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マンガ描きにも何か言わせろや
- 2013.07.31 Wednesday
- ■数の世界
- 18:26
- comments(0)
- -
- by 小野満麿
■1■マンガを描く者の多くは「遠近法」を用いる。3次元を2次元に写し取るために、1点、2点、もしくは3点の「消失点」を置く。シンプルに1点透視図法を考えよう。画面のどこかに消失点を定める。するとそれは必ず地平線上に来る。地平線は天地が1つになる1次元だが、その上の点は0次元である。
■2■人間の視覚認識そのものの反映でもあるのだが、天の無限と地の無限が1つになる地平線という1次元の上に、置かれた空無である0次元の消失点。遠くに行くに従って諸事物は圧縮されるが消失するわけではない。この消失点の中には理論的に無限の空間が閉じ込められているのだ。0の中に無限がある。
■3■単なる1技法として、そこで思考を止めてはならない。20世紀に高速移動の乗り物が発明なるまで、ほとんど全ての人間は物理的に高速移動する経験を知らなかった。高速道路や北海道の平原を走る車から前方を見ると、消失点から次々に新風景が湧出する。後部座席ではその逆を普通に目撃できるだろう。
■4■マンガの主人公を背景に立たせるために、アシスタントは画面のどこにでも消失点を置くことができる。効果を考えてコマの外や紙の外に置くことも可能だ。私たちの通常空間で世界を見る時も、目の焦点があったところが消失点となる。眼前のモノを見た時、消失点の向こう側に回り込む無限とは何か。
■5■この通常空間における消失点は必ず左右両眼の間に定まる。視線は圧縮されるが、間に自らの手や身体を入れることで奥行きは0ではないことが分かる。また消失点を移動させることで、月の全表面の59%が見えるように、点の向こう側の部分情報を得ることができる。ここでのヒントは身体と時間である。
■6■私たち個々人がみな少しずつ異なっていることは、決して世界を住みにくくしているわけではなく、むしろこの個体差が、消失点の向こう側に圧縮されている世界の背後情報の部分をもたらし、それらをジグソーパズルのように集め、再構築することもできるはずだ。自分を愛し、より自分らしく生きること。
■7■私たち個々人がみな少しずつ異なっていることは、決して世界を住みにくくしているわけではなく、むしろこの個体差が、消失点の向こう側に圧縮されている世界の背後情報の部分をもたらし、それらをジグソーパズルのように集め、再構築することもできるはずだ。自分を愛し、より自分らしく生きること。
■8■個性を磨くことは自分自身のためだけでないという事実。マンガを描く時に画面の外に消失点を置くことができるように、私たちが今見ている眼前の世界風景の外に消失点を置くとはどういうことなのか。世界認識は視覚情報だけではないし、それを試みる個々人にとって、異なる方法と意味があるはずだ。
■「部屋全体も,四面の壁も,床も天井も,これら全てが歪められてはいますが,この小さな円の内に収縮して入っています。あなたの顔を,厳密に言いますと,あなたの眉間が中心なのです。何をしても,その焦点から逃れることはできません。あなたは,あなたの世界の動かぬ中心なのです」(エッシャー・談)
■昨日見つけたエッシャーの言葉。この「反射球体と手」というリトグラフに触発されて、二十数年前にマンガを1本描いたんだけれど、当時「反転」の概念を人々に伝えようとしていたkohsen氏に、私が感じたこの球体の中に入っていくと曲率が変わって同じ絵ヅラになっちゃうとか、双方向が対になっているとか、色々説明しようとして口下手な自分に気がつきました(笑)。
■それにしても当時私が説明したかったような言葉で、エッシャー自身が語っている上の言葉ですが、ちょっと落ち着いてみると、Kohsen氏がこのリトグラフを前にして語っている言葉のように思えてきてしまうのは私だけでしょうか?不動の世界とか、そのあたりのことまで含めて。…うーん、ちょっとだけ色合いが違うけれど、それがまたいいです。全く同じだと不気味だし(笑)。
………………………………………………………………………………………………
(※)こんな作品です。読まなくていいです(^^)。
http://metatron.la.coocan.jp/zone-9/maiju/maiju00.htm
