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  • 2024.01.09 Tuesday
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黙秘する猫

      

■現行犯以外は罰せられないので、今朝は3時半頃から寝ずに見張っていた…つもりが4時半頃ふとウツラウツラしてしまっていて、そのわずかな間にビミョーに微量なニョーが布団の端に…。デルピーは足元にずっと寝ていたと思うし、チラッと見えた気がした白い足。しかしそのまま気を失って寝てしまった私も悪い。

■…というわけで、尋問してみた。なんか、なんでわたしが疑われるの?って感じの不服顔。愚妻は今日もやられて、とうとう尿なし布団がなくなったようだ(笑)。私はみかんが夜中に玄関で大声で泣き叫ばないように、見張り的な居間寝。しかしミイラ取りがミイラに…じゃなくて、尿犯人探しが尿被害に…!?













2値思考以前からある「数」と「形」



■リグベーダにある4句(テトラレンマ)的発想、古代ギリシア以来の2値論理の思考とそれが背景の「知」は、それのみではもはや近代西洋の物質的文明の終焉と歩調を合わせて、新しい大陸棚の下に潜り込み始めている。例えば『ヱヴァンゲリヲン』をどう観るかなどでも自己判断できるかもしれない。迎合か拒否か。
 
■それ以前から世界記述のすべは存在していた。西洋思考が幾何学と呼んだもののさらにその元だ。「形」と呼ぶことにする。そして2値の思考に数学として閉じ込められていた「数」。分かっているのに伝えあえないことのなんと多いことか。しかしすでに言葉や論理を超えて通じ合えていることの何と多いことか。 













論理の崩壊・思考の自解



 ■古代ギリシア以来の左脳主導の世界記述の論理はもう崩壊が始まっているのだと感じる。論理や思考がその主戦場である裁判や議論や教育の大半はすでにその方法では現実の高速に全く追いつかなくなっている。扱っているものは過去であり、過去を語り、過去の方法で未来を定めようとする。ビジョンも理想もかびだらけ。
 
■このままでは過去を処理するためにどんどん未来が食い尽くされ、直観やインスピレーションがしかるべき地位を確保すべき場所を、機械的作業のノルマが浸食しつくしてしまう。論理・思考は分を弁えればまだ多いに有効有益なのに、このままでは自ら出した自解が自壊になってしまう。若者の多くはすでに知っている。














4値論理へのバリエーション

        彼らを赦したまえ、その為すところを知らざればなり。−−−「ルカ伝」23章34節


■アポロン神殿で神託を受けたソクラテスは「無知の知」ということを言った。「知らないということを知っている」ということだ。孔子も『論語』の中で「これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり」と言っている。また仏陀も「もしも愚者が我れは愚かなりと知れば即ち賢者である。愚者でありながら自分は賢者だと思う者こそ愚者と呼ばれる」と言ったそうだ。

■それぞれみなパラドクスのようだ。「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」とウィトゲンシュタインは言明している。しかし老子は「識る者は言わず、言う者は識らず」と敢えて言っている。もはや完全にパラドクスだ。しかしもはや立ちすくむ必要はない。文脈の異なる言明をまとめて語るのはかなり乱暴だが、哲学ではなく論理の構造について語ろうとしているのだから良しとしたい。

 1.分かったということが分かっている。
 2.分かったということが分からないでいる。
 3.分からないということが分かっている。
 4.分からないということが分からないでいる。


■ソクラテスの「無知の知」的な言質は1〜4のように分類できる。1と2は知識(ヴィジュニャーナ)であり、3と4は突如直観的・綜合的に分かるもので智慧(プラジュニャー)という。サンスクリット語の漢訳でなくてもいいのだが、厳密な意味ではなく次元が異なる分かりやすい記号として扱おう。知識の「分かった−分かっていない」の対を赤線で、智慧の「分かっている−分からない」を青線で示した。

■図のように正4面体の頂点にプロットすると、智慧としての「分かっている」からは知識での「分かった」と「分かっていない」を等距離に見ることができる。また智慧としての「わからない」も2者を等距離に見られるが、自らもその知識の平面に含まれてしまっている。知識の平面から唯一立ち上がっている「わかっている」視座は、他の3点を等距離に盛ることが出でき、その視野は正4面体の胞と重なる。

