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  • 2024.01.09 Tuesday
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■昔の猫まんがのネタ元



■ハードディスク整理していたら、昔の猫まんがのネタ集めしていたらしい文字列が出てきた。このまま削除するのも何だから、ちょっとだけここにさらしてみることにする。知ってることはスキップしてくださいな。
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・カタツムリは無色の液を分泌して体への害を防ぐ。カミソリの刃の上を這っても傷つかない。

・昆虫の中には、頭を失っても1年近く生き続けるものがいる。頭はなくても湿度・光・湿度・薬品などの刺激に反応する。

・チョウチンアンコウのメスはオスの6倍もある。オスはメスの頭の上にくっつき、一生そのまま。やがて消化器や循環器系は合体し、オスは生殖器とヒレだけになる。

・自分の身を実験用に使った医師の例は多い。黄熱病対策委員会の医師ラジアル(1866〜1900)は、黄熱病を媒介する蚊にわざと刺され、発病して死んだ。委員会の主張の証明となり、医学が進歩した。

・アルキメデスは入浴中、浮力の原理を発見し、わかったの意味の「ユリーカ」の叫びと共に裸で街を走りまわった。有名な話だが、古代ギリシアでは裸で運動するのが普通で、男の裸は珍しくなかった。

・壮大なアルテミスの神殿は紀元前356年、放火によって破壊された。犯人を問い詰めると、自分の名を歴史に残したかったから、と。処刑し、その名を記録から消すよう支持された。しかしヘラストラツスという名は現代まで伝わっている。

・エスキモーたちは食品の凍るのを防ぐために冷蔵庫を使う。



・D・H・ロレンスの趣味は、裸になって木に登ることだった。

・ロシアの詩人レールモントフは、プーシキンの無意味な決闘での死を悼む詩で世に認められた。その数年後、彼自身ももっとばかげた決闘で死んだ。

・ドイツの詩人リルケは、夭逝した姉の代わりに母親によって6歳まで女の子扱いされて育てられた。マッカーサー元帥も8歳まで母親にスカートをはかされていた。

・ピカソが出生の時、助産婦は死産だと思って彼をテーブルの上に乗せたまま帰宅した。叔父が少し動くのに気づき、医者を呼んで一命を取り止めた。

・無名時代のピカソは、寒い時自分の作品を燃やして暖を取った。

・中世のイギリスでは夕食に招待されるとナイフ持参だった。フォークの出現は16世紀。双方揃って用意するようになったのは17世紀である。

・ナポレオンは大の猫嫌いだった。

・エジソンは10日に1つの発明を目標にして「発明工場」と呼ぶ研究所を作った。そして4年間で300の特許を取った。これは5日につき1件である。













 

ペンターブとフィボナッチ数列と天王星



■1■ペンターブシステムとは、自然数を1,2,3,4と数え、5になったらそれを新たなる1と捉える発想で、ある種の5進法である。また5まで数えてそれが新たなる1であると分かるところまで進んだ時点で、最初の1もまた5を内包していたことが明らかになる。人体の5本の指、5体、指骨の4パーツ等。

■2■フィボナッチ数列とは初項1、第2項で、以下第3項以降は前2項の和となる数列である。1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89,144…と続く。この数列の各部位間の関係が、項数が増えていくに従って黄金比φ関係の比になっていくことは良く知られている。黄金比φは(1+√5)/2で表される。

■3■黄金比は5という数と関係が深い。さてではここで初項1、第2項5として、以下の項がみなフィボナッチ数列のように前2項の和となる数列を12項まで表したものが(1)でなる。(2)は(1)をシンプルに2倍にした数列である。これは初項2、第2項10の数列に等しく、フュンク・ウレハの数列という名前がある。

   (1)1,5,6,11,17,28,45,73,118,191,309,  500, 809,1309…
   (2)2,10,12,22,34,56,90,146,236,382,618,1000,1618,2618…


■4■項数は示していないが、左から数えて第12項目は(1)が500、(2)は1000
になっているのが分かるだろう。それだけではない。この(2)の数列は第12項を中心にその後ろはφ,φの2乗,φの3乗…の、またその前は1/φ,1/φの2乗,1/φの3乗…の、それぞれ1000倍に近似している。(1)は500倍である。

