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  • 2024.01.09 Tuesday
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日本人はここで日本人になった


 
■1■日本人とは何か?多様で豊穣な地理条件の中で、戦争より共存を選択し、花鳥風月を愛で、他者を出し抜く強烈な自我に振り回されもせず、基本的に清潔で優しい生活を好む気質や伝統。そんな私たちが当たり前のこととして生きている諸事に、海外の人たちは驚き、時には羨み尊敬すらされたりもする。

■2■私たちがアイデンティティを重ねるそのような「日本人性」とは、どこか遠くの地で生じてこの地に持ち込まれたのだろうか。そうではあるまい。多様な人間が様々な時代と道筋からこの地に辿り着き、少なくとも1万年、1万5千年という長い時を経て、それらはこの地で生まれ育まれたものであろう。

■3■まだ名もない日本列島の中で、長い時をかけて世界的にも特殊な人種として括られる縄文人が生まれた。やがて民族として括られて倭人と呼ばれた。律令制のローカルな国家を構築してから、統一国家の国民としての日本人となった。かくして私たちは今、自らを日本人と称し、日本人として生きている。

■4■しかし現今の私たち日本人が「日本人性」と称しているものは、その最後のわずか千数百年の間に急遽構築されたわけではない。日本人が日本人と自称する遥か昔から、縄文時代のさらに前の旧石器時代から日本人的なその歴史は始まり、途切れることなく私たちの内外に滔々と流れ続けて来ているのだ。

■5■そしてそれは有史以前の茫洋とした縄文・弥生・古墳時代として、伝説や神話と同様に霧の向こう側にあるのではなく、私たち1人1人の心身と生命・精神の中に存在しているのだ。生物として内包された歴史はさらに遥かまでの奥行きを有している。それらをいかに想起し、反転して未来へ展開するか。

■6■地質時代のタイムスケールを1年365日に重ね見れば、更新世は12月31日の午後7〜12時にあたる。縄文1万年と言っても、約260万年間の更新世をツォルキンに比すれば、僅か1キンに過ぎない。一方的に他者他人に歴史を問うだけでなく、自らの生命の中にそれらを想起し、それを生きるという姿勢。

■7■安易に「私たち日本人はもっと自らのアイデンティティとその在りように自信を持って良いのだ」と声を大にして言うと、劣等感や優越感を徒らに攪拌してしまう。大きなアドバンテージがあることに、それとなく気づけばいい。そして気づいたら何をすれば良いのかも、各自で決断すればよいのである。

■8■縄文というものをよく知らないまま、ただ「縄文、縄文」と肩入れして唱えるだけでなく、良く知ること。また自らを地球を超えた「宇宙人」と称する者は、この地球の歴史や生命の現実をより明確に知っていなくてはなるまい。強烈な思い込みは悪くない。それを他者と共有できるカタチに整えること。













 

今ある歴史限界を軽やかに超えて



■1■為政者が自らの正当性を記した記録をもって、「日本国」と言う国家のアイデンティティの礎とするのはまだ分かる。しかし飛鳥・奈良時代以降の歴史、つまり文字が表れてからの歴史が日本史であると言う捉え方は尋常ではない。その時点以前にすでに「日本語」や「日本人」は存在していたのである。

■2■「日本国」へのお仕着せの帰属意識ではなく、「日本人」そして「日本語」というものについて自問する時、文字による記録はなくても弥生や縄文などの先史時代についての扱いをぞんざいにすることなく、1万年以上の我々のアイデンティティの全体性について、もっと真摯に見詰めなくてはなるまい。

■3■先史時代に関する記述は曖昧にならざるを得ない。そこで文字による記録があるから、それは客観的で間違いはないとする考え型には、大きな落とし穴がある。実は文字資料の中にこそ、作為的な論理の正当化や恣意的な情報欠落などが潜む可能性がある。書かれなかったものや消されたものの質と量と。