『数の恍惚・数える至福』 2013/08/11,12,13 in Space Dining Room
- 2013.07.30 Tuesday
- ■日々の記録
- 17:53
- comments(4)
- -
- by 小野満麿
・『宇宙食堂』のラストダンスの1演目として、3日連続で無責任な話をします。タイトルは『数の恍惚・数える至福』です。宇宙食堂でのメニューオーダーは各自でお願いします。途中参加・途中退出・食事・居眠り自由自在です。
・参加費は無料です。カンパやお布施、寸志や寄付、ドネーションやこころざしその他は不要です。それではこちらの気持ちが収まらないという古いタイプの人は、今後巡り合う他者か未来の自分に対してその気持ちを表して下さい。
------------予定内容--------------------
■11日
午後1時〜3時<1>「星」太陽系トポロジー(metatron version)
午後3時〜5時<2>「形」プラトン立体万華鏡
■12日
午後1時〜3時<3>「暦」銀河暦から自分暦まで
午後3時〜5時<4>「音」平均律と月のテンプレート
■13日
午後1時〜3時<5>「語」日本語と4値論理
午後3時〜5時<6>「数」数の恍惚・数える至福
---------------------------------------
・それぞれわずか2時間弱ずつですが、このテーマでキモを少しだけ足早にかつ早口で駆け抜けたいと思います。 さらなる内容の詳細はまた追ってウェブ・フライヤーにてという感じです。
・個人的には2013年以降の常識と発想の元となるものとして構築してきたつもりのものですが、ひとりよがりの王国からの発信なので、いかなる影響の有無に対しても免責希望です。
・できれば不要な過去にシカトして、現在と未来のために語りたいです。3日間とも終了後、できたら質問や対話や懇談をお店の負担にならない程度にやれたらやろうと思っています。
・経済的目的も主義主張もありませんが、参加や詳細の打診などは『宇宙食堂』さんに一声おかけ下さると人間として筋が通るかと思います。もちろん人非人・猫・妖怪その他でも参加できます。
・金持ちの道楽でも貧者の気概でもありません。ただし残念ながら話がつまらないからと言って「金返せ!」攻撃は無効です。そのような心情が湧出したとしても、おのれの不運と自得して諦めて下さい(^^)。
・内容に関してつまらない、わからない、意味不明、地味…などはデフォルトでお願いします。それでもという殊勝というか、奇特な方だけこせ足労願います。あらかじめ言っておきますが、マジ、つまんないかもよ。
0と1と2…3以前の数
- 2013.07.30 Tuesday
- ■数の世界
- 17:47
- comments(0)
- -
- by 小野満麿
■1■数は数学や科学や数秘術の中にあるのではない。それらに制限されることなく数について考えることは、誰にでも可能だ。0は整数であり、有理数であり、実数である。0は正数でも負数でもなく、その中間にある。0は素数でも合成数でも単数でもない。しかしそれでも0は奇数ではなく偶数である。
■2■数学の限定されたジャンルのみに有効な0に関する定義は、いわゆる業界言葉に等しい。少なくともそのジャンルに関わる者にとって、そのジャンルの利便性のための部分的定義と、より広い一般的語義との差異を、哲学的思考により明確化しゆく努力を為そうとしないことは、大いなる職務怠慢である。
■3■0を自然数に含めるかどうかは数学者の間でも考え方は分かれている。日本では高校までは自然数に含まないが、理系の大学教育では自然数に含むものとして取り扱うことが多い。つまりまだ明確に決定されていないので、必要な場合はその都度断ることになっている。私たちも個人で決めればよいのだ。
■4■なお数を数える時に、その概念や体系によって0から起算するものと、1から始めるものとが混在している。距離、満年齢、周年、時刻などは前者であり、数えの年齢や日付は後者である。つまり0時0分0秒はあるが、0年や0月や0日は存在しないのだ。位取り数記法では0は空位を表す数である。
■5■0は空であり無でありあらゆるものの不在に対応するが、0は0だけでは意味を成さない。0でない何かとの対比によって初めて0が数となる。0ではない何かの最少単位が1である。0と1と聞くと、多くの人が先ずは現代文明の根幹の1つ、オフとオンの2進法的なテクノロジーを連想するだろう。