■5■さてここで唐突なようだが、惑星歳差運動周期と天王星の公転周期を見てみよう。地球における惑星歳差運動周期25920年は天王星の公転周期84年のほぼ500/φ倍である。(より正確に言えば25920年はほぼぴったり天王星の公転周期の499/φ倍である。)さてここからがトランスサタニアンの第1歩が始まる。

■6■数は3から始まるという表現がある。1も2も未だ数ではない。3が認識されて初めて数となる。フィボナッチ数列も初項の1と第2項の1はフィボナッチ数列展開の前提条件であり、爆発的に数が展開するのはこのアプリオリの2つの1の後の第3項から始まる。天王星は太陽系で3番目に大きい惑星である。












 

24日の2つの巨大地震と惑星グリッド







■日本時間の24日午前5時53分頃、アリューシャン列島のラット諸島付近を震源とするマグニチュード8.0の巨大地震があった。

■日本時間の24日午前4時19分頃、南太平洋ケルマデック諸島を震源とするマグニチュード7.2の地震が発生した。

■それだけなら連続して起こる巨大地震なだけなのだが、この2箇所の震源はほぼ惑星グリッドの6番及び45番に重なっている。

 【地点6】北緯52.62度、東経175.29度。
 【地点45】南緯26.57度、東経175.20度。


■なおマレーシア航空の消失した場所、及び最も重点的に捜索されている地点がグリッドの25番と43番にぴったり重なっている。

 【地点25】北緯10.81度、東経103.20度。
 【地点43】南緯26.57度、東経103.20度。


■近頃惑星グリッドうえであられもなく活動したり、天変地異や事故が起きたりするのが気になる。何かの暗号なのか、単なる偶然の連鎖なのか…。

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■また1番はエジプトはカイロにあり、ギザのピラミッドやアレキサンドリア図書館跡がすぐ近くにある。何千年もの間西洋文化の重要地点の1つだった。

 【地点1】北緯31.72度、東経31.20度。

■2番は東欧の欧の商業・農業・鉱業の中心地の1つでウクライナの最重要都市キエフ近郊だ。すぐ近くにチェルノブイリ原子力発電所がある。

 【地点2】北緯52.62度、東経31.20度。

■3,4,5番もまたロシア領内にあるが、ユーラシアの諸分化文明の揺籃の地とも目されている。バイカル湖の奇妙な痕跡もある。

 【地点3】北緯58.62度、東経67.20度
 【地点4】北緯52.62度、東経103.20度
 【地点5】北緯58.28度、東経139.20度


■14番は、日本近海で九州−パラオ海溝・西マリアナ海溝、そして硫黄島海溝の中間地にある太平洋上の点で「魔の海域」と恐れられている。

 【地点14】北緯26.57度、東経139.20度。














 

人間の物語、人間のドラマ(4)



■1■世界中の神話の基本的ストーリー展開は、様々なパターンがあるのではなく、基本的にたった1つの物語展開であると学術的に認識されている。ゆえに有名なハリウッド映画や人気のある物語や古典も、意識的であるなしに拘らず、主人公の成長プロセスやストーリー展開とも重なっているということは既述した。

■2■この基本的構造は人間個人の生物学的・心理学的・社会学的成長とも重ね見ることができるし、種としての人間の社会的・文明的成熟とも相似形として見て取ることができる。従って人間型ゲシュタルトの骨格構造であり、これを無視・否定するのではなく熟知することによって、超えていく方向が見い出せよう。

■3■人間として共通の「原質思念」と呼ばれる領域を念頭に言えば、精神異常もまた一生や長いスパンから捉えれば、日常から異常に外れる旅をして超正常として帰還する、人間の構造的原型パターンとして捉えることもできる。ただし精神や意識の変容旅は完結しない物語に似て、必ずしも帰還できるとは限らない。

■4■生物学的という表現の中には、胎児の受胎から出産までの時期の様々なドラマや展開にも重ね合わすことができよう。そして物語の定型性自体にすでに不満を持ち、何らかの新しい未知の展開が在り得るのではなかろうかと真剣に思うように、現代の人間はすでに人間という基本の物語構造枠からはみ出している。

