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  • 2024.01.09 Tuesday
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人間の意識の総体と4人称



■1■いまだ「4人称」を「ここにいる大きな私たち」という緩い括りで捉えているが、1つ明確なことはそれが複数であるということだ。先祖たちの意識集合体であろうが、その地の精霊や怪異なるものたちであろうが、絶対唯一神や創造主や自然大霊のような形ではなく、位相の揃った複数の総体の在りようなのである。

■2■目に見えたり物理的に観測できるという意味で実在するとは限らないが、1人称がそれをリアルに想定するならば(複数形なら共有するいるならば)、客観的視座とは関係なくリアリティなのである。もちろんその現実感は100%か0%の2択ではなく、多数のリアリティの中の1つとして他との兼ね合いで振動もしよう。

■3■自分たちの都合が良いように現実を捻じ曲げて仮想現実を共有しようとしても、それが遺恨を残すものであれば、いずれその虚偽は露呈する。例えば村人たちが旅人を非道に殺した後、奴は神隠しに合ったと口車を合わせても、その後悔や不安からくるほつれが怪異や超常現象として4人称的に立ち現われてくるだろう。

■4■一部地域に残る突出した残留思念的なものや、長いこと堆積してきた一族の怨念や情動のようなものに感応しやすい体質の者もいるだろう。また別の領域のものごとに感度が合う者もいよう。個々人の1人称単数はそれぞれに個体特性があり、その偏性ゆえに他者と異なるユニークな在りようとしての存在意義がある。

■5■また人間という大きな括りから見ればそれら個体間の差異は僅かなので、一族の習慣や社会通念や宗教的規範や新しい主義主張などで世界観の位相を揃えることで、かけらであってもおぼろに全体性が見えるホログラフ(4人称)ではなく、解像度の高いホログラフとしての立ち上がりを共有することもできるだろう。

■6■ここでは心理学や民俗学を背景にした学術的な精緻さで語るものではないことを言明した上で、私個人の「全き4人称」のイメージを敢えて言語化するならば「現在の人間の意識の総体」とでもなろう。ただしこれはまだ言葉でありイメージに過ぎない。「現在の人間?」「意識の総体?」など突っ込み所満載である。

■7■学術的な意味でのホモ・サピエンスではなく、一定周期ごとに変転しゆくという括りでの「現在の人間」であり、「意識の総体」という表現もまた単純に一定の過去から未来までの全ての人間意識の和集合という意味ではない。私個人の未だ朧げな感触としては、ヌーソロジーで言う「ヒト」に近いイメージなのである。













 


4人称と夢・4人称と霊感



■1■宗教や理論や哲学や人生観すらも、その自らの世界観に当てはめて世界を見、語ることしかできないことが多かった前世紀までの伝手を踏まずに、1つの見方をどこまで広げられるかを実験的にしてみるという意味で、「4人称」という括りがどこまで適応可能か、拡張できるのかを独善を自戒しつつ見ていこうと思う。

■2■先ずは「夢」の世界だ。これは理想や望みという覚醒時の意味での夢ではない。おそらくそちらとも重なりあうとは思うのだが、今はいわゆる睡眠時におけるあの夢見の時空のことについてと限定したい。あの眠りの中の夢の空間こそまさに1人称小さな私と4人称の大きな私たちが重なった領域ではなかろうか。

■3■夢にもいろいろあるから一概には言えないが、夢の中での経験を目が覚めて回想する時、自分の視座の記憶(1人称)と共に、自分がその夢の中で立ち動く姿としても想起できる(4人称的)のではなかろうか。恐怖や衝動に突き動かされての行動でない限り、自分の意志やからの行動でなく受け身に体験している。



■4■今仮に、1人称の視野という周囲ぐるりの3Dモニターを介して、生起する様々な夢のイベントを見ているけれど、別の次元からそれを覗き込んでいると考えることもできる。それを4人称と据えてもいいし、それが目覚めている時の1人称と置いても構わない。実際眠っている時は身体は動いていない。昼夜の反転。

■5■夢の世界が茫洋としているのは1人称の視座が朦朧としているからではなく、むしろそ1人称がそれ以外の何かと相互貫通している(表現を変えれば1人称も内包している4人称の)視座だからなのではなかろうか。目が覚めてから夢を反芻する1人称的な意識は、4人称を内包していないので夢は不確実だとも言える。

