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  • 2024.01.09 Tuesday
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聞くも語るも一皮剥けて



■1■時も煮詰まってきているからかもしれないが、他者の考え方や現在の世界の在りようを強く否定して、自らの考え方や世界観を提示しようとする人が少なくない。それを一律にどうよ?と疑問を呈しているのではない。聞く側の在りようをもしっかり念頭に入れて語ってくれているのかなと心配なのだ。

■2■個人的には他者の思考や現世界の様相を全否定して、自らの世界観を強要しようとは思わない。では全く否定せず、全てを受容・肯定して進むのかと言うとそうでもない。「良い」「悪い」と、「良くも悪くもある」と「良くも悪くもない」のちょっとだけ2値2階建ての4値論理を説明させてもらおう。

■3■1階部分では良いと悪いの2値だ。普通の2元論的な態である。そこを包み込むように2階はどっちもありと、どっちでもないの、1階部分を内包しつつの2値だ。2階だけ見ると否定肯定双方の全肯定と全否定の2元的でもあるけれど、それぞれ1階部分も含むので、論理階型は2階建てというわけだ。

■4■あまたある現世否定や現在の概念の否定もまた、単なる2元論的見地からの否定ではなく、このように2階部分がありつつも1階での言明はどちらでも良いという背景を持つ語り口も多々ある。ただそれは聞く者の現在の資質や素養を無視して、一律に分かる者だけ分かれば良いでは舌足らずが過ぎよう。

■5■自分は全体が分かっているし、明確に意識して語っているから、聞く者もそれが分かるはずだというのは、話者としてずさんな姿勢である。博識者の「相手がなぜ分からないかが分からない」というのは、「自分が分からないということが分からない」という無知のカウンターパートたる欠落領域である。

■6■もちろん誰にでも分かりやすく語れる話者がいれば、世界はすでに変わってしまっている。誰もが部分的に分かり、また部分的に未解明な部分を抱えながらも一生懸命語ってくれている。パラドクスのように提示したり、言葉遊びや数合わせで頭だけでなく腑に落ちるかもとあの手この手を凝らしている。

■7■聞く方が聞く耳を持とうとするのは、それでも何とか伝わってほしいと思考錯誤しつつ頑張る話者・論者の誠実さや謙虚さ、優しさやウィット、聞いてくれる者に対する口には出さない思いやりだ。極端な話、論理が一致していなくても、相手がそれまで分からなかったことが自ら分かればいいのである。

■8■基本的には何事も否定することなく超えていくのが好きなのだが、4値論理で言えば否定するということすらも否定しないのだから、基本的には何でもアリなのだ。話者への注文だけでなく、勿論聞く者の方にも一言注文しておこう。言っている事ではなく、言わんとしている事の方に心の耳を傾けよう。

■9■ではお前はどうなのよ?とツッコミしないと話は終わらない。私は話下手で、先走り詰め込みタイプだし、聞いてくれる人の微妙な心の変化にはほぼ無頓着。そんなお前がなぜこんなことを言う?と追い突っ込みすれば、そんな私だからこそ痛いリアリティがあるのだよと煙に巻く必要もあるということ。













 

ノート1冊のレシートから2015年へ



■1■文房具店でノートを1冊買った。レシートを見てなるほどと思った。定価は225円だが、消費税の8%を上乗せされて支払金額は243円だった。金星の公転周期は225日であり、金星の自転周期は243日である。この2数の比は税抜きと税込み225:243=100:108であり、また5^2と3^3(25:27)でもある。

■2■この金星の自転周期と公転周期の比225:243は12:12.96だから、ほぼ12:13でもある。12:13といえばすぐに、月の自転・公転周期27.3日と朔望周期29.5日が連想される。この2者の比は12:12.967…だから、こちらもほぼ12:13である。同じ天体をその数え方で、12と見るか13と捉えるかの違いである。