■5■現代の人間の人間型ゲシュタルトを胎児のドラマに重ねて言えば、月満ちて時至り、全世界である子宮の収縮が始まっているのに子宮口はまだ開かず、現状維持も過去への退行も叶わぬ絶体絶命の状態とも見て取れる。さらにまたこの現実世界もまた第2の子宮であり、そこで守られ育まれて来たとも表現できる。

■6■カンガルーの育児囊は、反転した子宮とも表現される。わずか3週間の妊娠期間を経て生まれたカンガルーの子は2.5cmほどで無毛で目も見えない。母親の腹部を這い上がって育児囊に入り、乳首と合体して成長する。より高度な胎盤哺乳類は子宮内で長く成長するので、出産後はすぐにほぼ自力で生きていける。

■7■人間もまた胎盤哺乳類に括られているが、他の多くの動物たちに比べて独り立ちするのに要する時間はケタ違いに長い。外見も行動も大人らしくなるのには20年を要する。社会的教育や保護がない野生で生活すると、人間として自立できない。第2の子宮とは社会であり、人間型ゲシュタルトそのものなである。

■8■もちろんそれに重なる神話的構造パターンは社会や個人の中にも存在する。そして神話の子宮の中に留まらず、そこから生れ出る者をウパニシャッドなどでは「2度生まれの者」と呼ぶ。社会や個人の全体を否定することなく、社会・教育・習慣・経済・文化などから解放されて、新に再生する者のことである。

■9■人間が、そして人類がその英雄譚である旅において真に「2度生まれ」するならば、その物語構造自体を超越するのだ。もちろん流産する可能性は残る。子宮を否定して生れ出る者はいない。必要以上に難解な理論はいらない。現状を現状として肯定した上で、自らが本当に好きなことをすれば良いだけなのだ。

(その5に続く)












 

ジャガイモの収穫をした



■今日はベランダでジャガイモ掘りをした。春先に有機野菜の宅配商品を少し置いておいたら、ジャガイモから芽が伸び出てしまった。その芽を摘み取って調理するのが忍びないので、ベランダの深めのプランターに植えたやつだ。イモから出た芽がちょん切れない私だから、当然茎が伸びても芽かきもできずにいた。

■facebookを読み返すと、ちょうど1か月前の23日に花が咲いたと記してある(2枚目の写真)。そしてその向こうでみかんが掘っくりかえしている土に埋めておいた里芋が、今では4枚目の写真のようにでかい葉を伸ばしている。何はともあれ、ちびつぶも含めて収穫だ。メイクイーン、男爵、インカの3種類だった。



■収穫を期待してとか、非常食用にとか、そういうつもりで栽培したのではない。芽が出ているから仕方なく植え、芽かき(間引きみたいなものだよね)もできず、日々生育するからにはできるだけ水をやった。枯れてきたら収穫時、しかし梅雨時に放置すると土中細菌にやられる事もあるというので、掘っ繰り返した。

■勝手に植物に感情移入して、自然に収穫物が目の前にある。感情移入したものなのに食するのか?と問われれば、自分もまた自然の一部として、貪らず、無駄にせず、有り難く頂くことにしよう。ムカゴのようにちびちびの粒もできるだけ無駄にせず、できるだけ美味しく調理して一体になる。何やらとても有り難い。



■収穫後に2つ空いた深いプランター。正確には西友で買った、衣服などを入れるプラスティックケースで、下の方に焼きゴテで水抜きの穴をあけただけのものだけれど、そのうちの1つに、複数の鉢に仮植えして置いたサツマイモの蔓を植え替えた。こっちは蔓からイモになるんだよね。

■根っこが植木鉢の底の方にぐるぐるになるほど伸びていた。ほぐすのが面倒くさいし、根を傷つけることもあろうかと思い、ほぼそのままプランターの中に置いて、周りを土で埋めてみた。余った土は、里芋の茎に土寄せしておいた。サツマイモも里芋も収穫は秋。今年の芋シリーズの1つが終わった。

     












 

人間の物語、人間のドラマ(3)



■1■ジョセフ・キャンベルは世界中の神話構造には細部に渡る相似性があり、「英雄の旅」と呼ばれるいわば1つの母物語が存在することを見い出した。人間が聞いて自然に理解でき、しかも個人の人生とも重ねることができるもの。彼はカール・ユングが原型と呼ぶ、常に存在する共通テーマを参考にした。