■なお左図は菱形の頂点上に4値を平面的に配したモデルだが、これだけでは智慧の側の「分かっている」および「分からない」から知識側の「分かった」と「分かっていない」が等距離であることや、知識の対の線分と智慧の対の線分が接してはいないが直交している関係としてプロットできるということは見て取れない。なおここでの4値論理とは「A、B、AかつB、AでもBでもない」のことである。



■「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ。」…シェイクスピアの『ハムレット』の有名なセリフである。この苦悩の2値を4値のロジックで書き直してみよう。「生きるべきか、死ぬべきか、生きながら死ぬべきか、死にながら生きるべきか。」本当にこれでいいのだろうか。では原文に当たってみよう。“To be or not to be, that is the question.” 実はこの有名な台詞は訳すのが非常に困難だとされている。

■先ず「be」の意味が難しい。存在する、実在する、生存する、ある…。そして「not to be」を「To be」の否定とするか、対義語と解するか。一番有名なこの「生きるべきか死ぬべきか」は対義語としている。しかし否定として訳した坪内逍遥の「世にある、世にあらぬ、それが疑問ぢゃ」(1926年)などがある。また劇の流れからは「復讐すべきか否か」とも取れる。2値でも難しいのに4値化などできるのか。

■いや4値論理とは言うものの、未だ確定したものでは全然ない。必ずしも硬直したように「A,B,both A and B,Neither A nor B」とすればよいというものでもない。そこで「生きるべきか、死ぬべきか、生きながら死ぬべきか、死にながら生きるべきか」だ。冗長にも思われるが、意訳として見直せば「生きながら死ぬ」とか「死にながら生きる」など、何やら深い文学的な含蓄が感じられたりもする。



■さて順番は逆になったが、もう少しシンプルところから4値論理を見ていくことにしよう。人間のジェンダーは男か女かである。ジェンダーという言葉は、医学や心理学分野では「生物学的な性、性同一性」として使われており、社会科学分野では時々「社会的文化的な性のありよう」として用いられている。時代と共にその語義も変化しつつあるので注意が必要だが、4値だと以下のように表されるだろう。

 1.男である。
 2.女である。
 3.男でもあり、女でもある。
 4.男でもなく、女でもない。

■前世紀末から女神の時代と言われて久しい。しかし男性の中性化とか女性の男性化などと言われる時代の趨勢にかかわらず、これまでのような太陽の時代と月の時代の交互振動を超えて、男性も女性も生き生きとその極性と対性を生きることができる世界に向かいたい。男性の中の女性性と女性の中の男性性とは、4値的思考では、外なる異性との相補的反転性も含めた4つ組構造としても認識できるだろう。

■3の「男であり、女でもある」は男女の配置が逆なだけの「女でもあり、男でもある」という表現と等価である。個人の中で言えばジェンダーとその反転内包された対のジェンダーが共に上手く機能しているということだが、4の「男でもなく、女でもない」は性同一性不全症候群的な意味合いではなく、男性性と女性性が個人の中で統合超越して、それに捉われない在りようとして解することもできそうだ。
 
■では次に「老若男女」の「老若」要素についても考えてみよう。老人−若者の対ではなく、「老いている」と「若い」の対としては、その認識主体が個人的か社会的かで評価は異なることがある。(522)で4という数を2×2として見るか3+1として見るかでその様相が変わると表現したが、正4面体上では2×2は<線−線>の回転対称性に、3+1は<面−点>の回転対称性に重ね見ることができる。

■そこでここでは正4面体の4点にプロットした「老、若、老いかつ若い、老いてもなく若くもない」の4値として見るのではなく、個人的自覚の「老−若」と社会的評価の「老−若」を線と線の対としてプロットしてみることにしよう。この個人⇔社会の対は主観的⇔客観的の対でも良いし、内面⇔外面もしくは自己⇔他者の対としても置き換えられる。6本ある正4面体の残る線は2対4本として見ていこう。

■個人・社会双方とも「若い」と、双方とも「老いている」という評価の線が1対2本。そして主観的には若いのだが客観評価が老いているなら「老いてなお若い」、主観的には老いているのだが客観評価が若いなら「若くして老いている」とでもなる1対(※1)。主観だけでも客観だけでもなく、この正4面体の全体を1つとして統合的に見る視点は、いわば4人称的な視座として捉えることができるのではないか。



