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  • 2024.01.09 Tuesday
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みたび、フラご飯制作



■考えすぎることはあまり体に良くないところもある。体も大事なのでまたフラごはんを作ってみた。ある程度歳がいくと、お腹にがっつりよりも、少しずつ色々なものを食べる方に傾いてくる。素材は有機野菜の宅配便と自分で厳選したもので。自分の美味さというもの。
 
■先日炊飯器が壊れたので、今は鍋炊きしている。水の微妙な加減や火力差などで、忘れていたお焦げの香りも味わえる。保温機能がないので、逆に冷飯の美味さや味を思い出す。ちょっとずつ作ると、つい味が濃い目になり、飲み屋メニューっぽい感じもかもしだす。
 
■最近はビールを飲まず、炭酸含有のミネラルウォーターを代わりに飲んでいる。今はイタリア北部産のSan Benedettoがマイブーム。ビールと違って、飲んだ後も酔ってしまって仕事にならないこともないし、1.5リットル200円弱だからお得。ミネラル水はいわば冷鉱泉だし。
 
■まあ台所に立って動けると言うだけでも、今月中旬は腰・膝・足先の痛みで置きあがれなかったことを考えると、それだけでもどれだけ幸せか。以下は今後のフラご飯のメニューにカブリがないように、自分自身へのメモ代わりのお品書き。特にチェックの必要はありません。
 
・細ネギ入り卵焼き。
・もやしのピリ辛炒め。
・ゴボウ巻きの炒め煮。
・アサリの時雨煮(これは頂きもの)。
・カボチャの玉ねぎと生姜入り煮付け。
・ナスとオクラと厚揚げの煮びたし。
・ずいきとさつま揚げの炒めもの。
・キャベツ・レタス・リンゴのコールスロー。
・サツマイモと人参の味噌汁。
・白米ごはん。

 
■なんか基本的に和風だなあ。食材が豊富だから色々作れるんだと言うことも忘れずにおきたい。それにしても、自分で作ったものはやっぱ美味い。実はこの画面に盛り付け切らない余りがあって、それは翌日の朝飯に(^^)なる。ビジュアル的に、ちょっと器と台も考えなくちゃ。












 

「もの」について考える(1)


                      ()Original photo by Adam Graddy 加工してあります。

■1■歩きながらふと眼鏡を外してみた。それまで見えていた物たちの輪郭は多重にぼやけ、形の端から色が滲み出ている。距離感がおぼつかなくなる。それでも秋の日差しが肌に心地よいので、しばらくそのままゆっくり歩いてみる。ちなみに私の視力は0.01程らしいが、眼鏡を掛けるとまあ人並みに見える。

■2■人並みとは何だろう。現今の大多数の人たち程度にはということだろうか。アフリカの砂漠の民は視力が7.0あるとも言われ、また全く視覚的知覚が不可能な人もいる。過去の人たちはみな近視や弱視を知らなかったというわけでもない。大昔は眼鏡やコンタクトレンズのような視力矯正機器はなかった。

■3■現今の発想では視力2.0+の人は視力0.3の人より生活しやすかったと推測する。昔の人たちでも弱視の人はマイノリティだっただろう。だがその人たちは別の世界を見ていたかもしれない。全く物理的な光が見えない人は今でも別の世界に生きている。眼鏡を外せば今でも別の世界が見えるのではないか?

■4■「自己−他者」「自己−世界」に強力な意味を見出している欧米言語の中の自己他者問題では、「他者」や「物」と自己を明確に分別する。しかし私たちがほぼ無意識に使っている日本語には、物理的空間ではない「場所」や、物ではない「もの」等の言葉が、あられもなく存在し、そして機能している。

■5■「物悲しい」「物寂しい」(ものがなしい・ものさびしいと書いても同じ)と悲しい・寂しいは近似だろうか。前者の方がよりぼやっとして輪郭が定かでない。なんとなくという感じだ。これは比喩だが、眼鏡をしている時と外して世界を見た時の違いに似ている。「もの」のつく言葉は実に沢山ある。