■2■その構造に対応するものは既存のものでなく、新しく作ることも可能であろう。ドラゴンが宇宙人に、蘇りの妙薬がLSDに、守護霊が未来人に。自分の出自が前世では王家の一族だったものが、何々星からやって来た存在というように。それを否定するつもりはない。ただ構造と比喩の混乱は避けたい。

■3■特化した趣味や教養がある一部の者のみに限らず、構成も内容も良質であり広く傑作として認知される映画やドラマや漫画などの多くは、上述した構造を踏まえている。独善や偏愛に流されず、それでは進歩や進化がなくてつまらないと主張する者は、この道筋に沿ってそれ自体を超えて行けるだろう。

■4■良質の物語は普遍的なテーマを内包するので、集合的な無意識に共鳴させて、個々人の本質的な問題意識を励起する。「生きるとは何か?」「4語の世界とは?」「運命とは?」「自分はいかにして充実した人生を送れるのか?」等など。ハウトゥーはないが、自分自身を英雄譚に重ねてみる術は在る。

■5■作品を鑑賞する側から製作する側に回って、この普遍的な構造やテーマやプロットなどを、有能な映画台本や漫画のネームを参考に見て行こう。先ず主人公は最初、明白な欠点を持っている。主人公が1つの目標を達成しようとする過程でその部分に変化変容が生じ、見る者はそこに本能的に共感する。

■6■私たちは漫然と生命を自ら食い潰し、感謝も慈愛も発露しないまま死に向かっているのではない。欠点を持つ主人公の葛藤と努力に共感するのは、自らの欠点と苦境を乗り越えて、人間的な完成または霊的成熟によって人間そのものを超えて行く存在であるという、深い無意識の内の「知」があるからだ。

■7■主人公が憧れや夢と共に抱えている自らの欠点は様々だ。自己中心的、偏見、無知、怠惰、引き籠り…。物語はすぐに、主人公は安穏と過ごすことができない状況に陥る。自分が変わらぬまま様々な手段を試みて結局行き詰る。自らの欠点を直視し、それを乗り越える「英雄の旅」に乗り出す決意をする。

■8■幾つかの試練や奮闘の末、最終的に究極の敵と対峙する。それは心理学的には自らの欠点と対をなすものでもあるが、自らを奮い立たせてそれに立ち向かい、絶望の内に1度死ぬ。しかし試練や奮闘の中で得た知識や洞察によって蘇り、勝利する。世界が変容したのは、主人公が自らを超えたからである。

■9■そしてフィナーレ。カーテンコール的な大団円。物語を見聞きするものも物語と同化する。そして無意識レベルでは、世界は1つの舞台であり、自分も大きな生命という物語の1俳優であることを想起する。私たちは日々この物語構造のフラクタルの中に生きている。全てがハッピーエンドとは限らない。

■10■私たちは1つ1つ、1日1日の人間の物語に能動的に参加して、それら様々なレベルの物語たちを完成させ、良い意味で「人間の物語」を終わらせていくという象徴的な生き方を人生に重ねることもできるだろう。もちろん参加の義務はない。繰り返し自他を傷つける、不安で退屈な日々でないならば。

(その4に続く)












 

人間の物語、人間のドラマ(2)



■1■1856年に『比較神話学』を著したマックス・ミュラーは、古代の叙事物語間の相似性に気づいた。そしそして1949年に『千の顔を持つ英雄』を発表したジョセフ・キャンベルは、異なった時代の世界中の神話を分析した結果、みな相互に相似性を持つことを発見している。彼はこれを「英雄の旅」と呼ぶ。

■2■そしてこの共通する物語は、私たち個人個人がもれなく、未知と混沌の中をおのれの限界と共に日々生きていく物語であり、また進化と超越のための道筋でもあるのだ。優秀な物語作者はそれを理解していようといまいとも、この「英雄の旅」の物語構造に沿って話を紡ぎ、そして成功しているのである。

■3■今でこそ「どうしたら漫画家には成れるか」などのハウトゥー本や入門書が少なからず出回っているが、私が遥か昔最初に手にした「マンガの描き方」は手塚治虫その人の本だった。今覚えているのは、画面の構図を3角形で安定させるということと、4コマの起承転結が物語展開の基礎だということだ。