■3■惑星歳差運動周期にもまた数え方によって12と13の捉え方がある。西洋ではプラトン年とも呼ぶこの25920年を12分割した1296年を、黄道360度の1/12もしくは12星座の1つの宮と捉えている。これに対してメソアメリカのマヤでは、26000年を2000年をひとくくりとした13個として、カウントしている。

■4■惑星歳差運動周期25920年を、最初に見た金星の公転周期と自転周期の比12:12.96=1200:1296で見ると、12.96×2000=25920となるが、この12.96をほぼ13と見ると、マヤ的な13×2000=26000と言う形になる。余談だが1296は36の2乗であり、36は6の2乗である。つまり1296=36^2=6^4である。

■5■1個の球体に同じ大きさの球体が最大何個接することができるかというキスナンバーの問題の答は12個だが、中心の1個も入れると13となる。この12個の球体の重心をつないだ形はベクトル平衡体となる。2012年と2013年の反転を見詰めた2014年もついに終わり、いよいよ正念場である2015年に突入する。

■6■力み過ぎず怠け過ぎず、日々の洗脳に正気を失って条件反射的な生に堕したりせぬように。「自分」は自分が自分だと思っているよりずっと広くずっと大きい。自分というものが自分の知っている全てだとも言えるし、自分なんてものは元々ないのだとも思い至ることができるであろう2015年。頑張ろう。

■7■逃げ場もなく、何の打開策も思いつかないようなどん詰まりの閉塞感に陥ったら、最大のチャンスでもあると自らを鼓舞しよう。世界が暗く惨めにしか思えない時は、自分の世界認識や想像力の外には、思いもしなかった素晴らしさもあるはずだと謙虚になろう。とりあえず皆さん、健やかに。朗らかに。

■8■数の恍惚・数える至福。人生における未知数が、世界の閉塞感を打開する未知数が、2015年には明らかになるのではないか。未知とは既知の対語なだけでなく、数とはただ10進法の中の数字だけではない。誰にでも甘受でき、誰にでも理解できるそれを明らかにしようと頑張っている全ての人に感謝する。













 

掌を真逆に合わせる合掌の世界



■1■ハグを合掌に喩えたのには色々な含みがある。5本の指がみな手のひらで繋がっているように、5体満足の人体も重力で大地に繋がっている。もちろんジャンプはできるけれど、ハグする2人も同じ重力に引かれ、合わせる両手の指もまた同一方向を向いている。背中合わせのハグも手の甲合わせも同様。

■2■手の平を合わせたものが「合掌」なら、手の甲を合わせたものは「合甲」とでも呼んでみようか。最も簡単な合甲は、昔テツandトモというお笑いコンビが「何でだろ〜、何でだろ〜」と、掌をひらひらさせて歌っていたが、あの胸の前で腕がバツを作る形をそのままスライトすると手の甲合わせになる。

■3■もちろんその形は手首のところで腕が交差してしまうので、裏合掌としては今一つ美しくない。合掌したまま掌を手前側に開いてそのまま背中合わせにすると、胸の上で上向きの裏合掌となる。しかし掌を外側に開いて行って手の甲を合わせると、人体の関節の構造特性上外向きか下向きの裏合掌となる。

■4■どう合わせても重なりあわない両手の関係をカイラリティと言ったが、どうせぴったり重なり合わないのであれば、他の様々な合わせ方について考えてみるのも悪くない。例えば合掌している手のひらの片方をくるりと180度回転させてみよう。腕が上下に位置するが、これも合掌の1つと言えるだろう。

     

■5■『アップサイドダウン重力の恋人』という映画(2013年公開)があった。重力が反対に作用する2つの惑星で、非常に接近した上下さかさまの世界に属する男女間の恋愛を描いたファンタジックな作品だ。ちなみに私は2重重力の世界観とその中での男女の恋の描き方が陳腐そうという我見から観ていない。

 

■6■同じく2013年に日本でも『サカサマのパテマ』というアニメ作品が上映されていた。こちらも重力の働く向きが上下逆さまの世界の2人なのだが、どちらかの視点に切り替わるたびに、画面がぐるんと180度回転して、双方が等価であることを示してくれる。互いに敵視する逆向きの2つの世界の出会い。