■6■0と1はまた空無と全一、虚無と実在、あるいは空間と物質、図と地のように、存在態そのものの対概念とも解せられる。しかし正でも負でもなく、単数でも複数でもない0は、+方向にも−方向にも果て見えず連なる数の全体との対であり、実数や有理数の中に開いた、点的存在の穴のようでもある。
■7■1は最も原初的な存在を表す数であり、ものごとを測る最初の単位である。1は自然数のうちで最小の奇数である。現代では1は素数でも合成数でもなく、単数であるとされる。1は1自身の階乗であり、また1自身の自乗でもある。0以外の任意の数の0乗は1である。また0の0乗は定義されない。(※)
■8■通常の整数に0を何度足しても、また1を何度掛けても、元の数に変化はない。0を加法における単位元、1を乗法における単位元と言う。数の累乗において、指数が0の場合は必ず1となる。1と1の間で四則計算をすれば、差は0、積は1、商も1だが、和だけが自らを超えて2となることができる。
■9■0と1を思考によって、実在の世界の数に対応させると1と2になる。このずれは年齢を満で数えるか数えでカウントするか、また天文学者がBC1年を0年とカウントするかの差異に似て、思考する側の問題であり(正逆両方向のスライドがあり得る)、0,1,2そのものの本質とは関わりがない。
■10■1と1はフィボナッチ数列の初項と第2項である。1と3と勘違いする人もいるが、2と1がリュカ数列の初項と第2項である。数は3から始まるという表現にとって、1と2はアプリオリであり、そしてこの関係は0と1に逆スライドする。0は別の数理世界に通じているようにも思える特異点である。
………………………………………………………………………………………………
(※)ただしコンピュータにおけるいくつかのプログラミング言語は0の0乗を1と定義している。
モーニングプレート
- 2013.07.30 Tuesday
- ■日々の記録
- 17:43
- comments(2)
- -
- by 小野満麿
■今朝も、超高速でモーニングプレートを作ってみた。今日のスペシャルはスモモとアイスのチリ&スパイス・チョコレート。サラダのトッピングに紫蘇の葉と茗荷を隠し味で。今回は結構いいタイムで制作できた。…まあ食べるのも餓鬼界入って、かなり速かったけれど。これから食後のアイスコーヒーなり。
■思考により世界の実在が明確になって行くのではない。思考により世界が実在として立ち上がって来るのだ。思考なく新しい世界の描像はなく、過去の記憶と現在の知覚があるだけだ。それだけでも確かに十分豊穣だ。だがそれで十分な者に、多大な酸素を消費するさらなる思考を強要することはできない。
初めての2度目…あるいは0,1と3,4の間に在る2
- 2013.07.29 Monday
- ■数の世界
- 13:10
- comments(0)
- -
- by 小野満麿
■1■世界を体験している最中に、その体験を過去の様々な経験に照らし合わせて今までとこれからの接続のために様々な処理をしている自分がいる。全く新しいことは初見であり、未知である。過去に1度でも経験したことの再体験中であることは、未知とは異なる時間質であり、空間の印象は全く異なっている。
■2■初めての場所と1度でも訪れた場所とでは、その印象や皮膚の空間と時間への接続の仕方が随分と異なる。自分が初訪の町に降り立った時、その町の人たちのその土地に対する意識の態と明らかに異なることは自覚できる。次の町角の向こう側にある風景すら全く分からない自分には未見と初見の事ばかりだ。
■3■経験頻度の差はあろうが、その町に住む者にとってその未知感はすでにない。記憶と相まって不二の空間としてそれはそこにある。これを逆の立場の人に対して、その既知と未知が逆の感覚で接したり、想起や想像することすらもとても難しい。ヘッドフォンで音楽を聞きながら音漏れの有無は自覚できない。
■4■図と地の認識のように、私たちは既知と未知の明確な差異を同時に認識することはできないのである。ただ1つだけその差異を自覚的に比較でき得るところがある。それは初めてでも3度目以降でもなく、2度目の経験である。「初めての2度目」と表現している領域だ。ここに真の思考の立ち位置がある。