■6■夢について語り過ぎると足を踏み外すのでここで話鉾を収めるが、2度めの夢の経験で有る目覚めてからの想起がなければ、通常の私(1人称)からは、夢の時空/意識領域はあるともないとも言えない意識帯域だ。目覚めていて見る白昼夢も含めて、夢見とは1人称の4人称領域への貫入体験であるとも捉えられよう。 



■7■昔、少女マンガを描いていた頃(←ここは笑うところではない…笑)、アシスタントに行ったりパーティーなどで話をした中で、女性マンガ家のうちの何人かが「自分はマンガを描かされている」と言っていたことを思い出す。もちろん100%そう信じているわけではない。ただそのような感覚がよくあると言うのだ。

■8■マンガに限らず物語作りには最初のテーマやストーリーの着想が大事なのだが、そのインスピレーションがまさに向うからやって来ると言うのだ。私は今でもそれは彼女たちの力量だと考えているが、自分の中でバランスを取るための解釈は、いわば大きな私たちに描かされている小さな私ということになるだろうか。

■9■インスピレーション(霊感)とは、神仏が示す霊妙な感応のことだ。また神仏が乗り移ったような超自然的な感覚、もしくは理屈や思考を経ないまま直感的に何かを認知する心的状態のことだ。これはアーティストの閃きだけでなく、哲学者や数学者や科学者等の説明しがたい形で得る着想をも括りに入れていいだろう。

■10■言及をアーティストに限定してみても、アート・芸術も広大な領域だから、これまた一概に語ることはできない。しかし本物の芸術家達は霊感によって作品を創出するその全体を、小さい私だけで成しえたとは考えていまい。自我を超えたミューズの囁き、仏の導き、神の降臨などを大きな私たちとも表現できようか。













年の瀬と年初めのあわいに




私の前に古よりの道は未知なる未来として伸びる。
私の後に新らしき道が既知なる過去として名残る。

2012年までの「道」に対する概念はこれで済んだ。
2013年直前に「道」なる字の成義を見詰め直そう。

道という漢字は「首を巡らす」という字義を持つ。
前は前、後は後と2に隔絶していた道を1と知る。

振り返っても後頭部は見えないというパラドクス。
宇宙を一回りして正面に後頭部を見るという理論。

そんな煮え切らぬの表現とも永訣する良い機会だ。
2012年と2013年の道の界面で半身を翻してみよう。

首を巡らせればそれは前にも後にも続く1本道だ。
己れの点のような1と線のような1本道を和する。

     1+1=2
     1+2=3
     2+3=5
     3+5=8
     5+8=13 …

フィボナッチ数列は実にシンプルな生命流の露出。
ただ無限に拡大し行くだけでなく逆の流れもある。

金星の13公転と地球の8公転で5会合周期を結び、
ヴィーナストランジットも5芒星を描き終わった。

5から3に、3から2に立ち戻り、1と1に着く。
2012年と2013年のあわい、1と1の狭間を大切に。

小さな「私」と全てを含む「私」との端境期なり。
姿勢さえ正しければ反転の時は自然に発生しゆく。

未知と既知とは「み」と「き」の「ち」からなる。
そのままでは「みちびき」として外部に依存する。

月日なす潮の「みちひき」として内部に包容せよ。
イ段の4文字を4大として水・地・火・気と見る。

暦上の2012年と2013年の間に垂直に渡る道を知る。
比喩や説明は無尽蔵だが所詮自らは変わらぬ触媒。

首を巡らし、思いを巡らせば道とはほかならぬ私。
自己他者問題の新しいフェイズに歩を踏み出す時。


   謹んであなたと私のあわいを寿ぐ













4人称とメタローグ

 

■1■「人称」という言葉は文法用語だが、元々は日本語にはない発想と概念である。英語では単に人称は<person>]であり、1人称は<first person>、2人称は<second person>、3人称は<third person>だから、シンプルに表現すれば4人称は<fourth person>となろうか。

■2■記述の中で動作主が不明確な場合、これを不定称と捉えることもあるが、多くは3人称的に扱われる。また4人称として括って表現することがあるが、この用語の捉え方と扱いは言語によっても異なり、はみ出した異なるものを1人称複数、不定人称、疎遠形、弁別的代名詞などと指すことがある。