■4■現在の世界史は、その元が中国と西洋中心の歴史観から成り立っている。紀元前91年頃成立した司馬遷の『史記』は中国で最も重きを置かれている歴史書だが、漢民族のコンプレックスを払拭すべく、周辺諸民族の名前は匈奴、鮮卑、東胡などみな差別用語だ。それはずっと後世まで書き換えられ続ける。

■5■ユーラシア大陸の中央部には様々な強国が栄枯盛衰を繰り返しつつ、大陸の東と西に大きな影響を及ぼし続けるが、漢民族及びゲルマン民族は、自らを世界の中心に据え置こうとしてそれらを極度に矮小化し、歴史の中に残そうとはしなかった。それらを覆す様々な研究の端緒は最近始まったばかりだ。

■6■「日本国」に戻ろう。神話性に満ち溢れた「古事記」及び「日本書紀」は、文字(そしてそれによる音)として残されている日本最初のオフィシャルな歴史書である。それら同士の中でも天皇のみのために書かれた前者と、公的な記録としての後者の間にも多数の不一致や矛盾や不明瞭な部分が山積する。

■7■それしかないのでそれを元に歴史の研究をするのではなく、記述内容を鵜呑みにするのではなく、疑ってかかる姿勢も大切になる。そしてそこに記されていない、それ以前の遥かに広大な考古学的な過去との連続性はほとんど何もない。記紀の研究は重要である。ただそれを越えて遡り行かねばならない。

■8■現在の古代日本の姿は、神話と伝説が入り交じり合っていて、不明瞭なまま放逐されている。例えば謎の4世紀。人類学的にも文化的にも大激変が起きた時期だが、その実態がよく分かっていない。研究対象が不在なのではなく、様々な巨大古墳などを宮内庁が禁断の聖域として発掘禁止にしているのだ。

■9■宮内庁書陵部などは、日本史が根底から塗り変えられる日本古代史の実態を熟知しているのかも知れない。単なる物理的証拠だけではなく、大和朝廷のルーツや精神すらをも軽やかに超えてその視野を広げなくては、あからさまに文字で残し口頭で解説することのない神道・古神道の世界が見えてこない。

■10■奈良や飛鳥の地に眠る遺跡の発掘・復元のみならず、さらにその下にある古代人の生活とその精神という、連続する時間的地層の解明が為されねばなるまい。そしてそれは決してそれらのモノと不連続ではない私たち個々人の生命記憶と連動して、思いがけない新たなる遺跡や記憶が顕現されゆくだろう。

■11■私たちは誰しもが、画一的で全体主義的な現今の政治的な「日本国」には収まらない、広大な平原を疾走し大海原を渡り来た記憶を内包しているはずだ。何物をも否定せず、新たなる歴史を想起し、創出すること。そこまで行かなくては「オオモノヌシと名付けられる前のそれ」には辿り着けないのだ。














 

名もなきものを名もなきままに



■1■プラトンは世界は洞窟に映っている影絵だと言った。また私たちの精神は3次元の肉体という牢獄に閉じ込められているという表現もある。もし牢獄に閉じ込められても、拷問の類がないならばだが、私は結構楽しくやっていけると思う。好きなことに専念して纏め上げる時間が取れて嬉しいかも知れぬ。

■2■世界とそこで生起する物事に対する様々な知覚と認識は人間型ゲシュタルトだから、それを脱しなくてはならないという主張がある。それは否定しない。しかし人間型ゲシュタルトをもまた否定しない。それのみの視座を内包して超えゆく道筋を探索し解明して行くのは、そんな苦難のみの道でいいのか?