■「生命は光だ。闇の中にまたたく光だ。」これは宮崎駿の『風の谷のナウシカ』の中で、千年続く自らのグノーシス主義的な世界観に引き込もうとするものが、「おまえは危険な闇だ。生命は光だ」と言うのに対して、ナウシカが叫ぶ言葉である。グノーシス主義はこの世界は悪の宇宙に他ならないと言う。眼前の光も闇も所詮「闇の中の闇と光」であり、人間と「光の中の光」とは超え難い断絶があるとする。

1.闇の中の闇。     3.光の中の闇。
2.闇の中の光。     4.光の中の光。

■グノーシス主義は、可視的な物質や肉体は悪であり、霊あるいはイデアこそが真の存在であり世界であるとする反世界的二元論で、闇の世界と光の世界は交わらないとする。しかしこの二元論を正4面体上に光と闇で表現すると下のようになる。「闇の中の光」は「闇の中の闇」や「光の中の闇」だけでなく、2値2元を超えて「光の中の光」とも線でつながっている。もちろん他の3点相互もまた同様である。
     
■2元論を否定する必要はない。2値論理を内包しつつそれを超えていく。人間が人間を否定し、この世界にいながらこの世界を拒絶してしまっては、さらに超えて先に行くその足掛かりをなくしてしまう。世界が道理に合わないのであれば、暴力や操作や犠牲もやむなしとして世界を変えようとする前に、道理そのものを捉え直す必要がある。2値の論理も3値も、そして4値すらも超えて私たちは進めるのだ。



■アスパラガスが嫌いな子は多い。アスパラガスは被子植物単子葉類に属する多年生草本植物である。ビタミンA、B1、B2、C、E、葉酸、ルチン、グルタチオン、アスパラギン酸のほか、カルシウム・カリウム・リンなどのミネラルも多く含まれており、病気への抵抗力を高め、疲労回復、美肌効果や利尿作用もある優秀な食物である。調理法で食べさせようとしたり、論理的に説得しようとする親もいる。

■ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の中で、アリスはこんな風に言う。「あたし、アスパラガスが嫌いで良かったわ。だって好きなら食べなきゃならないんでしょ。あたしそんなのいやだもん。」さてこのアリスの言葉をどう見るだろう。最初から論理的に破綻している?何となくパラドクスっぽくて意味ありげ?そこには何も意味を見い出せない?もしくはひょっとしてただ可愛いと感じるとか。

■実はこの4番目の感覚が大切なのではなかろうか。論理以前でも以後でもなく、最初から論理の外にいるということは、そこが闇の世界だと言われようとも、なにも動じないということだ。強制、洗脳、操作、方便、哀願…いかなる手段を用いようと、そこに慈愛と信頼がなければ論理の仮面を被った暴力に等しい。論理をもって論理を超えるという方法の他にも、解決への道はおそらく沢山あるに違いない。

■ダジャレや言葉遊びが面白いと笑うのは、その言語空間におけるずれ具合を論理的に理解するからではなく、瞬時に理解する平衡感覚によるのだろう。その論理解のみを求めていると、知らぬうちにひとりよがりの知の暴走に陥ってしまう。論理解も重要だが、ナンセンスもパラドクスも平気で超えていく、その本質に触れると笑ってしまうような、2値論理からはみ出したセンスを忘れてはならないのだろう。

………………………………………………………………………………………………
(1)この表現そのものは客観よりだが、主観よりならばこれとは逆の表現にもなりうる。個人差もあるし、4人称的と評価する視座が1人称的であることもあるが、反転操作をする前の自己他者問題の1モデルとなるかもしれない。














うちのみーすけがトラ猫になっちゃった

 

■この後、キャッツらはこんなふうな焦げ目がついた焼サバ喰いました。













名古屋モーニングだがね〜



■最近はモーニングは追加料金を取るところが増えてきたけれど、個人的にはその方がいいと思っているというのは、友人であるふうさんの意見。モーニングが食べたくない時に飲み物だけを頼んでも、モーニング付きと同額というのは、何かものすごく損した気分になるからだって(^_^)。
 