■5■3度目以降は経験値も増し、応対のすべも心得て安心してさらなる活動に携われる。細かく見ていけば、初訪の地でも1つの通りを往復すれば、往路と復路の風景は異なっていても、復路は往路より安心して見渡すことができる。そそして何度も行き来するうちに、その「初めての2度目」感はすぐ摩耗する。
■6■前代未聞の出来事であるとか、想定外だとか、人智を超えた領域だとか、未経験の現象だとか…いいわけはいつもそれらしい。しかしみな不注意・怠慢・心構えのなさである。極力「初めての2度目」として世界に接し、かつ真の思考をしていない時にのみ、半途な思考によって体が立ちすくみ動けないのだ。
■7■過去と未来に囚われている半途な思考によって、今現在との心身不にの連結が疎かになる。私たちはいつ何時でも全てに対して初見であり、そして既知でもあるのだ。ここで一気に超能力の世界の話に堕するつもりはない。私たちが自覚できないだけで、瞬時に世界は把握されており、意識はそれを再見する。
■8■通常の時間の流れでの話を少しだけ逸脱した話として言えば、私たちは自覚でき記憶できているものごととは比べ物にならないほど膨大な情報を得ているのだが、通常意識はその殆どに気づくことを選択しないか、もしくは混乱や狂気を避けるべく自ら意識上に登らせることにカウンターを当てているのだ。
■9■さて「初めての2度目」の経験中にのみ、意識が未知と既知の境界領域を瞬時に跨ぐ経験を目撃自覚するチャンスだと表現した。より正確に表現すれば、過去を想起しては整理し、それに基づいての未来しか予測できない通常の思考とは明確な一線を画す「真の思考」が、そこでのみ立ち上がる精神モードだ。
■10■武道家や達人たちが示す領域でもある。真の思考とは通常の思考から言えば無思考とも捉えられるだろう。それも自分だと認識できぬほどとても大きな「未自分」に気づく時、自我滅却のつもりで卑下退縮したり、未知なる超越存在との交信と捉えて自我を肥大させることは多い。天地一全の入口にして出口。
内と外を繋ぐ「擬態語」創出
- 2013.07.28 Sunday
- ■言葉と論理の世界
- 23:00
- comments(0)
- -
- by 小野満麿
■現代俳句のトレンドには明るくないが、日本語研究の副産物として、「擬態語」の深さに改めて感嘆している。擬態語は主観と客観を含む感性的な表現で、極めて多くの情報量を含ませることができる。また知識や論理より感性的な情報量が多いので、俳句のような短詩形では実に重宝がられてきた。
■表現を変えれば、その状況や心情にぴったりな擬態語を創出できれば、もう俳句(に限らず韻文や作品)は一句できたようなものとも言えるだろう。引用例を上げるのは好きでないけれど、全くひとりよがりの話で訳分からないのもなんだから、多々ある古典から3つほどひっぱってきてみた。
・春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな(蕪村)
・にょっぽりと秋の空なる富士の山(上島鬼貫…うえじまおにつら1661〜1738)
・旨さうな雪がふうはりふはりかな(一茶)
■近代現代の俳句でもおそらく多々あると思われる。知や技巧に走ることも立派なスタンスだが、この擬態音をみずから創り出して作品とする姿勢も重要かと思われる。日本人には自己と眼前の様相の擬態語化がすぐにできるけれど、そもそもその発想がないから外国人にはそれが非常に難しい。
■子供は新鮮な擬態語が大好きだ。「ぺにゃぺにょりん」とか「ぶぴぽんぽ〜ん」とか「ぼけかすどーん」とか、外的状況と内的心情の双方を含む境界で、主に意味ではなく音感とセンスでその場にぴったりな擬態語を創出して味わえるのは、もちろん子供たちだけではない。
■擬態語は平安時代の短歌に中々入らなかったのは、俗語として忌避されていたからだ。しかし鎌倉文学のスッパリした擬態語を見るまでもなく、日本語の本質的な部分の1つであると思われる。現今でも子供っぽいと軽んじる者もまだいるようだが、それは間違いであると言いたい。
■子供で無くても擬態語だけでコミュニケーションすることはかなり可能だが、既存の擬態語を辞書で引きながらそれを理解しようとする類の大人には本当の意味での理解はかなわないのが擬態語ワールドであろう。外にある日本語ではなく、自らの内にある日本語を抱き用いてみよう。
図書館の外の大きな抗議音
- 2013.07.27 Saturday
- ■日々の記録
- 23:00
- comments(0)
- -
- by 小野満麿