■3■狭く壁に穿った小窓越しの視座でしか外を見られないとしても、それでも世界は美しく感じられるだろう。眠っている時は眠っていると気が付かない。気づかない時は気づかないこと自体にも気が付かない。何のことはない、これは比喩や譬え話ではなく現実世界のこととして捉えても良い話ではないか。

■4■では世界は牢獄なのか、それとも解放された精神病棟なのか。はたまた眠りこけた記憶喪失集団の部分覚醒夢のパッチワークなのか。あるいは様々な世界観が混在重畳した混沌のスープなのか。どれもこれもそれなりに正しいと思う。極楽や天国と観る者もいる。1つのみに特定したらつまらない世界だ。

■5■世界観が揺らいでいる。結構なことではないか。世界が変容し始めているという噂が流れて来る。先ずは自身が変容しなければ、そんなことはどうでもいい他人事だ。もうすぐ世界が影だと分かり、自分の視野が反転してしまうのであれば、その前に最後のこの世界をしかと眺めよう。まだ美しい世界だ。

■6■世界は邪悪と暴虐に満ちたジャングルのようにも見える。私たちは無防備な事すら気づかずに佇んでいるようにも感じる。牢獄でも、精神病棟でも、完全操作された実験ブースでもなんでもいい。それでも私たちはそこを自然にはみ出して行くようにできているらしい。あわよくばそれをも楽しめるなら。

■7■世界は時が満ちてきたけれど未だ子宮の中で、個々人を真の世界に生まれ出させるべく子宮が収縮を始めているとも捉えられる。これもまた一つの表現に過ぎないけれど、もうすぐ子宮口が開く。自分自身の分身である胎盤…もしくは守護天使・超自我・先祖霊等呼び名は何でもいい…の慈愛を忘れまい。

■8■意識が糖尿病のように甘いと言われても、苦痛や苦悩もそこそこ人並みには味わっている。それでも面白く楽しい。なぜ楽しいのかと言うと、精神の方向性を見据えようとしているからではなかろうか。方向性を持たないと、未来も意味も価値も定まらず、疲れた時は虚無や病理の穴にはまり込みがちだ。

■9■日本人として自我や自己のみに特化して生きる必要がないことを知っている。日本語で思考する者のアドバンテージだ。でも多国語での発想や習癖や長所も知ろうとする余地もそこにはある。自他の何事をも否定するのではなく、はみ出し呑み込み超えていく方向性を模索する葛藤は面白くはなかろうか。

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(※)最後のスタンザが何故かなぜか消失。想起再現できないので、欠落したままアップ。そんな2ヤバいないようではなかったと思うのだけれど、自己検閲が入ったのか?(笑)。














 

オオモノヌシと名付けられる前のそれ(1)



■1■前世紀からずっと、今回は神々も全て総取っ換えだと思っている。現今の神々を否定したり、貶めたりするつもりは毛頭ない。それらを内包して(少なくとも反転することでの内包)はみ出し超えていくつもりだ。もちろんこの「神」という言葉は西洋の一神教的な何かを指すつもりはない。日本の神だ。

■2■人間のいない神はない。少なくとも人間不在の神は人間にとって意味がない。同様にヒト不在の新しい神もない。ヒトにとっての神とはどのようなものなのか?反転した人間のこと?いやそれはもはや人間とは呼ばない。人間がヒトに移行する時、既存の神はどうなるのか?反転移行するものが神なのか。

■3■いやそれは既存の神のもう一つの形態である。元々モノという言葉で指し示そうとしていた、指し示され得なかったモノ。それは何か?言語限界を超えていくためには、ただ机上で観念や概念を転がしているだけではもう追いつけない。共に超えて後に、相互確認することができるなら。神を生きるモノ。

■4■「名もなきものからすべては生まれた」と老子。「吾輩は猫である。名はまだない。」と夏目漱石。しかし猫と言う種の名は既に知っている。草木や鳥虫の名前を沢山知っていて、自然の中でそれらを名指しできることに憧れた。しかし名は知らぬままそれらを認識し慈しむ者はそれより劣るのだろうか?