■7■かつては逆さ眼鏡をかけることで、逆向きの世界というものを個人個人で体験していた。しかし『アップサイドダウン』や『サカサマのパテマ』等の作品が世に出ている現今では、もはや真逆の方向性を持つ自己と他者が出会い、共に1つの世界を体験・共有する時空領域に入っているのではなかろうか。

■8■かつては突然目の前に何かがぶら下がるように逆向きに出でくるものは、亡霊や妖怪のようなこの世ならぬものとして恐れられていた。昨今ではゾンビや吸血鬼の類が逆向きにぶら下がるイメージにも慣れてしまった。そして今や真逆の重力世界の男女が出会い抱きあうところまでイメージは来ている。

■9■取り合えず上記作品の一部画像なりと見てもらえれば、逆向き(この場合は上下の対性だが)の者が出現しても恐怖で泣き叫ぶだけでなく、むしろ抱き合えば双方の重力を相殺して宙に浮くこともできるという発想に繋がっていく。アセンションでもデセンションでもない3番目の空間への浮遊である。



■10■その上下逆向きのモノ同士を1つにするイメージを、もっとシンプルに持つ方法がある。右手は仏を表し、左手が衆生を表す。その両手を合わせることで仏との一体化を象徴する合掌。その左右の掌を180度回転させることで、少なくとも人間型ゲシュタルト超えの象徴を、そこに創り見ることができる。












 

両手で演じる背中合わせのハグ



■1■「背中合わせのハグ」をプラトンの「愛の起源」に重ね見たが、それだけで満足すると、せっかくの素材を視野狭窄の世界観に閉じ込めてしまう。向かい合ってのハグは、言わば私たちが祈りなど敬虔な気持ちを表す「合掌」に似ている。「背中合わせのハグ」は「背中合わせの合掌」に対応するだろう。

■2■合掌はインド起源の礼拝の仕草だが、神道では両手を打ち鳴らして礼拝する。手の甲の拍手はないだろうと思っていたら、それは裏拍手と言う名で存在するようだ。幽霊や未成仏なる者は手の甲で拍手をするという考え方がある。妖怪博士とあざなされる甲田拍手…いや博士の烈っつぁんに聞いてみよう。

■3■合掌するのは死者への作法、手の甲を下向きに合わせるのは死者からの作法というわけなのか。「手のひらのシワとシワを合わせてシアワセ、なーむ」とか言うTVCMがあったが、確かに手の甲だと指の節があるから「フシとフシを合わせたらフシアワセ、ちーん」みたいな駄洒落も有りかも知れない。

■4■手の甲を合わせる逆拍手は手話で「早くこちらに来い」という意味らしい。「マタニティヨガ」というものがあるが、その中に胸の前での「手の甲合わせ」から息を吸い込みつつ斜め上方に花が咲くように指先を引き上げるというものがある。乳管がしなやかになり、産後の母乳分泌が促進されるという。

■5■ヨガ風の呼吸ストレッチの中でも出現する。座ったまま両手を合わせ、それを頭上に持ち上げる。ぐーっと伸ばして息を吸い切ったら頭上で掌を返し手の甲を合わせる。そこから息を吐き始めて両手を伸ばしながら下ろし、ゆっくり息を吐き切ってから元の合掌ポーズに戻る。胸と肩甲骨をほぐすらしい。

■6■手の痺れの原因の1つである手根管症候群というものがある。手の神経は束になって手首の手根管を通るのだが、この中で神経が圧迫されることで痺れや痛みが生ずる。胸の前で手の甲を合わせる姿勢を1分取って手の痺れが強まる場合、これを「ファーレン徴候」と言って診察のポイントになるという。

■7■ほとんどすることがないと思っていた「手の甲合わせ」という仕草も、考えてみたらハンドクリームや化粧水やアロマテラピーの精油などをまんべんなく伸ばす時などにも、手の甲をすり合わせたりする。手の甲と掌をすり合わせたりすることも可能だ。ただし裏返しにしない限り両手は重なり合わない。