■6■昔コンタクトレンズをしていた頃、意識的に片方だけ装着して生活してみたことがある。裸眼の左右で異なる感覚もしたが、そこまで厳密な実験をしたわけではないのでそこは捨ておくとして、数時間もしないうちにそれは馴染み慣れる。何かの拍子に片目が隠れた時に、片目裸眼なのだと改めて気付く。

■7■この実験をしていた頃は、社会生活で不自由な思いをした負け惜しみとはまた別の位相で、視力の弱い人は矯正可能なので、2つの世界の見え方を知っているが、目の良い人は1つの世界しか知らずにもったいないなと思った。知りたくて逆矯正の眼鏡を掛けると、すぐに気持ち悪くなってしまうだろう。

■8■日本語を用いる人は、「者」も「物」も「もの」もみな違うし、そしてまた同時にみな同じでもあることを、意識していなくても使いこなしている。「ものがたり」は何を語っているのか?主人公の主観世界か、第三者的な客観の事実か、語る者の史観や情感か?それらが非分離に語られているのである。

■9■日本の「侘び寂び」などと同様に語られる「もののあわれ」という言葉には、時代の変遷などもあって一言で定義できるものではないが、単なる主観や客観ではなく、語る者の内的心情とその照射だけに過ぎない世界の見え方ではなく、それらは元々分かちがたく一つであるところに用いられる物言いだ。

■10■「あなた」がいて「私」がいて、その間に世界があるというのも1つの世界観だが、「あなた」がいて「私」がいて、その双方を内包しつつ非分離な「場所」(世界)があるとした場合、私の「心」はどこにあるのだろう?私の外にある世界ではない、あなたと私も二而不二な場所にあるのではないか?

■11■場所に溢れ出て語る日本語には元来主語がない。述語的な物言いの中にものごとが語られ表出する。「もの」を物質世界の中の単なる物体として見るのではなく、見えている物や者を内包しつつ見えない「もの」として捉えようとすることで、奥行や幅や回転として表現されるものが掴めるかもしれない。

■12■ここで言わんとしていることは、目がよく見える方と見えない方のどちらが良いとか、日本語と欧米言語のどちらが良いという二択表現ではなく、双方を共に使う未知もあるということだ。2者を区別すると曖昧な部分が見える。そこを反転すれば2者を内包し、かつ超え行く方向性の存在の暗示である。

//////////////////////(続く…のか?)//////////////////////

■01■カルロス・カスタネダのドンファンシリーズの中で、夕やみ迫る黄昏の中で、カスタネダが得体の知れないカラスのような化け物だと思っていたものが、木に懸った黒い布切れだと分かってはしゃぐとき、呪術師ドンファンは「惜しかったな、もう少しのところでおまえは掴み損ねた」と言う場面がある。

■02■「幽霊の正体見たり枯尾花」は半面の真実を語りつつ、残る半面を断捨してまっている。正体の半分は恐れ怯えていた心が枯れ尾花を幽霊として見ていたことの自覚でもあろう。しかし物質主義を超えて、見えていたことは誤認や錯視ではなく、そのように見てた心の在りようにも半分の真実が存在する。














 

日本の色の文化



■1■かつて「『少女』と『girl』は違う」という詩を書いたことがある。その内容に関しては別所に譲るが、日本語の「色」と英語の「colour」は異なる。もちろん科学的定義も排除することなく理解しているが、私たち日本人は「色」を表情・心情・生きているものとして、非分離に述語的に感受している。

 ■2■前田雨城の色表現は有名だ。日本の色は「赤・黒」は実体的な色ではなく「明るい・暗い」を「あか・くろ」と呼び、「あお」はその中間全てを言い、「しろ」は夜が明けてくる境界もしくは不気味なものを指した。これはヴィトゲンシュタインが晩年思考した西洋的な色ではなく、場所を含む色である。

 ■3■「あか・あお・くろ・しろ」という色を現代的に捉えれば、可視光線の波長帯域における780nm以下の近傍を赤色と呼び、それ以上を不可視の赤外線と呼ぶ。また378nm以下の近傍を青(紫)と呼び、それ以下を不可視の紫外線と呼ぶ。これは人間の身体構造的・視覚器官的に共通な色把握の本質がある。