■5■名は人間のためのものだ。しかも言語が異なれば共有できない。それでも混乱した状況を1つ1つ明確に言語化できれば混乱はなく精神も明晰になる。しかしそれは人間としての明晰であり、言語という者への依存でもある。安易に言語化し、理解したつもりになってしまうのも人間の性向の1つである。

■6■名付けられる前の、未だ名ものなき「それ」。言語を持って言語化され得ぬものを捉えんとする試み。無・虚・非・空等の語をつけて、捉え得ぬものを捉えたことにしたい衝動。現行の論理や知性に収まらない「論理」や「知性」はある。それらまで現在の論理や知性で判断し評価しようとするのは傲慢。

■7■未知なるものに対して謙虚にその未知を認め、観念や無知から畏れ惑うよりも、能動的にその未知を、安易に言語化することなく敬い慈しんでみようとする能動的な気概。既存の言語をそのまま過去の共有遺産として用いるだけでなく、新たな結び付けにより未知を共有しようとすると詩人の言葉となる。

■8■本物の詩人が提示するものは既存の名ではない。名になり行く可能性の提示だ。それを「未だ名もなきモノ」として共に捉えようとする姿勢が新しい名を生む。詩人は単なる名づけ親ではない。それをただ讃え持て囃すのは愚の骨頂だ。分からない時は正直に「分からない」と自分自身にも語り掛けよう。

■9■人間としての名を与えられる前の、生れ出たばかりの赤子に、後日名を与えることで、未だ名もなかったその時の存在までその名で覆ってしまおうとすることの暴力的な無知。それは未だ名付けられる前のそれだったのだ。名をつけられる前と後とで異ならない継続するものは、名もなき体のそれである。

■10■日本人とかオオモノヌシとか。名づけることで名づけられる前のそれまでその名で表し呼ぶことは、今の人間の共有する約束事だから、まあそれはそれで仕方ない。しかし名づけることによってそれを分かったつもりになる愚は、名指しすることの粗雑な傲慢さを自覚して用いることによって軽減される。

■11■名を与えること、名を知ることが一方的に聖なることや超常力を持つことと勘違いするのは、人間としての自覚が足りない。異なる捉え方、異なる表し方もあるという前提と敬意のある上で、謹んで名を呼ぶということの真正な意味あい。意識的な名もなきまま生きるとは生前の死をも生きるということ。

■12■名もなきものからすべては生まれた。名もなきものへとすべてが還りゆく。執着から安直に名を残し、その残影にすがりついて生きずとも、生きるよすがは己の内にすでにある。名と体について知性で論理的に説明するよう努めてみれば、その現今の知性や論理がほんの狭い帯域であることが自覚できる。

(2)はないかもしれない(^^)。














 

ミラーニューロンと自己他者問題



■1■ミラーニューロンは今から20年前の1996年、イタリアのパルマ大学でジャコーモ・リッツォラッティらによって発見された。ミラーニューロンとは、霊長類などの高等動物の脳内で、他者の行動を見て、まるで鏡に映して自分自身が同じ行動を再現するかのように、活動電位を発生させる神経細胞である。

■2■このニューロンはマカクザルで直接観察され、ヒトや幾種かの鳥類においてその存在が信じられている。ヒトにおいては、前運動野と下頭頂葉においてミラーニューロンと一致した脳の活動が観測されている。他者の行動を即時に理解できるのは、見た他者の行動と共鳴するミラーニューロンのおかげだ。

■3■武道世界で言う見取り稽古。教わろうと思うな、見て盗め、と言う職人世界の言葉。日常世界でも、あくびがうつる。笑顔を見ると、ついこちらも微笑んでしまう。泣いている人を見ると、ついもらい泣きする。スポーツ番組を見ていて、思わずプレーヤーと同じ動きをしている自分に気づくこともある。

■4■自分が思っている以上に私たちは周りの影響を受けている。そして自分の一挙手一投足がまた周囲にも影響を及ぼしている。自己と他者が同じ動きをするという神経細胞の活動電位が発生するということは、そのことにより他者を認識すると言うことと同時に、自分自身を自覚するということでもある。

■5■ミラーニューロンが働いていても、また言語や音楽等による諸影響が連動したとしても、さらにライブで単なる録音された音源と異なり、背骨の部位の振動共振(上部ほど振動数が高い)で更なる興奮や一体感が生まれたとしても、普通は行動している者とそれを見ている者とは混同したり混乱はしない。