■名古屋以外ではオプショナル利用金でサラダやパンなどつけるお店は昔からあったけれど、名古屋に慣れちゃったからたまに東京に戻るとコーヒーだけしか出で来ない(他の地でも同じか)ので、すごく損した気分を味わっちゃう。モーニング以外の時間でもお菓子とかなしかいっ?…って(笑)。
 
■ふうさんの食べたくない時の損した感覚って、その裏返しというか対偶というか(笑)、似ているかも知れない。これは逆手にとれば、毎朝の名古屋モーニング(毎朝行っとるんかい?…うん)に、日々得した感の反芻をしてハッピー気分になり得るってことだよね。
 
■最近ではかなり浸透しているみたいだけれど、食事をしたお店で食べ切れなかった料理などを持って帰ることが恥かしく自然になって来ているように、モーニングでもお持ち帰りアリなのでは(^^)。当家ではたまに茹で卵を剥くのが面倒な時は愚妻のと2個カバンに入れて持ち帰っちゃう。
 
■家に戻ってから、その茹で卵をちょいと潰して野菜を混ぜて、ご飯に一品追加したり卵サンドにしたりしている。卵サラダように茹で卵何個か茹でるのって、ちょっと面倒臭かったりするけれど、あるとかなり使えるし。あと、ラーメンならそこにトッピングしただけでプチリッチ(笑い)。
 
■あと飲み物代金に100円追加で全部で8品モーニングが付くお店があるんだけれど、こちらの方だと今度はたった100円追加であんなにつくのに、コーヒーだけでこの値段って、何か損した感じ〜っのもアリなわけで…。はたしてこれが人間として尋常なのか贅沢なのかも良く分からない(^^)。
 
■何にしても全国の皆様、名古屋にいらした時はぜひ午前10時か11時までに喫茶店に入り、名古屋モーニングにトライしてみて下さいな。ちなみにそれ以外の時間でもお菓子やお豆がついてくるし、なぜか1日中モーニングサービスしているお店もあったりするし(モーニングという意味がすでに脱落している…笑)。 













モーニング便り、里芋便り



■いつもは11時ギリチョン前に滑り込みモーニングなのだが、久しぶりに早朝モーニングを敢行。名古屋は中区の白壁にある「花ごよみ」という喫茶店に繰り出した。名古屋名物飲み物頼めば付いてくるモーニングセットで、今日はおにぎりセット。390円で茶碗蒸しまで付いてくる。このお店、結構好きなんだ。

■まずお冷やを飲んで、おにぎり食って、熱いお茶飲んで、冷たいアイコー飲んで、サラダ食ってもいっこおにぎり食って、熱いお茶飲んで、アイコー飲んで、あったかい茶碗蒸し食って、お冷飲んで…と結構たいへんです(笑)。というか、しかし注文したコーヒーそのものが一番お盆の上で場違いだとは…(笑)。



■里芋便り。人の内のベランダの緑なんぞどうでもいいと思う人もいるだろうけれど、毎日の水やりだと気がつきにくかったけれど、10日間でこれだけ伸びた。これからだんだん土盛りしたりしていくんだけれど、何か一番奥の方に混入していたカボチャらしきものがぐんぐん伸びちゃって、里芋の陣地を侵略中。

■それにしてもこんなにびっしり葉が出るなんて。里芋、どんだけ力強いのだろう。半分にしてもまだ多いくらいだ。しかし狭いベランダではこれくらいが限度。あとはバジルの鉢植え2つとチャイブくらい。残るは室内で種まきバジルの育成中。去年こぼれたしそなどもちょいちょいと芽が出てきている。夏。














ジャンケンは3つ巴の3値論理

 

■1■ジャンケンはグー・チョキ・パー3つ巴の構造である。この3要素から1つを選択して、同時に提示し合った2要素の関係性で勝ち負けは決定する。結果は勝ち・負け・引き分けの3パターンだ。2者間の引き分けは同じ要素を出した場合だけだが、多人数でのジャンケンは3要素が同時に出揃った場合も引き分けになる。2でも4でもなく、わずか3要素で勝敗や世界の配置が決まる強力な3値論理である。