■3■人称と似て非なる捉え方にモノローグとダイアローグがある。monologueは「独白・一人語り」という意味だ。演劇などで他の登場人物には聞こえないように観客に語りかける「傍白・脇台詞」もこの括りに入れているが、基本的には相手なしに1人で独立した思考と台詞を展開する。

■4■対義語がダイアローグだ。「対話」と訳されている。ギリシャ語の「dialogos」という言葉から来ている。「logos」とは「言葉」という意味であり、「dia」の方は「通って・離れて・横切って・完全な」などの意味だ。明確なことは「2」とか「対」という意味はないということだ。



■5■このモノローグとダイアローグの対義語は、1人称と2人称の差以上に非対称性が大きい。ひとりきりなら言葉はいらない。言葉は巡り流れなければ存在の意義がない。ただしモノローグもしくは自分ひとりの中での言葉の転がりにおいて、自分自身が語り手で有り聴き手でもある構造はあり得る。

■6■自らの思考や情動を言葉にすることにより、その言葉によって内部から誘発され、自らの思考や情動の流れと共に、それまで無かった全く新しいアイデアや世界観が湧出することはよくある。そしてこの多重の1人語りが過度に進むことで、まれに自分ではない「何か」が顕現することもある。

■7■このモノローグの中で戯画的に天使と悪魔の囁き比べのようなに捉えられる水平の2元対立は多々あり得る。しかし通常の自分からすると明白に自分とは異なる「何か」との交差も生起する。自己同一性不全症候群的な深度は様々だとしても、そこには反転したダイアローグが成立するのである。

■8■以前はそれを即物的に分裂症と表現していた。しかしただ病的なものとしてではなく、度合いが進むだけではないこともある。啓示・霊観・超えたる者の声として真摯に対峙し、問いそして聞き、身体を介して示される。これが1人称ではなく2人称に置いて生起する時、4人称が必要となるのだ。



■9■個人的にはこのモノローグとダイアローグに対して、この4人称的な「何か」との遭遇や交差・交流を、その場をもひっくるめてメタローグ<metalogue>という言葉を当てていた。そもそも最初にこの言葉と概念を用いたのはグレゴリー・ベイトソンだ。私は彼の『精神の生態学(上)』で初遭遇した。

■10■メタローグはダイアローグのテーマがそのダイアローグのスタイルや登場人物にまではみ出してくる形式である。ベイトソンのメタローグは、「聖なるもの」それ自体を語らずに提示する表現形式とも解せられる。ただし私の用い方は確信犯的に彼の定義をゆるめて少しアバウトなものも含めている。

■11■この1,2,3,4人称とモノローグ・ダイアローグ・メタローグという捉え方を組み合わせるまでもなく、これらはそれぞれ独立しているのではなく、むしろ分別不可能なまでに相互貫通し、相互包含し合っている。これらを個人的な1つの視座を切り口にして仕分けていってみようと思うのだ。

■12■電子のペイロードを介した現今のネット世界の深部まで視野に入れなくてはならないだろう。定義未完の4人称や、モノローグ・ダイアローグに重なってメタローグもすでに立ちあがっているのではなかろうか。そこに全てがあるわけではないが、確かに未知なる「私」も可能性と共に在るのだ。













4人称のあるアイマラ語

 

■1■マヤの暦の1つが2012年12月21日の冬至に終わり、新しい周期に入ったわけだが、ケルト暦同様にアイマラ族の正月は冬至から(もしくはその翌日から)始まる。4人称を有する独自な言語を有すると紹介とたが、彼らは南米のボリビア・ペルー・チリのアンデス地域に住む先住民族である。

■2■現在チチカカ湖周辺やアルゼンチン等に300万人程が住んでいる。スペイン人による侵略以前までのアイマラ諸国は、インカ帝国ともそれなりに良い関係を持っていたらしい。スペイン征服により強制的にキリスト教が浸透する以前のアイマラ族の人たちは、死んだ人は神になると考えていた。

■3■彼らの世界観では山や木、岩や水など様々なものに神が宿るという、いわゆる八百万の神のようなものである。アイマラ人の時空認識も特異である。前後と過去の関係が我々とは逆に、眼前にあるのは記憶や伝承にある見える過去であり、記憶にないので見えない未来は自分の後方にあるのである。