■1時間以上前だっただろうか、愛知県立図書館の4Fで原稿の最終校正をしていたら、窓外から拡声器を通した大きな声が聞こえて来た。言っている内容はよくわからないのだが、どうも何かに抗議しているものらしかった。図書館で勉強したり仕事をしている多くの人たちは非常に迷惑だったと思う。それにしても誰も文句ひとつ口にすることなく机に向かっている。
■拡声器越しに主張している内容の一部でも、またどこに向かってのもの言いなのかも分からぬまま、何十分もの時間が経った。私も貧乏ゆすり少年や、アトピーらしい皮膚のガリガリ掻き続け君や、ヘッドフォンから音漏れ坊主や、キーボード叩く音でかすぎ野郎やらに悩まされてはいたけれど、その者達をひっくるめて言葉や意味の分からない謎の騒音に晒されていた。
■私は取りあえず5Fの食堂に上がり、どこで声を上げているのか確かめようとしたけれど、良く分からない。この界隈は名古屋市庁舎や愛知県庁舎、愛知県警や名古屋法務省や高等裁判所など様々な施設があるので、どこで何に対してどんな抗議しているのか知りたくなった。そこでテクテク歩いてぐるりと回り、拡声器で主張しているコーナーを見つけ近づいて行った。
■人数はそう多くない。旗やのぼりを掲げている人たちも合わせて、総勢10人ほどだろうか。抗議の相手は中日新聞社だった。しかしマイクを通した言っていることの内容が一向に分からない。怖い人たちかもしれないけれど、ゆっくり歩いて近づいて行き、まず最初に「これはあとどのくらい続くんですか?」と聞いてみた。図書館の中の人たちの耳はまだ穏やかでない。
■「うーん、あと10分くらいかな、なんで?」とお兄さんが答えてくれた。「いや、あそこの図書館で勉強していたんですけれど、ちょっとうるさくてなかなか仕事が…」と言うと、「ああ、そうか、あと10分くらいで終わるよ」と言ってくれた。何を主張しているのか知りたくて、つい「何を抗議しているんですか?」と尋ねてみた。新聞記事の内容についてらしい。
■「何か資料とかパンフレットみたいなものはないですか?」と言うと、「うーん、ないけれど…これあげるわ」と言って、中日新聞の切りぬきの拡大コピーを2枚くれた。ちゃんと尋ねれば丁寧に応じてくれるのだなと改めて思った。記事を見る。あ、これは読んだことがある。新大久保の嫌韓ヘイトスピーチと、それへのカウンター活動に関する2種類の記事だった。
■お礼を言ってから、ゆっくり戻る途中にそれを読んだのだが、この記事に対する抗議デモなのだろうか。最初はヘイトスピーチ側の抗議なのか、それともカウンター側への扱いについての異議なのか良く分からなかった。図書館に戻って記事を読みなおしても、実のところあの抗議の主張がどちら側でどのようなものなのか残念ながらはっきり分からないままだ。残念だ。
■帰りしなにもう1度中日新聞に行って、先ほどの抗議は何だったのですかと尋ねてみようか。何にしても10分くらい過ぎたら、確かに拡声器による抗議は止まった。私が行った時はちょうど女性がマイクを持って、かなり丁寧に主張していた。今思えば少しだけ傍で言っていることを聞いてみても良かったかもしれない。それにしても図書館は騒音に対して無防備だ。
■なんかちょっとだけ腰が引けてしまい、画像を撮影できなかったのが今となっては残念だ。主張する側も言っていることをちゃんと聞いてもらえる分には不快ではなかろうし。それにしてもそれに応じる側の人数も二桁はなかった。県警察から人が来ているわけでもなく、当局に対してこれはそう対した問題ではないのだろうな。大きな音は威圧的に感じられて損ですよ。
■とりあえず帰りしなにまた現場に行ってみた。中日新聞の人に、さっきの誰ですか?ときこうとおもったけれど、図書館が閉館になった7時には、中日新聞社も閉まってた!!仕方がないから、さっきマイク持って声出していたところに立って、中日新聞社を見上げた画像を撮ってきた。どうもその団体は「在特会」というらしい。何それ?…て、自分でwikiで調べるかな。
今、数を数えるということ
- 2013.07.26 Friday
- ■数の世界
- 23:00
- comments(0)
- -
- by 小野満麿
(※)画像はMaurits Cornelis Escher『描く手』と Shane Willisによる加工写真作品。