■8■このように3次元の図形や物体やある現象が、その鏡像と同一に重ね合わすことができない性質のことをカイラリティ (chirality)、もしくは「掌性」と言う。手はカイラルなものの一例で、右手とその鏡像である左手は互いに重ね合わせられない。語源はギリシャ語で「手」を意味するχειρである。

■9■荒木飛呂彦のマンガ『ジョジョの奇妙な冒険』の中に、「両方とも右手の男」というキャラクターが出て来るがこれはフィクションだ。私たち人間の両手は、右手の掌と左手の甲を向かい合わせても重なり合わない。このカイラリティは幾何学的な図形、分子、結晶、スピン構造等で用いられている。

■10■さて学問的なことは専門家に任せておき、私たちはその語源でもある自らの両手の上で見てみようと思ったが、話の前フリが長すぎて「背中合わせの合掌」もしくは「両手の甲でハグ」自体についてはあまり語れなかった。申し訳ない。この次は両手のジェスチャーで意味を象徴する印契も見ていきたい。

■11■ちなみに合掌は胸の前で作るのは簡単だが、背中で作るのはかなりの柔軟性が必要となる。指先を下に向ける合掌なら簡単だが、意外にも手の甲を合わせる逆合掌は上向きでも下向きでも簡単にできる。自分が未だ体感していない人体のポーズは無限にある。見るだけでなく自分で体を動かすということ。












 

背中合わせの私と私

      

■1■今年の3月下旬に、ましましさんと一緒に「すみれのお宿」にお邪魔して「メタトロンレクチャー&プレイ」をした。つい先日もお宿のお父さんの誕生日で多くの人が集まっていたので、私もお祝いにと思ったけれど、ちょうど家の猫の1匹が他界して行けなかった。遅蒔きながら、お父さんおめでとう。

■2■さてその2日目の夕食後に、ましましさん推奨の背中合わせで座って相手を感じる「背中あわせのハグ」をみんなでやった。実際に相手があまりよく知らない人でも、見えないので恥かしさやら気遣いやらほとんどすることなく、背中の温かみや信頼感などをじっくり味わうことができる素敵な方法だ。

■3■背中あわせというと、360度ぐるりと囲む敵と戦う武士が信頼できる味方に背中を預け、自分の前面180度と全力で対峙する時代劇シーンが連想される。流れ巡る感じで温かいんだよね。中世欧州の騎士物語ならいざ知らず、これが西部劇らな逆に360度全方位から撃たれて蜂の巣にされてしまうだろう。

■4■プラトンの『響宴』の中で語られる愛の起源。世界が生まれたばかりの頃の人間は2人一組で背中合わせの生き物で、両手両足が4本ずつあった。しかし神は人間が地上を支配するのを嫌って2つに引き裂いた。今の形になった人間はそれ以来、失われた半身を求めて愛を渇望するようになったという話。

■5■人間が2人一組だった頃は「3つの性」があった。男と男が背中合わせの『太陽の子』。女と女の『地球の子』。そして男と女の『月の子』である。kohsen氏はこれを男・男は精神、女・女は物質、そして男・女が2者をつなぐ意識とし、自己他者をつなぐ両性具有の無意識の部分を象徴していると見る。

      

■6■『日本書紀』にも登場する飛騨の両面宿儺は、計8本の手足に首のない2つの顔という異形の鬼神である。奇怪な姿で描写されているが、一般には大和王権に抗した古代の豪族であると解釈されている。また背中合わせではないが、前後2つの顔を持つものには、ローマ神話の出入扉の神のヤヌスがいる。

■7■「背中合わせのハグ」と言葉にしても、それだけでは単なるイメージに過ぎない。正面で向き合ってのハグはしっかり抱き合うが、背中合わせのハグはむしろ少し寄りかかり合って、その接触面に意識を集中してみることになる。やってみて感じてなんぼの世界だけれど、温かさと安心感を感じてしまう。