■4■アイマラ族の言語世界や空間認識は、単なる少数民族のマイナーな世界観ですまされる問題ではない。ちなみに現在のボリビア大統領はアイマラ人のエボ・モラレスである。むしろ彼らの反転した前後の世界観や第4人称の中にこそ、我々の未来が見えてくるのではなかろうか。実にヌース的である。



■5■300万人と言うとウルグアイ・リトアニア・アルバニアくらいあり、ジャマイカやモンゴル等より多いのだからかなりの人数である。広域に広がっているとはいえ、やはり独自の言語空間と世界観を共有しているであろうことは、異国に降り立った時に感じる空気・空間の異質感を想起すれば分かる。

■6■アイマラ人が持つ「その場にいる小さな私たち」という1人称と共にある、「その場にいる大きな私たち」という、時空的な局在を超えた存在も含む4人称を指す共有概念が私たちにはまだない。しかし4人称を想定すれば、宇宙人や守護霊やら非統一の別種を持ち出さずに語ることができるはずだ。

■7■ただし今まで通常とは異な存在として捉えていた様々な名のものたちとの決定的な違いは、その4人称には自分(達)もそこに含まれているということだ。今まで自己他者の境界として明確に線引きしていたつもりの界面を軽く越境して来る。視座を変えれば自分(達)の辺縁が流出しているのだ。

■8■もちろんアイマラ語圏を的確にフィールドワークする必要もあろう。ただここでもう1つ重要なことは、異なる他言語の構造や世界観を客観的に研究するのではなく、こちらから能動的にその言語空間や表現構造に踏み込んで行き、より明確なる自己他者問題に繋げうる鍵を探せるということだ。













猫の目に映る風景描写



 ■数の数え上げや計算などの地味で時間がとてつもなくかかる作業をしていると、時々過去の身体及び脳全体のホログラフィックな感覚の記憶が静かな至福感を伴ってやって来ることがある。この何とも言えないただ生きて来たことの記憶の恩寵を、頭を実際に回転させずに振り返ると、それはいつもすぐそこの裏にある。

■昔はこの幸せな感じを明確に抱きしめようとして、かえって強く抱え過ぎると飛び去ってしまうタンポポの綿毛のように霧散させてば...かりいた気がする。それは単なる現在の自覚意識、顕在意識の波頭だけで操作したり精査したり、また満喫しようとするものではないということが、それとなく分かるようになってきた。

■ベランダの外をふと見ると、陽光の中をはらりはらりと雪が舞っている。逆光の中の風花は綺麗だ。作業に一区切りつけてから、じっくり見ようと窓辺に向かったら、雲がずれたか気温が変わったのか、もう大気の中に雪片は飛んではいなかった。意識を否定したり尊大化させたりするのではなく、分を弁えるという発想。

■血流や脳内に生成される化学物質によって、情緒や心情を揺り動かされる類の普通の感情とはまた別に、静かな知性や記憶や意識の姿勢によって保持される、通奏低音的な励起状態の感情というものもある。静かな至福感は繊細に意識の辺縁で辿りつつも、今自分が成すべきことをしっかりやり続けることで持続する。

■猫の毛先に触れるか触れない程度に撫でる感覚を知らない人は、猫に触ろうとして嫌がられることもある。触れることで触れられ、撫でることで撫でられているというあの微細な身体感覚を猫は教えてくれる。怒りや不快感ではち切れそうな時は猫は近付かない。刻々変わる猫の目に、自分の中の何が見て取れるのだろう。













今日も根菜汁



 ■今日も根菜汁を作ってみた。人参・大根・里芋メインだが、日本風のだし汁とみりん・砂糖・醤油味なのに塩・胡椒も隠し味風に潜ませる。タンパク質として上げ豆腐を投入。色合いを考えて白菜・春菊・水菜・大根の葉も入れてみた。最後に生姜とゆずを刻んで乗せてみる。半ば無意識による目分量の勝利。美味し!