■2■この3すくみの構造は、古くは中国の『関尹子(かんいんし)三極篇』という文献にも見られる(1)。「螂蛆食蛇、蛇食蛙、蛙食螂蛆、互相食也」という部分で、「ムカデは蛇を食い、蛇は蛙を食い、蛙はムカデを食う」という意味である。ムカデがナメクジに変わってはいるが、日本の平安時代の文献にも「蛇は蛙に勝ち、蛙はナメクジに勝ち、ナメクジは蛇に勝つ」という3すくみの拳遊びで「虫拳」が出てくる。

■3■現在世界中に広まっているジャンケンの歴史は意外にも新しい。実は江戸時代から明治時代にかけての19世紀後半に日本で成立したもので、20世紀に入ると、日本の武道や文化やゲームと共に急速に世界中に拡がったのである。日本古来の3すくみ拳と東アジア伝来の数拳から創出されたと考えられている。現在中国で行われているジャンケンは、明治以後に日本から逆輸入的に伝わったと推測されている。

■4■お菓子の大小を取りあうことから、死ぬかもしれない領域に足を踏み入れる順番さえも、ジャンケン1つで決定することができる。参加者は自ら出す拳を他ならぬ自分自身で選択する。そしてやくざも嘘つきも、その結果に対してちゃぶ台返しすることなく従う。思い通りにならなくても、呪詛するのは拳を選択した自分自身、もしくはそれを選ばせた宿命であり、ジャンケンのシステムそのものではない。

■5■私たちが普段何気なくジャンケンで物事を決める時でも、その結果に従わない素振りを少しでも見せたら、その者は人格や正気さを疑われる。それほどの確固たる強制力がジャンケンにはある。この勝ち負けを納得させる権威とは何だろう。ジャンケンは単なる確率の問題ではなく、気力や真剣度が勝負の結果も変え得ると感じることがある。2値では破れない均衡を破る3の超越的な破壊力なのだろうか。



■6■強い2元論的な世界の認識・記述方法は西洋や中東に発生した一神教的世界観と強く結び付いていよう。しかしそこからは、3つ巴的発想を想定した確固たる相互了解のルールは生まれ難かった。対性や相補性を否定することなく、全体ではそれらのループとして1つであると共に、豊富なバリエーションも内包するこのジャンケンは、やはり多神教的・汎神論的世界観の中で生じるのが自然だったのだろう。

■7■西洋では近代化の中で国家権力の腐敗を防ぐために立法・司法・行政の三権分立という発想が生まれた(2)。これは厳密性に則り、それを破った者には厳罰を科すという二元に基づくシステムである。ここからは大岡越前の守の「三方一両損」(※3)のような粋な裁定を生む余地はなかなか生じ難い。押しつけられた西洋的な三権分立が日本に根付かないのも、日本には元々強烈な二元がないからではなかろうか。

■8■現代は膨大な情報が国や地域を超えて行き渡るために、世界中の各国各地方には同様の3すくみ、4すくみ、5すくみの遊びや勝負が多数存在することが分かってきた。何世紀も前から既にあった地域からつい最近広まった所まで様々である。世界大会を開くために世界各地のジャンケンのルールを統一した、「 the World Rock Paper Scissors Society」(WRPS)が、2002年にカナダで結成されている。

■9■ジャンケンでは指で0〜5を表す形から1,3,4を省き、認識しやすい0、2、5を残して「石」「鋏」「紙」の意味を添え、3つ巴的3すくみの構造を完成させたものと言われている。2の形のチョキは、元々人差し指と親指の「男チョキ」だったが、後に人差し指と中指の「女チョキ」が派生した。この3値に対応する意味づけは国や地域によって異なるが、勝負のルールは同一構造の形で統一されている。

■10■青森県の北津軽地方には、グーがパーに勝ち、パーがチョキに勝ち、チョキがグーに勝つという津軽拳がある。広島にもこの勝ちと負けが引っ繰り返ったいわば逆ジャンケンがある。右回りの3角形を脳内に描いていたら、そこに重なって回転方向が真逆のベクトルを持つ3角形もあることを知る。3が他の3と出会う。脳内で起こった反転現象である。正4面体上にジャンケン構造をプロットできるだろうか。