■8■この2人だけで行う「背中合わせで人間温泉」バージョンの他にも、背中合わせの人にまた別の人が足の裏同士をくっつけ、その人がまた別の人と背中合わせするということを繰り返せば、多人数が連なる愉快な「エネルギー直列人間」を味わうことができる。実際にやってみて分かることも少なくない。

■9■ましまし氏は今度、この背中合わせのハグ状態で相手の顔を描くというワークをやるらしい。自己他者問題を概念や理論だけで追及する方法もあるが、実際に身体を用いた体験の実感からそれを探求していくという方法もある。
過去の文献の中や、最新の身体ワークにも例を見ない実に斬新な方法である。

■10■これは一人ではイメージトレーニングすらできないワークだ。複数であれば、何人でも可能である。背中合わせの相手が老若男女いずれであっても、正面同士と比べてハグはし易いだろう。鈍感であってしかも別な意味の繊細さも持つ背中(そして足裏)同士のハグはその先にどんな世界があるのだろう。












 

誰にも語らない真の名というもの



■1■あらゆる言葉には対の言葉がある。しかし概念には必ずしも対の概念があるとは限らない。言葉で語られることがなく名付けられていない概念は、明確に共有することができない。ものごとは「名」を与えられることで、人間界で共有できるものとして実在化する。「名」には重要な秘密が隠されている。

■2■様々なものごとに関する知識は、先ずその名を知ることから始まっている。名を知ることにより、その本質を知るとともに、その名付けられたものを一部なりと支配することができる。そのこと自体は名の本質であり、良くも悪くもないけれど、名を知って自らのエゴのために支配しようとする者もいる。

■3■さてこの世界には、親や名付け親により与えられた名前だけでなく、自らのより本質的な意味の「真名」を持つ人もいる。誰が真名を持ち、誰が持たないかは普通ほとんど分からない。真の名を持つ者は、それを安易に口にしたり、他者に仄めかしたりしないからだ。ない者はあっても大差ないと思う。

■4■真名を概念でしか知らない者に、その定義や意味を明らかにしてもさほど意味がない。真名は1つ次元が上の胎盤のように、この世界で未だ胎児である人間に一生寄り添う。それはある日ふと頭に浮かぶこともあれば、賢者のような存在の者が偶然を装って、「力」と共にそっと教えてくれることもある。

■5■自らの今の名前がまさにその「真名」であると考える者もいるだろう。生まれる前からその名を選択していて、親や名付けの親の意識を操作してその名を付けさせた云々という解釈は、ファンタジーとしてはありだろう。しかしそうとしか考えられない者は、独善的で他の世界観に対して狭量すぎる。

■6■自らの真名がない者、もしくは想起できぬままの者は、沈思熟考して真名を創出しても良いと考えている。ペンネームやハンドルネームとは別の話だ。愛称や屋号ともまた違う。それは先ず他者のためのものではなく、自分自身のものである。文字を持たぬ音だけの名でもよい。他者に教える必要はない。

■7■「名も無きものから全てが生まれた」と表現しておきながら、老子は本当に優しくそしていたずら心に満ちているので、それを「道」(TAO)と表現した。その時点で少なからずの者は、道という音と名に惑わされて「名もなきもの」と言語表現の界面ギリギリのところでの仄めかしを取り違えてしまう。

■8■名は人間として生きていく上で必要なものだ。それ自身が力を持ち、それによっても当体が形作られ性質を帯びて行く。それでも敢えて言えば、名よりもさらに力強いものは名も無きものである。その未だ「私」と重畳していない名も無きものに、「真名」という「仮名」を付けてそれに触れてみること。

■9■その2つの名もしくは重畳する意識の在りようを保持しつつ世界に対峙すれば、人間的な2元的認識や論理を内包しつつ2階層2値の4値論理でものとことを捉え見たり、大きな私たちの態も含む4人称的共有文法と視座で表現することもできるだろう。その真名を持つ意識のランドスケープの力の焦点。