 ■4■「しろし・あおし」は「顕著・漠然」の関係にあり、「あかし・くろし」は明度の「高・低」の関係にある。物は独立して人に関わらず、場所は人を取り囲む空間として人の生活に関わる、と久島茂は言う。また上代では場所と物の分化がなかったとも。色は客観的実在ではなく、心情や状態を表現する。



 ■5■これらから日本の伝統色までの間にどれだけのものがあったであろう。草木に宿る木霊に祈りつつ染付したと言われるが、最初は染料植物は20種類にも満たなかった。それを重ね染め等の技法や、草木の灰・金気を含む湧き水・土壌・梅皮酢・米酢、さらには明礬・石灰等の媒染剤で色数を増やしてきた。

 ■6■推古天皇の時(603年)冠位十二階(6色…紫・青・赤・黄・白・黒)が制定された。中国的な礼秩序を規範にしつつ、中国とは異なる日本の色を配置した。その後孝徳天皇時(647年)に七色十三階冠、649年には十九階、天智天皇の時(664年)二十六階となる。これらの色彩文化は鎌倉時代まで続く。

 ■7■人間の色覚は生理的に赤・黄・緑・青・白・黒が基本で、それらの中間色である橙(赤と黄)・茶(黄と黒)・桃色(赤と白)・紫(赤と青)・灰色(白と黒)を加えた11色が基本的な色彩語彙であるとされている。しかしこれは近代的識別であり、その基本的な前提に疑義を挟まず鵜呑みにはできない。

 ■8■赤系の色だけでも猩猩緋・紅唐・朱色・緋色・薔薇色・珊瑚色・緋褪色色・蘇芳色・深緋・茜色・紅色・牡丹色・・紅樺色・海老茶・鋳朱・丹…さらに色紅鬱金・甚三紅(じんざもみ)・真朱…。それぞれの色の間を非分離に埋めていく色々な色。日本語の色の名前は科学の色ではなく、文化の色である。













 

日本語についての後拾遺集(1)

                                                                                 photo by Nathan Lovegrove

■1■一つの同じ音で大きく1つの意味を持っていた大和言葉は、中国から入って来た漢字と対応させることで、微妙にニュアンスが異なる独自のものとして使い分ける表現が可能になった。例えば「とる」を「取る」「採る」「捕る」「執る」「摂る」「撮る」などと書き分けることで異なる意味に分化した。

■2■1つの音で表した言葉の意味は大和言葉では大きく1つだったのだが、文字(ここでは漢字)を用いることによって、厳密な意味として語彙語数を増やしたと同時に、本来多数の意味や含みを持っている1つの音を、その場の状況で相互に共通の理解をするという特性を希釈させるという功罪を併せ持つ。

■3■これは現在、駄洒落や言葉重ねとして扱われている言語感性とも関係があるだろう。論理的な言語ではないと言われている日本語だが、私たちはまだ文字を用いなかった時代の、現実の物事と1対1対応的な言語(とそれに基づく世界観そのもの)とは異なる言語使用の感覚を完全に喪失していないのだ。

■4■日本語文法には「人称」というカテゴリーは存在しない。上代には「あ・わ」(1人称的)、「な」(2人称的)があったが、明確な人称表現ではない。ただし内と外という視点の使い分けは存在する。内は1人称的であり、外は2・3人称的である。どちらを高めるかで尊敬語や謙譲語とも解釈できる。

■5■多くの名文は主語がない。日本語は述語文である。主語がないという否定的な言い方ではなく、主語を必要としない述語表現の本質として捉えるべきだ。文が曖昧だとか、論理が不鮮明だという根拠そのものである西洋的構文の発想では届き得ない閾が言語的かつ思想的・理論的にあると強く主張したい。

■6■フランス語の同文中の名詞を全て代名詞で置き換えれば、日本語に酷似する(金谷武洋)。英語は I love you.だが、フランス語は Je t'aime.と動詞で終わっている。またスペイン語は主語を省略しうる言語だ。英語がきわめて特殊言語であり、むしろチョムスキーの生成文法の方が特殊言語理論である。