■11■現在の日本にはほかにもグーチョキパーの3要素もしくは2要素を使って、多い者の方が勝ち(または負け)となる「多い勝ちジャンケン」や、1人が同時に多人数とジャンケンして、勝ち(と引き分け)は残り、負けの者から消えていく「リーダージャンケン」、次の行動と連動する「あっち向いてホイ」、声や顔の表情や足や身体全体など拳以外を用いたジャンケンなど、様々なバリエーション生まれている。

■12■世界の様々な地域ではこの新しい概念でゲーム要素もあるジャンケンへの熱中度が高く、世界大会も開かれている。大人数の場合なら、日本では上述の新しいジャンケンで早々に絞り込めるが、これも2値論理的な名残だろうか、世界大会はトーナメント方式で戦われている。このジャンケン的発想には、子供の対立から血みどろの喧嘩や問答無用の殺し合いを、回避させる可能性があるのではなかろうか。

………………………………………………………………………………………………

1)「螂蛆」はムカデのことであり、これがわざとか間違えられたのか、後に「蛞蝓」(なめくじ)となった。周の関令尹喜の作だが、唐・五代頃の偽作とする説もある。周時代はBC11世紀からBC256年、唐は618〜907年であり、五代なら907〜960年である。どこであったとしても、この論理は中国の戦乱の世の中で生まれたことになる。
2)1748年、モンテスキューが『法の精神』を発表した。
3)古典落語の演目の1つ。左官屋が3両を拾い、落とし主の大工に届けたが、大工は一旦落とした物だからと受け取らない。大岡越前守は自ら1両出して2人に2両渡し、これで三方1両損なりと言った。














人間の色を3値として見る



■1■人間の網膜の視細胞には明暗に敏感に反応する桿体細胞と、色覚の元となる波長感度のピークが異なる3種類の錐体がある。これは人間の視覚器官自体の構造であり、これらの情報を元に、世界を「人間の色」として認識しているということだ。したがって色に関しては補色(1)や明暗の対概念だけでなく、ジャンケンの三つ巴関係や素粒子領域におけるクォークのように、3つ組の関係性で捉える必要がある。

■2■3種類の錐体の感度ピークは約430nmにある短波長、約530nmの中波長、約560nmの長波長で、それぞれ青錐体・緑錐体・赤錐体と呼ばれている。短波長を全て合わせると青になり、中波長全てだと緑になり、長波長全てだと赤になる。原理的にはこの3色の混合で波長が約380nm〜780nmの可視光スペクトルは、私たちにとって波長の短い方から長い方へ<紫−藍−青−緑−黄−橙−赤>と連続的に推移する。

■3■短波長域と長波長領域は、それぞれ不可視な紫外線と赤外線に繋がっている。概念的にはこの全可視光帯域を青・緑・赤3色とその混合へと還元することができる。色の3原色には「色光の3原色」と「色料の3原色」がある。前者は色を帯びた光で混色するほど明るくなり最終的には白になる。また後者は顔料などで混色するほど暗くなり最終的には黒になる。これを「加法3原色」と「減法3原色」とも呼ぶ。

■4■赤(Red)・緑(Green)・青Blue)の色光からなる加法3原色は<RGB>とも呼ばれる。この3色をそれぞれ2色ずつ混色してみると、R+G→Y(Yellow/黄色)、G+B→C(Cyan/シアン)、B+R→M(Magenta/マゼンタ)となる。この<CMY>は色料の3原色すなわち減法3原色である。色光の3原色であるRGBと色料の3原色であるCMYは、それぞれR⇔C、G⇔M、B⇔Yが補色の関係にある。



■5■短・中・長波長帯域で3区分した前ページの図上で示したように、加法3原色の青・緑・赤はそれぞれ全体の1/3の短・中・長波長帯域の色である。全スペクトルを含む白色光の2/3は吸収され、残る1/3だけが反射している状態と等価である。一方RGBの2色混合でもある減法3原色のシアン・マゼンタ・黄色はそれぞれ全スペクトルの1/3が吸収され、2/3が反射している状態と等価である。

■6■ここには1/3と2/3を介したネガとポジの関係もしくは対称性があることが分かる。ただし1つ明確にしておかねばならないのは、これもまた光の物理的特性の観測と、人間の視覚器官の構造的理解を背景にした、「人間の色」に対する現在の科学的解釈の仕方の1つであるということだ。人間の目が色を認識するシステムは加法混色である。一方絵画や印刷などは減法混色だ。あと半歩進んでみよう。