■10■指導霊とか守護天使とか、超自我とかハイアーセルフとか、先祖霊とかトーテムアニマルとか、自分だけに専従する宇宙人や未来人や異次元人などと様々に捉えられ、表現されている元来名も無きそれらを、名や概念にとらわれずに、自分だけの「真名という仮名」で捉まえ生きていくこともできるのだ。












 

神にとってはこの世が黄泉の国



■1■奈良でのましましさんと某K氏(^^)の対話からの「神にとっては『この世』が『黄泉の国』」というフレーズは、個人的にちょっと来るものがあった。確かに分かっていたことなのだけれど、自分の思考閉塞からのブレイクスルーへの一打としてヒットしたのだ。
 
■2■現今の主となる思考も言語も論理も二元的背景の世界、もしくは数で言えば「1と2」の中だけの世界であり、その中の数学であり社会的共有価値観なので、3の方向への立ち上がりを提示したかった。必然的に2階2値の4値論理なので裏で4も付いてくる。

■3■しかしまさに分かっていたのだけれど、意識の上での方向性についての思考では、逆方向からの立ち現れもあるということを失念していた。簡単に言えばそもそもこの世は黄泉、つまり4と3の世界であり、4→3という3への方向性も同時に存在しているということ。

■4■駄洒落だけでは世界は動かない。皆が皆納得することはできない。ただしそれは無意味ではない。腑に落ちるタイミングがあれば有効だ。1→2→3と視座を1つ垂上させるには、5→4→3と顕現してくるものとの唱和があると知れば良いのだ。

■5■腑に落ちる駄洒落は、シンクロニシティと同じように自らがまさにその時に、ずっとそこにあったものに焦点を合わせられたということでもある。引き寄せると言う表現はちょっと自分中心でちょっと稚拙だ。主語がないままそれらは引き合うのだ。

■6■蘇る・黄泉返る・ヨミガエルということ。それは共有の世界観において、自らの内なる神と外在として捉えている神とがカミアイ、機能するということだ。「この世」と「あの世」の重畳する「その世」で、あなたと私も含む4人称で語り合える世界なのだ。

■7■これは解説でも何でもない。ただ私の思考の中からずるずると手繰りだされてきたものに過ぎないので、さほど気にしないでほしい。「そういうものなのだ」ではなくみなさんの「私はこう捉えこう考える」…という大切なところの邪魔にならぬようお願いします(^^)。

■8■この世は神の御代(3−4)ではなく、反転した黄泉(4−3)の国とでも(^^)。画像は正方形を45度ずらして重ねたものを回転させたイメージを、さらにすこしねじったものです。特にカミアイと上と下からの交差には回転がキモだという感じで作ってみたアブストラクト絵づらです。












 

稲の中の3と5



■1■稲は常に5枚の葉で生成の機能を分担している。上の2.5枚は稲自身の身体を作って成長と米作りを担い、下の2.5枚は根にデンプンを送り、養分吸収や有害物質の中和などをしているのである。新しい葉が1枚出展開すると、古い葉が1枚枯れて常に5枚になる。古い葉は根元でそのまま養分となる。

■2■稲は10度Cを超えないと発芽しない。5枚葉の成苗まで生育するのに、発芽後50日かかる。田植えの時は稲葉の数が重要なのだが、寒冷地では自然発芽だと収穫時期が遅れると冷害も発生する。そこで保温苗代で人工的に発芽させ、20日かけて葉が2.5枚の稚苗まで育苗してから、田に植えることになる。

■3■日本には「麦は百倍、稲は千倍」という言葉がある。1粒から麦は百粒、米は千粒収穫できるという意味だが、実は稲は上手く栽培すれば一万粒にもなる。桶に田の土と十分の肥料を入れた桶に一本の苗を植えると、最大200本の穂茎を出す。1穂に平均50粒でも1万粒となる。稲の分げつ力は物凄い。

