み合わせ展開にも似ている。



■基本の1とそれを2つ連ねたのが2倍体だった。そしてその次に来る組み合わせ方は、3連続の3倍体と2×2すなわち田の字型の4倍体である。次に来るのが3連続の2倍体である6倍体と、2×2ではなく4連続の4倍体であり、その2倍体である2×4の8倍体であり、最後に3×3の9倍体が来る。

■そこには5と7の形は出てこない。また1,2,3,4の2倍体としての2,4,6,8の関係、1×1、2×2、3×3である1,4,9の関係、また3つ組みとしての1,2,3は2,4,6を経てさらに3,6,9となる関係なども見て取れる。4×4だと10進法の数詞をはみ出して12となってしまう。

■前世期初期の民族学者たちはフィールドワークから、一部の先住民族の数の表現は「ひとつ、ふたつ、たくさん」しかない未発達なものと考えた。しかし私たちの数的認識能力も実はほとんど大差がないのである。アプリオリな数の1と2は認識できても、3という数の本質を未だ認識し切っていないのだ。



■多くの国の言語において、表される数のあり方は単数(singlar)、双数(dual)、複数(plural)であり、「1、2、多数」という形のままだ。未だ3が数の極限であるという数的な概念把握の表れである。会話では1がmonologue、2がdialogueだが、3に対する言葉はなくmetalogueとでも表現するしかない。

■そもそも日本にはほとんどなかった「人称」という捉え方ではこれが1人称、2人称、3人称となるが、3人称に及んでは単数も複数も一緒である。多くの西洋語圏ではそれに男女の区別も入ってくる。対象の本質と明確な整合性がないまま、様々な物質や概念にまで男女の区別が文法的に組み込まれている。

■「3は仏の顔も3度まで」という表現があるが、リフレインは3回までは心地よいが、4回以上になると気に触り始める。このような人間の条件反射的感性にも、3と4に対する数覚の差異特性が見て取れる。これをそのまま西洋と東洋の数的区切りと重ねはしないが、何らかの関係があるのかも知れない。



■和語の数詞は「ひふみよいむなやこ」の後に「も・ち・よろず」とつけて百・千・万を表し、ひとつの数の極限を示している(※3)。この100、1000、10000のmo,ti,yo(rozu)は、3と6のmi,mu、4と8のyo,ya、5と10の(i)tu,to(wo)とも何らかの関係があるのだろうか。ここにもさらなる考察の余地がある。

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(1)ヨーロッパでは6桁ごとに区切ることもある。またインドでは2桁ごとに区切り、各組にさらに位の数詞を付けている。
(2)故白鳥庫吉博士は原音に近い表記として、<ひと・つ>をhito-tsuではなく、pito-tuと表わしている。5ituと10towoは一見したところ対に見えず、こじつけのようにも思われるが、この5ituのiが接頭辞、tuが語幹であり、10towoのtoが語幹であり、woが接尾辞であると見ることができれば、tu→toとなり、類似の関係を見て取れる。
(3)「ひふみ詞」ではひふみよいむなやこ(一二三四五六七八九)ともちろ(十百千万)以下、1文字で1桁を表し「らねしきるゆゐつわぬそをたはくめかうおゑにさりへてのますあせえほれけ」と続き10の39まで数える方法が存在する。しかし実際は万(よろず)より上が命数法として使用される事はほとんど無い。











正6面体連結の中に数を見る

 

■2つの単位円の円周と中心点動詞を重ねて交差させたベシカ・パイシスの形の中に、平方根レベルでの1,2,3,4,5が見て取れるという話は既にした。では平面ではなく立体ではどうだろう。1辺が1の正6面体、つまり単位立方体とその連結立体の1辺・平面対角線・立体対角線を見ててみよう。

■単位立方体の1辺・平面対角線・立体対角線は1:√2:√3である。つまりここにも平方根ながら1,2,3が見て取れるのだ。では単位立方体を2つ接続させた形の2倍体長方形はどうだろう。ここでも1辺・平面対角線・立体対角線を見ると、同様に平方根ながら線長比に4,5,6が見て取れる。

■数としての「1」と「2」に対応する立方体の1ユニットと2倍体ユニットには、その内部構造として平方根レベルでの1〜6が内在していると捉えることができるのである。さらに縦に3ユニット連ねた3倍体及び2×2の形に繋げた4倍体には、図のように8,9,10,11を見て取ることができる。



■なおこの2つの異なる発展系上には、実数の3も見て取れる。すなわち3倍体長方形の1辺、及び「田」の字型4倍体の立体対角線の長さが3に相当しているのだ。さらに2×3の形の6ユニットからは13と14が、また直線4連結の4ユニットからは16,17,18が現れているが、7と12が見えてこない。

■また3×3の形の9ユニットの上には18と19が生じている。ここには直線4連結の4ユニットの立体対角線に現れていた18が、平面対角線として現れていると言う関係性も生じている。これは以後の発展形も同様に見ていくことができるが、取りあえずここまでで、マヤの20進法最大の数19までが現れている。











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