■鍋いっぱい作ったのだけれど、もう3杯平らげてしまった。愚妻は今日も名古屋の能楽堂で「パンク歌舞伎・逆夢」のもぎりでいない。手弁当で…じゃなくって、昼夜のお弁当が撒かないで出るらしいが、もちろんそれ以外の手当てはでない。夢中で弁当喰うだろうから、この鍋は私が1人で完食予定。あと鍋半分。

■なぜ年末の忙しげな時に家にいるかと言うと、実はまだ数に関するまとめあげが終わっていないのでありました。未だに毎日朝の4時半起きで(猫に起こされるのだけれど…笑)勤勉に数のまとめを始め、夜中の12時過ぎまでやってもまだ終わらず。HPの別のZONEの2013バージョンなんだけれど、もう少しなんだよね。













かぼちゃ汁

 

■朝から寒かったのに、机に向かっていたら脳過労で(笑)オチいてた。体が冷えたままなので、残り物のカボチャを茹でて2種類の味噌入れて汁ものにした。PCから手が離せないので、煮物系は好きだ。生姜と細ネギを刻み、冬至風呂用のゆずも少し乗せて食したら美味かった。1杯目は夢中で喰った。

■体が温まったので、2杯目だけれど画像に撮ってみよう。箸もお椀も汚れてるけれど、まあ記録用だからいいか。それにしても右上の黒い物体は何ものなりや?最近、無駄に毛艶が良いと言われているあいつである。当家は食卓上も解放区なので、先ずチェックに来て、自分の食いものでないと分かって尻尾でブチ意地悪。


ちょっと変わった植物たち

 

■1■今月初頭にベランダのプランターを整理した。里芋その他の意識的に育てているもの以外にも、様々な植物が芽を出し、そして勝手に育ってくる。種が風に飛んでくる雑草はもちろんだが、有機野菜の野菜くずや果物の種からまた芽が出てくる。里芋収穫と同時に、それらのいくつかを鉢に植え替えてみた。

■2■画像奥の植物はアボガト。あの真ん中にある大きな種を、確か初夏あたりにプランターに落とした記憶があるのだが、芽が出て育ち、半年でそれなりの苗木に育っていた。左は銀杏だ。一度先が折れてから、再び成長したものだ。まだ黄葉しない。掘り出してみて、どちらも垂直に根を伸ばしていることが分かった。

■3■そんなものが我が家には結構あるのだが、右手前の植物はガジュマルだ。さすがにこれはベランダから生えて来たものではない。夏の終わりに沖縄に行った時、大きなガジュマルの樹に魅せられたのだが、秋にたまたま入った100円ショップで枯れかかって売れ残っていたものだ。立派に大きくなっているのが嬉しい。

■4■実は数年前から、自分が死んだ時に、体は野ざらしでもいいし、灰となって大地に撒き戻されてもいいのだが、取りあえず自然のために植樹葬してもらうのもいいかと思い、ベランダから生えて来た植物の幾つかを愚妻の分もと考えて育てていた。今年、そのうちの鉢植えにした蜜柑の葉が芋虫によってほぼ食われた。

■5■3本の柑橘系の苗木に今年の春、種を産みつけられていたらしい。やがてコロコロした芋虫が数匹いるなと思っていたら、硬い常緑樹の葉が次々に芯だけにされていく。しかし殺したり捨てたりすることができない私。結局秋にさなぎの殻を残してみんな飛んで行った。蛾ではなく蝶だった。来年は勘弁して下さいな。

■6■そんなわけで、植物のみかんはベランダで越冬してもらうことにして、生態を良く知らないアボガドやガジュマル、そして未だ黄葉しないままの銀杏を窓辺の日だまりに置き、猫のみかんと共に温かく眺め、観察して行こうと思う。むう、キャベツの木とか、チャイブのプチ林とか、家の中はヘンな植物が結構あるな。

■7■活け造りの魚が食べられない私は、種から芽吹いた小さな芽たちを間引きすることができ無いんだよなー、私。数年前は、結局250本ほどバジルを育ててしまい、毎日バジルペースト製作して会う人会う人にあげていたけれど、私自身も一生分のバジル食った感がまだ抜けない。そんなへなちょこも冬至の向うに持って行く。














 


ひとりで脳内ジャンケン考(その2)

 

■11■ジャンケン、もしくはその3値的でありながら2者間には優劣があり、かつ全体では優劣が循環するロジックの構造は最初に中国で創出したと考えられている。文献では『関尹子(かんいんし)三極篇』の中にその記述が残っている。周の関令尹喜の作だが、唐・五代頃の偽作とする説もある。