■4■1粒から一万粒にまでなり得る稲と人間が付き合い始めてから一万年が経つ。その間様々な農業技術の改良や研究がなされてきた。稲は非常に規則正しい生育をする植物だ。ある葉が展開すると、その葉の節より3節下の節から分げつ茎が分化し、その節から発根する。またさらに3枚先の葉が分化する。

■5■同伸葉同分げつ理論というものがあるが、新しい根が出るためには新しい葉が伸びだす必要があるのである。稲はこれを繰り返す。親茎から別れた1次分げつ茎もまた、同時に葉を出し発根する。稲からできる米は生き物であり、玄米は催芽器で目を出させれば年間を通して芽が出る。稲の中の3と5。

■6■不耕起で無肥料、低温育苗で冬季灌水という最先端の農法があるらしい。田を耕さないと稲はストレスからエチレンという成長ホルモンを分泌する。冬季灌水でイトミミズの排泄物が堆積し、雑草の発芽を抑制し、稲の肥料となる。低温育苗は徒長を抑え、美味しい米となり収穫量も増えるというものだ。

■7■この究極の稲作を創出した故岩澤信夫氏の農法だ。不耕起・不施肥・無農薬で草や虫を敵としない自然農の川口由一氏、そして奇跡のりんごの木村秋則氏と共に、故福岡正信氏に影響を受けているというが、できれば私も早々に何らかの形でこのような農業・自然・生命とのかかわりをしてみたいものだ。












 

米と麦



■1■米と麦。米の原産地は中国南部の長江下流域か東南アジアと考えられている。少なくともジャポニカ種については中国長江流域で約1万年前に栽培されていた。麦はカスピ海南岸地域、アフガンからイラン・イラク地域だと言われる。最も原始的なヒトツブコムギの栽培は1万5千年前から始まっていた。

■2■日本では米だけでなく小麦も古くから作られていた。スサノオがオオゲツヒメを斬り殺した後、その死体から様々な物が生まれたが、麦もその中にあったことが『古事記』に記されている。なお小麦の粒は大麦に較べて決して小さくはない。「古麦」または「粉麦」が小麦と転化したと考えられている。

■3■「麦は百倍、稲は千倍」という言葉がある。種籾1粒を播いて何粒の収穫できるかを「収穫倍率」と言う。この句は麦は百倍、稲は千倍採れるという意味だ。しかし実際に麦が十倍を超えるようになったのは19世紀に入ってからで、現在でも欧州で15〜16倍、米国で20〜25倍程だ。日本は150倍超である。

■4■古代ギリシアの詩人ホメロスは人間を指して「小麦を食べるもの」と位置づけていたが、脱穀しても粒は堅いので石臼などで粉にして、練ったものを焼いて食べていた。日本では飛鳥〜奈良時代に中国からうどんの製法が伝播したらしく、練ったものを長く伸ばして団子か、切って麺にして食していた。

■5■『ヨハネ福音書』第12章24節に「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」というフレーズがある。この1粒はキリストの比喩だが、日本では新潟で「一粒の米の中には七人の神様がいる」と言う言葉があるように、米を神聖視する高い精神性を有している。

■6■湿性植物である米は高温多湿な地域での栽培に向いている。一方小麦は寒さに強いが長雨に弱いところがある植物であり、その多くが乾燥地帯や寒冷地域で栽培されている。日本では乾燥する冬に種を播き、長雨の降り始める初夏に収穫し、高温湿潤な夏は米を作る二毛作を行うことも可能な地域がある。

■7■全世界における生産量ではトウモロコシが6.1億トン、米が5.9億トン、小麦が5.8億トン(2001年統計)で世界3大穀物となっているが、これらはすべてイネ科の植物である。なおメソアメリカ原産のトウモロコシは紀元前5千年頃までには大規模栽培され、南北アメリカ大陸の主要農産物となっていた。