■7■「ホツマツタヱ」にはヲシテ文字で描かれた「あわの歌」があるが、言霊では日本語の50音図の骨格を「アウワ」と呼んでいる。アは右端のア行、ワは左端のワ行を示すが、ウは50音図を横に貫くウ段を表している。実は50音図は数種類あるのだが、このア行・ワ行・ウ段の位置だけは共通になっている。

■8■カゾイロハという言葉がある。10世紀に編纂された日本最古の辞典「和名抄」(和名類聚抄)には、カソ(ゾ)は実の父、イロ(ハ)は実の母のことと記されている。またカゾは数、イロハはいろは歌でもあり、カズタマとコトタマを意味する。古代の人々は万物は数霊と言霊から生成すると考えていた。










 

心を込めて線を描く

                                   )photo by John Berger

■1■点・線・面・胞…。多面体の話をする時は、このような定義語を普通に用いる。しかしそれらの言葉はより深い豊かなものとしても私たちに迫ってくる。萩尾望都は「かつて一本の線をこよなく愛した時があった」とはるか昔に語った。これはマンガを描くペン画の線だ。丸ペン、Gペン、かぶらペン…。

■2■毛筆の描く線も美しい。日本の書は、筆先に意識と力を集中して紙とすれすれに筆が動かせる。中国の書は筆に力を込めて紙に押し付けるように描く。Gペンでもそうだが、描かれる線に抑揚がある。早く動かした部分やゆっくり引いた部分、止め、抜き、重ね。人体の仕組みから必然に生じるめりはり。

■3■ひらがなの書は下地である紙とかすれも含めて一体のまま描かれるが、中国の書の多くは、漢字の各部位が紙面からはっきりと区別されて立ち上がっている。双方に様々な技法があり習練があるが、日本の書は草書の漢字も含めて紙面と一体だが、中国の書の紙面は書を立ち上げ、分離させるためにある。

■4■現在の機械やロボットに様々な設定を打ち込み、筆を持たせて書を書かせても、この文字と紙、図と地の非分離なる書の域には達し得まい。たとえ上手くなくても肉筆の手紙は心が籠り情感が伝わる。活字をプリントアウトしたものは、紙と文字の不二性はなく、フォントが異なるだけでも情緒が異なる。

■5■日本語は最初は音だけで、文字は漢字を取り込んでからという説と、それ以前からも様々な上代文字が存在したという説がある。どちらにしても文字は先ず手書きだっだ。書く人と書く道具と書かれた文字は一つだった。PCや携帯を普通に使っている私たちは、そのことを今改めて確認する必要がある。

■6■趣味や専門家以外に、日頃から筆やペンに馴染んでいる人はまれだろう。鉛筆でもボールペンでも、極力美しく文字を書こうと心掛けているひとはまれだろう。もちろんそうすべきだという話ではない。音声入力も時には必要だが、書道や手書きの文字に、かろうじて日本の非分離な線が残っているのだ。

■7■自然界には直線はないという表現がある。ガウディの建築物は曲線ばかりで構成されている。イデア界の正4面体には直線が6本ある。天円地方。天は円で地は方形だという世界観。ギリシアでは幾何学はコンパスと定規を用いた。微細な領域では直線はある。実は自然界には曲線と直線の双方がある。

■8■PC上で線を引き、文字を打ち込むことを止めようという話ではない。手書きの文字を記し線を描くこともできるのだから、双方を共に用いることもできるはずだ。人間関係を冷たい線でではなく、図と地が不二のままの暖かい線でつなぎ、PC上の文字にも意識的に「心」を乗せることはできるはずだ。











 

Sato博士が名古屋に途中下車



■お昼から寝落ちしていて、3時過ぎにfacebookをのぞいたら、Sato博士から「名古屋に途中下車したので会えませんか?」というメッセージが来ていた。3時間が過ぎていたので、もう厳しいかなと思いつつ、まだ名古屋にいたら連絡くださいと変身した。そしてfacebook画面のすぐ横を見ると、singhさんがSato博士と食事&談話中という書き込みが出現していた。
■場所などが分かったので、Singhさんの和うに書き込みして、すぐに家を出た。御器所から駆け込み乗車して掛けつけて(いや、実際は膝がいまいち調子が治らないので、牛歩のおうし座歩きだったが…笑)、店に駆け込んだら、記念写真を撮っていた。そこでよくわからないまま駆け込み被写体させてもらったのが、上の画像。