■4■空間(平面)の3と時間(展開)の4。暗示的な3と4の問題でもあるが、物語構成においては起承転結の4に対して、序破急という3の構造がある。序破急は、日本の雅楽の舞楽から出た概念であり、古典的な芸能や脚本の構成のみならず、映像分野の3幕構成や文章の3段構成ともほぼ同義語である。

■5■ハリウッド映画の脚本のほとんど全ては、この世界中の神話に共通のパターンを踏襲している。わずかにもしくは大胆にそのパターンを外すと、現実的に興行成績の減少に反映する。映画の台本は設定・葛藤・解決、もしくは3幕であり、基本的にそれは1ページがほぼ1分に当たる120ページ程である。

■6■現代ハリウッド映画の脚本は3幕構造として捉えられるが、基本的に第1幕、第2幕、第3幕が30、60、30ページであり、また30、60、30分である。しかも第2幕のちょうど真ん中辺りに主人公にとって偽りの勝利もしくは敗北が置かれなければならない。つまり起承転結とほぼ等しい4分割構造なのだ。

■7■例えば運動や音楽のテンポは1,2,3,4、2,2,3,4…と繰り返されるし、月齢や円環の分割も4相や4直角に分割される。ハリウッドの脚本公式のみでなく、私たちの歴史的出来事や、民族や国家、そして個人の周期とも重なる物語的構造を、何らかの無意識レベルで知っていると思われる。

■8■26000年の1/4である6500年、また4倍の104000年、1年の4分割の四季、1日の4分割、マヤの赤白青黄に対応された4日と4方向なども含め、人間が以前人間であるかぎり、この物語の構造は一貫して変わらない。では次はこの物語構造の内部にある、変わらない要素・象徴・展開等を見て行こう。

(その3に続く)

人間の物語、人間のドラマ(1)



■1■通常、物語とは作者の見聞や想像を基礎として、人や事件など特定の事柄の一部始終について、散文で語られたものや書かれたものを言う。文学作品の1形体であり、狭義には特にそれらのうちの平安時代から室町時代までのものを指す。ただし日記や随筆、近代の私小説など自照的なものは含まれない。

■2■ドラマ(Drama)とは、登場人物の行為・行動を通して描かれる芸術表現の一形態。登場人物が何らかの目的を持ち、その達成のために行動を積み重ねる過程で、様々な障害や葛藤に直面する。最終的にそれらを乗り越えるか否かが大きな山場となる。こういった過程そのものを、ドラマと呼ぶ場合もある。

■3■叙事詩とは一般的に、民族の英雄や神話、歴史や重要な出来事を、韻文の形式で口承もしくは記述された物語のことで、ある程度の長さを持つ。『ギルガメシュ叙事詩』、『イリアス』、『オデュッセイア』、『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』など。日本には厳密な意味での叙事詩は存在しない。

■4■現代においてはこのドラマ的な要素を、主に映画やTVドラマが担っている。本来演劇や戯曲を指していたが、今では葛藤や因果関係のない演劇作品や戯曲も数多有り、それら全てをドラマと呼ぶのは不正確である。また現実の人物がこのような状況下にあること指してドラマティックと呼ぶ場合もある。

■5■さてここでこれらの物語、ドラマ、叙事詩のほとんど全てには、明確に共通の構造が存在する。その構造は世界中の民族的な神話にも同様に見て取られ、また民族や国家の興亡から個々人の一生とも重なり、さらには精神的危機や異常とそこからの帰還とも相似形があることは、あまり知られていない。

■6■基本的にそれは民族や人種、時代や世代に関わらず、人間であるという点において同様の構造を有しているのである。俗に「大衆はすでに自分の知っているものを好む」と言う。基本的に人間は同じ物語に少しのひねりや部分的変奏を施したものを繰り返し見たがる。これは商業的成功の基本でもある。

■7■創作者が独自の創造性を、作品にして広く世間に問うならば、それを太古から確定している話の定型構造を通して表現しなくてはならない。そしてそれを通して、少数者の趣味や美学を満足に限らず、その構造を破壊もしくは超越することができたならば、それはもう人間の物語・ドラマの構造ではない。

■8■商業的成功や他者の意識操作をする者の一部は、この人間の物語・ドラマの基本構造を知っている。しかしそれらを目的とするのではなく、人間として人間を超えて行くために、それらの構造を知らぬまま拒絶して進むより、能動的に知り、それら定型を楽しみつつ超える道を模索することもできるのだ。