■8■ビールは通常大麦から作られるが、白ビールは小麦の麦芽を多く使用して作られる。ウイスキーや工業用アルコールの原料にもなる。トウモロコシからは、発酵させてチャチャという酒がつくられている。米は麹と水を主な原料として清酒が醸造される。朝鮮半島・中国・東南アジアでも米の酒がある。













 

パラドクスを内包する日本語の度量



■1■そもそも「論理」とは何なのか?通常言うところの「論理」とは、考えや議論などを進めていく筋道であり、思考や論証の組み立てのことだ。または思考の妥当性が保証される法則や形式を意味している。これらのいわゆる論理とは、真理値の値が真(1)と偽(0)の2個のみからなる2値論理である。

■2■これに対して真理値を3個以上持つ論理体系を多値論理と言う。真理値が3個であれば3値論理であり、4個であれば4値論理である。以下同様だ。哲学や数学の問題における「可能性」や「未定義」などの概念を論理的に表現しようとすると、真でも偽でもない第3の真理値の表現が必要となってくる。

■3■伝統的論理学の体系的な研究に取り組んだアリストテレスもまた、未来の出来事を表すには真でも偽でも無い可能性(未来偶然命題)として第3の値について言及している。学問として今日の3値論理の研究体系が確立したのは、1920年にポーランド人ヤン・ウカシェヴィチが発表した論文からである。

■4■「知る者は言わず、言う者は知らず。」『老子』第56章冒頭のフレーズだ。真に理解する者はそれを語らない。安易に語る者はよく理解していない。ではそれを語った老子は分かっていないのだろうか。実は知る者は言うも言わぬも良いのだ。それでも敢えて語ってくれたところに老子の慈愛を感じ入る。

■5■「ならぬ堪忍、するが堪忍。」「芸は芸を隠すことにある。」「秘密なぞ何もない。これこそが秘密なのだ。」「無作為の作為。」「君の想像力は君が想像する以上に価値があるのだ。」「ユーモアを定義しようとすることは、ユーモアの定義の一つである。」「原則として、私は原則に反対である。」

■6■ある表現が突然別の意味も持つことが明白になった時、対話は相転換をなす。ユーモアが爆発する瞬間とは、1つのコンテクストが解体し、再統合される瞬間なのだ。落語のオチや言葉遊びは、時間を掛けて論理的に理解して楽しむものではなく、直観的かつ瞬時にそのセンスを理解して楽しむものだ。

■7■パラドクスは右か左か、正か誤か、白か黒かと2値論理の発想で構え臨むと行き詰るが、その2値2択に縛られなくても良いと分かるとあっさり問題ではなくなる。どちらでもない、もしくはどちらでもあるでも良いという見方を常に持っていれば、様々なパラドクスを楽しみつつ鑑賞することができる。

■8■「真実は語れない。」「確かなものは何もない。」 「質問してもいいですか?」「自主的になれ!」「神に感謝するが、私は今なお無神論者だ。」
「例外が規則を証明する。」「負けるが勝ち。」「サディストとはマゾヒストに優しくする人である。」「女装とはもっとも男性的な行為である。」等々。

■9■それまでの葛藤や迷妄が嘘のように解消する。2値論理での問題はすでに問題ではなくなっている。政治も裁判も学術評価もみな2値的論理では現実に追いつかないまま乖離していく。2値を否定せず内包しつつ、3値4値の論理で眺めることができれば、感性や直観にも明白に論理があることが分かる。

■10■パラドクスには様々なバリエーションがあるが、それ自体の中に論理階型の構造を有する。文脈中でそれを見て取れなければ、矛盾や奇異な表現を含む文面に見えるだろう。その2元的な思考平面から垂直に立ち上がる方向を見て取れる者には、最早それが不要だということ自体がまたパラドクスである。

■11■そもそも「論理とは何か?」を自問し、そこに自力で疑義を挟み込む余地が無い者の「論理的正当性」ほど退屈なものはない。その「論理」と自称するもの以外に論理に相当するものがないと断定しているか、無知である者の、いわゆる論理的正当性は、未知に対する傲慢から時に暴力的ですらある。














 

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