■本来私はボケ担当系の人間なのだが、ツッコミをすると結構キツメの言動になるということが分かった。分からないということを説明するのに、つい一生懸命説明しすぎて、佐藤博士の論の内容にツッコミ入れているわけではなく、分からないところ、納得できないところを自分で明確にしようとすると、口調が強めになってしまうらしい。

■4値の話や、日本的な述語言語をベースにしようとしたりして、Sato博士を随分と並行させてしまったきらいがある。それでも話を聞いてくれたSato博士、名古屋途中下車、ありがとうございます。これに懲りず、今後ともどうぞよろしくお願いします。てか、本『物質世界とイデア』、読みます(^^)。













 

三途の川も三河まで(?)

     

■「三途の川も三度まで」なんてタイトルで、以前何度も死にかけた猫の事を書いたが、突然愚妻が「三河地方って三途の川のことかな?」と言った。「これ、やめなさい!」と答えたついでになぜ「三河」と言うのか調べてみた。大河が3本あるわけではなく、名前の由来は諸説あるけど結局不明なんだって。

■愛知県という県名は「知を愛する」もしくは「愛ある知」的なイメージで非常に好きなんだけれど、これも由来を調べてみたら古くは「あゆち」だった。何だ、すぐ近所にある阿由知通りの「あゆち」じゃん。「あゆち」は(水が)湧き出る地の意味と、東国に向かう時の「足結道」の2説がメインらしい。

■愛知県には尾張と三河があり、これらを混乱すると嫌な顔をする人もいる。「三河」は『古事記』の中にすでに「三川」と表記され、『万葉集』でも「水河」と書かれているが、国号の由来は不明だった。三河また西三川と東三河があるが、古くは「三河」といえば西三河のことだったらしい。地名は大変だ。

■現在は旧旭町の一部を除く豊田市、岡崎市、刈谷市、知立市、安城市、碧南市、高浜市、西尾市、みよし市、幸田町が西三河に属し、豊橋市、豊川市、蒲郡市、新城市、田原市、設楽町、豊根村、東栄町が東三河に属している。愛知県はクワガタの頭みたいな形しているし、名古屋市はその角の付け根なんだ。













 

メタレクin東海・第4回「語」



■『プロジェクトメタトロン・レクチャーin東海/第4回「語」』を、東海市荒尾町西廻間2−1「しあわせ村」保健福祉センター和室で開催した。今回はずいぶん後ろから映しているので、プロジェクターメタトロンでした。後ろにいるので聞いている人は私の顔がみえない。それでも身ぶり手振りつけて話をする私。活動弁士か(笑)。
■今回は事前告知に不備があったり、私自身の左足膝や腰が壊れたりして、いろいろ大変だったが、無事終了することができた。様々なものと人に感謝である。全部で80点ほどの画像を用いて話をしたが、以下はそのうちの本の一部である。自分自身の姿を現さないで話を進めるという、このようなカタチもありうるのだと改めて思った。



■1980年代には世界中の言語の数は6000〜8000ほどあったが、その時点での10大言語(日本語も含まれている)、さらには20大言語が存在し、それだけで語る言語人口の全体の4/5を占めていた。逆に言えば残る5980ほどの言語を、当時の人口の40億人のうちの8億人で使っていたということになる。しかし言語は肉食生物ではないが、それぞれ吸収されて絶滅していく。絶滅危惧種は何も生物だけではない。英語と言うユーラシア大陸の西端にあった、実に気味ような言語である「英語」が世界中を席巻しているが、これもまた確実に未来があるというものではない。日本語と双方があれば次元が一つ上がるかもしれないのではあるが。

■人間の腰椎の1番から5番までは、体文化的には上から「アングロサクソン、中国・フランス人、韓国・ラテン系、日本・ロシア人、黒人」に対応していると考えられているのだが、これがまた「神経系、消化器系、泌尿器系、生殖器系、呼吸器系」にも対応しているばかりでなく、人間の五指のそれぞれ「中指、薬指、人差し指、親指、小指」にも対応しているという話。そしてさらに母音の「あ、え、い、う、お」とも対応しているというような話。