(その2に続く)












 

未来を拓く新しい音を求めて(その7)



■森の中で倒れる木の音…原初の音

 私たちは特定の周波数のパルス音を聞くと、同じ周波数の脳波が発生する。地球の固有振動数の上昇に同期して人間の脳波のα波帯域もずれていき、突発的で無自覚な非人間的犯罪が多発すると解釈する者もいる。しかしこの脳波の変化特性を受動的に浴びるだけでなく、能動的に意識の変容や覚醒にも用いることはできないだろうか。
 
変性意識から神秘体験へ至る方法は大きく2つのカテゴリーに分けることができる。いわゆるトップダウン方式とボトムアップ方式だ。前者は自律系の鎮静部分を利用し、後者は自律系の覚醒部分を利用して超越に達する。しかしこの双方が極限まで行くと、この相異した2者が相乗効果で逆説的な第3の状態を作り出す。

これまで別個に生起し、何のつながりもないと考えられていた遠隔透視や瞬間移動、アブダクション、クンダリーニの暴走、ドッペルゲンガー現象、金縛りから明晰夢、生霊・死霊や体外離脱や臨死体験、シャーマニズム、チャネリング現象などの異能力や超常現象を、今現在は連続した世界観の中に統合的に解釈し直すことが要請されているのである。
 
それはこれまでの人間型ゲシュタルトを超えて続く様々な未知の可能性を内包している。これが実際に意識焦点によって異次元へと続く旅なのか、単なる幻覚や思い込みに過ぎないのかという2者選択的なスタンスからではなく、その両方を視野に納めつつさらにその先を自ら見詰めて行くための、より包括的な視座が必要となる。
 
 世界は全て「波動」であるという表現あるが、世界は「音」からできているとも表現できる。音とは生命の時間を内包している。私たちは地球の音、太陽系の音、銀河の音の中で生きているだけでなく、その音そのものでもある。
 
 未来を切り開く新しい「音」は、ただ待っていても聞こえては来ない。自ら真摯なる問いを発し、その答を探求しゆく過程でその「おとずれ」と出会い、共鳴して1つになった先に未来の音が広がるだろう。
 
 秩序と理想の静的な完全美の世界と、動的で不確定な現実の世界のずれとその統合の過程にこそ、より多くの豊かさが生起する。音というものの意味をこの身を通して変化変容させ、新しい音そのものになっていくという未来。今こそ森の中で静かに倒れる木の音を聞く耳を持ち、そしてその音そのものになる時ではなかろうか。













 

未来を拓く新しい音を求めて(その6)



■人間的な音としてのずれ

 人間の音にはこの適切なずれのほかにも、実はもう1つ別のやっかいなずれがある。音に対する感覚量と物理量のずれだ。

例えばピアノで440HzのAを叩くと、その音の「大きさ」と「高さ」とピアノの「音色」を感じることができる。この3要素を感覚量といい、また振幅や音圧レベルなどを物理量というのだが、この2者が単純な比例関係になっていないのだ。

 例えば1000Hz、40デシベルの純音を基準音として、この2倍及び1/2の高さの物理量は2000Hzと500Hzである。しかし2倍及び1/2の高さに感じられる感覚量を数値で表せば3000Hzと400Hzとなる。この不一致は周波数が高くなるほど増大する。

しかしピアノに限らず音楽的な音階はこの感覚量ではなく、1オクターブ上がるごとに周波数が2倍となる物理量で定義されている。この感覚量と物理量のずれをも抱えたまま平均律があるのである。

 秩序ある理想の世界とこの現実的な人間世界が完全に重ならないのは、私達の聴覚系を含む物理的・物質的な知覚認識の構造そのものが、周辺に行くにしたがって歪みが大きくなっているからである。その歪みの一様でない在り方こそが今の人間そのものの精神構造のカタチの反映なのだろう。

 音の概念の拡張とは、既存の音を超えて行くということでもある。人間的な音とそれを超えた領域の音の双方を捉えられる次元両生類的な世界観と体感を得ることはそう容易いことではない。より高度な、そして未来へと続く新しい「人間の音」への扉は、ピアノの両端遥かにあるのではなく、近傍の繊細で適切なずれの中にあるものと思われる。













 

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