■7■「色光は太陽、色料は月。では地球は?」などと囁いてみる。自らが発光体である太陽は光の飽和の「白」である。月自身は発光しないので単体では光が不在の「黒」である。地球には月と太陽を同じ大きさに見る位置がある。人間が物を見るためには(1)光源(2)光によって照らされた物体(3)人間の視覚系という視覚現象の3要素が必要である。これは象徴的に(1)太陽(2)月(3)地球に対応させることができる。

■8■私たちの目に映る月は、太陽光が月に吸収されずに反射したものの一部である。プラトンの洞窟の比喩では私たちが見ている世界は「光源ではなくその影」だった。私たちが普段見ているものの殆どは「物体色」である。つまり色覚現象の3要素で言えば光源ではなく光と物質の相互作用である。「太陽の光」ではなく「月の光」なのだ。この3つ組関係に垂直方向の関係として太陽系の各惑星が存在している。



■9■古代より近代までの永きに渡って、惑星は土星までしか知られていなかった。地球軌道の内側に軌道がある水星と金星の周期は、地球との関係でそれぞれ共に超越数である円周率のπと黄金比のφを内包していた。そして地球軌道より外側に公転軌道があるのは火星・木星・土星の3惑星だ。この地球から最も近い火星及び最も遠い土星の会合周期、つまり太陽−地球−土星及び太陽−地球−火星の3天体が一直線になってから、再び同じ位置関係になるまでの周期は378日及び780日である。

■10■ところで可視光線の波長帯域は378nm〜780nmだった。つまり地球からの視座における火星〜土星の間と人間の可視光帯域とが、1日と1nmの対応でぴったり重なっているのだ。なお金星の会合周期584日に対応する584nm近辺の単色光は、色料の3原色の1つで有彩色中最も明るい黄色(570〜590nm)である。…いやしかし勇み足的な踏み出しは半歩に留めておこう。1歩進むと話が合わなくなりかねない。

■11■色には色相・彩度・明度という「3属性」がある。「色相」は赤・黄・緑・青などの色の様相の相違であり、「彩度」は色の鮮明さの度合いあり、「明度」は色の明暗の度合いである。連続する色相を円環に並べたものが色相環であり、3属性を秩序だてて3つの次元に分配配置したものが色立体である。私たちは3値的論理をもっと上手く使えれば、色についてもう少し分かり易く語り合えるのかも知れない。

………………………………………………………………………………………………

1)補色とは色相環で正反対に位置する色との組合せで、合わせると色光の場合は白色透明になり、色料の場合は黒色となる。












 


4×4の「色即是空」

 

■1■『般若心経』で昔はやはり「色即是空」が一番有名で、ピンであちこちで回っていた。最近では逆もまた真なりというか、片方だけではスピン1/2の片回りだけのような、もしくは行って来いでようやく面点変換を完了する双対立体的に「色即是空、空即是色」で完全なものだと捉えていた。

■2■しかしテトラ・レンマというか、リグ・ヴェーダの冒頭近くからすでにあったという四句分別的な論理(世界観)を持って、ずっと後の『般若心経』をさらにずっと後の現在見直すと、「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」でワンセットとしても捉えられるという見方ができるようになった。
 
   (1)色不異空(色は空に異ならず)
   (2)空不異色(空は色に異ならず)
   (3)色即是空(色はすなわち、これ空なりて)
   (4)空即是色(空はすなわち、これ色なりし)

■3■レンマの数は1→2→4となり4句になった。しかしステップとしては1→2→4の3段階である。また「色」先手とする句は2つ、「空」先手とする句2つの2対性は保たれている。「色・即・是・空」の4文字と、(1)〜(4)の4行という数だけでも、そのホロニックな構造は目で分かる。
 
■4■もちろん言わんとしていることは1つ。この壮大な自他的な双対関係が、合わせて1つとなる関係で潜在しつつ、その自他を相互に補償している。安易に正4面体にプロットするまでもなく、これはこのまま4×4の16文字としててはなく、むしろ1つの記号か絵画として視覚記憶してもよさそうだ。













 


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