■6■ここで1つ内と外を反転してみよう。普通に個々人の脳内で反響しあっているということは、人間種として同じ出来事が引っ繰り返って、各個人の相同の部位に表れていると見ることもできまいか。そもそも見ること聞くことの等の知覚認識も、個々の隔絶した内世界のみの出来事ではないのではないか。

■7■ミラーニューロンは言語でも活性化することが分かっている。例えば「手に取る」という言葉を読み聞きすると、脳内のそれに関わる領域が活性化する。これは言語の瞬時の相互理解(話している者が思ったことを瞬時に言葉にでき、かつ聞いている者も瞬時に理解していること)とも関係するのだろう。

■8■発した言葉のみでコミュニケーションする単なる低文脈言語ではなく、発する言葉以上に多くの内容を交換し合う高文脈言語である日本語とその背景そのものが、自己と他者、自己と世界を分断乖離することなく、言語空間も含めた環界の共有ができるミラーニューロン的な在りようなのではなかろうか。

■9■反転したミラーニューロンワールドで、あなたと私が見る同じ星と花と…。















 

日本語言語空間の内と外で共に生きる



■1■ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した生物学の概念で「環世界」というものがある。すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもち、独自の時間・空間として知覚される世界を生きているという考えだ。これは物心二元論の超越や、人文諸学と自然科学の両立不可能性の解消する道筋を開いた。

■2■言語もまたそのつかう言語によって物事の捉え方が変わり、世界の見え方が異なるという研究結果が出ている。言語と思考は互いに結びついていて、世界を知覚する際に、わたしたちは自分が使う言語の影響を強く受けている。同じ出来事を経験しても、その捉え方は使う言語によって違ったものになる。

■3■ではバイリンガルやポリリンガルの人はどうなのだろうか。複数言語を流暢に話す人々で実験したところ、被験者がその瞬間に使っていた言語によって変わることが明らかになった。使う言語によって自分の人格が変わると感じる人は多いが、実験の結果はそれが正しいということを裏付けているようだ。

■4■言語とは「音声や文字によって、人の意志・思想・感情などの情報を表現・伝達したり、他者のそれを受け入れ、理解するために用いる記号体系である」と定義されるものだ。個別言語では社会集団内で形成習得され、文化の特徴が織り込まれており、その共同体での社会的学習や人格を形成してゆく。

■5■言語はまた、生物学的には各「個体」的な在りようを超えた「種」の概念に似た捉え方ができるだろう。「ヒト」はいわゆる「人間」の生物学上の標準和名であり、狭義には現生人類を指すが、言語はその人種・民族・国家と重なる領域がある。言語は生物同士のように接触し、変化・吸収・絶滅もする。

■6■ここで再び「タタミゼ効果」を持ち出そう。外国人でも日本語を学び用いることによって、日本人のような柔らかく謙虚な性格になるというあれだ。外国語を学ぶとことは自我を大きく変貌させ、言語に合わせて人格も動作も、頭脳構造の枠組までも変わると米人類学者のハーバート・パッシンは言った。

■7■また彼は「日本語を話すたびに、自分はこんなにも礼儀正しい人間になれるものかと、自分で驚いてしまう。こういうことは、英語を話す時は一度も感じたことはない」とも言った。重要なのは、タタミゼ化した本人がそれを心地よいと感じ、闘争的・対立的な感覚が和らいだと感じていることであろう。

■8■文頭の「環世界」よろしく、内側だけから見ている日本語の言語空間では、それが当たり前だからさしたる不思議も感じなければ、感謝や敬愛の思いも湧きにくい。しかしその日本語を他の言語と併用した時の差異や、自らの身体にかろうじて残る日本人の所作を、より意識的に生きることは重要だろう。

■9■日本語は表現内容のみが情報記号として意味を持つ低文脈文化ではなく、言葉として表現された内容よりも言葉にされていないのに相手に理解される内容の方が豊かな高文脈文化なのだ。いにしえの古語を味わい、今ある日本語を丁寧に口にしてみる。漢字や外来語をも日本語として意識的に用いてみたい。














 

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