■日本語の擬態語し世界の中で最も種類が多い。と言うよりいつでもどこでも誰でも、その場にフィットする擬態語を作ることができる。現代では漫画の中の書き文字にもそれが顕著だが、日本の漫画を外国語に翻訳する時、述語的な言語であるから主語的な言語である欧米には翻訳しきれない部分が多々存在する。漫画の書き文字はまた絵の一部でもあるので、作者をリスペクトして、ローマ字的な発音とそのあえて意訳的に翻訳した擬音を、すべて巻末にまとめて注釈で表してあるものもある。そのようなことをせずに自在に日本語で漫画を読める幸せを、日本人はあまり意識していない。俳句でも情景や信条にぴったりの擬音を作れれば、それはもう秀逸な一句となる。




■清音でもなく濁音でもなく半濁音でもない「ん」。また母音でも父音でも子音でもない「ん」。サンスクリット語には存在したが、中国語には「ん」という音を表す漢字が存在しなかった。ただし概念や音は存在したので、その概念を中国から最初に日本に持ってきたのが空海だった。しかし日本語でも対応する文字がなかったので「ニ」とか記号を作ったりして表していた。後にひらがな・カタカナ共に文字ができるが、「ん」「ン」共に最後を撥ねるので「撥音」と表現されている。そんな「ん」に関する話。

■□の中に文字を入れてみようという問題だが、本論では時間がなくて話せなかった。元々主語のない日本語では、本来「風で窓が開いた」となるのだが、現今では「風が窓を開けた」とも言いうる。混乱ではなく意識的に使い分けられるが、さらに「風に窓を開けた」などという捉え方もできるという話。



■B.C.19世紀ころからのリグ・ヴェーダの中には、2値ではなく4値論理的な四句分別・テトラレンマが存在する。殆どか神への参加や祈りなのだが、それでもこの後西進して2値の強固な論理になる以前の、インド・アーリア語族の中にある4値の話。それを日本伝来した後の仏教の中の「般若心経」の中のキモの部分にみる。「色即是空」ですべてを表しているが、行って来いの「空即是色」とセットで2値的には完璧なのだが、さらに直前の「色不異空・空不異色」と一つとして捉え、4×4の16文字で見て取るという話。



■草枕 (夏目漱石)
 山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情うに棹おさせば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
  住みにくさが高うじると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
  人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
(以下略)

■雪国 (川端康成)
 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ呼ぶように、
 「駅長さあん、駅長さあん」
明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。(以下略)


…名文なんだけれど、出だしのどこにも主語ないよね。




■「箸」「風呂敷」「ワラジ・下駄・草履」はみな、述語的言語である日本語と呼応するように、独自の道具として存在している。これら一つ一つについても話をしたかったのだが、時間がなくてできなかった。











 

抜き足、差し足、先走り



■1■漢字移入以前の日本語には文字がなかったというのが定説だが、すでに上代から様々な文字が存在したとする説も多数ある。漢字で一番多く書かれる文字は「一」である。画数が一番少ない文字でもある。漢字とよく似た表意文字を用いていたマヤであれば、「・」が1を表し、「−」は5を表している。

■2■文字が作られ用いられた後は、意味や音を表す場合、少なくとも点の1つや棒の1本を書き表す。もっとも文字ができた後でも、不立文字という概念もあるけれど。漢字で最もシンプルな文字は、この一画で書ける「一」であろうと信じて疑わなかった。しかし漢字には縦一本の「|」という文字もある。

■3■「|」という文字は「コン、たていち」と読む。日本にはこの姓を持つ人がいるらしい。驚くことにこの字は、下から上に向けて書くと「ススム」の意となり、逆に上から下に書くと「シリゾク」の意になるのである。書く方向が↑と↓で、進と退と全く逆の意味になる。大きな漢和辞典には載っている。