■12■周時代はBC11世紀からBC256年である。唐は618〜907年であり、五代なら907〜960年である。どこであったとしても、このバイナリー・トリプレットの論理は中国の戦乱の世の中で生まれたことになる。参加者は自ら出す拳を自分で決めるのだが、結果は偶然とも神意ありとも取れる未知である。

■13■現代は国や地域を超えた国際社会であり、インターネットその他の膨大な情報が瞬時にやり取りできる時代なこともあって、何世紀も前から既にあった所からつい最近広まった所まで様々だが、多くの国でジャンケンもしくはそれに良く似たロジックのものがあることが分かっている。

■14■中国の5行説は5値で、地・水・火・風・空にはジャンケンのようにの勝ち負けの関係性が全体では5芒星の形にループしている。しかし5値では関係性が複雑で、ある程度時間を掛けても理解することは難しい。しかしジャンケンは簡単明快である。この勝ち負けを納得させる権威とは何だろう。

■15■厳密なルールや正確な判定によって勝ち負けが決まるスポーツや勝負事は多々ある。しかし死ぬかもしれない領域に足を踏み入れる順番さえも、ジャンケン1つで軽く決められる。そしてやくざも嘘つきもちゃぶ台返しすることなくその結果に従う。呪詛するのは出した拳を選択した自分自身をだ。

■16■私たちが普段複数人数で物事を決める時、何気なく気楽にジャンケンを用いているが、単なる気まぐれな決定事項にも使っている結果に従わないような素振りを見せるだけでも、その人の社会的名声や人格の全て全てを失うほどの確固たる強制力がジャンケンにはあるのだ。3が他の3と出会う。

■17■ではこのジャンケン勝負の結果は単純な(もしくは複雑でも計算可能な)確率に過ぎないのだろうか。気力や真剣度が勝負の結果すらも変えているという実感を持つことがある.それすらも運や妄想や思いこみに過ぎないのか。ジャンケンの結果の強い相互強制力はシンプルなルール自体にあるのか。

■18■ここまで思い巡らした後で、私自身の父方の祖父母がルーツを持つ青森県の北津軽地方には、グーがパーに勝ち、パーがチョキに勝ち、チョキがグーに勝つという衝撃的な津軽拳があることを知った。広島にもこの勝ちと負けのルール自体が引っ繰り返ったいわば逆ジャンケンというものがある。

■19■右回りの3角形を脳内に描いていたら、そこに重なって回転方向が真逆のベクトルを持つ3角形もあることを知った。脳内で起こった反転現象である。この時点で私は今後、正ジャンケンと逆ジャンケンの選択権も手にしたのである。…正4面体の上にジャンケン構造をイメージできるだろうか?

■20■1対多という非平衡なリーダージャンケンというものがある。1人が同時に多人数とジャンケンして、勝ちと引き分けは残り、負けの者から消えていく。最後に1対1になった時に初めて対等な勝負となる。もしくは最後の1人になった時点で終わることもある。リーダー自身は勝負の外なのだ。

      (…小休止希望…)

■21■「よう、ジャンケンねーちゃん。」「おい、誰だよあの娘、お前のナニか?」「いーや、単なる知り合いだ」「じゃあその変な呼び名は何なんだ?」「見ての通りだよ」「あー、センスはグーだが顔はチョキ、頭の方はまるでパーってか。」…これは私が昔描いたギャグマンガの中のセリフである。

■22■実はいずれ老年相手にマンガ(※)でも描いて、前世紀の女性が裸になった時に隠す部位がお国柄で異なってたよねー…という話題から、裸の女の子同士(…ここは絶対的に若い娘限定)で股間を隠すグー、胸を隠すチョキ、顔を隠すパーの「裸ジャンケン」のネタでも展開しようかも考えていた。

)コードネームは「シニアジャンプ」。

■23■老齢者の再春迎若にはエロ可愛が有効という勝手な論理からの、老婆心成らぬエロ爺心ですみません。何やらジャンケンの奥深さに圧倒されて話のオチ所が見い出せず、笑いを入れて文を締めようと、こびを売って顰蹙を買う、商売下手な私でありました。…ここは1つおアイコということで、続く。













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