■1■数は数学の中だけのものではない。科学や哲学や宗教や神秘学に収まるものでもない。朧ながらも数の1,2,3,4…の基本的構造や構成について考えたこともない者が語る、諸般諸事の中に数が出てきたら要注意だ。その数の重みがあるかないかでその人が分かる。数の基本構造は思考の元型だからだ。
■2■私たちが共有している10進法の自然数のうちの前半分にある1,2,3,4…というわずか4つの数。「数覚」と呼ばれる、時を要しない瞬時の把握は普通5までだ。6以上の数を数え始めるには右脳と左脳の共同作業となり、そこに時間が流れ始める。そして4つの数の本質についての思考も始まるのだ。
■3■数は余りにも自明過ぎて深く考える機会はほとんどない。考察するとか熟考すると言っても、あまりに近過ぎて何をどう考え始めたらよいのかすら分からない。数比術や占いや性格診断などで用いられている、理を明示しないままの数の意味や象徴が、純粋に数自体についての思考をさらに難しくしている。
■4■そもそも数とは何なのか、数えるとは何をしているのかということについて思い巡らしたことのない者の口から出る「日本の国の借金は現在547兆円」とか、「アンドロメダ銀河は地球から約239万光年の距離に位置し、役1兆個の恒星から成る」などと表現されても、普通は知らねーよそんなのだろう。
■5■現在の人類がいつどのように数の概念を獲得もしくは創出したかについては、諸説はあるが明らかではない。私たち1人1人においても、自らの人生の黎明期にどのようにして数を数えることを自得したのかの記憶を持つ者はおそらく絶無だろう。親が教えてくれたから?では最初の親は誰から学んだのか?
■6■そもそもこの「いつ、どのように」という問いかけは、別のことではなく同じことの異なる側面として括る方が良いのではなかろうか。そして「数とは何か、数えるとは一体何をしているのか?」という自問の解は、太古の昔や個人の幼児期にあるのではなく、今現在と未来にあると見た方が良さそうである。
■7■子供の頃、無理やり100まで数えさせられた時の数はどのようなものであったか。幼稚園や小学校で数を歌うように並べながら教えてくれた先生は、冷たい記号や文字の類として語っていたのだろうか。そこにあった幼き者たちへの愛情や祈寿を、私たちは完全に数の上からこそぎ落としてしまったのか。
■8■数の本質について思考し探求を深めていくためには、虚しいほどに大きな数値を口にしたり、技術獲得やデータ作成のために機械的に計算させることに没頭するのではなく、1,2,3,4…のところに既にあった私たち自身への親や親族たちの、そして太古からの慈しみや優しさを思い出す必要があるのだ。
■9■それはもちろん言葉や音楽や色彩や星々や暦法や体智に関しての様々な「知」の1つ1つにも言えることだ。誰が寿ぎ、どのように封入したかは未だ分からないが、いずれ分かることがあるかもしれない。世界を万物を、そして見えないものとことを冷たく情緒なきものと見る傲慢さは己の内にこそあるのだ。
■10■「謙虚」とは、他者が教え諭して成さしめたり、圧倒的な外界に自らが委縮してふるまう仕草ではなく、自らの内に本当の感謝として湧出した思いと共に振る舞い、創造的に他者と共に生きて行こうとする姿勢であろう。未だに神道で「ひーふーみーよー…」と唱えるのは、呪術である以前に寿術なのだ。
ハーシェル、ジョージ、天王星
- 2013.07.25 Thursday
- ■天体の運行・太陽系トポロジー
- 23:00
- comments(2)
- -
- by 小野満麿
■ウィリアム・ハーシェルは1781年3月13日に新惑星を発見した。彼はイギリス王ジョージ3世を讃えて、それを「ジョージの星」と呼んだ。後にこの惑星は天王星という名に落ち着くが、2013年は天王星と地球にタイムトンネルを創る時でもある。折しも先の英国王室の新しいベイビーの名もジョージだった。
■ハーシェルは1738年11月15日にドイツはハノーバーで生まれ、英国で活躍したので、国籍は2つあった。ドイツ名前はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヘルシェル。他界したのは1822年8月25日だ。満83歳と9ヶ月と21日生きた。あと82日で天王星の1公転周期に等しく丸々84年間生きたことになる。おしい。
■天王星の公転周期は30688.4897日である。地球の84年は30680.3448日だから、それより8.1449日もしくは(0.0223年)だけ多い。酸素化合物なども含めると珪素は地殻の84%を占めている。土星の表面積は地球の84倍である。…いや、いらぬ情報まで付けてしまった。申し訳ない。天王星は新たなる地球…。