■4■少し呆れたけれど、まあそもそも漢字とそのようにして出来たものだろう。さすがに「一」の字を右から左に書く文字はない。しかしもしこの「一」が←方向に書けば「左」、→方向に書けば「右」を表す文字であったならば、「十」という文字にはさらに高度な意味を持たせることができたに違いない。



■5■書き順の組み合わせによって→↑、→↓、←↑、←↓が、そもそもの「十」という字の形である十字路にとってどのような意味を持つか、「T」や「L」を90度ずつ回転させた文字も全て可能だ。そんな妄想を膨らませれば、現代の顔文字もまたある種の象形文字だから、未来に残る可能性もあるだろう。

■6■「前」という会意文字は、旅立ちの前や帰還後に穢れを祓うために、盤中の水で足を洗い、刀で足指の爪を切り揃える儀礼だった。「後」という会意文字は、道路で呪器の糸束を使って敵が後退することを求める呪儀だった。空間的な前方と後方を表す文字が、時間的には過去と未来を表すのも面白い。

■7■文字列の方向が右進と左進という問題もある。アラビア語やヘブライ語は普通の横書き言語とは逆に右から左に書く。再び「→vs←」である。右利きの者にとっては→の方が書きやすいが、左利きの者にとってはむしろ←の方が綴りやすいはずだ。日本でも戦前の横書きの文字は右から左に書かれていた。

■8■新聞の見出しで「りせ滅殲隊艦敵」などとある。まぎれもなく右から左方向にしか読めないけれど、実はあれは縦書きで1文字ですぐ改行の連続なのだそうだ。詭弁のようにも思えるが、縦文字本文の改行の進む方向である右から左の流れに合わせてあると言われれば、それはそれで納得せざるを得ない。



■9■ところで名古屋市営地下鉄のエスカレーター横の壁には、1文字ずつワープロでベタ打ちされた「走るな!歩くな!」の紙が斜めに貼ってある。下りは斜め下にまだ読めるが、上りエスカレーターの下から斜め上に1枚ずつ「歩・か・な・い・で」と書かれてある。縦横のみか、斜め上下も自在らしい。

■10■さて、最初の一画の文字である「一」と「|」の問題に戻ろう。これが交差した「十」字路は、「一」と合わせて並べると、四則計算の「+」と「−」に見える。和と差である。さらにこれを左に45度回転させてみよう。「×」と「/」となるが、「/」は電卓では割る「÷」の意になる。積と商である。

■11■さてここから、明日の「メタトロンレクチャーin東海(第4回)『語』」の冒頭にする話にリンクする。「男」と「女」の中には最初から「+」と「−」があり、これらが交差すると「父」と「母」となって「×」と「÷」を内包し、命を掛けあわせて割り増すという話に流れ込むのである。明日に続く。












 

「メタレク」in東海(第4回)『語』の内容予定



■20140921の「メタトロンレクチャー」in東海(第4回)『語』の内容予定が以下のようになりました。遅ればせながら明らかに致します。

---------------------------------------
(001)男と女の2元論を超えて
(002)太陽と月が1,2,3,4...
(003)品字様の漢字たち
(004)7曜日の1,2,3,4
---------------------------------------
(010)絶滅危惧種言語
(011)日本語50音図の構造
(012)日本語の5母音
(013)5母音と腰椎と指
(014)ひらがなカタカナ漢字
(015)様々な50音図と文字
(016)音霊数と50音図
---------------------------------------
(020)「ん」について
(021)日本語の擬態語
(022)日本語の数詞(3と4)
---------------------------------------
(030)ジャンケンの3値論理
(031)色覚における3値論理
(032)3つ組のパラドクス
(033)3つ組の愛のテーマ
(034)1,2,3そして4人称
---------------------------------------
(040)日本語の4字略語
(041)こそあど言葉の4系列
(042)トーラス体と二而不二
(043)四句分別と包含関係
(044)テトラレンマ色即是空
---------------------------------------
(050)四句分別と正4面体
(051)4値論理と正4面体
---------------------------------------
(060)4人称を超える日本語
(061)箸・風呂敷・草履など
(062)主語的でなく述語的
(063)非自己・非分離・場所
(064)身体感覚の中の日本
(065)日本語に全世界を見る
---------------------------------------
以上です。
















 


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