数を数え直すということ
- 2013.07.24 Wednesday
- ■数の世界
- 20:43
- comments(0)
- -
- by 小野満麿
■1■私たちは3日と3個の500円玉と3度Cの気温とを、同じ3という数を用いながら混乱なく使い分けている。これは数の高度抽象性のおかげだが、私たち人間は長い時間をかけてこれを認識し、自らのものとしたと考えられている。しかしこの数の抽象性を、改めて見直す必要があるのではなかろうか。
■2■時間の経過という共有認識の中で昼夜の巡りを表す暦の上の3日と、500円という価値を付加された金融空間の中のコインの3枚と、水の融点と沸点の間を百等分にした目盛の下から3番目に対応する気温とを、同じ3という数で認識しつつ、その上で異なる3でもあることを明確に認識すること。
■3■3日といっても2日と4日の間に24時間未満の幅がある。3枚の500円玉は人間社会の中では一応1500円の価値があるが、交換すべき物がなければただの金属片に過ぎない。そして普通の足し算のつもりで3度Cの冷水に3度Cの冷水を同じ分量だけ注いでも、それは決して6度Cにはならない。
■4■そもそも足すとはどういうことを指すのか。引くとは、掛けるとは、割るとは…そして左右の辺の値が等しいということを表す等号は、実際のところ何を根拠に両辺を等化させているのだろう。どれだけの人がそれを認識しているのか?…いや難しく考えることはない。シンプルにもう1度見詰めよう。
■5■1,2,3,4…日の中の3日と、1,2,3,4…枚の貨幣の3枚と、1,2,3,4…度Cの中の3度Cとは、その背景においてそれぞれ全く異なる論理背景と役目を持っている。その違いの中での3というもの同士の差異を失念することなく、その上で改めて同じ数を同じものとして見詰めること。
■6■数を数え始めた時点ですでに1と2はアプリオリに在ったことに気が付くという表現をした。数を認識するということに限らず、通常の意識の上に登って来ることは、すでに意識する前に身体や脳がその情報の元を含む膨大な情報を浴びているということだ。言語化すること、ビジョン化することの前。
■7■例えば夢を見たことを目が覚めてから思い出す。夢を見ている最中は(余程特別な明晰夢でもない限り)それがそのまま(夢の中でではあるが)リアルタイムな経験の中にいる。夢を見たことを覚えているとしても、その内容を記憶をふるい起して辿るように思い出す時、それはすでに2度目の体験だ。
■8■夢を見たことがないという人と、良く夢を見るという人との差異はそうないのではなかろうか。実際、夢を見ている時の脳の状態は多くの人にとって相似形だろう。それを1度目と表現するならば、リアルさの差異はあっても追体験でもあ夢の想起は2度目の経験なのだ。そしてそれは1度目より薄い。
■9■普通の経験でもその衝撃や至福感を繰り返し何度も想起すれば、最初の体験から乖離する可能性もあるが、それはどんどん強固なものになって行くが、夢もまた何度も舐めるように繰り返して思い出すことによって、日常会話のなかで自分の夢を他者に言葉で伝えようとする程度の記憶強度を保てる。
■10■しかしへほとんどの場合他者に語ったり書き記したりする時点で、ではすでに自分の意識の中で何度も何度も最初の(1度目の)夢の部分を追強化している。夢に限らず、日々の日常生活そのものも良く似ている。その時を生きている者は、その時のことを記憶想起したり、価値批評することはできない。
■11■思考・論理・家禄・想起などには時間を要する。そしてそれらは1,2,3,4…以降の5か6回ほど、同一回路を巡って立ち現れる。情緒・感情・直感(直観ではない)などは、最初に自覚する前に外部からも内部からも、条件反射的にすでに方向づけられている。これは機械論ではない。数論である。
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- マンガ描きにも何か言わせろや (07/31)
- 『数の恍惚・数える至福』 2013/08/11,12,13 in Space Dining Room (07/30)
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